スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。

大東亜戦争の電子書籍(目次) 

 大東亜戦争は石原莞爾と尾崎秀実が大陸に渡った昭和三年(1928)秋から開始された。

 「戦争の天才と謀略の天才の戦い」国民のための大東亜戦争正統抄史1928―56は、豊富な第一次資料、入手困難な戦争指導資料を駆使し、この二人の戦いを中心として帝国議会が開かれた1890年から昭和天皇が崩御された1989年まで日本百年史を描いた長編物語です。

 これは本当に信用に値する戦史書なのか?と訝しがる方、まずこの【新風舎の書評】【大東亜戦争の本質】と歴史学会の内幕を暴く「閉ざされた戦史研究−第二次世界大戦と日独伊三国同盟−海軍とコミンテルンの視点から」をお読みください(平成18年12月2日註、新風舎は怪しい出版社のようなので、作家を目指している方は御注意を!詳細はこちら)。

 なぜ近衛首相は「爾後国民政府を対手とせず抹殺する」と宣言したのか、近衛首相が公表した「東亜新秩序」とは何か?、我が国が三国同盟を締結した真の目的は何か?なぜ我が国は支那事変を解決できなかったのか、なぜ陸軍中央は敗戦まで支那大陸で大軍を動かし続けたのか、近衛上奏文に登場する軍の革新論者と一部新官僚および民間有志ら右翼―国体の衣をまとった共産主義者とは誰なのか?

 歴史教科書、教師、新聞、著名な評論家、歴史学者が国民に教えてくれない大東亜戦争の真実がここにある。近隣諸国条項に呪われた文部省検定学校教科書を信じる者は公務員試験に合格しません!
 
 受験勉強に悩む児童生徒学生にゆとりをもたらす聞き流すだけで英語をマスター7つの名作劇場は画期的な英語教材です。児童生徒学生は、これを寝ながら聞き流して受験勉強の時間を少し短縮し、「戦争の天才と謀略の天才の戦い」国民のための大東亜戦争正統抄史1928―56日本人が知ってはならない歴史−戦後篇を読んでくだされば、幸甚です。

 以前いただいた読者の方のメールによると、数十年にわたり頑固に悪名高い某反日新聞を購読していた老父が、国民のための大東亜戦争正統抄史1928―56を読み終えて、自分が反日新聞社に騙されていたことに気付き、激怒して反日新聞の定期購読を打ち切ったとか(笑)。

 この電子書籍を読んで心に志を宿した方、是非とも親類縁者、仲間友人同僚の方々にこのサイトを宣伝して下さい。衰退著しい我が国を再興させる原動力は、国民一人一人の志です。 これまで平間洋一先生をはじめ多くの読者から購読料を頂きました。心より感謝申し上げます。読み終えた方、最低でも10人の知り合いに、この戦史を読ませて下さい。そうすれば日本は甦るでしょう(笑)。

 所長は可能な限り第一次資料を読み、時代の全体像の描写を心掛け、戦史を読んで面白いストーリー性と学んで役に立つ学問性を付加しましたが、至る所に所長の錯誤、勘違い、見落とし、誤字脱字等 または画像障害、文字化け、リンク切れ(404forbidden)等があるかも知れませんので、これらを見つけた方、是非ともゲストブック(BBS)でご指摘下さい。


注意事項

 これは、約700頁の単行本に相当する文字量なのでマウスドラッグ、コピーアンドペーストとワープロソフトを駆使され編集プリントアウトしてお読みください。

 例、オフライン状態で、南京陥落を【編集すべて選択】コマンドを使ってコピーしワード文書にペーストしテキストファイルとして保存、この作業を16回繰り返して全部のコラムのテキストファイルを作り、これらを再びワード文書に戻しコピペして一つのワード文書にまとめて印刷する。

「戦争の天才と謀略の天才の戦い」 国民のための大東亜戦争正統抄史1928―56の目次

<第一章 支那事変抄史>

【南京陥落】

1、トラウトマン工作  2、参謀本部の早期和平論 3、昭和十三年一月十五日大本営政府連絡会議 4、暴走  5、日本共産党 6、満洲事変とゾルゲ機関 7、転向声明 8、支那問題の権威 9、国家総動員法

【日支全面和平を打ち砕いた者】

10、萱野長知 11、宇垣一成 12、和平交渉成立 13、高宗武の来日 14、萱野再び上海へ 15、単独辞職

【汪兆銘工作】

16、泥沼 17、松本重治と高宗武 18、第二次近衛声明 19、脱出 20、第三次近衛声明

【汪兆銘工作の謀略的意義】

21、首謀者 22、永久抗争 23、浸透 24、愚人

【近衛新体制】

25、テロリスト 26、革新華族 27、上からの政権奪取  28、具眼の戦争指導班参謀  29、ノモンハン事件と第二次ヨーロッパ大戦 30、桐工作  31、倒閣 32、第二次近衛内閣発足 33、近衛新体制 34、帝国憲法改正に関する意見書 35、満洲国協和会と大政翼賛会 36、延命 37、憎悪

【ソ連の対日米支諜報謀略網】

38、太平洋問題調査会 39、西安事件 40、廬溝橋事件 41、ソ連の諜報謀略網  42、歴史に対する罪

<第二章 日米開戦抄史>

【独ソ開戦と日本の南進】

43、検察の苦悩 44、日独伊ソ四ヶ国協商構想の背景 45、独ソ戦勃発 46、南進論と北進論 47、佐藤賢了と尾崎秀実 48、昭和十六年七月二日御前会議 49、第三次近衛内閣発足 50、ABCD包囲網 51、昭和十六年九月六日御前会議、明治天皇の御製 52、窮地 53、日米首脳会談 54、近衛東條会談 55、近衛内閣総辞職 56、任務完遂

【石原莞爾と尾崎秀実】

57、不拡大早期和平論の敗北 58、名将の運命 59、対決  

【東條内閣の和平努力】

60、組閣の大命、東條英機に下る  61、東條内閣発足 62、激怒、安堵、絶望、喝采のハルノート 63、自衛のための自殺 64、平和と自由に対する罪 65、慟哭  66、レーニンと明石元二郎
 
<第三章 大東亜戦争終末抄史>

【帝国陸軍南進論者の正体】 

67、緒戦の快進撃 68、攻勢終末点 69、正体を現した陸軍統制派

【陸軍統制派の陰謀】

70、連合軍の大反攻  71、小磯内閣発足 72、かいらい

【繆斌(ミョウヒン)工作】

73、対重慶和平工作再燃 74、蒋介石と東亜連盟運動 75、繆斌の来日 76、死せる尾崎秀実、生ける日本政府を欺く 77、桜散る

【鈴木内閣の失策】

78、狂気の戦争指導班参謀

【近衛上奏文解説】

79、近衛上奏文  80、国体の衣をまとった共産主義者 81、国体と共産主義の両立論 82、ヒトラーとスターリン 83、戦争指導の変遷 84、石原莞爾の悲劇 85、思想侵略 86、統制派とコミンテルン 87、戦争と平和

【近衛文麿の正体】

88、密会 89、近衛特使案 90、聖断 91、昭和という時代 92、近衛の和平条件 93、正体 

【大東亜戦争の本質】

94、大東亜戦争の本質 95、戦後民主主義の本質 

<更新のお知らせ(2009年3月28日)>

 2003年3月の戦史公開以来、所長は細かな修正を繰り返し、戦争の天才と謀略の天才の戦い−国民のための大東亜戦争正統抄史1928-56は公開当初より10倍ぐらいは良くなったと自負しております。特に憲法と国際法について補足説明を加えました。
 東亜連盟戦史研究所という名称は、所長が時代錯誤な大アジア主義者であるとの誤解を招きかねないので、今では弊サイトには日本戦史研究所という名称をつければ良かったと後悔しています。

東亜連盟戦史研究所移転のお知らせ(2010年10月27日)

 無料ホームページサービス「インフォシーク iswebライト」に伴い東亜連盟戦史研究所の電子書籍は、このFC2ブログに移転しました。所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

<関連記事>

大本営発表―真実を雄弁に語る虚偽

ノミの曲芸にすぎない戦後日本マルクス占領憲法解釈学からの覚醒

戦時国際法から南京大虐殺の真偽を分析する

サンフランシスコ講和条約第11条の正当なる解釈

 問1 次の武力行使のうち、国際連盟によって「侵略」とは認定されなかったものを1つ選びなさい。

 A、1931年日本の満州進攻
 B、1935年イタリアのエチオピア進攻
 C、1939年ソ連のフィンランド進攻

 正解はこちらです。

 問2 伊藤博文、井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治が大日本帝国憲法の起草のために参考にした外国の憲法はどれか。次の中から該当するものを選びなさい。

 1、プロイセン憲法
 2、ベルギー憲法
 3、スウェーデン憲法
 4、イギリス憲法
 5、アメリカ憲法

 正解はこちらです。

 多くの日本国民を騙しているインチキ憲法学者のおかげで憲法記念日を間違えている戦後日本をただすために、宜しければ所長が感激し泣いた井上孚麿の事後救済の法理を広めてください。

文 献 紹 介

・全国民必読書「大東亜戦争とスターリンの謀略戦争と共産主義」あらゆる危険から身を守る「民間防衛 新装版―あらゆる危険から身をまもる」を読む児童生徒学生は、朝日新聞、NHK、日教組、篠田正浩ら反日左翼勢力に騙されません!

・遂に邦訳刊行!日本国中を騒がせた田母神歴史エッセイの根拠「ヴェノナ」

・日本人が世界の常識に追いつくための戦略の格言―戦略家のための40の議論


テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

教科書検定の近隣諸国条項という呪い

 2002年は、朝日新聞以下我が国の反日左翼マスコミが敢行した、歴史上稀に見る邪悪な報道犯罪「教科書検定事件」から20周年にあたったが、マスコミは「過去のあやまちを直視せよ、反省せよ」と国民に説教しながら、この事件について口を拭い、まったく反省、謝罪の弁を述べようとはしなかった。

続きを読む

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

新風舎の書評

<所長が新風舎から頂いた原稿審査の結果>

 当社の企画、編集、営業の各担当者がご応募賜りました貴稿「戦争の天才と謀略の天才の戦い」を拝読しました。日中戦争から太平洋戦争に続く大東亜戦争の真相を、国際共産主義運動の視点から解明を試みた龍井様の並々ならぬ意欲に、全員が目を見張る思いをしました。

 日中戦争史、太平洋戦争史、第二次世界大戦(第二次欧州大戦)史はこれまでそれこそ無数の刊行されていますが、これらの戦争に共通した真相を探るため公刊資料だけでも200点近くの資料を漁渉され(実際に漁渉された資料はこの数倍に達するものと拝察します)、史実に基づき「共産主義運動の暗躍」を明らかにされた龍井様の真摯な姿勢と業績は、思想の違いを超えて高く評価されるものと思います。

 本書の中で特筆すべき箇所をあげればそれこそ切りがありません。その中でランダムに1つだけあげると、月間英文雑誌「極東評論」主筆のジョージ・ブロンソン・リーの著作を発掘し、満州国建国の合理性に言及されているのは非常な説得性があります。

 日本人は「植民地支配」というと、欧米各国が行った収奪的な帝国主義的植民地支配を想像し、日本が戦前行った植民地支配は、欧米各国の収奪的なそれとは全く異なり、植民地の産業振興と民生向上に主眼を置いた人道的援助的なものであったと筆者は理解しています。このことは細川嘉六の「植民地経営論」で明らかにされていますし、台湾や韓国の古老たちが植民地時代の日本や日本語に嫌悪感を持っていない事実からも推察できます。

 「民主教育」の名のもとに行われた戦後教育により歪められた日本人の歴史観に、一石を投じる意味でも本書の価値は計り知れないものがあります。

 本書の内容はきわめて実証的で客観的です。率直に申し上げて、龍井様には失礼ながら右翼思想の方(これは左翼思想の方も同じですが)の論理展開は教条主義的で観念的なものと、筆者は誤解していました。しかし本書を読み、この理解が先入観の為せる業だと反省しました。

 筆者のような「右翼思想人観」を持つ一般日本人が大半だと思います。一般日本人のこの先入観を取り除く意味でも、実証的で客観的に著述された本書を刊行する意義は高いと思います。

 龍井様のさらなるご活躍を期待しております。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

国民のための大東亜戦争正統抄史94〜95大東亜戦争の本質

【大東亜戦争の本質】


94、大東亜戦争の本質

 国際法上、戦争は国家間の合法的決闘であり、講和条約の発効によって終了する。従って大東亜戦争の終結日は昭和二十年八月十五日ではなく、昭和二十七年(一九五二)四月二十八日のサンフランシスコ講和条約の発効に続いて日ソ共同宣言が発効し、日ソ間の戦争状態が終了した昭和三十一年(一九五六)十二月十二日である。

 サンフランシスコ講和条約第一条a「日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。」

 日ソ共同宣言第一条「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の戦争状態は、この宣言が効力を生ずる日に終了し、両国の間に平和及び友好善隣関係が回復される。」

 然らば、大東亜戦争の開始日は何時とすべきか?戦後日本の通説では廬溝橋事件(昭和十二年七月七日)ないし真珠湾攻撃(昭和十六年十二月八日)であるが、いずれも正しくない。

 東京裁判において日本断罪の根拠とされた不戦条約が締結され、帝国主義戦争に反対する闘争と共産主義者の任務に関するテーゼ(コミンテルン二十八年テーゼ)が発表された昭和三年(一九二八)秋、世界最終戦争による世界恒久平和を構想した「戦争の天才」石原莞爾が関東軍作戦参謀として満洲に赴任し(十月)、三・一五事件の検挙から奇跡的に逃れた「謀略の天才」尾崎秀実が朝日新聞社上海支局に転勤し(十一月)ソ連のスパイとなり、世界共産主義革命による世界恒久平和を構想したことから、大東亜戦争は開始されたのである。

 第一次欧州大戦後、ヨーロッパに蔓延した反戦平和主義が戦争の惨禍の再発を恐怖し回避しようとする余り、ナチスドイツの軍事膨張に対する宥和政策を生み出し第二次欧州大戦を勃発させ、世界恒久平和の実現をめざした日本の二人の天才が大東亜戦争の勃発を主導したのである。第二次世界大戦は、「平和主義は時として大きな戦争を引き起こす」という悲しい逆説の証明であった…。

 そして大東亜戦争の本質は、人種と資源をめぐる宿命の戦い(小林よしのり氏)、門戸開放主義をめぐる日米抗争、共産主義との戦いという二大底流の合する所に生起せる戦争(中村粲氏)ではなく、第一次日露戦争(一九〇四〜〇五)、第二次日露戦争(シベリア出兵、一九一八〜二二)に次ぐ第三次日露戦争(一九二八〜五六)というべきであろう。

 第一次日露戦争にて大日本帝国は明石元二郎大佐をロシア帝国に派遣し、その革命気運に乗じてその内部に諜報謀略網を組織して大勝利を収め、第三次日露戦争にて国教をロシア正教からマルクス・レーニン教に替えたロシア帝国は尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲを大日本帝国に派遣し、その革新気運に乗じてその内部に諜報謀略網を組織して大復讐を果たしたのである(1)。すなわち我が国の敗因は、報復の原則(敵が新しい兵器戦術戦略を使用すれば、味方はそれらを模倣しその対策を立て報復すべし、味方が新しい兵器戦術戦略を使用する際は、敵がそれらを模倣しその対策を立て報復を仕掛けてくることに備えるべし)を弁えず、国策を立て機密を作る国家中枢部に対する防諜体制の強化を怠った慢心、天皇尊重を偽装しただけの共産主義者を転向者と判定し釈放していた治安維持法に基づく取締の寛容、そして尊皇愛国の精神を涵養する教育の不足であったといえよう。

 国家に物資が満ち溢れ科学技術が高度に発達しても、国家の栄枯盛衰は国家を動かす人に在り、而して人の正邪曲直は人を動かす内なる精神によって決せられるのである。


(1)日露間の講和条約がポーツマスで調印された後、帰国を命令された明石大佐は、ヨーロッパを去るにあたり、参謀次長の長岡外史少将宛てに長文の手紙を書き送り、ロシアのロマノフ王朝はいずれ民衆の大々的な蜂起によって崩壊し、その後に来るものは、社会主義、共産主義の潜行跋扈である、と的確に予想し、日本は戦勝に油断することなくこれに対抗する準備を直ちに開始しなければならないことを力説した。
 しかし明石元二郎は、その後、歩兵第七連隊長、韓国駐留軍参謀長兼憲兵隊長、参謀次長、第六師団長、台湾総督兼台湾軍司令官を歴任し、彼から諜報謀略の威力を学んだレーニンが世界赤化の参謀本部としてコミンテルンを創設してから七ヶ月後の大正八年(一九一九)十月二十四日、脳溢血に襲われ五十五歳の若さでこの世を去ってしまった。明石は、レーニンそしてスターリンが指揮するコミンテルンの世界赤化の野望を打ち砕く力を持つ偉大な軍人だっただけに、彼の急逝は、大日本帝国だけでなく世界人類にとって真に不運であり不幸なことであった。豊田穣【情報将軍明石元二郎】四〇三〜四一一頁。

 戦時中、大本営陸軍部情報部の堀栄三少佐は、諸種の情報を徹底的に収集分析しアメリカ軍の作戦行動を的確に予想し、マッカーサー参謀という異名を取ったが、彼は、陸軍士官学校卒業後、騎兵少尉に任官してから、陸軍大学校卒業後、士官学校戦術教官を経て、昭和十八年十月一日、情報部ドイツ課付参謀に起用されるまで、一度も情報教育を受けたことがなく、堀少佐はたまたま情報部に起用され、困惑しながらも勤務中に情報戦のイロハを学び、天性の情報能力を開化させたのである。

 陸軍大学校には、情報学級も特殊な情報課程もなく、わずかに情報訓練が行われたこともあったが、それも戦術や戦史、通信課程の付随的なものに過ぎず、大東亜戦争中の我が国では、情報戦の素人が突然に大本営陸軍部の情報参謀に起用され実務を任されるという、信じ難い人事が行われていたのである。堀【大本営参謀の情報戦記】十七頁。

 およそ戦いに身を投ずる者は、分野を問わず、休戦後、必ず戦いの軌跡を正確に分析し、敗因を克服し勝因を継承し、次の戦いに備えなければならない。 

 日露戦争後、我が国の政府軍部首脳が明石大佐の大活躍を目の当たりにしながら、彼を長とする統合情報機関を創設せず、陸軍大学校で諜報謀略を含むあらゆる情報戦の教育を充実させ明石大佐の経験を学生に学ばせなかったことは、孫子の兵法に反する理解し難い大失態であり、万死に値する大罪といえよう。

 昭和十五年(一九四〇)七月二十七日、イギリス駐日大使クレーギーと親しいロイター通信東京支局長ジェームス・コックスが英国系船舶会社支配人の海軍予備大佐アダムス某と共にスパイ容疑で逮捕され、三十一日、監視憲兵の隙に乗じて飛び降り自殺した。大谷敬二郎【昭和憲兵史】三九二〜三九六頁。

 昭和史の証言真崎甚三郎の著者山口富永氏は同書四十八頁に、

 「昭和十六年(ママ)に、コックスというドイツ共産党のスパイが、憲兵隊に逮捕されて取り調べを受けている時、そのすきを狙って取調室の二階から飛び降りて自殺したことがあった。この時、このスパイの手帳の中に『日本の大官、顕官を全部とりこにすることができた。但し、陸軍の真崎だけは梃子でも動かなかった』と書きしるしてあった、と筆者はある筋の権威者から聞いた」

と記述している。この記述は情報源を明らかにせず、裏づけとなる第一次資料を持っていない伝聞ではあるが、現在の筆者の心境は、この記述はおそらく真実に近い、と確信するに至っている。


95、戦後民主主義の本質

 トラウトマン工作の終了以降、日支和平交渉の仲介人を務めた萱野長知は、上海における松本重治との会見を「運命の日であった」と悔やみ(1)、昭和十三年の宇垣・孔祥煕工作が流産した後も、汪兆銘政権樹立工作は「子宮外妊娠」であり(2)、

 「汪兆銘を成立せしめても長びくのみにて喜ぶ者は共産党と英、仏、露、米国らのみ」

と看破し(3)、日本と蒋介石政権との直接和平実現の為に、日米開戦直前まで日支間を懸命に奔走し、その志ついに成らずも、昭和二十一年、吉田茂内閣によって長年の功労を認められ貴族院議員に勅選された。だが萱野老は「野人その任に非ず」とこれを固辞し、翌年四月十四日、この世を去った。

 昭和二十年九月一日、萱野老は、古くからの同志に宛てた手紙の中で、日支提携を衷心より望んでいた孫文と義兄弟の契りを結んだ間柄でありながら、日支間の全面和平を回復できなかった自分の無力を恥じ、断腸の思いをにじませながら敗残日本の行く末に絶望したのであった(4)。

 「去る十九日御認めの御書面只今拝読致候。実は此頃如何ヤと御案じ中に有之処、次第に御快方の由、安心致候。東哥々のお宅は戦災に罹りたる由、未亡人もお困りとの事と拝察申上候。但し老兄の方面は御無事なりしは不幸中の幸と存候。小生の芝の宅は没有と為りたるも、腰越は戦災を免れ申候。但し此頃は多数の聯合艦隊が江の島付近より小田原三崎方面にかけて浮城を築き、夜は不夜城にて恰も海市の如く、洋中の壮観を現わし申候。

 我七十三歳、始めて夷・斉の心持ちを理解致候。但し首陽山がないのでお米さんの御領地で飯を食い、湘南に釣して余生を送らんかなと思居候。重慶の旧友も段々やって来ると思わる。我等何の面目あって彼等を見んか。最早娑婆っ気を脱して乾坤無用人と相成可申候。『把竿何処之、江島泛扁舟、世事不評論、応和欸乃叟』とは予め覚悟に候へども、凡夫の悲しさ時に愚痴も出で可申候。此方面はエサ無之、大に痩せ申候。皺腹を切るも不甲斐なき心地致候。命長くして辱多しとは、古人今人一様に存候。


  八月十五日偶筆 擬荘宗詞韻

一葉落。乾坤寞。如今万物当新作。

回頭心肝寒。紅嵐吹戒幕。吹戒幕。

錯雑都荒漠。

  又擬長左思詞体韻

先覚憂。後覚憂。憂悶傷心何歳休。

亜東雲肖愁、人涕流、鬼啾啾

鬼怒人悲仇未酬。仰天又垂頭。

 こんな気持致居候。老兄以て如何と為す。早く全快して焼野原の京浜其他大中小の都市を一見するも参考と為るべし。覇道の末路はこんなものなり。

 お気の毒の人は腹を切り、ツケ火の張本人はノホホンで巧みに時めく、之では立直りの見込み更に無之候。我兄以て如何。首相宮殿下のお陰で言論通信自由と為れり。時には通信致度く候。長知」

 翌日、我が国の政府統帥部代表はアメリカ海軍戦艦ミズーリ号上でポツダム降伏文書に調印した。昭和二十年九月五日、東久邇宮稔彦王首相は、第八十八回臨時帝国議会(昭和二十年九月一日召集、四日開会、五日閉会。帝国憲法第四十三条「臨時緊急の必要ある場合に於いて常会の外臨時会を招集すべし臨時会の会期を定るは勅命に依る」に基づく)における以下の「戦争終結に至る経緯竝施政の方針に關する演説」の中で、ポツダム宣言の履行と帝国憲法の遵守、そして自由主義および議会制デモクラシーの復活強化を高らかに宣言した。

 「是より先、米英支三国はポツダムに於て帝国の降伏を要求する共同宣言を発し、諸般の情勢上、帝国は一億玉碎の決意を以て死中に活を求むるか、然らざれば終戦かの岐路に立つたのであります、日本民族の将来と世界人類の平和を思わせられた大御心に依り、大乗的御聖断が下されたのであります、即ち「ポツダム」宣言は原則として天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの諒解の下に、涙を呑んで之を受諾するに決し、茲に大東亜戦争の終戦を見るに至つたのであります。

 帝国と連合各国との間の降伏文書の調印は、本月二日横浜沖の米国軍艦上に於て行はれ、同日御詔書を以て連合国に対する一切の戦闘行為を停止し、武器を措くべきことを命ぜられたのであります。顧みて無限の感慨を禁じ得ませぬと同時に、戦争四年の間、共同目的の為に凡ゆる協力を傾けられた大東亜の諸盟邦に対し、此の機会に於て深甚なる感謝の意を表するのであります、連合国軍は既に我が本土に進駐して居ります、事態は有史以來のことであります、三千年の歴史に於て、最も重大局面と申さねばなりませぬ、此の重大なる国家の運命を担って、其の向かうべき所を誤らしめず、国体をして彌が上にも光輝あらしむることは、現代に生を享けて居りまする我々国民の一大責務であります、一に懸つて今後に処する我々の覚悟、我々の努力に存するのであります。

 今日に於てなお現実の前に眼を覆い、当面を糊塗して自ら慰めんとする如き、又激情に駆られて事端を滋くするが如きことは、到底国運の恢弘を期する所以ではありませぬ。一言一行悉く天皇に絶対帰一し奉り、苟くも過たざることこそ、臣子の本分であります、我々臣民は大詔の御誡めを畏み、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、今日の敗戦の事実を甘受し、断乎たる大国民の矜持を以て、潔く自ら誓約せる「ポツダム」宣言を誠実に履行し、誓つて信義を世界に示さんとするものであります。
 
 今日我々は不幸敗戦の苦杯を嘗めて居りますが、我々にして誓約せる所を正しく堂々と実行するの信義と誠実を示し、正しきと信ずる所は必ず之を貫くと共に、正しからざる所は速かに之を改め、理性に悖ることなき行動に終始致しまするならば、我が国家及び国民の真価は必ずや世界の信義と理性に訴え、列国との友好関係を恢復し、茲に万邦共栄の永遠の平和を世界に現わし得べきことを確信するのであります。
 
 今後に於ける我が外交の基本も、正しく之に存するのであります、畏くも大詔に於きましては「世界の進運に後れさらむことを期すべし」と御示しになつて居ります、私共は維新の大業成るに当たり、明治天皇御自ら天地神明に誓わせられました所の五箇條の御誓文の御精神に復り、此の度の悲運に毫も屈することなく、自肅自重徒らに過去に泥まず、将来に思い迷うことなく、一切の蟠りを去つて虚心坦懷、列国との友誼を回復し、高き志操を堅持しつつ、長を採り短を補い、平和と文化の偉大なる新日本を建設し、進んで世界の進運に寄与するの覚悟を新たにせんことを、誓い奉らなければならぬと存じます。

 組閣の大命を拝するに当たりまして、畏くも天皇陛下に於かせられましては私に対し、『特に憲法を尊重し、詔書を基とし、軍の統制、秩序の維持に努め時局の収拾に努力せよ』との有難き御言葉を賜わりました、私は此の有難き大御心に副い奉ることを唯一の念願として、之を施政の根本基調として、粉骨砕身の努力を致し、国民の先頭に立ち平和的新日本の建設の礎たらんことを期して居ります。

 国民諸君も亦畏き聖慮の存する所を再思三省され、心機一転、溌剌清新の意気を以て、新たなる御代の隆昌に向つて勇往邁進して戴きたいのであります。是が為に特に溌剌たる言論と公正なる輿論とに依つて、同胞の間に溌剌たる建設の機運の湧上ることが、先づ以て最も重要なりと信ずるのであります。私は組閣の初めに当たりまして建設的なる言論の洞開を促し、健全なる結社の自由を認めたき旨意見を表明する所があつたのでありますが、政府と致しましては、言論の尊重、結社の自由に付きましては、最近の機会に於きまして言論、出版、集會、結社等臨時取締法を撤廃致したき意向であり、既にそれ等の取締を緩和致しましたことは(註、八月二十八日)曩に発表致しました通りであります。

 苟くも国民の能動的なる意欲を冷却せしむるが如きことなきよう、今後とも十分留意して参る所存であります、特に帝国議会は、国民代表の機関として名実共に真に民意を公正に反映せしめ得る如く、憲法の精神に則り正しき機能を発揮せられんことを衷心より希望するものであります。」

 ポツダム宣言第五項には「吾等の条件は、左の如し、吾等は、右条件より離脱することなかるべし」とある。文字通りポツダム宣言とは我が国に有条件降伏を要求するものであり、宣言に列挙された連合国の対日条件は、連合国および日本国の双方に権利と義務を課したのである。しかも日本政府は、「疑わしきは主権に有利に解釈せらるべし」という国際法の大原則に基づき、ポツダム宣言の曖昧な部分を日本側の有利に解釈し、可能な限り日本国の義務を軽減することができた。
 アメリカ国務省はこのことを熟知しており、ポツダム宣言によって連合国が計画していた日本に対する無条件降伏政策が著しく変更されたことに困惑していた。無条件降伏政策の骨子は以下の通りである。

1、敗者の発言権をすべて剥奪し、勝者が何でもできる権利を確保すること。
2、敵国の長期無力化、半永久的武装解除を実施すること。
3、今後戦争を起こすことができないように敵国の社会的基盤を完全に破壊すること
4、これらの政策を実行するために敵国を長期占領して占領下で徹底した改革を実施すること。

 そこでアメリカ政府は、日ソ中立条約を蹂躙したソ連の遣り方を模倣し、昭和二十年九月二日に連合国および日本国を拘束する国際条約となったポツダム宣言を全条項に亘り蹂躙することを決意した。同年九月六日、アメリカ政府はトルーマン大統領の承認を得て「連合国最高司令官の権限に関するマッカーサー元帥への通達」を発し、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高である」と訓示した。そして十五日、占領軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは日本側に次のような命令を発表したのである。

 「マッカーサー元帥は、連合国はいかなる点においても日本国と連合国を平等にみなさないことを、日本が明確に理解するよう希望する。日本は文明諸国間に地位を占める権利を認められていない。敗北せる敵である。最高司令官は日本政府に対して命令する。交渉はしない。」

 我が国の政府はこの声明を聞いて驚愕した。ポツダム宣言の受諾に伴う日本国の国際的地位について十分に研究していた外務省の萩原徹条約局長は、次のように反論した。

 「日本は国際法上、条件付終戦、せいぜい有条件降伏をしたのである。何でもかんでもマッカーサーのいうことを聞かねばならないないという、そういう国として無条件降伏をしたのではない。」

 しかし反論がGHQに受け容れられるはずもなく、荻原局長はGHQの怒りを買い左遷を命じられた。日本列島を占領した連合軍は、対日要求の一つであった日本軍の無条件降伏と武装解除すなわち日本国の非武装化に乗じ、ポツダム宣言を蹂躙して残酷な対日追撃戦を開始、空前絶後の大検閲を行い、東久邇宮内閣が復活させた帝国憲法下の自由デモクラシーを抹殺し、日本国民から歴史の真実を知る機会を奪い、国防法体系および伝統的な家族と教育制度とを破壊し、大量の反軍反日プロパガンダを流布して、日本国民とりわけ知識と判断力を欠き洗脳に対して無防備な児童生徒学生から愛国心と敢闘精神を奪い去り、日本に戦後民主主義と呼ばれる占領憲法体制を残していった。

<日本国憲法を起草したGHQ民政局員>

〈運営委員会〉C・L・カーディス陸軍中佐、A・R・ハッシー海軍中佐、M・E・ラウエル陸軍中佐、R・エラマン嬢

〈立法権に関する委員会〉F・E・ヘイズ中佐、G・J・スウォーブ海軍中佐、O・ホージ海軍中尉、G・ノーマン嬢

〈行政権に関する委員会〉C・H・ピーク、J・I・ミラー、M・J・エスマン陸軍中尉

〈人権に関する委員会〉P・K・ロウスト陸軍中佐、H・E・ワイルズ、B・シロタ嬢

〈司法権に関する委員会〉M・E・ラウエル陸軍中佐、A・R・ハッシー海軍中佐、M・ストーン嬢

〈地方行政に関する委員会〉C・G・ティルトン陸軍少佐、R・L・マルコム海軍少佐、P・O・キーニ

〈財政に関する委員会〉F・リゾー陸軍大尉

〈天皇・授権規定に関する委員会〉J・A・ネルソン陸軍中尉、R・A・プール海軍少尉

〈前文〉A・R・ハッシー海軍中佐

 明治天皇の詔命を奉じ、金子堅太郎、井上毅、伊東巳代治を統率して帝国憲法原案を起草した伊藤博文の愛読書は、明治三年に政況および財政調査のためにアメリカを訪問した伊藤に、当時のアメリカ国務大臣フィッシュが贈与したアメリカ合衆国憲法のコメンタリー(解釈書)「ザ・フェデラリスト」(一七八七年刊行)であった。伊藤博文は明治三年以来、このアメリカの古典的名著に依拠して憲法を研究し、彼ら四人が帝国憲法原案を起草していた時はもとより、明治二十一年から始まった枢密院帝国憲法制定会議の際にも、伊藤はフェデラリストを常に自分の座右に置いて何か問題が生じる度にこれを繰り返し読み、帝国憲法の制定に尽力したのであった(5)。

 帝国憲法の精緻な権力均衡分立主義と、デモクラシー(大衆参加政治)の暴走と諸悪から皇室と一般国民を含む国家を救済する帝国議会二院制は、アメリカの立憲議会制デモクラシーの起源であるフェデラリストの著者たち即ちアメリカ合衆国憲法の制定に尽力したアレクサンダー・ハミルントン、ジョン・ジェイ、ジェイムズ・マディソンの思想を受け継いだものであり、金子堅太郎から帝国憲法のコメンタリー「憲法義解」の英訳を贈られたマサチューセッツ州の大審院判事オリバー・ウェンデル・ホームズ(元ハーバード大学教授、金子堅太郎の恩師)は帝国憲法を次のように評したのである(5)。

 「憲法学の原理ほど各種の法律学中において不定にして且つ不強固なるものはあらざるなり。故に憲法学の地位を称して変遷の時代にありと言う。この見地より日本憲法を観察すれば日本の天皇および之を輔翼せし政治において一時急激に憲法政治の境域に狂奔せず、徐々にその基礎を固め漸次立憲の制度を施行するの目的を定められしは予のもっとも賞賛する所なり。

 また予が日本憲法を熟読するに当たり、天皇及び其の政府において保守主義を以てこの憲法を制定せられたる精神の全篇に充満するを祝賀するものなり。何となれば予は明治四年以来日本人と交わりを結び其の国の将来に向って大いに嘱望するが為に、時々その政治の変遷するを見ては常に日本政府及び其の人民の旧態を破壊し新制を創設するに急激なるを恐れ、其の前途を誤らざるかと憂慮せしが、今やこの憲法を見て明治四年以来の杞憂は全く消散すればなり。

 この憲法は予の観察する所によれば、古来専制の君主権を制限して人民に参政の権利を与えられるものなり。其の之を制限し其の之を付与するに付きこの憲法は明に君主権を制限する箇条を示し、また詳らかに人民に附与せし権限をも明文に記載せり。而して其の不文に属し明瞭に記載せざるものは往古の如く悉く天皇の旧来継承せらるる大権に属するものなりとの主義を採りて起草せられたるが如し。

 そもそも憲法政治とは一国の政治を処理する機関の配置及び権限を明確にし、之を主管又は執行する軌轍を明示し、その確定したるものは天皇といえども濫りに之を変更することを得ざるの政体を云う。而して其の機関の中において人民もまた政治上に参与するの権限を得たるの政体を云う。然れども其の参政の程度及び権限は広狭は各国古来の歴史習慣等によりて定まるべきものなり、故に甲国においては参政の程度広大にして乙国においては其の区域の狭小なるものあり。これ全く各国の習慣及び歴史より生ずるものなり。これ憲法に付いては一定の原理なき証拠なり。

 然れども其の参政の区域の広狭に拘らず憲法を以て帝王の専横を検束し、人民に参政の権利を与えたる政府なれば之を称して立憲政府と云わざるを得ず。日本憲法はこの理を看破せられたるものと予は断言せんと欲す。又日本憲法は天皇の大権のある部分を拘束して本年よりは日本人民に政治上の生命を与えられ、而してこの政治上の生命は古来いまだかつて存在せざるものなり。この政治上の生命あれば即ち其の政府を称して立憲政府と謂わざるを得ず。日本政府においてこの論理を採用せられたるは予がもっとも感服する所にして、賢明なる政治家の所為と言わざるを得ず。

 この憲法に付き予がもっとも喜ぶ所のものは、日本憲法の根本古来の歴史制度習慣に基づき、而して之を修飾するに欧米の憲法学の論理を適用せられたるにあり。欧米の憲法は欧米国に適するも日本国に適用せず、日本の憲法は日本の歴史制度の習慣より成立せざるを得ざるものなり。故に本年議会開設の後は日本の政治家たる人はこの憲法の精神に基づき、行政上においても古来の法律、習慣を研究し、国家の歴史慣例を標準として漸次欧米の立憲政治の論理を適用せられんことを望む。」

 ザ・フェデラリストに宿るアメリカ合衆国建国の父たちの叡智がよく伊藤博文を指導し伊藤に助言を与え帝国憲法の起草を補佐し、後にアメリカ連邦最高裁判所判事を務めアメリカの良心となったホームズが伊藤の憲法義解に満腔の共感を覚え、帝国憲法を絶賛したのである(6)。それを議会二院制の意義すら知らなかった無知なGHQ民政局のニューディーラー(アメリカの容共主義者)が否定し、日本の民主化と称して帝国憲法秩序を破壊したのである。

 帝国憲法は天皇を中心とする日本の歴史とザ・フェデラリストの叡智との間に生まれた子−歴史憲法学の結晶にして比較憲法学の成果−であり、日本の立憲君主制議会制デモクラシーを護り抜き、日本のソビエト化を阻止したのに、「自由デモクラシーの尊重」を国是とするはずのアメリカの占領軍が帝国憲法の抹殺を図ったのである。これは中国共産党が文化大革命と称して支那歴代王朝の文化遺産を破壊したことと同類の暴挙であった。これを可能とした占領政策が占領軍によって実施され厳重に秘匿された検閲であった。

 占領軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは、昭和二十一年の元日に「いまやすべての人が、不当な規制を受けることなく、宗教の自由と表現の権利を享受できる」との声明を出したが、これは真赤な虚偽であり、実態は違った。占領軍は検閲指針として以下の三十項目に関する言論を禁止した(昭和二十一年十一月二十五日付)。これは日本国の義務であり権利でもあったポツダム宣言第十項「言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せらるべし」に違反する措置であった。平和愛好諸国民を自称する連合国に、ポツダム宣言を誠実に遵守する公正と信義は無かったのである。

(1)SCAP連合国最高司令官(司令部)に対する批判
(2)極東軍事裁判(東京裁判)批判
(3)SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判
(4)検閲制度への言及
(5)合衆国に対する批判
(6)ロシアに対する批判
(7)英国に対する批判
(8)朝鮮人に対する批判
(9)中国に対する批判
(10)他の連合国に対する批判
(11)連合国一般に対する批判
(12)満州における日本人取り扱いについての批判
(13)連合国の戦前の政策に対する批判
(14)第三次世界大戦への言及
(15)ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
(16)戦争擁護の宣伝
(17)神国日本の宣伝
(18)軍国主義の宣伝
(19)ナショナリズムの宣伝
(20)大東亜共栄圏の宣伝
(21)その他の宣伝
(22)戦争犯罪人の正当化および擁護
(23)占領軍兵士と日本女性との交渉
(24)闇市の状況
(25)占領軍軍隊に対する批判
(26)飢餓の誇張
(27)暴力と不穏の行動の煽動
(28)虚偽の報道
(29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
(30)解禁されていない報道の公表

 とくに第21項「その他の宣伝」は酷く、占領軍の検閲対象はまさに縦横無尽、伸縮自在の無制限であった。一九四一年十二月十八日、アメリカ連邦議会は、第一次戦時大権法を成立させ、ルーズベルト大統領に、検閲の実施を含む戦争遂行上必要な大幅な権限を与えた。翌日ルーズベルトはこの戦時立法を根拠として合衆国検閲局の設置を定めた大統領令八九八五号に署名した。これによれば、検閲局長官は、郵便、電信、ラジオその他の検閲に関して、全く随意に職務を執行し得るものとされた。   

 奇しくも同日、日本では、帝国議会によって可決された戦時立法である言論出版集会結社等臨時取締法が公布された。この法律の罰則は最高刑懲役二年に過ぎなかったのに対して、アメリカの第一次戦時大権法第三百三項が規定した検閲違反者に対する罰則は、最高刑罰金一万ドルまたは禁固十年、あるいは双方であった。アメリカは日本よりも峻厳な戦時立法を行っており、占領軍は、アメリカ国内では一九四五年九月二十八日に大統領令九六三一号によって打ち切られたアメリカ政府の随意検閲を、既に戦時統制を解除し言論の自由を復活させていた日本国に導入したのである。然も一九四九年末には占領軍の検閲は事前検閲からより陰湿な事後検閲へ移行し、それはサンフランシスコ講和条約の発効日まで続いたのである(7)。

 それから二十三年後の昭和五十年(一九七五)、高宗武と共に萱野長知の和平工作を妨害して汪兆銘工作を推進し、支那事変を永久抗争化させた張本人の一人である松本重治は「上海時代−ジャーナリストの回想」なる回想録を発表し、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。松本は上海時代下巻のあとがき三一八頁で、

 「私がこの上海時代を二年半がかりで書きつづけてきたのは、ある意味では、遺言を書くような気持であったということである。そしてその遺言の趣旨は、日本人はもっと中国人の気持をもっとよく理解して欲しいという一言に尽きる。約四十年前のことどもについての私の回想録は、東亜の一大悲劇たる日中戦争が惹き起こされた最大の原因が、当時の日本人の多くが、中国人の気持を理解し得なかったことにあることを、私なりに書きたかったのである。今日の私は、自らをオールド・リベラルと信じているが、個人の人格を尊厳視し、言論の自由を尊重し、平和を愛し、他の人々の思想行動に対して寛容であるという立場は、四十年以前の当時と、今日とで変わっていないつもりである」

と嘯き、平成元年(一九八九)、八十九歳でこの世を去り、天寿を全うしたのである…。

 レーニンの著書「国家と革命」によれば、国家は特殊な権力組織であり、ある階級を抑圧するための暴力組織であり、当然あらゆる国家は非自由であるという。そして資本家階級が労働者階級を抑圧する資本主義国家が労働者階級が資本家階級を抑圧する社会主義国家へ移行し、労働者階級の独裁があらゆる生産手段を国有化し、資本家階級の反抗を打ち砕き、終局的に資本家が消滅し、階級がなくなったら即ち社会的生産手段に対する関係から見て、社会の構成員の間に差別がなくなった共産主義社会で初めて、抑圧する対象を喪失した国家は自らの存在意義をも喪失して死滅し、人間は自由について語り得るようになるというのである。ソ連のレーニン・スターリンによる大粛清は、マルクス、エンゲルス、レーニンの国家観から必然的に発生した人道に対する犯罪であった。

