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国民のための大東亜戦争正統抄史67~69帝国陸軍南進論者の正体

第三章、大 東 亜 戦 争 終 末 抄 史


【帝国陸軍南進論者の正体】


67、緒戦の快進撃

 日米開戦後、マレー上陸作戦とハワイ奇襲作戦を端緒として開始された我が軍の進撃は、まさに怒濤、破竹の如き勢いであった。

<日本軍の進撃>

昭和十六年(一九四一)

十二月八日、第二十五軍、マレー半島に上陸。十日、マレー沖海戦。陸軍南海支隊、海軍陸戦隊、グアム島を占領。第十四軍、フィリピンに上陸。十四日、第十五軍、ビルマに進攻。二十一日、日本タイ同盟条約成立。二十三日、海軍陸戦隊、ウェーキ島を占領。二十五日、第二十三軍、香港占領。

昭和十七年(一九四二)

一月十一日、日本、オランダに宣戦を布告(オランダの対日宣戦布告は前年十二月十日)。第十六軍、ボルネオ島に上陸。二十三日、陸軍南海支隊、海軍陸戦隊ビスマルク諸島ニューブリテン島ラバウル、ニューアイルランド島カビエンに上陸占領。

二月十五日、第二十五軍、シンガポール占領。二十七~二十八日、スラバヤ・バタビア沖海戦。

三月八日、陸軍南海支隊、海軍陸戦隊、東部ニューギニアのサラモサ、ラエを上陸占領。九日、第十六軍、蘭印を占領。二十三日、第十八師団、海軍陸戦隊、ベンガル湾アンダマン諸島を上陸占領。

四月五~九日、海軍機動部隊、セイロン島を空襲。

五月六日、第十四軍、フィリピンを占領。七~八日、珊瑚海海戦。陸海軍、東部ニューギニアのポートモレスビー攻略を延期。十八日、第十五軍、ビルマを占領。

 欧米白人勢力に寄生していた非合法ゲリラの抗日華人を除いて(1)、彼等の長きに亘る残酷な植民地支配に苦しめられていた東南アジアの現地住民は、我が軍の快進撃に驚愕昂奮歓喜し、「白人不敗神話」の迷妄から目覚めたのである。満洲事変時と同様に、現地住民の有形無形の支援協力を得ることに成功した我が軍は(2) 攻撃の目標と時期とを自由に選択し得る攻勢の利を最大限に活用してアジア太平洋地域の広範囲に分散していた連合軍を先制攻撃・各個撃破し、開戦後約五ヶ月の間に、約二十五万人の連合軍将兵を捕虜とし、敵艦百五隻を撃沈、九十一隻を大中破させ、海軍だけで敵航空機四百六十一機を撃墜、千七十六機を爆破炎上させた。

 我が軍の損害は、戦死者約七千人、戦傷者約一万四千人、喪失飛行機五百六十二機、損失艦船二十七隻、まさに圧倒的大勝利であり、国民は相次ぐ捷報に酔いしれ、我が国は朝野を挙げて戦勝気分に浸り、獄中に拘束され訊問調査を受けていた尾崎秀実でさえ、

 「日本の今日まで挙げ得た戦果は私の予想を絶して居ります。何よりも日本の軍部が努力して来た卓越した戦争準備に依る点が多いと思われますが、日本社会の持つ根強い結合力が考えられます。日本人が示した犠牲的精神、勇気等もまた驚くべきものがあり、言うまでもなくこれらの点は如何なる社会に於いても持ち継ぐべき美点でありましょう」

と感嘆の声を上げたのであった。

 斯くして我が国の勢力範囲は、満洲、北中南支、仏印、タイ、ビルマ、マレー、インドネシア、フィリピン、中部太平洋、ニューギニアの一部にまで拡大したのである。

(1)中島みち【日中戦争いまだ終らず マレー「虐殺」の謎】参照。
(2)名越二荒之助編【世界にから見た大東亜戦争】、アセアンセンター編【アジアに生きる大東亜戦争】をそれぞれ参照。


68、攻勢終末点

 南方作戦完了後、我が国には、軍事戦略として、インド(洋)攻略、重慶攻略、対ソ開戦、南東太平洋制圧、現状維持の五つの選択肢があったが、昭和十七年六月九日、参謀本部は対ソ作戦準備要綱を関東軍に訓令した。前年八月、参謀本部作戦部長の田中新一少将は、年内対ソ武力行使を中止した際、

 「全然やめてしまうのではない。今年のみのことである。来年早春にやる場合、まず南をやり、反転して北を討つ場合もあり得る。その準備は依然続ける」

と述べており、陸軍内では、南進一撃対ソ開戦戦略がくすぶっていたからである(1)。

 一方、ドイツ軍は、五月二十六日、北アフリカ戦線で「ベネチア」作戦を発動、六月二十一日にはリビア(イタリア領)の要衝トブルクをわずか一日で奪還し、イギリスの準支配下にあるエジプト領スエズに向かって進撃を開始し、続いて二十八日、第二次対ソ大攻勢「青」作戦を発動した。以後、ドイツ政府は再三に亘り我が国に、ドイツ軍の攻勢に呼応して、ソ連に対し開戦すると共に、日本海軍の有力な艦隊をインド洋に進出させ、イギリス本土とスエズ、中東石油地帯、インドを連結するアフリカ大陸南端喜望峰経由の連合国海上交通線を破壊し、エジプトを防衛するイギリス第八軍に対する補給を遮断するように要請してきた。

 日本海軍のインド洋制圧が一時的にせよ実現すれば、ビルマ方面の日本陸軍は、インド東北の門アッサム地方に侵攻し、イギリス本土からの補給を喪失したインド方面のイギリス軍を撃滅し、ベンガル湾のカルカッタとチッタゴンからアッサムを経て昆明と重慶に至る米英最後の援蒋ルートを遮断することができた。
 インド洋は、資源に恵まれている環インド洋諸国とそこから重要資源を輸入している東西洋諸国の大動脈であり、その戦略的価値は、アッツ、キスカ、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモン、ニューギニアとは比較にならないほど巨大である。

 だが六月四~六日のミッドウェー海戦後、海軍がガダルカナル島に「第一回、第二回、第三回と随分陸軍を引張り出したり。或時は誘い、或時は押し、或時は責任を負わす様仕向け来た」(連合艦隊参謀長、宇垣纏中将の「戦藻録」昭和十七年十二月七日)うえ、十二月、田中新一が参謀本部作戦部長を解任され、

 「北方情勢の変化に備えよ、南太平洋はその成否にかかわらず三月をもって打ち切れ。南太平洋のごときは、北方問題に比すれば、些々たる一小事に過ぎない」

と作戦課に言い残して南方軍に左遷された為、遂に我が国の対ソ攻撃は実行されなかった。拙速にミッドウェー作戦を強行し、アメリカ海軍に主力空母四隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)を撃沈されてから十日後、ラバウルから約千キロ東にあるガダルカナル島に設営隊と陸戦隊を派遣し、飛行場を建設し始めた海軍の戦略感覚は支離滅裂である。果たして、同島の我が海軍の航空基地は、完成と同時にアメリカ海兵一個師団によって奇襲占領された。
 海軍は極度に狼狽し、高松宮海軍大佐が石原莞爾を召されて意見を求められた。石原は、

