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国民のための大東亜戦争正統抄史73~77繆斌工作

【繆斌工作】

 
73、対重慶和平工作再燃

 昭和十九年十月十六日、我が国の大本営海軍部は、台湾沖航空戦(十月十二~十五日)の戦果累計を「轟沈空母十、戦艦二、巡洋艦三、駆逐艦一、撃破空母二、戦艦一、巡洋艦四、艦種不明十一隻」と発表した。国民は久々の大戦果に歓喜してZ旗を掲げて戦勝を祝い、同日、小磯首相は、特別談話を発表し、

 「予期せる決戦はいよいよ開始せられた。官民一体勝って兜の緒を締めんことを誓いたい」

と獅子吼した。だが大本営海軍部の発表は、ガダルカナル戦以来、海軍が幾度となく繰り返してきた未熟な操縦員による戦果誤認であり、台湾南部を空襲したアメリカ第三十八機動部隊(空母十八隻基幹)が受けた実際の損害は、航空機八十九機、巡洋艦二隻大破に過ぎず、我が軍は、決戦戦力としてフィリピン、台湾、九州に配備していた航空部隊千二百五十一機の内、約八百機を撃破されてしまった。海軍は組織防衛を図り、大戦果が幻だったことに気付きながら、これを陸軍に知らせず、九州鹿野海軍飛行場に赴いた参謀本部情報部の堀栄三少佐が海軍の戦果誤認に気付き、

 「この成果は信用できない。いかに多くても二、三隻、それも空母かどうかも疑問」

と陸軍参謀本部に打電したにも拘わらず作戦課がこれを握りつぶしていまい、大本営陸海軍部は準備していたフィリピン決戦の戦場をルソン島からレイテ島に切り替えたのである(1)。

 我が海軍は残存戦力(水上艦艇六十三隻、潜水艦十三隻)を結集し、二十日、マニラの約六百キロ東南にあるレイテ島に上陸を開始したアメリカ軍の輸送船団と上陸支援艦隊を撃滅しようと捷一号作戦を発動したものの、フィリピン沖海戦(十月二十三~二十七日)で大敗北を喫し、空母四、戦艦三、重巡六、軽巡三、駆逐艦八、潜水艦六隻を撃沈され、残存艦艇の大半も損傷し、ここに我が連合艦隊は事実上潰滅した。
 山下奉文大将の率いる我が第十四方面軍は、大本営から制空海権なく補給なく準備なき無謀なレイテ島決戦を強要され、約二ヶ月の間に主力を喪失してしまい、十二月二十六日、アメリカ政府は、フィリピン・レイテ作戦が成功裡に終了したと発表し、翌年一月九日、アメリカ軍は、第十四方面軍の残存部隊が立て籠もるルソン島に上陸した。

 斯くしてフィリピン決戦による一撃和平実現の悲願を砕かれた小磯首相は、対重慶政府和平を端緒とする対米英和平の腹案実現に傾注していった。小磯の陸士以来の親友にして側近であった山県初男元大佐は、日支全面和平を模索する為、昭和十九年八月末から支那を旅して十月十二日帰京し、小磯首相に、

 「日本の施策が当を得ず治安は日に悪化し、賄賂横行して、人心はすでに日本と南京政府を離れ、延安、重慶に向いている。重慶和平は一日を争うが、それができないのは、在支那の日本の文武官の強硬派の為である。速に一大粛正を行うと共に南京政府の大改革を実行しなければならない」

と報告した。十六日、山県の帰国に続いて宇垣一成大将の一行が、一ヶ月余の支那戦線視察を終わり帰国した。一行は緒方竹虎国務相の腹心である三土路昌一(朝日新聞副社長)を含み、繆斌(石原莞爾の東亜連盟構想に共感し昭和十五年五月中国東亜連盟協会設立、南京政府立法院副院長のち考試院副院長)を始め、相当多数の人物と面談して日中和平を模索したが、山県同様これといった和平路線を開拓することはできず、帰国した宇垣大将は小磯首相に、

