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国民のための大東亜戦争正統抄史70~72陸軍統制派の陰謀

【陸軍統制派の陰謀】


70、連合軍の大反攻

 一九四二年十一月八日、米英軍は、エジプトのエル・アラメインで東進するドイツ・ロンメル機甲軍団と死闘を繰り返していたイギリス第八軍の反攻作戦に呼応し、モロッコ(スペイン領)のカサブランカとアルジェリア(フランス領)のオランに上陸、独伊のアフリカ方面軍を挟撃することに成功し、翌四十三年五月十三日、チュニスに追いつめられた独伊両軍約二十五万人が連合軍に降伏し、北アフリカ戦線は連合軍の勝利に終わった。

 イギリスを窮地から救い出したアメリカ軍は北アフリカ戦線から太平洋方面に戦力を抽出し、六月三十日、「カートホイール」作戦を発動、ソロモン諸島レンドバ、東部ニューギニア島ナッソウ湾より本格的反攻作戦を開始し、慢性的な補給不足に苦しんでいたラバウルに司令部を置く我が第八方面軍(ソロモン諸島の第十七軍、東部ニューギニアの第十八軍)を各所で撃破した。

 勢いに乗るアメリカ軍は、十一月二十四日、中部太平洋における日本軍の最東端基地があるギルバート諸島タラワ・マキンを占領、翌四十四年二月四日にはマーシャル諸島を制圧、続いて十七日、日本海軍の根拠地カロリン諸島のトラック島を空襲して無力化し、そして二十九日、東部ニューギニアの北方に位置するアドミラルティ群島を占領したのである。これは、連合軍による北部ニューギニア、ダンピール海峡の制圧と、日本本土とラバウル、ニューブリテン島と東部ニューギニアの遮断を意味した。

 第八方面軍は、完全に補給線を遮断され、約十六万七千人の日本軍将兵がラバウル、ソロモンに孤立して死兵と化し、ブーゲンビル島の我が第十七軍が、兵力約一万人を動員して「決死全員玉砕」の決意の下にトロキナ反攻作戦を敢行し、南東太平洋作戦は終わりを告げたのであった。 

 御前会議(昭和十八年九月三十日)が絶対国防圏を設定した後も、我が軍はこれを第一線ではなく後方支援線と考える海軍の主導により、攻勢終末点を越えた南東太平洋島嶼群に分散配置されていた為に、自由に攻撃の目標と時期とを選択し戦力を集中するアメリカ軍に各個撃破され、総崩れとなってしまったのである。

 これに対し我が国では、東條首相が戦局の挽回を図るべく、陸相だけでなく参謀総長をも兼務し、さらに嶋田海相に軍令部総長を兼務させ、陸海軍戦略の一致および国務と統帥の一致を図ると共に、昭和十九年二月二十五日、ようやく中部太平洋方面防備に責任を持つ第三十一軍を編成し、十月の完成を目標として中部太平洋島嶼の要塞化に着手し、続いて三月二十二日、南西諸島方面の防衛強化の為に第三十二軍を創設した。
 この防衛戦略は石原莞爾の警告から約一年六ヶ月後の余りにも遅い措置であったが、五月二日、宮中で開かれた「当面の作戦指導方針に関する陸海軍統帥部御前研究」では、両統帥部を代表して、嶋田軍令部総長は、

 「敵がマリアナ、小笠原を攻略するには相当の犠牲を覚悟する必要があるのみならず、これが確保は容易ならず、我が基地航空兵力を減殺し、これが弱化を図った後、企図する算大なり」

と述べ、続いて後宮参謀(高級)次長は、海軍側の質問に対して、トラック、西部ニューギニアの防備には自信がないが、

 「小笠原、マリアナ地区においては、すでに相当の守備兵力を配置しあり、特に五月中旬以降輸送予定の第四十三師団を上陸せしめ得たる場合においては、敵の攻略企図に対し自信を有す」

と明答し、東條参謀総長も「サイパンは難攻不落である」と海軍側に豪語した。

 ところがアメリカ軍の進撃速度は我が陸海軍首脳の予想をはるかに越えていた。マーシャル攻略、トラック、マリアナ空襲によって日本軍基地航空隊戦力の予想外の弱体化を知ったアメリカ軍統合参謀本部は、三月十一日、米英中首脳および幕僚陣によるカイロ会談(一九四三年十一月二十二~二十六日)が決定した「日本総合打倒計画」の日程表を約四ヶ月繰り上げて、六月にマリアナ諸島、九月にパラオ諸島を攻略することを決定していたのである。

 そして連合軍がノルマンディーに上陸し、アイゼンハワー総司令官が第二戦線の形成を声明した一九四四年六月六日、第五十八機動部隊と第五水陸両用軍団(海兵二個師団、歩兵一個師団、砲兵部隊その他約六万七千人)から成るアメリカ軍マリアナ攻略部隊がマーシャル諸島のメジュロ、エニウェクト環礁から出撃し、十五日、サイパンへの上陸作戦を開始したのである。

 我が連合艦隊司令長官の豊田副武大将は、フィリピン・ギマラス島を出撃した小沢治三郎中将の率いる第一機動部隊に「連合艦隊はマリアナ方面来攻の敵機動部隊撃滅次いで攻略部隊を殲滅せんとす」と打電し、あ号作戦決戦発動を命令した。

 連合艦隊が空母搭載機までラバウルに揚げて「イ号」航空撃滅戦を発動し失敗した前年四月以来、約一年をかけて再建された我が海軍機動部隊は、空母九、戦艦七、重巡十一、軽巡三、駆逐艦三十二、補助艦艇十一、合計七十三隻を有していたが、肝心の艦載機四百三十九機の操縦員は、発着艦もままならないほど未熟で、小沢機動部隊の戦力は形骸をとどめているだけであり、質量共に、空母十五、戦艦七、重巡三、軽巡六、防空巡四、駆逐艦五十八、合計九十三隻、艦載機九百三機を揃え、高性能対空レーダーとVT近接信管付の対空砲弾を装備するアメリカ海軍第五十八機動部隊の相手ではなかった。   

 果たして十九日、小沢機動部隊は、敵機動部隊を捕捉、先制航空攻撃を行ったが、艦載機三百九十五機を失い、さらに空母三隻を敵の潜水艦と艦載機によって撃沈され、大敗北を喫したのである。我が国に残された稼働可能な第一線空母はわずか四隻、第一線航空機は陸海軍合わせて約二千五百機(稼働機千五百機)に過ぎず、マリアナ諸島付近の制空海権を敵に奪われた我が軍がサイパンに増援部隊を派遣することは不可能であり、二十四日、我が陸海軍は協議の上、あ号作戦の中止とサイパンの放棄を決定した。