 「戦争の勝敗は初めからわかっております。わが方の作戦はすべてに攻勢の終末点を越えています。戦力は根拠地と戦場との距離の二乗に反比例するのが原則です。日本本土では百の力が、ガ島まで行けば十から五の力しかない、ところが敵は根拠地に近いから我が軍より力の大きいのは当然です。持久戦争においては、攻勢の終末点をどこにするかが、最初から確立されていなければなりません。しかるに支那事変も今次戦争も、全くこれを考えていない。東條のやっている戦争は何をやっているのかデタラメで、まるで決戦戦争のやり方であります。攻勢の終末線を越えれば叩かれるのは当然であり、負けることが判っている所へ兵を送る馬鹿はありません」

と奉答した。更に石原は、東郷平八郎提督が日露戦争の日本海海戦において連合艦隊の根拠地を対馬海峡に置き、明治三十八年(一九〇五)五月二十七日、ロシアのバルチック艦隊を迎撃して之を撃滅し、海戦史上未曾有の大戦果を挙げた戦例を引用して、

 「近時の戦争では制空権のないところに制海権はあり得ません。制空権既に敵の手中に陥った以上は、即刻ガダルカナル島を撤退すべきです。陸軍も又同様であります。ソロモン、ビスマルク、ニューギニアの諸島を早急に放棄することです。そして我が補給線確保上、攻勢の終末線を西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラなどの戦略資源地帯を中心とし、この防衛線を堅固に構築して、中部は比島の線に退却せしめ、他方本土周辺のサイパン、テニアン、グアムの南洋諸島一切を難攻不落の要塞化することであります」

と力説した(2)。しかし海軍は前方決戦思想に固執し、戦線の後退緊縮による防衛戦略の推進を図ろうとはしなかった。戦藻録昭和十六年十二月十五~十六日欄の記述は、

 「ウェーキよりミッドウェイを衝く手ありと認められる。艦隊側も中央も考うる所は殆ど其の軌を一にし在り。ただ陸軍側も南方一段落せば対ソ開戦の腹相当に強しと云う。乞食根性百迄去らず」

と陸軍の対ソ開戦戦略を罵倒しており、海軍首脳は、ドイツの要請に呼応する陸軍の対ソ開戦を阻止する為に、ガダルカナル、ソロモン、ニューギニア方面に戦力の逐次投入を繰り返し、不毛な消耗戦を継続したようである。日ソ戦となれば、戦争の主役は陸軍となり、物資予算の「陸海軍同等」という海軍の基本方針が崩れるからである。

 ガダルカナル攻防戦(昭和十七年八月七日~昭和十八年二月八日)を含め約一年七ヶ月間に亘る南東太平洋作戦において、我が軍は、航空機約八千機(熟練操縦員約五千人)、艦船約七十隻、投入兵力三十万のうち約十三万人を喪失して敗北し、我が国はドイツ軍の東進攻勢に呼応して、ソ連、或いはインド、中東、北アフリカ方面のイギリス軍を挟撃し日独打通を図る戦略だけでなく日本本土防衛の要衝サイパンの確保を遂行する為の貴重な戦力と時間を喪失してしまい、サイパン陥落の責任を負って総理大臣を辞職した東條英機大将は、

 「海軍ノ実力ニ関スル判断ヲ誤レリ、而カモ海軍ニ引キヅラレタ。攻勢終末ヲ誤レリ、印度洋ニ方向ヲ採ルベキデアツタ」

と深く後悔したのであった(機密戦争日誌昭和二十年二月十六日の条)。

 その結果、ドイツ軍は、スターリングラード攻防戦(昭和十七年八月二十三日~昭和十八年二月二日、ガダルカナル攻防戦の期間とほぼ一致)、続いて北アフリカ攻防戦(昭和十五年九月十三日~昭和十八年五月十三日)で敗北を喫して戦力を大幅に衰退させてしまい、連合軍のシシリー島(イタリア、一九四三年九月八日連合国に降伏)、ノルマンディー(フランス)上陸作戦を阻止できなかった。

 国力の限界と戦力の集中発揮を図る攻勢の方向性とを無視する帝国海軍の余りに拙劣な戦略能力が、日独両国の敗北を早めたのである。日露戦争後、国益など眼中になく、総合的な戦争研究を怠り、ただただ組織を維持拡大する為、英米を仮想敵国として膨大な国力を食い潰し、陸軍から、

 「海軍は南方の為北をやらぬ思想なり『やらぬ』考えで修文し来る、(対ソ)開戦等の文字を入れれば動々もすれば陸軍の為北へ引づられる、抹殺するを可とすとて徹底的に陸軍不信なり、曲解不誠意不純真なること甚し、軍人精神ありやと云いたし。海軍鉄を呉れ予算を呉れの発言多く醜き極みなり」(機密戦争日誌)

と酷評された帝国海軍の真骨頂といったところであろう…。

(1)杉山参謀総長は、昭和十七年七月二十日、田中作戦部長に「伊よりインド進出、独より対ソ攻勢の要求あり、検討せよ」と命じ、八月一日、若松只一総務部長がソ連攻撃を主張したが、佐藤賢了軍務局長は、七月二十五日、熟柿主義を用いて対ソ開戦に反対し、さらに十一月十八日には「独ソ和平」を積極的に画策し、ソ連を日独による挟撃から救おうとしたのである。この時期、陸海軍内部では、対ソ開戦戦略を巡って、一年前と同様の対立の構図が生まれており、海軍の南進論に引っ張られて陸軍内の熟柿主義が再び勝利したのである。
(2)横山【秘録石原莞爾】三六七~三六八頁。


69、正体を現した陸軍統制派

 昭和十八年に入り、日独の攻勢作戦が限界に達して崩壊へ向かい始め、それに伴い東條内閣に対する国民の信頼感もまた減退し、一部識者の間では、東條首相の更迭の必要性が囁かれる中、三月十八日、近衛文麿は、突然に小林躋造海軍大将を「荻外荘」に招いた。
 開戦後、小林大将は、吉田茂と共に、まず日中間の講和実現により米英から対日戦遂行の大義名分を奪うことを画策し、外務省に、

 「日独両軍が攻勢を継続していることに乗して、蒋介石に、恃むに足らざるを恃み、戦争を継続するの愚を説き、要すれば我が方に於いて政治経済的に若干の譲歩をし我が襟度の寛容さを示して彼を講和に誘導してみてはどうか」

と提案するなど、如何にして急速に戦争を終息すべきかを研究しており、梅津美治郎と共に次期首班候補として名前を挙げられていたからである。近衛は、会談劈頭、

 「満洲事変発生以前より石原莞爾はソ連の復仇乃至共産主義の南下を恐れ早きに於いて之に痛撃を加えざるべからずと考えていた。之が為には我が国の軍需生産増加を必要とするのみならず国内体制も亦更新を要すとし、彼の影の人たる宮崎正義をして産業五カ年計画之に伴う国内革新案(註、中止された政治行政機構改造案)を作らしめた。この二案は池田成彬、結城豊太郎君も一読し両君共納得出来る議論だとして居た。