 「南京政府の存在は却って重慶政府に対する和平工作の妨害になっている」

と進言した(2)。小磯首相が緒方に探知させた重慶側の和平条件の輪郭は、

1、満洲処理問題は別個に協定す。
2、日本は支那から完全に撤兵す。
3、重慶政府は取り敢えず南京に留守府を設置し三ヶ月以内に南京に遷都す。
4、留守府は重慶系の人物を以て組織す。
5、現南京政府の要人は日本政府において収容す。
6、日本は米英と和を講ず。

という内容であった。だが南京政府の解消と要人の処遇は、「大東亜戦争完遂のための対支処理根本方針」(昭和十七年十二月二十一日)に基づく対支新方策が支那国民一般に感銘を与え、重慶政権の抗戦意識を減殺し支那事変を解決へ導くと確信(錯覚)していた重光葵外相と、支那派遣軍の強い反対が予想され、小磯首相も決しかねていた。だが十二月上旬になり、山県によって和平路線の探索を依頼されていた上海の相内重太郎(元満鉄社員)から「蒋介石に確実に繋がっている線が見つかった」との連絡が入った。

 「全面和平の内工作はすでに出来ている。一日も早く上海においでの上、実行に移されたい。時機が遅れては最早、成功の見込みがなくなる。」

 山県より連絡を受けた小磯首相は漸く決心し、十二月二十八日、山県を総理官邸に呼び、和平工作のための総理代表として上海に行くことを命じ、二通の紹介状を手渡した。一通は、昭和十九年十二月八日に陸軍省軍務局長から支那派遣軍参謀副長に転出した佐藤賢了少将宛、もう一通は、宇垣帰国と同時期に江亢虎(南京政府考試院院長)を日本に派遣し、日支全面和平につき我が国政府首脳と会談させた繆斌宛であった。

 昭和二十年一月四日、山県は、陸軍次官の柴山兼四郎中将を訪ね飛行機便乗の許可を得て、十八日朝、羽田より飛び立ち、同日夕方に上海郊外の江湾飛行場に到着し、相内の出迎えの受けた。当時延安に派遣されていたアメリカ顧問団デキシーミッションに所属していたジョン・エマーソン二等書記官によれば、奇妙なことに中国共産党は、山県の行動を彼が上海に到着する前に知っていた(3)。

(1)堀栄三【大本営参謀の情報戦記】一五九~一九〇頁。保坂正康【瀬島龍三】一三〇~一五三頁。
(2)【終戦工作の記録上】三六七頁、畑俊六日誌昭和十九年十一月五日の条。
(3)横山銕三【繆斌工作成らず】八十三頁。


74、蒋介石と東亜連盟運動

 山県は上海に三週間滞在し、その間南京の派遣軍司令部を訪ね、佐藤少将に面会を求めた。だが現れた駐支大使館付武官兼参謀副長の今井武夫少将に面会を拒絶され、憤慨した山県は、南京から直ぐ上海に引き返し、一月下旬から、相内や、繆斌と最も親しかった田村真作(元朝日新聞北京支局員、東亜連盟運動に従事)の協力を得、支那側の東亜連盟運動の拠点となっていた旧フランス租界エマニュア路の繆斌邸にて、重慶側の承認を得た繆斌と密議し、日支和平の仮協定に到達したのであった。

 二月二日、上海市政府顧問の船津辰一郎が、昵懇の間柄であった支那派遣軍総司令官の岡村寧次大将を訪ね、上海在住の遠良(元北京市長)の所に岡村大将宛の蒋介石総統の伝言が来ているので是非近日上海に来てほしい、と要請した。十四日、岡村大将が上海に赴き、船津立会の下、遠良と面談したところ、重慶から帰還した彼の連絡者に託された次の蒋介石の言葉を伝えられた(1)。

 「中国はアメリカと離れることは不可能だが、予は、中日両国の提携が大東亜の為に緊要無二なことを認めている。故に適時日本の為に発言する用意がある。日本を救う者は予あるのみ、然るに日本人は予の真意を誤っているのは遺憾である。お互い行き過ぎないように致したし。」