 そしてレーニンが繰り返し力説した革命理論は、資本主義国家から社会主義国家への移行は暴力革命によらなければいけないということであり、レーニンは世界各国の共産主義者に対し、官僚組織、政党、議会、警察、常備軍などブルジョア国家機構の完全破壊を命じたのである。だからこそコミンテルンの誕生後、資本主義国家の共産主義者は、社会改良主義者や祖国防衛のための愛国心を涵養する教育の必要性を訴える愛国主義者と非妥協的に戦い、青少年に対し祖国の前途に対する希望の燈を奪い、祖国蔑視、祖国呪詛の精神を扶植しようとするのである。これは、それだけ確実また急速にブルジョア社会を覆すためである(8)。

 昭和二十七年、日本共産党の志賀義雄は、

 「何も武装闘争などする必要はない。共産党が作った教科書で、社会主義革命を信奉する日教組の教師が、みっちり反日教育を施せば、三、四十年後にはその青少年が日本の支配者となり指導者となる。教育で共産革命は達成できる」

という我が国に対する呪いに等しい予言を吐いた…(9)。

 我が国が連合国に降伏した後、インドネシアに残留し対オランダ独立戦争に参加した元日本軍将兵は、祖国独立の英雄として現地の民衆から大いに感謝され尊敬されていた。

 ところが平成元年以降、歴代の日本政府が共産中国と南北朝鮮の反日的恫喝に脅え、彼等に媚び諂い土下座朝貢外交を繰り返したあげく、朝日新聞社ら反日の革新勢力によって捏造された「従軍慰安婦強制連行説」を始め、日本軍に被せられた冤罪を事実として認めてしまった結果、現地の民衆から、インドネシア残留元日本軍将兵は卑劣な侵略戦争の手先と非難され、彼等の子孫は侵略者の末裔として迫害されるようになった事例があるという…。

 これほど救い難い残酷な悲劇は世界に類例を見ないであろう。日本のために、インドネシアのために、身命を賭して戦った日本人が日本政府によって名誉を剥奪され、インドネシア人によって非難されながら人生を終えねばならなくなってしまった。

 日本政府は、日本民族を野蛮人に貶め「華夷秩序」を実現せんとする共産中国と南北朝鮮の歓心を買う為に、愚劣にも自ら率先して日本軍将兵の名誉と尊厳を売り、世界中に無知と偏見と誤解に基づく反日感情運動を蔓延させ、再び世界各国による対日包囲網を作り出しているのである。

 戦後民主主義なるものは、我が国の犯した政治的過誤を一切直視することも反省することも無く、ソ連と尾崎秀実に協力して我が国を敗北へ導いた反日の革新勢力が報道と教育とを牛耳り、反戦平和主義者と正義道徳の守護者を演じて一般国民を欺き、ソ連、中国共産党、北朝鮮労働党、マルクス・レーニン主義を信奉礼賛し、彼等の謀略活動によって命を奪われた我が帝国陸海軍将兵とその御遺族、そして我が国我が民族の歴史に対し、誹謗中傷侮辱の限りを尽くすという、虚偽、卑劣、卑屈など人間界に存在するありとあらゆる悪徳が大手を振って跳梁跋扈する、錯乱と屈辱の時代であり、神武肇国以来、我が国の最も恥ずべき時代である。

 今日、国民の代表である我が国の政治家と官僚の多くが国家に対する忠誠を忘却し、為政者に必要不可欠な、国家を支える四本の綱たる礼義廉恥―礼節を正し、信義を守り、足るを知って贅沢を慎み、恥を知って名誉を重んずる精神―を喪失し、自己保身に汲々として私利私欲に溺れ、無知をもって過去の反省と為し、卑屈をもって外交の美徳と為す錯誤を犯している。国家の栄誉と国民の幸福とを蹂躙する彼等の無様な醜態は、戦後民主主義の産物以外の何物でもない。

 我々日本国民自身が戦後民主主義を覆滅して戦前から今日に至るまで我が国を呪い続けるレーニンの亡霊を払拭しない限り、道義日本の再興はあり得ないのである。蓋し祖国に高貴なる名誉と価値、光輝なる歴史が存在してこそ、国民は、国家の生命力たる、祖国を愛し守り発展させんとする精神を身命に宿すのである。


(1)三田村【戦争と共産主義】一五三頁。
(2)【萱野長知孫文関係資料集】三五七頁。神尾【香港日記】昭和十四年十月二十五日。
(3)【小川平吉関係文書2】六六〇頁「昭和十四年十月一日小川平吉宛萱野長知(在香港)電報」
(4)【萱野長知孫文関係資料集】二六五頁。
(5)金子【憲法制定と欧米人の評論】参照。
 アメリカの占領軍が日本国を民主化したと信じ込まされてきた戦後生まれの日本人にとって皮肉な事に、人民の能力への不信感を率直に表明し、立法機関を厳重に制限し直接民主制を否定しなければならないことを力説するザ・フェデラリストの第四七篇「権力分立制の意味」、第四八篇「立法部による権力侵害の危険性」、第五一篇「抑制均衡の理論」、第六二篇「上院の構成」、第六三篇「上院の任期」、第七八篇「司法部の機能と判事の任期」が伊藤博文の憲法義解への理解と尊敬を深め、勅任の貴族院と皇室の自治を欠く日本国憲法の数々の欠陥を教えてくれるのである。
(6)井上孚麿【現憲法無効論−憲法恢弘の法理】一五三〜一五四頁。
(7) 江藤淳【閉ざされた言語空間−占領軍の検閲と戦後日本】参照。
(8)【コミンテルン資料集1】一九三〜一九四頁「一九二〇年八月六日コミンテルン第二回大会 資本主義世界とコミンテルン プロレタリア革命とコミンテルン」
 共産党が私有財産制度を否定し生産手段を国有化する一党独裁国家が、果たして何時どのようにして死滅し得るのか?この疑問に対してレーニンは「われわれは、国家は不可避的に死滅するというにとどめて、この過程が長期にわたること、それが共産主義の高度の段階の発展速度に依存していることを強調し、国家死滅の期日やそれの具体的形態の問題はまったく未解決のままに残しておいてさしつかえない。なぜなら、このような問題を解決するための材料がないからである」という実に詭弁家らしい逃げ口上を述べ、回答を避けた。レーニン【国家と革命】一三五頁。

 筆者が推測するに、共産主義国家内部においてマルクス・レーニン主義の特徴であるテロ連鎖現象が長く続いて人口が激減し、国家の存立そのものが不可能になる時、国家は死滅するのであろう。
(9)田中正明【掃葉集このままでは日本は危ない】一三頁。


【主要参考引用文献】


公刊戦史

大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯1〜5
大本営海軍部開戦経緯1〜2
支那事変陸軍作戦1〜3
昭和二十年の支那派遣軍1〜2
北支の治安戦1〜2
大本営陸軍部1〜10
関東軍1〜2
中国方面陸軍航空作戦
海上護衛戦
(以上、防衛庁戦史叢書/朝雲新聞社)

日中戦争1〜5(児島襄著/文春文庫、一九八八)
太平洋戦争上下(児島襄著/中公新書、一九六六)
天皇1〜5(児島襄著/文春文庫、一九八一)
第二次世界大戦ヒトラーの戦い1〜10(児島襄著/文春文庫、一九九二)
大東亜戦争への道(中村粲著/展転社、一九九〇)
軍閥興亡史1〜3(伊藤正徳著/光人社文庫、一九九八)
興亡と夢1〜5(三好徹著/集英社文庫、一九八八)
重臣たちの昭和史上下(勝田龍夫著/文春文庫、一九八四)
ヒトラーの戦場(柘植久慶著/集英社文庫、一九九三)

研究書

大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義(三田村武夫著/自由選書、一九八七)
近衛文麿とルーズベルト(中川八洋著/PHP出版、一九九五)
近衛新体制(伊藤隆著/中公新書、一九八三)
参謀の戦争(土門周平著/PHP文庫、一九九九)
ピースフィーラー(戸部良一著/論創社、一九九一)
黎明の世紀(深田祐介著/文芸春秋、一九九一)
異なる悲劇日本とドイツ(西尾幹二著/文芸春秋、一九九四)
繆斌工作成らず(横山銕三著/展転社、一九九二)
仕組まれた南京大虐殺(大井満著/展転社、一九九五)
南京大虐殺はこうして作られた(冨士信夫著/展転社、一九九五)
南京虐殺の徹底検証(東中野修道著/展転社。一九九八)
敗者の戦後(入江隆則著/徳間文庫、一九九八)
ハルノートを書いた男(須藤真志著/文春新書、一九九九)
日ソ諜報戦の軌跡―明石工作とゾルゲ工作(黒羽茂著/星雲社、一九九一)
戦略大東亜戦争(佐藤晃著/戦史刊行会、一九九六)
満洲事変(西内雅著/錦正社、一九八八)
世紀末から見た大東亜戦争(現代アジア研究会編/プレジデント社、一九九一)
日本は侵略国家ではない(勝田吉太郎編/善本社、一九九三)
世界から見た大東亜戦争(名越二荒之助編/展転社、一九九一)
アジアに生きる大東亜戦争(アセアンセンター編/展転社、一九八八)
封印の昭和史(小室直樹、渡部昇一著/徳間書店、一九九五)
抹殺された日本人の現代史(小日本社編集員会編/全貌社、一九九五)
自ら国を潰すのか(小室直樹、渡部昇一著/徳間書店、一九九三)
かくて昭和史は甦る(渡部昇一著/クレスト社、一九九五)
日本史から見た日本人昭和編(渡部昇一著/クレスト社、一九八九)
人間はなぜ戦争をするのか(日下公人著/クレスト社、一九九六)
軍ファシズム運動史(秦郁彦著/原書房、一九八〇)
戦後秘史崩壊の歯車(大森実著/講談社、一九七五)
悪の論理(倉前盛通/角川文庫、一九八〇)
日本的組織原理の功罪(長谷川慶太郎編/PHP、一九八六)
情報戦の敗北(長谷川慶太郎編/PHP文庫、一九九七)
パール博士の日本無罪論(田中正明著/慧文社、一九六三)
満州国の遺産(黄文雄著/光文社、二〇〇一)
ノモンハン事件の真相と戦果ソ連軍撃破の記録(小田洋太郎、田端元著/有朋書院、二〇〇二)
Venona Decoding Soviet Espionage in America(John Earl Haynes、Harvey Klehr著/エール大学、二〇〇〇)

資料

パル判決書上下(東京裁判研究会編/講談社学術文庫、一九八四)
東京裁判却下未提出弁護側資料1〜8(東京裁判資料刊行会/国書刊行会、一九九五)
東京裁判日本の弁明―東京裁判却下未提出弁護側資料抜粋(小堀桂一郎編/講談社学術文庫、一九九五)
終戦工作の記録上下(江藤淳監修、波多野澄雄編/講談社文庫、一九八五)
尾崎秀実著作集1〜5(尾崎秀実著/勁草書房、一九七九)
小川平吉関係文書1〜2(岡義武編/みすず書房、一九七三)
木戸幸一関係文書(木戸日記研究会/東京大学出版、一九六六)
木戸幸一日記上下(東京大学出版、一九六六)
近衛日記(共同通信社、一九六八)
宇垣一成日記(みすず書房、一九七一)
萱野長知孫文関係資料集(久保田文次編/高知市民図書館、二〇〇一)
枢密院重要議事覚書(深井英五著/岩波書店、一九五三)
大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌(軍事史学会編/錦正社、一九九八)
東條内閣総理大臣機密記録(伊藤隆編/東京大学出版、一九九〇)
鳩山一郎日記(鳩山一郎著/中央公論社、一九九九)
現代史資料ゾルゲ事件1〜4(みすず書房、一九七一)
開戦前夜の近衛内閣(尾崎秀実、今井清一著編著/青木書店、一九九四)
現代史資料国家主義運動(みすず書房、一九六三)
現代史資料日中戦争1〜5(みすず書房、一九六六)
現代史資料国家総動員1〜2(みすず書房、一九七〇)
畑俊六日誌(みすず書房、一九八三)
矢部貞治日記銀杏の巻(読売新聞社、一九七四)
最終戦争論戦争史大観(石原莞爾著/中公文庫、一九九三)
石原莞爾資料国防論策編(角田順編/原書房、一九九四)
敗戦の記録(参謀本部編/原書房、一九六七)
杉山メモ上下(参謀本部編/原書房、一九六七)
日本陸海軍事典(原剛、安岡昭男編/新人物往来社、一九九七)
コミンテルン資料集1〜5(村田陽一編/大月書店、一九八一)
我が闘争上下(アドルフヒトラー著/角川文庫、一九七三)
マルクスエンゲルス共産党宣言(岩波文庫、一九五一)
満洲国歴史(矢野仁一著/目黒書店、一九三三)
禁苑の黎明(レジナルド・ジョンストン著/大樹社書房、一九三四)
満洲国出現の合理性(ジョージ・ブロンソン・レー著/日本国際協会、一九三六)
日本経済の再編成(笠信太郎著/中央公論社、一九三九)
一億人の法律(猪俣浩三著/有光社、一九四〇)
欽定憲法の真髄と大政翼賛会(川崎克著/固本盛國社、一九四一)
太平洋問題研究叢書太平洋に於ける英帝国の衰亡(角田順著、太平洋協会編/中央公論社、一九四二)
新世界の構想と現実(細川嘉六編/中央公論社、一九四二)
大アジア主義の歴史的基礎(平野義太郎著/河出書房、一九四五)
進歩的文化人―学者先生戦前戦後言質集(全貌社、一九五七)
憲法義解(伊藤博文著/岩波書店、一九四〇)
憲法制定と欧米人の評論(金子堅太郎著/日本青年館、一九三八年版)
アメリカ共産党とコミンテルン−地下活動の記録(H・クレア、J・H・ヘインズ、F・I・フィルソフ著/五月書房、二〇〇〇)
帝国憲法制定会議(清水伸著/岩波書店、一九四〇)

伝記回顧録

参謀(児島襄著/文春文庫、一九七五)
日本の曲がり角(池田純久著/千城出版、一九六八)
幣原喜重郎とその時代(岡崎久彦著/PHP、二〇〇〇)
敗戦日本の内側(富田健治著/古今書院、一九六二)
侍従長の回想(藤田尚徳著/中公文庫、一九八七)
風雪五十年(内田信也著/実業之日本社、一九五一)
田尻愛義回想録(田尻愛義著/原書房、一九七七)
昭和動乱の真相(安部源基著/原書房、一九七七)
日本軍閥暗闘史(田中隆吉/中公文庫、一九八八)
大本営機密日誌(種村佐孝著/芙蓉書房、一九八五)
石原莞爾(藤本治毅著/時事通信社、一九六四)
石原莞爾(青江舜二郎/中公文庫、一九九二)
石原莞爾甦る戦略家の肖像上下(佐治芳彦著/日本文芸社、一九八七)
陸軍の異端児石原莞爾(小松茂朗著/光人社、一九九一)
将軍石原莞爾(白土菊枝著/中央公論社、一九九五)
秘録石原莞爾(横山臣平著/芙蓉書房、一九七一)
秘録宇垣一成(額田坦著/芙蓉書房、一九七三)
秘録土肥原賢二(土肥原賢二刊行会編/芙蓉書房、一九七三)
支那事変の回想(今井武夫著/みすず書房、一九六四)
作戦部長東條ヲ罵倒ス(田中新一著、松下芳男編/芙蓉書房、一九八六)
大東亜戦争収拾の真相(松谷誠著/芙蓉書房、一九八〇)
支那事変戦争指導史(堀場一雄著/原書房、一九七三)
岡村寧次大将資料(稲葉正夫編/原書房、一九七〇)
大本営参謀の情報戦記(堀栄三著/文春文庫、一九九六)
大東亜戦争回顧録(佐藤賢了著/徳間書店、一九六六)
参謀本部の暴れ者陸軍参謀朝枝繁春(三根生久大著/文藝春秋、一九九二)
バルト海のほとりにて武官の妻の大東亜戦争(小野寺百合子著/共同通信社、一九八五)
瀬島龍三(保坂正康著/文春文庫、一九九一)
沈黙のファイル瀬島龍三とは何だったのか(共同通信社会部編/新潮文庫、一九九九)
近衛文麿上下(矢部貞治著/弘文堂、一九五二)
蒋介石秘録12(サンケイ新聞社、一九七一)
ルーズベルト秘録下(産経新聞社、二〇〇〇)
第二次大戦に勝者なし上下(A・C・ウェデマイヤー著/講談社学術文庫、一九九七)
昭和研究会(後藤隆之助編/経済往来社、一九六八)
昭和研究会(酒井三郎著/TBSブリタニカ 一九七九)
日米開戦の悲劇(ハミルトンフィッシュ著/PHP文庫、一九九二)
私の見た東京裁判上下(富士信夫著/講談社学術文庫、一九八八)
私の中の日本軍上下(山本七平著/文春文庫、一九八三)
国際スパイゾルゲの真実(下斗米伸夫著/角川文庫、一九九五)
ゾルゲ東京を狙え上下(ゴードンプランゲ著/原書房、一九八五)
日本陸軍英傑伝(岡田益吉著/光人社文庫、一九九四)
さらば吉田茂(片岡鉄哉著/文芸春秋、一九九二)
ハイエク(渡部昇一著/PHP出版、一九九九)
1941.12.20アメリカ義勇航空隊出撃(吉田一彦著/徳間文庫、一九九八)
二つの祖国にかける橋(吉田東祐著/元就出版社、二〇〇一)
プリンス近衛殺人事件(V・A・アルハンゲリスキー著/新潮社、二〇〇〇)
秘録東京裁判(清瀬一郎/中公文庫、一九八六)
悲劇の証人(西義顕著/文献社、一九六二)
情報将軍明石元二郎(豊田穣著/光人社文庫、一九九四)
昭和史の証言真崎甚三郎、人その思想(山口富永著/政界公論社、一九七〇)
昭和憲兵史(大谷敬二郎/みすず書房、一九六六)
昭和史と私(林健太郎/文芸春秋、一九九二)

その他

戦争学(松村劭著/文春新書、一九九七)
朝日新聞血風録(稲垣武著/文春文庫、一九九六)
悪魔祓いの戦後史(稲垣武著/文春文庫、一九九七)
正統の哲学異端の思想(中川八洋著/徳間書店、一九九六)
悪魔の思想(谷沢永一著/クレスト社、一九九六)
国民のための戦争と平和の法(小室直樹、色摩力夫著/総合法令、一九九三)
痛快憲法学(小室直樹著/集英社、二〇〇一)
憲法はかくして作られた(伊藤哲夫著/日本政策研究センター、一九九一)
地政学入門(曽村保信著/中公新書、一九八四)
インフレとデフレ(岩田規久男著/講談社現代新書、一九九〇)
歴史の鉄則(渡部昇一著/PHP文庫、一九九六)
亡国か再生か(西村真悟著/展転社、一九九五)
朝日新聞の犯罪(世界日報社、一九八六)
日本共産党政権参加近し(木下義昭、早川一郎著/世界日報社、一九九八)
日本的革命の哲学(山本七平著/PHP出版、一九八二)
人類後史への出発(石原莞爾平和思想研究会編/展転社、一九九六)
世界が裁く東京裁判(終戦五十周年国民委員会編/ジュピター出版、一九九六)
日本国憲法を考える(西修著/文春新書、一九九九)
一九四六年憲法(江藤淳著/文春文庫、一九九五)
現行憲法無効宣言(南出喜久治著/動向平成九年盛夏号所載)
国際法と日本(佐藤和男著/神社本庁研修ブックレット、一九九二)
正統憲法復元改正への道標(小森義峯著/国書刊行会、二〇〇〇)
現憲法無効論−憲法恢弘の法理(井上孚麿著/日本教文社、一九七五)など
(順不同)

 その他多数にのぼりますが、この場を借りて諸先生方に厚くお礼申し上げます。なお本文中の資料について、読者の便を考え、筆者がカタカナをひらがなに、歴史仮名遣いを現代仮名遣いに直し、適宜句読点を加えました(龍井 榮侍)。

【石原莞爾の予言】 

 それにしても日本は今後物心両面に亘る恐るべき疾風怒濤時代を迎えるのである。アメリカは自己の善と信ずる生活文化、様式、思想を滝の如く注いで日本をアメリカ化せんとすることは明らかである。それは教育に浸透し、生活を風靡するに至るであろう。それに英国的、ソ連式思想が加わってくる。日本的思想、醇風美俗、世界人心は滔々たる大勢に押し流され、寸断されもみくちゃにされる。

 私は日本は思想的にどん底まで叩き落とされるものと確信する。満洲事変、支那事変においても日本国民は目覚めず、大東亜戦争においても未だ精神的に立ち上がらず、その敗戦の惨烈さに遭ってはじめて覚醒するかと思えば未だしの感である。要するにまだ足りないのだ。落ちて落ちてどん底に突きあたりどうにもならぬ時に至ってはじめて民族の魂が究極の拠り所を呼び求めるのである。一陣の清風、一個の炬火、それは真に魂が求める時にこそ与えられるべきものである。怒濤よ逆巻け、暴風よ吹け、それはすべて日本人が経験しなければ目覚め得ぬ「民族の禊」である事を私は確信する(昭和二十年八月二十八日、石原莞爾)。


【あとがき】

 私は幼少の頃より周囲の人間から変人扱いされてきたほどに歴史好きな男であり、いつか総合戦史を執筆したいと思っていました。

 森首相が「日本は天皇を中心とする神の国」と発言した直後に行われた衆議院選挙の最中に、私はボランティアとして西村真悟さんの選挙事務所へ手伝いに行ったのですが、そこで遠山景久氏と「戦争と共産主義」の復刊に携わった月間日本発行人の南丘喜八郎氏の部下である月間日本編集委員の野間健さんと出会いました。私も野間さんも、「戦争と共産主義」を所有している人間は日本にほとんど居ない、と思っていたので、不思議な縁に驚き、すっかり意気投合しました。

 私は、東京裁判史観を覆す比類なき名著と評価される「大東亜戦争への道」のどこが名著なのかサッパリ判らず、せいぜい歴史辞書として役に立つ程度だな、と思っていましたが、野間さんも、中村教授は木を見て森を見ていない、と批判されており、私は自分の書評に自信を持ちました。私が総合戦史を書くために資料を集めていることを話すと、野間さんから是非、月間日本に寄稿してくれるよう頼まれ、原稿を書いたのですが、結局自分の力量不足のためボツになってしまいました。しかしこれを契機に本格的に戦史を執筆し、石原莞爾のホームページ管理人の八橋さんに無理を言って石原莞爾メールマガジンに2001年5月から翌年7月まで連載していただきました。割と好評だったので調子に乗って単行本化に挑戦してみたのですが、ダメでした。しかし「祖国と青年」の編集部を通して、元陸軍軍人であり、かつて山陽電鉄取締役を務められ現在は山口県の自動車学校社長兼国民文化研究所委員の加藤善之さんに原稿を読んでいただいたところ、加藤さんは私の自宅にまで電話をくれて「読んで本当に仰天しました。生きてて本当に良かった。ぜひあなたのような方に日本を指導していただきたい」と(!?)こちらが恐縮するほど(笑)大絶賛し激励して下さいました。そこで私は再度加筆修正を行い出版社の方に指摘された「資料の過度の生引用」を改め、三分の一ほど書き改めて「新風舎」に原稿を審査していただいたところ、大絶賛されました。ようやく私の原稿は単行本化に相応しい水準に達したということでしょう。

 しかし深刻な出版不況の折、出版社が無名の人間の戦史を企画出版することは困難な様で、私は著者と会社が出版資金を折半する共同出版を提案されたのですが、残念ながら私は貧乏なもので、資金を工面できず単行本化を断念せざるを得ませんでした。

 でもまぁこれも八百万の神々のお導きでありましょう。石原莞爾に「こらっ!龍井榮侍よ、私利私欲に溺れることなく日本民族の真魂真姿を蘇らせよ!」と大喝されたものと自分を慰めています。

 学校が生徒に教える日本史とは全く違う「戦争の天才と謀略の天才の戦い 国民のための大東亜戦争抄史1928〜56」を読み、身命に真実を探求し祖国を防衛する志を宿した方、是非とも親類縁者、仲間友人同僚の方々に東亜連盟戦史研究所を宣伝して下さい。そして最低でも十人の知り合いに、この戦史を読ませて下さい。そうすれば日本は甦るでしょう(笑)。衰退著しい我が国を再興させる原動力は、国民一人一人の志です。

 この作品が少しでも読者の皆さんの戦史に対する関心や興味を高め、勉強や研究に役立つことを祈念しつつ、私は筆を擱きたいと思います。

 読んでいただき有難うございました。



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

国民のための大東亜戦争正統抄史88〜93近衛文麿の正体

【近衛文麿の正体】


88、密会

 昭和二十年六月二十五日、我が大本営は沖縄戦の終焉を公表した。沖縄に展開した我が軍は防衛隊員、鉄血勤皇隊員を含め、約十一万人が戦死し、沖縄県民約九万四千人も戦闘に巻き込まれ痛ましい死を遂げ、日本本土からは海軍機千六百三十七機、陸軍機九百三十四機合わせて二千五百七十一機もの特攻機が、沖縄を守らんとして沖縄海域の米英艦隊に突入し、散華した。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

 六月二十五日(昭和二十年)

 沖縄終戦に関する大本営発表あり。襟を正して自省自奮あるのみ、

 右に伴う明日行うべき総理談又は告諭に付内閣に於て討議の結果告諭として発表することとなれり。

 午後五時発小田原山荘に近衛公を訪る(種村)、途中国府津にて岡村憲兵と奇遇するあり秘密行す。政談を一切抜きにして専ら軍事情勢につき公に本土決戦必勝の信念を与うる如く力説すること三時間公をして電燈をとりて門前に予を送らしむるに至る。

 惓も死児の齢を数うるが如しと前提して公三国同盟の締結及独「ソ」開戦当時、大東亜戦争前等を思い感慨深く語る、食料問題は大政治問題化すべしとて陸戦隊化したる海軍の整備を論ず。

 再会を約して去る、一重臣をして戦意に燃えしめたりとせば千万人と雖も我往かん。

 午後十一時三十分徒歩三十分にして湯本吉池旅館に永井少将を訪れ同宿御見舞す。

 箱根街道は三百年前の昔の如く深夜人なし。感激深し。

 公曰く「此の次は陸軍の時代なり宜しく御奮闘を祈る」と。


89、近衛特使案

 陸軍強硬派の主張する本土決戦が間近に迫る中、六月十九日、東郷外相は駐日ソ連大使マリクと会談した(六月三、四日)広田弘毅元首相に、マリクとの交渉目的にソ連の和平仲介斡旋を加えるよう要請した。かねてよりソ連に警戒不信感を抱いていた駐ソ日本大使の佐藤尚武は三月末、駐ソ公使の守島伍郎を帰国させ、政府軍部の指導者にソ連を活用して時局の好転を図ることは不可能であることを説いて回っていた。だが東郷外相は、

 「ソ連に対しあらゆる努力をしなければならない。手があるとかないと云って居る場合ではない。何とかしなければならない事態に立ち至っているのだ」

とソ連を仲介とする対米英和平に固執し、二十三日、広田に二十二日の御前会議における昭和天皇の御言葉「亦一面時局収拾につき考慮することも必要なるべし」を伝え、マリクとの交渉を急ぐよう督促した。翌二十四日、広田はマリクと会談、まずアジアの平和のため、日ソ両国の立場が相互に饗応するが如き関係の設定を説いたが、マリクは、広田の提案は抽象的であると述べ、条件の具体化を求めた。二十九日、広田は東アジアの平和維持に関する相互支持協定と不侵略協定を提案すると同時に、

(1)満洲国の中立化
(2)石油供給の代償として漁業権の解消
(3)その他の条件についても議論の余地あり

という条件を提示し、至急回答を要請した。マリクは本国政府への伝達を約束したが、以後、我が国側の督促にも拘わらず病気を理由に引き籠もってしまい、広田マリク会談は事実上中断されることになった。

 七月八日、焦慮の色を濃くした東郷外相は軽井沢に近衛文麿を訪ね、彼にソ連に対米英和平仲介を求める特使としてモスクワに赴くよう要請したところ、近衛は、陛下からそういう御命令があれば行ってもよい、と返答した。十一日、鈴木内閣から近衛特使案を内奏された昭和天皇は、その翌日に近衛を御召しになり、

 「ソ連に使いしてもらうことになるかも知れないから、その時はよろしく頼む」

との御言葉を述べられた。近衛は、

 「いかなる条件でソ連に仲介を頼むかこれから至急研究致しまして、改めて拝謁致したく存じます」

と奉答した後、富田健治を介して酒井鎬次と協議し、「和平交渉に関する要綱」をまとめあげた。十五日、松本俊一外務次官が近衛を来訪して交渉の訓令について相談しようとすると、近衛は「訓令などいらない」と拒絶し、語気鋭く彼の決意を語った。

 「この際は無条件降伏以外には戦争終結の途はない。まだ名誉ある講和、交渉による講和を考えている様だが、もう手遅れだ。自分はモスコーへ行ったら、スターリンの考えを直接陛下にお伝えする考えだ。」       

 東郷外相は佐藤大使宛に、近衛特使派遣をソ連政府に申し入れ、ソ連側の同意を取り付けるよう訓令した。十三日、佐藤大使はソ連外相モロトフに面会を求めたが、この日はモロトフとスターリンがベルリンに出発する日であった為、ソ連当局の要請により、佐藤大使はやむなくロゾフスキー次官に、近衛特使案に関するモロトフ宛の親書を渡し、早急なる回答を求めた。しかし十八日、ソ連側は近衛特使の使命が不明瞭なことを理由にして「確たる回答を為すことは不可能なり」との書簡を送ってきた。

 これに接した東郷外相は、佐藤大使に対し「近衛特使の使命はソ連政府の尽力により戦争を終結せしむる様斡旋を依頼し此に関する具体的意図を開陳すること」であることをソ連側に伝え特使派遣の同意を取り付けるよう再度訓電した。但し「ソ連側の望む具体的条件を示すことはこれ又対内関係上並びに対外関係上不可能且つ不利」であると付け加えた。 

 二十五日、佐藤大使はロゾフスキーと再度会見した。ロゾフスキーは、日本政府が戦争終結の為ソ連に斡旋を求める点は了解したものの、近衛はどのような具体的提議を為すのか、と迫ったが、佐藤大使は特使の使命の重要性を強調する以外に応じ得なかった。

 一方、東京では、ソ連側の回答が思わしくないにも拘わらず、「スターリンが二十五日頃帰るだろう。そうすれば急にソ連に行くことになるかもしれない」との予想の下に、近衛の随員の選定が行われていた。近衛は首席随員に酒井を望み、さらに「自分の気持ちの分かる者」として、富田、細川護貞、伊藤述史、松谷誠大佐、高木惣吉少将そして同盟通信の松本重治等を推した。


90、聖断

 だが二十六日、米英中よりポツダム宣言が発表され、ソ連の対日参戦が、ソ連に対米英和平の仲介を依頼するという鈴木内閣の既定方針を砕いた為、近衛特使案は中断された。我が国政府の終戦外交の重点はポツダム宣言受諾の是非に移行し、八月十、十四日の御前会議において鈴木首相より非常措置として聖断を仰がれた昭和天皇は、ポツダム宣言の受諾を御決断された。我が国は辛うじて敗戦革命を免れ、「大戦を最後まで戦い抜くために」と政府を煽動した尾崎秀実の野望は、我が国においては達成されなかった。

終戦の詔書(昭和二十年八月十五日の玉音放送内容)

 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。

 朕は帝国政府として米英支ソ四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。

 抑々帝国臣民の康寧を図り万邦共栄の楽を偕にするは皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々措かざる所先に米英二国に宣戦せる所以も亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て他国の主権を排し領土を侵すが如きは固より朕が志にあらず。

 然るに交戦既に四歳を閲し朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるに拘らず戦局必ずしも好転せず世界の大勢亦我に利あらず加之敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る、而も尚交戦を継続せんか終に我が民族の滅亡を招来するのみならず延て人類の文明をも破却すべし。斯の如くんば朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せんや。是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。

 朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず。 帝国臣民にして戦陣に死し職域に殉じ非命に斃れたる者及び其の遺族に想を致せば五内為に裂く。且戦傷を負い災禍を蒙り家業を失いたる者の厚生に至りては朕は深く軫念する所なり。

 惟うに今後帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず、爾臣民の衷情も朕善く之を知る。然れども朕は時運の赴く所堪え難きを堪え忍び難きを忍び以て万世の為に太平を開かんと欲す。

 朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り、若し夫れ情の激する所濫に事端を滋くし或いは同胞排擠互に時局を乱り為に大道を誤り信義を世界に失うが如きは朕最も之を戒む。宜しく挙国一家子孫相伝え確く神州の不滅を信じ任重くして道遠きを思い総力を将来の建設に傾け道義を篤くし志操を鞏くし誓つて国体の精華を発揚し世界の進運に遅れざらんことを期すべし。

 爾臣民其れ克く朕が意を体せよ。

  御名 御璽

   昭和二十年八月十四日

    内閣総理大臣他各国務大臣 副署


91、昭和という時代

 昭和時代―我が国がマルクス・レーニン主義に汚染され尽くした思想的国難―において、昭和天皇は、三度、『悪魔とその祖母』とさえ妥協する共産主義者から我が国を救い出されたのであった。

 戦後、東京裁判裁判長を務めたウェッブは、戦史家の児島襄氏から昭和天皇に関する質問を受け、

 「神だ。あれだけの試練を受けても帝位を維持しているのは、神でなければできぬ。そうじゃないか」

と即答したことは有名である(1)。

 神道のカミ即ち日本の神々は、キリスト教のゴッド(天主)ではなく、隠(クム)にして上(カミ)であり、隠(こも)れる生命の根源にして、見えざる畏れ多き聖霊(holly spirit)である。語源的にクム(隠れる)やクマ(見えない影)という古語が語形変化してカミとなった。従って日本のカミは何か隠れて目に見えないという語意を強く持った神秘的な存在をいう。しかもカミは、川下に対する川上、水上のカミにも通じて水源や本源を意味し、また古典に、国魂の神、生魂の神、足魂の神ともあるように、タマ=霊魂・ムスビ=産霊つまり物を生み成す生命霊という意味を併せ持っている。

 我々日本民族は、生活を支える豊かな自然風土に潜む不可視の霊性を指してカミと呼ぶのである。日本の神は、山、川、草、木、海、岩といった自然や柱、刀、厠、竃といった器物など森羅万象に宿り、また先祖や偉人の霊魂も神となる。だからこそ我が国は八百万(やおよろず)の神々の国なのである。

 日本共産党再組織評議会が開かれた直後に践祚され、昭和六十四年(一九八九)一月七日、ベルリンの壁とソ連の崩壊を直前にして崩御された昭和天皇は、我が国が共産主義者によってソ連の如き全体主義国家―現存するこの世の地獄―に貶められることを阻止する為に、我が国を守護する八百万の神々から遣わされた現人神―現実に生きている人間でありながら崇高な霊魂を秘めた畏れ多き存在だったのであろう・・・。


(1)児島襄【天皇5】三七二頁。


92、近衛の和平条件

 ところで昭和十五年に八百万の神々のにくませ給うた孟子の一節を引用して昭和天皇に対する憎悪を露わにしていた近衛文麿は、如何なる条件でソ連に和平仲介を依頼しようとしていたのであろうか?

和平交渉に関する要綱、一九四五年(1)

 一、方 針

一、聖慮を奉戴し成し得る限り速に戦争を終結し以て我国民は勿論世界人類全般を迅速に戦禍より救出し御仁慈の精神を内外に徹底せしめることに全力を傾注す。

二、これが為め内外の切迫せる情勢を広く達観し交渉条件の如きは前項方針の達成に重点を置き、難きを求めず悠久なる我国体を護持するを主眼とし細部に就ては他日の再起大成に俟つの宏量を以て交渉に臨むものとす。

三、ソ連の仲介による交渉成立に極力努力するも万一失敗に帰したるときは直ちに英米との直接交渉を開始す。

 その交渉方針及条件に就ては概ね本要綱によるものとす。


 二、条 件

(一)国体及び国土

イ、国体の護持は絶対にして一歩も譲らざること。

ロ、国土に就ては成るべく他日の便なることに努むるも止むを得ざれば固有本土を以て満足す。

(二)行政司法

イ、我国古来の伝統たる天皇を戴く民本政治には我より進んで復帰するを約す。之が実行の為若干法規の改正教育の革新にも亦同意す。

ロ、行政は右の趣旨に基き帝国政府自らこれに当るに努むるも止むを得ざれば、若干期間監督を受くることに同意す。

ハ、司法は帝国司法権の自立に努むるも戦争に関係ある事項の処理につき止むを得ざれば一時監督を受くることに同意す。

ニ、戦争責任者たる臣下の処分は之を認む。之が実行に関し止むを得ざれば彼我協議の上一部の干渉を承諾す。

(三)陸海空軍々備  

イ、国内の治安確保に必要なる最少限度の兵力は之を保有することに努むるも、止むを得ざれば一時完全なる武装解除に同意す。   

ロ、海外にある軍隊は現地に於て復員し内地に帰還せしむることに努むるも止むを得ざれば当分その若干を現地に残留せしむることに同意す。

ハ、内地にある軍隊は(イ)項に関するものを除き他を悉く速に復員す。

ニ、兵器弾薬、軍用船舶、航空機は(イ)項に関するものを除き之を廃棄又は提出することに同意す。

(四)賠償及び其の他

イ、賠償として一部の労力を提供することには同意す。

ロ、条約実施保障の為めの軍事占領は成るべく之を行わざることに努むるも止むを得ざれば一時若干軍隊の駐屯を認む。

(五)国民生活

イ、窮迫せる刻下の国民生活保持の為め、食料の輸入、軽工業の再建等に関し必要なる援助を得るに努む。

ロ、国土に比し、人口の過剰なるに鑑み、之が是正の為必要なる条件の獲得に努む。   

 三、休戦と平和との関係

一、本要綱の諸条件は、成るべく之を休戦条約に包含せしむることに努むるも、まず速に休戦を成立せしめ国民を戦禍より救うの必要上、止むを得ざれば、その一部を平和会議に移すことに同意す。

二、右の場合、前諸項条件中、重要なるものに関しては少くも好意ある保障を取付くるに努む。


 要綱解説

 第一、目 的

 予(註、近衛文麿)は飽く迄も聖慮を奉じ本交渉を纏めんとする決意を以て出発せんとす。之を以て別紙要綱につき聖断を仰ぎ度所存なる所、余りに細部に亘り断を仰ぐは恐懼に堪えざるを以て別紙要綱の細部につき両人の解釈を一致せしめ所期の効果を発揮せんとす。

 第二、方針に就て

(一)の(二)につき。要綱は条件の下限を明かにしあり。勿論交渉に当りては成るべく有利なる条件を取り付くるに努むるも、最悪の場合には此線に踏み止らんとするものなり。然るに国内一部の方面に於ては、此等に関し反対の起ることなきを保し難し。然れども概ね六月の経験に徴するも、一度聖断下らば之を統一し得ることに確信を得たるを以てこの点特に木戸侯の力に期待するものなり。

(一)の(三)につき。ソ連の仲介による交渉失敗せば直接英米と交渉せんとする所以は由来予はソ連の仲介を必ずしも有利なりとは考えあらざるも国内の情勢上敢て異見を立てざりしものなり。さればソ連との交渉に失敗せば聖慮貫徹の必要上、直ちに英米との直接交渉に移らんことを強く主張せんとす。故に聖断を得ば、予め之が為め所要の準備を整えたる上、出発したし。而してその条件は概ね本要綱によるも情勢によりては若干条件の低下を要することあるべし。

 第三、条件に就て

(一)の(イ)国体の解釈に就ては皇統を確保し天皇政治を行うを主眼とす。但し最悪の場合には御譲位も亦止むを得ざるべし。此の場合に於ても飽く迄も自発の形式をとり、強要の形式を避くることに努む。之が為めの方法に就ては木戸侯に於て予め研究し置かれ度。

(一)の(ロ)固有の本土の解釈に就ては最下限沖縄、小笠原、樺太を捨て千島は南半部を保有する程度とすること。

(二)の(イ)若干法規の改正とは、止むを得ざれば憲法の改正、以下民本的法令に及ぶこと。

(二)の(ロ)彼我協議の上、一部の干渉とは恐らく先方には「リスト」あるべきも、我国内事情に通せざる為、誤りあるべきを以て脱漏を補足する等の口実により協議を求め、之に該当せざるものは誠意を以て説明し之を思い止まらしむる等のことをいう。 

(三)の(イ)治安確保に必要なる兵力とは戦后の国内状勢に鑑み、必要なる武装せる団体の意にしてその名称、所属官衙等に就ては敢て名目上の主張をなさざる考なり。

(三)の(ロ)若干を現地に残留とは、老年次兵は帰国せしめ、弱年次兵は一時労務に服せしむること等を含むものとす。

 第四、休戦と平和との関係に就て

(二)の好意ある保障とは例えば休戦条約の前文に、その意味を挿入するか或は別に非公式文書による言明を取り付くるか或は会議々事緑にその意味を記録する等、各種の方法あるべし。


 近衛は我が国の領土を固有の本土に限定し、我が国がソ連に米英との和平仲介を要請する代償として、スターリンのソ連に対して我が国から朝鮮、台湾、沖縄、小笠原、北千島、南樺太を割譲する準備を整えたのである。ソ連は日本本土を完全包囲して之を侵略し、東アジア全域を共産化することが出来るではないか!