 石原は満洲事変には其の対ソ連観から大いに努めたけれ共、之を拡大し支那事変に導くが如き考え方には反対した。之が為に追われて晩年不振であったが、彼の作らしめた産業五カ年計画及び国内革新案は其の儘軍に保管されて居た。之を軍の新進気鋭の徒が読んで大いに之に共鳴し、世の所謂新人乃至革新派の連中に近付き之が実現の方策を練らしめた、所が此の『新人』の内に共産主義者が居り、彼等は軍を利用して其の理想を具現せんと決意し切りに軍の新進に取り入った。何しろ『新人』は頭がよく其の理論も一応条理整然として居るので軍の新進は何時の間にか之に魅せられ、国内革新を目標に、而して其の手段として長期戦争を企てるに至ったのである。
 この魅せられた連中は参謀本部よりも陸軍省内に多く、現に北支事変の起った時も、参謀本部は常に政府の局地解決に同意し、この方針で指令したのだが、陸軍省に蟠踞する革新派が出先の軍と通謀しドンドン事変を拡大した。之には立派な証拠がある。今、企画院に居る秋永少将の如きも支那事変を早く治められては困ると云って来た事もある。要するに陸軍の『新人』は作戦上の必要に藉口し、独断で戦争を拡大し、之に依って国家改造を余儀なくせしめんと計画したのである」

と陸軍中堅層が抱懐するという『国家革新の陰謀』に言及し、

 「陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にまで追い込んで仕舞った。しかも其の目的は戦争遂行上の必要に藉口し、我が国の国風、旧慣を破壊し、革新を具現せんとするのである。此の一派の率いる陸軍に庶政を牛耳られては国家の前途深憂に堪えない。
 翻って所謂革新派の中核となってる陸軍の連中を調べて見ると、所謂統制派に属する者が多く荒木、真崎等の皇道派の連中は手荒い所はあるが所謂皇道派で国体の破壊等は考えて居らず又其の云う所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為に手段を選ばず、しかも次々に後継者を養っている」

と警告を発し、小林大将に、後継首班を引き受け、この「赤に魅せられた」陸軍の革新派を速やかに粛清することを要請したのである。
 小林大将は、かねてより岡田啓介大将から陸軍内に斯くの如き恐るべき動きのある事を薄々聞いていたが、岡田自身も余りこれを信用しておらず、小林大将もまた「真逆」と思って重視していなかった。彼は、自分の微力は総理の任にあらざる旨を答えたが、近衛から改めて「陸軍統制派アカ論」を聞かされ、とにかく早く戦争を止めねばならないと痛感したのであった(1)。

 この近衛小林会談から一週間の後、陸軍中央は、近衛の警告を裏付けるが如く、彼等の正体を明らかにしたのである。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十八年三月二十五日木曜
ニ、独伊対米英間ノ和平工作ニ対シ帝国今後ノ戦争終末指導方策トシテノ施策ヲ課トシテ研究スルコトヲ発意シ其ノ内容ヲ概ネ左ノ如クスル様課長、種村中佐間ニ決定ス

1、独「ソ」和平工作トノ関係
2、和平工作ニ関スル英米ヘノ路線ノ設置
3、欧州局部和平ト東亜問題切離シ防止策
4、対重慶和平工作
5、和平条件(世界和平構想ニ基ク帝国ノ和平条件)
6、和平工作実施要領

昭和十八年三月二十八日日曜
三、日ソ及独ソ国交調整問題ヲ解決センカ為ニ対「ソ」問題ニ関連スル日独間ノ三国同盟締結以来ノ交渉事項ヲ慎重ニ検討シ之ヲ参考トシテ種村中佐起案ノ「帝国ヲ中心トスル世界戦争終末方策ニ就テ」ヲ研究ス
研究ノ結果ヲ田中中佐整理ヲ担任シ若干ノ修文ノ他
1、戦争終末ノ様相ニ関スル観察、2、世界新秩序ノ構想ヲ添加スルコトトナレリ

昭和十八年三月三十日火曜
一、帝国ヲ中心トスル世界戦争終末方策ニ就テ    
  昨日当課ニ於テ研究セル原案ヲ基礎トシ、軍務局長(註、佐藤賢了)、第一部長(註、綾部橘樹)、軍事(註、西浦進)、軍務(註、二宮義晴)、第二(註、真田穣一郎)、第十五課長(註、戦争指導、松谷誠)集イテ意見ノ交換アリ、本日ノ研究ノ結論左ノ如シ
1、速カニ世界戦争終末方策ニ関スル準備ヲナス、之カ為ニ情報網ノ拡充強化、政治工作ノ準備陣ノ構成ヲ図ルモノトス
2、次回研究会迄ニ研究準備シ置クヘキ事項
 イ、日支和平ノ具体的研究 
 ロ、独ソ和平ノ利害方法、条件、時機ノ研究 
 ハ、世界和平ノ構想
 ニ、武力戦ヲ主体トスル戦争指導要綱ニ準シ物的方面ヨリ数年間ヲ見透シ政略的戦争指導計画ヲ作成スルコト


帝国を中心とする世界戦争終末方策 昭和十八年三月二十五日(2)

一、世界和平成立に関する観察

 各国共に国防国家体制を整備しあること、和平を主宰し得るに足る強大なる中立国の存在せざること、日独の離間無き限り両陣営間の決戦を求め難しこと等に依り世界和平の成立特に講和会議の形式を以てする和平の成立は極めて困難にして長期戦の結果睨み合いたる儘局部的の部分和平(日蒋和平、独英、独ソ和平等)を見漸次数個の広域圏を形成し先ず事実上の和平状態に入る公算多かるべく時として日独英米和平の形式となること絶無ならざるべし。

二、和平問題に対する本質的観察に就て

 和平は謀略にあらず政略にあらず戦争の本質にして戦争指導の到達点なり帝国亦開戦前廟議に於て「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を定め爾来時に一張一弛ありしも概ね此の線に沿いて戦争を指導しつつあり。

 独伊英米も亦各々異なる自己的立場に於て自ら然るべき戦争終末の腹案を有し之が準備を行うは当然なるべし而して之が準備と実行とは別にして準備は即ち主に謀略分野に於て不断に存すべし唯之が実行の方法と時期に就ては日独伊三国共同戦争遂行上相互了解の下に律すべきは三国責任者の信義にして条約上の義務なり。

 而して日独伊戦争指導上最大の弱点は各々の抱懐する戦争終末に関する方策を其の責任者に於て之を吐露するの機会を有せざるに存す。

 若し将来三国間に相互の了解を得ることなく三国条約、三国協定、軍事協定の三大基本条約に抵触離反するが如き妥協和平等の事態生起することありとせんかそは即ち枢軸側の抱懐する世界新秩序建設企図の挫折を意味すべく其の原因は叙上の欠陥に由来すべし。

 今日最も信頼し合うべき日独伊三国就中独伊対日本が条約上の覊絆を唯一の頼にし揣摩憶測の間に三国共同の戦争を実行せざるべからざる状態にあるは最も憂るべき不幸なる因子なるを以て速に相互の直接連絡に努むることは三国の抱懐する戦争指導の真実を確め得て三国の結束を堅め世界戦争指導の主導権を把握する為現下喫緊の方策たるべし。