 蒋介石は、昭和十二年七月十七日廬山会議における「最後の関頭」演説以来、我が国の軍事外交政策、政府声明を非難する演説を度々行った。だが満洲事変以来の石原莞爾の盟友、板垣征四郎総参謀長や堀場一雄、辻政信参謀ら支那派遣軍総司令部が石原構想を容れて「派遣軍将兵に告ぐ」(昭和十五年四月二十九日)を発表、支那事変解決の目標を「満洲建国の精神を想起し道義東亜連盟の結成にあり」と主張し(2)、支那における東亜連盟運動を勃興させた際、重慶政権は「石原莞爾の東亜連盟の思想と辻参謀の日本将士に告ぐの二つには太刀打ち出来ぬ」と沈黙を守ったのである(3)。

 蒋介石は、満洲国建国後、一貫して東亜連盟構想に基づく日満支の提携を主張し、日蒋間の早期講和を訴えて続けていた石原莞爾と東亜連盟運動の民間志士を信頼しており、蒋介石自身、彼等に応えて日支、日米和平の実現を推進する意思のあることを岡村大将に示唆し、繆斌工作への協力を暗に求めてきたのであった。だが岡村大将は、永く戦地に居て落ち目になっている内地の実情を知らず、「蒋介石は生意気なことを言ってきた」と感じただけで返答も出さず、敗戦直後に敗軍の将として蒋介石以下中華民国首脳と面談するに及んで漸く蒋介石の伝言が彼の本音であったことを知ったのである…。

(1)【岡村寧次大将資料】二一八頁。
(2)【現代史資料日中戦争2】六九三頁。
(3)【木戸幸一関係文書】六〇五頁、昭和十八年十二月六日木戸幸一宛加納久朗「重慶情報」
 この中で、加納は木戸に「蒋と共産党とは仲が悪い。廬溝橋事件も共産軍が停戦中の日支両国兵の中間に夜間這入り込んで双方に発砲したから起こったということは最早重慶でもよく知れ渡って居る。いくら蒋が日本と戦争を避けんとしても共産軍の若い士官はどうしても承知しなかった。共産軍は日本に負けても構わぬ、これを打たねばならんと云う考えでやったのである」と報告した。


75、繆斌の来日

 二月二十日、山県は帰京し、小磯首相に、繆斌の和平交渉期限は三月末迄であること、繆斌機関一行は無電機を持参すること等、和平工作実行案を説明し、夕食を共にしながら夜遅くまで協議した。ここに至り小磯首相は、遂に繆斌招請を決意し、柴山次官に「繆斌にその無電機及び通信手、暗号翻訳並びに重慶からの使者を帯同して上京せしめること」を命じたのであった。

 三月十六日、蒋介石の密命を帯びた繆斌は、相内重太郎と共に、アメリカ軍B―29の無差別爆撃を受けて焦土と化した羽田に降り立ち、十八日、まず防衛総司令官の東久邇宮稔彦王と会談し、日支全面和平実現に向けて協力を求めた。

東久邇宮「三つのことを最初に聞いておきたい。」
繆斌「どういうことですか。」
東久邇宮「第一に重慶では、日本の天皇を認めるか、どうか」
繆斌「認めます。」
東久邇宮「第二に何故に日本と和平するのか。」
繆斌「中国は日本がこのまま亡び去ることを決して望んでいない。中国の自衛のためにも、日本の存在を必要とする。日本は亡びる前に米国と和平してもらいたい。日本は中国の防波堤であり、いま和平が出来れば、ソ連の進出を未然に防ぐことが出来る。」
東久邇宮「小磯総理の招請で来たのに、何故に最初に私に会うことを欲したか。」
繆斌「日本では誰も信用できない。頼りになるのはただ天皇御一人である。しかし直接お会い出来ないから、殿下によって雑音なしに自分の考えを取りついでもらいたいと考えた。」

 また戦局について繆斌は、「米軍は支那大陸などに上陸することなく、フィリピン占領後、必ず沖縄に上陸するから、警戒しなければならない」と透徹した警告を発した。東久邇宮稔彦王は、「率直に胸襟を開いて話し合える人物」であると繆斌を信頼し、