 近衛の和平交渉に関する要綱は、ポツダム宣言、ヤルタ密約より我が国に過酷であり、種村佐孝大佐の対ソ施策に関する意見と変わりない。 

<ポツダム宣言>

一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席、及グレート・ブリテン国総理大臣は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し、今次の戦争を終結するの機会を与うることに意見一致せり。

二、合衆国、英帝国及中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及空軍に依る数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整えたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終始するに至る迄、同国に対し戦争を遂行するの一切の連合国の決意に依り支持せられ且鼓舞せられ居るものなり。

三、蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合に於て全ドイツ国人民の土地、産業及生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し測り知れざる程更に強大なるものなり。吾等の決意に支持せらるる吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。

四、無分別なる打算に依り日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言に依り日本国が引続き統御せられるべきか又は理性の経路を日本国が履むべきかを日本国が決定すべき時期は、到来せり。

五、吾等の条件は、左の如し。

 吾等は、右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。吾等は、遅延を認むるを得ず。

六、吾等は、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は、平和、安全及正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て、日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は、永久に除去せられざるべからず。

七、右の如き新秩序が建設せられ且つ日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るまでは、連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし。

八、カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。

九、日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を 得しめらるべし。

十、吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。日本国政府は、日本国国民の間に於けるデモクラシー的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せらるべし。

十一、日本国は、其の経済を支持し、且公正なる実物賠償の取立を可能ならしむるが如き産業を維持することを許さるべし。但し、日本国をして戦争の為再軍備を為すことを得しむるが如き産業は、此の限に在らず。右目的の為、原料の入手(其の支配とは之を区別す)を許さるべし。

十二、前記諸目的が達成せられ且日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、連合国の占領軍は、直に日本国より撤収せらるべし。

十三、吾等は、日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、且右行動に於ける同政府の誠意に付適当且充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は、迅速且完全なる壊滅あるのみとす。


(1)【終戦工作の記録下】二三二〜二四二頁。


93、正体

 昭和二十年六〜七月にかけて近衛文麿が、「専ら軍事情勢につき公に本土決戦必勝の信念を与うる如く力説すること三時間」に及んだ陸軍の親ソ狂信的革新幕僚たる種村佐孝大佐を、

 「此の次は陸軍の時代なり宜しく御奮闘を祈る」

と煽動し、種村と同じくソ連を全面的に利導しソ連に我が国を含む東亜を共産化する機会を与えようと画策したこと、そして近衛が尾崎秀実と共に支那事変を長期化させた松本重治、種村と共に大東亜戦争終末方策を作成し、昭和十九年七月一日「此の際の条件は唯国体護持あるのみ而して政略攻勢の対称は先ず「ソ」に指向するを可とす斯かる帝国の企図不成功に終りたる場合に於ては最早一億玉砕あるのみ」と決定した松谷誠大佐を「自分の気持ちの分かる者」と述べてモスクワへの随員に選定したことは、昭和二十年二月の近衛上奏文が彼の真意と正体を隠蔽するための演技であり、近衛がこの種の韜晦を得意とする狡猾な政治家であったことを如実に示している。 

 近衛文麿は中学生の頃、自分が高貴な華族の家柄であるが故に貧困に喘ぐ下層階級を見て良心の呵責に苛まれ、弟の秀麿に「社会主義談義」を頻繁に行い、京大学生時代には貧困の問題を研究し、大正三年(一九一四)、近衛は新思潮五、六月号にオスカーワイルドの「社会主義下の人間の魂」を翻訳掲載し(発売禁止処分)、ワイルドの言葉を借りて次のように断言した(1)。

 「私有財産が諸悪の根源であり財産と貧困の害悪を断ち切るには社会主義を実現するしかない。」  

 近衛は後年に京大時代を語り、河上肇について次のように回顧している。

 「当時の河上氏は已にマルクスの研究をしていて、我々にマルクスが読めるようにならなければだめだと始終云っていたが、極端に左傾してはいなかったようだ。氏の宅を訪問すると、書斎に通され、火鉢を囲み刻煙草を吹かしながらもの静かな気持ちでいつまでも話相手になってくれた。この頃私は河上氏から二冊の本を貰った。一つはスパルゴーの『カール・マルクスの生涯と事業』であり、一つはイタリーのトリノ大学のロリア教授の『コンテンポラリーソシャル・プロブレムズ』であった。後者に就ては特に『とても面白い本で、やめることが出来ず徹夜して読んだ』と云って渡された。私も亦昂奮して、一気呵成にそれを読み了った事を今も記憶している。」

 もはや近衛文麿の正体は明白であろう。近衛は、日本随一の共産主義者であった恩師の河上肇(京都帝大教授、共産党員)の教えを忠実に守り「共産主義者はあらゆる詐術手練手管策略を用い真実をごまかし隠蔽しても差し支えない」というレーニンの教義を信奉するマルクス・レーニン主義者であり、ゾルゲ事件の調査において検察が察知した通り、ソ連を守り、中国共産党に漁夫の利を与え、東南アジア、インドを英米帝国主義より解放し、我が国を敗戦革命に追いやり、東亜新秩序を実現すべく、支那事変の解決を妨害し我が国を対米英戦に誘導し、八千万同胞に十五年間もの戦争の惨苦をもたらし、三百万同胞を死に至らしめた尾崎秀実の同志―東亜協同体論者であり、

 「昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子」

とは近衛自身だったのだ。

 昭和十八年一月、近衛は木戸に参考として送った書簡の中で「軍部内の或一団により考案せられたる所謂革新政策の全貌を最近見る機会を得たり。勿論未だ全貌を露呈するには至らずと雖、徐々に巧妙に小出しに着々実現の道程を進みつつあるが如し」と述べているが(2)、近衛自身がこれを承認し、種村ら陸軍の革新幕僚に実行させたのであろう。

 そして昭和十五年七月の陸軍中堅層による米内内閣の倒閣「上からの政権奪取」と昭和二十年八月十四日の陸軍省軍務局軍務課軍事課による継戦宮城クーデターの首謀者も近衛であったに違いない。

 近衛が第三次内閣を投げ出す直前、色紙に「夢」と大書しながら「二千六百年、永い夢でした」と呟いたのは、我が国が対米英戦から敗戦革命に巻き込まれ、神武肇国以来二千六百年に亘る万世一系の皇統が槿花一朝の夢と化して儚く消滅する、と確信したからであろう。

 木戸幸一日記(昭和十九年一月六日)には、

 「我が国がアングロサクソンたる米英に対するに、大体東洋的なるソ支と提携し、臨機応変の態勢を整え、ひそかに内に実力を蓄えるを最も策の得たるものなりと信ず」

と記述されており、おそらく木戸も近衛と同様に、東亜新秩序構想を抱いていたのであろう…。

 戦後、矢部貞治は近衛文麿の評伝の中で次の近衛の遺言を紹介し、服毒自殺した彼のことを「正義と法になんの根拠もない戦勝者の思い上がった裁き(東京裁判)を、身をもって拒否することにより、かれらの前に立ちはだかって、天皇をお護りするというのが彼の凛然たる心事であったようである」と解説している(3)。

 「自分が罪に問われている主たる理由は、日支事変にあると思うが、日支事変で責任の帰着点を追及してゆけば、政治家としての近衛の責任は軽くなり、結局、統帥権の問題になる。したがって窮極は陛下の責任ということになるので、自分は法廷に立って所信を述べるわけにはゆかない。」

 昭和天皇の御意向を幾度となく無視し、参謀本部の猛反対を恫喝してトラウトマン工作を打ち切り支那事変を拡大長期化させた張本人は、近衛文麿自身である(第一次近衛声明、汪兆銘工作、汪兆銘政権の正式承認)。従って支那事変で責任の帰着点を追及していけば、昭和天皇は無論のこと陸軍首脳すら免責され、政治家としての近衛の責任が最重大になることは必至である。

 なぜなら帝国憲法は、天皇を、処罰と侮辱の対象にならない無答責(政治的無責任)の地位に置き(第三条、天皇の神聖不可侵)、天皇を輔弼する国務大臣に、君主に対する直接的責任と人民に対する間接的責任とを負わせている(第五十五条)。天皇が裁可し公布する法律勅令および国事に関する詔勅は、国務大臣の副署に依って始めて実施の効力を得、国務大臣の副署が大臣担当の権と責任の義を表示するからである(4)。

 それにも拘わらず近衛は「日支事変で責任の帰着点を追及してゆけば、政治家としての近衛の責任は軽くなり、結局、統帥権の問題になる。したがって窮極は陛下の責任ということになる」などと真赤な虚言を弄し、昭和天皇に責任を転嫁するのである。そしてもし近衛の言葉通り、昭和天皇に統帥権を行使し支那事変を拡大長期化させた責任があるならば、近衛が自殺し出廷を拒否しても、天皇を護ることはできない。にも拘わらず矢部は「かれらの前に立ちはだかって、天皇をお護りするというのが彼の凛然たる心事であったようである」などと詭弁を弄すのである。

 虚言、詭弁、そして責任転嫁。これがレーニンを崇拝する共産主義者の政治信条だからである。


(1)矢部【近衛文麿上】六十八頁
(2)【木戸幸一関係文書】五九一〜五九二頁。
(3)矢部【近衛文麿下】六〇四頁。
(4)伊藤【憲法義解】第五十五条解説。



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

国民のための大東亜戦争正統抄史79〜87近衛上奏文解説

【近衛上奏文解説】


79、近衛上奏文

 昭和二十年二月十四日の朝、木戸内大臣が侍従長室に姿を見せ、藤田尚徳侍従長に、

 「藤田さん、今日の近衛公の参内は、私に侍立させてほしい。近衛公は、あなたをよく存じあげていない。それで侍従長の侍立を気にして、話が十分にできないと困る。ひとつ御前で近衛公の思う通りに話をさせてみたい」

と要請した。藤田侍従長は快諾し、木戸と近衛の二人が昭和天皇に拝謁し、以下の近衛上奏文を捧呈したのである。

 「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。

 敗戦は我が国体の瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日までの所国体の変革とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候。

 つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。

 ソ連は欧州に於て其周辺諸国にはソビエト的政権を爾余の諸国には少なくとも親ソ容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。

 ユーゴーのチトー政権は其の最典型的なる具体表現に御座候。ポーランドに対しては予めソ連内に準備せるポーランド出国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申候。

 ルーマニア、ブルガリア、フィンランドに対する休戦条件を見るに内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエト政権に非ざれば存在し得ざる如く致し候。

 イランに対しては石油利権の要求に応ぜざる故を以て、内閣総辞職を強要致し候。

 スイスがソ連との国交開始を提議せるに対しソ連はスイス政府を以て親枢軸的なりとして一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。

 英米占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、且之等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり、而して是等武装団を指揮しつつあるものは主として共産系に御座候。ドイツに対してはポーランドに於けると同じく巳に準備せる自由ドイツ委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存候。

 ソ連はかくの如く欧州諸国に対し表面は、内政不干渉の立場を取るも事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引ずらんと致し居候。ソ連の此意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野(註、野坂参三)を中心に日本解放連盟組織せられ朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。かくの如き形勢より押して考うるに、ソ連はやがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く共産主義者の入閣、治安維持法、及防共協定の廃止等々)翻て国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられゆく観有之候。即生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及之を背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座候。右の内特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有之候。

 少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候(註1)

 抑々満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存候(註2)。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も「事変永びくがよろしく事変解決せば国内革新が出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心的人物に御座候(註3)

 是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候※。

 此事は過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして此結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。

 不肖は此間二度まで組閣の大命を拝したるが国内の相克摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは(註4)、全く不明の致す所にして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候。

 昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。

 一方に於て徹底的に米英撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候(註5)。以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべき、あらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展致すべくと存候。

 戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。彼等はすでに戦争遂行の自信を失い居るも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。

 もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、此の一味と饗応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成し難き恐れ有之候。従て戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さえ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼左翼の民間分子も、影を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに他ならざるがゆえに、その本を絶てば、枝葉は自ら枯るるものなりと存候。 尚これは少々希望的観測かは知れず候えども、もしこれら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来米英及重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、其の政策が改らば、彼等としては戦争の継続につき、考慮するようになりはせずやと思われ候。それはともかくとして、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。以上」(1) 

 昭和天皇は、上奏文の内容の特異さに驚かれ、次のように御下問された。

天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」
天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
近衛「一つの思想がございます。これを目標と致します。」
天皇「人事の問題に、結局なるが、近衛はどう考えておるか。」
近衛「それは、陛下のお考え…。」
天皇「近衛にも判らないようでは、なかなか難しいと思う。」
近衛「従来、軍は永く一つの思想によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。考えようによっては何時かは摩擦を生ずるものならば、この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。先日、平沼、岡田氏らと会合した際にも、この話はありました。賀陽宮は軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」
天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」
近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」


(1)【木戸幸一関係文書】四九五〜四九八頁。


80、国体の衣をまとった共産主義者

※昭和十六年四月八日、和田博雄、稲葉秀三、勝間田清一、和田耕作等、尾崎秀実と密接不可分の関係にあった企画院革新官僚が治安維持法違反容疑で検挙されたのであるが(企画院事件)、大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌には、

 「笠信太郎(1)より経済機構に関する事項を第一応接室に於て聴取す。」(昭和十五年七月八日)、

 「対米英戦争準備大綱案(註、種村佐孝起案)陸軍省に移す、主任者大いに同意し企画院に移し本案に基き企画院を表面に立て之が促進に努力すべきを約す。」(昭和十六年二月二十日)、

 「経済新体制確立せられ金融新体制確立せらるると雖も旧体依然として結城が日銀総裁たる限り大蔵大臣は番頭にすぎず。任期満了を期とし合法的に交代方各方面に提議す。第一部長之に同意し企画院毛里方面へも連絡す。」

(昭和十七年七月二十一日)

 「佐野学氏より対中共観を聴取す。」(昭和十九年三月十七日)、

 「班長(註、松谷誠)及び橋本少佐、平野義太郎氏(2)より大東亜宣言の具体的綱領を聴取す。」(昭和十九年五月十二日)

とあり、参謀本部戦争指導班と一部新官僚および民間有志ら国体の衣を着けた共産主義者との密接な関係が窺われる。


(1)笠信太郎は、尾崎秀実と共に昭和研究会、朝飯会に所属、昭和十四年十二月に「日本経済の再編成」を刊行、第三次近衛声明後の我が国の軍事行動は、「治安工作と並行して抗日勢力の徹底的破砕を目指して進められねばならぬ」と主張し、企業が利潤確保の為やむを得ず闇市場に物資を流し闇価格を高騰させ或いは商品の品質や労働者の待遇条件を落とすこと等、政府の物資統制や戦時インフレ抑止(低物価)政策が発生させる様々な弊害の除去に藉口して、物資のみならず企業の利潤および経営にまで統制の範囲を拡大させる必要性を説き、国家総動員法の発動と近衛新体制運動とを推進した朝日新聞経済担当論説委員。

 笠は『中央公論』昭和十四年十一月号「事変処理と欧州大戦」という座談会(出席者は、笠信太郎、和田耕作、平貞蔵、牛場信彦、西園寺公一、聽濤克己、角田順、後藤勇)の中で次のように公言し、政党政治と言論の自由とを否定したのである。三田村【戦争と共産主義】二六三頁。

笠「当面の問題はもっと大きく根本的に考えねばならんでしょう。これまで革新という言葉もいろいろに使われたけれども、浮いたような革新ではどうにもならない。日本の社会の中堅になる段階の人々が、先づ新しい目標に向かって、一つの結成をするといったことが火急な必要であろうと思う。そこから日本の政治体制そのものを作り上げて行く。はっきりした新しい国民組織―国難を乗り切ろうとする政治的な国民運動でありますが、そういうものの支持を受けて、始めて本当の仕事が出来る。そこの中に今までバラバラに割れ勝ちであるところの日本の政治上の意見というものを根本的に融和するようなそういう政党のような体制を考えたい。今までやって来た統制経済でも、現に非常に大きな変動を起して居る。今後は、今までやって来た統制経済の方向とはまた違った方向に、更により以上に進まねばならん。

 従来の自由経済の土台の上に立った古い政党…これと対立した意味での社会党なども同様であるが、これらのすべて古い地盤の上の政党は、物がいえない時代になって全く新しい姿、新しい経済的システムの上に、それぞれの新しい職能を代表するような政治的組織が必要となるのであるが、それは西洋の一国一党といったものではなく―私はそれを包摂する形態が万民輔翼といった日本人の根本的な団体意識であろうと思う。そこで、要するに、外にあっては支那事変処理問題、内にあっては経済的の新しい体制を堅めるという、この内外二つの目標の上に、旺んなる政治意識が樹てられなければならんという風に考える。」

西園寺「結局、事変処理の深刻さと、それと国内問題との深い関連性を、骨の髄から感得していない。」
笠 「何でもよいから一日も早く自由の経済組織に還したいという念願しかない。こいつは実は不可能だ。現に総動員法を発動させて、実際には一歩一歩そういう方面に近づいているに拘わらず、生れ出る新しい制度の構図が考えられていないので推測が区々で、いろいろと違うところが出て来る。寧ろはっきりと、勢として出て来る姿を描いて、それを最も合理的なよい姿にするということに勢力を集中することが必要である。」  

 笠信太郎の主張は、資本主義経済に対する統制が更なる統制強化を生み出し国家に社会主義計画経済の整備遂行を余儀なくさせるという、企画院事件によって明らかにされた昭和研究会所属革新官僚の「基本的観念」を端的に表現している。

(2)平野義太郎は、昭和十一年七月十日検挙され転向し、戦時中太平洋問題調査会に所属し、中央公論昭和十五年七月号「東洋の社会構成と日支の将来」にて尾崎秀実、細川嘉六と東亜協同体を論じ、右翼論客として「大アジア主義の歴史的基礎」を著して我が国の大東亜戦争遂行を正当化した講座派マルクス主義者。松谷誠の政治幕僚の一人、戦後共産党員、世界平和評議会委員。【尾崎秀実著作集5】二九五〜三一二頁、松谷誠【大東亜戦争収拾の真相】一一七頁、谷沢永一、中川八洋【名著の解剖学】六十八〜七十頁。


81、国体と共産主義の両立論

 傍線部(1)が指摘する、職業軍人を共産革命へひきずる軍部内革新論は、大東亜戦争終末方策(昭和十八年九月十六日)において「ソの導入を図る」と決定し、サイパン陥落後「政略攻勢の対称は先ずソに指向するを可とす斯かる帝国の企図不成功に終りたる場合に於ては最早一億玉砕あるのみ」と断定した松谷誠(昭和十八年三月十一日〜十九年七月三日まで参謀本部戦争指導班長、昭和二十年五月鈴木首相秘書官兼陸軍省軍務局御用掛)が、鈴木総理、阿南陸相を補佐する為、企画院調査官毛里英於菟、慶応大学教授武村忠雄、東京大学教授矢部貞治、平野義太郎を始め、政治、経済、思想、報道等の各方面の識者を集め極秘裡に作成したという国防国家再建方策に垣間見える(1)。この中で彼等は、

 「あえて本土決戦体制といわず、本土徹底継戦体制と称するゆえんは、沖縄決戦により、すでに本土決戦そのものは事実上終了せるが故なり。すなわち沖縄の喪失以後、米軍の本土上陸作戦の速度(七、八月頃)と本土防衛態勢完備の速度(十月頃)とには数ヶ月の時差あり、かつ六月以後近代戦の遂行は困難となるが故なり。したがって、いわゆる本土決戦は真の決戦にあらず、むしろ無気力、無組織、利己的なる国民を脱皮せしめ将来国家再建の精神的団結力の根を植える点に意義存す。まさに枯れ草に火を放ちてこそ春強靭なる芽を生ずるものなり。

 ここに本土徹底継戦体制の確立を要す。従来の国民組織運動の欠陥は左の点に存す。

 元来国民運動の強力なる推進力たるべき軍部自体が、右運動に対する明確なる政治意識を欠く。国民運動は下から盛り上がるべきものなるにもかかわらず従来は逆に上からの官製的存在にとどまる。国民組織運動自体に明確なる主体的意識を欠く。また国民組織の主要細胞たる職域団体(例、産業報国会、農業会、農業経済会等)も従来の経済母体より充分脱却せず、僅かに改良的にとどまる。

 よって新国民組織運動たる国民義勇隊の組織方針は、軍が強力なる支持をなし、内地が戦場化し国民義勇隊が義勇戦闘隊に移転する場合、必要なる軍事訓練は軍がこれを担任する」

と明確に大衆の武装化と敗戦革命の勃発とを画策し、さらに彼等は、我が国が「国体護持」を最後的和平条件として、七、八月の間、ソ連が日本に対して行うであろう和平勧告の機会を利用すべきである、と主張し、その理由として、

 「スターリンは独ソ戦後、左翼小児病的態度を揚棄し、人情の機微に即せる左翼運動の正道に立っており、したがって恐らくソ連はわれに対し国体を破壊し赤化せんとする如きは考えざらん。ソ連の民族政策は寛容のものなり。右は白黄色人種の中間的存在としてスラブ民族特有のものにして、スラブ民族は人種的偏見少なし。されば、その民族政策は民族の自決と固有文化とを尊重し、内容的にはこれを共産主義化せんとするにあり。よってソ連は、わが国体と赤とは絶対に相容れざるものとは考えざらん。

 ソ連は国防・地政学上、われを将来親ソ国家たらしむるを希望しあるならん。すなわちソ連は従来大陸国防国家なりしも、航空機の発達と将来米英に挟撃さるる危険とは、ソ連に大陸海洋国防国家たることを要請しつつあり。しかるが故に、西にありては、国防外核圏を拡張せんがためにフィンランド、ポーランド、ドイツ、バルカン方面に親ソ国家を建設せんとするとともに、バルト海地中海への出口を求めつつあり。南に対しては、ペルシャ湾への出口を求めつつあり。さらに東に対しては、東ソの自活自戦態勢の確立のために満洲、北支を必要とするとともに、さらに海洋への外核防衛圏として、日本を親ソ国家たらしめんと希望しあるならん。

 戦後、わが経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿るべく、この点より見るも対ソ接近可能ならん。米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方、将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん」

という真赤な左翼イデオロギーに基づく虚構のスターリン・ソ連擁護論を弄し、政府軍首脳に、

 「ただし上層部の考えるが如き形式的国体護持論では、スターリンの心を打たず、かつ将来危険なり。したがって国体護持が国民生活に深く根ざしあることを、対ソ外交の衝にあたる者がスターリンに話すとともに、国内的にもそれを確立する如き政治施策を行うを要す」

と勧告していたのである(1)。

 傍線部(2)は事実に反する。参謀本部の猛反対を恫喝して支那事変を拡大長期化させ我が国を対米英戦に追いやった最高責任者は近衛自身である(昭和十三年一月十六日、第一次近衛声明、爾後国民政府を対手とせず。昭和十六年九月六日御前会議、帝国国策遂行要領、十月上旬に至るも交渉成立の目途なき場合は直ちに対米英蘭開戦を決意す。昭和十六年十月十六日、海軍首脳より和戦の決を一任された近衛が、和平を決断せず、東條陸相に全責任を転嫁して総辞職し、十八日、日本を対米英戦に誘導するという任務を完遂しソ連に帰還しようとしていたゾルゲが逮捕された。)

 さらに傍線部(3)は(4)と明らかに矛盾している。近衛は、支那事変当時、軍部内の革新論者が「事変解決せば国内革新ができなくなる」と公言するのを聞いていたのだから、近衛は、彼等によって画策された支那事変の拡大長期化が国内革新つまり日本の社会主義(共産主義)化を目的としていたことを看取していたのである。
 また傍線部(5)はおそらく昭和十九年八月八日「今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案」もしくは昭和二十年四月二十九日「今後の対ソ施策に対する意見」を指しているのだろうが、なぜ近衛は軍部内の革新運動の詳細を知り、また木戸は「彼の一味」の具体名を挙げるように近衛を促さなかったのか?これらの誤謬と矛盾と疑問とについては後述し、近衛が反省して到達した「一部新官僚および民間有志は右翼にして左翼であり、右翼は国体の衣を着けた共産主義者すなわち左翼である」という結論を解説しよう。


(1)松谷【大東亜戦争収拾の真相】一五八〜一五九、二八四〜三二八頁。矢部貞治日記昭和二十年八月十三日の条。



82、ヒトラーとスターリン

 我が国の革新勢力は必ずと言っていいほど敵対する保守主義者に「日本のナチス」「ネオ・ナチ」というレッテルを張り、これを誹謗中傷する。三十二年テーゼに盲従する日本資本主義発達史講座(昭和七年五月二十日〜八年八月二十六日、岩波書店。共産主義者の内、これに忠実的な者を講座派、三十二年テーゼに批判的な者を労農派という)の編纂刊行に参加し、支那事変において尾崎秀実、堀江邑一と共に、汪兆銘工作や近衛新体制運動を推進していた細川嘉六は、敗戦後、日本共産党員として左翼雑誌「世界評論」にて、

 「同党(共産党)はプロレタリアートの独裁及び暴力革命に関しても国外においてはドイツ、イタリーの軍国主義的独占資本主義の支配が打破せられ…云々」

と述べたが(1)、ナチスの正式名称、国家(国民)社会主義ドイツ労働者党(National.Sozialistische.Deutsche.Arbeiter-Partei)が示すように、ナチスとは、あくまで資本主義(共産主義者が使う自由主義市場経済の蔑称)と議会制デモクラシーの排撃を綱領とし、労働者階級(プロレタリアート)の救済を主眼とする社会主義独裁政党である。

 「ドイツ労働者を誠実にその民族に取り戻し、国際主義的幻想から覚醒させようと望んでいる運動は、『民族共同体では賃金労働者は雇い主に対して抵抗することなく経済的降伏をすべきであり、賃金労働者が正当な経済的生存の為の利益を守るすべての企てすらも民族共同体への攻撃とみなされなければならない』という企業家階層内に支配的な意見に対して、もっとも激しく抵抗しなければならない。」(2)

 コミンテルン三十五年テーゼは、ナチスに対して最も反動的な「ファシズム」という非難を浴びせ、

 「これは、あつかましくも国民社会主義と自称しているが、社会主義とも、ドイツ国民の真の民族的利益の擁護とも、絶対になんのかかわりもなく、大ブルジョアジーの召使いの役割を果たすものにすぎない。それは、ブルジョア民族主義だというだけではなく、また野獣的な排外主義でもある。ファシズム・ドイツは、ファシズムが勝利した場合になにが人民大衆を待ち受けているかを、全世界の面前でまざまざと示している。凶暴なファシスト権力は、労働者階級の精華であるその指導者や組織者を牢獄や強制収容所で皆殺しにしている。ドイツ・ファシズムは、新帝国主義戦争の主要な放火者であり、国際反革命の突撃隊として立ち現れている」

と解説したが(3)、ナチスの秘密警察ゲシュタポ、強制収容所、「嘘も百回言えば真実となる」というゲッベルスの大衆煽動術は、ソ連共産党の秘密警察チェーカ、強制収容所ラーゲリ、「共産主義者はあらゆる種類の詐術、手練手管、策略を用いて非合法方法を活用し真実をごまかし且つ隠蔽しても差し支えない」というレーニンの革命的道徳体系の模倣にすぎない。

 ワイマール・ドイツでは、ナチスは、より多くの労働者階級の支持と政権を獲得し一党独裁を実現する為に、過激な反ソ的国家民族主義をまとい、マルクス主義の国際主義を排撃し、東方に生存圏を拡大して純血ゲルマン民族からなる共産社会「ドイツ千年王国」の実現を掲げ、彼等と競合するドイツ共産党(コミンテルンドイツ支部)に対抗して議会第一党となった。そして一九三三年七月十四日、ナチスは遂に一党独裁体制の樹立に成功し、八年後、ソ連との直接対決に突入したのである。

 ドイツ第三帝国とソビエト帝国の死闘は、ナチスとドイツ共産党が労働者の支持を奪い合ったことから開始された社会主義(共産主義)勢力間の壮絶な国際的「内ゲバ」であり、第二次世界大戦後の中ソ紛争や中越(ベトナム)戦争の先駆けであった。

 そしてロシアでは富農が、ドイツではユダヤ人がそれぞれ資本の象徴であったが故に、レーニンのロシア共産党は富農を大虐殺し、ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党はユダヤ人を迫害したのである(4)。すなわちドイツのナチスによるホロコースト(反ユダヤ主義)は戦争の産物ではなく、ソ連のレーニン・スターリンによる大粛清(一九一七〜五三、犠牲者五千万以上)、中華人民共和国の毛沢東による文化大革命(一九六七〜七六、犠牲者二千万以上)、カンボジアのポルポト派による大虐殺(一九七五〜七八、犠牲者三百万以上)と同じく、社会主義イデオロギーによって引き起こされた大虐殺事件であり、「人道に対する犯罪」なのである。

 にも拘わらずナチスが「極右」もしくは「ファシズム」とされ、左翼と区別される史観が横行する現状は、ひとえにナチスと彼等の犯罪に対する非難糾弾から社会主義イデオロギーを救出しようとする革新勢力による悪質な情報操作であり、歴史改竄の成果であろう。

 個人独裁を維持する為に、顕在的潜在的政敵を殺戮し、殺戮された者の親類、友人、同志からの復讐を恐れ、また彼等を殺戮せざるを得なくなり(マルクス・レーニン主義の特徴であるテロ連鎖現象)、トロツキーに「塩水で渇きを癒す人」と形容された二十世紀史上最も残虐非道な共産主義者スターリンも、一九三一年から愛国心への訴えを開始しただけでなく、ロシア民族の英雄崇拝的映画「イワン雷帝」(三六年)の制作を許容するなど復古的民族主義者となり、四一年六月のドイツによる対ソ侵攻(バルバロッサ作戦)開始と同時に、「兄弟よ、姉妹よ、今や我が国は危機に瀕している」というロシア正教会の表現を使い、対独戦を大祖国防衛戦争と呼び、巧みな退却戦略を採ってナポレオンの侵攻軍を撃退したクトゥーゾフや十四世紀にタタールのくびきからロシアを解放したドミトリー・ドンスコイなどロシア民族の英雄を持ち出して戦意昂揚に努めた。

 「極右」のヒトラーと「極左」のスターリンは、いずれも敵対する社会主義勢力に対する権力闘争の為に、国家民族主義を戦術的に利用した社会主義者であり、両者の間に本質的差異は全く存在しない。故にドイツにおいてナチス、ファッショ運動に狂奔した者が、第二次世界大戦後に赤旗を担ぎ歩くという運動が顕著に現れたのである。


(1)三田村【戦争と共産主義】二六七頁、細川嘉六著改造昭和十五年九月号時局版「青年の興起と新政治体制運動」【人類後史への出発】一五〇頁。
(2)アドルフ・ヒトラー【わが闘争上】四八四頁、「国家社会主義ドイツ労働者党の最初の発展時代」
(3)【コミンテルン資料集6】一六五〜一六六頁。
(4)渡部昇一【ハイエク】一七六頁。ユダヤ人を自由主義の象徴として侮蔑した社会主義勢力はナチスだけではない。笠信太郎は、

 「新しき倫理が、その高い立場から階級対立の意識を克服すると同時に、これを生んだ個人主義乃至自由主義、その最も好ましからぬ属性であるところの俗にいわゆる猶太人根性を克服する方向をさしていることは、もはや云うまでもない」

と公言していたのである。笠信太郎【日本経済の再編成】一七六頁。


83、戦争指導の変遷

 一九二九年の世界大恐慌以来、対外輸出の減少と井上準之助蔵相の緊縮財政を原因とする深刻なデフレ不況に陥った我が国では、昭和六年(一九三一)十二月十三日、若槻内閣に代わって誕生した犬養内閣の蔵相高橋是清が円レートを切り下げ輸出の振興を図ると共に、日銀引受による国債発行を財源として大幅な財政支出の増加に踏み切るなど、ケインズ理論を先取る模範的な内需拡大政策を実施し、昭和恐慌を克服して経済を回復軌道に乗せることに成功し、社会主義政党が独裁政権を樹立することはなかった。 

 だがデフレ不況に直撃された貧しい農村出身者の多い帝国陸軍将校が、資本主義は財産を少数者に集積させ貧困失業を必ず生み出す(絶対窮乏化の原理)が故に失業貧困を無くすためには資本主義を倒さねばならない、と説くマルクス・レーニン主義に傾倒して政治経済の実態を見失い(マルクスは社会主義を実現すれば失業貧困が消滅するとは一言半句たりとも言っていない)、

 「抑国家を保護し国権を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」(明治天皇の軍人勅諭)

に反して、政治介入を開始したのである。彼等は国粋、民族主義的な言動を重ねながら盛んに国内政治経済の革新(共産主義)を叫んだように、表身に日本民族主義の衣をまとい、内心をマルクス・レーニン主義に汚染された復古的革新将校であり、スターリンと本質的に変わらないのである。

 満洲事変から二・二六事件まで、陸軍中枢は、天皇革命すなわち「天皇を戴く社会主義的政権の樹立」を目論んで立憲自由主義議会制デモクラシーを排撃したが、日本の国益を重視する反ソ的な国家主義を維持していた。だが石原莞爾の衣鉢を継いで「東洋道義文化の再建」を掲げ支那事変の解決に尽力した堀場一雄(昭和十二年二月一日〜十四年十一月二十七日参謀本部戦争指導班)が支那派遣軍参謀に転出し、彼に「軍内権力覇道主義者」と非難痛罵された(1)種村佐孝(昭和十四年十二月十八日〜二十年八月五日参謀本部戦争指導班。降伏時、第十七方面軍(朝鮮)参謀。戦後共産党員)が大本営陸軍部の戦争指導を担任することになった後、陸軍中枢はその性格を大きく変え、第二次近衛内閣が出現した昭和十五年(一九四〇)夏以降には、革新「右翼」として、日本と「左翼」のスターリン・ソ連の抱合を画策し、昭和二十年には日本共産党と同様に反国体(皇室)姿勢を露にしていた。


(1)堀場【支那事変戦争指導史】六九〇頁。石原莞爾によれば、「戦争指導」とは「戦争における国力の運営を指すものにして、戦争に方り、武力の行使即ち統帥と武力行使以外の事、即ち戦争における政治との両者を調和統一して、戦勝を獲得する」を言う。筆者は「戦争目的を達成する為の、軍事戦略、外交政略、内政施策、国力の統合運用」と解釈している。


84、石原莞爾の悲劇

 昭和十八年、参謀本部は「独の対米英単独講和若くはヒ政権の崩壊等より帝国が独力対米英戦争を遂行せざるべからざるが如き場合の世界終戦の為の帝国の対米英講和条件」は(イ)無併合、無賠償(ロ)米の四原則の承認(ハ)三国同盟の廃棄(二)支那に関しては日支事変以前への復帰(ホ)仏印以南の東亜細亜南太平洋の昭和十五年九月以前状態への復帰(へ)内太平洋の非武装(ト)日米通商関係の資金凍結前への復帰、で済み、国体の変革は含まれないと考えていた(昭和十八年九月十六日、大東亜戦争終末方策、其の五世界終戦二、別紙第三)。

 それにも拘わらず、種村佐孝大佐が、実際に「日ソ中立条約破棄通告を受け且独崩壊し」我が国が独力対米英戦争を遂行せざるを得なくなった昭和二十年四月末以降、「対米終戦に関する外交交渉成功するも米は偽装停戦して我が戦意を喪失せしめたる後必ず国体の破壊を吹掛けて来る」との真赤な虚言を吹聴し、

 「ソ側の言いなり放題になって眼を潰る、日清戦争後に於ける遼東半島を還付した悲壮なる決心に立換ったならば今日日本が満洲や遼東半島や或は南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて日清戦争前の態勢に立還り、明治御維新を昭和の御維新によって再建するの覚悟を以て飽く迄日ソ戦を回避し対米英戦争完遂に邁進しなくてはならない」

 「日清戦争前の態勢にかえってもソと戦をしないか、真逆ソとしてはそんな無理は云うまいと思われるけれ共帝国としては此の肚を以て日ソ戦争を絶対に回避すべきであって其処迄肚を極めて対ソ交渉に移るべきである、移った以上ソ側の言い分を待って之に応ずると云う態度に出づるべきである」

 「今後に於ける帝国の対ソ態度は絶対対ソ戦回避に存するを以て今更ら対ソ戦生起を前提として行うところの作戦準備は厳に反省を要すべし」

 「ソの仲介若くは恫喝に依り世界終戦への導入を余儀なくせらるることである、帝国としては対ソ施策に発足した以上否応なしに其の仲介若くは恫喝に従わざるを得ない」

と主張した真の目的は、我が国が米英に降伏することによって自由主義へ後退することを断固として排し、「独屈伏に依る場合はソを全面的に利導して日ソ提携」を実現し(昭和十九年八月八日、今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案三2(イ)A)、これが援助を受けて(ソ連は我が国の国体破壊を考えておらず、国体と共産主義は両立するという虚言を弄して、ソの導入を図り)日本社会経済の根本的立て直しを行い社会主義国家としての日本を確乎として築き上げ、大東亜の新秩序を建設することであり、国体護持のスローガンは、政府将兵国民を欺く詭弁であり虚言であった。だから種村等陸軍の革新幕僚は、

 「国家が大規模かつ長期に亘り戦争を行い敗北すれば、大衆は彼らに戦争の惨苦をもたらした君主、政府、体制に激しい怨恨憎悪を抱くようになり、暴力革命勃発の土壌が生まれる」

というレーニンの敗戦革命論に基づき、国民全滅、国家滅亡、国体消滅を意味する「一億玉砕」を叫び、立憲君主制を容認する米英に対して徹底抗戦を唱え、それを絶対に認めないソ連の「言いなり放題になって眼を潰れ」とまで極言し、ポツダム宣言の受諾を決断された昭和天皇にクーデターを敢行し、敗戦後、共産党に入党したのである。すなわち彼等は国体の衣をまとい(天皇尊重の偽装)、国体を利用して(国体護持の為の対米英本土決戦一億玉砕)、国体を破壊せんと画策し(敗戦革命)、敗戦後、国体の衣を脱ぎ捨て正体を暴露した(共産党への入党)のである(1)。松谷誠の言葉を借りれば、敗戦後日独両国において「極右より極左に転向」し赤旗を振る運動が顕著に現れたのであった(2)。

 英米支に対する我が国の不毛な長期戦、陸軍将校の共産化、統制派に牛耳られた革新陸軍中枢に対する尾崎秀実謀略網の浸透、言論出版集会結社等臨時取締法(昭和十六年十二月十九日公布)による戦争反対早期講和論者に対する弾圧、戦争遂行阻害分子の徹底的絶滅化(昭和二十年四月五日、陸軍新内閣施政方針)、吉田茂の検挙、対米英徹底抗戦本土決戦一億玉砕、ポツダム宣言受諾時の陸軍総兵力を百七十三個師団(五百四十七万人)にまで膨れ上がらせた根こそぎ動員、昭和二十年八月十四日深夜から翌日未明にかけて陸軍省軍務局軍務課軍事課の少壮革新幕僚が近衛師団長森赴中将を殺害し、偽命令を発して近衛師団を動かし、玉音放送録音盤を奪取、天皇を宮中に軟禁しようとした継戦「宮城クーデター」(八月革命未遂事件というべきであろう)等は、すべてコミンテルン二十八年テーゼの具現化であった。尾崎秀実ら我が国の共産主義者は「ブルジョア国家機関を破壊する目的でこれらの機関を利用する」というコミンテルンの革命戦術(3)を忠実かつ徹底的に実践したのである。

 満洲事変がコミンテルンの対日諜報謀略戦を発動させ、満洲国の民族協和という理念から発展した東亜連盟という政治構想が軍人間の政見の対立―東亜連盟論者と東亜協同体論者の対立―を生み陸軍内の統一を破壊し、尾崎秀実ら東亜赤化の野心を秘めた共産主義者の陸軍内部に対する浸透攪乱工作を助長し、満洲国協和会による一国一党の実験、政治行政機構改造案が、戦争を利用する国内革新、近衛新体制運動を引き起こす要因となり、そして石原莞爾が対ソ持久戦争を想定し陸軍の俊英を集め参謀本部内に創設した戦争指導課は、幾多の変遷を経て、ソ連に忠誠を誓い「一億玉砕」を唱え、東亜全域の赤化を画策する革新将校の巣窟に変貌してしまったのである。

 純粋に日本民族を愛した石原莞爾の憂国の至誠から発せられた行動は全て彼の意志に反して、西洋覇道の最先端にあった共産主義を信奉する尾崎秀実ら反日の革新勢力に国政を壟断されるという日本の悲劇を生み落としてしまい、石原自身の諸構想と共に我が国を敗北へ導いたのであった。

 帝国陸海軍将兵、一般国民合わせて約三百万の我が国国民を死に至らしめた我が国の対支米英戦争とは、マルクス・レーニン主義の特徴である「共産主義者による共産革命の為の自国民大殺戮」だったのである。
 

(1)中川八洋【近衛文麿とルーズベルト】二六六〜二七六頁参照。
(2)松谷【大東亜戦争収拾の真相】二七〇頁。
(3)【コミンテルン資料集1】二二四頁「共産主義、プロレタリアートの執権のため、ブルジョア議会の利用のための闘争」
 

85、思想侵略

 フランス暴力革命の嫡流たるロシア暴力革命の勃発前後から国境を越えて日本に流入し始めたマルクス主義は、昭和時代の幕開け(一九二六年十二月二十五日)と共に、華族官僚軍人知識人学生を中心として、若い世代の精神を征服する勢いを示し、国家中枢を深く汚染していたのである。出版界は左翼関係書の洪水に襲われ、書店には、マルクスの資本論全巻、マルクス・エンゲルス全集、レーニン選集、スターリン、ブハーリン全集が必ず置かれ、内務省警保局がいくら発禁押収しても、暴力革命を煽動する共産党関係の非合法書籍が次から次へと出版され、マルクス主義の研究は全盛期を迎えたのであった。

 華族は、汗と埃にまみれる労働者を見て、何不自由なく暮らす自分達の存在に懐疑の念を抱き、人間の不平等の起源に苦悩してマルクスに救いを求め、マルクスに洗脳された学生は資本主義を憎悪し、失業貧困差別のない理想郷として共産主義社会を憧憬し、やがて彼等は政府軍部の要職に就き、対支米英戦争に東亜を資本主義より解放する進歩的意義を見出して、これを遂行したのである(1)。

 昭和三年の三・一五事件以来、日本共産党が厳重な取締を受け組織を破壊されていったのに反比例して、右翼(急進国家主義)団体が急速に台頭し、昭和六年三月九日には、右翼各団体が全日本愛国者共同闘争協議会を結成し、

一、我等は亡国政治(註、議会政治)を覆滅し、天皇親政の実現を期す。
一、 我等は産業大権の確立により資本主義の打倒を期す。
一、 我等は国内の階級対立を克服し、国威の世界的発揚を期す。

を綱領として、「錦旗革命断行」の旗を押し立てて街頭デモ行進を行い、この日協の「前衛隊」が血盟団事件や神兵隊事件などに関係するテロリストを輩出したのであるが、彼等は天皇尊重を偽装(転向)して治安維持法から逃れた共産主義者で構成されており、立憲自由主義議会制デモクラシーを英米の害毒として憎悪していた。
 故に彼等は、自由主義経済の象徴である財閥や、彼等から献金を受けていた自由主義政党を排撃し、対支米英戦争では、自由主義国たる米英を「鬼畜米英」、彼等の支援を受けた蒋介石の国民政府を「中国の自主独立を棄てて米英に隷従しアジアの復興に叛逆する米英資本主義の買弁政府」と罵倒し、「東亜を解放せよ」と絶叫して(2)、国民世論がソ連や中国共産党攻撃に傾くことを阻止し、ソ連の政策たる「帝国主義国家相互間の戦争激発」に貢献し(3)、レーニンの敗戦革命論に基づき、いかなる犠牲を払っても平和を求める戦争反対論者を「非国民」と罵倒し、「贅沢は敵だ」というスローガンを掲げたのである。