 尚現事態に処しては和平に関する突発的不幸なる事態の防止並我積極的方途の打開方策に関し余すところなきを要す。

三、独ソ和平工作と独英和平工作との関係

(イ)独伊対英米和平に就き其の成立の能否に関しては別問題とするも曩に独逸は三国条約を事実上一方的に破棄し独自体の為対ソ作戦を敢行せし例に鑑み之が突発的惹起を見ること絶無にあらざるべく然る時我の蒙るべき害たるや致命的のものあり。

 従って帝国は常に率直に独側責任者に対し世界戦争指導に関する帝国の真意を申入れ必勝の信念の下に協同して対英米戦争を完遂する如く施策し欧洲に於ける局部和平のみの成立は絶対に防止するに努むると共に予め其のあることを予期し準備するを要し少くとも大東亜戦争の処理を欧洲戦争処理より脱落せしめざる如く世界情勢の機微を洞察して施策尽さざるべからず。

 而して独ソ和平成立し三国の対英米絶対的優勢を確保し得たる場合三国共同して対英米和平工作を策し速かに戦争終末を図るを可とするは当然なりとす。

 即ち帝国は独伊をして独英和平を独ソ和平に先んじ行うは帝国との了解有無に拘らず三国共同の戦争完遂上絶対封止せしめざるべからず。

(ロ)独ソ和平は三国共同戦争完遂の根本義に一致しあり然も独をして従来の行懸りを清算せしめソをして対独迷夢より翻意せしめ得るものは世界に於て帝国を措いて他無く日独伊日ソ間に現存する諸条約は之が実行に何等の矛盾するものにあらず。

 帝国がソの絶対信用を獲得する工作は独ソ和平斡旋の前提条件なり。

四、和平工作に対する英米への路線の設置

 和平工作の準備は政略的に謀略的に大いに行い其の気運の醸成に努め機微の間に処して之が工作実施に着手せざるべからず。日米英外交官の交換船が日米英相闘う真只中に於て行われたるにあらずや正に国際障壁突破の方途は存すべし。中立国又大いに利用すべし、三国共同たるも可なり、三国個々に行うも可なり。

 右は和平気運の有無に関せず事前より最大限の努力を傾倒すべきなり。重慶和平工作を行わざる帝国が対重慶諜報路工作に専念するも尚至らざる苦衷を想察せば世界戦争指導の主動権を把握する為之が路線の速かなる設定に努力するは当然なり。「スペルマン」の訪伊「チアノ」の「バチカン」使節等々戦争指導上の奥義たるべく却て此等を一笑に附するものの愚を笑わざるべからず。事茲に至れば帝国遣欧使臣の低劣我外交使陣の貧弱を嘆くのみ。

 茲に於て独伊との連絡を更に緊密にするの他諜報網の拡充強化特に有力なる政治工作網の新展開は速かに実行すべき緊急事項とす。 

五、東亜問題切離し防止策

(イ)日独連絡飛行の完成

(ロ)右に伴う三国責任者の会同

(ハ)日ソ国交の調整

(ニ)右に伴う独ソ和平の促進

(ホ)対米英海上交通の破壊徹底による米英戦意の逓減

(ヘ)東亜に於ける帝国戦果の拡大

(ト)対重慶工作の具現

(チ)帝国を中心とする大東亜の結束

(リ)相互必需物資の交換促進。就中日ソ国交調整に伴い帝国の仲介による独ソ和平の実現は世界戦争指導の主導権を枢軸に於て把握するの端を発し和平に関し東亜問題切離し防止の最大因子たるべし之が為には日独連絡飛行の具現を以て速急の手段とす。

六、重慶との和平工作(省略)

七、戦後に於ける世界和平の構想

(1)世界新秩序の構想(省略)

(2)世界和平に処する帝国の和平条件

  戦争目的たる大東亜の新秩序建設を達成する為昭和十七年二月二十八日決定「帝国領導下に在らしむべき大東亜新秩序建設の範域」を認めしむるを本則とし和平工作時に於ける全般情勢に基き和平条件の細部を決定す。但帝国は大東亜圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の責任を負い同圏内居住民族は独立を維持せしめ又は独立せしむるか或は応能自治を許与するを原則とし独立国の主権及領土は徹底的に尊重し帝国を盟主とする大東亜共栄圏の一環に於て諸外国との外交交易を認むるを一般方針とす。

八、戦争終結の為機会補足要領

 帝国は独伊と提携を密にしつつ戦争終結の為積極的に左記の如き機会を捕捉するに努む

(イ)日独伊ソ国交調整成功の直後

(ロ)対重慶和平工作成功の直後

(ハ)対英上陸成功し若くは海上交通破壊戦の徹底により英を涸渇化せしめたる時機

(ニ)米英の国内動乱相互結束の弛緩時期 

(ホ) 独の単独の利害打算より行う局部和平の時機


大東亜戦争終末方策 昭和十八年九月十六日、参謀本部(3) 

第一 戦争目的

 帝国の戦争目的は自存自衛を全うし大東亜の新秩序を建設するに在り。

第二 戦争指導方針

一、帝国が昭和十九年夏秋の候を期し主敵米に対し必勝不敗の戦略態勢を確立し政戦両略の諸施策を統合して自主的に戦争終末の機を捕捉するに努む、已むを得ざるも昭和二十一年を目途とし米英の戦意を喪失せしむ。此の間為し得る限り速かに支那問題の解決を図ると共に世界情勢の急変に対処するの諸準備に遺憾なきを期す。

二、戦争間極力対ソ戦争の惹起を回避す之が為万已むを得ざるに至らば独伊との提携を犠牲とせざるべからざることあるを予期す。 

第三 要 領

 要 旨

一、戦争完遂の為の諸方策は戦争の終始を通じ戦略方策を根幹とし之に政謀略の諸施策を統合発揮するを以て本旨とす。

二、尊皇殉国の精神を中心とする国民の団結と強力且縦深ある戦争指導の一元的発揮は戦勝の要訣とす。

 其の一 戦略方策

一、万難を排して遅くも昭和十九年末迄に対米長期不敗の戦略態勢を確立す、之が為一時戦力の基盤に低下を見ることあるを与期す。

 帝国の戦争目的達成の為国運を賭して確保すべき要域は一般情勢大なる変化なき限り千島小笠原内南洋及西部ニューギニアの要域スンダ、ビルマを含む圏域とす(註、絶対国防圏)。

二、大東亜圏内主要交通線の安全を確保し戦力並国力の機動性発揮に遺憾なからしむ。

三、軍防空を強化し特に首都重要諸施設占領地の致命部等の防衛に遺憾なきを期す。

四、独伊と提携し海上交通破壊戦を徹底強化すると共に全世界に亘り米英戦力の威嚇眩惑分散を目標とする海空の奇襲、ゲリラ作戦を展開す。

五、ソに対しては極東ソ軍を牽制するを限度として極力我負担の減少を図る。情勢真に已むを得ず対ソ開戦に至りたる場合は対ソ長期戦を予期し戦争遂行上必要最少限の要域占拠を以て限度とす。

六、重慶に対しては当分の間現戦略態勢を保持しつつ支那大陸よりの我本土空襲を局限するを以て限度とし政謀略を統合して之が切崩し脱落を策するも対米英長期不敗の戦略態勢確立し且我戦力強化拡充するに伴い武力を行使して対支問題の根本的解決に努む。右の時期は早くも昭和二十年と予定す。