 前日、参謀本部戦争指導班(参謀次長直轄の大本営陸軍部第二十班)は、あ号作戦の失敗について、次のように総括していた。

 「去ル二月トラック来攻ニ依リ我カ統帥部ハ愕然トセリ。第二十班ハ此ノ前後亜欧全般ノ情勢ヲ洞察シ、昨年九月御決定ノ戦争指導大綱ニ根本的検討ヲ加ヘ昭和十九年末ヲ目途トスル戦争指導方策ヲ策定中ノ処三月十五日第三案ヲ得、本案ヲ以テ上司ニ意見ヲ具申スヘク、先ツ松谷大佐ヨリ第一部長(註、真田穣一郎)、第二課長(註、服部卓四郎)、橋本少佐ヨリ第二課瀬島少佐ノ意見ヲ夫々求ム、大体異存ナシ、但シ第一部長ハ趣旨同意ナルモ、之ヲ印刷ニ附シテ残スハ不可ナリトノ意見ナリ、此処ニ於テ松谷大佐ハ秦次長ニ本案ヲ説明ス、次長ハ内容ノ重大性ニ鑑ミ、今本案ヲ高級次長、総長ニ提出スルモ其ノ飛躍ノ困難性ヲ見透シ暫ク時期ヲ待ツヘク、絶対ニ外部ニ出ササル如ク命セリ、斯クシテ陸海軍首脳ノ中部太平洋方面ノ重要性ニ関スル根本的施策ノ思想統一ハ不十分ナル儘ニテ両作戦課間ニあ号作戦計画ヲ樹立セラレタリ、あ号失敗ノ原因ハ此処ニ存ス、即チ皇国ノ浮沈ヲ決スヘキ重大作戦ヲ何等戦争指導的ニ検討セラレサリシ点ニ存ス
結果的ニ見テ陸軍ノあ号作戦ニ関スル援助ハ既ニ実施セル以上ニハ困難ナリシナランモ、其ノ思想ニ於テ協力一致ノ真情ヲ得タランニハ斯クノ如キ悲惨ナル結果ニ陥ラサルヘシ」(大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌昭和十九年六月二十三日の条)

 我が第十五軍と捕虜となった英軍インド兵から編成されたチャンドラボースの率いるインド国民軍が、ビルマ・インド国境付近にまたがるチンドウィン川とアラカン山系を越え、インパールとコヒマに向かって進撃を開始した昭和十九年三月十五日、参謀本部戦争指導班は、従来の研究をまとめ、「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察(第三案)」という戦争指導方針を策定した(1)。この中で戦争指導班は、

 「帝国が大内戦作戦の妙味を発揮しつつ長期戦を完遂せんが為には敵主力の来攻に先だち絶対国防圏を確立すると共に圏内に於ける海、空、陸の機動を自由ならしむべき準備を完整し置くを必要としたるも、今や是等作戦準備の未完に乗じ、我が国防圏中致命的要衝にして而も最も弱点とする中部太平洋方面に対し敵の真面目なる決戦的反攻を予期し得るに至れり。

 而して中部太平洋方面の弱点は地勢学上孤島の連鎖にして最早地域的縦深性無く、且敵の絶対優勢なる海空軍力の集中発揮最も容易なると共にこの思想を以てしては之が確保を期し難く、更に又国力との調節を保持するの限度に於ける手当の程度を以てする確保希望は敵との相対的実力に於て過望と称すべく、茲に帝国は好むと好まざるとに拘らず逐次戦力を投入して之が増強を期するか或は徹底的の戦力を結集して一挙に敵と雌雄を決するの已むなき事態に立ち至るものと観察せらる」

と判定し、

1.中部太平洋方面に於ける敵の早期決戦企図に対し現在の手当のみを以てしては持久作戦遂行の準備と確算なし。
2.中部太平洋方面の国防要衝を放棄して帝国の組織ある戦争完遂を望み得ず。
3.国力、戦力は本年七、八月の候以降如何に努力するも逐次低下の大勢を防止するを得ず、国力、「ヂリ」貧に陥るは時機の問題なり。
4.中部太平洋の国防圏を突破せられたる場合国民の士気及戦意を昂揚するは至難なり殊に威令下諸邦の戦争協力確保の自信なし。
5.独の様相も亦概ね帝国に同じく六―七月の候を予期せらるる第二戦線の撃摧に成功せざれば逐次「ヂリ」貧に陥るべし。
6.ソの対日中立維持への期待度は日独の戦勢好転せざる限り長くも概ね本年末を限度とすべし。  
7.世界各国共概ね戦争終末期の様相を呈せんとしつつありて、一方面に於ける戦勢の均衡破綻は世界戦政局の一大転機たるの公算大なり。

という理由を挙げて、

 「帝国は独と策応して今年内に戦局の大勢を決するを目途とし、主敵米に対し概ね夏秋の候を期して決戦を企図するを要す」

と判断し、「武力決勝の戦争全局に及ぼす効果」として、

(イ)有利なる場合は本年夏秋の候日独共に敵の反攻に決勝を博し、以てソを日独側に抱込み、次で英米側より妥協和平を申込むが如き事態の進展を期す、斯かる場合には敵海空軍(独にありては米、英陸軍の主力をも含む)を撃滅することとなり、敵国民の戦意喪失の公算は極めて大にして、世界和平成立を望み得、而して此の際、日独何れか一方が快勝を博する場合に於ても尚且和平生起の公算あり。

(ロ)次は日独共に快勝を博するに至らざるも、各々国防圏確保の程度となりたる場合に於ては、敵の反攻に「間合い」を取り、態勢を立て直しの余裕と敵側短期終戦企図に疑義を生ぜしむることとなり、状況に依りてはソをして日独に対し中立化せしめ此の際敵国民の動揺等に依り若干年月を経過して敵側より妥協和平を申込ましむることも可能なり。

(ハ)次は決戦の結果日独共に不幸にして国防圏に破綻を生ずる場合に於ても、少くも敵戦力には相当の消耗を与え得べく爾後後図を策する余裕と国民戦力結集の動機たらしめ得べし。

 「而して斯くの如き努力を尽すも尚中部太平洋の防衛圏を突破せられたる場合には最早天、皇運を見放したるものと謂うべく帝国は大東亜各地に割拠籠城し随所敵を阻止して其の戦意放棄を俟つの已む無きに至るものとす。然れども斯かる事態に於て帝国が組織ある近代的科学戦争指導を望むは過望と称すべきなり」

と判定していたのである。

 「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察(第三案)」は、我が国の陸海軍首脳の認識とは正反対に、敵味方の戦力国力比の実態、米ソの意図など万般に亘り驚くほど正確に戦況を分析していた。それにも拘わらず、これは東條英機参謀総長と後宮淳参謀次長に提出されなかった。この戦争指導方針の中で、戦争指導班は、武力決戦を補助する外交方針として、

1.対ソ対独施策は既定方針の実行を強化す。対ソ外交は戦略方策の成否と共に国運決定の最大要素たるべきを以て概ね本夏秋の候機を見て独ソ斡旋を策し之が為特使の派遣を断行するを要す。

2.対中立国施策は成るべく敵側に廻すことを避け、宣伝、諜報、謀略の温床として活用すると共に今次戦争をして人種闘争に陥らざるの著意を必要とす。

を挙げ、さらに独が帝国に拘わることなく単独行動に出でたる場合の措置として、

(イ)独、英米和平の場合

 機を失せず独ソ和平斡旋を図り之が代償としてソの仲介に依り帝国と米英との和平を斡旋せしむ。

 独は此の際恐らく帝国の為め仲介の能力及誠意なく、ソを活用すること肝要なり(これとても虫の良き話なるも他に処置なし)但しソ英米の連絡緊密にして此の三者脈絡を保ち帝国に圧力を加重することも予期しあらざるべからず。