 小川平吉は日記昭和十三年九月十七日欄に、

 「宇垣外相曰く、各種の事件に関連し近来真に不可解なる事少なからず、共産主義者が意外の方面に喰い込み仮面を被りて撹乱するに非る乎、本件失言問題の捏造も亦戦局収拾を阻止する者に非る乎と疑えり。予は共産党が一昨年来右翼に入りて撹乱を図るの方針なる事より其の実例の少なからざるを述べ、互に警戒を約す」

と記し、岩村通世司法大臣は、昭和十七年七月八日、右翼運動について、

 「組織右翼は国内的には国家社会主義を、対外的には南方武力進出と英米打倒とを主張し来れり。直接実力行使に傾く。平沼男爵を襲いたる「まことむすび」の会は之に属す。今や対外的に其の主張実現したるを以て鎮静なるが如きも、南方経営に資本主義を以てするには反対なりと称し居りて、情勢進展の模様によりては決起せんとす」

と枢密院に報告した(4)。昭和十九年六月、「荻外荘」に招かれた警視庁特高第一課長秦重徳は、我が国の共産主義運動について、

 「今日のわが国には共産党はなく、従って、共産主義運動は統一性を欠いている。けれども、共産主義者は職場と時とに即応して運動を行っており、戦争による国民生活水準の低下は、これら運動の温床になっている。その運動は正面から共産主義を標榜せず、敗戦の場合にそなえて共産主義者を養成するという目的でなされているものが多い。要するに、現在の情勢は『枯草を積みたる有様』であるから、これにマッチで火をつければ、直ちに燃え上がる。警視庁では国体を否認するものを左翼、そうでないものを右翼として扱っているものの、この右翼の中には実は左翼の多いことは、明かである。最近の産業奉還論のごときは、その良い例である。またいわゆる転向者の大部分は真に転向しているのではない」

と近衛に説明し(5)、近衛自身も日記(昭和十九年七月二、十四日)に、

 「当局の言明によれば皇室に対する不敬事件は年々加速度的に増加しており、又第三インター(註、コミンテルン)は解散し、我国共産党も未だ結成せられざるも、左翼分子はあらゆる方面に潜在し、いずれも来るべき敗戦を機会に革命を煽動しつつあり。これに加うるにいわゆる右翼にして最強硬に戦争完遂、英米撃滅を唱う者は大部分左翼よりの転向者にして、その真意測り知るべからず。かかる輩が大混乱に乗じて如何なる策動にいづるや想像に難からず」

 「此において予は、敗戦恐るべし。然も、敗戦に伴う左翼的革命さらに怖るべし。現段階は、まさに此の方向に歩一歩、接近しつつあるものの如し。革命を思う者は何れも、その実現に、もっとも有力なる実行者たるべき軍部を狙わざるなし。故に陸軍首脳たる者は、最も識見卓抜にして皇国精神に徹底せる者たるを要するは言を俟たず。軍部中のいわゆる皇道派こそ、此の資格を具備すというを得べし。外に対しては支那事変を拡大し、さらに大東亜戦争にまで拡大して、長期にわたり、政戦両局のヘゲモニーを掌握せる立場を悪用し、内においては、しきりに左翼的革新を強行し、遂に今日の内外ともに逼迫せる皇国未曾有の一大難局を作為せし者は、実に、これ等彼の軍部中の、いわゆる統制派にあらずして誰ぞや。

 予は此の事を憂慮する余り、陛下に上奏せる外、木戸内府に対しても縷々説明せるも、二・二六以来、真崎、荒木両大将等をその責任者として糾弾する念先入観となりて、事態の真相を把握し得ず。皇国精神に徹せるこれ等、皇道派を起用するに傾くこと能わざるは真に遺憾なり。寺内元帥なども、いわゆる皇道派を抹殺すれば粛軍終れりとなせるも何ぞ知らん。皇道派に代りて軍部の中心となれる、いわゆる統制派は戦争を起して国内を赤化せんとしつつあり」

と書いている。 

 戦前右翼の首魁として有名な北一輝、大川周明も、前者が「純正社会主義者」と自称し、後者が「日本社会主義研究所」を設立したように、天皇尊重を偽装したマルクス・レーニン主義者であった。だから北が上海で執筆し、大川が日本に持ち帰った「日本改造法案大綱」と日本社会主義研究所の暫定綱領は、皇室の存在を認めている点を除いて、日本共産党の主張と異なる処はなく、徹底的に資本主義経済組織を打倒し、私有財産制度を否認するに等しいのである。

<日本改造法案大綱>

一、天皇を奉じて速に国家改造(註、革新の同義語)の根基を完うするために、三年間憲法を停止し両院を停止し、両院を解散し全国に戒厳令を布く、そのためにはクーデターを断行する。
一、戒厳令の施行中、普通選挙による国家改造議会を招集、この国家改造議会は天皇の宣布したる国家改造の根本方針を討議することを得ず。
一、国民一般の所有すべき私有財産は百万円を超えることを得ず。
一、私有財産限度の超過額は無償を以て国家に納付せしむ。
一、資本家の財産徴収に当たっては二、三十人の死刑を見れば天下ことごとく服せん。
一、日本国民一家の所有し得べき私有土地限度は時価十万円とす。
一、私人生産制度の限度を資本一千万円とす。
一、労働省を設け、労働賃金は自由契約、労働時間は八時間とし、日曜、祭日は公休、賃金を支給すること、ストライキは別に法律の定めるところにより労働省これを裁決す。
一、婦人の労働は男子と共に自由にして平等なり。
一、国民教育の機関を満六歳より満十六歳迄の十ヶ年とし、男女を同一に教育し、エスペラントを課し第二国語とす。

<日本社会主義研究所暫定綱領>

一、我等は日本伝来の天皇制を以て日本国民最適の国家形態と信じ、一切の経綸を此の前提の下に行わんとす。
一、我等は生産手段の私有を基礎とする資本主義の無政府経済制を以て我国民の生活を圧殺するものと認め、出来得る丈け急速にこれが撤廃を期す。
一、我等は現日本国民大多数者生活の窮乏を救済するは生産手段の国有並びに国家による集中的計画経済の施行の外に途なきものと信じ、あらゆる手段を尽くして之が実現を期す。 
一、我等は、日本国民は凡て平等の権利及び義務を有し、且つ何人も公益に反して私益を追う能わざることを要求し、これに反したる者を「非国民」と認め徹底的な排撃を期す。

 故に日本改造法案大綱は、河上肇ら左翼に称賛され、彼等の牙城であり、日本共産革命を使命としていた改造社から出版され(一九二三年五月)、マルクス・レーニン主義に汚染された青年革新将校の聖書となり、三月事件(昭和六年三月二十日、橋本欣五郎、武藤章、影佐禎昭、今井武夫、真田穣一郎ら陸軍省部少壮将校によって結成された桜会と大川周明らによるクーデタ計画)、十月事件(昭和六年十月十七日、桜会急進派と大川周明らによるクーデタ未遂、錦旗革命事件)、五・一五事件(昭和七年五月十五日、海軍革新将校と大川周明らによるクーデタ事件)、二・二六事件(昭和十一年二月二十六日、陸軍皇道派革新将校と北一輝らによるクーデタ事件)等を引き起こしていった。

 警視庁が桜会を「錦旗共産党」と呼んでいたことや、皇道派の大岸頼好中尉が日本改造法案大綱を参考にして執筆した「皇政維新法案大綱」(昭和六年九月一日)にある、

 「一切を挙げて上御一人へ、一切を挙げて国家総動員へ。天皇は国民に対し原則として一切の私有を禁止す」

という一節が示す通り(6)、大川、北および彼等に煽動された陸海軍の革新将校の狙いは、昭和天皇を日本のレーニンに仕立て上げ、共産党独裁(実際は共産党党首による個人独裁であり国家独占私物化)ならぬ天皇親政(専制、独裁)による国内革新すなわち帝国憲法によって定められた立憲自由主義(私有財産制、市場経済)議会制デモクラシーを破壊し、計画(統制)経済を導入することであった。

 故に彼等は天皇を補弼する国務各大臣や立憲自由主義議会制デモクラシー君主制を維持せんとする牧野伸顕、西園寺公望ら重臣を「君側の奸」として排除しようとする一方で、皇室廃絶を画策するコミンテルンに忠誠を誓わない反ソ的な国家民族主義をまとい(特にサーベルを日本刀に替え、軍隊を皇軍、国土を皇土と呼んだ荒木貞夫の陸軍皇道派)、二・二六事件の際、皇道派革新将校は、首相官邸や国会議事堂など国政の中枢を押さえながら、決して宮城を占拠しようとはしなかったのである。

 日本社会主義研究所の赤松克麿は、

 「私は敢てマルクスの言説を以て悉く虚なりとするものではない。問題は共産党に行くか、我々の行動に行くか、二つしかない。それだから、共産党で行けば、成功し得るという見通しが付いて、僕等の方で行けば、成功しないということの見通しが付けば、それは問題だと思う。僕等は今日の所、共産党の行き方が見通しが付いて、それ以外のものは見通しが付かんとは思わない。それは、今僕等がこういう戦術ですれば、必ず成功するというような大きいことは言いませんが、比較的にコミンテルンの指令下に居るよりか、我々の下に居た方が可能性が多いのじゃないかということですな」

と、彼らが共産主義を全くかなぐり捨てたのではなく、プロレタリア革命への段階として戦術的に右翼に転向したに過ぎないことを告白しており、彼らの国家社会主義は、マルクス主義における国際主義を国家主義に置き換えたものに過ぎないのである。だから明治の自由民権派の生き残りであった福岡日日主筆の菊竹六鼓は、五・一五事件事件の際、

 「何人も知る如く、近来右傾運動の勃発に乗じ、左翼運動者輩が、国家民族の仮面をかむり、ファッショという流行語を借り来たりて、ややもすれば国民を煽動せんとするあり、或いは政治的野心家がその政権欲を遂げんが為に、陛下の軍隊と軍人に誘惑の手を延ばさんとするあり」

と指摘し(7)、彼等右翼が国家民族主義をまとった左翼であることを見抜いている。二・二六事件の首謀者の栗原安秀中尉は獄中において、

 「今日本を誤りつつあるは、軍閥と官僚だ、その二者を殲滅せば依拠を失える財閥は、自ら崩壊せざるを得ざるべく、財閥の背景なくして売国的政党の存立するなし。昭和維新も、兵卒と農民と労働者との力を以て軍閥、官僚、政党を粉砕せざる間は招来し得ざるものと覚悟せざるべからず。機関説的天皇より国民の自主的天皇へ、これ昭和維新の一大目標ならざるべからず」

と述べ、同じく新井勲元中尉は、

 「国家改造を夢見ながらも、青年将校と幕僚の間には、十月事件以来溝が出来た。続いて起こった血盟団や昭和七年の五・一五事件は、いずれも青年将校の流れをくむものであったが、幕僚を主体とする軍はこの機会を巧みにつかんで、ついに政党政治に終止符を打った。政権把握の軍の野望達成には、最早国内テロの必要はなくなった。戦争が開始されれば、必然的に軍の権力は拡大する。望むのは戦争だけである。国際的進出―対外侵略―と並行し、その企画統制の下に国家改造を断行する。これが永田鉄山を首領とする統制派幕僚の政策であった。

 政党政治が崩壊しても、それだけで青年将校の国家改造運動は、到底おさまる筈がなかった。昭和三年来全国を襲った深刻な不景気、特に中小商工業者や、農、山、漁村の困窮を最も敏感に感じとったのは、兵と直接接触する青年将校である。腐敗した政党と貪欲な財閥を打倒し、悩む下層階級を救おうというのが、かれらを貫く思想であった。陛下の赤子と言われるのに、一面では栄耀栄華に暮らすものがあるかと思えば、一面では働けど、働けどその日の生活に喘ぐ者があった。中でも東北地方の冷害で、満洲に出征した兵の家庭では、姉妹が娼妓に売られる悲劇さえ起きていた。この社会矛盾の解決なしには、青年将校の間に広まった国家改造の機運はおさまる道理がなかった」

と述べており(8)、彼ら青年将校が、金を湯水のごとく使いドブに捨ててもビクともしない財閥資本家富豪成金の貪欲な華美贅沢や酔狂な投資こそ、富を社会に還元、再配分し、景気を回復させ、新たな産業を育て、雇用を生み、中小商工業者や農山漁村を潤し(景気=国内生産=有効需要=民間消費+民間投資+政府支出+輸出−輸入)、下層階級を救うことを理解しておらず、貧困失業の原因を資本家の「搾取」に求め「平等」に至高の価値を認めて資本家に対する浅薄な嫉妬憎悪を煽動正当化し、労働者農民の救済を叫ぶマルクス・レーニン主義に汚染されていたことを吐露している。

 昭和十年二月の貴族院議員菊池武夫の糾弾に端を発して、陸軍(皇道派)や右翼団体は、議会と政党を基盤とする立憲主義政治体制の土台となる美濃部達吉の「天皇機関説」を排撃し、帝国憲法を徹底的に歪曲解釈して天皇は無制限絶対権力を持つと吹聴した上杉慎吉の「天皇主権説」を賞揚したが、これも天皇親政による国内革新を狙った真赤な虚偽学説であり、上杉も、北一輝同様、天皇尊重を偽装し社会主義の実現を目指した暴力革命家であった(9)。
 一九一一年の「国民教育帝国憲法講義」において既に上杉は「無用有害なる中間の分子」の排除、天皇と人民の直結を説き、さらに一九二三年には「総動員」の中で、彼は資本家を非愛国的なる非日本人と非難し、農民の子であり労働者の子である大多数の軍人の政治化と全国民の兵士化を提唱し、次のように述べて、「起てよ無産の愛国者」と檄を飛ばし、北一輝の腹心である岩田登美夫の大文化会を通じて緊密な間柄となった社会主義者の高畠素之と経綸学盟を結んだのである。

 「政党は打破しなければならぬ、官僚は逐い払わねばならぬ、一切の現存の勢力を綺麗にかたづけてしまって、初めての君民合一の真の日本が復興せらるるのである、政党と官僚の背後には資本家と貴族が居る、これも取り除かなければ、国体そのままの真の日本は建設せられぬ」(全国軍人諸君に告ぐ)

 新聞に報道された上杉と高畠の提携は、右翼と左翼の国家主義における提携として世間に大きな衝撃を与えた。まさに上杉慎吉とは北一輝の先駆者であり同類であった(10)。

 一九三四年に来日した仏人ジャーナリストのモーリス・ラシャンは、当時のこれら一連の右翼革新運動を、天皇と勤労大衆を直結してその中間にある資本家階級を排除しようとする「ナショナル・コミュニズム」であると指摘し(11)、計画経済の本質が政府(官僚)の恣意的な判断決定に依存する非計画経済であることを論証、これを完全否定し、小川平吉と共に近衛新体制に反対した山本勝市博士は、

 「結局自由経済に優るものなし、今日日本では右翼も左翼も皆マルキシズム思想を根底とする如し」

と述べ(鳩山一郎日記昭和十五年四月二十九日)、原嘉道枢密院議長は、岩村司法大臣に右翼運動に対する取締の寛に過ぎること又は見当違いであることを力説して、右翼と赤とは必ずしも区別すべきではないことを強調し(4)、いずれも右翼の正体が共産主義者であることを見抜いていた。

 だが昭和天皇の反乱軍に対する断固たる御意志(朕自らが近衛師団を率いて鎮定に当たらん)によって失敗に終わった二・二六事件は、昭和天皇が帝国憲法で定められた立憲議会制デモクラシーを尊重される自由主義者であり、国内革新にとって最大の障壁であることを明白に証明した為、大川周明によって作成された支那事変対策(昭和十三年一月十一日近衛文書)が、

一、国民政府否認。
一、封鎖の完成と駐兵の合理化―広東、漢口の占領。
一、蒋政権を打倒し新政権を援助す。
一、第三国の容喙を一切排除―ドイツ講和斡旋打ち切り。
一、日独伊防共の強化。
一、将来英国をして支那より全く退却の余儀なからしむ。
一、臨時政府を充実、強化し中央政府に迄発展せしむ―南京政府系のものの参加を認む。

等を掲げたように(12)、天皇を戴く一君万民の社会主義国家を夢想していた右翼も多数の革新将校も皇室廃絶に傾斜し、それに伴いソ連に忠誠を誓うようになり、尾崎秀実の東亜新秩序構想に同調したのである。  


(1)三田村【戦争と共産主義】七十九〜八十六頁、【小川平吉関係文書1】六一七〜六二三頁「緊急勅令発布ならびに関係記事」をそれぞれ参照。
 例えば、大正十五年一月、最初の治安維持法違反者三十七名を出して社会に大きな衝撃を与えた「京大学連事件」に連座し検挙起訴された男爵石田英一郎は、皇室の藩屏として特別待遇を受けていた華族の当主であったにも拘わらず、治安維持法違反の外、不敬罪を問われ、親戚一同に改悔転向を懇請されたが、頑として聞く耳を持たなかった。また一九一一年に生まれ、極貧の幼少期を過ごした朝枝繁春は、陸軍士官学校入学前、労働者として社会主義運動に挺身しようと決意しており、徳田球一の共産党が健在であれば堂々入党していたほど極左思想に汚染されており、朝枝は、陸士入学後も、国体論、皇国史観を疑問視し、神田の古本屋でマルクス本を買い漁り、日曜下宿で貪り読んでいたという。三根生【参謀本部の暴れ者陸軍参謀朝枝繁春】十、三十四〜三十五、九十〜九十五、一〇九頁
 戦前の日本では、共産党だけではなく、華族や将校にも、国体破壊の共産革命を画策する秘かな赤い精神が蠢動していたのである。
(2)平野義太郎【大アジア主義の歴史的基礎】二〜四頁。この著書の中で平野は、「一九四一年五月からアメリカはオーウェンラティモアら太平洋問題調査会の東洋専門家を集め、日本支那の研究、情報収集に着手したが、彼らは、反日意識を燃やしている割合に東洋の基礎知識に乏しく、アメリカが我ら東洋の郷土を侵略する為の戦争に東洋学者を動員しようとしたところで、役には立たない。」とラティモアらを罵倒し、大衆の反米感情を煽りながら、敗戦後、平野は一転してアメリカの対日賠償委員として訪日したラティモアと一九四六年三月号世界評論「新しきアジアの構想」で対談を行い、一九五〇年に岩波文庫から刊行された【中国】(ラティモア著/平野監修)の中で、「ラティモア氏は現在生きて動いて発展しつつあるアジアを最もよく知っているアメリカ人のうちの数少ない一人である」と礼賛したのである。

 平野は一九三五年に訪日したラティモアと中国史の根本問題を談じ合っており、戦前から敗戦後にかけての平野の言動は、日米共産主義者の共同謀議による日米間の作為戦争謀略の存在を窺わせると共に、目的の為には平然と自己の主張を百八十度転回できる共産主義者の本質を示している。
(3)【現代史資料ゾルゲ事件1】四十四頁。
(4)深井英五【枢密院重要議事覚書】二二八頁。
(5)岡義武【近衛文麿】二〇二頁。
(6)秦【軍ファシズム運動史】二三、二八四〜二八九頁。
(7)稲垣武【朝日新聞血風録】二三四頁。
(8)三田村【戦争と共産主義】一二二〜一二六頁。
(9)中川八洋【正統の哲学異端の思想】二四七〜二五六頁。
 コミンテルン執行委員会の招集によって一九二二年一月二十一日から二月二日まで、モスクワ次いでペトログラードで開かれた第一回極東諸民族大会は、「日本における共産主義者の任務」(日本代表団によって採択された綱領)の中で、次のような帝国憲法に関する真赤な虚偽説を発表した。

 「日本は、その住民のほとんど全員が読み書きでき、五〇〇〇万人の住民のうち、プロレタリアが六五〇万人、零細小作農=半作男が五〇〇万人を数える、きわめて急速な発展をとげた資本主義国であるにもかかわらず、大土地所有およびその中から出てきた軍閥と元老が、えせ立憲的な形態(財産資格にもとづく、きわめて制限された選挙法、ミカドの無制限権力と、軍事的・財閥的元老寡頭制の独裁のもとでの二院制度)でつつまれた君主制度と、軍閥の独自の地位とに依拠して、国の政治生活において今なお指導的な役割を演じている。」【コミンテルン資料集2】五〇三頁。
(10)長尾龍一【日本憲法思想史】六〇〜一四一頁「上杉慎吉伝」
(11)曽村保信【地政学入門】一三二頁。
(12)【現代史資料日中戦争2】一〇六頁。


86、統制派とコミンテルン

 満洲国の建国後、ソ連が我が国に不可侵条約締結を求めてきた際、皇道派の荒木貞夫を陸軍大臣、真崎甚三郎を参謀次長、小畑敏四郎を作戦課長とする陸軍は、ソ連との不可侵条約締結を拒絶した。その理由は、ソ連の東漸政策は三百年の伝統を持ち、一片の条約に信頼を寄せることは危険であること、不可侵条約を締結すれば、対ソ国防力の建設という陸軍の推進目標が失われ、海軍の南進政策が促進されること、ソ連の常套戦略は、自ら進んで戦争に訴えることはなく、まず敵を内部崩壊に至らしめた後、最後の瞬間の決定打として武力を使うものであり、不可侵条約の締結はかかるソ連の思想謀略に対する警戒態勢を弱化させることになる、であったという。

 国家戦略として反ソ連・親英米支主義を掲げていた陸軍皇道派は、ソ連の意図を正確に看取していたが、昭和九年一月、荒木に代わって陸相に就任した林銑十郎大将、彼の下で陸軍省軍務局長に起用された永田鉄山少将以下、反英米支主義の統制派(十月事件後に成立)が皇道派の弾圧を開始し、皇道派と統制派の相剋は陰惨を極め、昭和十一年二月二十六日、焦燥に駆られた皇道派青年革新将校が二・二六事件を起こしたものの失敗し、皇道派は陸軍中央より追放されてしまい、統制派の皇道派に対する弾圧は結果的に日本軍の鉾先を英米支に向け、ソ連を利することになった。

 さらに統制派は、昭和九年(一九三四)十月十日、陸軍省新聞班から、「国防の本義と其強化の提唱」というパンフレットを公刊した。主たる執筆者は東大でマルクス主義に汚染され熱狂的な計画経済論者となり、影佐禎昭、武藤章等と共に、永田鉄山(昭和十年八月十二日、皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される)の麾下に所属していた池田純久(当時少佐、陸軍省軍事課員)であった。

 このパンフレットは「戦いは創造の父、文化の母である。試練の個人に於ける、競争の国家に於ける、斉しく夫々の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である」と戦争を賛美した上で、広義国防を提唱し、国防国家を、

 「国際主義自由主義個人主義思想を芟除し、これらに立脚した、排他的階級的にして、富の偏在、大衆の貧困失業を招来する経済機構を改廃し、国防目的のため、皇国の精神的物質的潜勢力を組織統制して一元的に運営する国家」

と定義したのである(1)。池田はパンフレットを作成した動機として次のように語っている(2)。

 「われわれ統制派の最初に作成した国家革新案は、やはり一種の暴力革命的色彩があった。警視庁を占領するとか、議会を占領するとか、著名政治家を監禁するとかの暴力沙汰であった。しかしそれは飽くまで軍の統率のもとに一糸乱れぬ指揮をもって行動しようというのである。

 しかしわれわれの研究が逐次進むにつれて、暴力革命的方式を廃して、合法的手段、つまり現行憲法に抵触せずして国家革新を行うことに頭をひねった。陸軍大臣は軍人であるとともに政治家でもある。陸軍大臣を通じて、政治上の要望を政府に提案してこれを推進するならば、必ずしも暴力革命の手段によらずとも、国家革新は可能である、という結論に達した。統制派は、かくして暴力革命を排し陸軍大臣を通じ行う方式を採用することに、その態度を一変したのである。こうなると破壊工作などは、統制派にとっては無用の長物である。建設工作だけで事は足りるということになる。しかし建設計画ということになると、軍人だけでは到底できない。それには専門的知識を必要とする。着実、実際的な立案を打ち出すことが望ましくなる。かくしてわれわれは、優秀な官僚と手を結ぶ必要に迫られた。そこにいわゆる新官僚が生まれてきたわけである。」

 池田は、手を結んだ新官僚として、後藤文夫、唐沢俊樹、和田博雄などを挙げている。コミンテルンを支持する進歩的新官僚の巣窟であった企画院が昭和十六年十一月に発行した「国防国家の綱領」も、

 「今日叫ばれている国防国家というのは、近代社会の自由主義国家観とは違った新しい国家観に基く国家である。自由主義国家観は国家の基礎を個人に置いて、個人の集り、その結合関係に国家の本質を求めている。すなわち個人の価値は国家または民族の価値に優先するという思想がその根底を貫いているのである。随って国家の任務は個人の自由に奉仕するにあって、個人の生命、財産、営業の安定、自由を保証し得る限りにおいて国家存立の理由がある。これが自由主義国家観の特質である。しかるに国防国家においては、かような国家観は根本的に否定され、個人の生命も財産も営業も、すべて国家は国家として個人のあらゆる生活部面も指導し干渉しうるとする全体主義国家観に基いている」

と言い、人類歴史の流れにおいて進歩と発展があるとすれば、自由主義、個人主義、営利主義、唯物主義の世界が没落して、全体主義、公益優先主義のより高い人類文化が、これに代わらんとしている、現代の世界戦争の渦中にある世界史の転換期において、

 「今こそこの自由主義、個人主義を清算し廃棄することこそ、歴史必然の運命であって、古き政治、古き経済、古き文化の一切が、この歴史転回の過程で批判し、検討されねばならぬ。

 聖戦已に丸四年を閲するもなおわが国民的政治地盤なくつねに各勢力の妥協と均衡の上に立って強力政治を断行し得ず、頻々と交迭した。また経済は依然として営利主義を以て指導精神とし、すでに統制経済から計画経済の段階に入っているが、かかる経済は一時的、臨時的のものであるとの皮相なる観案が全体を蔽い、文化も教育も、いまなお明治以来の自由主義を脱せずにいる。かかる非国防国家的な自由主義体制を根本的に変革し、東亜共栄圏の確立と国防国家の建設に邁進することが現下最大の要請である」

と述べ、明白に自由主義と現在から未来へ継承されるべき過去の伝統的遺産とを否定するマルクス主義の政治経済観、進歩的歴史観に基づく国防国家の建設を説いている(3)。

 「国防の本義と其強化の提唱」に対して、石原莞爾は、

 「単に国防といっても簡単ではなく、狭義国防の戦略戦術等はもちろん軍人の任務であるが、広義国防ともなって、産業、経済、交通、運輸等となると当然政治と密接に関連する分野である。政治行動をする大臣の輔翼(註、軍人の輔弼)のための意見開陳ならともかく、一般国民へ向かって軍が一々産業経済を口にするのは越権である。本来政治というものは、必ず人によってその意見を異にする。反対あり、摩擦あり、賛成ありである。今回の国防強化の提唱は、正に一個の政見だ。すべからくひっこめるべきで今陸軍がこんなものを出すべき時期では断じてないのだ。これこそ軍の政治干与であり、ここから軍は乱れる。軍閥が生まれる。軍人にして徒党を組み政治行動に出る者を軍閥というのだ」

と、その危険性を喝破し厳しい批判を浴びせたが(4)、社会大衆党の麻生久は、

 「今回の軍部の改革的態度は五・一五事件当時の如き軍の一部と所謂愛国団体の一部との通謀による陰部的非合理性のものでなくして飽くまで合法的なものである。前回の改革意見が非科学的であって等しく資本主義に反対するも、その根拠は単なる道義的精神的批判の上に立脚せるものに過ぎなかったのに対し、今日のそれは科学的態度に発展し、率直に資本主義的機構を変革して社会国家的ならしむることを主張していることである。日本の国情に於いては資本主義打倒の社会改革に於いて軍隊と無産階級の合理的結合を、必然ならしめている。目的を達するには、此の必然を激成して行く以外に道はない。而して今回のパンフレットは、公然としてその道を開いた。

 党員諸君は、その開かれた道を正認しこのパンフレットを仲介として研究会を開き、勇敢に在郷軍人会、青年団、産業組合の陣営に進出し、このパンフレットの内容に沿って反資本主義勢力の拡大強化に努力して党の拡大強化を図るべし。その必然に開かれた道に対して勇敢に突進し得ざるものは、社会改革運動の落伍者である」

と最大の礼賛を与えた(5)。
 さらに池田純久が執筆したといわれる「陸軍当面の非常時政策」(昭和十年九月十八日)は、

 「軍部の動員が暴力革命の動員たることは近世史の明示するところ改革日本の政治過程を健全に前進せしめんと称せば軍部の上下一糸乱れざる結束の下に断固たる改造の決意を透徹遍備するを要す。三月事件、十月事件、五・一五事件の経験が示したる所謂白足袋革命論の誤謬は、社会主義運動十余年の歴史が示す大衆革命論の無駄骨と共に実践に価値なく且危険なる卓上戦術なること既に自明たるべし、過誤は反復すべからず。

 我が軍部は、東西の近代に其の比を見ざる独特の構成形態を以て、新世界史的意義を持つ『変革日本』の現段階に重大なるレーゾンデートルを強化強大しつつある所以を深刻大胆に自己認識し、目捷の間に急進せる『日本改造』の指導的中心たる大方針を断定して以て左記諸案の断行を急ぐべし。」

一、ブレーントラストの構成
一、在郷軍人会の統制
一、陸軍労働組合の組織
一、公益労働者組織の獲得
一、民間改造団体に対する軍部の加護統制
一、ジャーナリズムの利用

 「近代国家に於ける最大最強のオルガナイザーにして且つアジテーターはレーニンが力説し全世界の共産党員が実践して効果を煽動したるジャーナリズムなり、軍部はこのジャーナリズムの宣伝煽動の機能を計画的に効果的に利用すべし」

と述べ、共産党の戦術を採用してまで陸軍主導による国家の改造を煽動したのである(6)。

 海軍大将の山本英輔は、斉藤実内府に送るの書(昭和十年十二月二十九日)の中で、政府が一向に荒木、真崎の陸軍皇道派の要望に応えない為、革新将校が、「意気地がなく手緩い、最早上官頼むに足らず、統制派の方がマシだ」と、我が国体に鑑み皇軍の本質と名誉を傷つけることなきを立て前とし、大元帥陛下の御命令にあらざれば動かないと主張する皇道派を見限り、統制派の勢力が拡大しつつあることを指摘し、 

 「始めは将官級の力を藉りて其目的を達せんと試みしも容易に解決されず、終に最後の手段に訴えて迄もと考える方の系統が「ファッショ」気分となり、之に民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔手、赤化運動が之に乗じて利用せんとする策動となり、之が所謂統制派となりしものにて、表面は大変美化され居るも、其終局の目的は社会主義にして、昨年陸軍の「パンフレット」は其の真意を露わすものなり。林前陸相、永田軍務局長等は之を知りてなせしか知らずして乗ぜられて居りしか知らざれども、其最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、凡てを国家的に統制せんとするものにて、ソ連邦の如き結果となるものなり」

と近衛上奏文から遡ること約九年前に統制派の正体を見抜き、警告を発していた(7)。尾崎秀実は改造昭和十三年五月号「長期抗戦の行方」の中で、

 「日本に本質的な根本的な改造をもたらすことを伴わないでは、この日支事変は解決し得る性質のものでないであろう」

と戦争を利用する「国家改造謀略」の存在を示唆しており(8)、統制派と新官僚が、「国防国家の建設」の名の下に、将校の赤化を図り「革新」軍閥を形成し、戦争を利用する「上からの合法的変革(共産主義革命)」を狙うコミンテルンの謀略を秘めていたことが窺われる(9)。

 「国防の本義と其強化の提唱」「国防国家の建設綱領」等の論理魔術に心酔し或いは洗脳されて、軍人の建設すべき国防国家とは自由主義を否定し政府が個人のあらゆる生活部面も指導し干渉しうる全体主義国家(即ち社会主義、共産主義国家)であると確信し、二・二六事件と大政翼賛会の失敗の意味を悟った統制派の革新幕僚が陸軍省部の主導権を掌握した昭和十五年末以降、陸軍中枢は共産化し尾崎秀実の同伴者と化したのである。

 最後に、参謀本部戦争指導班を中核とする陸軍統制派革新幕僚が自由主義(資本主義)を如何に激しく憎悪していたか、を提示しておこう。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

四月十九日(昭和十六年)

一、日米全面協調(註、日米諒解案)の電文翻訳完了。

1、日本は武力南進せず米は対独武力参戦せずの根本条件にて日米の全面協調を策せんとするに在り。

2、米は日支直接交渉に依る全面和平を蒋に勧告す。

3、日米相携えて世界の平和を招来せんとす。

四、国内問題が重大なり 解決の道は強力政治に在り。

 自由主義への後退は之を断乎として排せざるべからず。

八月十五日 

 英米共同宣言を発す。

 英米の戦争目的和平条件を宣言したるものなりや否や。結局は英米の世界制覇、自由主義現状維持に依る世界制覇に他ならず。何が自由何が平和なりや。

八月二十七日(昭和十七年)

 陸軍省戦備課富塚少佐より鉄、アルミの生産状況85%に振わざる件聴取す。

 彼恰も資本主義擁護者の如し賃金、就業時間の制限を解けば生産向上すべしとの見解には同意し得ず。

 陸軍省に此の醜態あり、恐るべし。


一九二八年コミンテルン第六回大会決議「帝国主義戦争に反対する闘争と共産主義者の任務に関するテーゼ抜粋要約」(10)

 「最近帝国主義諸国家の政策は、反ソ政策と中国革命圧迫の方向に一歩前進して来たが、同時にまた帝国主義諸列国相互間の反目抗争甚だしくなり、反ソ戦に先立ちて帝国主義国家間に第二次世界戦争勃発の可能性高まりつつある。かかる客観情報は、第一次大戦に於いてソ連のプロレタリア革命を成功せしめたと同様に来るべき世界大戦は、国際プロレタリアートの強力なる革命闘争を誘発し前進せしめるに違いない。したがって各国共産党の主要任務は、この新なる世界戦を通じてブルジョア政府を転覆し、プロレタリア独裁政権を樹立する方向に大衆を指導し組織することにある。」    

 「資本主義の存続する限り戦争は避けがたい。だから戦争を無くするためには資本主義そのものを無くしなければならないが、資本主義の打倒はレーニンの実証した如く革命によらなければ不可能である。したがって世界革命闘争を任務とするプロレタリアートは全ての戦争に、無差別に反対すべきではない。即ち各々の戦争の歴史的、政治的乃至社会的意義を解剖し、特に各参戦国支配階級の性格を世界共産主義革命の見地に立って詳細に検討しなければならぬ。」

 「現代の戦争は、帝国主義諸国相互間の戦争、プロレタリア革命あるいは社会主義を建設中の国家に対する帝国主義国家の反革命戦争、プロレタリア革命軍、社会主義国の帝国主義国家に対する革命戦争の三つに分類し得るが、各々の戦争の実質をマルクス主義的に解剖することはプロレタリアートのその戦争に対する程度決定に重要なことである。

 帝国主義諸国のプロレタリアートは、第一の帝国主義国家相互間の戦争の場合は、自国政府の敗北と、この戦争を反ブルジョア的内乱戦に転化することを活動の主要目的としなければならない。第二の反革命戦争の場合は、自国政府の敗北を助長し、プロレタリア革命軍を勝利させなければならない。また第三の革命戦争は世界革命の一環としてその正当性を支持し、プロレタリア革命国家を防衛しなければならない。」

 「プロレタリアートは、政治権力を獲得し、生産手段を搾取者の手からもぎとるまでは、祖国を持たない。広く用いられている「祖国防衛」という表現は、戦争の正当化を意味する通俗的な表現である。プロレタリアートは、プロレタリア革命国家が帝国主義国家に対して行う革命戦争では、自分達の社会主義的祖国(註、当時はソ連を指していた)を防衛しなければならない。

 プロレタリア革命国家では、祖国擁護は必須の革命的義務であるが、帝国主義諸国では祖国擁護は許されない。」

 「共産主義者の帝国主義戦争反対は、一般平和主義者の戦争反対運動とその根底を異にしている。我々はこの反戦闘争をブルジョア支配階級覆滅を目的とした階級戦と不可分のものとしなければならない。蓋しブルジョアの支配が存続する限り帝国主義戦争は避け難いからである。

 帝国主義戦争時に於ける共産主義者の政治綱領は、ボルシェビキ党がレーニンの指導下に、第一次帝国主義大戦に反対する英雄的闘争の中で作成し、適用したものと同じ綱領である。

(1)自国政府の敗北を助成すること。

(2)後方における大衆の革命的行動と前線における交歓とを手段として、帝国主義諸国家の戦争をブルジョアジーに反対し、プロレタリアートの独裁をめざし、社会主義をめざすプロレタリアートの内乱に転化すること。

(3)帝国主義戦争の条件の下では、民主的方法による正義の平和は、主要な交戦諸国のブルジョア打倒とプロレタリアートによる権力の奪取なしには、不可能なるが故に、中心スローガンは平和ではなく、プロレタリア革命でなければならない。共産主義者は、平和に関するあらゆる空文句に対して精力的に戦わなければならない。

 ブルジョアは、戦争の内乱への転化を阻止する為に、重要な思想的武器として「平和の空文句」に訴えるからである。

 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争との闘争手段」の適用を一切断固として拒否しなければならない。また大衆の革命的前進と関係なく又はその発展を妨害するような個人的行動を拒否し、プチ・ブルの提唱する「戦争反対の処方箋」の宣伝と戦わなければならない。共産主義者は国際ブルジョアジー覆滅の為にする革命のみが戦争防止の唯一の手段であることを大衆に知らしめねばならない。」

 「多くの共産主義者が犯している主要な誤謬は、戦争問題を頗る抽象的に観察し、あらゆる戦争に於いて決定的な意義を有する軍隊に充分の注意を払わないことである。共産主義者は、その国の軍隊が如何なる階級又は政策の武器であるかを充分に検討して、その態度を決めなければならないが、その場合決定的な意義を有するものは、当該国家の軍事組織の如何にあるのではなく、その軍隊の性格が帝国主義的であるか又はプロレタリア的であるかにある。」 

 「現在の帝国主義国家の軍隊はブルジョア国家機関の一部ではあるが、最近の傾向は第二次大戦の危機を前にして各国共に、人民の全部を軍隊化する傾向が増大して来ている。この現象は搾取者と被搾取者の関係を軍隊内部に発生せしめるものであって、大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従えばブルジョアの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。」 

 「プロレタリアの帝国主義軍隊に対する関係は、帝国主義戦争に対する関係と密接な関係を持っており、自国政府の失敗を助長し、帝国主義戦争を駆って自己崩壊の内乱戦に誘導する方策は国防及軍隊の組織問題に対する態度に方向を与える。

 労働者を軍国主義化する帝国主義は、内乱戦に際しプロレタリアの勝利を導く素地を作るものなるが故に、一般平和主義者の主張する反軍国主義的立場とはその立場を異にする。われわれの立場は、労働者が武器を取ることに反対せず、ブルジョアの利益の為にする帝国主義的軍国化をプロレタリアートの武装に置き換えるのである。」


(1)秦【軍ファシズム運動史】三二一〜三三八頁。
(2)池田純久【日本の曲がり角】二十四頁。
(3)三田村【戦争と共産主義】二七七〜二八三頁、【共産党宣言】四十五〜五十、六十五〜六十九頁。
(4)藤本治毅【石原莞爾】一四六〜一四七頁。
(5)秦【軍ファシズム運動史】三三九頁。
(6)秦【軍ファシズム運動史】三五四〜三五九頁。
 一九二一年八月十三日のコミンテルン決議「われわれの新聞について」は、「われわれの扇動では、新聞が最大の役割を演じる。われわれの党が一紙ないし数種の日刊新聞を持っている国では、とくにそうである」と述べている。【コミンテルン資料集2】二十三頁。
(7)【木戸幸一関係文書】二五七〜二五八頁。
(8)【尾崎秀実著作集2】九十六頁。
(9) 広西元信著「資本論の誤訳」によれば、日本で、マルクス主義の国有化計画経済方式を剽窃した先例は、統制派の経済政策であり、統制派の周辺には、常にマルクス主義者が出入りし、彼等の「太平洋五十年戦略方針」は、細川嘉六、中西功、平野義太郎ら、歴然たる共産主義者の積極的参加によって出来上がったものであったという。

 細川嘉六が編集し昭和十七年五月に刊行した「新世界の構想と現実」は、尾崎秀実の論文「大戦を最後まで戦い抜くために」に酷似した第二次世界大戦史観を論じ、「日本は対米英戦争の最も果敢な遂行によって現に世界新秩序建設の原動力たるべき積極的使命を帯びた東亜新秩序の建設の達成に邁進しつつあるのである」と我が国の戦争遂行を正当化し、日本の新秩序は、「英米の金融帝国主義的支配を廃絶し、すでに歴史的使命を終わった古き国際主義、古き民主主義、古き自由主義に処刑の宣告を下すことである」と説明したのである。更にこの本は統制派のパンフレットと同様に「国防国家は国家の総力が国防目的に統一集中されている国家」という定義を述べ、「生産される富の大部分が必然に少数者の手に帰し、人民の大部分が必然に窮乏を強いられる社会構造の中で、自由主義はますます少数者にとっての自由、多数者にとっての不自由の原則となっている」と言い、彼等が推進する国防国家の建設に必要とされる革新の原理としてまず「自由主義の否定」を挙げ、「国防国家では、国民の政治経済行為、思想が厳重に統制され、国家目的に背反する私的目標の追求は許されない」と断言していた。

 これからも戦時下の我が国の共産主義者達が尾崎の謀略構想を共有し且つ統制派革新幕僚と密接な関係を持ち、彼等の企図する日本の社会主義化を「国防国家の建設」という文言に置き換えて官憲と大衆とを欺き、戦争遂行に藉口して国内革新を推進していたことが判るのである。

(10)三田村【戦争と共産主義】三十七〜四十頁。【コミンテルン資料集4】三七五〜四一三頁。
 帝国とは複数民族によって構成される国家を指し、帝国主義とは植民地を獲得して帝国を指向する政治思想である。共産中国が、満洲、内蒙古、ウイグル、チベットを植民地とし、台湾侵略を狙っている帝国主義国家であるように、帝国主義は資本主義固有の産物ではない。また十九世紀末、ほとんど植民地を有していなかったドイツの工業力が世界中の至る所に植民地を有していたイギリスの工業力を追い抜いたように、すでに帝国主義政策は国家に利益ではなく財政的負担をもたらすだけの愚策に転落しており、国家が資源や市場を獲得して経済発展を遂げる為には、自由貿易を行えばよく、軍事力を発動し他国と戦争を行い植民地を獲得拡大する必要は全くない。