七、対米英決勝の為の戦略的方途の発動は遅くも昭和二十一年と予定し当時の情勢により之を定む。

 其の二 政略方策

一、日ソ戦回避方策

(イ)対米英必勝

 帝国の対米英戦必勝は対ソ戦回避並米ソの対日軍事提携阻止の最大方策たると共に対米戦略態勢の破綻は対ソ戦惹起の最大誘因たるべきに鑑み専ら対米英必勝に邁進す。

(ロ)日ソ国交の調整

 帝国は日ソ間の友好親善を促進し且ソの対米対独態度を偵知する為日ソ諸懸案の解決に努む。

(ハ)独ソ和平の斡旋

 独が昭和十九年春夏の候に予想せらるる米英の大規模第二戦線を撃摧若くはソの本冬季に於ける反抗を徹底的に頓挫せしめたる場合或は独の二正面戦争遂行の危機を予知したる場合に於ては帝国は進んで独ソの和平を斡旋し日独の綜合戦力を米英撃滅に集中発揮するに努む。之が為先ず誠意を披瀝して独を説得し次いでソの導入を図る。本施策遂行に当りては絶対に日ソの惹起、日独の離間を防止す。

 独ソ和平の斡旋は大局的見地に立ち独の譲歩下に成立せしむるを以て本旨とし其の条件別紙第一の如し。

(ニ)独ソ和平の突発に対する態度

 独ソ和平突発せる場合は表面ソをして厳正中立を再宣言せしむるを限度とし密に日独ソ間国交の恢復親善を図り進んで日独ソ提携世界平和への導入を策す。

(ホ)独の日ソ戦強要に対する態度

 欧洲に於ける独の戦勢不利に陥り独が帝国に対し対ソ参戦を要求せる場合に於ては既定方針に基き帝国の真に対ソ戦回避の已むを得ざる事情を明確且懇切に回を重ねて回答するものとし独の最後的態度如何に依りては日独提携を犠牲とするも尚且対ソ静謐を堅持するものとす。

(へ)対米英戦争間米が東部ソ領の基地を利用せるを確認せる場合は機を失せず先ずソ側の反省を促すものとし帝国は飽く迄日ソ戦の回避に努むるものとす。

(ト)対米英戦争間国境紛争を厳に防止し特に之に基く意図せざる対ソ戦の惹起を絶対に回避す。

(チ)対米英戦争間遂にソ側より全面的攻勢を受けたる場合は直ちに開戦す。

二、日独提携の促進並独の対英米単独講和防止策

 戦争相手の不一致に因る日独離間の虚隙存するに鑑み帝国は対ソ戦絶対回避の方針に反せざる限り周到に左記の諸施策を尽して日独の提携緊密化を図り併せて独の対英米単独講和突発防止に遺憾なきを期す

(イ)日独相互の連絡手段の確実

(ロ)独の戦争遂行能力の実相並政戦謀略企図の諜知

(ハ)大陸に於ける対ソ牽制

(ニ)太平洋を通ずる米の援ソ物資の入ソ制限

(ホ)大東亜経済建設に独側の参加協力容認

(ヘ)枢軸共同の戦後経営方策の確立並之が宣言

三、独の対英米単独講和突発に伴う対処方策

 帝国は日独の提携緊密化を図りつつ極力独の対英米単独講和を防止するに努むるも万一突発せる場合は其の動因が独若くは英米何れかの戦意喪失によるか或は独が対ソ戦徹底の為の偽装和平なるか或は英米がソの欧洲赤化防止の為の偽装和平なるか、何れの場合に於ても帝国は単独対英米戦を遂行せざるべからざるの悲運に到達すべきを以て機を失せず左の如く措置す。

(イ)帝国は独に対し三国協定に基き対米英和平に参加すべき旨を申入れ極力対英米和平の成立を図る。

(ロ)独側にして我申入れに応ぜざる場合は日ソ国交調整を促進しつつ独ソの和平を斡旋し進んでソを介して対米英和平に導入する如く努む。

(ハ)前諸項に関する帝国の努力も亦水泡に帰したる場合は帝国は三国同盟を破棄し敵を本土に迎うるも尚且米英に対し徹底抗戦す。

 此の間日ソ戦の回避に関し万般の措置を講じつつソ連、重慶、中立国「バチカン」等を介し或は直接米英本国に偵諜の手段を加えつつ極力戦争終末の機を捕捉するに努む。

四、日蒋和平方策

(イ)支那問題は大東亜戦争の動因たると共に之が根本的解決は対米英戦必勝を容易ならしむるの重大要素たるに鑑み東亜の戦局有利に進展するか欧洲に於て独が昭和十九年春夏の候に予想せらるる米英の第二戦線を撃摧する等米英側戦勢停頓の好機に乗じ対重慶政治工作を発動し一挙之が解決を図る。

(ロ)本施策は縦い之を失敗せる場合に於ても我対支既定方針に撞着を来さざる如く細心の留意を払うものとす。日蒋和平の為の条件別紙第四の如し。

(ハ)速かに対奥地経済停戦を行い逐次重慶側の切崩し及日蒋和平に進展する如く施策す。

五、大東亜諸国家諸民族処理方策

(イ)戦勢の帰趨如何を問わず既定方針を堅持しつつ皇軍威武の下諸国家諸民族の闘魂を喚起しつつ帝国に対する戦争協力を確保増進す。

 戦勢已むを得ず敵側の勢力下に帰せしめざるを得ざる国家及民族に対しても米英の桎梏より大東亜を解放する為戦う道義日本に対する精神的連鎖を保持せしむる如く努む。

(ロ)昭和十九年末を目標とし日満支に於ける国防自給の高度化を確立す。

(ハ)昭和二十年末を目標とし南方資源の現地生産及自給の高度化を促進す(中略)。

 其の五 世界終戦

一、世界終戦の様相は日独提携戦政略の手段を尽したる場合に於て米英の戦意喪失せしめ比較的有利なる条件を以て戦争終末を図り得るを以て限度とし之が為の帝国の条件は戦争目的に鑑み概ね別紙第二の如く定む。

二、独の対米英単独講和若くは「ヒ」政権の崩壊等により帝国が独力対米英戦争を遂行せざるべからざるが如き場合世界終戦の為の帝国の条件は概ね別紙第三の如く定む。

三、米英より概ね別紙第二の講和条件を提議し来りたる場合は速かに独を誘いて日独対米英終戦を図る若し独にして対米英和平に応ぜざる場合は戦争目的に鑑み米英に対し単独講和を行い世界終戦に導入することあり。