 之が為独ソとは絶えず緊密なる連絡保持を必要とし、在ソ、在独帝国使臣の活眼に俟つ所多し。

(ロ)独ソ和平の場合

 帝国も速にソとの脈絡を強化するを要す即ち日ソ不可侵条約、出来れば日ソ同盟へ進展せしめ此の際ソを利して中共延ては重慶切り崩しに波及せしむる如くするを要す。 尚此の場合に於ても、ソをして世界和平に導入せしむる如く着意すること必要なり。

を挙げ、日ソ同盟の実現とソ連に対する利益提供を画策しており(1)、秦参謀(次級)次長以下の幕僚は、前年二月十三日、大本営に「欧州の戦局に伴い、近時安価なる対米英講和案を或いは日独ソ同盟案等に付き、上層階級等に於いて話題を作り居る模様なる所、此の如きは最も危険なるを以て厳に指導取締りする方針なること」を付言していた東條首相(2)の逆鱗に触れることを忌避したのであろう。すなわち彼らは自己の正体と意図を隠蔽する為に、陸海軍首脳に正確な戦況分析を伝えることなく、我が軍を敗北へ導いたのである。そして参謀本部戦争指導班は、昭和十九年七月一日、次のように判決した。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十九年七月一日土曜
三、午后ヨリ市ヶ谷分室ニ於テ班長以下(註、松谷誠、種村佐孝、橋本正勝)昭和二十年春ヲ目途トスル戦争指導ニ関スル第一案ヲ研究ス、判決トシテハ今後帝国ハ作戦的ニ大勢輓回ノ目途ナク而カモ独ノ様相モ概ネ帝国ト同シク、今後逐次「ジリ」貧ニ陥ルヘキヲ以テ速ニ戦争終末ヲ企図ストノ結論ニ意見一致セリ
 即チ帝国トシテハ甚タ困難ナカラ政略攻勢ニ依リ戦争ノ決ヲ求メサルヲ得ス 此ノ際ノ条件ハ唯国体護持アルノミ 
 而シテ政略攻勢ノ対象ハ先ツ「ソ」ニ指向スルヲ可トス
 斯カル帝国ノ企図不成功ニ終リタル場合ニ於テハ最早一億玉砕アルノミ、帝国トシテハ飽迄モ冷静ナル見透ニ依リ皇統連綿タル三千年ノ歴史ヲ保存シ、後図ヲ策スヘキナリ

 続いて七月四日、我が陸軍はインパール作戦を中止した。インド独立の使命感に燃える我が第十五軍は、制空権と補給能力の欠如を克服すべく可能な限り軽装備で急進撃を図り、緒戦においては目覚ましい戦果を挙げ、イギリス軍を狼狽させたが、敵の機械化部隊が守備するインパールには容易に近づけなかった。
 第十五軍司令官の牟田口廉也中将は、膠着した戦況を打開すべく、コヒマを占領した第三十一師団によるコヒマ北西四十五キロに位置するディマプール(イギリス軍の一大補給基地)の攻略を企図したが、ビルマ方面軍司令官の河辺正三大将の許可を得られなかった。その結果、我が軍は、勝機を逃してしまっただけでなく、食糧と弾薬の枯渇を招いた上、例年より早く雨期が訪れた為、作戦の終末は悲惨を極めた。インパール作戦に投入された第十五軍約八万人の将兵の内、約三万人が戦死、約四万二千人が戦傷病に倒れ、インドからビルマに至る我が軍の退路は、絶対的に不利な条件下でイギリス軍を土俵際にまで追い詰めた超人的な勇戦奮闘の末、ついに力尽きた将兵の白骨で埋め尽くされた。大幅に戦力を衰退させた我がビルマ方面軍は、アキャブ方面からイギリス軍、雲南方面から中華民国遠征軍に圧迫包囲され、苦闘の持久戦を余儀なくされ、翌年三月二十七日には、ビルマ国軍が、敗戦を回避してビルマ独立を維持する為に敢えて日本軍に反乱を起こし、四月、イギリス軍がビルマを再占領した。

 さらにインパール作戦中止から五日後には、サイパンが陥落し、アメリカ軍に占領された。サイパン防衛の主力である我が帝国陸軍第四十三師団は、その最後の部隊をサイパンに迎えてから一週間後にアメリカ軍の上陸を迎えた上に、築城資材を積んだ輸送船を撃沈された為に、約三万人の我が守備隊は、ほとんど裸陣地で戦うことを余儀なくされ、アメリカ軍の猛烈な空爆と艦砲射撃(弾量約二万トン)を浴びて、さしたる抵抗もできぬままに壊滅してしまった。

 アメリカは、同時期に太平洋と大西洋を越えて、日独本土に向かって大攻勢を敢行するという圧倒的な戦力国力を世界に誇示し、日独両軍による英ソ挟撃という枢軸陣営の唯一の勝機ともいうべき昭和十七年の戦機を逃した日独両国は、二年の歳月を経て、連合軍によって絶対国防圏を突破され、包囲挟撃されるに至ったのである。

 アメリカ軍は、陸海空軍の総合戦力を投入して太平洋島嶼を制圧拠点化し、制海空圏を逐次拡大させながら、日本と南方間の連絡を遮断しつつ日本本土に迫る戦略と、巨大な火力(鉄量)を投入して敵軍を圧倒、粉砕する戦術を採用した。
 これに対して、パラオ諸島のペリリュー戦(昭和十九年九月十五日~十一月二十四日)、硫黄島戦(昭和二十年二月二十九日~三月二十七日)では、友軍の艦船と航空機による火力支援を期待できない日本軍守備隊は、水際撃滅戦術を放棄し、強固な地下陣地を構築して大地を自軍の鎧に変え、敵軍の爆砲撃に耐えた後、上陸してきた数倍の敵部隊に大打撃を与えた末に玉砕し、アメリカ軍の心胆を寒からしめ、世界の軍事関係者から絶賛された。だが大戦を通して、我が軍は、海上護衛戦と通商基地機能破壊戦の意義たる「戦勝の要諦は味方の兵站を防衛し敵の兵站を破壊するにあり」という平凡な戦理を全く理解しない帝国海軍の拙劣な前方展開戦略と、時流の航空優先観念から増長した、彼我航空戦力の優劣を無視する航空絶対思想に災いされて、守勢の利を最大限に活用し補給と築城を充分に確保した上で味方の陸海空軍の戦力を統合集中し、地上に姿を晒して居る敵軍の上陸部隊を、海中、地下、海上、空中から立体的に迎撃、包囲殲滅するという「陸海空軍三位一体・全方位立体包囲」戦術を一度も採ることができなかった。

 昭和十九年六月十五日、サイパン上陸作戦に呼応して支那大陸の成都より発進し九州の八幡製鉄所を爆撃したアメリカ軍の「空飛ぶ要塞」高々度長距離爆撃機B-29(航続距離五千六百キロ)は、サイパンに進出、日本本土を作戦半径内に収め、我が日本軍が戦争遂行に必要不可欠な南方資源地帯の確保と日本本土の兵站機能の防衛を維持することは、いずれも困難になり、我が日本国は参謀本部戦争指導班が予想した通りの苦しい戦況に陥ったのである。

(1)【終戦工作の記録上】一七九~一九三頁。戦争指導班は「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察(第三案)」でも、独との戦争終末に気脈を通じ予め提携連絡を要する内容、時機、手段として、