 「日中全面和平はひとり日中両国の平和を確立するだけでなく、これを基にして蒋介石が音頭をとって、現在の世界大戦をやめさせ、世界平和までもって行きたい」

と提案して彼を感激させ、即日小磯首相に、繆斌工作に全幅の努力を傾けるよう要請し、繆斌は、十八日夜に小磯首相と緒方竹虎国務相、十九日夜には柴山次官と会談した。しかし繆斌の後を追って谷正之駐支大使と共に上京した今井少将が、帝国ホテルに陣取り繆斌工作の妨害に狂奔し、陸軍中枢も極めて冷淡であった。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和二十年三月二十日火曜
一、本日突然内閣ヨリ重慶工作ニ関し、明日最高会議ヲ開催致度トノ提案アリ
  目下「繆斌」来京中ナルヲ以テ、総理カ「繆斌」ノ意見ヲ聴取シタル結果思ヒ付キタルモノト判断セラル
  繆斌ノ和平思想左ノ如シ
  (イ)国民政府抹殺 
  (ロ)即時無条件撤兵
  (ハ)最近ハ重慶ヲ仲介トスル日米和平ヘ変化シアリ
  陸軍トシテハ斯カル工作ハ相手ニセサル方針ナリ


76、死せる尾崎秀実、生ける日本政府を欺く

 翌二十一日、小磯首相は、繆斌によってもたらされた和平条件に基づく中日全面和平実行案を最高戦争指導会議に提案した(1)。

中日全面和平実行案

 中日全面和平の打開は、現状の政治対立、軍事対立、経済対立を解消するを原則とする。実行案次の如し。

第一、 南京政府を即時解消すること。南京政府側に於て自発的に解消声明を行うこと。

第二、南京政府解消と同時に重慶側の意志に基く者及び重慶側に於て承認する民間有力者を以て民意に依る「留守府」(中華民国国民政府南京留守府)政権を組織す。南京政府の解消発表と同時に、各地方政府、各軍隊、各民衆団体より××氏擁護の通電を一斉に発し「直ちに××氏が南京に留守して主政され民意を代表して全面和平を達せられたき」旨の懇請をなす。留守府成立と同時に留守府は重慶中央政府に対し「留守府に於て暫時の間地方秩序を維持しているから、中央政府は速かに南京に還都され度き」旨の通電を発す。留守府は同時にまた日本に対し「全面和平のため速かに停戦撤兵されんことを希望する」旨の通電を発す。

第三、日本政府及び重慶政府は、南京留守府政権成立と同時に同政権を通じ相互に停戦撤兵の交渉を開始す。留守府政権成立後、直ちに停戦及び撤兵に関し日華双方より軍事代表を出し紳士協定を秘密裡に結約す。停戦に関する正式発表は、重慶中央政府の南京還都と同時に行う。

右、南京解消と停戦撤兵の二眼点を認め得べしとの結論に到達せば、総理の委任状を所持する専使を重慶に特派するか又は双方の専使粤門等適当なる地点に会合することとし、蒋介石の真意を直接確めるの要あるべし。重慶側の誠意を危んで躊躇すべきにあらざると共に、事の重要性に鑑み直接蒋介石の真意を確めることなくして交渉に入り得ざること勿論なり。

小磯「重慶工作を積極的に進めるために緒方国務相と相談の上繆斌を東京に招くことにした。外相、陸海両相の意見を聞き何れも気乗りではなかったが、繆斌は、以前この会議において意見があった如く重慶の廻し者と思われる彼を利用して重慶工作を進めることは一案と思い、とにかく東京に招致することに決し、繆斌は相内を同伴して着京した。