別紙第一

  独ソ和平斡旋条件

一、独を納得せしむる件

(イ)沿「バ」三国及東部「ポーランド」(独ソ開戦前のソ領地域)はソ領たるべきことを認めしむること

(ロ)独はソの必要とする機械類原料を供給すること

二、ソを納得せしむるを要する件

(イ)休戦後一年以内保障措置として沿「バ」三国「ウクライナ」及所要地点に独軍の駐屯を認めしむること

(ロ)沿「バ」三国及東部「ポーランド」及「ウクライナ」西部接壌地帯は之を非武装地帯とすること

(ハ)独の必需物資特に石油食料を供給すること

(ニ)日ソ中立条約確認方日ソ共同声明すること

三、独ソ和平斡旋に伴いソの要求により帝国の態度を明らかにするを要する件

(イ)北樺太利権の移譲

(ロ)日満ソ間交通の疎通

(ハ)満ソ国境非武装地帯の設定

(ニ)防共協定の廃棄

(ホ)外蒙古及新彊省の割譲斡旋

四、独ソ和平斡旋に伴い独の要求により帝国の態度を明らかにするを要する件

(イ)ソが斡旋に応ぜざる場合帝国は対ソ武力調停を行わざるものとす

(ロ)ソが調停に応じたる後偽装和平し独を攻撃せる場合帝国は対ソ武力協力は行わざるものとす

別紙第二

  世界終戦の為比較的有利に妥協を為し得る場合の条件

一、対米英

 左記条件の下に帝国指導下の大東亜新秩序の建設を認めしむ

    左 記

1、政治的条件

(イ)「ビルマ」、「フィリッピン」、支那、満洲、泰の完全独立を認む

(ロ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャバ」、「ボルネオ」、「セレベス」を含む地域を東部印度連邦とし高度の自治を容認す

(ハ)支那に関しては日支両国間の協議により決し香港を支那に返還す

(ニ)大東亜戦争間帝国と(1)の(イ)の各独立国との間に締結せられたる条約を認むること

2、経済的条件

(イ)大東亜諸地域に於ける帝国の必要とする重要国防資源の優先的取得を認む

(ロ)交通特に航空及通信の帝国の独占的掌握

(ハ)(イ)(ロ)以外の通商交易の機会均等          

3、

(イ)各独立国には其の国の防衛に必要最少限の治安軍(海軍は沿岸警備に必要なる程度)及警察を保有せしむ

(ロ)空軍は帝国之を掌握し一元的運営に任ず 二、対米英交渉に関し対ソ戦を回避する為対ソ譲歩を必要とする場合

 1、満ソ国境に非武装地帯を設置す

 2、防共協定を廃棄す

 3、北樺太利権の解消

 4、亜欧交通の打通 
                                 
別紙第三

  世界終戦の為不利なる妥協をせざるを得ざる場合の講和条件

一、対米英(註、国体の変革が含まれていない)

(イ)無併合、無賠償

(ロ)米の四原則の承認

(ハ)三国同盟の廃棄

(ニ)支那に関しては日支事変以前への復帰

(ホ)仏印以南の東亜細亜南太平洋地域の昭和十五年九月以前状態への復帰

(ヘ)内太平洋の非武装

(ト)日米通商関係の資金凍結前への復帰

二、対米英交渉に関連し対ソ開戦を回避する為対ソ譲歩を必要とする場合

(イ)満洲国の非武装

(ロ)北樺太利権及漁業権の返還

(ハ)亜欧連絡の打通       

別紙第四

  対重慶和平条件

一、南京、重慶の関係に就きては支那の国内問題として之を取扱い支那側自身に於て適宜処断するところに委するものとし要すれば蒋介石をして国民政府の首班たらしむることを認む

二、日華同盟条約を承認せしむ

三、速かに停戦を為し且経済封鎖を解く

四、支那に於て交戦国の軍隊の戦闘行為を認めず

五、当分の間支那側の対米英中立を認む

六、支那本土と南方華僑との政治的、経済的結合連鎖の承認

七、香港を返還す


 帝国を中心とする世界戦争終末方策および大東亜戦争終末方策において、陸軍中枢は我が国の戦争目的を「大東亜新秩序の建設」とし、「日ソ間の友好親善の促進」「独ソ和平の斡旋」を図り、日独の綜合戦力を米英撃滅に集中発揮し、次いで日独側に「ソ連の導入」を図るという。この陸軍中枢の戦争指導方針は、

 「戦争は飽くまで世界的な米英陣営対日独伊陣営の間に行われるのでありますから、欧州での英独対抗の結果というものがまた直接問題となるでありましょう。つまり東西いずれの一角でも崩壊するならば軈て全戦線に決定的な影響を及ぼすことになるからであります。この観点から見る場合、ドイツとイギリスとは同じ位の敗退の可能性を持つものと思われたのであります。私の立場から言えば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終わるのでは甚だ好ましくないのであります(註、日独の勢力圏が英米の支配下に入り資本主義化するからである)。

 (大体両陣営の抗戦は長期化するであろうとの見透しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝に終わらしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考えました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を東亜新秩序創建の絶対条件であるということをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを籠めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張と殆ど矛盾することなく主張される点であります。ところで、現実の戦争の進出過程に照らして以上の如き私の見解と予想は如何に喰い違って来たかと云う点について若干反省を加えて見たいと思います。先ず第一に私の予想の違った点は、昨年六月の独ソ開戦であります。私達はソ連があくまで帝国主義諸国の混戦に超然として実力を保存すべきものであると考えていました」

という尾崎秀実の構想(獄中手記)とほとんど変わらない。

 尾崎が、支那事変の勃発からゾルゲ事件の発生に至るまで、近衛文麿の最高政治幕僚として近衛に助言し或いは進歩的な支那問題の権威として多数の戦時論文を発表し、大衆世論を煽動し、我が国の国策を思うままに操り、「東亜新秩序」「東亜協同体」の実現を目指してきた。

 尾崎は、獄中手記と、彼が逮捕される直前に執筆した「改造昭和十六年十一月号大戦を最後まで戦い抜くために」の中で、彼が推進してきた「東亜新秩序」構想と第二次世界大戦の本質を、僅かではあるが粉飾なく告白しているのである(4)。尾崎は獄中手記の中で、

 「私は第二次世界戦争は必ずや、第一次世界大戦に続いて再び帝国主義諸国間の世界分割に終ることなくして、世界変革―世界共産主義革命が完全に成就しない迄も決定的な段階に達することを確信するものであります。今次の世界戦は資本主義社会の総決算たるべき運命を背負ったものであろうと確信致して居るのであります。」

と断言し、その理由として

一、世界帝国主義相互間の闘争は結局相互の極端なる破壊を惹起し、彼等自体の現存社会経済体制を崩壊させる。

 帝国主義陣営は型通り、正統派帝国主義国家群とファッショ派帝国主義国家群とに分裂しているが、此の場合戦争の結果は両者共倒れとなるか、又は一方が他方を制圧するかであり、敗戦国家に於ては第一次世界大戦の場合と同様プロレタリア革命に移行する可能性が最も多く、又仮令一方が勝残った場合でも戦勝国は内部的な疲弊と敵対国の社会変革の影響とに依って社会革命勃発の可能性がある。  

二、共産主義国家たる強大なソ連邦の存在。

三、植民地、半植民地がこの戦争の過程を通じて自己解放を遂げ、その間に或る民族に於ては共産主義的方向に進む。少なくとも支那に対しては斯る現実の期待がかけ得られる。

を挙げた。

 そして尾崎秀実ら共産主義者が目指す理想は「世界大同」であり、「国家的対立を解消して世界的共産主義社会の実現すること」である。なぜならば、レーニンを崇拝する尾崎によれば、帝国主義政策の限りなき悪循環すなわち戦争から世界の分割、更に新なる戦争から資源領土の再分割という悪循環を断ち切る道は、「国内に於ける搾取被搾取の関係、国外に於ても同様の関係を清算した新なる世界的な体制を確立すること以外にありません。即ち世界資本主義に代わる共産主義的世界新秩序が唯一の帰結として求められ、全世界に亘る完全な社会主義計画経済が成立して始めて完全な世界平和が成立すると思われる」からである。