(イ)戦争目的 自存、自衛各新秩序を建設し世界平和に寄与す。
(ロ)戦争目標 主敵は飽迄米、英に指向し、ソを避く。(対ソに関しては極力独の気持転向を図る) 
(ハ)決戦の時機 日独共本夏秋
(ニ)独が西欧第二戦線を撃摧せる場合には帝国としては独ソ和平斡旋の企図ある旨を提示す。
(ホ)英、米が本夏秋の候第二戦線を決行せず、ソは依然西進し英、米は空爆及独威令下諸邦の切崩しを主とするが如き情勢に於ける独の施策を聴取す。(此の際に於ても帝国の対米、英、戦勢有利なる場合は機を見て独ソ和平の斡旋を企図す、応ぜざる公算大)

を挙げ、独ソ和平を執拗に画策していたのである。
(2)【東條内閣総理大臣機密記録】一五八頁。


71、小磯内閣発足

 連合軍が着実に日本本土へ迫りつつあることを知った一般国民は深刻な不安に襲われ、国民の不安は東條内閣に対する不満と不信に変わり、海軍だけでなく政府与党の翼賛政治会(昭和十七年四月三十日第二十一回衆議院選挙を経て五月二十日に発足)の代議士からも、国民世論に反応して公然と東條首相を糾弾する声が上がり始めた。

 昭和十九年七月六日、翼賛政治会定例代議士会が阿部信行総裁以下所属代議士約二百五十名の出席を得て開会されたが、松田竹千代ら十八名の議員から東條内閣の戦争指導に対する痛烈な批判が次々と発せられ、代議士会はさながら東條内閣糾弾集会と化し、「政府は真に国民の信頼をつなぐべき挙国一致の体制を速に整うべし」という決議を採択した(1)。

松田竹千代「私は現下国内の欠陥を赤裸々に開陳して以て東條総理の猛省を促さんと欲する、誠に遺憾千万なことながら現在の国内情勢は如何であるか、海軍部内に於ける不和不一致のみならず、陸海軍間の統制も完全ではないと聴く、私は此の際大本営に於て陸海軍が真に一体になれと主張する。其の為には弱体なる内閣では到底この目的を達成することは不可能だ。東條総理を否定するものではないが、先ず以て強力なる内閣の結成を要望する。而して又此の際臨時議会を開いて政府の所信を承りたい。

 戦争の遂行の責任は戦時予算に協賛を与えた議会にもある、我々は皇城前に割腹して申訳を致さねばならぬ重い責任を痛感するものである。全く我々は今命も要らぬ、名誉も欲しない、ただ神の如き心境あるのみである。東條総理は希くば我等の此の声に聴かれよ。

 此の時に当り閣僚重臣は何をしているのか、又総理が一人にして、重職を兼ぬることは人為の不可能をあえてせんとするものだ。此の危急の場合参謀総長は参謀本部に立篭もり、専ら作戦の衝にあたるべきであって屡(しばしば)街頭に立って民情視察の如き呑気なことをしている時ではない。阿部総裁は東條大将に対して好意ある忠告をなすべしと思う。」

 七月十日、阿部総裁は東條首相を訪問し、六日の定例代議士会の決議を申し入れると共に、専任軍需大臣・専任参謀総長及軍令部総長を置くこと、重臣の入閣による内閣強化、の二点を首相に進言した。十三日、そこで東條首相は参内して内閣強化につき木戸内大臣に相談したところ、木戸から天皇の内意として、

一、陸海総長と大臣を切り離して統帥を確立すること
二、海軍大臣を更迭すること。
三、重臣を入閣させて挙国一致内閣をつくること。

という三条件を提示されたのである。

 昭和天皇に拝謁して木戸内大臣の言葉に間違いないことを確認した東條首相は、三条件の実現を図る為、まず参謀総長に関東軍司令官の梅津美治郎大将、新海相に佐世保鎮守府司令長官の野村直邦大将を起用、嶋田海相を軍令部総長専任とし、翼賛政治会総裁の阿部信行(貴族院議員)、海軍長老の米内光政の二人の重臣に無任所国務大臣として入閣するよう求めたが、拒絶されてしまった。東條内閣の退陣を画策していた重臣たちは、木戸を通じて、

 「この難局を切り抜くるには人心を新たにすることが必要でございます。国民全部が相和し、相協力し一路邁進する強力なる挙国一致内閣を作らねばなりませぬ。内閣の一部改造の如きは何の役にも立たないのであります」

と昭和天皇に上奏し、これを知った東條首相は、内閣改造の挫折を悟り、十八日午前十時、閣僚全員の辞表を取りまとめて捧呈した。

 近衛文麿から対米英開戦の責任を負わされた東條内閣は、発足から約二年九ヶ月後、開戦者が負うべき終戦を果たせぬまま総辞職したのであった。昭和天皇から木戸内大臣に後継内閣に就き御下問があり、その日の午後四時から重臣会議が開催され、木戸、原嘉道枢密院議長と若槻、広田、近衛、平沼、岡田、米内、阿部の七人の重臣が参集し、後継総理を選考することになった。近衛文麿が、

 「現実の問題として今日の政治は一切軍と関連しないものはない。従って軍人でないと判らない点もある訳だ。今日は軍人が内閣をつくるより仕方がない」

と述べたところ、一同の賛成を得た。近衛は試みに「鈴木貫太郎海軍大将(枢密院副議長)は如何」と発案したが、木戸が、

 「何百万の大兵を大陸、その他に動かしているのだから、その始末だけでも大変だ、やはり陸軍がよい」

と述べ、陸軍将官から後継総理を奏薦することに意見が一致した。近衛が、

 「陸軍なら注文が二つある。第一は、東條内閣は何の為に倒れたか、東條個人の不評判もあるが、陸軍は海軍に比し政治、経済あらゆる事に口を出し、国民の不評判を買った。よって従来のやり方を変える。即ち、常道に還る事であり、第二は、我が国の今日は極端にいえば、左翼革命に進んでいるようだ。あらゆる情勢がそういう風に見える。

 敗戦はもちろん恐ろしいが、敗戦と同様もしくは、それ以上に怖ろしいのが左翼革命だ。敗戦は一時的で取り返すことも出来るが、左翼革命に至っては、国体も何も吹っ飛ぶ。だから左翼革命に就ては、最も深甚なる注意を要する。表面に起って運動している者ばかりが左翼ではない。右翼のような顔をしている軍人や官吏にも実は多いのだ。本人はそういう積りではなくともすることは全く赤だ、というのが非常に多い。これに向って大斧鉞を振う人が絶対に必要だということだ」

と説くと、平沼は、「全然御同感だ」と語気を強めて叫んだ。平沼は、梅津美治郎の周囲には赤い将校が盤踞しており、梅津が陸相あるいは総長に起用されれば、左翼的革新派が軍部の中心になる、と警戒していたからである(近衛日記昭和十九年七月十四日の条)。

 結局、重臣会議は、第一候補に寺内寿一南方派遣軍軍総司令官、第二候補に小磯国昭朝鮮総督、第三候補に畑俊六支那派遣軍総司令官を挙げたが、木戸は、東條陸相に相談したところ、「寺内は作戦上困る」と返答された為、昭和天皇に小磯を奏薦した。