 彼は予期に反し無電機及び無電技術家を随伴しておらず、よって彼をして東京より直接重慶と通信せしめ重慶の意向を知る手段がない。もしこれがため繆斌を帰せば彼を取り逃がすやも知れずむしろ便宜を供与して上海より無電機及び無電技術家を呼び寄せる必要がある。繆斌の相手は重慶の戴笠ということで、重慶との間に予備工作が進捗するにおいては重慶及び我が方の代表者と或いは粤門等に会合し話を纏めることも一案である。緒方国務相は直接重慶に乗り込みて差し支えなしという。同相は繆斌とすでに既に会見を終了したが、繆斌の意見は、南京政府の取消、日本側の一方的撤兵着手を希望し、これによって重慶側との話合を進め得る旨を述べており、これが果たして重慶の意志なりや確かめ得るにおいては交渉を進め得べしと考える。よって今日配布の中日全面和平実行案について審議を進めたい。」
杉山「元来重慶の廻し者と考えられる者が如何なる資格で来たか、確かめたのか。」
重光「戦局今日の段階において何等か外交的に打開の道なきやについては外務当局として日夜苦慮している。特に支那問題については重慶工作の如きは当然慎重に考究すべきである。今日の議題に関しては事余りに重大であり自分は外相の立場を明確にしておきたい。

 元来繆斌はむしろ重慶の廻し者と看られていることは既に本会議に於いても一致した意見であり、自分は繆斌を東京に招くことに反対であり、約一ヶ月前首相より繆斌招致の意向を承知して、これは考えものと思うが陸海両相の意見をも徴してみられたらよかろう自分も考究し置く、と答えた。

 爾来今日の会合に至るまで本件に付何等の協議にも与り居らず従って繆斌承知の問題は自分は何等の関係を有せざることを明にしたい。のみならず右は今日の重大なる戦局にも鑑み輔弼の責任上よりも明瞭にして置くことを要すると信ずる。

 元来重慶工作は御承知の通り首相が外相と協議し、国民政府軍事顧問を活用し南京政府を通じ行うことに最高会議にて決定していた。このことは既に内奏せられたものと心得ている。」  
小磯「繆斌招致の目的は重慶に関して情報をとる為であり、情報蒐集に付いては最高会議においてこれを図り別に異論は無かったはずだ。」 
米内「相手の何人なるやを十分突き止めずに仮令情報蒐集にせよ一国の首相が重要なる会談をなすは如何なものか、会談の結果先方は有力な情報を得て、我が方にとっては危険この上もない。」 

 重光外相は更に、

 「元来繆斌は、重慶側と密接なる連絡を有しながら北支においては新民会を操り、後中央においては立法院副院長となり日本側一部の諒解を得て重慶側と連絡していた。汪精衛はこれを知り彼及び彼の一派を捕縛処刑せんとしたが、後日本側の要請により彼を許し考試院副院長に左遷し体裁を繕った。繆斌及びその系統の者は南京政府にとっては異分子にして南京政府の倒壊を目的とし、上海辺りにおいてしきりにその運動を行った。上海における日本人が彼らの情報に惑わされ反南京気分となっている」

と述べて、谷大使の電文を読み上げ、繆斌を「和平ブローカー」と非難し、我が国によって正式に承認された南京政府の解消に強く反対した為、会議は纏まらず、小磯首相は次回続行を決めて退席した。しかし会議終了後、外相、陸相、海相は、

 「本件は余りに無謀の挙にして会議続行の要なし」

と決定してしまった。

 嗚呼、近衛文麿首相が国民政府(蒋介石)を対手とせず抹殺すると宣言し汪兆銘を首班とする南京政府を承認したこと自体が中華民国に対する信義にもとる行為であるにも拘わらず、これを取り消さずに南京政府に対する信義を重んじる倒錯を犯してハル・ノートを拒絶し、対米英開戦を決断した東條内閣に続いて、小磯内閣の外相、陸相、海相もまた、尾崎秀実、西園寺公一、犬養健、松本重治等によって樹立された南京政府の正体―日支全面和平を遮断する障害物―に気づかず、名誉ある講和の機会を逃し、我が国を敗北へ導いたのであった。
 自分の言葉を実践し(信)、自分の持てる力を尽くすこと(義)は、人間の美徳であることには違いない。しかしながら、

 「信義を尽さむと思はは始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし、朧気なる事仮初に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし、始に能々事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷いて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠なからぬものを深く警めてやはあるへき」(明治天皇の軍人勅諭)