 そして以上の如き予想に基いた現実の形態と更にこれに対処する方式として尾崎がしきりに心に描いたことは、

 「第一に、日本は独伊と提携するであろうこと。第二に、日本は結局英米と相戦うに至るであろうこと。第三に最後に我々はソ連の力を藉り、先ず支那の社会主義国家への転換を図り、これとの関連に於いて日本自体の社会主義国家へ転換を図る」

ことであり、第二次世界大戦における日本の進むべき道として次のように述べた。

 「日本は結局に於て英米との全面的衝突に立ち至ることは不可避であろうことを夙に予想し得たのであります。勿論日本はその際枢軸側の一員として立つことも既定の事実でありました。此の場合日本の勝敗は単に日本対英米の勝敗によって決するのではなく枢軸全体として決せられることとなるであろうと思います。日本は南方への進撃に於ては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るでありましょうがその後の持久戦により消耗が軈て致命的なものになって現れ来るであろうと想像したのであります。而も斯かる場合に於いて日本社会を破局から救って方向転換乃至原体制的再建を行う力は日本の支配階級には残されて居らないと確信しているのであります。結局に於て身を以て苦難に当たった大衆自体が自らの手によって民族国家の再建(註、敗戦革命のこと)を企図しなければならないであろうと思います。

 ここに於いて私の大雑把な対処方式を述べますと、日本はその破局によって不必要な犠牲を払わされることなく立ち直るためにも、又英米から一時的に圧倒せられないためにも行くべき唯一の方向はソ連と提携し、これが援助を受けて、日本社会経済の根本的立て直しを行い、社会主義国家としての日本を確乎として築き上げることでなければならないのであります。日本自体のプロレタリアートの政治的力量も経験も残念ながら浅く、而も充分な自らの党的組織を持たないことのためにソ連の力に待つ点は極めて多いと考えられるのであります。英米帝国主義との敵対関係の中で日本がかかる転換を遂げる為には、特にソ連の援助を必要とするでありましょうが、更に中国共産党が完全なヘゲモニーを握った上での支那と、資本主義機構を脱却した日本と、ソ連との三者が緊密な提携を遂げることが理想的な形と思われます。以上の三民族の緊密な結合を中核として先ず東亜諸民族の民族協同体の確立を目指すのであります。東亜には現在多くの植民地、半植民地を包括しているので、この立ち後れた諸国を直に社会主義国家として結合することを考えるのは実際的ではありませぬ。

 日ソ支三民族国家の緊密有効なる提携を中核として更に英米仏蘭等から解放された印度、ビルマ、タイ、蘭印、仏印、フィリッピン等の諸民族を各々一個の民族共同体として前述の三中核体と政治的、経済的、文化的に密接なる提携に入るのであります。この場合それぞれの民族共同体が最初から共産主義国家を形成することは必ずしも条件ではなく過渡的には夫々の民族の独立と、東亜的相互連環に最も都合良き政治形態を一応自ら択び得るのであります。尚此の東亜新秩序社会に於ては前記の東亜諸民族の他に蒙古民族共同体、回教民族共同体、朝鮮民族共同体、満洲民族共同体等が参加することが考えられるのであります。

 申すまでもなく東亜新秩序社会は当然世界新秩序の一環をなすべきものでありますから世界新秩序完成の方向と東亜新秩序の形態とが相矛盾するものであってはならないことは当然であります。

 世界的共産主義大同社会が出来た時に於ては国家及び民族は一つの地域的、或は政治的結合の一単位として存続することとなるのでありましょう、かくの如く私は将来の国家を考えているのであります。この場合所謂天皇制が制度として否定され解体されることは当然であります。しかしながら日本民族のうちに最も古き家としての天皇家が何等かの形をもって残ることを否定せんとするものではありません。」

 次に、尾崎の「大戦を最後まで戦い抜くために」を分析しよう。これは、まず緊迫する日米の和平交渉中にアメリカが和平に可成りの関心を抱いている理由として、

一、アメリカが対独宣戦を決行するためには太平洋の艦隊を大西洋に廻す必要があり、日本艦隊によってその間隙を衝かれることを恐れる。  

二、シンガポールが攻略せられる場合は大英帝国のアジア支配の紐帯が根底から断ち切られることとなり、やがては一定期間の後必ず英国の植民地支配がくつがえることとなる。これは直ちにアメリカにとっても味方の陣営崩壊を意味する。

三、アメリカは今日ドイツを抑えるためにソ連を極力援助する態勢を示している。しかしながらもしもかりにこれに成功した場合を考えるならばソ連の勢力は抑制し難く強大となる道理である。ソ連に対する勢力はかかる場合には日本以外に存在しない。

の三点を挙げ、「第三の論理は、現在よしそれがいわれなく見えるにしても遠謀ある世界旧秩序の指導部の考慮の外に置かれる筈はないのである」と述べ、アメリカ国内に、フーバー元大統領らによって提唱されたが、戦時中は政府に理解されず、戦後になって高い評価を受けた「反ソ親日の反戦論」が存在することを指摘していたのである。モスクワを通じたアメリカ共産主義者と連絡、情報交換が行われていたのであろう。

 だが尾崎は、アメリカに対日宥和政策を欲する理由があるにせよ、アメリカと「一瞬又一瞬切実の度を刻む」経済制裁を受ける日本との間には、甚だしい認識、要求の差違があることを指摘して、日米和平交渉の決裂を示唆した後、日本国民が直面する第二次世界大戦の本質を述べた。

 「我々はここに当面の問題をしばし離れて現在の世界が当面する事態を更に一層深く観察する必要を感じる。

 欧州に戦争が始まった時人々はこれを英独の決闘であると見た。しかしながらソ連をも捲きこんだ現在ではこれを第二次世界大戦と見ることに何人も意義を挿まないであろう。私見では、これを世界史的転換期の戦と見るのである。

 英米陣営では独ソ戦が起った時、ひそかに英米旧秩序陣営の勝利に導くものとしてほくそ笑んだのである。この種の見解はひとり英米陣営側のみならず中立的陣営乃至反対側にすら多少浸透しつつありと見られる理由がある。英米側は旧秩序の再建―修正的復元―を夢みつつある。しかしながらこれは全くいわれなきことであって、それは今次の大戦の勃発するにいたった根本の理由を見れば明かなことである。

 旧世界が完全に行詰って、英米的世界支配方式が力を失ったところから起った世界資本主義体制の不均衡の爆発に外ならないこの戦争が、英米的旧秩序に逆戻りし得る可能性は存在しないのである。戦争はやがて軍事的段階から社会、経済的段階に移行するであろう。

 この点についての詳細は論究は他日に譲るとして、以上のことと関連して我々は政治指導部に希望したいことがある。

 当局は日本国民を率いて第二次世界大戦を戦い切る。勝ち抜けるという大きな目標に沿うて動揺することなからんことである。日米外交折衝もまたかかる目的のための一経過として役立たしめた場合にのみ意味があるものといい得る。又今日日本には依然として支那問題を局部的にのみ取扱わんとする見解が存在している。これは世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない性質のものであると観念すべきものであろう。