 斯くして二十日、小磯国昭陸軍大将(予備役)に組閣の大命が下ったのであるが、陸軍大臣には陸軍から杉山元大将が推薦され、内閣強化の為、近衛から強引に出馬を要請された米内光政が現役に復帰し海相として入閣したのである。
 杉山は、支那事変の勃発から幾度となく戦局の見通しを誤り、部下の強硬論に必ず押し切られるところから「ボケ元」、「ドア」とあだ名され、米内は、杉山と近衛とともにトラウトマン和平工作を打ち切り支那事変を長期化させた張本人である。二人の入閣は、我が国の政府軍部が完全に信賞必罰の精神を喪失していた象徴といえ、無能な陸海軍大臣を抱えた小磯内閣は、発足当初から既に政戦両略における失敗を運命づけられていた。

(1)【終戦工作の記録上】二二一~二二八頁。


72、かいらい

 七月二十二日、陸軍中央は、「今後の国政運営に対する陸軍としての対策」として、「陸軍は依然自ら戦争完遂の中核たるの確信の下に海軍を誘導し政府を鞭撻して戦勝の一途に邁進し」、内閣、議会(翼政会)、重臣を戦争完遂に追い込み、彼らの和平的気運を厳重監視すると共に、「戦争終末に関する研究を極少数限定者により極秘裡に実施する」ことを決定した。そして参謀本部戦争指導班と陸軍省軍務課の主務者が、「対ソ政略攻勢」を行い戦争終末を企図する為に、東亜全体のソ連化(共産主義化)を図る異様な戦争指導方針を策定したのである。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十九年七月二十六日水曜
三、対支作戦ニ伴フ宣伝要領ニ関シ現地側ノ意見ヲ田中中佐ヨリ省部主務者ニ報告アリ、現地、殊ニ北支ニ於テハ延安政権ナル呼称ニ対シテスラモ「容共」ヲ意味シ不可トスル強硬ナル意見ニシテ、中央ノ意見ヲ実行スル為ニハ大陸命ニ依リ任務ヲ変更スヘシトノ見解ナリ、本件ハ世界政策的大乗的見地ニ於テ決定セラレタルモノナルヲ以テ飽迄中央ノ見解ヲ貫徹スルヲ要ス

昭和十九年八月八日火曜
二、今後採ルヘキ政略指導要領ニ関シ省部主務者間ニ研究ヲ行ヒ一案ヲ得タリ、
 出席者 班長(註、種村佐孝大佐) 田中中佐 橋本少佐
 軍務課 大西大佐 加藤中佐   

今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領(案)昭和十九年八月八日、省部主務者案(1)

 「註」本案により省部の思想を調整し上司の外部指導に資するものとす

一、対ソ、支積極方策      

1、概ね本秋頃を其の結実の目途としソをして帝国と重慶(延安を含む)との終戦を、已むを得ざるも延安政権との停戦妥協を斡旋せしめ且独ソに対し独ソ間の国交恢復を勧奨す。

2、速かに有力なる帝国使節を先ずソに派遣す。其の出発の時期は遅くも八月下旬と予定す。之が為日ソ経済提携等を提議し其の折衝の間帝国の新企図達成の為の機を作為するものとす、但し帝国の弱体を暴露しソの対日態度を悪化するが如きこと無からしむ。

3、日ソ関係の好転を図り且為し得れば帝国と重慶との終戦を仲介せしむる為特派使節を派遣すべき旨を独に通告す。

4、特派使節赴ソ後に於ける日ソ交渉の進展に応じ適時独に対し独ソ国交恢復を勧奨すべき帝国の真意を通達し独の意向を聴取す。独が帝国の斡旋に容易に応ぜざる場合と雖もソにして独ソ和平の意志あるに於ては帝国は独を強力に指導し同調するに至らしむ。

5、日蒋和平条件、独ソ和平斡旋の為独をしてソに譲歩せしむべき条件並に帝国の対ソ譲歩条件別紙第一、第二、第三の如し。

6、此の間重慶に対して其の抗戦態勢の破摧衰亡に努むると共に其の動向偵諜に努めつつ対ソ交渉の成果に即応し対重慶直接交渉を行う場合あるを予期し所要の準備を整う。

7、ソを介して行う対中共工作を促進する如く「昭一九・七・三連絡会議決定対支作戦に伴う宣伝要領」の趣旨を拡充する等所要の措置を講ず。

8、本項工作の準備並に実行は帝国政府之を行い大本営は密に協力す。

二、大東亜戦争協力態勢の強化(省略)

三、世界政局急変に対処する措置

1、世界政局の変転に対処する為日ソ国交の好転敦睦を図ると共に隠密裡に先ず英に対し政治的接触を獲得する如く努む之が為対英措置に関しては差し当たり在西班牙、在瑞西帝国使臣を活用し要すれば其の陣容を整備す。

2、独が帝国の意図に拘わることなく単独行動に出たる場合の措置を概定すること左の如し。

(イ)独と英米との和平の場合

A、独側より提議する妥協和平の場合

 機を失せず独の真意を確むると共に独の屈伏に依る場合は三国同盟、防共協定を廃棄し日ソ提携に関しソを全面的に利導して世界和平導入に努め已むを得ざる場合帝国は独力戦争完遂に邁進す、但しソ英米相通じ先ず欧洲和平を図り帝国を孤立に陥らしむることあるを予期し独ソの動向を厳に警戒す。

B、英米側より提議する妥協和平の場合

 機を失せず独ソ和平斡旋を図ると共に独ソの仲介に依り世界和平導入に努む。

(ロ)、独ソ和平の場合

A、独より提議する和平の場合

 独の屈伏に依り欧洲和平へ転移拡大するの算大なるを以て速かにソをして世界和平に導入せしめる如く着意す。

B、ソ側より提議する和平の場合

 速かにソとの脈絡を図り独と協議の上要すれば防共協定を廃棄しソの利導に努む。

別紙第一

   日蒋和平条件

一、日華同盟条約を廃棄し新に日華永遠の平和を律すべき日華友好条約を締結す。
二、南京、重慶の合作を認む。
 其の方法に関しては支那の内政問題として取扱い帝国は之に干渉せず。
三、大東亜戦争間支那は対米英厳正中立を保持せしむ。
四、帝国は支那に於て対米英戦争行為の必要なきに至らば支那事変前の状態に撤兵復帰す。

別紙第二

   独ソ和平の為独に譲歩せしむべき条件

一、沿バ三国及「ポーランド」はソの絶対勢力下たることを認む(要すればソ領)。
二、北欧「バルカン」「トルコ」伊太利に於けるソの優先的勢力を認む。
但し独の対米英戦に必要なる最小限の資源を独に供給することを約せしむ。

別紙第三

   対ソ交渉の為帝国の譲歩すべき条件

 日蒋和平の仲介若くは独ソ和平斡旋の為左記条件を以て日ソ国交を調整す。
 (本密約は独ソ不調に終る場合に於ても日ソ国交保全の保証たらしむ)

    左   記

一、防共協定廃棄の用意あることを確約す。
二、南樺太をソに譲渡す。
三、満洲をソに対して非武装地帯とするか満洲北半部(概ね賓綏、賓洲線以北)をソに譲渡す。
四、重慶地区は全面的にソの勢力圏とし爾他の支那に於ける我が占領地域(現国民政府治下の地域)は日ソ勢力の混淆地帯とす。
 此の際汪、蒋、共合作促進に努め蒋応ぜざる場合に於ては中共を支援して重慶に代位せしむることを認む。
五、戦争間及戦後を通し日ソ間特恵的経済交易提携を促進す。           