という警句の真髄は、我が国の政府軍部首脳には正しく理解されていなかったのである…。

 昭和十九年十一月七日、スターリンが「日本が真珠湾、マレーを攻撃したのは、侵略国としての日本が平和愛好政策を堅持せる米英両国よりも、戦争に対し完全な準備を整えていたことを示すものだ」という厚顔無恥な非難を日本に浴びせた第二十七回革命記念日に、スターリンの命令に従い支那事変を拡大長期化させ我が国を対米英戦へ誘導した尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲは死刑に処された。
 だが尾崎が死んでも、「日本には依然として支那問題を局部的にのみ取扱わんとする見解が存在している。これは世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない性質のものであると観念すべきものであろう」という呪いの言葉を我が国に吐いた尾崎の謀略工作は生き続け、戦争末期においてもなお重光ら政府関係者を欺き、東亜連盟運動者の前に立ち塞がり、日中間の和平実現を妨害したのであった・・・。

(1)【終戦工作の記録上】四〇五~四一七頁。


77、桜散る

 二十四日午前九時、繆斌は東久邇宮稔彦王を訪ね、「小磯首相と柴山次官と会談したが政府も軍も全く煮え切らない」と深い失望を訴えたが、この日の午後、小磯首相は、内閣改造を行い和平工作を促進する為、重光を更迭し後任に元駐英大使の吉田茂を起用すべく、木戸内大臣と会談した。

小磯「内閣の進退について先日お話したが、このままでは中々持って行けないので、大改造が必要と思う。改造となると、必ずしも進退を必要としない人に考えて貰わねばならないので、奏請の責任上、自分も辞表をださねばならないと思う。勿論大命再降下等を考えている意味ではないが…。」
木戸「改造は困難でしょう。その理由は例えば閣僚中に大達内相の如き、必ずしも好意的しな態度を持たないものもあり、これに失敗するときは野垂れ死することとなるので、よほど注意を要するでしょう。」
小磯「後任を色々考えてみるに、忠誠心において真に信頼し得る人を物色することは頗る難しいと思う。」
木戸「これは中々の難題なるが、要するに次に来るものがバドリオ的なものにては困ると云うことでしょう。この点は東條大将も退任に当り心配せられたるところですが、それは吾々も及ばずながら考えています。内閣の進退については、今暫く二人だけで、他に話さず、熟慮するように。」

 次いで二十七日、今度は近衛文麿が木戸を訪ね、小磯が近衛に内閣改造について協力を依頼してきたことや、繆斌が「東久邇宮稔彦王が内閣を組閣すれば重慶政府が直接和平の手を差し出す」と話しており、今度は支那事変の解決は東久邇宮稔彦王の他なしとして王自身強く決意していると伝わっていること、そして近衛の政治幕僚の佐々弘雄が「仮に東久邇宮内閣が出来れば、重慶に対する工作が不成功に終るとも、粛軍は出来るだろう」と観測していること等を告げた。

 木戸は驚き、「これは寸刻を争う重大事」と、急遽東久邇宮邸に伺候し、東久邇宮稔彦王に自重を求め、繆斌工作に反対したのであった。だが繆斌は日支和平をあきらめず、三十日、駐日南京政府大使館から南京、上海を経て重慶政府に交渉期限延長を打電し、二日延長の許可を得、さらに東亜連盟運動の指導者である石原莞爾に助力を懇請した。

 一方、小磯の命を受けた緒方国務相は、三十一日米内海相、四月一日柴山次官にそれぞれ繆斌工作に協力を求めたが、両者に冷たく拒否されてしまった。緒方国務相は小磯首相に、

 「事ここに至っては事情を聖聴に達して善処さるべきではないか」

と進言、小磯首相は「一切を申し上げて、もしお許しにならなければ、やめるほかはない」と意を決し、二日、昭和天皇に繆斌工作を単独上奏した。だが昭和天皇は、すでに他の大臣から反対意見を内奏されていた為、小磯首相に、「深入りしない様にせよ」と仰り、小磯は「如何にも惜しい」と言葉を返して宮中を退出し、緒方に落胆した声で語った。