 だがレーニンは、イギリスの領土拡大と海外投資の間には密接な因果関係があると錯誤した英国ジャーナリスト、ホブソンの誤謬に基づき、帝国主義を資本主義の最終段階の金融資本、独占資本であり、世界の領土分割が終わっている段階の資本主義と定義し、戦争の本質を帝国主義化した資本主義国家間の植民地再分割争奪戦と錯覚し、戦争を消滅させる為には資本主義を消滅させなければならない、と断定したのである。


87、戦争と平和

 朝日新聞社が戦時中に暴支應懲や鬼畜米英を叫び、戦争反対早期講和論者を非国民といって言論弾圧しながら、戦後一転して、マッカーサー占領憲法(日本国憲法)第九条を悪用し反戦反軍平和主義を唱え、再軍備、日米同盟強化論者を軍国主義者(タカ派)といって言論弾圧し、祖国に対する国民の忠誠や愛情を否定排撃する「地球市民主義」を打ち出していることについて、時流に迎合した朝日の転向と批判する識者もおられる。

 朝日新聞社が、近衛文麿の最高政治幕僚組織である昭和研究会と朝飯会に尾崎秀実、佐々弘雄、笠信太郎らを派遣し、近衛の革新国策を推進し、尾崎の「大戦を最後まで戦い抜くために」とほとんど変わらない開戦社説(昭和十六年十二月九日)を発表し、本土決戦一億玉砕国内ゲリラ戦の遂行を煽動し、朝鮮戦争の勃発を契機に容共政策を改めたGHQのレッドパージ(一九五〇年七月十八日からすべての共産主義者および共産主義的傾向の出版物は無期限に発行禁止となった。共産党の赤旗は一九五二年五月一日より再発行)によって、社内から約二百人もの共産分子を追放されたことが示すように(1)、朝日は、戦前戦中戦後を通じて終始一貫、国体(憲法)の衣をまとった、日本の国益を害する反日反米反中(中華民国)のマルクス・レーニン主義者の巣窟なのである。

<朝日新聞開戦社説昭和十六年十二月九日>

 帝国の対米英宣戦

 宣戦の大詔ここに渙発され、一億国民の向うところは厳として定まったのである。わが陸海の精鋭はすでに勇躍して起ち、太平洋は一瞬にして相貌を変えたのである。

 帝国は、日米和協の道を探求すべく、最後まで条理を尽して米国の反省を求めたにも拘らず、米国は常に謬れる原則論を堅守して、わが公正なる主張に耳をそむけ、却て、わが陸海軍の支那よりの全面的撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄というが如き、全く現実に適用し得べくもない諸条項を強要するのみならず、英、蘭、重慶等一連の衛星国家を駆って、対日包囲攻勢の戦備を強化し、かくてわが平和達成への願望は、遂に水泡に帰したのである。すなわち、帝国不動の国策たる支那事変の完遂と東亜共栄圏確立の大業は、もはや米国を主軸とする一連の反日敵性勢力を、東亜の全域から駆逐するにあらざれば、到底その達成を望み得ざる最後の段階に到達し、東条首相の言の如く『もし帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し、支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となる』が如き重大なる事態に到達したのである。

 事ここに到って、帝国の自存を全うするため、ここに決然として起たざるを得ず、一億を打って一丸とした総力を挙げて勝利のための戦いを戦い抜かねばならないのである。

 いま宣戦の大詔を拝し、恐懼感激に堪えざるとともに、肅然として満身の血のふるえるを禁じ得ないのである。一億同胞、戦線に立つものも、銃後を守るものも、一身一命を捧げて決死報国の大義に殉じ、もって宸襟を安んじ奉るとともに、光輝ある歴史の前に恥じることなきを期せねばならないのである。

 敵は豊富なる物資を擁し、しかも依って立つところの理念は不逞なる世界制覇の恣意である。従って、これを撃砕して帝国の自存を確立し、東亜の新秩序を建設するためには、戦争は如何に長期に亙ろうとも、国民はあらゆる困苦に堪えてこの「天の試煉」を突破し、ここに揺ぐところなき東亜恒久の礎石を打ち樹てねばならぬのである。

 宣戦とともに、早くも刻々として捷報を聞く。まことに快心の極みである。御稜威のもと、尽忠報国の鉄の信念をもって戦うとき、天佑は常に皇国を守るのである。

 いまや皇国の隆替を決するの秋、一億国民が一切を国家の難に捧ぐべき日は来たのである。


 暴支應懲、鬼畜米英など戦争を煽動した戦時朝日の報道、ソ連軍、中共軍、北朝鮮軍の侵略行為を支持弁護し、彼等に対峙する我が国の自衛隊と日米同盟を排撃する戦後朝日の反戦平和報道、共産主義国家の軍備拡張や偏狭なナショナリズムを看過容認しながら、日本の愛国心教育、国防体制再建、国益を擁護重視する政治家を排撃する戦後朝日の反ナショナリズム報道はそれぞれ、

 「資本主義国家群を噛み合わせて消耗崩壊させ敗戦革命へ誘導せよ、これを阻止する『戦争反対の処方箋』の宣伝を拒否せよ、『いかなる犠牲を払っても平和を』という感傷的な偽善的なスローガンを倒せ。

 共産主義者はプロレタリア革命軍の資本主義国家に対する革命戦争を支持し、社会主義的祖国を防衛せよ。プロレタリア革命国家では、祖国擁護は必須の革命的義務であるが、帝国主義諸国では祖国擁護は許されない」

に沿う共産革命スローガンであり、朝日新聞社に巣くう共産主義者の群れはレーニンの敗戦革命論、二十八年テーゼ、日本の歴史を全否定するスターリンの独善的反日史観である三十二年テーゼ、そして合法場面の利用をうたった三十五年テーゼを盲信実行し、「ソ連および共産主義勢力の防衛と拡大」を支援してきたのである。風見章、勝間田清一、細川嘉六、堀江邑一、平野義太郎、鈴木安蔵ら戦時中の好戦的右翼にして敗戦後の反戦的左翼も全く同様である。

 例えば、昭和研究会の教育問題研究会委員を務めていた宗像誠也(東大教育学科卒)は、改造昭和十六年十一月号に「臨戦態勢は教育を圧迫するか」と題して徴兵検査による兵隊の選抜を否定する次の強制兵役論を発表した。

 「ところでこのいわゆる圧迫とは何なのであるか、何処からそんな圧迫が出るのであるか、果たして圧迫なのか。

 結論は国防も産業も教育と密接な有機的関係に置かねばならないということである。国防も産業も教育と歩調を揃え、或いは教育的任務を分担しなければならぬ。例えば兵役制度である。従来兵制と学制とが寸分隙のない連繋の下に置かれていたとはいえない。

 我々は次のような試案を考えてみた。心身が異常でない限り、少し位からだが弱くても凡て兵役に取つてはどうか。実践的な国民的信念、国民的教養を作り上げる精神教育をすることは勿論だ。身分も職業も学歴も問わず、全部が共同の営舎生活を一定期間するということは国民性格を練成するのに必要な、また極めて有効な手段だと考えられる」

 そして宗像は、昭和十八年七月には「楽善抄」なる文集を刊行し、

 「父は大東亜戦争を知らなかった。しかしこの聖戦の目標なり、この戦争下の国民の思想なり生活の倫理なりは、父が予感し、又主張して来た方向にあるといえるように思う。あさおがみ趣旨なり、家々に神棚を設けることの主張なり、隣組の精神なり、質素倹約、間にあわせなり、尚武の精神なり、練成の理念なり、皇謨翼賛、臣道実践、滅私奉公の根本精神はいうまでもない」

と述べ、「吾人日本人としては皇道が神の道なり。道徳に一致する事は神に一致することなり」と書き残して逝去した厳父の逸郎に対して「ちちのみの父のみことばを胸には彫りて我が生きむとす」と誓約した。

 然るに我が国の敗戦後、東大教育学部教授になった宗像誠也は、「教師は労働者である」という規定を持つ有名な日教組の教師倫理綱領を起草したばかりか、自分の父親に対する自身の誓約を踏み躙り、日教組を理論的に指導する平和教育委員会委員として反米、反天皇、反文部省、反軍備、反戦論を展開し始め、教育昭和二十七年七月号に「歴史的認識と人権の感覚」と題して、

 「わたしは、平和教育の一面は、いわば人権教育だと信じているのである。戦争が人権に対する最大の挑戦者であり破壊者であることはいうまでもない。だからして『教え子をふたたび戦場に送るな』という日教組のスローガンには、うちかち難い強さがある。わたしは、教師がこの良心の声を純粋に叫び続けることが大切だと思う。

 教師がときとすると、いわば一種の責任感から『国論の統一』に役立たねばならぬという意識に支配され、教師としての良心に背いて、現実政治に足並みをそろえようとすることがあるのは反省されねばならぬ」

と教師に説教したのである(2)。
 
 しかし日教組が支持した社会党の左派(社会主義協会)の理論的指導者であった九州大学教授の向坂逸郎は、諸君昭和五十二年七月号「マルクスよりマルクス」の中で「プロレタリア独裁の下では政府に反対する言論・表現の自由は絶対にない」と断言し、日本に社会主義政権が誕生し日米安保が破棄されアメリカの軍事力が重大な脅威となる時は、社会党の非武装中立政策を考え直すと公言した。またマルクス憲法解釈学者の小林直樹は、国際法上あり得ない社会党の非武装中立論を礼賛し、日本の非武装化の後に訪れるソ連軍による日本占領を「ソ連が公費で日本に留学生を送ってきたのと同じ結果になります」と肯定し、世間の大ひんしゅくを受け、憲法学者の信用を失墜させた。

 社会党系左翼学者の発言が暴露した真相は、左翼勢力の護憲平和主義と非武装中立論と「子供を二度と戦場に送るな!」という反戦スローガンが、日本国が社会主義化するまでの方便であり、ソ連および共産主義勢力の防衛と拡大を支援し、日本周辺の共産主義国家の軍事力を導入して我が国を共産化する為の詭弁であったということである(3)。


(1)【世紀末から見た大東亜戦争】二〇八頁。
(2) 【進歩的文化人学者先生戦前戦後言質集】一六一〜一六六頁。
(3)稲垣武【悪魔祓いの戦後史】参照。


 

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

国民のための大東亜戦争正統抄史78鈴木内閣の失策

【鈴木内閣の失策】


78、狂気の戦争指導班参謀

 昭和二十年三月二十七日の硫黄島陥落は、我が国から完全に継戦能力を奪い去ったと言っても過言ではない。アメリカ軍は、硫黄島に長距離制空戦闘機P―51を配備し、サイパンから発進するB―29の援護に当たらせた為、我が国はアメリカ軍による日本本土無差別爆撃に対抗する手段を失い、全都市は灰燼と化していった。

 四月一日、アメリカ軍は、第五十八機動部隊(空母十五隻基幹)、イギリス機動部隊(空母四隻基幹)、アメリカ第十軍(歩兵四個師団、海兵三個師団)十八万三千人を揃えて、日本列島と南方地域、マリアナ諸島と朝鮮半島支那大陸を繋ぐ東亜の戦略要衝、沖縄への上陸作戦を開始し、六日には戦艦大和を旗艦とする我が帝国海軍残存艦艇十隻が沖縄を救援すべく出撃したものの、翌日、アメリカ艦載機によって大和以下六隻が撃沈され失敗、もはや我が国の完全敗北は誰の目にも明らかであった。にも拘わらず陸軍中枢は強硬であった。

 小磯内閣が総辞職した四月五日、陸軍省軍務課(昭和二十年四月二十三日、参謀本部戦争指導班と合併)は、重臣会議終了後、鈴木貫太郎海軍大将が宮中に残ったという情報を得て、鈴木大将への大命降下を必至とみなし、次期内閣に対する要求として、大東亜戦争の完遂、陸海軍の統合、本土決戦の準備、対ソ施策の促進、戦争遂行妨害分子の絶滅を挙げ、鈴木新首相にこれ等を受諾せしめ、十五日には、陸軍憲兵隊が、昭和天皇に捧呈された(昭和二十年二月十四日)近衛上奏文を基本綱領として、敗戦革命を阻止し我が国を破滅から救出する為、米英との早期直接和平の実現を模索していた吉田茂、岩淵辰雄、殖田俊吉らを検挙した(日本バドリオ事件)。

 陸軍省軍務課が政府に要求した「対ソ施策」の具体案は、二十九日、軍務課高級課員の種村佐孝大佐によって作成され、翌日、参謀総長次長、陸軍大臣次官に具申されたのであるが、これは、「一億玉砕」の提唱者の一人である種村ばかりか、二・二六事件以降、陸軍省部を支配した統制派革新幕僚の正体および我が国の対支米英戦争の本質を赤裸々に示す貴重かつ重大な戦争指導資料なので、全文を紹介しよう(1)。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

四月二十八日(昭和二十年)

一、対支政謀略に関し曩に西浦大佐出張の節内示せるに全然同意にして万難を排し実行する旨来電あり、直ちに大陸指を発動せらるると共に次長次官より激励電を発せらる。

四月二十九日

一、天長佳節

祝意は敵撃滅の戦意となりて表わる。

一、独崩壊の報来る。宿命か

 之が処理に関し

 大詔喚発

 第三十一条の取扱

 対ソ施策の方法

 等につき書記官長軍務局長を中心にして協議するところあり。

四月三十日

 「今後採るべき対ソ施策に関する意見」並に之に基く対ソ施策要綱を起案、種村より大臣総長次長次官に意見を具申す。


今後の対ソ施策に対する意見 昭和二十年四月二十九日、種村佐孝大佐

一、要 旨

 今更ら申すべきに非ざるもソ連の対日動向は帝国の大東亜戦争遂行に致命的影響を及ぼしていることは大東亜戦争開始前以来の戦争指導上の最大関心事であった。而して此のソの対日動向を大東亜戦争の終末迄中立的態度を維持せしめ得れば戦争指導上満点で在る。今日迄日ソ中立条約に依存して帝国は日ソ間の関係を危げ乍も維持してきたのであるけれども今や日ソ中立条約破棄通告を受け且独崩壊したる現状に於ては遺憾乍ら日本独力に依りソの中立態度を維持せしめ得べき何等の根拠をも持っていない。此に帝国としては戦争指導上最大の不安焦慮に襲われ来った次第である。然し之は本質的に見れば既に開戦当時以来内在して居た問題で見様によっては如何ともし難い問題とも考えられる、其処で現下に於ける対ソ施策は恰も剣ケ峰に押された相撲取が打つ棄りに成功するか或いは押し切らるるか、大体九対一、全く捨身の戦法にあらざれば成功し難い本質的なものであることを深く期して九死に一生を得る積りで本施策実行に邁進しなくてはならない。若し成功しなかった場合は何とかなると考えても何ともならず其の時は押し切らるる許りで在る、今日に於ては其の様な幅はない。成功しなかった場合とは何ぞや、ソが日本と同調せず米と同調した場合で在る。ソが米と同調するとは何ぞや、日ソ交渉即対米交渉となり且帝国が求めて無条件降伏なるが如き事態に放り込まれた場合である。其処で今後の対ソ交渉に当っては其の目的と限度と方法とを確立して掛らなければ火遊びとなる危険極めて大である。況や対ソ交渉即世界終戦(対米屈伏)として自己の戦意を「カモフラージュ」して本交渉を行わんとする徒輩なきにしもあらず。故に厳に警戒を要する点である。

二、世界終戦より見たる所の対ソ施策      

 大凡今次戦争の終末を如何なる規模と様相に於て求めんとするやは戦争指導者の特に留意し念頭から去ってはならない点で在る。然らば戦史的に見て此の大戦争の終末はうやむやな形で持っていけるかどうか、最後迄頑張るだろうと考えた独逸は今日あの形で終末を見んとしつつある所を考えると帝国の今後の戦争指導には前途に極めて多難なるもの存することを予期せらる。飽く迄戦うと強く強調すればする程如何にして勝つべきやと云う方法論に於て戦争指導者は勿論国民上下を挙げて疑念を招来すべきは蓋し止むを得ない事情である。作戦必勝の道なき所に戦勝の光明などが存在しよう筈がない、況や作戦の必勝なきとき外交に依り情勢の展開を計らんとするが如きは屈伏への努力か然らずんば作戦必勝への補助手段かの何れかに存する。屈伏への努力であったなら相手が如何に強かろうと即座に出来る、然し条件は許されない、作戦必勝への補助手段であったならば其の成功の公算は作戦の難易に正比例する、其処でどうしても作戦必勝の道なしとすれば之が補助手段ある外交の道も存在しないと見るも過言ではあるまいか。

 其処でつらつら帝国現下の作戦の推移を考察するとき今後の対ソ施策に殆ど期待を懸け得られない様な気がする、若し期待を懸けるとしたならば終戦方策としての対ソ交渉に転移すべきではないかとの考えが起って来るのも無理からぬ点である。戦争指導者としても一応此の点に就いて考えて見る必要が有るのでは無いか、只作戦の推移如何に不拘今後の対ソ施策に成功の公算ありとすればソ米の対日及対支問題に関する離隔を求め得るや否やに存する。此の一点が九死に一生を得る所の対米英戦争完遂の為の対ソ施策なりと云うべきで在る。  

 然しあっさり考えて米英との戦争を中止して国体を護持し帝国本土を守って此の辺で戦争を終ろうと云う軽い考えを以て対ソ施策に臨んだら何うかと云う考えも起るであろうが、相手のある戦争で在る、そうは易々問屋は卸して呉れない、仮令一時対米終戦に関する外交交渉成功するも米は偽装停戦して我が戦意を喪失せしめたる後必ず大問題を吹掛けて来るに違いない。其の大問題とは国体の破壊以外の何物もあるまい、日本民族の根を止めるのは皇室を抹殺する以外に無いことは彼等も充分知って居る、其処で世界終戦の見地から見ても帝国の対ソ施策は深刻なる場面に追い込まるることは当然覚悟しなくてはならぬ。

 作戦も外交も戦争も之れ悉く最後の紙一重の所で勝敗を決する、今や帝国の戦争必勝への道は外交でもなく経済でもない、本土に於ける天皇に奉仕し奉る一億特攻の団結と之に依る作戦必勝への努力以外に何物も無い、対ソ施策に依って帝国の運命を打開しようなぞと思って之に多くの期待を仕様としたならば之が成功しなかった場合に於ける反作用を考うるとき其の危険極めて大である。

三、対ソ施策の目的

 以上の見地に基いて対ソ施策は飽く迄対米英戦争完遂の為の対ソ施策でなければならない、即ち対米英戦争完遂上日ソ戦絶対回避の為の施策でなければならない、此の点を明かにして対ソ施策に進むべきである、何処迄も米英の戦意を喪失せしむる迄戦うのである、戦わんが為に必要なる対ソ施策を行うのである、万一飽く迄戦うと云う決心の無き対ソ外交であったならば危険此上もないことは既に述べた通りで在る。

 而して本目的達成の為ソ側に確約せしむべき条件は日ソ同盟なりや、日ソ支同盟なりや、ソの対米厳正中立なりやの何れかに存す。

 然るに日ソ中立条約の破棄せられたる今日此中の何れをも確約せしむることは余程の神業であり余程の「チャンス」を掴まない限り困難なることと云わねばならぬ。

 此処に於て本目的達成の為如何なる形式にてソの対日態度を確約せしむべきやは本施策成否の鍵とも云うべきで在る、下手をするとソ連よりも背負投を食わされ取らるる物は皆取られて何にも得る処なく日ソ戦争に導入せらるる虞なきにしもあらずで在る。             

四、対ソ施策実施上我方の譲歩すべき条件

 前項目的達成の為必要なる条件は悉く之を停止し譲歩し開放し断念するに吝であってはいけない、換言すればソ側の言いなり放題になって眼を潰る、日清戦争後に於ける遼東半島を還付した悲壮なる決心に立換ったならば今日日本が満洲や遼東半島や或いは南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて日清戦争以前の態勢に立還り、明治御維新を昭和御維新によって再建するの覚悟を以て飽く迄日ソ戦を回避し対米英戦争完遂に邁進しなくてはならない、三千年悠久の歴史から考えて見たならば過去五十年の変化の如きは民族興亡の一波瀾として考えればよいではないかとあっさり考えられないでもない。然し要は帝国に対するソ側の要求程度如何に存する。若しソ側が以上の如き要求を提示し来つた場合はどうするか、其の時は既にもうソが米英と完全に手を繋いだ時で在る。日清戦争前の態勢にかえってもソと戦をしないか、真逆ソとしてはそんな無理は云うまいと思われるけれ共帝国としては此の肚を以て日ソ戦争を絶対に回避すべきであって其処迄肚を極めて対ソ交渉に移るべきである、移った以上ソ側の言い分を待って之に応ずると云う態度に出づるべきで在る、我より進んで以上の諸条件を展開することの適当ならざるは外交掛引上から云っても当然考慮せらるべき点である。

 次は支那に対してソ連が如何なる要求を出すであろうか、之は人の褌で相撲を取る様なものでソ側としては余り乗って来ない問題であると思う。

 一時支那の大陸を米英の勢力下に置くも現下に於てソ連の戦争指導としては止むを得ないであろうと考えられる、今度の戦争で支那問題の為にソ連が米英と戦をするだろうと考えることは先ず先ず無いと云うも過言ではあるまい、従て仮令帝国が延安の本質を確むることなく其の共産色なるを以て之を餌にしてソ連を支那方面に誘導し様と思っても中々難かしい問題ではあるまいか、只現下帝国が帝国軍の勢力下にある支那の占領地域を直ちに延安とソ連に引き渡し得たとしても苟くも民族意識の旺盛なる支那民衆が直ちに日本軍に代るにソ連を以てして満足するであろうかどうか、斯る場合結局延安はソ連にあらずして支那民衆本来の姿に返るのではないか、然らずんば表面飽く迄ソ連との関係は断切って進むのではあるまいか、何れでも宜しい、支那に於ける帝国軍の犠牲と支那民衆の犠牲とに於てソ連を此の方面に誘導し支那大陸に於て米ソを確執せしめ得れば帝国の為幸甚此の上もないことであろう。

 然る場合重慶の態度は固より延安と同調すべく、重慶と雖も支那民族あっての重慶であり抗日せんが為に米英に依存したのである。日本が支那大陸より撤退したる上は何を好んで米英と提携すべきであろうか、重慶亦支那民族本来の姿に還って延安と対外的には相提携するであろう。

 国内問題として彼等が対立すべきことあるべきは支那民族五千年の歴史から考えて見ても永久に絶えないであろう。

 若し斯くの如き情勢に於て米英が支那大陸に上陸し若くは支那大陸に盤踞するが如きことあらんか、其の不幸は支那事変以上支那民族の不幸であることは彼等が一番良く知って居る筈である、即ちソ連が乗って呉れさえすれば支那問題を中心とする日ソ支の結合提携は誠に面白い問題である、成否を超越して心掛くべき施策ではあるまいか。

 然し其の成功の公算たるや九対一以上困難であることを覚悟しなければならない。但し嘗て己の力の及ばざるにソ連を西亜に向わしめ或は印度に向わしめんとして日ソの提携を計らんとしたことと比較すれば情勢の推移とは申せ数歩を進めた現実的なる命題である。 

 又南方地域に於ても帝国軍の現存する限り戦争終末の形態に於てソ連に能う限りの発言権を与うべく協力するに吝かであってはならない。

五、対ソ施策実施要領

 以上を考察すると帝国の採るべき対ソ施策は誠に至難を極むると云うも過言ではない。従て之に当るべき人は天下の至宝を以てしなくてはならぬ、現在其の所の人を得ずとせば其の所を得た人を以て之に当てなくてはならない。

 何れにしろ帝国の決心次第である、帝国の決心なくして人を探さんとするも人来らず、又帝国の決心さえあればどんな者でも誠意さえあれば先方に通ずるとも言える、決心と人選両者併立し得た時に満点である。

 必要とあらば三顧の礼を以て之を迎えるに躊躇してはならない。

六、対ソ施策と対支施策との関係

 以上の見地に基いて今後採るべき帝国の対ソ施策と対支施策とは一貫性がなくてはならない。

 右の見地よりすれば対支政謀略の重点は白紙的に考うれば延安に施行せらるべきが当然であろう、然るに此度採られたる対支政謀略の重点は重慶に指向せられ延安は補助若くは牽制として定められて居る。

 然し重慶も延安も同じく支那民族である、然も重慶とは糸が続いて居り又続け得る目途がある、然し延安に対しては昨年七月延安政権と呼称することを定めたる当時に於てさえ何彼と言を左右にして之を実行する意志がなかったのが現地の空気である。

 従て現在迄に何等昨年発せられたる大陸指示(註、大本営陸軍部指示)に基く具体的措置をも掴んでいない。

 こんな海の者とも山の者とも判らないものに手を差し伸べても其の成功への見透しが全くつかない。

 然も重慶も延安も抗日と云う見地に於ては同一歩調であることは支那事変以来国共抗日合作の経緯によるも明かである。

 従て重慶との間に手が握れたならば延安との間にも手が握れる筈である。

 其処で先ず公算のある重慶に向って重点を指向せられ之との間に停戦を企図せられたのは当然のことである、此処に尚注意すべきことは対重慶交渉即対米交渉になる虞のあることは対ソ交渉即対米交渉となる虞と同然と云うことである。

 右の見地から此の度の大陸指示に於ても対重慶全面和平とすることなく「重慶との停戦に努む」とし支那民族の覚醒を促さんとした所以である、之を要するに今後採らんとする対ソ施策と此度発動せられたる対支施策との間に何等間然する処なしと云うべきである。

七、対ソ施策と今後の作戦準備との関連

 今後に於ける帝国の対ソ態度は絶対対ソ戦回避に存するを以て今更ら対ソ戦生起を前提として行うところの作戦準備は厳に反省を要すべし。即ち大陸全般に於ける作戦準備及兵力運用の方針は飽く迄対米英戦完遂を目標とし堅実不敗の地歩を確立するを主眼として施策せらるべく一方ソに対しては対日態度の悪化を防止し且今後採るべき対ソ施策の後拠支援たらしむべきものとす。

八、対ソ施策の転換

 以上の考慮に基きて捨身で発足した対ソ施策も途中に於て其の目的及対象を転換せざるを得なくなる場合のある事を認識する必要がある。其は即ちソの仲介若くは恫喝に依り世界終戦への導入を余儀なくせらるることである帝国としては対ソ施策に発足した以上否応なしに其の仲介若くは恫喝に従わざるを得ない。然らずんば日ソ戦を賭するより外はない。其では対ソ施策の目的を抹殺してしまう事になる。即ち間接的とは云え我が最も好まざる対米和平交渉に転換せざるを得ないのである。若し之を恐れるならば対ソ施策は行わざるに不如。対ソ施策を行わんとせば当然本事態の到ることを覚悟の上で発足しなければならない。此処に対ソ施策の困難性があり微妙なる因子が内存しある所以である。今や此の危険性に躊躇して居る時ではない。大東亜戦争完遂を目標に一途に対ソ施策に前進すべきであって若し本情況の如きが発生したならば大東亜戦争の宿命と覚悟するより外はあるまい。

 以上捨身の対ソ施策を発足せんとするに当り戦争指導の見地に於て政戦両略に亘り忌憚なき小官の信ずる所を述べ上司御決断の御参考に資す 。天長の佳節記す、独屈伏の報を聞きつつ。


対ソ外交交渉要綱 昭和二十年四月二十九日、種村佐孝大佐

方 針

 帝国は飽迄対米英戦争を完遂する為日ソ戦回避を絶対の条件とし東亜問題に関し日ソ支の結合を強化し止むを得ざる場合も大東亜戦争間ソの対日厳正中立を目標とし徹底せる施策の下速かに対ソ交渉を行う。

此の間情勢の推移に依り戦争終末に導入することあるを予期す。
 

要 領 

一、本施策は飽く迄対米戦を完遂するを本旨とし之が為帝国竝満支の犠牲に於てソを我が方に誘引し為し得る限り支那大陸に於ける米英ソの確執を激成するを主眼とす。

二、対ソ交渉に当り我が方の提案すべき腹案要旨左の如し。

 米英の世界侵略就中東亜に於ける野望に対し日ソ支は善隣友好互助提携相互不侵略の原則の下に強固に結合し以て相互の繁栄を図るを目的とし帝国はソ連邦に対し左記を確約す。

1、満洲国に於ける居住営業の自由。

2、支那に於けるソ連勢力特に延安政権の拡大強化要すれば其の希望する地域より日本軍の撤退。

3、南方占拠地域に於ける戦後所望する権益の譲渡。

4、満洲国及外蒙共和国は本施策に同調すること。

支那に於ける交渉の対象は延安政権とするも差支なきこと。之が為要すれば国民政府を解消せしむ。

三、ソにして前項交渉に当り強硬に要求するに於ては左記を容認することあり。

1、北鉄の譲渡

2、漁業条約の破棄

3、満洲国、満鉄、遼東半島、南樺太朝鮮等につきては解消若くは譲渡することあるも当時の情勢に依り之を定む。

四、対ソ交渉に当り其の仲介若くは恫喝に依り世界終戦への導入を強要せられたる場合に於ては之に応ずることあるを予期す、其の場合に於ける条件は別に定むるも概ね前諸項に準じ極力帝国の地位を有利ならしむるに努む。

五、世界情勢の転換就中独崩壊後に於ける欧州処理を中心とする米英ソの確執激化せるの機に投じ対ソ施策の急速なる進展を図るものとす。
 註、本施策は外務大臣自ら赴ソし若くは特派使節を派遣して乾坤一擲の断を下さんとするに在り。


 五月七日、遂にドイツが連合軍に無条件降伏し、ソ連がヤルタ密約(昭和二十年二月)に基づき対日参戦を果たすべく、ヨーロッパから満ソ国境付近に続々と大軍を集結させていたにも拘わらず、陸軍中枢の親ソ反米方針に押し切られた鈴木内閣は、十四日、対米英戦を継続しながらソ連に対し、我が国の譲歩と引き替えに、対日参戦防止、好意的中立、米英との和平仲介を要請することを決定してしまった。これは東アジアを共産化に導く愚劣な外交方針であった。            


 昭和二十年五月十一日、十二日及十四日に亘り最高戦争指導会議構成員(註、鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、及川軍令部総長)のみを以てせる会議に於て意見一致せる所左の如し。

 日ソ両国間の話合は戦局の進展に依り多大の影響を受くるのみならず、其の成否如何も之に由る所大なるべきも、現下日本が英米との間に国力を賭して戦いつつある間に於てソ連の参戦を見るが如きことあるに於ては帝国は其の死命を制せらるべきを以て、対英米戦争が如何なる様相を呈するにせよ帝国としては極力其の参戦防止に努むる必要あり。尚我方としては右参戦防止のみならず、進んでは其の好意的中立を獲得し、延いては戦争の終結に関し我が方に有利なる仲介を為さしむるを有利とするを以て、此等の目的を以て速に日ソ両国間に話合を開始するものとす。

 我方としてはソ連が今次対独戦争に戦捷を得たるは帝国が中立を維持せるに依るものなることを了得せしむると共に、将来ソ連が米国と対抗するに至るべき関係上日本に相当の国際的地位を保たしむるの有利なるを説き、且又日ソ支三国団結して英米に当たるの必要あるを説示し、以てソ連を前期諸目的に誘導するに努むべきもなるも、ソ連が対独戦争終了後其の国際的地位向上せりとの自覚並に近来帝国の国力著しく低下せりとの判断を有し居ること想像に難からざるを以て、其の要求大なるを覚悟する必要あり。

 而して右ソ連の慾求は「ポーツマス」条約の廃棄を主眼とすべき処、帝国としては極力其の軽減に努むべきは勿論なるも、該交渉を成立せしむる為には「ポーツマス」条約及日ソ基本条約を廃棄することとし結局の所、

(イ)南樺太の返還、
(ロ)漁業権の解消、
(ハ)津軽海峡の開放、
(ニ)北満に於ける諸鉄道の譲渡、
(ホ)内蒙に於けるソ連の勢力範囲、且
(ヘ)旅順、大連の租借を覚悟する必要あるべく場合に依りては千島北半を譲渡するも止むを得ざるべし。

 但し朝鮮は之を我方に留保することとし、南満洲に於ては之を中立地帯となす等出来得る限り満洲帝国の独立を維持することとし、尚支那に就ては日ソ支の共同体制を樹立すること最も望ましき所なり。    


(1)参謀本部編【敗戦の記録】三四三〜三五二頁。
 元中佐陸軍省兵務課員の幸村健一郎が執筆した防衛庁戦史叢書大本営陸軍部〈10〉一九四頁は、軍務局課員の種村大佐が総長大臣以下に具申した今後の対ソ施策に対する意見について、「この細部は省略するが、ソ連に対して大譲歩をして対ソ戦を絶対に回避し更にソを我が方に誘引せんとするものであった」とのみ記し、種村の狂気の戦争指導方針を糾弾せず、陸軍中央が、支那および東南アジアを英米帝国主義および彼等に支援される蒋介石政権より解放し、これらの地域を日本と共にソ連に提供して東亜共産主義社会を実現する所謂「砕氷船テーゼ」を遂行していたことを隠蔽しているばかりか、「憲兵隊が吉田茂を検挙した理由は、上層部の和平工作に一撃を加え、不退転の覚悟で本土決戦に臨もうとする陸軍の決意を表明する狙いがあったと思われる。また陸軍に対する中傷を黙過するに忍びなかったものであろう」と吉田検挙を正当化しているのである。

 日本の戦後、防衛庁自衛隊には、種村佐孝と同類の元陸軍革新将校が潜入し、戦史の編纂出版講義における「大本営発表」を継続すると共に、国内外の共産主義勢力に内通し、東亜新秩序の実現を画策していたであろうことは想像するに難くない。

 大日本帝国は、立憲自由主義議会制デモクラシーを開花させ、精強な陸海軍力を保有していたにも拘わらず、尾崎秀実を幕僚とする近衛内閣が出現するや忽ち破滅への道を歩み始め、わずか八年で明治維新以来蓄積してきた国富を失い焦土と化したのである。国家権力(司法、立法、行政、統帥、報道)に浸透する共産主義勢力の諜報謀略活動は、国家の死命を制する恐ろしい魔力を秘めている。GHQによって破壊されたスパイ防止法を始めとする防諜能力の再生強化を怠った戦後日本の経済繁栄は、いつ消えてもおかしくない風前の灯火、砂上の楼閣にすぎず、我が国の生命は累卵の危うきに瀕しているのである。



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

国民のための大東亜戦争正統抄史73〜77繆斌工作

【繆斌工作】

 
73、対重慶和平工作再燃

 昭和十九年十月十六日、我が国の大本営海軍部は、台湾沖航空戦(十月十二〜十五日)の戦果累計を「轟沈空母十、戦艦二、巡洋艦三、駆逐艦一、撃破空母二、戦艦一、巡洋艦四、艦種不明十一隻」と発表した。国民は久々の大戦果に歓喜してZ旗を掲げて戦勝を祝い、同日、小磯首相は、特別談話を発表し、

 「予期せる決戦はいよいよ開始せられた。官民一体勝って兜の緒を締めんことを誓いたい」

と獅子吼した。だが大本営海軍部の発表は、ガダルカナル戦以来、海軍が幾度となく繰り返してきた未熟な操縦員による戦果誤認であり、台湾南部を空襲したアメリカ第三十八機動部隊(空母十八隻基幹)が受けた実際の損害は、航空機八十九機、巡洋艦二隻大破に過ぎず、我が軍は、決戦戦力としてフィリピン、台湾、九州に配備していた航空部隊千二百五十一機の内、約八百機を撃破されてしまった。海軍は組織防衛を図り、大戦果が幻だったことに気付きながら、これを陸軍に知らせず、九州鹿野海軍飛行場に赴いた参謀本部情報部の堀栄三少佐が海軍の戦果誤認に気付き、

 「この成果は信用できない。いかに多くても二、三隻、それも空母かどうかも疑問」

と参謀本部に打電したにも拘わらず作戦課がこれを握りつぶしていまい、大本営陸海軍部は準備していたフィリピン決戦の戦場をルソン島からレイテ島に切り替えたのである(1)。

 我が海軍は残存戦力(水上艦艇六十三隻、潜水艦十三隻)を結集し、二十日、マニラの約六百キロ東南にあるレイテ島に上陸を開始したアメリカ軍の輸送船団と上陸支援艦隊を撃滅しようと捷一号作戦を発動したものの、フィリピン沖海戦(十月二十三〜二十七日)で大敗北を喫し、空母四、戦艦三、重巡六、軽巡三、駆逐艦八、潜水艦六隻を撃沈され、残存艦艇の大半も損傷し、ここに我が連合艦隊は事実上潰滅した。
 山下奉文大将率いる我が第十四方面軍は、大本営から制空海権なく補給なく準備なき無謀なレイテ島決戦を強要され、約二ヶ月の間に主力を喪失してしまい、十二月二十六日、アメリカ政府は、フィリピン・レイテ作戦が成功裡に終了したと発表し、翌年一月九日、アメリカ軍は、第十四方面軍の残存部隊が立て籠もるルソン島に上陸した。

 斯くしてフィリピン決戦による一撃和平実現の悲願を砕かれた小磯首相は、対重慶政府和平を端緒とする対米英和平の腹案実現に傾注していった。小磯の陸士以来の親友にして側近であった山県初男元大佐は、日支全面和平を模索する為、昭和十九年八月末から支那を旅して十月十二日帰京し、小磯首相に、

 「日本の施策が当を得ず治安は日に悪化し、賄賂横行して、人心はすでに日本と南京政府を離れ、延安、重慶に向いている。重慶和平は一日を争うが、それができないのは、在支那の日本の文武官の強硬派の為である。速に一大粛正を行うと共に南京政府の大改革を実行しなければならない」

と報告した。十六日、山県の帰国に続いて宇垣一成大将の一行が、一ヶ月余の支那戦線視察を終わり帰国した。一行は緒方竹虎国務相の腹心―三土路昌一朝日新聞副社長を含み、繆斌(石原莞爾の東亜連盟構想に共感し昭和十五年五月中国東亜連盟協会設立、南京政府立法院副院長のち考試院副院長)を始め、相当多数の人物と面談して日中和平を模索したが、山県同様これといった和平路線を開拓することはできず、帰国した宇垣大将は小磯首相に、

 「南京政府の存在は却って重慶政府に対する和平工作の妨害になっている」

と進言した(2)。小磯首相が緒方に探知させた重慶側の和平条件の輪郭は、

1、満洲処理問題は別個に協定す。
2、日本は支那から完全に撤兵す。
3、重慶政府は取り敢えず南京に留守府を設置し三ヶ月以内に南京に遷都す。
4、留守府は重慶系の人物を以て組織す。
5、現南京政府の要人は日本政府において収容す。
6、日本は米英と和を講ず。

という内容であった。だが南京政府の解消と要人の処遇は、「大東亜戦争完遂のための対支処理根本方針」(昭和十七年十二月二十一日)に基づく対支新方策が支那国民一般に感銘を与え、重慶政権の抗戦意識を減殺し支那事変を解決へ導くと確信(錯覚)していた重光葵外相と、支那派遣軍の強い反対が予想され、小磯首相も決しかねていた。だが十二月上旬になって、山県が和平路線の探索を依頼していた上海の相内重太郎(元満鉄社員)から「蒋介石に確実に繋がっている線が見つかった」との連絡が入った。

 「全面和平の内工作はすでに出来ている。一日も早く上海においでの上、実行に移されたい。時機が遅れては最早、成功の見込みがなくなる。」

 山県より連絡を受けた小磯首相は漸く決心し、十二月二十八日、山県を総理官邸に呼び、和平工作のための総理代表として上海に行くことを命じ、二通の紹介状を手渡した。一通は、昭和十九年十二月八日に陸軍省軍務局長から支那派遣軍参謀副長に転出した佐藤賢了少将宛、もう一通は、宇垣帰国と同時期に江亢虎(南京政府考試院院長)を日本に派遣し、日支全面和平につき我が国政府首脳と会談させた繆斌宛であった。

 昭和二十年一月四日、山県は、陸軍次官の柴山兼四郎中将を訪ね飛行機便乗の許可を得て、十八日朝、羽田より飛び立ち、同日夕方に上海郊外の江湾飛行場に到着し、相内の出迎えの受けた。当時延安に派遣されていたアメリカ顧問団デキシーミッションに所属していたジョン・エマーソン二等書記官によれば、奇妙なことに中国共産党は、山県の行動を彼が上海に到着する前に知っていた(3)。


(1)保坂正康【瀬島龍三】一三〇〜一五三頁、堀栄三【大本営参謀の情報戦記】一五九〜一九〇頁。
(2)【終戦工作の記録上】三六七頁、畑俊六日誌昭和十九年十一月五日の条。
(3)横山銕三【繆斌工作成らず】八十三頁。


74、蒋介石と東亜連盟運動

 山県は上海に三週間滞在し、その間南京の派遣軍司令部を訪ね、佐藤少将に面会を求めた。だが現れた駐支大使館付武官兼参謀副長の今井武夫少将に面会を拒絶され、憤慨した山県は、南京から直ぐ上海に引き返し、一月下旬から、相内や、繆斌と最も親しかった田村真作(元朝日新聞北京支局員、東亜連盟運動に従事)の協力を得、支那側の東亜連盟運動の拠点となっていた旧フランス租界エマニュア路の繆斌邸にて、重慶側の承認を得た繆斌と密議し、日支和平の仮協定に到達したのであった。

 二月二日、上海市政府顧問の船津辰一郎が、昵懇の間柄であった支那派遣軍総司令官の岡村寧次大将を訪ね、上海在住の遠良(元北京市長)の所に岡村大将宛の蒋介石総統の伝言が来ているので是非近日上海に来てほしい、と要請した。十四日、岡村大将が上海に赴き、船津立会の下、遠良と面談したところ、重慶から帰還した彼の連絡者に託された次の蒋介石の言葉を伝えられた(1)。

 「中国はアメリカと離れることは不可能だが、予は、中日両国の提携が大東亜の為に緊要無二なことを認めている。故に適時日本の為に発言する用意がある。日本を救う者は予あるのみ、然るに日本人は予の真意を誤っているのは遺憾である。お互い行き過ぎないように致したし。」

 蒋介石は、昭和十二年七月十七日廬山会議における「最後の関頭」演説以来、我が国の軍事外交政策、政府声明を非難する演説を度々行った。だが満洲事変以来の石原莞爾の盟友、板垣征四郎総参謀長や堀場一雄、辻政信参謀ら支那派遣軍総司令部が石原構想を容れて「派遣軍将兵に告ぐ」(昭和十五年四月二十九日)を発表、支那事変解決の目標を「満洲建国の精神を想起し道義東亜連盟の結成にあり」と主張し(2)、支那における東亜連盟運動を勃興させた際、重慶政権は「石原莞爾の東亜連盟の思想と辻参謀の日本将士に告ぐの二つには太刀打ち出来ぬ」と沈黙を守ったのである(3)。