 陸軍中枢は、四条件でソ連の力を藉りて支那の社会主義国家への転換を図り、之との関連において四、一、二、三、五条件で日ソ提携を実現し次いでソ連の援助を受けて(ソの導入を図り)日本の社会主義化を図り、ソ連に日本と延安政権との停戦妥協を斡旋させ、日ソ支(中国共産党)の提携すなわち大東亜新秩序の建設を実現しようというのであろう。だがアメリカの軍事支援を受けてドイツと死闘を繰り広げているソ連が日本と握手してアメリカを敵に回すはずはなく、彼等の計画は失敗に終わった。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十九年九月十八日月曜
五、本日「ソ」ヨリ我カ特使ノ派遣ヲ拒絶シ来レリ、「ソ」ノ真ノ腹ハ何処ニアリヤ不明ナルモ国家ノ為遺憾千万ナリ、帝国ハ飽迄執拗ニ対「ソ」交渉ヲ継続スルヲ要シ、夜別館ニ於テ、班長、加藤中佐、橋本ニテ今後ノ交渉要領一案ヲ研究セリ
更ニ日「ソ」支東亜共同宣言(案)ヲ研究ス

 八月三日にはテニアン、十一日にはグアムが陥落し、海軍空母機動部隊の主力と中部太平洋の戦略要衝マリアナ諸島を失い、連合軍に絶対国防圏を突破された我が国では、最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議)が、十六日「今後採るべき戦争指導の大綱」を、続いて九月五日「対重慶政治工作実施に関する件」を決定した。

 今後採るべき戦争指導の大綱は、依然として「帝国は現有戦力及本年末頃迄に戦力化し得る国力を徹底的に結集して敵を撃破し以て其の継戦企図を破摧す」を方針とし、軍事戦略、外交政略として「太平洋方面に来攻する米軍主力の撃滅」「南方重要地域の確保と圏内海上交通の保全」「ソ連との中立関係維持と国交の好転」「独ソ間の和平実現」「重慶政府に対する統制ある政治工作発動による支那問題の解決、之が為のソ連の利用」を掲げていた。

 対重慶政治工作実施に関する件は、「対重慶政治工作は大東亜戦争完遂の為速かに重慶政権の対日抗戦を終止せしむるを主眼とす。之が為先ず彼我の間に直接会談の機を作るを以て第一目標とす。当面工作の目標として、国民政府(註、南京)をして彼我の間に直接会談の機を作る如く工作せしむ。之が為成し得れば国民政府をして適当なる人物を重慶に派遣せしむ」を方針とし、対支和平条件として

1、支那の好意的中立を以て満足す。尚支那側をして在支米英軍を自発的に撤退せしむ。
2、蒋介石の南京帰還、統一政府の樹立を認む。但し両者間の調整は支那の国内問題として両者の直接交渉に委す。
3、日華同盟条約を廃棄し新に全面和平後日支永遠の平和を律すべき友好条約を締結す。此際支那内政問題には一切干渉せざるものとす。延安政権及共産軍の取扱も右に準ず。
4、在支米英軍撤兵せば帝国も完全に撤兵す。その実行方法に関しては停戦協定に拠る。
5、満洲国に関しては現状を変更せざるものとす。
6、蒙疆の取扱は支那の内政問題として取扱わしむ。
7、香港は支那に譲渡す。

等を掲げ、「速かなる日ソ国交の好転に依る政治的迫力を活用し本工作の促進を図る。日ソ交渉の進展に伴い要すればソをして本工作の仲介を為さしむることあり」と定めていた。敗戦後、小磯国昭は次のように述懐した(2)。

 「私の組閣したのは一九四四年の七月二十二日です。その翌月の八月十六日に、今後採るべき戦争指導の方針と云うものが戦争指導会議で決定されました。その戦争指導会議で決定をしたのは、陛下御臨席の下に戦争指導会議のメンバーだけが集まって決議されたのです。その時の陸海両統帥部の、今後起るべき戦場判断はフィリピンでした。私の考えは、サイパン陥落失陥後は、負け戦だ、負け戦が続くのならば、早く和平を講ずるのでなければ大変だ、サイパン失陥と同時に和平を講ずるのも一つの考えであったと思いますが今は既にサイパン失陥後一ヶ月を経ている。

 それからこんなことを言っては相済みませんが、今でこそ国民は新聞紙上其の他で戦争の実相を承知していますけれども、国民はまだ戦さに負けたとは思って居なかったのです。朝鮮にいた私等もたいして負けているとは知らなかったのです。どうもおかしい負けているなと云うことを思ったのはサイパン失陥後でした。これはもう負け戦だ、負け戦と云うことを承知している政府がここで直ぐ講和をすれば苛酷な条件に屈伏せねばならず、勝っているとのみ信じている国民は之に憤激して国内混乱のもとを為すであろうことは日露戦争末期に於ける日比谷の焼打事件なんて言う物をあなた方御存知でしょうが、ああ言うことも起るであろう、それに今やサイパン失陥後一ヶ月も経過しているから時期を失しているじゃないか、そこで七転び八起きと云うこともありますから、今度会戦が起りましたならばそこに一切の力を傾倒して一ぺん丈でもいいから勝とうじゃないか。勝ったところで手を打とう。勝った余勢を駆って講和すれば条件は必ず幾らか軽く有利になる訳だと思ったのです。」

 だが「一撃和平論」について戦争指導大綱に明記することはフィリピン決戦の必勝の信念を損ねることになり、陸海軍の首脳を交えた最高戦争指導会議で討論することもできなかった為、小磯首相は、苦肉の策としてソ連に特使を派遣することによってソ連にいる英米の要人と接触し一撃後の和平の端緒を捕捉すべく、「今後採るべき戦争指導の大綱」「対重慶政治工作実施に関する件」に「ソ連の利用」を認めたという。

 この両方針に基づき、「対外政略指導要領案」を主張する陸軍中枢と、日ソ中立条約の延長に主眼を置く「対ソ施策要綱」を主張する外務省の間で、対ソ特使の任務や目的、交渉条件を巡る紛糾が続いていたが、前述のようにソ連は日本の特使派遣を拒絶してきた為に、小磯内閣は、九月二十一日、特使派遣を一時打ち切らざるを得なかった。

 だが十一月十日、汪兆銘が名古屋帝国大付属病院において病死した。尾崎秀実等に操られ無自覚のまま日蒋間の和平交渉を遮断する「楔」(障害物)を演じていた汪兆銘の死は、我が国が日中戦争を終結させる為の絶好の機会であった。これを契機にして小磯首相は、汪を喪い形骸化した南京政府の解消と日本軍の撤退等を条件とする対重慶政権和平工作(繆斌工作)に傾いたのだが、我が国にとって不運なことに、支那派遣軍総司令部では、これとは反対に武力によって重慶政権を屈服させる戦略構想が浮上してしまったのである。

 二十二日、支那派遣軍総司令官に起用された岡村寧次大将は、昭和十二年以来の日支の相剋についてその政戦両略に亘る方策なかでも現戦局に如何に対処するかについては幾多の抱負を持っていた。昭和十九年十二月初、南京に着任し部課長等から一通り関係業務の説明を受けた岡村大将は、総司令官としてまず第一に、