 「もう毒がまわっていて駄目だった」

 陸軍から追われ山形県鶴岡市に隠棲していた石原莞爾は、四月一日夜、繆斌から助力要請の書簡を受け取るや、翌二日汽車で東京に向かい、三日から四日にかけて、繆斌と感激の初対面を果たし、彼と枕を並べて日中の運命と世界の大勢とを夜の白むまで語り明かし、次いで阿南航空総監、東久邇宮稔彦王と会談し、繆斌工作に最後の努力を傾けた。

 だが五日、小磯内閣は閣内不一致を理由に総辞職してしまい、繆斌は政府と軍より即時退京を命じられた。繆斌は「使命は失敗に終わってもせめて日本の桜の花盛りを見て帰りたい」と希望し、東久邇宮稔彦王の庇護により日本を象徴する桜散る四月末まで滞京を許され、上海に帰還した。彼は、

 「昨年秋朝日美土路氏緒方総裁等の関係より小磯首相の代理として山県大佐態々来滬し重慶打診の依頼ありたるに付蒋介石(直接連絡先は何応欽の如し)と連絡の上其諒解を得て三月十六日より四月二十六日迄四十日同東京に滞在重慶側の条件として(一)南京政府の解消(二)停戦撤兵(三)英米との和平斡旋を申出種々折衝せるも陸軍側及重光外相の反対に遭い不成功に終れり。然し自分は東久邇宮殿下に拝謁し御下問に奉答せる処本件工作に関する御嘉賞の御言葉を頂き蒋介石は世界平和領導者の一人なりと迄言われたる程にて恐懼し居る次第にて斯の如き御英邁なる殿下あらせらるる以上本件工作に関しては未だ失望し居らず。」

と重慶特務機関の上海地区責任者である陳長風中将に日本の要人との会談を委細報告し、なお和平実現の希望を捨てなかったものの、その後日本からの新たな連絡はなく、アメリカ軍統合参謀本部が陸海空軍の各参謀本部に対して日本本土上陸作戦開始の第一号指令を発令した五月二十五日、重慶政権は陳長風中将に「所謂和平撤兵の交渉を止めよ」と打電、東亜連盟の理想に燃えた日中両国人の最後の和平努力も空しく、繆斌工作は終止符を打たれたのであった。

 昭和二十年二月、瀬見温泉で開かれた同志の東北地区青年大会に出席した後の帰途、石原莞爾は、駅から出征兵士を送るバンザイの声と、勝って来るぞと勇ましく、という軍歌を聞き、

 「ああ、泣いている、泣いている、軍歌が泣いている」

と静かに呟いたという…(1)。

 日本の敗戦を予見していた石原には、あたかも軍歌が、必ず死に逝く自身の運命に気づかないまま勝利を信じて戦地に向かう兵士の哀れな姿を悲しみ、泣いているように聞こえたのであろう…。そして満洲国建国後、世界の大勢と全戦局の帰趨とを正確に見透しながら、彼が強行した満洲事変を導火線として勃発した戦乱から日中両国を救い出せず、誰よりも激しい苦悶と焦燥とに心身を苛まれ、眠れぬ夜はわずかに読経にその心を静める日々を過ごしていた石原自身、昭和二十年八月十五日、昭和天皇の玉音放送に接して、ただただ恐懼断腸の思いから暗涙にむせび泣き、暗然として長嘆したのであった(2)。

 「信ずべからざるを信じ、信ずべきを信ぜず、遂に国を亡ぼした。何という愚かな事か。蒋総統に米英との和平仲介を頼むのが筋であり、総統は繆斌を密使として渡日させていたのに・・・。外務と軍が繆斌工作に反対して潰してしまった。これほど残念なことは無い。あれが最後の機会であったが・・・」

(1)青江舜二郎【石原莞爾】四五七頁。
(2)横山【繆斌工作成らず】一二八頁。



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テーマ : 歴史
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龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究に於いて最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

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