 蒋介石は、満洲国建国後、一貫して東亜連盟構想に基づく日満支の提携を主張し、日蒋間の早期講和を訴えて続けていた石原莞爾と東亜連盟運動の民間志士を信頼しており、蒋介石自身、彼等に応えて日支、日米和平の実現を推進する意思のあることを岡村大将に示唆し、繆斌工作への協力を暗に求めてきたのであった。だが岡村大将は、永く戦地に居て落ち目になっている内地の実情を知らず、「蒋介石は生意気なことを言ってきた」と感じただけで返答も出さず、敗戦直後に敗軍の将として蒋介石以下中華民国首脳と面談するに及んで漸く蒋介石の伝言が彼の本音であったことを知ったのである…。


(1)【岡村寧次大将資料】二一八頁。
(2)【現代史資料日中戦争2】六九三頁。
(3)【木戸幸一関係文書】六〇五頁、昭和十八年十二月六日木戸幸一宛加納久朗「重慶情報」
 この中で、加納は木戸に「蒋と共産党とは仲が悪い。廬溝橋事件も共産軍が停戦中の日支両国兵の中間に夜間這入り込んで双方に発砲したから起こったということは最早重慶でもよく知れ渡って居る。いくら蒋が日本と戦争を避けんとしても共産軍の若い士官はどうしても承知しなかった。共産軍は日本に負けても構わぬ、これを打たねばならんと云う考えでやったのである」と報告した。


75、繆斌の来日

 二月二十日、山県は帰京し、小磯首相に、繆斌の和平交渉期限は三月末迄であること、繆斌機関一行は無電機を持参すること等、和平工作実行案を説明し、夕食を共にしながら夜遅くまで協議した。ここに至り小磯首相は、遂に繆斌招請を決意し、柴山次官に「繆斌にその無電機及び通信手、暗号翻訳並びに重慶からの使者を帯同して上京せしめること」を命じたのであった。

 三月十六日、蒋介石の密命を帯びた繆斌は、相内重太郎と共に、アメリカ軍B―29の無差別爆撃を受けて焦土と化した羽田に降り立ち、十八日、まず防衛総司令官東久邇宮稔彦王と会談し、日支全面和平実現に向けて協力を求めた。

東久邇宮「三つのことを最初に聞いておきたい。」
繆斌「どういうことですか。」
東久邇宮「第一に重慶では、日本の天皇を認めるか、どうか」
繆斌「認めます。」
東久邇宮「第二に何故に日本と和平するのか。」
繆斌「中国は日本がこのまま亡び去ることを決して望んでいない。中国の自衛のためにも、日本の存在を必要とする。日本は亡びる前に米国と和平してもらいたい。日本は中国の防波堤であり、いま和平が出来れば、ソ連の進出を未然に防ぐことが出来る。」
東久邇宮「小磯総理の招請で来たのに、何故に最初に私に会うことを欲したか。」
繆斌「日本では誰も信用できない。頼りになるのはただ天皇御一人である。しかし直接お会い出来ないから、殿下によって雑音なしに自分の考えを取りついでもらいたいと考えた。」

 また戦局について繆斌は、「米軍は支那大陸などに上陸することなく、フィリピン占領後、必ず沖縄に上陸するから、警戒しなければならない」と透徹した警告を発した。東久邇宮稔彦王は、「率直に胸襟を開いて話し合える人物」であると繆斌を信頼し、

 「日中全面和平はひとり日中両国の平和を確立するだけでなく、これを基にして蒋介石が音頭をとって、現在の世界大戦をやめさせ、世界平和までもって行きたい」

と提案して彼を感激させ、即日小磯首相に、繆斌工作に全幅の努力を傾けるよう要請し、繆斌は、十八日夜に小磯首相と緒方竹虎国務相、十九日夜には柴山次官と会談した。しかし繆斌の後を追って谷正之駐支大使と共に上京した今井少将が、帝国ホテルに陣取り繆斌工作の妨害に狂奔し、陸軍中枢も極めて冷淡であった。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

三月二十日(昭和二十年)

 本日突然内閣より重慶工作に関し、明日最高会議を開催致度との提案あり。

目下「繆斌」来京中なるを以て、総理が「繆斌」の意見を聴取したる結果思い付きたるものと判断せらる。

 繆斌の和平思想左の如し。

(イ)国民政府抹殺 
(ロ)即時無条件撤兵
(ハ)最近は重慶を仲介とする日米和平へ変化しあり

 陸軍としては斯かる工作は相手にせざる方針なり。


76、死せる尾崎秀実、生ける日本政府を欺く

 翌二十一日、小磯首相は、繆斌によってもたらされた和平条件に基づく中日全面和平実行案を最高戦争指導会議に提案した(1)。

中日全面和平実行案

 中日全面和平の打開は、現状の政治対立、軍事対立、経済対立を解消するを原則とする。実行案次の如し。

第一、 南京政府を即時解消すること。南京政府側に於て自発的に解消声明を行うこと。

第二、南京政府解消と同時に重慶側の意志に基く者及び重慶側に於て承認する民間有力者を以て民意に依る「留守府」(中華民国国民政府南京留守府)政権を組織す。南京政府の解消発表と同時に、各地方政府、各軍隊、各民衆団体より××氏擁護の通電を一斉に発し「直ちに××氏が南京に留守して主政され民意を代表して全面和平を達せられたき」旨の懇請をなす。留守府成立と同時に留守府は重慶中央政府に対し「留守府に於て暫時の間地方秩序を維持しているから、中央政府は速かに南京に還都され度き」旨の通電を発す。留守府は同時にまた日本に対し「全面和平のため速かに停戦撤兵されんことを希望する」旨の通電を発す。

第三、日本政府及び重慶政府は、南京留守府政権成立と同時に同政権を通じ相互に停戦撤兵の交渉を開始す。留守府政権成立後、直ちに停戦及び撤兵に関し日華双方より軍事代表を出し紳士協定を秘密裡に結約す。停戦に関する正式発表は、重慶中央政府の南京還都と同時に行う。

右、南京解消と停戦撤兵の二眼点を認め得べしとの結論に到達せば、総理の委任状を所持する専使を重慶に特派するか又は双方の専使粤門等適当なる地点に会合することとし、蒋介石の真意を直接確めるの要あるべし。重慶側の誠意を危んで躊躇すべきにあらざると共に、事の重要性に鑑み直接蒋介石の真意を確めることなくして交渉に入り得ざること勿論なり。

小磯「重慶工作を積極的に進めるために緒方国務相と相談の上繆斌を東京に招くことにした。外相、陸海両相の意見を聞き何れも気乗りではなかったが、繆斌は、以前この会議において意見があった如く重慶の廻し者と思われる彼を利用して重慶工作を進めることは一案と思い、とにかく東京に招致することに決し、繆斌は相内を同伴して着京した。

 彼は予期に反し無電機及び無電技術家を随伴しておらず、よって彼をして東京より直接重慶と通信せしめ重慶の意向を知る手段がない。もしこれがため繆斌を帰せば彼を取り逃がすやも知れずむしろ便宜を供与して上海より無電機及び無電技術家を呼び寄せる必要がある。繆斌の相手は重慶の戴笠ということで、重慶との間に予備工作が進捗するにおいては重慶及び我が方の代表者と或いは粤門等に会合し話を纏めることも一案である。緒方国務相は直接重慶に乗り込みて差し支えなしという。同相は繆斌とすでに既に会見を終了したが、繆斌の意見は、南京政府の取消、日本側の一方的撤兵着手を希望し、これによって重慶側との話合を進め得る旨を述べており、これが果たして重慶の意志なりや確かめ得るにおいては交渉を進め得べしと考える。よって今日配布の中日全面和平実行案について審議を進めたい。」
杉山「元来重慶の廻し者と考えられる者が如何なる資格で来たか、確かめたのか。」
重光「戦局今日の段階において何等か外交的に打開の道なきやについては外務当局として日夜苦慮している。特に支那問題については重慶工作の如きは当然慎重に考究すべきである。今日の議題に関しては事余りに重大であり自分は外相の立場を明確にしておきたい。

 元来繆斌はむしろ重慶の廻し者と看られていることは既に本会議に於いても一致した意見であり、自分は繆斌を東京に招くことに反対であり、約一ヶ月前首相より繆斌招致の意向を承知して、これは考えものと思うが陸海両相の意見をも徴してみられたらよかろう自分も考究し置く、と答えた。

 爾来今日の会合に至るまで本件に付何等の協議にも与り居らず従って繆斌承知の問題は自分は何等の関係を有せざることを明にしたい。のみならず右は今日の重大なる戦局にも鑑み輔弼の責任上よりも明瞭にして置くことを要すると信ずる。

 元来重慶工作は御承知の通り首相が外相と協議し、国民政府軍事顧問を活用し南京政府を通じ行うことに最高会議にて決定していた。このことは既に内奏せられたものと心得ている。」  
小磯「繆斌招致の目的は重慶に関して情報をとる為であり、情報蒐集に付いては最高会議においてこれを図り別に異論は無かったはずだ。」 
米内「相手の何人なるやを十分突き止めずに仮令情報蒐集にせよ一国の首相が重要なる会談をなすは如何なものか、会談の結果先方は有力な情報を得て、我が方にとっては危険この上もない。」 

 重光外相は更に、

 「元来繆斌は、重慶側と密接なる連絡を有しながら北支においては新民会を操り、後中央においては立法院副院長となり日本側一部の諒解を得て重慶側と連絡していた。汪精衛はこれを知り彼及び彼の一派を捕縛処刑せんとしたが、後日本側の要請により彼を許し考試院副院長に左遷し体裁を繕った。繆斌及びその系統の者は南京政府にとっては異分子にして南京政府の倒壊を目的とし、上海辺りにおいてしきりにその運動を行った。上海における日本人が彼らの情報に惑わされ反南京気分となっている」

と述べて、谷大使の電文を読み上げ、繆斌を「和平ブローカー」と非難し、我が国によって正式に承認された南京政府の解消に強く反対した為、会議は纏まらず、小磯首相は次回続行を決めて退席した。しかし会議終了後、外相、陸相、海相は、

 「本件は余りに無謀の挙にして会議続行の要なし」

と決定してしまった。

 嗚呼、近衛内閣が国民政府(蒋介石)を対手とせず抹殺すると宣言し、汪兆銘を首班とする南京政府を樹立承認したこと自体、支那に対する信義にもとる行為であるにも拘わらず、これを取り消さずに南京政府に対する信義を重んじる倒錯を犯してハル・ノートを拒絶し、対米英開戦を決断した東條内閣に続いて、彼等もまた、尾崎秀実、西園寺公一、犬養健、松本重治等によって樹立された南京政府の正体―日支全面和平を遮断する障害物―に気づかず、名誉ある講和の機会を逃し、我が国を敗北へ導いたのであった。

 自分の言葉を実践し(信)、自分の持てる力を尽くすこと(義)は、人間の美徳であることには違いない。しかしながら、

 「信義を尽さむと思はは始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし、朧気なる事仮初に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし、始に能々事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷いて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠なからぬものを深く警めてやはあるへき」(明治天皇の軍人勅諭)

という警句の真髄は、我が国の政府軍部首脳には正しく理解されていなかったのである…。

 昭和十九年十一月七日―スターリンが「日本が真珠湾、マレーを攻撃したのは、侵略国としての日本が平和愛好政策を堅持せる米英両国よりも、戦争に対し完全な準備を整えていたことを示すものだ」という厚顔無恥な非難を日本に浴びせた第二十七回革命記念日、彼の命令に従い支那事変を拡大長期化させ我が国を対米英戦へ誘導した尾崎秀実、リヒャルト・ゾルゲは死刑に処された。

 だが尾崎が死んでも、「日本には依然として支那問題を局部的にのみ取扱わんとする見解が存在している。これは世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない性質のものであると観念すべきものであろう」という呪いの言葉を我が国に吐いた彼の謀略工作は生き続け、戦争末期においてもなお重光ら政府関係者を欺き、東亜連盟運動者の前に立ち塞がり、日中間の和平実現を妨害したのであった・・・。


(1)【終戦工作の記録上】四〇五〜四一七頁。


77、桜散る

 二十四日午前九時、繆斌は東久邇宮稔彦王を訪ね、「小磯首相と柴山次官と会談したが政府も軍も全く煮え切らない」と深い失望を訴えたが、この日の午後、小磯首相は、内閣改造を行い和平工作を促進する為、重光を更迭し後任に元駐英大使、吉田茂を起用すべく、木戸内大臣と会談した。

小磯「内閣の進退について先日お話したが、このままでは中々持って行けないので、大改造が必要と思う。改造となると、必ずしも進退を必要としない人に考えて貰わねばならないので、奏請の責任上、自分も辞表をださねばならないと思う。勿論大命再降下等を考えている意味ではないが…。」
木戸「改造は困難でしょう。その理由は例えば閣僚中に大達内相の如き、必ずしも好意的しな態度を持たないものもあり、これに失敗するときは野垂れ死することとなるので、よほど注意を要するでしょう。」
小磯「後任を色々考えてみるに、忠誠心において真に信頼し得る人を物色することは頗る難しいと思う。」
木戸「これは中々の難題なるが、要するに次に来るものがバドリオ的なものにては困ると云うことでしょう。この点は東条大将も退任に当り心配せられたるところですが、それは吾々も及ばずながら考えています。内閣の進退については、今暫く二人だけで、他に話さず、熟慮するように。」

 次いで二十七日、今度は近衛文麿が木戸を訪ね、小磯が近衛に内閣改造について協力を依頼してきたことや、繆斌が「東久邇宮稔彦王が内閣を組閣すれば重慶政府が直接和平の手を差し出す」と話しており、今度は支那事変の解決は東久邇宮稔彦王の他なしとして王自身強く決意していると伝わっていること、そして近衛の政治幕僚の佐々弘雄が「仮に東久邇宮内閣が出来れば、重慶に対する工作が不成功に終るとも、粛軍は出来るだろう」と観測していること等を告げた。

 木戸は驚き、「これは寸刻を争う重大事」と、急遽東久邇宮邸に伺候し、東久邇宮稔彦王に自重を求め、繆斌工作に反対したのであった。だが繆斌は日支和平をあきらめず、三十日、駐日南京政府大使館から南京、上海を経て重慶政府に交渉期限延長を打電し、二日延長の許可を得、さらに東亜連盟運動の指導者である石原莞爾に助力を懇請した。

 一方、小磯の命を受けた緒方国務相は、三十一日米内海相、四月一日柴山次官にそれぞれ繆斌工作に協力を求めたが、両者に冷たく拒否されてしまった。緒方国務相は小磯首相に、

 「事ここに至っては事情を聖聴に達して善処さるべきではないか」

と進言、小磯首相は「一切を申し上げて、もしお許しにならなければ、やめるほかはない」と意を決し、二日、昭和天皇に繆斌工作を単独上奏した。だが昭和天皇は、すでに他の大臣から反対意見を内奏されていた為、小磯首相に、「深入りしない様にせよ」と仰り、小磯は「如何にも惜しい」と言葉を返して宮中を退出し、緒方に落胆した声で語った。

 「もう毒がまわっていて駄目だった」

 陸軍から追われ山形県鶴岡市に隠棲していた石原莞爾は、四月一日夜、繆斌から助力要請の書簡を受け取るや、翌二日汽車で東京に向かい、三日から四日にかけて、繆斌と感激の初対面を果たし、彼と枕を並べて日中の運命と世界の大勢とを夜の白むまで語り明かし、次いで阿南航空総監、東久邇宮稔彦王と会談し、繆斌工作に最後の努力を傾けた。

 だが五日、小磯内閣は閣内不一致を理由に総辞職してしまい、繆斌は政府と軍より即時退京を命じられた。繆斌は「使命は失敗に終わってもせめて日本の桜の花盛りを見て帰りたい」と希望し、東久邇宮稔彦王の庇護により日本を象徴する桜散る四月末まで滞京することを許され、上海に帰還した。彼は、

 「昨年秋朝日美土路氏緒方総裁等の関係より小磯首相の代理として山県大佐態々来滬し重慶打診の依頼ありたるに付蒋介石(直接連絡先は何応欽の如し)と連絡の上其諒解を得て三月十六日より四月二十六日迄四十日同東京に滞在重慶側の条件として(一)南京政府の解消(二)停戦撤兵(三)英米との和平斡旋を申出種々折衝せるも陸軍側及重光外相の反対に遭い不成功に終れり。然し自分は東久邇宮殿下に拝謁し御下問に奉答せる処本件工作に関する御嘉賞の御言葉を頂き蒋介石は世界平和領導者の一人なりと迄言われたる程にて恐懼し居る次第にて斯の如き御英邁なる殿下あらせらるる以上本件工作に関しては未だ失望し居らず。」

と重慶特務機関の上海地区責任者、陳長風中将に日本の要人との会談を委細報告し、なお和平実現の希望を捨てなかったものの、その後日本からの新たな連絡はなく、アメリカ軍統合参謀本部が陸海空軍の各参謀本部に対して日本本土上陸作戦開始の第一号指令を発令した五月二十五日、重慶政権は陳長風中将に「所謂和平撤兵の交渉を止めよ」と打電、東亜連盟の理想に燃えた日中両国人の最後の和平努力も空しく、繆斌工作は終止符を打たれたのであった。

 昭和二十年二月、瀬見温泉で開かれた同志の東北地区青年大会に出席した後の帰途、石原莞爾は、駅から出征兵士を送るバンザイの声と、勝って来るぞと勇ましく、という軍歌を聞き、

 「ああ、泣いている、泣いている、軍歌が泣いている」

と静かに呟いたという…(1)。

 日本の敗戦を予見していた石原には、あたかも軍歌が、必ず死に逝く自身の運命に気づかないまま勝利を信じて戦地に向かう兵士の哀れな姿を悲しみ、泣いているように聞こえたのであろう…。そして満洲国建国後、世界の大勢と全戦局の帰趨とを正確無比に見透しながら、彼が強行した満洲事変を導火線として勃発した戦乱から日中両国を救い出せず、誰よりも激しい苦悶と焦燥とに心身を苛まれ、眠れぬ夜はわずかに読経にその心を静める日々を過ごしていた石原自身、昭和二十年八月十五日、昭和天皇の玉音放送に接して、ただただ恐懼断腸の思いで暗涙にむせび泣き、暗然として長嘆したのであった(2)。

 「信ずべからざるを信じ、信ずべきを信ぜず、遂に国を亡ぼした。何という愚かな事か。蒋総統に米英との和平仲介を頼むのが筋であり、総統は繆斌を密使として渡日させていたのに・・・。外務と軍が繆斌工作に反対して潰してしまった。これほど残念なことは無い。あれが最後の機会であったが・・・」


(1)青江舜二郎【石原莞爾】四五七頁。
(2)横山【繆斌工作成らず】一二八頁。



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

国民のための大東亜戦争正統抄史70〜72陸軍統制派の陰謀

【陸軍統制派の陰謀】


70、連合軍の大反攻

 一九四二年十一月八日、米英軍は、エジプトのエル・アラメインで東進するドイツ・ロンメル機甲軍団と死闘を繰り返していたイギリス第八軍の反攻作戦に呼応し、モロッコ(スペイン領)のカサブランカ、アルジェリア(フランス領)のオランに上陸、独伊のアフリカ方面軍を挟撃することに成功し、翌四十三年五月十三日、チュニスに追いつめられた独伊両軍約二十五万人が連合軍に降伏し、北アフリカ戦線は連合軍の勝利に終わった。

 イギリスを窮地から救い出したアメリカ軍は北アフリカ戦線から太平洋方面に戦力を抽出し、六月三十日、「カートホイール」作戦を発動、ソロモン諸島レンドバ、東部ニューギニア島ナッソウ湾より本格的反攻作戦を開始し、慢性的な補給不足に苦しんでいたラバウルに司令部を置く我が第八方面軍(ソロモン諸島の第十七軍、東部ニューギニアの第十八軍)を各所で撃破した。

 勢いに乗るアメリカ軍は、十一月二十四日、中部太平洋における日本軍の最東端基地があるギルバート諸島タラワ・マキンを占領、翌四十四年二月四日にはマーシャル諸島を制圧、続いて十七日、日本海軍の根拠地カロリン諸島のトラック島を空襲して無力化し、そして二十九日、東部ニューギニアの北方に位置するアドミラルティ群島を占領したのである。これは、連合軍による北部ニューギニア、ダンピール海峡の制圧と、日本本土とラバウル、ニューブリテン島と東部ニューギニアの遮断を意味した。

 第八方面軍は、完全に補給線を遮断され、約十六万七千人の日本軍将兵がラバウル、ソロモンに孤立して死兵と化し、ブーゲンビル島の我が第十七軍が、兵力約一万人を動員して「決死全員玉砕」の決意の下にトロキナ反攻作戦を敢行し、南東太平洋作戦は終わりを告げたのであった。 

 御前会議(昭和十八年九月三十日)が絶対国防圏を設定した後も、我が軍はこれを第一線ではなく後方支援線と考える海軍の主導により、攻勢終末点を越えた南東太平洋島嶼群に分散配置されていた為に、自由に攻撃の目標と時期とを選択し、戦力を集中するアメリカ軍に各個撃破され、総崩れとなってしまったのである。

 これに対し我が国では、東條首相が戦局の挽回を図るべく、陸相だけでなく参謀総長をも兼務し、さらに嶋田海相に軍令部総長を兼務させ、陸海軍戦略の一致、国務と統帥の一致を図ると共に、昭和十九年二月二十五日、ようやく中部太平洋方面防備に責任を持つ第三十一軍を編成し、十月の完成を目標として中部太平洋島嶼の要塞化に着手し、続いて三月二十二日、南西諸島方面の防衛強化の為に第三十二軍を創設した。
 石原莞爾の警告から約一年六ヶ月後の余りにも遅すぎる措置であったが、五月二日、宮中で開かれた「当面の作戦指導方針に関する陸海軍統帥部御前研究」では、両統帥部を代表して、嶋田軍令部総長は、

 「敵がマリアナ、小笠原を攻略するには相当の犠牲を覚悟する必要があるのみならず、これが確保は容易ならず、我が基地航空兵力を減殺し、これが弱化を図った後、企図する算大なり」

と述べ、続いて後宮参謀(高級)次長は、海軍側の質問に対して、トラック、西部ニューギニアの防備には自信がないが、

 「小笠原、マリアナ地区においては、すでに相当の守備兵力を配置しあり、特に五月中旬以降輸送予定の第四十三師団を上陸せしめ得たる場合においては、敵の攻略企図に対し自信を有す」

と明答し、東條参謀総長も「サイパンは難攻不落である」と海軍側に豪語した。

 ところがアメリカ軍の進撃速度は我が陸海軍首脳の予想をはるかに越えていた。マーシャル攻略、トラック、マリアナ空襲によって日本軍基地航空隊戦力の予想外の弱体化を知ったアメリカ軍統合参謀本部は、三月十一日、米英中首脳および幕僚陣によるカイロ会談(一九四三年十一月二十二〜二十六日)が決定した「日本総合打倒計画」の日程表を約四ヶ月繰り上げて、六月にマリアナ諸島、九月にパラオ諸島を攻略することを決定していたのである。

 そして連合軍がノルマンディーに上陸し、アイゼンハワー総司令官が第二戦線の形成を声明した六月六日、第五十八機動部隊と第五水陸両用軍団(海兵二個師団、歩兵一個師団、砲兵部隊その他約六万七千人)から成るアメリカ軍マリアナ攻略部隊がマーシャル諸島のメジュロ、エニウェクト環礁から出撃し、十五日、サイパンへの上陸作戦を開始したのである。

 我が連合艦隊司令長官の豊田副武大将は、フィリピン・ギマラス島を出撃した小沢治三郎中将の率いる第一機動部隊に「連合艦隊はマリアナ方面来攻の敵機動部隊撃滅次いで攻略部隊を殲滅せんとす」と打電し、あ号作戦決戦発動を命令した。

 連合艦隊が空母搭載機までラバウルに揚げて「イ号」航空撃滅戦を発動し失敗した前年四月以来、約一年をかけて再建された我が海軍機動部隊は、空母九、戦艦七、重巡十一、軽巡三、駆逐艦三十二、補助艦艇十一、合計七十三隻を有していたが、肝心の艦載機四百三十九機の操縦員は、発着艦もままならないほど未熟で、小沢機動部隊の戦力は形骸をとどめているだけであり、質量共に、空母十五、戦艦七、重巡三、軽巡六、防空巡四、駆逐艦五十八、合計九十三隻、艦載機九百三機を揃え、高性能対空レーダーとVT近接信管付の対空機銃弾を装備するアメリカ海軍第五十八機動部隊の相手ではなかった。   

 果たして十九日、小沢機動部隊は、敵機動部隊を捕捉、先制航空攻撃を行ったが、艦載機三百九十五機を失い、さらに空母三隻を敵の潜水艦と艦載機によって撃沈され、大敗北を喫したのである。我が国に残された稼働可能な第一線空母はわずか四隻、第一線航空機は陸海軍合わせて約二千五百機(稼働機千五百機)に過ぎず、マリアナ諸島付近の制空海権を敵に奪われた我が軍がサイパンに増援部隊を派遣することは不可能であり、二十四日、我が陸海軍は協議の上、あ号作戦の中止とサイパンの放棄を決定した。

 前日、参謀本部戦争指導班は、あ号作戦の失敗について、次のように総括していた。

 「去る二月トラック来攻に依り我が統帥部は愕然とせり。第二十班は此の前後亜欧全般の情勢を洞察し、昨年九月御決定の戦争指導大綱に根本的検討を加え昭和十九年末を目途とする戦争指導方策を策定中の処三月十五日第三案を得、本案を以て上司に意見を具申すべく、先ず松谷大佐より第一部長(註、真田穣一郎)、第二課長(註、服部卓四郎)、橋本少佐より第二課瀬島少佐の意見を夫々求む、大体異存なし、但し第一部長は趣旨同意なるも、之を印刷に附して残すは不可なりとの意見なり、此処に於て松谷大佐は秦次長に本案を説明す、次長は内容の重大性に鑑み、今本案を高級次長、総長に提出するも其の飛躍の困難性を見透し暫く時期を待つべく、絶対に外部に出さざる如く命ぜり、斯くして陸海軍首脳の中部太平洋方面の重要性に関する根本的施策の思想統一は不十分なる儘にて両作戦課間にあ号作戦計画を樹立せられたり、あ号失敗の原因は此処に存す、即ち皇国の浮沈を決すべき重大作戦を何等戦争指導的に検討せられざりし点に存す。結果的に見て陸軍のあ号作戦に関する援助は既に実施せる以上には困難なりしならんも、其の思想に於て協力一致の真情を得たらんには斯くの如き悲惨なる結果に陥らざるべし。」(大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌)

 我が第十五軍と捕虜となった英軍インド兵から編成されたチャンドラボース率いるインド国民軍が、ビルマインド国境付近にまたがるチンドウィン川とアラカン山系を越え、インパールとコヒマに向かって進撃を開始した昭和十九年三月十五日、参謀本部戦争指導班は、従来の研究をまとめ、「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察(第三案)」という戦争指導方針を作成した(1)。この中で戦争指導班は、

 「帝国が大内戦作戦の妙味を発揮しつつ長期戦を完遂せんが為には敵主力の来攻に先だち絶対国防圏を確立すると共に圏内に於ける海、空、陸の機動を自由ならしむべき準備を完整し置くを必要としたるも、今や是等作戦準備の未完に乗じ、我が国防圏中致命的要衝にして而も最も弱点とする中部太平洋方面に対し敵の真面目なる決戦的反攻を予期し得るに至れり。

 而して中部太平洋方面の弱点は地勢学上孤島の連鎖にして最早地域的縦深性無く、且敵の絶対優勢なる海空軍力の集中発揮最も容易なると共にこの思想を以てしては之が確保を期し難く、更に又国力との調節を保持するの限度に於ける手当の程度を以てする確保希望は敵との相対的実力に於て過望と称すべく、茲に帝国は好むと好まざるとに拘らず逐次戦力を投入して之が増強を期するか或は徹底的の戦力を結集して一挙に敵と雌雄を決するの已むなき事態に立ち至るものと観察せらる」

と判定し、

1.中部太平洋方面に於ける敵の早期決戦企図に対し現在の手当のみを以てしては持久作戦遂行の準備と確算なし。

2.中部太平洋方面の国防要衝を放棄して帝国の組織ある戦争完遂を望み得ず。

3.国力、戦力は本年七、八月の候以降如何に努力するも逐次低下の大勢を防止するを得ず、国力、「ヂリ」貧に陥るは時機の問題なり。

4.中部太平洋の国防圏を突破せられたる場合国民の士気及戦意を昂揚するは至難なり殊に威令下諸邦の戦争協力確保の自信なし。

5.独の様相も亦概ね帝国に同じく六―七月の候を予期せらるる第二戦線の撃摧に成功せざれば逐次「ヂリ」貧に陥るべし。

6.ソの対日中立維持への期待度は日独の戦勢好転せざる限り長くも概ね本年末を限度とすべし。  

7.世界各国共概ね戦争終末期の様相を呈せんとしつつありて、一方面に於ける戦勢の均衡破綻は世界戦政局の一大転機たるの公算大なり。

という理由を挙げて、

 「帝国は独と策応して今年内に戦局の大勢を決するを目途とし、主敵米に対し概ね夏秋の候を期して決戦を企図するを要す」

と判断し、「武力決勝の戦争全局に及ぼす効果」として、

(イ)有利なる場合は本年夏秋の候日独共に敵の反攻に決勝を博し、以てソを日独側に抱込み、次で英米側より妥協和平を申込むが如き事態の進展を期す、斯かる場合には敵海空軍(独にありては米、英陸軍の主力をも含む)を撃滅することとなり、敵国民の戦意喪失の公算は極めて大にして、世界和平成立を望み得、而して此の際、日独何れか一方が快勝を博する場合に於ても尚且和平生起の公算あり。

(ロ)次は日独共に快勝を博するに至らざるも、各々国防圏確保の程度となりたる場合に於ては、敵の反攻に「間合い」を取り、態勢を立て直しの余裕と敵側短期終戦企図に疑義を生ぜしむることとなり、状況に依りてはソをして日独に対し中立化せしめ此の際敵国民の動揺等に依り若干年月を経過して敵側より妥協和平を申込ましむることも可能なり。

(ハ)次は決戦の結果日独共に不幸にして国防圏に破綻を生ずる場合に於ても、少くも敵戦力には相当の消耗を与え得べく爾後後図を策する余裕と国民戦力結集の動機たらしめ得べし。

 「而して斯くの如き努力を尽すも尚中部太平洋の防衛圏を突破せられたる場合には最早天、皇運を見放したるものと謂うべく帝国は大東亜各地に割拠籠城し随所敵を阻止して其の戦意放棄を俟つの已む無きに至るものとす。然れども斯かる事態に於て帝国が組織ある近代的科学戦争指導を望むは過望と称すべきなり」

と判定していたのである。

 「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察(第三案)」は、我が陸海軍首脳の認識とは正反対に、彼我の戦力国力比の実態、米ソの意図など万般に亘って驚くほど正確に戦況を分析していた。にも拘わらず、これが東條英機参謀総長と後宮淳参謀次長に提出されなかった理由は、この中で、戦争指導班は、武力決戦を補助する外交方針として、

1.対ソ対独施策は既定方針の実行を強化す。対ソ外交は戦略方策の成否と共に国運決定の最大要素たるべきを以て概ね本夏秋の候機を見て独ソ斡旋を策し之が為特使の派遣を断行するを要す。

2.対中立国施策は成るべく敵側に廻すことを避け、宣伝、諜報、謀略の温床として活用すると共に今次戦争をして人種闘争に陥らざるの著意を必要とす。

を挙げ、さらに独が帝国に拘わることなく単独行動に出でたる場合の措置として、

(イ)独、英米和平の場合

 機を失せず独ソ和平斡旋を図り之が代償としてソの仲介に依り帝国と米英との和平を斡旋せしむ。

 独は此の際恐らく帝国の為め仲介の能力及誠意なく、ソを活用すること肝要なり(これとても虫の良き話なるも他に処置なし)但しソ英米の連絡緊密にして此の三者脈絡を保ち帝国に圧力を加重することも予期しあらざるべからず。

 之が為独ソとは絶えず緊密なる連絡保持を必要とし、在ソ、在独帝国使臣の活眼に俟つ所多し。

(ロ)独ソ和平の場合

 帝国も速にソとの脈絡を強化するを要す即ち日ソ不可侵条約、出来れば日ソ同盟へ進展せしめ此の際ソを利して中共延ては重慶切り崩しに波及せしむる如くするを要す。

尚此の場合に於ても、ソをして世界和平に導入せしむる如く着意すること必要なり。

と判定しており、秦参謀次長以下の革新幕僚は、前年二月十三日、大本営に「欧州の戦局に伴い、近時安価なる対米英講和案を或いは日独ソ同盟案等に付き、上層階級等に於いて話題を作り居る模様なる所、此の如きは最も危険なるを以て厳に指導取締りする方針なること」を付言していた東條首相(2)の逆鱗に触れることを忌避したのである。すなわち彼らは自己の正体、意図を隠蔽する為に、陸海軍首脳に正確な戦況分析を伝えることなく、我が軍を敗北へ導いたのである。そして陸軍参謀本部戦争指導班は、昭和十九年七月一日、次のように判決した。

 「午后より市ヶ谷分室に於て班長以下(註、松谷誠、種村佐孝、橋本正勝)昭和二十年春を目途とする戦争指導に関する第一案を研究す、判決としては今後帝国は作戦的に大勢輓回の目途なく而かも独の様相も概ね帝国と同じく、今後逐次「ジリ」貧に陥るべきを以て速に戦争終末を企図すとの結論に意見一致せり。

 即ち帝国としては甚だ困難ながら政略攻勢に依り戦争の決を求めざるを得ず、此の際の条件は唯国体護持あるのみ而して政略攻勢の対称は先ず「ソ」に指向するを可とす。斯かる帝国の企図不成功に終りたる場合に於ては最早一億玉砕あるのみ。帝国としては飽迄冷静なる見透に依り皇統連綿たる三千年の歴史を保存し、後図を策すべきなり。」(大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌)

 続いて七月四日、我が陸軍はインパール作戦を中止した。インド独立の使命感に燃える我が第十五軍は、制空権と補給能力の欠如を克服すべく可能な限り軽装備で急進撃を図り、緒戦においては目覚ましい戦果を挙げ、イギリス軍を狼狽させたが、敵の機械化部隊が守備するインパールには容易に近づけなかった。
 第十五軍司令官の牟田口廉也中将は膠着した戦況を打開すべく、コヒマを占領した第三十一師団によるコヒマ北西四十五キロに位置するディマプール(イギリス軍の一大補給基地)攻略を企図したが、ビルマ方面軍司令官河辺正三大将の許可を得られなかった。その結果、我が軍は、勝機を逃してしまっただけでなく、食糧と弾薬の枯渇を招いた上、例年より早く雨期が訪れた為、作戦の終末は悲惨を極めた。インパール作戦に投入された第十五軍約八万の将兵の内、約三万人が戦死、約四万二千人が戦傷病に倒れ、インドからビルマに至る我が軍の退路は、絶対の劣勢下でイギリス軍を土俵際にまで追い詰めた超人的な勇戦奮闘の末、ついに力尽きた将兵の白骨で埋め尽くされた。大幅に戦力を衰退させた我がビルマ方面軍は、アキャブ方面からイギリス軍、雲南方面から支那遠征軍に圧迫包囲され、苦闘の持久戦を余儀なくされ、翌年三月二十七日には、ビルマ国軍が、敗戦を回避してビルマ独立を維持する為に敢えて日本軍に反乱を起こし、四月、イギリス軍がビルマを再占領した。

 さらにインパール作戦中止から五日後には、サイパンが陥落し、アメリカ軍に占領された。サイパン防衛の主力第四十三師団は、サイパンに到着してから一週間後にアメリカ軍の上陸を迎えた上に、築城資材を積んだ輸送船を撃沈された為、約三万人の我が守備隊は、ほとんど裸陣地で戦うことを余儀なくされ、アメリカ軍の猛烈な空爆と艦砲射撃(弾量約二万トン)を浴びて、さしたる抵抗もできぬままに壊滅してしまった。

 アメリカは、同時期に太平洋大西洋を越えて、日独本土に向かって大攻勢を敢行するという圧倒的な戦力国力を世界に誇示し、日独両軍による英ソ挟撃という枢軸陣営の唯一の勝機ともいうべき昭和十七年の戦機を逃した日独両国は、二年の歳月を経て、連合軍によって絶対国防圏を突破され、包囲挟撃されるに至ったのである。

 アメリカ軍は、陸海空軍の総合戦力を投入して太平洋島嶼を制圧拠点化し、制海空圏を逐次拡大させながら、日本と南方間の連絡を遮断しつつ日本本土に迫る戦略と、巨大な火力(鉄量)を投入して敵を圧倒、粉砕する戦術を採用した。

 これに対して、パラオ諸島のペリリュー戦(昭和十九年九月十五日〜十一月二十四日)、硫黄島戦(昭和二十年二月二十九日〜三月二十七日)では、海空軍の支援なき日本軍守備隊は、水際撃滅戦術を放棄し、強固な地下陣地を構築して大地を鎧と為し敵軍の爆砲撃に耐えた後、上陸してきた数倍の敵部隊に大打撃を与えた末に玉砕し、アメリカ軍の心胆を寒からしめ、世界の軍事関係者から絶賛された。だが大戦を通して、我が軍は、海上護衛戦と通商基地機能破壊戦の意義たる「戦勝の要諦は敵の兵站を破壊し味方の兵站を防衛するにあり」という平凡な戦理を全く理解しない帝国海軍の拙劣な前方展開戦略と、時流の航空優先観念から増長した、彼我航空戦力の優劣を無視する航空絶対思想に災いされて、守勢の利を最大限に活用し補給と築城を充分に確保した上で味方の陸海空軍の戦力を統合集中し、地上に姿を晒して居る敵軍の上陸部隊を、海中、地下、海上、空中から立体的に迎撃、包囲殲滅するという「陸海空軍三位一体・全方位(オールレンジ)包囲」戦術を一度も採ることができなかった。

 昭和十九年六月十五日、サイパン上陸作戦に呼応して支那大陸の成都より発進し九州八幡製鉄所を爆撃したアメリカ軍の「空飛ぶ要塞」高々度長距離爆撃機B-29(航続距離五千六百キロ)は、サイパンに進出、日本本土を作戦半径内に収め、我が軍が戦争遂行に必要不可欠な南方資源地帯の確保と日本本土の兵站機能の防衛を維持することは、いずれも困難になり、我が国は参謀本部戦争指導班が予想した通りの苦しい戦況に陥ったのである。


(1)【終戦工作の記録上】一七九〜一九三頁。戦争指導班は「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察(第三案)」でも、独との戦争終末に気脈を通じ予め提携連絡を要する内容、時機、手段として、

(イ)戦争目的 自存、自衛各新秩序を建設し世界平和に寄与す。
(ロ)戦争目標 主敵は飽迄米、英に指向し、ソを避く。(対ソに関しては極力独の気持転向を図る) 
(ハ)決戦の時機 日独共本夏秋
(ニ)独が西欧第二戦線を撃摧せる場合には帝国としては独ソ和平斡旋の企図ある旨を提示す。
(ホ)英、米が本夏秋の候第二戦線を決行せず、ソは依然西進し英、米は空爆及独威令下諸邦の切崩しを主とするが如き情勢に於ける独の施策を聴取す。(此の際に於ても帝国の対米、英、戦勢有利なる場合は機を見て独ソ和平の斡旋を企図す、応ぜざる公算大)

を挙げ、独ソ和平を執拗に画策していたのである。
(2)【東條内閣総理大臣機密記録】一五八頁。


71、小磯内閣発足

 連合軍が着実に日本本土へ迫りつつあることを知った一般国民は深刻な不安に襲われ、国民の不安は東條内閣に対する不満と不信に変わり、海軍だけでなく政府与党の翼賛政治会(昭和十七年四月三十日第二十一回衆議院選挙を経て五月二十日に発足)の代議士からも、国民世論に反応して公然と東條首相を糾弾する声が上がり始めた。

 昭和十九年七月六日、翼賛政治会定例代議士会が阿部信行総裁以下所属代議士約二百五十名の出席を得て開会されたが、松田竹千代ら十八名の議員から東條内閣の戦争指導に対する痛烈な批判が次々と発せられ、代議士会はさながら東條内閣糾弾集会と化し、「政府は真に国民の信頼をつなぐべき挙国一致の体制を速に整うべし」という決議を採択した(1)。

松田竹千代「私は現下国内の欠陥を赤裸々に開陳して以て東條総理の猛省を促さんと欲する、誠に遺憾千万なことながら現在の国内情勢は如何であるか、海軍部内に於ける不和不一致のみならず、陸海軍間の統制も完全ではないと聴く、私は此の際大本営に於て陸海軍が真に一体になれと主張する。其の為には弱体なる内閣では到底この目的を達成することは不可能だ。東條総理を否定するものではないが、先ず以て強力なる内閣の結成を要望する。而して又此の際臨時議会を開いて政府の所信を承りたい。

 戦争の遂行の責任は戦時予算に協賛を与えた議会にもある、我々は皇城前に割腹して申訳を致さねばならぬ重い責任を痛感するものである。全く我々は今命も要らぬ、名誉も欲しない、ただ神の如き心境あるのみである。東條総理は希くば我等の此の声に聴かれよ。

 此の時に当り閣僚重臣は何をしているのか、又総理が一人にして、重職を兼ぬることは人為の不可能をあえてせんとするものだ。此の危急の場合参謀総長は参謀本部に立篭もり、専ら作戦の衝にあたるべきであって屡(しばしば)街頭に立って民情視察の如き呑気なことをしている時ではない。阿部総裁は東條大将に対して好意ある忠告をなすべしと思う。」

 七月十日、阿部総裁は東條首相を訪問し、六日の定例代議士会の決議を申し入れると共に、専任軍需大臣・専任参謀総長及軍令部総長を置くこと、重臣の入閣による内閣強化、の二点を首相に進言した。十三日、そこで東條首相は参内して内閣強化につき木戸内大臣に相談したところ、木戸から天皇の内意として、

一、陸海総長と大臣を切り離して統帥を確立すること
二、海軍大臣を更迭すること。
三、重臣を入閣させて挙国一致内閣をつくること。

という三条件を提示されたのである。

 昭和天皇に拝謁して木戸内大臣の言葉に間違いないことを確認した東條首相は、三条件の実現を図る為、まず参謀総長に関東軍司令官梅津美治郎大将、新海相に佐世保鎮守府司令長官野村直邦大将を起用、嶋田海相を軍令部総長専任とし、翼賛政治会総裁の阿部信行(貴族院議員)、海軍の長老米内光政の二人の重臣に無任所国務大臣として入閣するよう求めたが、拒絶されてしまった。東條内閣の退陣を画策していた重臣たちは、木戸を通じて、