 「南方軍が至る処で苦戦を重ねているその前途は明るくない。内地の実情は少しも知らされていないのでよく解らないが、台所は相当苦しいのに違いない。しかし南方軍は総兵力七十五万ぐらいだろうに、わが派遣軍は百五万の大兵を擁している。戦争の重点は南方に在るが兵力だけで云えば此方が主力である。この大兵を持って現状を維持しているだけでは、相済まない心地もする、何か南方軍の苦戦に、遠く協力する方法はないか」

と全戦局を考察し、この際重慶に一撃を与えておけば全戦局に有利であると判断したのである。支那派遣軍は連戦連勝であり、岡村大将は、第十一軍司令官時代から支那軍に対する強固な必勝の信念を有し、又もしアメリカ軍が手薄となる支那大陸東沿岸部に上陸するとしても、それは「もっけの幸い」であり、岡村大将は、

 「戦争いよいよ苛烈となり、黙思すればたちまち戦争前途のことが胸に浮び来る。我派遣軍に関しては心配なし。何となればわが派遣軍が苦戦すればするほど、それだけ多くの米軍を大陸に吸引し、皇本土の負担を軽減し得るという快感あればなり。憂ふるのは唯帝国全局の前途のみ」(岡村日記昭和二十年七月二十五日の条)

と意気軒昂として、派遣軍を犠牲にして本土防衛を図る自信と闘志とを敗戦に至るまで維持していたのである。

 岡村大将の作戦構想は、我が支那派遣軍が四川に進攻し重慶の中華民国軍を撃破することによって、米支一体を破砕し、昭和二十年夏に予期を要する米支連合の総反攻を撃砕すると共に、支那方面を処理し事変解決の端緒を把握する一方、アメリカ軍を支那大陸に吸引し、日本本土の負担を軽減しようというものであるが、戦後の岡村大将の回想によれば、

 「この四川進攻作戦の構想は十二月十五日参謀部に示したところ、参謀全員同意起案し、松井総参謀長、宮崎以下三主任参謀の一行が二十年一月二日出発上京して大本営に意見を具申した。それに対し参謀総長、陸軍大臣共に大体同意されたが、下僚間に反対多く、案の一部が採用されたに過ぎなかった」

という。

 十二月二十八日、岡村大将は、総参謀長の上京の有無を打診してきた大本営に「松井太久郎総参謀長が関係参謀を帯同して上京し、総司令官の意見具申を行う」ことを報告し、三十、三十一日、支那派遣軍総司令部に参謀全員を集め、宮崎舜市参謀が起案した四川作戦計画大綱及び東南支那作戦計画大綱を決定した。四川作戦計画大綱は、作戦目的を「四川省の要域を攻略して重慶軍の総反攻を未然に封殺するとともに重慶政権を崩壊せしめ以て帝国の戦争指導に寄与するに在り」とし、

 「本作戦開始とともに政謀略を活溌に展開し、作戦の進展に伴い根本的に改組を予期する重慶政権又は反蒋派の結合による全面和平を策し、本工作不成立の際に於ても少くも重慶政権の分裂崩壊による地方政権との提携或は灰色化工作の促進を図る」

と定めていた。

 昭和二十年一月一日、参謀本部戦争指導班長の種村佐孝大佐は、「戦争指導上より観たる支那方面作戦に関する観察」を起草し、参謀総長の梅津美治郎大将と次長の秦彦三郎中将に「近く上京すべき支那派遣軍総参謀長の意見を全面的に支持すべきである」と具申し、五日、参謀本部作戦室において、参謀総長、次長、各部長及び真田穣一郎軍務局長、二神力軍事課長は、松井総参謀長以下派遣軍参謀から四川進攻作戦の構想を報告された。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和二十年一月五日金曜
三、支那方面今後ノ作戦指導ニ関スル、松井総参謀長ノ報告要旨左ノ如シ
1、全般ノ構想
  米軍ノ東南支那沿岸上陸ノ時機ヲ本年中期以降ト判断シ其ノ来攻ニ先タチ四川ニ進攻シ重慶ヲ覆滅スルニアリ、
2、右構想ヲ採用スル理由、
 イ、重慶ノ企図ヲ事前ニ覆滅ス
 ロ、本年中期以降ニ於ケル二正面作戦ノ困難ヲ予メ克服ス
 ハ、敵航空基地ヲ覆滅ス
 ニ、支那問題ヲ解決ス
 ホ、四川進攻作戦ノ可能性、二ヶ師団ノ南方転用中止ヲ前提トス、後方的ニハ戦略挺進ノ思想トス
   重慶政権トノ全面和平ハ成立セス、従ツテ重慶ノ分裂崩壊ニ依ル延安政権ノ中央化ヲ企図ス

昭和二十年一月六日土曜
一、支那派遣軍総参謀長ノ作戦連絡ニ対シ作戦課トシテ研究セル結果左ノ如シ
 総長ヨリ総司令官ニ対スル回答腹案

 四川進攻作戦ニ関スル司令官ノ構想ハ可ナルモ帝国全般ノ戦略態勢並ニ国力ノ現状ニ鑑ミ主敵米ニ対処スル関係上両作戦ヲ同時ニ実施スルコトハ不可能ナリ、従ツテ派遣軍ハ取リ敢ヘス対米作戦ニ専念スル為東南支那方面ノ戦備ヲ強化セラレ度、

 岡村寧次大将は、「汪精衛を中心とする和平中国政府の樹立を以て対重慶和平妥協を計るが如きは、至難にして寧ろ逆効果になる」と汪兆銘工作に反対し、北支那方面軍司令官(昭和十六年七月~十九年八月)として「滅共愛民」「三戒(焼くな、犯すな、殺すな)」を掲げ、治安維持の掃共戦を指揮し(3)、

 「中共は之を反重慶地方政権として取扱う趣旨に於て中共本拠は之を延安政権と呼称し又之に属する軍隊にして、我が討伐を要するものは之を匪賊呼称を以て取扱い、且反共、剿共、滅共等の名称の使用は真にやむを得ざる場合の外之を避くるものとす」(対支作戦に伴う宣伝要領)

という陸軍中央の反共戦停止指令(昭和十九年七~八月)に対し、「反共政策をいささかなりとも枉げることはできない」と強硬に反対し、敗戦後、延安の中国共産党によって戦犯第一号に指定された「反共」将軍である(4)。また昭和二十年八月十八日東京から南京に帰任した支那派遣軍の西浦進と野尻徳雄の両参謀から作戦課の朝枝繁春中佐が起案した、

 「この際むしろ赤色勢力を支那本土に導入し、これと米側勢力とを衝突せしめて東亜に混乱を招来し、以て日本が漁夫の利を図らんとする」

という趣旨の指令を報告された際、岡村大将は之を即時に拒絶し国民政府と密着一体となり断乎中共に対する方針を明示し、

 「対支支援の強化に関しては、真に支那民族の心を把握するを主眼とするも先ず重慶中央政権の統一を容易ならしめ、中国の復興建設に協力するものとす。重慶延安の関係は固より支那側自身にて処理すべきものなるも、延安側にして抗日侮日の態度を持する場合においては断固之を膺懲す。支那に交付すべき兵器、弾薬、軍需品等は統帥命令に基づき指示する時期および場所において、完全円滑に支那側に交付し、以て進んで中央政権の武力の充実に寄与す」