 私見では、第二次世界戦争は『世界最終戦』であろうとひそかに信じている。

 この最終戦を戦い抜くために国民を領導することこそ今日以後の戦国政治家の任務であらねばならない。」

 尾崎秀実が、第二次世界大戦を「世界史的転換期の戦」と言ったのは、世界資本主義から共産主義的世界新秩序への転換の為の戦だという意味である。だから尾崎は「この戦争が英米的旧秩序(英米資本主義体制)に逆戻りする可能性はない」と言うのであり「戦争はやがて軍事的段階から社会、経済的段階に移行する」というのは、戦争がやがて敗戦、内乱、資本主義の自己崩壊から、共産主義革命(敗戦革命)へ移行するという意味であり、「支那問題は、世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない」というのは、中国共産党が支那大陸のヘゲモニー(覇権)を完全に握るまで支那事変は解決されないという意味であり、第二次世界大戦を「世界最終戦」と言ったのは、この戦争で世界資本主義が総決算となり共産主義的世界新秩序が必ず実現するので、レーニンが言った様に、戦争も消滅し、この戦争が人類の経験する最後の戦争となるという意味である。

 おそらく尾崎秀実は、彼を大喝した石原莞爾の姿を脳裡に浮かべながら、石原の「世界最終戦論」が想定する時期よりも早く、人類の理想である世界恒久平和を実現してみせるという尾崎自身の決意を込めて、この論文を執筆したのであろう…。

 そして尾崎が、石原と同様に「日本は南方への進撃に於いては必ず英米の軍事勢力を一応打破しうるでしょうがその後の持久戦により消耗が致命的なものとなって現れ来るであろう」と想像し、「而もかかる場合に於て日本社会を破局から救って方向転換乃至原体制的再建を行う力は日本の支配階級には残されて居らない」と確信しながら、「大戦を最後まで戦い抜くために」と題し、政治指導部に対して「当局は日本国民を率いて第二次世界大戦を戦い切る。勝ち抜けるという大きな目標に沿うて動揺するな」と希望したのは、日本の対米英戦が敗戦革命に移行し、日本が共産主義化するまで戦争をやめるな、完遂せよという意味である。
 東條英機は、近衛文麿に代わり、国民を領導して対米英戦を戦い抜き、我が国を敗戦革命に追いやるという戦国政治家の任務を背負わされたのである(4)。

 昭和十七年十二月二十一日我が国の御前会議は、「南京政府の対米英参戦を日支間局面打開の一大転機とし、治外法権租界の撤廃、北支内蒙の特殊地域化の放棄、日本の権益主義に満ちた日華基本条約の改訂を実行し、南京政府の政治力強化を図ると共に重慶抗日の根拠名目の覆滅を図り真に更生新支那と一体戦争完遂に邁進する」ことを定める「大東亜戦争完遂のための対支処理根本方針」を決定した。

 この対支処理根本方針の理念を大東亜地域に拡大し、米英の大西洋憲章に対抗して我が国の戦争目的を世界に向けて宣明するという重光葵の遠大な構想提言に基づき、東條内閣は、昭和十八年初頭から「大東亜戦争完遂に付ての協力に関する日華共同宣言」「租界還付及治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定」の調印を端緒として我が軍の占領下にあった東アジア各地域を順次独立させる大東亜外交を展開し、十一月五日には、東亜各国―日本、満洲国、中華民国(南京政府)、タイ、ビルマ(八月一日独立)、フィリピン(十月十四日独立)及び自由インド仮政府(十月二十三日日本政府承認)の首脳が大東亜会議を開催、大東亜共同宣言を発表し、戦争目的を国内外に向けて高らかに宣言した。

 各国代表の中で最も深く篤い信頼を日本に寄せるチャンドラ・ボースの演説は、格調高く、イギリスの桎梏からインドを解放しようとする熱い闘志と悲壮な決意に満ちており(5)、各国出席者の心を打ち、翌年一月七日、東條首相は、ボースの期待に応えるべく、かねてより参謀本部とビルマ方面軍が検討していたインパール作戦を認可した。

 だが同じ頃、陸軍省部を支配し近衛内閣および東條内閣の下で対米英開戦を強硬に主導し、ハル・ノートに対し「天佑とも云うべし」と喝采を送り、「吾人は孫子の代迄戦い抜かんのみ、真に世界歴史の大転換なり、百年戦争何ぞ辞せん」と叫んだ参謀本部戦争指導班を中心とする統制派革新幕僚は、彼等が尾崎秀実の「東亜新秩序」構想を共有していたことを明らかにしていたのである。

 本当に奇妙なことに、昭和十八年以降、近衛文麿が周囲の要人に「陸軍統制派の陰謀」を警告する毎に、陸軍中枢の革新幕僚は、尾崎秀実の謀略構想そのままに、政府軍部首脳を操り、「大東亜共栄圏」の理想を信じて戦う前線の将兵と内地の国民を欺きながら、東亜新秩序(東亜共産主義社会)の実現へ向けて、我が国を敗戦革命に追いやることを意図した「対米英戦完遂」、我が国の勢力圏にソ連を導入する事を意図した「対ソ徹底譲歩」、そして「日ソ支(中国共産党)提携結合」を執拗に主張してゆくのである。

(1)【終戦工作の記録上】六十七~七十二頁「小林躋造回顧録」
 重臣のなかで、東條内閣の打倒を目標に最も早い時期に動き出したのは岡田啓介であった。それは彼が高度の情報網を持ち得たことと無関係ではない。身近なところでは長男の貞外茂(海軍中佐)は軍令部作戦課の一員であり、また女婿の迫水久常は「物動」の中枢ともいえる企画院第一部第一課長であった。さらに義弟・松尾伝蔵(陸軍大佐、二・二六事件で身代わりとなって射殺される)の女婿であった瀬島龍三陸軍少佐は、参謀本部作戦課員であった。これらの情報網の質の高さは陸海軍首脳のそれをはるかにしのぐものであったという。
(2)【終戦工作の記録上】一二七~一三二頁。
 もし独ソ和平が実現し、日独の戦力が英米に集中指向する場合、尾崎の言う通り、ソ連は帝国主義諸国の混戦に超然として戦力を恢復し、ドイツの背後を襲い或いは対ドイツ戦に投入されていた巨大な戦力を極東に展開し得るのである。だから昭和十六年十一月六日から十八年四月八日まで参謀次長を務めた田辺盛武中将は、昭和十七年三月七日、「独ソ和平は日本の北辺に圧力を増し害多し」と判断したのである。
 同年九月六日、ドイツ政府は、大島浩駐独日本大使に「日本の独ソ和平の企図は迷惑である」と抗議し、さらに極東ソ連軍の西送を指摘して、「日本はソ連に過度の保障を与えているのではないか」との疑念を呈し、日本が対ソ開戦に踏み切らないことを非難した。
(3)【終戦工作の記録上】一三七~一四七頁。参謀本部第十五課(戦争指導)作成。
(4)三田村【戦争と共産主義】一九四、二一一~二三五頁。【尾崎秀実著作集3】二六七~二六八頁。
(5)伊藤【東條内閣総理大臣機密記録】三四〇頁参照。



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龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究に於いて最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

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