 「この難局を切り抜くるには人心を新たにすることが必要でございます。国民全部が相和し、相協力し一路邁進する強力なる挙国一致内閣を作らねばなりませぬ。内閣の一部改造の如きは何の役にも立たないのであります」

と昭和天皇に上奏し、これを知った東條首相は、内閣改造の挫折を悟り、十八日午前十時、閣僚全員の辞表を取りまとめて捧呈した。

 近衛文麿から対米英開戦の責任を負わされた東條内閣は、発足から約二年九ヶ月後、開戦者が負うべき終戦責任を果たせぬまま総辞職したのであった。昭和天皇から木戸内大臣に後継内閣に就き御下問があり、その日の午後四時から重臣会議が開催され、木戸、原嘉道枢密院議長と若槻、広田、近衛、平沼、岡田、米内、阿部の七人の重臣が参集し、後継総理を選考することになった。近衛文麿が、

 「現実の問題として今日の政治は一切軍と関連しないものはない。従って軍人でないと判らない点もある訳だ。今日は軍人が内閣をつくるより仕方がない」

と述べたところ、一同の賛成を得た。近衛は試みに「鈴木貫太郎海軍大将(枢密院副議長)は如何」と発案したが、木戸が、

 「何百万の大兵を大陸、その他に動かしているのだから、その始末だけでも大変だ、やはり陸軍がよい」

と述べ、陸軍将官から後継総理を奏薦することに意見が一致した。近衛が、

 「陸軍なら注文が二つある。第一は、東條内閣は何の為に倒れたか、東條個人の不評判もあるが、陸軍は海軍に比し政治、経済あらゆる事に口を出し、国民の不評判を買った。よって従来のやり方を変える。即ち、常道に還る事であり、第二は、我が国の今日は極端にいえば、左翼革命に進んでいるようだ。あらゆる情勢がそういう風に見える。

 敗戦はもちろん恐ろしいが、敗戦と同様もしくは、それ以上に怖ろしいのが左翼革命だ。敗戦は一時的で取り返すことも出来るが、左翼革命に至っては、国体も何も吹っ飛ぶ。だから左翼革命に就ては、最も深甚なる注意を要する。表面に起って運動している者ばかりが左翼ではない。右翼のような顔をしている軍人や官吏にも実は多いのだ。本人はそういう積りではなくともすることは全く赤だ、というのが非常に多い。これに向って大斧鉞を振う人が絶対に必要だということだ」

と説くと、平沼は、「全然御同感だ」と語気を強めて叫んだ。平沼は、梅津美治郎の周囲には赤い将校が盤踞しており、梅津が陸相あるいは総長に起用されれば、左翼的革新派が軍部の中心になる、と警戒していたからである(近衛日記昭和十九年七月十四日)。

 結局、重臣会議は、第一候補に寺内寿一南方派遣軍軍総司令官、第二候補に小磯国昭朝鮮総督、第三候補に畑俊六支那派遣軍総司令官を挙げたが、木戸は、東條陸相に相談したところ、「寺内は作戦上困る」と返答された為、昭和天皇に小磯を奏薦した。

 斯くして二十日、小磯国昭陸軍大将(予備役)に組閣の大命が下ったのであるが、陸軍大臣には陸軍から杉山元大将が推薦され、内閣強化の為、近衛から強引に出馬を要請された米内光政が現役に復帰し海相として入閣したのである。
 杉山は、支那事変勃発から幾度となく戦局の見通しを誤り、部下の強硬論に必ず押し切られるところから「ボケ元」、「ドア」とあだ名され、米内は、近衛、杉山と共にトラウトマン工作を打ち切った張本人である。二人の入閣は、我が国の政府軍部が完全に信賞必罰の精神を喪失していた象徴といえ、無能な陸海軍大臣を抱えた小磯内閣は、発足当初から既に政戦両略における失敗を運命づけられていたといえよう。


(1)【終戦工作の記録上】二二一〜二二八頁。


72、かいらい

 七月二十二日、陸軍中央は、「今後の国政運営に対する陸軍としての対策」として、「陸軍は依然自ら戦争完遂の中核たるの確信の下に海軍を誘導し政府を鞭撻して戦勝の一途に邁進し」、内閣、議会(翼政会)、重臣を戦争完遂に追い込み、彼らの和平的気運を厳重監視すると共に、「戦争終末に関する研究を極少数限定者により極秘裡に実施する」ことを決定した。そして参謀本部戦争指導班と陸軍省軍務課の主務者が、「対ソ政略攻勢」を行い戦争終末を企図する為、東亜全体の赤化を図る異常な戦争指導方針を作成したのである。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

七月二十六日(昭和十九年)

 対支作戦に伴う宣伝要領に関し現地側の意見を田中中佐より省部主務者に報告あり、現地、殊に北支に於ては延安政権なる呼称に対してすらも「容共」を意味し不可とする強硬なる意見にして、中央の意見を実行する為には大陸命に依り任務を変更すべしとの見解なり、本件は世界政策的大乗的見地に於て決定せられたるものなるを以て飽迄中央の見解を貫徹するを要す。

八月八日

 今後採るべき政略指導要領に関し省部主務者間に研究を行い一案を得たり。

 出席者 班長(註、種村佐孝大佐) 田中中佐 橋本少佐

 軍務課 大西大佐 加藤中佐   


今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領(案)昭和十九年八月八日、省部主務者案(1)

 「註」本案により省部の思想を調整し上司の外部指導に資するものとす

一、対ソ、支積極方策      

1、概ね本秋頃を其の結実の目途としソをして帝国と重慶(延安を含む)との終戦を、已むを得ざるも延安政権との停戦妥協を斡旋せしめ且独ソに対し独ソ間の国交恢復を勧奨す。

2、速かに有力なる帝国使節を先ずソに派遣す。其の出発の時期は遅くも八月下旬と予定す。之が為日ソ経済提携等を提議し其の折衝の間帝国の新企図達成の為の機を作為するものとす、但し帝国の弱体を暴露しソの対日態度を悪化するが如きこと無からしむ。

3、日ソ関係の好転を図り且為し得れば帝国と重慶との終戦を仲介せしむる為特派使節を派遣すべき旨を独に通告す。

4、特派使節赴ソ後に於ける日ソ交渉の進展に応じ適時独に対し独ソ国交恢復を勧奨すべき帝国の真意を通達し独の意向を聴取す。独が帝国の斡旋に容易に応ぜざる場合と雖もソにして独ソ和平の意志あるに於ては帝国は独を強力に指導し同調するに至らしむ。

5、日蒋和平条件、独ソ和平斡旋の為独をしてソに譲歩せしむべき条件並に帝国の対ソ譲歩条件別紙第一、第二、第三の如し。

6、此の間重慶に対して其の抗戦態勢の破摧衰亡に努むると共に其の動向偵諜に努めつつ対ソ交渉の成果に即応し対重慶直接交渉を行う場合あるを予期し所要の準備を整う。

7、ソを介して行う対中共工作を促進する如く「昭一九・七・三連絡会議決定対支作戦に伴う宣伝要領」の趣旨を拡充する等所要の措置を講ず。

8、本項工作の準備並に実行は帝国政府之を行い大本営は密に協力す。

二、大東亜戦争協力態勢の強化(省略)

三、世界政局急変に対処する措置

1、世界政局の変転に対処する為日ソ国交の好転敦睦を図ると共に隠密裡に先ず英に対し政治的接触を獲得する如く努む之が為対英措置に関しては差し当たり在西班牙、在瑞西帝国使臣を活用し要すれば其の陣容を整備す。

2、独が帝国の意図に拘わることなく単独行動に出たる場合の措置を概定すること左の如し。

(イ)独と英米との和平の場合

A、独側より提議する妥協和平の場合

 機を失せず独の真意を確むると共に独の屈伏に依る場合は三国同盟、防共協定を廃棄し日ソ提携に関しソを全面的に利導して世界和平導入に努め已むを得ざる場合帝国は独力戦争完遂に邁進す、但しソ英米相通じ先ず欧洲和平を図り帝国を孤立に陥らしむることあるを予期し独ソの動向を厳に警戒す。

B、英米側より提議する妥協和平の場合

 機を失せず独ソ和平斡旋を図ると共に独ソの仲介に依り世界和平導入に努む。

(ロ)、独ソ和平の場合

A、独より提議する和平の場合

 独の屈伏に依り欧洲和平へ転移拡大するの算大なるを以て速かにソをして世界和平に導入せしめる如く着意す。

B、ソ側より提議する和平の場合

 速かにソとの脈絡を図り独と協議の上要すれば防共協定を廃棄しソの利導に努む。

別紙第一

   日蒋和平条件

一、日華同盟条約を廃棄し新に日華永遠の平和を律すべき日華友好条約を締結す。

二、南京、重慶の合作を認む。

 其の方法に関しては支那の内政問題として取扱い帝国は之に干渉せず。

三、大東亜戦争間支那は対米英厳正中立を保持せしむ。

四、帝国は支那に於て対米英戦争行為の必要なきに至らば支那事変前の状態に撤兵復帰す。

別紙第二

   独ソ和平の為独に譲歩せしむべき条件

一、沿バ三国及「ポーランド」はソの絶対勢力下たることを認む(要すればソ領)。

二、北欧「バルカン」「トルコ」伊太利に於けるソの優先的勢力を認む。

但し独の対米英戦に必要なる最小限の資源を独に供給することを約せしむ。

別紙第三

   対ソ交渉の為帝国の譲歩すべき条件

 日蒋和平の仲介若くは独ソ和平斡旋の為左記条件を以て日ソ国交を調整す。

 (本密約は独ソ不調に終る場合に於ても日ソ国交保全の保証たらしむ)

    左   記

一、防共協定廃棄の用意あることを確約す。

二、南樺太をソに譲渡す。

三、満洲をソに対して非武装地帯とするか満洲北半部(概ね賓綏、賓洲線以北)をソに譲渡す。

四、重慶地区は全面的にソの勢力圏とし爾他の支那に於ける我が占領地域(現国民政府治下の地域)は日ソ勢力の混淆地帯とす。

 此の際汪、蒋、共合作促進に努め蒋応ぜざる場合に於ては中共を支援して重慶に代位せしむることを認む。

五、戦争間及戦後を通し日ソ間特恵的経済交易提携を促進す。           


 陸軍中枢は、四条件でソ連の力を藉りて支那の社会主義国家への転換を図り、之との関連において四、一、二、三、五条件で日ソ提携を実現し次いでソ連の援助を受けて(ソの導入を図り)日本の社会主義化を図り、ソ連に日本と延安政権との停戦妥協を斡旋させ、日ソ支(中国共産党)提携、大東亜新秩序の建設を実現しようというのであろう。だがアメリカの軍事支援を受けてドイツと死闘を繰り広げているソ連が日本と握手してアメリカを敵に回すはずはなく、彼等の計画は失敗に終わった。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

九月十八日(昭和十九年)

 本日、ソより我が特使の派遣を拒絶し来れり、ソの真の腹は何処にありや不明なるも国家の為遺憾千万なり、帝国は飽迄執拗に対ソ交渉を継続するを要し、夜別館に於て、班長、加藤中佐、橋本にて今後の交渉要領一案を研究せり。更に日ソ支東亜共同宣言(案)を研究す。

 八月三日にはテニアン、十一日にはグアムが陥落し、海軍空母機動部隊の主力と中部太平洋の戦略要衝マリアナ諸島を失い、連合軍に絶対国防圏を突破された我が国では、最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議)が、十六日「今後採るべき戦争指導の大綱」を、続いて九月五日「対重慶政治工作実施に関する件」を決定した。

 今後採るべき戦争指導の大綱は、依然として「帝国は現有戦力及本年末頃迄に戦力化し得る国力を徹底的に結集して敵を撃破し以て其の継戦企図を破摧す」を方針とし、軍事戦略、外交政略として「太平洋方面に来攻する米軍主力の撃滅」「南方重要地域の確保と圏内海上交通の保全」「ソ連との中立関係維持と国交の好転」「独ソ間の和平実現」「重慶政府に対する統制ある政治工作発動による支那問題の解決、之が為のソ連の利用」を掲げていた。

 対重慶政治工作実施に関する件は、「対重慶政治工作は大東亜戦争完遂の為速かに重慶政権の対日抗戦を終止せしむるを主眼とす。之が為先ず彼我の間に直接会談の機を作るを以て第一目標とす。当面工作の目標として、国民政府(註、南京)をして彼我の間に直接会談の機を作る如く工作せしむ。之が為成し得れば国民政府をして適当なる人物を重慶に派遣せしむ」を方針とし、対支和平条件として

1、支那の好意的中立を以て満足す。尚支那側をして在支米英軍を自発的に撤退せしむ。
2、蒋介石の南京帰還、統一政府の樹立を認む。但し両者間の調整は支那の国内問題として両者の直接交渉に委す。
3、日華同盟条約を廃棄し新に全面和平後日支永遠の平和を律すべき友好条約を締結す。此際支那内政問題には一切干渉せざるものとす。延安政権及共産軍の取扱も右に準ず。
4、在支米英軍撤兵せば帝国も完全に撤兵す。その実行方法に関しては停戦協定に拠る。
5、満洲国に関しては現状を変更せざるものとす。
6、蒙疆の取扱は支那の内政問題として取扱わしむ。
7、香港は支那に譲渡す。

等を掲げ、「速かなる日ソ国交の好転に依る政治的迫力を活用し本工作の促進を図る。日ソ交渉の進展に伴い要すればソをして本工作の仲介を為さしむることあり」と定めていた。敗戦後、小磯国昭は次のように述懐した(2)。

 「私の組閣したのは一九四四年の七月二十二日です。その翌月の八月十六日に、今後採るべき戦争指導の方針と云うものが戦争指導会議で決定されました。その戦争指導会議で決定をしたのは、陛下御臨席の下に戦争指導会議のメンバーだけが集まって決議されたのです。その時の陸海両統帥部の、今後起るべき戦場判断はフィリピンでした。私の考えは、サイパン陥落失陥後は、負け戦だ、負け戦が続くのならば、早く和平を講ずるのでなければ大変だ、サイパン失陥と同時に和平を講ずるのも一つの考えであったと思いますが今は既にサイパン失陥後一ヶ月を経ている。

 それからこんなことを言っては相済みませんが、今でこそ国民は新聞紙上其の他で戦争の実相を承知していますけれども、国民はまだ戦さに負けたとは思って居なかったのです。朝鮮にいた私等もたいして負けているとは知らなかったのです。どうもおかしい負けているなと云うことを思ったのはサイパン失陥後でした。これはもう負け戦だ、負け戦と云うことを承知している政府がここで直ぐ講和をすれば苛酷な条件に屈伏せねばならず、勝っているとのみ信じている国民は之に憤激して国内混乱のもとを為すであろうことは日露戦争末期に於ける日比谷の焼打事件なんて言う物をあなた方御存知でしょうが、ああ言うことも起るであろう、それに今やサイパン失陥後一ヶ月も経過しているから時期を失しているじゃないか、そこで七転び八起きと云うこともありますから、今度会戦が起りましたならばそこに一切の力を傾倒して一ぺん丈でもいいから勝とうじゃないか。勝ったところで手を打とう。勝った余勢を駆って講和すれば条件は必ず幾らか軽く有利になる訳だと思ったのです。」

 だが「一撃和平論」について戦争指導大綱に明記することはフィリピン決戦の必勝の信念を損ねることになり、陸海軍の首脳を交えた最高戦争指導会議で討論することもできなかった為、小磯首相は、苦肉の策としてソ連に特使を派遣することによってソ連にいる英米の要人と接触し一撃後の和平の端緒を捕捉すべく、「今後採るべき戦争指導の大綱」「対重慶政治工作実施に関する件」に「ソ連の利用」を認めたという。

 この両方針に基づき、「対外政略指導要領案」を主張する陸軍中枢と、日ソ中立条約の延長に主眼を置く「対ソ施策要綱」を主張する外務省の間で、対ソ特使の任務や目的、交渉条件を巡る紛糾が続いていたが、前述のようにソ連は日本の特使派遣を拒絶してきた為、小磯内閣は、九月二十一日、特使派遣を一時打ち切らざるを得なかった。

 だが十一月十日、汪兆銘が名古屋帝国大付属病院において病死した。尾崎秀実等に操られ無自覚のまま日蒋間の和平交渉を遮断する「楔」を演じていた彼の死は、我が国が日中戦争を終結させる為の絶好の機会であった。これを契機にして小磯首相は、汪を喪い形骸化した南京政府の解消と日本軍の撤退等を条件とする対重慶政権和平工作(繆斌工作)を開始するのであるが、我が国にとって不運なことに、支那派遣軍総司令部では、これとは反対に武力によって重慶政権を屈服させる戦略構想が浮上してしまったのである。

 二十二日、支那派遣軍総司令官に起用された岡村寧次大将は、昭和十二年以来の日支の相剋についてその政戦両略に亘る方策なかでも現戦局に如何に対処するかについては幾多の抱負を持っていた。昭和十九年十二月初、南京に着任し部課長等から一通り関係業務の説明を受けた岡村大将は、総司令官としてまず第一に、

 「南方軍が至る処で苦戦を重ねているその前途は明るくない。内地の実情は少しも知らされていないのでよく解らないが、台所は相当苦しいのに違いない。しかし南方軍は総兵力七十五万ぐらいだろうに、わが派遣軍は百五万の大兵を擁している。戦争の重点は南方に在るが兵力だけで云えば此方が主力である。この大兵を持って現状を維持しているだけでは、相済まない心地もする、何か南方軍の苦戦に、遠く協力する方法はないか」

と全戦局を考察し、この際重慶に一撃を与えておけば全戦局に有利であると判断したのである。支那派遣軍は連戦連勝であり、岡村大将は、第十一軍司令官時代から支那軍に対する強固な必勝の信念を有し、又もしアメリカ軍が手薄となる支那大陸東沿岸部に上陸するとしても、それは「もっけの幸い」であり、岡村大将は、

 「戦争いよいよ苛烈となり、黙思すればたちまち戦争前途のことが胸に浮び来る。我派遣軍に関しては心配なし。何となればわが派遣軍が苦戦すればするほど、それだけ多くの米軍を大陸に吸引し、皇本土の負担を軽減し得るという快感あればなり。憂ふるのは唯帝国全局の前途のみ」(岡村日記昭和二十年七月二十五日)

と意気軒昂として、派遣軍を犠牲にして本土防衛を図る自信と闘志とを敗戦に至るまで維持していたのである。

 岡村大将の作戦構想は、我が支那派遣軍が四川に進攻し重慶の中華民国軍を撃破することによって、米支一体を破砕し、昭和二十年夏に予期を要する米支連合の総反攻を撃砕すると共に、支那方面を処理し事変解決の端緒を把握する一方、アメリカ軍を支那大陸に吸引し、日本本土の負担を軽減しようというものであるが、戦後の岡村大将の回想によれば、

 「この四川進攻作戦の構想は十二月十五日参謀部に示したところ、参謀全員同意起案し、松井総参謀長、宮崎以下三主任参謀の一行が二十年一月二日出発上京して大本営に意見を具申した。それに対し参謀総長、陸軍大臣共に大体同意されたが、下僚間に反対多く、案の一部が採用されたに過ぎなかった」

という。

 十二月二十八日、岡村大将は、総参謀長の上京の有無を打診してきた大本営に「松井太久郎総参謀長が関係参謀を帯同して上京し、総司令官の意見具申を行う」ことを報告し、三十、三十一日、支那派遣軍総司令部に参謀全員を集め、宮崎舜市参謀が起案した四川作戦計画大綱及び東南支那作戦計画大綱を決定した。四川作戦計画大綱は、作戦目的を「四川省の要域を攻略して重慶軍の総反攻を未然に封殺するとともに重慶政権を崩壊せしめ以て帝国の戦争指導に寄与するに在り」とし、

 「本作戦開始とともに政謀略を活溌に展開し、作戦の進展に伴い根本的に改組を予期する重慶政権又は反蒋派の結合による全面和平を策し、本工作不成立の際に於ても少くも重慶政権の分裂崩壊による地方政権との提携或は灰色化工作の促進を図る」

と定めていた。

 昭和二十年一月一日、参謀本部戦争指導班長の種村佐孝大佐は、「戦争指導上より観たる支那方面作戦に関する観察」を起草し、参謀総長梅津美治郎大将と次長秦彦三郎中将に「近く上京すべき支那派遣軍総参謀長の意見を全面的に支持すべきである」と具申し、五日、参謀本部作戦室において、参謀総長、次長、各部長及び真田穣一郎軍務局長、二神力軍事課長は、松井総参謀長以下派遣軍参謀から四川進攻作戦の構想を報告された。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

一月五日(昭和二十年)

 支那方面今後の作戦指導に関する、松井総参謀長の報告要旨左の如し。

1、全般の構想

 米軍の東南支那沿岸上陸の時機を本年中期以降と判断し其の来攻に先だち四川に進攻し重慶を覆滅するにあり。

2、右構想を採用する理由、

 イ、重慶の企図を事前に覆滅す。

 ロ、本年中期以降に於ける二正面作戦の困難を予め克服す。

 ハ、敵航空基地を覆滅す。

 ニ、支那問題を解決す。

 ホ、四川進攻作戦の可能性、二ヶ師団の南方転用中止を前提とす、後方的には戦略挺進の思想とす。重慶政権との全面和平は成立せず、従って重慶の分裂崩壊に依る延安政権の中央化を企図す。

一月六日

一、支那派遣軍総参謀長の作戦連絡に対し作戦課として研究せる結果左の如し

 総長より総司令官に対する回答腹案

 四川進攻作戦に関する司令官の構想は可なるも帝国全般の戦略態勢並に国力の現状に鑑み主敵米に対処する関係上両作戦を同時に実施することは不可能なり、従って派遣軍は取り敢えず対米作戦に専念する為東南支那方面の戦備を強化せられ度。

 岡村寧次大将は、「汪精衛を中心とする和平中国政府の樹立を以て対重慶和平妥協を計るが如きは、至難にして寧ろ逆効果になる」と汪兆銘工作に反対し、北支那方面軍司令官(昭和十六年七月〜十九年八月)として「滅共愛民」「三戒(焼くな、犯すな、殺すな)」を掲げ、治安維持の掃共戦を指揮し(3)、

 「中共は之を反重慶地方政権として取扱う趣旨に於て中共本拠は之を延安政権と呼称し又之に属する軍隊にして、我が討伐を要するものは之を匪賊呼称を以て取扱い、且反共、剿共、滅共等の名称の使用は真にやむを得ざる場合の外之を避くるものとす」(対支作戦に伴う宣伝要領)

という陸軍中央の反共戦停止指令(昭和十九年七〜八月)に対し、「反共政策をいささかなりとも枉げることはできない」と強硬に反対し、敗戦後、延安の中国共産党によって戦犯第一号に指定された「反共」将軍である(4)。また昭和二十年八月十八日東京から南京に帰任した支那派遣軍の西浦進と野尻徳雄の両参謀から作戦課の朝枝繁春中佐が起案した、

 「この際むしろ赤色勢力を支那本土に導入し、これと米側勢力とを衝突せしめて東亜に混乱を招来し、以て日本が漁夫の利を図らんとする」

という趣旨の指令を報告された際、岡村大将は之を即時に拒絶し国民政府と密着一体となり断乎中共に対する方針を明示し、

 「対支支援の強化に関しては、真に支那民族の心を把握するを主眼とするも先ず重慶中央政権の統一を容易ならしめ、中国の復興建設に協力するものとす。重慶延安の関係は固より支那側自身にて処理すべきものなるも、延安側にして抗日侮日の態度を持する場合においては断固之を膺懲す。支那に交付すべき兵器、弾薬、軍需品等は統帥命令に基づき指示する時期および場所において、完全円滑に支那側に交付し、以て進んで中央政権の武力の充実に寄与す」

と定めた対支処理要綱を起案し、戦後、西浦をして、

 「小生在任期間総司令官は概ね幕僚の案を承認せられることが多かったが、このときの自主的な御決定は小生にとって極めて印象的であり、事後の総軍の進路を極めて明確ならしめたとの感想を持っている」

と言わしめている(5)。

 岡村寧次総司令官の構想と松井太久郎総参謀長の報告内容は相異なるが、松井総参謀長が、我が軍が四川に進攻し重慶を覆滅すべき理由として、「重慶政権との和平は成立せず、従って重慶を分裂崩壊させ(反共を掲げる南京親日政権ではなく)延安政権の中央化を企図」し、参謀本部戦争指導班長が参謀総長と次長にこれを全面的に支持するよう具申したことは、陸軍中央が敗戦まで支那戦線において大軍を動かし続けた真の目的や、南京政権(昭和二十年八月十六日解消)の正体を示唆していよう。

 一九四二年から四五年にかけ、タス通信特派員として延安に駐在したコミンテルン代表ピョートル・ウラジミロフの著書【延安日記】一九四五年八月十八、二十一日欄に次のような記述がある。

 「たまたま新四軍の司令部からの電報をみた。この電報をみても、中共党指導部と在華日本軍総司令部とが、絶えず接触していたことは明らかだ。日本軍総司令部との接触についての報告が、定期的に延安に送られていることは、この電報から明らかで、私は中共軍と日本軍の軍司令部の接触が長い間、行われたことをあとで確かめた。この接触の両端は延安と南京である。

 葉剣英は毛沢東に、私が新四軍からの電報の内容を知っていると話した。そのため、主席は私に、党指導部が侵略日本軍司令部と接触を持つことに決めた理由を長々と説明した。恥ずべき行為である。だからこそ、毛沢東は躍起になって私を納得させようとしたと云える。

 日本軍司令部との関係はすでにずっと以前に、極秘のうちにつけられた。中共党指導部でこれを知っているのはほんの数人だ。毛沢東のエージェントが、南京の岡村将軍の司令部に出入りしていたのだ。必要な際は、日本の防諜機関がこの男を用心深く護衛し、自由に南京と新四軍司令部の間を往来していたのである。新四軍にはこの男(日本人)宛の主席からしかるべき情報が届いており、この男が南京から持ってくる情報は、新四軍を通じて直ちに暗号で延安に打電される仕組みになっていたのだ。」

 アメリカ軍を支那大陸に吸引して日本本土の負担を軽減しようとする岡村大将の戦略は、支那をアメリカの支配下におき資本主義化してしまう為、「今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案」が示すようにソ連の力を藉りて支那の社会主義国家への転換を図り東亜新秩序を実現しようとする陸軍中堅層にとって、絶対に許し難い構想であった。だから種村佐孝大佐は、下剋上思想を露わにして機密戦争日誌昭和二十年五月十三日欄に、

 「支那方面作戦を大本営の意図する如く指導する為には岡村大将を更迭するを要す。面従腹背に陥るのおそれなしとせず。全般に対米大陸決戦思想なし持久後退をのみ事とす。支那満州朝鮮悉く然り、おそるべし」

と記述したのであろう。
 また朝枝繁春中佐は、ソ連軍の満洲侵攻と同時に、大本営から関東軍に「満洲の鉄道は一切これを破壊するな」と打電し、朝枝自身、八月十九日、満洲の新京に在る関東軍司令部に出張して、ソ連軍の捕虜になった(6)。
 ソ連軍の政治将校フェデンコ中将によれば、二十六日、朝枝はフェデンコに、「ソ連軍は米軍が上陸する前に朝鮮半島を全面占領し、対馬海峡を封鎖すべきだ」と提言し、彼が東京に帰る必要性と梅津率いる参謀本部と日本軍を支配する雰囲気と政策について個人的に説明したいと申し出て、次のように述べたという(7)。

 「ソ連軍が大陸、対馬、済州島を押さえ対馬海峡の艦船の出入りを封鎖すれば、日本を占領した米軍との関係でより有利な立場を得る。それだけでなくソ連軍がこの通りに展開すれば米軍の大陸進出を阻み、国際社会でのソ連の重みを増すことになる。このため参謀本部、軍中枢部は上記の地域について連合国が最終決定を下す前に、連合国抜きにソ連の利益となる決定に持ち込むべきだと考えている。秦はワシレフスキーとの会談でソ連軍の南下作戦の加速の必要性について述べた(註、八月十九日、極東ソ連軍司令部で、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は瀬島龍三中佐と共に、極東軍総司令官ワシレフスキー元帥を首班とするソ連軍首脳と停戦交渉を行った)。日本軍の判断では十分に迅速だとは考えられなかったからだ。

 私の来訪の目的は、ソ連軍南下の軍事的、政治的条件を整えることにある。この参謀本部と軍中枢の意見は国防大臣、外務省、天皇側近には秘密にされている。」

 大東亜戦争終末の資料は、陸軍中枢を支配していた革新幕僚が、総理大臣や支那派遣軍総司令官、陸軍大臣を操りながら、東亜の赤化を画策していたことを粉飾なく示唆している。


(1)【終戦工作の記録上】三一一〜三一八頁。参謀本部所蔵【敗戦の記録】三十五〜三十八頁。中山隆志【一九四五年夏最後の日ソ戦】二十四頁。
(2)【終戦工作の記録上】三〇一〜三一〇頁。
(3)稲葉一夫【岡村寧次大将資料】二六二、三三九頁。
(4)次長、次官より対支作戦に伴う宣伝要領を伝達された支那派遣軍総司令官畑俊六元帥は、「以上の対共態度は実に百八十度の転回にして北支軍の掃共方針、対国民政府の指導にも影響する処頗る大なり。甚だ諒解に苦しむ処にして之が我が政府の政策か或いは単に宣伝か軍としては其辺の意義を明了にしておく必要あり。恐らく中央に於けるソ連に対する御機嫌とり政策の結果とみるべく色々情報を聞くもソ連に特権を附与しあるが如く独も内心頗る不平なるべし」と推測し不満をもらした(畑日誌昭和十九年七月八日)。中央がソ連に附与しようとした「特権」の具体案が今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案中の対ソ譲歩条件であろう。だが対支作戦に伴う宣伝要領の主務者の戦争指導班員、田中敬二中佐は、七月十五日、畑元帥に「今回の延安政権の名を用ゆる宣伝工作は重慶軍の灰色化を覘い、又一には国共の離間を策する処に覘いあり。」と虚偽の説明を行い、戦後、「戦争終末指導の一環として、対米交渉のためにはまずソ連のモロトフと手を握る必要があり、モロトフとの交渉の手段として毛沢東の懐柔を考えた。これと同時に対重慶政治工作を推進する構想であった」と回想した。
(5)【岡村寧次大将資料】二十一、三十六頁。
(6)三根生久大【参謀本部の暴れ者陸軍参謀朝枝繁春】三一五〜三一七頁。
(7)【沈黙のファイル瀬島龍三とは何だったのか】一七二〜一七五頁。



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

国民のための大東亜戦争正統抄史67〜69帝国陸軍南進論者の正体

第三章、大 東 亜 戦 争 終 末 抄 史


【帝国陸軍南進論者の正体】


67、緒戦の快進撃

 日米開戦後、マレー上陸作戦とハワイ奇襲作戦を端緒として開始された我が軍の進撃は、まさに怒濤、破竹の如き勢いであった。

<日本軍の進撃>

昭和十六年(一九四一)

十二月八日、第二十五軍、マレー半島に上陸。十日、マレー沖海戦。陸軍南海支隊、海軍陸戦隊、グアム島を占領。第十四軍、フィリピンに上陸。十四日、第十五軍、ビルマに進攻。二十一日、日本タイ同盟条約成立。二十三日、海軍陸戦隊、ウェーキ島を占領。二十五日、第二十三軍、香港占領。

昭和十七年(一九四二)

一月十一日、日本、オランダに宣戦を布告(オランダの対日宣戦布告は前年十二月十日)。第十六軍、ボルネオ島に上陸。二十三日、陸軍南海支隊、海軍陸戦隊ビスマルク諸島ニューブリテン島ラバウル、ニューアイルランド島カビエンに上陸占領。

二月十五日、第二十五軍、シンガポール占領。二十七〜二十八日、スラバヤ・バタビア沖海戦。

三月八日、陸軍南海支隊、海軍陸戦隊、東部ニューギニアのサラモサ、ラエを上陸占領。九日、第十六軍、蘭印を占領。二十三日、第十八師団、海軍陸戦隊、ベンガル湾アンダマン諸島を上陸占領。

四月五〜九日、海軍機動部隊、セイロン島を空襲。

五月六日、第十四軍、フィリピンを占領。七〜八日、珊瑚海海戦。陸海軍、東部ニューギニアのポートモレスビー攻略を延期。十八日、第十五軍、ビルマを占領。

 欧米白人勢力に寄生していた非合法ゲリラの抗日華僑を除いて、彼等の長きに亘る残酷な植民地支配に苦しめられていた東南アジアの現地住民は、我が軍の快進撃に驚愕昂奮歓喜し、「白人不敗神話」の迷妄から目覚めたのである。満洲事変時と同様に、現地住民の有形無形の支援協力を得ることに成功した我が軍は(1) 攻撃の目標と時期とを自由に選択し得る攻勢の利を最大限に活用してアジア太平洋地域の広範囲に分散していた連合軍を先制攻撃・各個撃破し、開戦後約五ヶ月の間に、約二十五万人の連合軍将兵を捕虜とし、敵艦百五隻を撃沈、九十一隻を大中破させ、海軍だけで敵航空機四百六十一機を撃墜、千七十六機を爆破炎上させた。

 我が軍の損害は、戦死者約七千人、戦傷者約一万四千人、喪失飛行機五百六十二機、損失艦船二十七隻、まさに圧倒的大勝利であり、国民は相次ぐ捷報に酔いしれ、我が国は朝野を挙げて戦勝気分に浸り、獄中に拘束され訊問調査を受けていた尾崎秀実でさえ、

 「日本の今日まで挙げ得た戦果は私の予想を絶して居ります。何よりも日本の軍部が努力して来た卓越した戦争準備に依る点が多いと思われますが、日本社会の持つ根強い結合力が考えられます。日本人が示した犠牲的精神、勇気等もまた驚くべきものがあり、言うまでもなくこれらの点は如何なる社会に於いても持ち継ぐべき美点でありましょう」

と感嘆の声を上げたのであった。

 斯くして我が国の勢力範囲は、満洲、北中南支、仏印、タイ、ビルマ、マレー、インドネシア、フィリピン、中部太平洋、ニューギニアの一部にまで拡大したのである。


(1)名越二荒之助編【世界にから見た大東亜戦争】、アセアンセンター編【アジアに生きる大東亜戦争】をそれぞれ参照。


68、攻勢終末点

 南方作戦完了後、我が国には、軍事戦略として、インド(洋)攻略、重慶攻略、対ソ開戦、南東太平洋制圧、現状維持の五つの選択肢があったが、昭和十七年六月九日、参謀本部は対ソ作戦準備要綱を関東軍に訓令した。前年八月、参謀本部作戦部長田中新一少将は、年内対ソ武力行使を中止した際、

 「全然やめてしまうのではない。今年のみのことである。来年早春にやる場合、まず南をやり、反転して北を討つ場合もあり得る。その準備は依然続ける」

と述べており、陸軍内では、南進一撃対ソ開戦戦略がくすぶっていたからである(1)。

 一方、ドイツ軍は、五月二十六日、北アフリカ戦線で「ベネチア」作戦を発動、六月二十一日にはリビア(イタリア領)の要衝トブルクをわずか一日で奪還し、イギリスの準支配下にあるエジプト領スエズに向かって進撃を開始し、続いて二十八日、第二次対ソ大攻勢「青」作戦を発動し、以後、ドイツ政府は再三に亘り我が国に、ドイツ軍の攻勢に呼応して、ソ連に対し開戦すると共に、日本海軍の有力な艦隊をインド洋に進出させ、イギリス本土とスエズ、中東石油地帯、インドを連結するアフリカ大陸南端喜望峰経由の連合国海上交通線を破壊し、エジプトを防衛するイギリス第八軍に対する補給を遮断するように要請してきた。

 だが六月四〜六日のミッドウェー海戦後、海軍がガダルカナル島に「第一回、第二回、第三回と随分陸軍を引張り出したり。或時は誘い、或時は押し、或時は責任を負わす様仕向け来た」(連合艦隊参謀長、宇垣纏中将の「戦藻録」昭和十七年十二月七日)うえ、十二月、田中新一が参謀本部作戦部長を解任され、

 「北方情勢の変化に備えよ、南太平洋はその成否にかかわらず三月をもって打ち切れ。南太平洋のごときは、北方問題に比すれば、些々たる一小事に過ぎない」

と作戦課に言い残して南方軍に左遷された為、遂に我が国の対ソ攻撃は実行されなかった。拙速にミッドウェー作戦を強行し、アメリカ海軍に主力空母四隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)を撃沈されてから十日後、ラバウルから約千キロ東にあるガダルカナル島に設営隊と陸戦隊を派遣し、飛行場を建設し始めた海軍の戦略感覚は、素人から見ても支離滅裂である。果たして、同島の我が航空基地は、完成と同時にアメリカ海兵一個師団によって奇襲占領された。
 海軍は極度に狼狽し、高松宮海軍大佐が石原莞爾を召されて意見を求められた。石原は、

 「戦争の勝敗は初めからわかっております。わが方の作戦はすべてに攻勢の終末点を越えています。戦力は根拠地と戦場との距離の二乗に反比例するのが原則です。日本本土では百の力が、ガ島まで行けば十から五の力しかない、ところが敵は根拠地に近いから我が軍より力の大きいのは当然です。持久戦争においては、攻勢の終末点をどこにするかが、最初から確立されていなければなりません。しかるに支那事変も今次戦争も、全くこれを考えていない。東條のやっている戦争は何をやっているのかデタラメで、まるで決戦戦争のやり方であります。攻勢の終末線を越えれば叩かれるのは当然であり、負けることが判っている所へ兵を送る馬鹿はありません」

と奉答した。更に石原は、東郷平八郎提督が日露戦争の日本海海戦において連合艦隊の根拠地を対馬海峡に置き、明治三十八年(一九〇五)五月二十七日、ロシアのバルチック艦隊を迎撃して之を撃滅し、海戦史上未曾有の大戦果を挙げた戦例を引用して、

 「近時の戦争では制空権のないところに制海権はあり得ません。制空権既に敵の手中に陥った以上は、即刻ガダルカナル島を撤退すべきです。陸軍も又同様であります。ソロモン、ビスマルク、ニューギニアの諸島を早急に放棄することです。そして我が補給線確保上、攻勢の終末線を西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラなどの戦略資源地帯を中心とし、この防衛線を堅固に構築して、中部は比島の線に退却せしめ、他方本土周辺のサイパン、テニアン、グアムの南洋諸島一切を難攻不落の要塞化することであります」

と力説したが(1)、海軍は前方決戦思想に固執し、戦線の後退緊縮による防衛戦略の推進を図ろうとはしなかった。戦藻録昭和十六年十二月十五〜十六日欄の記述は、

 「ウェーキよりミッドウェイを衝く手ありと認められる。艦隊側も中央も考うる所は殆ど其の軌を一にし在り。ただ陸軍側も南方一段落せば対ソ開戦の腹相当に強しと云う。乞食根性百迄去らず」

と陸軍の対ソ開戦戦略を罵倒しており、海軍首脳は、ドイツの要請に呼応する陸軍の対ソ開戦を阻止する為、ガダルカナル、ソロモン、ニューギニア方面に戦力の逐次投入を繰り返し、不毛な消耗戦を継続したようである。日ソ戦となれば、戦争の主役は陸軍となり、物資予算の「陸海軍同額」という海軍の基本方針が崩れるからである。

 ガダルカナル攻防戦(昭和十七年八月七日〜昭和十八年二月八日)を含め約一年七ヶ月間に亘る南東太平洋作戦において、我が軍は、航空機約八千機(熟練操縦員約五千人)、艦船約七十隻、投入兵力三十万のうち約十三万人を喪失して敗北し、我が国はドイツ軍の東進攻勢に呼応して、ソ連、或いはインド、中東、北アフリカ方面のイギリス軍を挟撃し日独打通を図る戦略だけでなく日本本土防衛の要衝サイパンの確保を遂行する為の貴重な戦力と時間を喪失してしまい、サイパン陥落の責任を負って総理大臣を辞職した東條大将は、

 「海軍の実力に関する判断を誤れり、而かも海軍に引きづられた。攻勢終末を誤れり、印度洋に方向を採るべきであった」

と深く後悔したのであった(機密戦争日誌昭和二十年二月十六日)。

 その結果、ドイツ軍は、スターリングラード攻防戦(昭和十七年八月二十三日〜昭和十八年二月二日、ガダルカナル攻防戦の期間とほぼ一致)、続いて北アフリカ攻防戦(昭和十五年九月十三日〜昭和十八年五月十三日)で敗北を喫して戦力を大幅に衰退させてしまい、連合軍のシシリー島(イタリア、一九四三年九月八日連合国に降伏)、ノルマンディー(フランス)上陸作戦を阻止できなかった。

 国力の限界と戦力の集中発揮を図る攻勢の方向性とを無視する帝国海軍の余りに拙劣な戦略能力が、日独両国の敗北を早めたのである。日露戦争後、国益など眼中になく、総合的な戦争研究を怠り、ただただ組織を維持拡大する為、英米を仮想敵国として膨大な国力を食い潰し、陸軍から、

 「海軍は南方の為北をやらぬ思想なり『やらぬ』考えで修文し来る、(対ソ)開戦等の文字を入れれば動々もすれば陸軍の為北へ引づられる、抹殺するを可とすとて徹底的に陸軍不信なり、曲解不誠意不純真なること甚し、軍人精神ありやと云いたし。海軍鉄を呉れ予算を呉れの発言多く醜き極みなり」(機密戦争日誌)

と酷評された帝国海軍の真骨頂といったところであろう…。


(1)杉山参謀総長は、昭和十七年七月二十日、田中作戦部長に「伊よりインド進出、独より対ソ攻勢の要求あり、検討せよ」と命じ、八月一日、若松只一総務部長がソ連攻撃を主張したが、佐藤賢了軍務局長は、七月二十五日、熟柿主義を用いて対ソ開戦に反対し、さらに十一月十八日には「独ソ和平」を積極的に画策し、ソ連を日独による挟撃から救おうとしたのである。この時期、陸海軍内部では、対ソ開戦戦略を巡って、一年前と同様の対立の構図が生まれており、海軍の南進論に引っ張られて陸軍内の熟柿主義が再び勝利したのである。
(2)横山【秘録石原莞爾】三六七〜三六八頁)


69、正体を現した陸軍統制派

 昭和十八年に入り、日独の攻勢作戦が限界に達して崩壊へ向かい始め、それに伴い東条内閣に対する信頼感もまた減退し、一部識者の間では、東條首相の更迭の必要性が囁かれる中、三月十八日、近衛文麿は、突然、小林躋造海軍大将を「荻外荘」に招いた。
 開戦後、小林大将は、吉田茂と共に、まず日支間の講和実現により米英から対日戦遂行の大義名分を奪うことを画策し、外務省に、