と定めた対支処理要綱を起案し、戦後、西浦をして、

 「小生在任期間総司令官は概ね幕僚の案を承認せられることが多かったが、このときの自主的な御決定は小生にとって極めて印象的であり、事後の総軍の進路を極めて明確ならしめたとの感想を持っている」

と言わしめている(5)。

 岡村寧次総司令官の構想と松井太久郎総参謀長の報告内容は相異なるが、松井総参謀長が、我が軍が四川に進攻し重慶を覆滅すべき理由として、「重慶政権との和平は成立せず、従って重慶を分裂崩壊させ(反共を掲げる南京親日政権ではなく)延安政権の中央化を企図」し、参謀本部戦争指導班長が参謀総長と次長にこれを全面的に支持するよう具申したことは、陸軍中央が敗戦まで支那戦線において大軍を動かし続けた真の目的や、南京政権(昭和二十年八月十六日解消)の正体を示唆していよう。

 一九四二年から四五年にかけ、タス通信特派員として延安に駐在したコミンテルン代表ピョートル・ウラジミロフの著書【延安日記】一九四五年八月十八、二十一日欄に次のような記述がある。

 「たまたま新四軍の司令部からの電報をみた。この電報をみても、中共党指導部と在華日本軍総司令部とが、絶えず接触していたことは明らかだ。日本軍総司令部との接触についての報告が、定期的に延安に送られていることは、この電報から明らかで、私は中共軍と日本軍の軍司令部の接触が長い間、行われたことをあとで確かめた。この接触の両端は延安と南京である。

 葉剣英は毛沢東に、私が新四軍からの電報の内容を知っていると話した。そのため、主席は私に、党指導部が侵略日本軍司令部と接触を持つことに決めた理由を長々と説明した。恥ずべき行為である。だからこそ、毛沢東は躍起になって私を納得させようとしたと云える。

 日本軍司令部との関係はすでにずっと以前に、極秘のうちにつけられた。中共党指導部でこれを知っているのはほんの数人だ。毛沢東のエージェントが、南京の岡村将軍の司令部に出入りしていたのだ。必要な際は、日本の防諜機関がこの男を用心深く護衛し、自由に南京と新四軍司令部の間を往来していたのである。新四軍にはこの男(日本人)宛の主席からしかるべき情報が届いており、この男が南京から持ってくる情報は、新四軍を通じて直ちに暗号で延安に打電される仕組みになっていたのだ。」

 アメリカ軍を支那大陸に吸引して日本本土の負担を軽減しようとする岡村大将の戦略は、支那大陸をアメリカの支配下におき資本主義化してしまう為、昭和十九年八月八日「今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案」の別紙第三「対ソ交渉の為帝国の譲歩すべき条件」が示すように、ソ連の力を藉りて支那の社会主義国家への転換を図り日ソ支(中国共産党)の提携を実現しようとする陸軍中堅層にとって、絶対に許し難い構想であった。だから種村佐孝大佐は、下剋上思想を露わにして機密戦争日誌昭和二十年五月十三日欄に、

 「支那方面作戦ヲ大本営ノ意図スル如ク指導スル為ニハ岡村大将ヲ更迭スルヲ要ス。面従腹背ニ陥ルノオソレナシトセズ。全般ニ対米大陸決戦思想ナシ持久後退ヲノミ事トス。支那満州朝鮮悉ク然リ、オソルベシ」

と記述したのであろう。
 また朝枝繁春中佐は、ソ連軍の満洲侵攻と同時に、大本営から関東軍に「満洲の鉄道は一切これを破壊するな」と打電し、朝枝自身、八月十九日、満洲の新京に在る関東軍司令部に出張して、ソ連軍の捕虜になった(6)。
 ソ連軍の政治将校フェデンコ中将によれば、二十六日、朝枝はフェデンコに、「ソ連軍は米軍が上陸する前に朝鮮半島を全面占領し、対馬海峡を封鎖すべきだ」と提言し、彼が東京に帰る必要性と梅津率いる参謀本部と日本軍を支配する雰囲気と政策について個人的に説明したいと申し出て、次のように述べたという(7)。

 「ソ連軍が大陸、対馬、済州島を押さえ対馬海峡の艦船の出入りを封鎖すれば、日本を占領した米軍との関係でより有利な立場を得る。それだけでなくソ連軍がこの通りに展開すれば米軍の大陸進出を阻み、国際社会でのソ連の重みを増すことになる。このため参謀本部、軍中枢部は上記の地域について連合国が最終決定を下す前に、連合国抜きにソ連の利益となる決定に持ち込むべきだと考えている。秦はワシレフスキーとの会談でソ連軍の南下作戦の加速の必要性について述べた(註、八月十九日、極東ソ連軍司令部で、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は瀬島龍三中佐と共に、極東軍総司令官ワシレフスキー元帥を首班とするソ連軍首脳と停戦交渉を行った)。日本軍の判断では十分に迅速だとは考えられなかったからだ。

 私の来訪の目的は、ソ連軍南下の軍事的、政治的条件を整えることにある。この参謀本部と軍中枢の意見は国防大臣、外務省、天皇側近には秘密にされている。」

 大東亜戦争終末の戦争指導資料は、陸軍中枢を支配していた革新幕僚が、総理大臣や支那派遣軍総司令官、陸軍大臣を操りながら、東亜のソ連化(共産主義化)を画策していたことを粉飾なく示唆している。

(1)参謀本部所蔵【敗戦の記録】三十五~三十八頁。【終戦工作の記録上】三一一~三一八頁。中山隆志【一九四五年夏最後の日ソ戦】二十四頁。
(2)【終戦工作の記録上】三〇一~三一〇頁。
(3)稲葉一夫【岡村寧次大将資料】二六二、三三九頁。
(4)次長、次官より対支作戦に伴う宣伝要領を伝達された支那派遣軍総司令官の畑俊六元帥は、「以上の対共態度は実に百八十度の転回にして北支軍の掃共方針、対国民政府の指導にも影響する処頗る大なり。甚だ諒解に苦しむ処にして之が我が政府の政策か或いは単に宣伝か軍としては其辺の意義を明了にしておく必要あり。恐らく中央に於けるソ連に対する御機嫌とり政策の結果とみるべく色々情報を聞くもソ連に特権を附与しあるが如く独も内心頗る不平なるべし」と推測し不満をもらした(畑日誌昭和十九年七月八日)。中央がソ連に附与しようとした「特権」の具体案が今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案中の対ソ譲歩条件であろう。だが対支作戦に伴う宣伝要領の主務者の戦争指導班員、田中敬二中佐は、七月十五日、畑元帥に「今回の延安政権の名を用ゆる宣伝工作は重慶軍の灰色化を覘い、又一には国共の離間を策する処に覘いあり。」と虚偽の説明を行い、戦後、「戦争終末指導の一環として、対米交渉のためにはまずソ連のモロトフと手を握る必要があり、モロトフとの交渉の手段として毛沢東の懐柔を考えた。これと同時に対重慶政治工作を推進する構想であった」と回想した。
(5)【岡村寧次大将資料】二十一、三十六頁。
(6)三根生久大【参謀本部の暴れ者陸軍参謀朝枝繁春】三一五~三一七頁。
(7)【沈黙のファイル瀬島龍三とは何だったのか】一七二~一七五頁。



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龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究に於いて最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

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