 「日独両軍が攻勢を継続していることに乗して、蒋介石に、恃むに足らざるを恃み、戦争を継続するの愚を説き、要すれば我が方に於いて政治経済的に若干の譲歩をし我が襟度の寛容さを示して彼を講和に誘導してみてはどうか」

と提案するなど、如何にして急速に戦争を終息すべきかを研究しており、梅津美治郎と共に次期首班候補として名前を挙げられていたからである。近衛は、会談劈頭、

 「満洲事変発生以前より石原莞爾はソ連の復仇乃至共産主義の南下を恐れ早きに於いて之に痛撃を加えざるべからずと考えていた。之が為には我が国の軍需生産増加を必要とするのみならず国内体制も亦更新を要すとし、彼の影の人たる宮崎正義をして産業五カ年計画之に伴う国内革新案(註、中止された政治行政機構改造案)を作らしめた。この二案は池田成彬、結城豊太郎君も一読し両君共納得出来る議論だとして居た。

 石原は満洲事変には其の対ソ連観から大いに努めたけれ共、之を拡大し支那事変に導くが如き考え方には反対した。之が為に追われて晩年不振であったが、彼の作らしめた産業五カ年計画及び国内革新案は其の儘軍に保管されて居た。之を軍の新進気鋭の徒が読んで大いに之に共鳴し、世の所謂新人乃至革新派の連中に近付き之が実現の方策を練らしめた、所が此の「新人」の内に共産主義者が居り、彼等は軍を利用して其の理想を具現せんと決意し切りに軍の新進に取り入った。何しろ「新人」は頭がよく其の理論も一応条理整然として居るので軍の新進は何時の間にか之に魅せられ、国内革新を目標に、而して其の手段として長期戦争を企てるに至ったのである。要するに陸軍の「新人」は作戦上の必要に藉口し、独断で戦争を拡大し、之に依って国家改造を余儀なくせしめんと計画したのである」

と陸軍中堅層が抱懐するという『国家革新の陰謀』に言及し、

 「陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にまで追い込んで仕舞った。しかも其の目的は戦争遂行上の必要に藉口し、我が国の国風、旧慣を破壊し、革新を具現せんとするのである。此の一派の率いる陸軍に庶政を牛耳られては国家の前途深憂に堪えない。
 翻って所謂革新派の中核となってる陸軍の連中を調べて見ると、所謂統制派に属する者が多く荒木、真崎等の皇道派の連中は手荒い所はあるが所謂皇道派で国体の破壊等は考えて居らず又其の云う所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為に手段を選ばず、しかも次々に後継者を養っている」

と警告を発し、小林大将に、後継首班を引き受け、この「赤に魅せられた」陸軍の革新派を速やかに粛清することを要請したのである。
 小林大将は、かねてから岡田啓介大将から陸軍内に斯くの如き恐るべき動きのある事を薄々聞いていたが、岡田自身も余りこれを信用しておらず、小林大将もまた「真逆」と思って重視していなかった。彼は、自分の微力は総理の任にあらざる旨を答えたが、近衛から改めて「陸軍統制派アカ論」を聞かされ、とにかく早く戦争を止めねばならないと痛感したのであった(1)。

 この近衛小林会談から一週間の後、陸軍中央は、近衛の警告を裏付けるが如く、彼等の正体を明らかにしたのである。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

三月二十五日(昭和十八年)

 独伊対米英間の和平工作に対し帝国今後の戦争終末指導方策としての施策を課として研究することを発意し其の内容を概ね左の如くする様課長、種村中佐間に決定す

1、独ソ和平工作との関係

2、和平工作に関する英米への路線の設置

3、欧州局部和平と東亜問題切離し防止策

4、対重慶和平工作

5、和平条件(世界和平構想に基く帝国の和平条件)

6、和平工作実施要領

三月二十八日

 日ソ及独ソ国交調整問題を解決せんが為に対ソ問題に関連する日独間の三国同盟締結以来の交渉事項を慎重に検討し之を参考として種村中佐起案の「帝国を中心とする世界戦争終末方策に就て」を研究す。研究の結果を田中中佐整理を担任し若干の修文の他

1、戦争終末の様相に関する観察、2、世界新秩序の構想を添加することとなれり

三月三十日

 一、帝国を中心とする世界戦争終末方策に就て    

 昨日当課に於て研究せる原案を基礎とし、軍務局長(註、佐藤賢了)、第一部長(註、綾部橘樹)、軍事(註、西浦進)、軍務(註、二宮義晴)、第二(註、真田穣一郎)、第十五課長(註、戦争指導、松谷誠)集いて意見の交換あり、本日の研究の結論左の如し

1、速かに世界戦争終末方策に関する準備をなす、之が為に情報網の拡充強化、政治工作の準備陣の構成を図るものとす

2、次回研究会迄に研究準備し置くべき事項

イ、日支和平の具体的研究 

ロ、独ソ和平の利害方法、条件、時機の研究 

ハ、世界和平の構想

ニ、武力戦を主体とする戦争指導要綱に準じ物的方面より数年間を見透し政略的戦争指導計画を作成すること


帝国を中心とする世界戦争終末方策 昭和十八年三月二十五日(2)

一、世界和平成立に関する観察

 各国共に国防国家体制を整備しあること、和平を主宰し得るに足る強大なる中立国の存在せざること、日独の離間無き限り両陣営間の決戦を求め難しこと等に依り世界和平の成立特に講和会議の形式を以てする和平の成立は極めて困難にして長期戦の結果睨み合いたる儘局部的の部分和平(日蒋和平、独英、独ソ和平等)を見漸次数個の広域圏を形成し先ず事実上の和平状態に入る公算多かるべく時として日独英米和平の形式となること絶無ならざるべし。

二、和平問題に対する本質的観察に就て

 和平は謀略にあらず政略にあらず戦争の本質にして戦争指導の到達点なり帝国亦開戦前廟議に於て「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を定め爾来時に一張一弛ありしも概ね此の線に沿いて戦争を指導しつつあり。

 独伊英米も亦各々異なる自己的立場に於て自ら然るべき戦争終末の腹案を有し之が準備を行うは当然なるべし而して之が準備と実行とは別にして準備は即ち主に謀略分野に於て不断に存すべし唯之が実行の方法と時期に就ては日独伊三国共同戦争遂行上相互了解の下に律すべきは三国責任者の信義にして条約上の義務なり。

 而して日独伊戦争指導上最大の弱点は各々の抱懐する戦争終末に関する方策を其の責任者に於て之を吐露するの機会を有せざるに存す。

 若し将来三国間に相互の了解を得ることなく三国条約、三国協定、軍事協定の三大基本条約に抵触離反するが如き妥協和平等の事態生起することありとせんかそは即ち枢軸側の抱懐する世界新秩序建設企図の挫折を意味すべく其の原因は叙上の欠陥に由来すべし。

 今日最も信頼し合うべき日独伊三国就中独伊対日本が条約上の覊絆を唯一の頼にし揣摩憶測の間に三国共同の戦争を実行せざるべからざる状態にあるは最も憂るべき不幸なる因子なるを以て速に相互の直接連絡に努むることは三国の抱懐する戦争指導の真実を確め得て三国の結束を堅め世界戦争指導の主導権を把握する為現下喫緊の方策たるべし。

 尚現事態に処しては和平に関する突発的不幸なる事態の防止並我積極的方途の打開方策に関し余すところなきを要す。

三、独ソ和平工作と独英和平工作との関係

(イ)独伊対英米和平に就き其の成立の能否に関しては別問題とするも曩に独逸は三国条約を事実上一方的に破棄し独自体の為対ソ作戦を敢行せし例に鑑み之が突発的惹起を見ること絶無にあらざるべく然る時我の蒙るべき害たるや致命的のものあり。

 従って帝国は常に率直に独側責任者に対し世界戦争指導に関する帝国の真意を申入れ必勝の信念の下に協同して対英米戦争を完遂する如く施策し欧洲に於ける局部和平のみの成立は絶対に防止するに努むると共に予め其のあることを予期し準備するを要し少くとも大東亜戦争の処理を欧洲戦争処理より脱落せしめざる如く世界情勢の機微を洞察して施策尽さざるべからず。

 而して独ソ和平成立し三国の対英米絶対的優勢を確保し得たる場合三国共同して対英米和平工作を策し速かに戦争終末を図るを可とするは当然なりとす。

 即ち帝国は独伊をして独英和平を独ソ和平に先んじ行うは帝国との了解有無に拘らず三国共同の戦争完遂上絶対封止せしめざるべからず。

(ロ)独ソ和平は三国共同戦争完遂の根本義に一致しあり然も独をして従来の行懸りを清算せしめソをして対独迷夢より翻意せしめ得るものは世界に於て帝国を措いて他無く日独伊日ソ間に現存する諸条約は之が実行に何等の矛盾するものにあらず。

 帝国がソの絶対信用を獲得する工作は独ソ和平斡旋の前提条件なり。

四、和平工作に対する英米への路線の設置

 和平工作の準備は政略的に謀略的に大いに行い其の気運の醸成に努め機微の間に処して之が工作実施に着手せざるべからず。日米英外交官の交換船が日米英相闘う真只中に於て行われたるにあらずや正に国際障壁突破の方途は存すべし。中立国又大いに利用すべし、三国共同たるも可なり、三国個々に行うも可なり。

 右は和平気運の有無に関せず事前より最大限の努力を傾倒すべきなり。重慶和平工作を行わざる帝国が対重慶諜報路工作に専念するも尚至らざる苦衷を想察せば世界戦争指導の主動権を把握する為之が路線の速かなる設定に努力するは当然なり。「スペルマン」の訪伊「チアノ」の「バチカン」使節等々戦争指導上の奥義たるべく却て此等を一笑に附するものの愚を笑わざるべからず。事茲に至れば帝国遣欧使臣の低劣我外交使陣の貧弱を嘆くのみ。

 茲に於て独伊との連絡を更に緊密にするの他諜報網の拡充強化特に有力なる政治工作網の新展開は速かに実行すべき緊急事項とす。 

五、東亜問題切離し防止策

(イ)日独連絡飛行の完成

(ロ)右に伴う三国責任者の会同

(ハ)日ソ国交の調整

(ニ)右に伴う独ソ和平の促進

(ホ)対米英海上交通の破壊徹底による米英戦意の逓減

(ヘ)東亜に於ける帝国戦果の拡大

(ト)対重慶工作の具現

(チ)帝国を中心とする大東亜の結束

(リ)相互必需物資の交換促進。就中日ソ国交調整に伴い帝国の仲介による独ソ和平の実現は世界戦争指導の主導権を枢軸に於て把握するの端を発し和平に関し東亜問題切離し防止の最大因子たるべし之が為には日独連絡飛行の具現を以て速急の手段とす。

六、重慶との和平工作(省略)

七、戦後に於ける世界和平の構想

(1)世界新秩序の構想(省略)

(2)世界和平に処する帝国の和平条件

  戦争目的たる大東亜の新秩序建設を達成する為昭和十七年二月二十八日決定「帝国領導下に在らしむべき大東亜新秩序建設の範域」を認めしむるを本則とし和平工作時に於ける全般情勢に基き和平条件の細部を決定す。但帝国は大東亜圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の責任を負い同圏内居住民族は独立を維持せしめ又は独立せしむるか或は応能自治を許与するを原則とし独立国の主権及領土は徹底的に尊重し帝国を盟主とする大東亜共栄圏の一環に於て諸外国との外交交易を認むるを一般方針とす。

八、戦争終結の為機会補足要領

 帝国は独伊と提携を密にしつつ戦争終結の為積極的に左記の如き機会を捕捉するに努む

(イ)日独伊ソ国交調整成功の直後

(ロ)対重慶和平工作成功の直後

(ハ)対英上陸成功し若くは海上交通破壊戦の徹底により英を涸渇化せしめたる時機

(ニ)米英の国内動乱相互結束の弛緩時期 

(ホ) 独の単独の利害打算より行う局部和平の時機


大東亜戦争終末方策 昭和十八年九月十六日、参謀本部(3) 

第一 戦争目的

 帝国の戦争目的は自存自衛を全うし大東亜の新秩序を建設するに在り。

第二 戦争指導方針

一、帝国が昭和十九年夏秋の候を期し主敵米に対し必勝不敗の戦略態勢を確立し政戦両略の諸施策を統合して自主的に戦争終末の機を捕捉するに努む、已むを得ざるも昭和二十一年を目途とし米英の戦意を喪失せしむ。此の間為し得る限り速かに支那問題の解決を図ると共に世界情勢の急変に対処するの諸準備に遺憾なきを期す。

二、戦争間極力対ソ戦争の惹起を回避す之が為万已むを得ざるに至らば独伊との提携を犠牲とせざるべからざることあるを予期す。 

第三 要 領

 要 旨

一、戦争完遂の為の諸方策は戦争の終始を通じ戦略方策を根幹とし之に政謀略の諸施策を統合発揮するを以て本旨とす。

二、尊皇殉国の精神を中心とする国民の団結と強力且縦深ある戦争指導の一元的発揮は戦勝の要訣とす。

 其の一 戦略方策

一、万難を排して遅くも昭和十九年末迄に対米長期不敗の戦略態勢を確立す、之が為一時戦力の基盤に低下を見ることあるを与期す。

 帝国の戦争目的達成の為国運を賭して確保すべき要域は一般情勢大なる変化なき限り千島小笠原内南洋及西部ニューギニアの要域スンダ、ビルマを含む圏域とす(註、絶対国防圏)。

二、大東亜圏内主要交通線の安全を確保し戦力並国力の機動性発揮に遺憾なからしむ。

三、軍防空を強化し特に首都重要諸施設占領地の致命部等の防衛に遺憾なきを期す。

四、独伊と提携し海上交通破壊戦を徹底強化すると共に全世界に亘り米英戦力の威嚇眩惑分散を目標とする海空の奇襲、ゲリラ作戦を展開す。

五、ソに対しては極東ソ軍を牽制するを限度として極力我負担の減少を図る。情勢真に已むを得ず対ソ開戦に至りたる場合は対ソ長期戦を予期し戦争遂行上必要最少限の要域占拠を以て限度とす。

六、重慶に対しては当分の間現戦略態勢を保持しつつ支那大陸よりの我本土空襲を局限するを以て限度とし政謀略を統合して之が切崩し脱落を策するも対米英長期不敗の戦略態勢確立し且我戦力強化拡充するに伴い武力を行使して対支問題の根本的解決に努む。右の時期は早くも昭和二十年と予定す。

七、対米英決勝の為の戦略的方途の発動は遅くも昭和二十一年と予定し当時の情勢により之を定む。

 其の二 政略方策

一、日ソ戦回避方策

(イ)対米英必勝

 帝国の対米英戦必勝は対ソ戦回避並米ソの対日軍事提携阻止の最大方策たると共に対米戦略態勢の破綻は対ソ戦惹起の最大誘因たるべきに鑑み専ら対米英必勝に邁進す。

(ロ)日ソ国交の調整

 帝国は日ソ間の友好親善を促進し且ソの対米対独態度を偵知する為日ソ諸懸案の解決に努む。

(ハ)独ソ和平の斡旋

 独が昭和十九年春夏の候に予想せらるる米英の大規模第二戦線を撃摧若くはソの本冬季に於ける反抗を徹底的に頓挫せしめたる場合或は独の二正面戦争遂行の危機を予知したる場合に於ては帝国は進んで独ソの和平を斡旋し日独の綜合戦力を米英撃滅に集中発揮するに努む。之が為先ず誠意を披瀝して独を説得し次いでソの導入を図る。本施策遂行に当りては絶対に日ソの惹起、日独の離間を防止す。

 独ソ和平の斡旋は大局的見地に立ち独の譲歩下に成立せしむるを以て本旨とし其の条件別紙第一の如し。

(ニ)独ソ和平の突発に対する態度

 独ソ和平突発せる場合は表面ソをして厳正中立を再宣言せしむるを限度とし密に日独ソ間国交の恢復親善を図り進んで日独ソ提携世界平和への導入を策す。

(ホ)独の日ソ戦強要に対する態度

 欧洲に於ける独の戦勢不利に陥り独が帝国に対し対ソ参戦を要求せる場合に於ては既定方針に基き帝国の真に対ソ戦回避の已むを得ざる事情を明確且懇切に回を重ねて回答するものとし独の最後的態度如何に依りては日独提携を犠牲とするも尚且対ソ静謐を堅持するものとす。

(へ)対米英戦争間米が東部ソ領の基地を利用せるを確認せる場合は機を失せず先ずソ側の反省を促すものとし帝国は飽く迄日ソ戦の回避に努むるものとす。

(ト)対米英戦争間国境紛争を厳に防止し特に之に基く意図せざる対ソ戦の惹起を絶対に回避す。

(チ)対米英戦争間遂にソ側より全面的攻勢を受けたる場合は直ちに開戦す。

二、日独提携の促進並独の対英米単独講和防止策

 戦争相手の不一致に因る日独離間の虚隙存するに鑑み帝国は対ソ戦絶対回避の方針に反せざる限り周到に左記の諸施策を尽して日独の提携緊密化を図り併せて独の対英米単独講和突発防止に遺憾なきを期す

(イ)日独相互の連絡手段の確実

(ロ)独の戦争遂行能力の実相並政戦謀略企図の諜知

(ハ)大陸に於ける対ソ牽制

(ニ)太平洋を通ずる米の援ソ物資の入ソ制限

(ホ)大東亜経済建設に独側の参加協力容認

(ヘ)枢軸共同の戦後経営方策の確立並之が宣言

三、独の対英米単独講和突発に伴う対処方策

 帝国は日独の提携緊密化を図りつつ極力独の対英米単独講和を防止するに努むるも万一突発せる場合は其の動因が独若くは英米何れかの戦意喪失によるか或は独が対ソ戦徹底の為の偽装和平なるか或は英米がソの欧洲赤化防止の為の偽装和平なるか、何れの場合に於ても帝国は単独対英米戦を遂行せざるべからざるの悲運に到達すべきを以て機を失せず左の如く措置す。

(イ)帝国は独に対し三国協定に基き対米英和平に参加すべき旨を申入れ極力対英米和平の成立を図る。

(ロ)独側にして我申入れに応ぜざる場合は日ソ国交調整を促進しつつ独ソの和平を斡旋し進んでソを介して対米英和平に導入する如く努む。

(ハ)前諸項に関する帝国の努力も亦水泡に帰したる場合は帝国は三国同盟を破棄し敵を本土に迎うるも尚且米英に対し徹底抗戦す。

 此の間日ソ戦の回避に関し万般の措置を講じつつソ連、重慶、中立国「バチカン」等を介し或は直接米英本国に偵諜の手段を加えつつ極力戦争終末の機を捕捉するに努む。

四、日蒋和平方策

(イ)支那問題は大東亜戦争の動因たると共に之が根本的解決は対米英戦必勝を容易ならしむるの重大要素たるに鑑み東亜の戦局有利に進展するか欧洲に於て独が昭和十九年春夏の候に予想せらるる米英の第二戦線を撃摧する等米英側戦勢停頓の好機に乗じ対重慶政治工作を発動し一挙之が解決を図る。

(ロ)本施策は縦い之を失敗せる場合に於ても我対支既定方針に撞着を来さざる如く細心の留意を払うものとす。日蒋和平の為の条件別紙第四の如し。

(ハ)速かに対奥地経済停戦を行い逐次重慶側の切崩し及日蒋和平に進展する如く施策す。

五、大東亜諸国家諸民族処理方策

(イ)戦勢の帰趨如何を問わず既定方針を堅持しつつ皇軍威武の下諸国家諸民族の闘魂を喚起しつつ帝国に対する戦争協力を確保増進す。

 戦勢已むを得ず敵側の勢力下に帰せしめざるを得ざる国家及民族に対しても米英の桎梏より大東亜を解放する為戦う道義日本に対する精神的連鎖を保持せしむる如く努む。

(ロ)昭和十九年末を目標とし日満支に於ける国防自給の高度化を確立す。

(ハ)昭和二十年末を目標とし南方資源の現地生産及自給の高度化を促進す(中略)。

 其の五 世界終戦

一、世界終戦の様相は日独提携戦政略の手段を尽したる場合に於て米英の戦意喪失せしめ比較的有利なる条件を以て戦争終末を図り得るを以て限度とし之が為の帝国の条件は戦争目的に鑑み概ね別紙第二の如く定む。

二、独の対米英単独講和若くは「ヒ」政権の崩壊等により帝国が独力対米英戦争を遂行せざるべからざるが如き場合世界終戦の為の帝国の条件は概ね別紙第三の如く定む。

三、米英より概ね別紙第二の講和条件を提議し来りたる場合は速かに独を誘いて日独対米英終戦を図る若し独にして対米英和平に応ぜざる場合は戦争目的に鑑み米英に対し単独講和を行い世界終戦に導入することあり。

別紙第一

  独ソ和平斡旋条件

一、独を納得せしむる件

(イ)沿「バ」三国及東部「ポーランド」(独ソ開戦前のソ領地域)はソ領たるべきことを認めしむること

(ロ)独はソの必要とする機械類原料を供給すること

二、ソを納得せしむるを要する件

(イ)休戦後一年以内保障措置として沿「バ」三国「ウクライナ」及所要地点に独軍の駐屯を認めしむること

(ロ)沿「バ」三国及東部「ポーランド」及「ウクライナ」西部接壌地帯は之を非武装地帯とすること

(ハ)独の必需物資特に石油食料を供給すること

(ニ)日ソ中立条約確認方日ソ共同声明すること

三、独ソ和平斡旋に伴いソの要求により帝国の態度を明らかにするを要する件

(イ)北樺太利権の移譲

(ロ)日満ソ間交通の疎通

(ハ)満ソ国境非武装地帯の設定

(ニ)防共協定の廃棄

(ホ)外蒙古及新彊省の割譲斡旋

四、独ソ和平斡旋に伴い独の要求により帝国の態度を明らかにするを要する件

(イ)ソが斡旋に応ぜざる場合帝国は対ソ武力調停を行わざるものとす

(ロ)ソが調停に応じたる後偽装和平し独を攻撃せる場合帝国は対ソ武力協力は行わざるものとす

別紙第二

  世界終戦の為比較的有利に妥協を為し得る場合の条件

一、対米英

 左記条件の下に帝国指導下の大東亜新秩序の建設を認めしむ

    左 記

1、政治的条件

(イ)「ビルマ」、「フィリッピン」、支那、満洲、泰の完全独立を認む

(ロ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャバ」、「ボルネオ」、「セレベス」を含む地域を東部印度連邦とし高度の自治を容認す

(ハ)支那に関しては日支両国間の協議により決し香港を支那に返還す

(ニ)大東亜戦争間帝国と(1)の(イ)の各独立国との間に締結せられたる条約を認むること

2、経済的条件

(イ)大東亜諸地域に於ける帝国の必要とする重要国防資源の優先的取得を認む

(ロ)交通特に航空及通信の帝国の独占的掌握

(ハ)(イ)(ロ)以外の通商交易の機会均等          

3、

(イ)各独立国には其の国の防衛に必要最少限の治安軍(海軍は沿岸警備に必要なる程度)及警察を保有せしむ

(ロ)空軍は帝国之を掌握し一元的運営に任ず 二、対米英交渉に関し対ソ戦を回避する為対ソ譲歩を必要とする場合

 1、満ソ国境に非武装地帯を設置す

 2、防共協定を廃棄す

 3、北樺太利権の解消

 4、亜欧交通の打通 
                                 
別紙第三

  世界終戦の為不利なる妥協をせざるを得ざる場合の講和条件

一、対米英(註、国体の変革が含まれていない)

(イ)無併合、無賠償

(ロ)米の四原則の承認

(ハ)三国同盟の廃棄

(ニ)支那に関しては日支事変以前への復帰

(ホ)仏印以南の東亜細亜南太平洋地域の昭和十五年九月以前状態への復帰

(ヘ)内太平洋の非武装

(ト)日米通商関係の資金凍結前への復帰

二、対米英交渉に関連し対ソ開戦を回避する為対ソ譲歩を必要とする場合

(イ)満洲国の非武装

(ロ)北樺太利権及漁業権の返還

(ハ)亜欧連絡の打通       

別紙第四

  対重慶和平条件

一、南京、重慶の関係に就きては支那の国内問題として之を取扱い支那側自身に於て適宜処断するところに委するものとし要すれば蒋介石をして国民政府の首班たらしむることを認む

二、日華同盟条約を承認せしむ

三、速かに停戦を為し且経済封鎖を解く

四、支那に於て交戦国の軍隊の戦闘行為を認めず

五、当分の間支那側の対米英中立を認む

六、支那本土と南方華僑との政治的、経済的結合連鎖の承認

七、香港を返還す


 帝国を中心とする世界戦争終末方策および大東亜戦争終末方策において、陸軍中枢は我が国の戦争目的を「大東亜新秩序の建設」とし、「日ソ間の友好親善の促進」「独ソ和平の斡旋」を図り、日独の綜合戦力を米英撃滅に集中発揮し、次いで日独側に「ソ連の導入」を図るという。この陸軍中枢の戦争指導方針は、

 「戦争は飽くまで世界的な米英陣営対日独伊陣営の間に行われるのでありますから、欧州での英独対抗の結果というものがまた直接問題となるでありましょう。つまり東西いずれの一角でも崩壊するならば軈て全戦線に決定的な影響を及ぼすことになるからであります。この観点から見る場合、ドイツとイギリスとは同じ位の敗退の可能性を持つものと思われたのであります。私の立場から言えば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終わるのでは甚だ好ましくないのであります(註、日独の勢力圏が英米の支配下に入り資本主義化するからである)。

 (大体両陣営の抗戦は長期化するであろうとの見透しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝に終わらしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考えました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を東亜新秩序創建の絶対条件であるということをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを籠めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張と殆ど矛盾することなく主張される点であります。ところで、現実の戦争の進出過程に照らして以上の如き私の見解と予想は如何に喰い違って来たかと云う点について若干反省を加えて見たいと思います。先ず第一に私の予想の違った点は、昨年六月の独ソ開戦であります。私達はソ連があくまで帝国主義諸国の混戦に超然として実力を保存すべきものであると考えていました」

という尾崎秀実の獄中手記とほとんど変わらない。

 尾崎が、支那事変勃発から逮捕されるまで、近衛文麿の最高政治幕僚として近衛に助言し或いは支那問題の権威として多数の戦時論文を発表し、大衆世論を煽動し、我が国の国策を思うままに操り、「東亜新秩序」「東亜協同体」の実現を目指してきたことは既述した通りである。

 尾崎は、獄中手記と、彼が逮捕される直前に執筆した「改造昭和十六年十一月号大戦を最後まで戦い抜くために」の中で、彼が推進してきた「東亜新秩序」構想と第二次世界大戦の本質を、僅かではあるが偽りなく告白しているのである(4)。まず獄中手記から見ていこう。尾崎は、

 「私は第二次世界戦争は必ずや、第一次世界大戦に続いて再び帝国主義諸国間の世界分割に終ることなくして、世界変革―世界共産主義革命が完全に成就しない迄も決定的な段階に達することを確信するものであります。今次の世界戦は資本主義社会の総決算たるべき運命を背負ったものであろうと確信致して居るのであります。」

と断言し、その理由として

一、世界帝国主義相互間の闘争は結局相互の極端なる破壊を惹起し、彼等自体の現存社会経済体制を崩壊させる。

 帝国主義陣営は型通り、正統派帝国主義国家群とファッショ派帝国主義国家群とに分裂しているが、此の場合戦争の結果は両者共倒れとなるか、又は一方が他方を制圧するかであり、敗戦国家に於ては第一次世界大戦の場合と同様プロレタリア革命に移行する可能性が最も多く、又仮令一方が勝残った場合でも戦勝国は内部的な疲弊と敵対国の社会変革の影響とに依って社会革命勃発の可能性がある。  

二、共産主義国家たる強大なソ連邦の存在。

三、植民地、半植民地がこの戦争の過程を通じて自己解放を遂げ、その間に或る民族に於ては共産主義的方向に進む。少なくとも支那に対しては斯る現実の期待がかけ得られる。

を挙げた。

 そして尾崎秀実ら共産主義者が目指す理想は「世界大同」であり、「国家的対立を解消して世界的共産主義社会の実現すること」である。なぜならば、レーニンを崇拝する尾崎によれば、帝国主義政策の限りなき悪循環すなわち戦争から世界の分割、更に新なる戦争から資源領土の再分割という悪循環を断ち切る道は、「国内に於ける搾取被搾取の関係、国外に於ても同様の関係を清算した新なる世界的な体制を確立すること以外にありません。即ち世界資本主義に代わる共産主義的世界新秩序が唯一の帰結として求められ、全世界に亘る完全な社会主義計画経済が成立して始めて完全な世界平和が成立すると思われる」からである。

 そして以上の如き予想に基いた現実の形態と更にこれに対処する方式として尾崎がしきりに心に描いたことは、

 「第一に、日本は独伊と提携するであろうこと。第二に、日本は結局英米と相戦うに至るであろうこと。第三に最後に我々はソ連の力を藉り、先ず支那の社会主義国家への転換を図り、これとの関連に於いて日本自体の社会主義国家へ転換を図る」

ことであり、第二次世界大戦における日本の進むべき道として次のように述べた。

 「日本は結局に於て英米との全面的衝突に立ち至ることは不可避であろうことを夙に予想し得たのであります。勿論日本はその際枢軸側の一員として立つことも既定の事実でありました。此の場合日本の勝敗は単に日本対英米の勝敗によって決するのではなく枢軸全体として決せられることとなるであろうと思います。日本は南方への進撃に於ては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るでありましょうがその後の持久戦により消耗が軈て致命的なものになって現れ来るであろうと想像したのであります。而も斯かる場合に於いて日本社会を破局から救って方向転換乃至原体制的再建を行う力は日本の支配階級には残されて居らないと確信しているのであります。結局に於て身を以て苦難に当たった大衆自体が自らの手によって民族国家の再建(註、敗戦革命のこと)を企図しなければならないであろうと思います。

 ここに於いて私の大雑把な対処方式を述べますと、日本はその破局によって不必要な犠牲を払わされることなく立ち直るためにも、又英米から一時的に圧倒せられないためにも行くべき唯一の方向はソ連と提携し、これが援助を受けて、日本社会経済の根本的立て直しを行い、社会主義国家としての日本を確乎として築き上げることでなければならないのであります。日本自体のプロレタリアートの政治的力量も経験も残念ながら浅く、而も充分な自らの党的組織を持たないことのためにソ連の力に待つ点は極めて多いと考えられるのであります。英米帝国主義との敵対関係の中で日本がかかる転換を遂げる為には、特にソ連の援助を必要とするでありましょうが、更に中国共産党が完全なヘゲモニーを握った上での支那と、資本主義機構を脱却した日本と、ソ連との三者が緊密な提携を遂げることが理想的な形と思われます。以上の三民族の緊密な結合を中核として先ず東亜諸民族の民族協同体の確立を目指すのであります。東亜には現在多くの植民地、半植民地を包括しているので、この立ち後れた諸国を直に社会主義国家として結合することを考えるのは実際的ではありませぬ。

 日ソ支三民族国家の緊密有効なる提携を中核として更に英米仏蘭等から解放された印度、ビルマ、タイ、蘭印、仏印、フィリッピン等の諸民族を各々一個の民族共同体として前述の三中核体と政治的、経済的、文化的に密接なる提携に入るのであります。この場合それぞれの民族共同体が最初から共産主義国家を形成することは必ずしも条件ではなく過渡的には夫々の民族の独立と、東亜的相互連環に最も都合良き政治形態を一応自ら択び得るのであります。尚此の東亜新秩序社会に於ては前記の東亜諸民族の他に蒙古民族共同体、回教民族共同体、朝鮮民族共同体、満洲民族共同体等が参加することが考えられるのであります。

 申すまでもなく東亜新秩序社会は当然世界新秩序の一環をなすべきものでありますから世界新秩序完成の方向と東亜新秩序の形態とが相矛盾するものであってはならないことは当然であります。

 世界的共産主義大同社会が出来た時に於ては国家及び民族は一つの地域的、或は政治的結合の一単位として存続することとなるのでありましょう、かくの如く私は将来の国家を考えているのであります。この場合所謂天皇制が制度として否定され解体されることは当然であります。しかしながら日本民族のうちに最も古き家としての天皇家が何等かの形をもって残ることを否定せんとするものではありません。」

 次に、尾崎の「大戦を最後まで戦い抜くために」を分析しよう。これは、まず緊迫する日米の和平交渉中にアメリカが和平に可成りの関心を抱いている理由として、

一、アメリカが対独宣戦を決行するためには太平洋の艦隊を大西洋に廻す必要があり、日本艦隊によってその間隙を衝かれることを恐れる。  

二、シンガポールが攻略せられる場合は大英帝国のアジア支配の紐帯が根底から断ち切られることとなり、やがては一定期間の後必ず英国の植民地支配がくつがえることとなる。これは直ちにアメリカにとっても味方の陣営崩壊を意味する。

三、アメリカは今日ドイツを抑えるためにソ連を極力援助する態勢を示している。しかしながらもしもかりにこれに成功した場合を考えるならばソ連の勢力は抑制し難く強大となる道理である。ソ連に対する勢力はかかる場合には日本以外に存在しない。

の三点を挙げ、「第三の論理は、現在よしそれがいわれなく見えるにしても遠謀ある世界旧秩序の指導部の考慮の外に置かれる筈はないのである」と述べ、アメリカ国内に、フーバー元大統領らによって提唱されたが、戦時中は政府に理解されず、戦後になって高い評価を受けた「反ソ親日の反戦論」が存在することを指摘していたのである。モスクワを通じたアメリカ共産主義者と連絡、情報交換が行われていたのであろう。

 だが尾崎は、アメリカに対日宥和政策を欲する理由があるにせよ、アメリカと「一瞬又一瞬切実の度を刻む」経済制裁を受ける日本との間には、甚だしい認識、要求の差違があることを指摘して、日米和平交渉の決裂を示唆した後、日本国民が直面する第二次世界大戦の本質を述べた。

 「我々はここに当面の問題をしばし離れて現在の世界が当面する事態を更に一層深く観察する必要を感じる。

 欧州に戦争が始まった時人々はこれを英独の決闘であると見た。しかしながらソ連をも捲きこんだ現在ではこれを第二次世界大戦と見ることに何人も意義を挿まないであろう。私見では、これを世界史的転換期の戦と見るのである。

 英米陣営では独ソ戦が起った時、ひそかに英米旧秩序陣営の勝利に導くものとしてほくそ笑んだのである。この種の見解はひとり英米陣営側のみならず中立的陣営乃至反対側にすら多少浸透しつつありと見られる理由がある。英米側は旧秩序の再建―修正的復元―を夢みつつある。しかしながらこれは全くいわれなきことであって、それは今次の大戦の勃発するにいたった根本の理由を見れば明かなことである。

 旧世界が完全に行詰って、英米的世界支配方式が力を失ったところから起った世界資本主義体制の不均衡の爆発に外ならないこの戦争が、英米的旧秩序に逆戻りし得る可能性は存在しないのである。戦争はやがて軍事的段階から社会、経済的段階に移行するであろう。

 この点についての詳細は論究は他日に譲るとして、以上のことと関連して我々は政治指導部に希望したいことがある。

 当局は日本国民を率いて第二次世界大戦を戦い切る。勝ち抜けるという大きな目標に沿うて動揺することなからんことである。日米外交折衝もまたかかる目的のための一経過として役立たしめた場合にのみ意味があるものといい得る。又今日日本には依然として支那問題を局部的にのみ取扱わんとする見解が存在している。これは世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない性質のものであると観念すべきものであろう。

 私見では、第二次世界戦争は「世界最終戦」であろうとひそかに信じている。

 この最終戦を戦い抜くために国民を領導することこそ今日以後の戦国政治家の任務であらねばならない。」

 尾崎秀実が、第二次世界大戦を「世界史的転換期の戦」と言ったのは、世界資本主義から共産主義的世界新秩序への転換の為の戦だという意味である。だから彼は「この戦争が英米的旧秩序(英米資本主義体制)に逆戻りする可能性はない」と言うのであり「戦争はやがて軍事的段階から社会、経済的段階に移行する」というのは、戦争がやがて敗戦、内乱、資本主義の自己崩壊から、共産主義革命(敗戦革命)へ移行するという意味であり、「支那問題は、世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない」というのは、中国共産党が支那大陸のヘゲモニー(覇権)を完全に握るまで支那事変は解決されないという意味であり、第二次世界大戦を「世界最終戦」と言ったのは、この戦争で世界資本主義が総決算となり共産主義的世界新秩序が必ず実現するので、レーニンが言った様に、戦争も消滅し、この戦争が人類の経験する最後の戦争となるという意味である。

 おそらく尾崎秀実は、彼を大喝した石原莞爾の姿を脳裡に浮かべながら、石原の「世界最終戦論」が想定する時期よりも早く、人類の理想である世界恒久平和を実現してみせるという尾崎自身の決意を込めて、この論文を執筆したのであろう…。

 そして尾崎が、石原と同様に「日本は南方への進撃に於いては必ず英米の軍事勢力を一応打破しうるでしょうがその後の持久戦により消耗が致命的なものとなって現れ来るであろう」と想像し、「而もかかる場合に於て日本社会を破局から救って方向転換乃至原体制的再建を行う力は日本の支配階級には残されて居らない」と確信しながら、「大戦を最後まで戦い抜くために」と題し、政治指導部に対して「当局は日本国民を率いて第二次世界大戦を戦い切る。勝ち抜けるという大きな目標に沿うて動揺するな」と希望したのは、日本の対米英戦が敗戦革命に移行し、日本が共産主義化するまで戦争をやめるな、完遂せよという意味である。
 東條英機は、近衛文麿に代わり、国民を領導して対米英戦を戦い抜き、我が国を敗戦革命に追いやるという戦国政治家の任務を負わされたのである(4)。

 昭和十七年十二月二十一日我が国の御前会議は、「南京政府の対米英参戦を日支間局面打開の一大転機とし、治外法権租界の撤廃、北支内蒙の特殊地域化の放棄、日本の権益主義に満ちた日華基本条約の改訂を実行し、南京政府の政治力強化を図ると共に重慶抗日の根拠名目の覆滅を図り真に更生新支那と一体戦争完遂に邁進する」ことを定める「大東亜戦争完遂のための対支処理根本方針」を決定した。

 この対支処理根本方針の理念を大東亜地域に拡大し、米英の大西洋憲章に対抗して我が国の戦争目的を世界に向けて宣明するという重光葵の遠大な構想提言に基づき、東條内閣は、昭和十八年初頭から「大東亜戦争完遂に付ての協力に関する日華共同宣言」「租界還付及治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定」の調印を端緒として我が軍の占領下にあった東アジア各地域を順次独立させる大東亜外交を展開し、十一月五日には、東亜各国―日本、満洲国、南京中華民国、タイ、ビルマ(八月一日独立)、フィリピン(十月十四日独立)及び自由インド仮政府(十月二十三日日本政府承認)の首脳が大東亜会議を開催、大東亜共同宣言を発表し、戦争目的を国内外に向けて高らかに宣言した。

 各国代表の中で最も深く篤い信頼を日本に寄せるチャンドラ・ボースの演説は、格調高く、イギリスの桎梏からインドを解放しようとする熱い闘志と悲壮な決意に満ちており(5)、各国出席者の心を打ち、翌年一月七日、東條首相は、ボースの期待に応えるべく、かねてより参謀本部とビルマ方面軍が検討していたインパール作戦を認可した。

 だが同じ頃、陸軍省部を支配し近衛、東條内閣の下で対米英開戦を強硬に主導し、ハル・ノートに対し「天佑とも云うべし」と喝采を送り、「吾人は孫子の代迄戦い抜かんのみ、真に世界歴史の大転換なり、百年戦争何ぞ辞せん」と叫んだ参謀本部戦争指導班を中心とする統制派革新幕僚は、彼等が尾崎秀実の「東亜新秩序」構想を共有していたことを明らかにしていたのである。

 真に奇妙なことであるが、昭和十八年以降、近衛文麿が周囲の要人に「陸軍統制派の陰謀」を警告する毎に、陸軍中枢の革新幕僚は、尾崎秀実の謀略構想そのままに、政府軍首脳を操り、「大東亜共栄圏」の理想を信じて戦う前線の将兵と内地の国民を欺きながら、東亜新秩序(東亜共産主義社会)の実現へ向けて、我が国を敗戦革命に追いやることを意図した「対米英戦完遂」、我が国の勢力圏にソ連を導入する事を意図した「対ソ徹底譲歩」、そして「日ソ支(中国共産党)提携結合」を執拗に主張してゆくのである。


(1)【終戦工作の記録上】六十七〜七十二頁「小林躋造回顧録」
 重臣のなかで、東條内閣の打倒を目標に最も早い時期に動き出したのは岡田啓介であった。それは彼が高度の情報網を持ち得たことと無関係ではない。身近なところでは長男の貞外茂(海軍中佐)は軍令部作戦課の一員であり、また女婿の迫水久常は「物動」の中枢ともいえる企画院第一部第一課長であった。さらに義弟・松尾伝蔵(陸軍大佐、二・二六事件で身代わりとなって射殺される)の女婿であった瀬島龍三陸軍少佐は、参謀本部作戦課員であった。これらの情報網の質の高さは陸海軍首脳のそれをはるかにしのぐものであったといわれる。
(2)【終戦工作の記録上】一二七〜一三二頁。もし独ソ和平が実現し、日独の戦力が英米に集中指向する場合、尾崎の言う通り、ソ連は帝国主義諸国の混戦に超然として戦力を恢復し、ドイツの背後を襲い或いは対独戦に投入されていた巨大な戦力を極東に展開し得るのである。だから昭和十六年十一月六日から十八年四月八日まで参謀次長を務めた田辺盛武中将は、昭和十七年三月七日、「独ソ和平は日本の北辺に圧力を増し害多し」と判断したのである。
 同年九月六日、ドイツ政府は、大島浩駐独日本大使に「日本の独ソ和平の企図は迷惑である」と抗議し、さらに極東ソ連軍の西送を指摘して、「日本はソ連に過度の保障を与えているのではないか」との疑念を呈し、日本が対ソ開戦に踏み切らないことを非難した。
(3)【終戦工作の記録上】一三七〜一四七頁。参謀本部第十五課(戦争指導)作成。
(4)三田村【戦争と共産主義】一九四、二一一〜二三五頁。【尾崎秀実著作集3】二六七〜二六八頁。
(5)伊藤【東條内閣総理大臣機密記録】三四〇頁参照。



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、東亜連盟運動の指導者であった石原莞爾の遺志を継ぎ、主として大東亜戦争に関する国民戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次資料を集め、資料に史実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次資料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究に於いて最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。

 弊サイト論文に対する御意見は是非ともゲストブック(BBS)で御指摘下さい。

 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード