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国民のための大東亜戦争正統抄史79~87近衛上奏文解説

【近衛上奏文解説】


79、近衛上奏文

 昭和二十年二月十四日の朝、木戸内大臣が侍従長室に姿を見せ、藤田尚徳侍従長に、

 「藤田さん、今日の近衛公の参内は、私に侍立させてほしい。近衛公は、あなたをよく存じあげていない。それで侍従長の侍立を気にして、話が十分にできないと困る。ひとつ御前で近衛公の思う通りに話をさせてみたい」

と要請した。藤田侍従長は快諾し、木戸と近衛の二人が昭和天皇に拝謁し、以下の近衛上奏文を捧呈したのである(1)。

 「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。

 敗戦は我が国体の瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日までの所国体の変革とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候。

 つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。

 ソ連は欧州に於て其周辺諸国にはソビエト的政権を爾余の諸国には少なくとも親ソ容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。

 ユーゴーのチトー政権は其の最典型的なる具体表現に御座候。ポーランドに対しては予めソ連内に準備せるポーランド出国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申候。

 ルーマニア、ブルガリア、フィンランドに対する休戦条件を見るに内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエト政権に非ざれば存在し得ざる如く致し候。

 イランに対しては石油利権の要求に応ぜざる故を以て、内閣総辞職を強要致し候。

 スイスがソ連との国交開始を提議せるに対しソ連はスイス政府を以て親枢軸的なりとして一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。

 英米占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、且之等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり、而して是等武装団を指揮しつつあるものは主として共産系に御座候。ドイツに対してはポーランドに於けると同じく巳に準備せる自由ドイツ委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存候。

 ソ連はかくの如く欧州諸国に対し表面は、内政不干渉の立場を取るも事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引ずらんと致し居候。ソ連の此意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野(註、野坂参三)を中心に日本解放連盟組織せられ朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。かくの如き形勢より押して考うるに、ソ連はやがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く共産主義者の入閣、治安維持法、及防共協定の廃止等々)翻て国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられゆく観有之候。即生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及之を背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座候。右の内特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有之候。

 少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候(註1)

 抑々満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存候(註2)。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も「事変永びくがよろしく事変解決せば国内革新が出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心的人物に御座候(註3)

 是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候※。

 此事は過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして此結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。

 不肖は此間二度まで組閣の大命を拝したるが国内の相克摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは(註4)、全く不明の致す所にして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候。

 昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。

 一方に於て徹底的に米英撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候(註5)。以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべき、あらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展致すべくと存候。

 戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。彼等はすでに戦争遂行の自信を失い居るも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。

 もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、此の一味と饗応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成し難き恐れ有之候。従て戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さえ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼左翼の民間分子も、影を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに他ならざるがゆえに、その本を絶てば、枝葉は自ら枯るるものなりと存候。 尚これは少々希望的観測かは知れず候えども、もしこれら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来米英及重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、其の政策が改らば、彼等としては戦争の継続につき、考慮するようになりはせずやと思われ候。それはともかくとして、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。以上」 

 昭和天皇は、上奏文の内容の特異さに驚かれ、次のように御下問された(1)。

天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」
天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
近衛「一つの思想がございます。これを目標と致します。」
天皇「人事の問題に、結局なるが、近衛はどう考えておるか。」
近衛「それは、陛下のお考え…。」
天皇「近衛にも判らないようでは、なかなか難しいと思う。」
近衛「従来、軍は永く一つの思想によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。考えようによっては何時かは摩擦を生ずるものならば、この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。先日、平沼、岡田氏らと会合した際にも、この話はありました。賀陽宮は軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」
天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」
近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

(1)【木戸幸一関係文書】四九五~四九八頁。


80、国体の衣を着けた共産主義者

※昭和十六年四月八日、和田博雄、稲葉秀三、勝間田清一、和田耕作等、尾崎秀実と密接不可分の関係にあった企画院革新官僚が治安維持法違反容疑で検挙されたのであるが(企画院事件)、大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌には、

 「午後一時ヨリ笠信太郎ヨリ経済機構ニ関スル事項ヲ第一応接室ニ於テ聴取ス」(昭和十五年七月八日)、

 「対米英戦争準備大綱案(註、種村佐孝起案)陸軍省ニ移ス 主任者大イニ同意シ企画院ニ移シ本案ニ基キ企画院ヲ表面ニ立テ之ガ促進ニ努力スベキヲ約ス」(昭和十六年二月二十日)、

 「経済新体制確立セラレ金融新体制確立セラルルト雖モ旧体依然トシテ結城カ日銀総裁タル限リ大蔵大臣ハ番頭ニスキス。任期満了ヲ期トシ合法的ニ交代方各方面ニ提議ス 第一部長之ニ同意シ企画院毛里方面ヘモ連絡ス」(昭和十七年七月二十一日)

 「佐野学氏ヨリ対中共観ヲ聴取ス」(昭和十九年三月十七日)、

 「班長(註、松谷誠)及橋本少佐、平野義太郎氏ヨリ大東亜宣言ノ具体的綱領ヲ聴取ス」(昭和十九年五月十二日)

とある。

 笠信太郎は、尾崎秀実の親友にして、尾崎と共に昭和研究会と朝飯会に所属した近衛文麿の最高政治幕僚の一人で、朝日新聞経済担当論説委員である。笠は昭和十四年十二月に「日本経済の再編成」を刊行、第三次近衛声明後の我が国の軍事行動は、「治安工作と並行して抗日勢力の徹底的破砕を目指して進められねばならぬ」と主張し、企業が利潤確保の為やむを得ず闇市場に物資を流し闇価格を高騰させ或いは商品の品質や労働者の待遇条件を落とすこと等、政府の物資統制や戦時インフレ抑止(低物価)政策が発生させる様々な弊害の除去に藉口して、物資のみならず企業の利潤および経営にまで統制の範囲を拡大させる必要性を説き、国家総動員法の発動と近衛新体制運動とを推進した。

 さらに笠は『中央公論』昭和十四年十一月号「事変処理と欧州大戦」という座談会(出席者は、笠信太郎、和田耕作、平貞蔵、牛場信彦、西園寺公一、聽濤克己、角田順、後藤勇)の中で次のように公言し、政党政治と言論の自由とを否定していたのである(1)。

笠「当面の問題はもっと大きく根本的に考えねばならんでしょう。これまで革新という言葉もいろいろに使われたけれども、浮いたような革新ではどうにもならない。日本の社会の中堅になる段階の人々が、先づ新しい目標に向かって、一つの結成をするといったことが火急な必要であろうと思う。そこから日本の政治体制そのものを作り上げて行く。はっきりした新しい国民組織―国難を乗り切ろうとする政治的な国民運動でありますが、そういうものの支持を受けて、始めて本当の仕事が出来る。そこの中に今までバラバラに割れ勝ちであるところの日本の政治上の意見というものを根本的に融和するようなそういう政党のような体制を考えたい。今までやって来た統制経済でも、現に非常に大きな変動を起して居る。今後は、今までやって来た統制経済の方向とはまた違った方向に、更により以上に進まねばならん。

 従来の自由経済の土台の上に立った古い政党…これと対立した意味での社会党なども同様であるが、これらのすべて古い地盤の上の政党は、物がいえない時代になって全く新しい姿、新しい経済的システムの上に、それぞれの新しい職能を代表するような政治的組織が必要となるのであるが、それは西洋の一国一党といったものではなく―私はそれを包摂する形態が万民輔翼といった日本人の根本的な団体意識であろうと思う。そこで、要するに、外にあっては支那事変処理問題、内にあっては経済的の新しい体制を堅めるという、この内外二つの目標の上に、旺んなる政治意識が樹てられなければならんという風に考える。」

西園寺「結局、事変処理の深刻さと、それと国内問題との深い関連性を、骨の髄から感得していない。」
笠 「何でもよいから一日も早く自由の経済組織に還したいという念願しかない。こいつは実は不可能だ。現に総動員法を発動させて、実際には一歩一歩そういう方面に近づいているに拘わらず、生れ出る新しい制度の構図が考えられていないので推測が区々で、いろいろと違うところが出て来る。寧ろはっきりと、勢として出て来る姿を描いて、それを最も合理的なよい姿にするということに勢力を集中することが必要である。」  

 笠信太郎の主張は、資本主義経済に対する統制が更なる統制強化を生み出し国家に社会主義計画経済の整備遂行を余儀なくさせるという、企画院事件によって明らかにされた昭和研究会所属革新官僚の「基本的観念」を端的に表現している。

 平野義太郎は、昭和十一年七月十日検挙され転向し、戦時中太平洋問題調査会に所属し、中央公論昭和十五年七月号「東洋の社会構成と日支の将来」にて尾崎秀実、細川嘉六と東亜協同体を論じ、右翼論客として「大アジア主義の歴史的基礎」を著して我が国の大東亜戦争遂行を正当化した講座派マルクス主義者(戦後共産党員、世界平和評議会委員)で、松谷誠陸軍大佐の政治幕僚の一人である(2)。
 大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌は、陸軍参謀本部戦争指導班と一部新官僚および民間有志ら国体の衣を着けた共産主義者との密接な関係を示唆している。

(1)三田村【戦争と共産主義】二六三頁。
(2)【尾崎秀実著作集5】二九五~三一二頁。松谷誠【大東亜戦争収拾の真相】一一七頁。谷沢永一、中川八洋【名著の解剖学】六十八~七十頁。


81、国体と共産主義の両立論

 傍線部(1)に該当する職業軍人を共産革命へひきずる軍部内革新論は、大東亜戦争終末方策(昭和十八年九月十六日)において「ソの導入を図る」と決定し、サイパン陥落後に「政略攻勢ノ対象ハ先ツ「ソ」ニ指向スルヲ可トス 斯カル帝国ノ企図不成功ニ終リタル場合ニ於テハ最早一億玉砕アルノミ」と断定した松谷誠(昭和十八年三月十一日~十九年七月三日まで参謀本部戦争指導班長、昭和二十年五月鈴木首相秘書官兼陸軍省軍務局御用掛)が、鈴木首相と阿南陸相を補佐する為に、企画院調査官の毛里英於菟、慶応大学教授の武村忠雄、東京大学教授の矢部貞治、平野義太郎を始め、政治、経済、思想、報道等の各方面の識者を集め極秘裡に作成したという国家再建方策に垣間見える(1)。この中で彼等は、

 「あえて本土決戦体制といわず、本土徹底継戦体制と称するゆえんは、沖縄決戦により、すでに本土決戦そのものは事実上終了せるが故なり。すなわち沖縄の喪失以後、米軍の本土上陸作戦の速度(七、八月頃)と本土防衛態勢完備の速度(十月頃)とには数ヶ月の時差あり、かつ六月以後近代戦の遂行は困難となるが故なり。したがって、いわゆる本土決戦は真の決戦にあらず、むしろ無気力、無組織、利己的なる国民を脱皮せしめ将来国家再建の精神的団結力の根を植える点に意義存す。まさに枯れ草に火を放ちてこそ春強靭なる芽を生ずるものなり。

 ここに本土徹底継戦体制の確立を要す。従来の国民組織運動の欠陥は左の点に存す。

 元来国民運動の強力なる推進力たるべき軍部自体が、右運動に対する明確なる政治意識を欠く。国民運動は下から盛り上がるべきものなるにもかかわらず従来は逆に上からの官製的存在にとどまる。国民組織運動自体に明確なる主体的意識を欠く。また国民組織の主要細胞たる職域団体(例、産業報国会、農業会、農業経済会等)も従来の経済母体より充分脱却せず、僅かに改良的にとどまる。

 よって新国民組織運動たる国民義勇隊の組織方針は、軍が強力なる支持をなし、内地が戦場化し国民義勇隊が義勇戦闘隊に移転する場合、必要なる軍事訓練は軍がこれを担任する」

と明確に大衆の武装化と敗戦革命の勃発とを画策し、さらに彼等は、我が国が「国体護持」を最後的和平条件として、七、八月の間、ソ連が日本に対して行うであろう和平勧告の機会を利用すべきである、と主張し、その理由として、

 「スターリンは独ソ戦後、左翼小児病的態度を揚棄し、人情の機微に即せる左翼運動の正道に立っており、したがって恐らくソ連はわれに対し国体を破壊し赤化せんとする如きは考えざらん。ソ連の民族政策は寛容のものなり。右は白黄色人種の中間的存在としてスラブ民族特有のものにして、スラブ民族は人種的偏見少なし。されば、その民族政策は民族の自決と固有文化とを尊重し、内容的にはこれを共産主義化せんとするにあり。よってソ連は、わが国体と赤とは絶対に相容れざるものとは考えざらん。

 ソ連は国防・地政学上、われを将来親ソ国家たらしむるを希望しあるならん。すなわちソ連は従来大陸国防国家なりしも、航空機の発達と将来米英に挟撃さるる危険とは、ソ連に大陸海洋国防国家たることを要請しつつあり。しかるが故に、西にありては、国防外核圏を拡張せんがためにフィンランド、ポーランド、ドイツ、バルカン方面に親ソ国家を建設せんとするとともに、バルト海地中海への出口を求めつつあり。南に対しては、ペルシャ湾への出口を求めつつあり。さらに東に対しては、東ソの自活自戦態勢の確立のために満洲、北支を必要とするとともに、さらに海洋への外核防衛圏として、日本を親ソ国家たらしめんと希望しあるならん。

 戦後、わが経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿るべく、この点より見るも対ソ接近可能ならん。米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方、将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん」

という左翼イデオロギーに基づく真赤な虚構のスターリン・ソ連擁護論を弄し、政府軍首脳に、

 「ただし上層部の考えるが如き形式的国体護持論では、スターリンの心を打たず、かつ将来危険なり。したがって国体護持が国民生活に深く根ざしあることを、対ソ外交の衝にあたる者がスターリンに話すとともに、国内的にもそれを確立する如き政治施策を行うを要す」

と勧告していたのである(1)。

 傍線部(2)は事実に反する。多田駿陸軍中将ら参謀本部の猛反対を恫喝してトラウトマン和平工作を打ち切り支那事変を拡大長期化させ我が国を対米英戦に追いやった最高責任者は近衛自身である(昭和十三年一月十六日、第一次近衛声明、爾後国民政府を対手とせず。昭和十六年九月六日御前会議、帝国国策遂行要領、十月上旬に至るも交渉成立の目途なき場合は直ちに対米英蘭開戦を決意す。昭和十六年十月十六日、海軍首脳より和戦の決を一任された近衛が、和平を決断せず、東條陸相に全責任を転嫁して総辞職し、十八日、日本を対米英戦に誘導するという任務を完遂しソ連に帰還しようとしていたゾルゲが逮捕された。)

 さらに傍線部(3)は傍線部(4)と明らかに矛盾している。近衛は、支那事変当時、秋永月三ら軍部内の革新論者が「事変解決せば国内革新ができなくなる」と公言するのを聞いていたのだから、近衛は、彼等によって画策された支那事変の拡大長期化が国内革新つまり日本の社会主義(共産主義)化を目的としていたことを看取していたのである。
 また傍線部(5)に該当する軍部の戦争指導方針は、おそらく陸軍省部主務者の昭和十九年八月八日「今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案」もしくは種村佐孝陸軍大佐の昭和二十年四月二十九日「今後の対ソ施策に対する意見」なのだろうが、なぜ近衛は軍部内の革新運動の詳細を知り、また木戸は「彼の一味」の具体名を挙げるように近衛を促さなかったのか?これらの虚偽と矛盾と疑問とについては後述する。以下は近衛が反省して到達した「一部新官僚および民間有志は右翼にして左翼であり、右翼は国体の衣を着けた共産主義者すなわち左翼である」という結論の解説である。

(1)松谷【大東亜戦争収拾の真相】一五八~一五九、二八四~三二八頁。矢部貞治日記昭和二十年八月十三日の条。


82、ヒトラーとスターリン

 第二次世界大戦後、我が国の革新(左翼)勢力は必ずと言っていいほど敵対する保守主義者に「日本のナチス」「ネオ・ナチ」というレッテルを張り、これを誹謗中傷する。三十二年テーゼに盲従する日本資本主義発達史講座(昭和七年五月二十日~八年八月二十六日、岩波書店。共産主義者の内、これに忠実的な者を講座派、三十二年テーゼに批判的な者を労農派という)の編纂刊行に参加し、支那事変において尾崎秀実、堀江邑一と共に、汪兆銘工作や近衛新体制運動を推進していた細川嘉六は、敗戦後、日本共産党員として左翼雑誌「世界評論」にて、

 「同党(共産党)はプロレタリアートの独裁及び暴力革命に関しても国外においてはドイツ、イタリーの軍国主義的独占資本主義の支配が打破せられ…云々」

と述べたが(1)、ナチスの正式名称である国家(国民)社会主義ドイツ労働者党(National.Sozialistische.Deutsche.Arbeiter-Partei)が示すように、ナチスとは、あくまで資本主義(共産主義者が使う自由主義市場経済の蔑称)と議会制デモクラシーの排撃を綱領とし、労働者階級(プロレタリアート)の救済を主眼とする社会主義独裁政党である。アドルフ・ヒトラーは「わが闘争」の中で次のように力説した(2)。

 「ドイツ労働者を誠実にその民族に取り戻し、国際主義的幻想から覚醒させようと望んでいる運動は、『民族共同体では賃金労働者は雇い主に対して抵抗することなく経済的降伏をすべきであり、賃金労働者が正当な経済的生存の為の利益を守るすべての企てすらも民族共同体への攻撃とみなされなければならない』という企業家階層内に支配的な意見に対して、もっとも激しく抵抗しなければならない。」

 コミンテルン三十五年テーゼは、国家社会主義ドイツ労働者党に対して最も反動的な「ファシズム」という非難を浴びせ、

 「これは、あつかましくも国民社会主義と自称しているが、社会主義とも、ドイツ国民の真の民族的利益の擁護とも、絶対になんのかかわりもなく、大ブルジョアジーの召使いの役割を果たすものにすぎない。それは、ブルジョア民族主義だというだけではなく、また野獣的な排外主義でもある。ファシズム・ドイツは、ファシズムが勝利した場合になにが人民大衆を待ち受けているかを、全世界の面前でまざまざと示している。凶暴なファシスト権力は、労働者階級の精華であるその指導者や組織者を牢獄や強制収容所で皆殺しにしている。ドイツ・ファシズムは、新帝国主義戦争の主要な放火者であり、国際反革命の突撃隊として立ち現れている」

と解説したが(3)、国家社会主義ドイツ労働者党の秘密警察ゲシュタポ、強制収容所、「嘘も百回言えば真実となる」というゲッベルスの大衆煽動術は、ソ連共産党の秘密警察チェーカ、強制収容所ラーゲリ、「共産主義者はあらゆる種類の詐術、手練手管、策略を用いて非合法方法を活用し真実をごまかし且つ隠蔽しても差し支えない」というレーニンの革命的道徳体系の模倣にすぎない。

 ワイマール・ドイツでは、国家社会主義ドイツ労働者党が、より多くの労働者階級の支持と政権を獲得し一党独裁を実現する為に、過激な反ソ的国家民族主義をまとい、マルクス主義の国際主義を排撃し、東方に生存圏を拡大して純血ゲルマン民族からなる共産社会「ドイツ千年王国」の実現を掲げ、彼等と競合するドイツ共産党(コミンテルンのドイツ支部)に対抗して議会第一党となった。そして一九三三年七月十四日、国家社会主義ドイツ労働者党は遂に一党独裁体制の樹立に成功し、八年後、ソ連との直接対決に突入したのである。

 ドイツ第三帝国とソビエト帝国の死闘は、国家社会主義ドイツ労働者党とドイツ共産党が労働者の支持と議会の議席数を奪い合ったことから開始された社会主義(共産主義)勢力間の壮絶な国際的「内ゲバ」であり、第二次世界大戦後の中ソ紛争や中越(ベトナム)戦争の先駆けであった。

 そしてロシアでは富農が、ドイツではユダヤ人がそれぞれ大衆の嫉妬と憎悪を被りやすい資本の象徴であったが故に、レーニンのロシア共産党は富農を大虐殺し、ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党はユダヤ人を迫害したのである(4)。すなわちドイツの国家社会主義ドイツ労働者党によるホロコースト(反ユダヤ主義)は戦争固有の産物ではなく、ソ連のレーニン・スターリンによる大粛清(一九一七~五三、犠牲者五千万以上)、中華人民共和国の毛沢東による文化大革命(一九六七~七六、犠牲者二千万以上)、カンボジア共産党(クメールルージュ、ポルポト派)による大虐殺(一九七五~七八、犠牲者百八十万以上)と同じく、社会主義イデオロギーによって引き起こされた大虐殺事件であり、「人道に対する犯罪」なのである。

 それにも拘わらず、マスメディアや学者知識人によって国家社会主義ドイツ労働者党がナチスと略された上で「極右」もしくは「ファシズム」に分類され、左翼と区別される現状は、ひとえに国家社会主義ドイツ労働者党と彼等の犯罪に対する非難糾弾から社会主義イデオロギーを救出しようとする革新勢力による悪質な情報操作であり、歴史改竄の成果であろう。

 個人独裁を維持する為に、顕在的潜在的政敵を殺戮し、殺戮された者の親類、友人、同志からの復讐を恐れ、また彼等を殺戮せざるを得なくなり(マルクス・レーニン主義の特徴であるテロ連鎖現象)、トロツキーに「塩水で渇きを癒す人」と形容された二十世紀史上最も残虐非道な共産主義者スターリンも、一九三一年から愛国心への訴えを開始しただけでなく、ロシア民族の英雄崇拝的映画「イワン雷帝」(三六年)の制作を許容するなど復古的民族主義者となり、四一年六月のドイツによる対ソ侵攻(バルバロッサ作戦)開始と同時に、「兄弟よ、姉妹よ、今や我が国は危機に瀕している」というロシア正教会の表現を使い、対独戦を大祖国防衛戦争と呼び、巧みな退却戦略を採ってナポレオンの侵攻軍を撃退したクトゥーゾフや十四世紀にタタールのくびきからロシアを解放したドミトリー・ドンスコイなどロシア民族の英雄を持ち出して戦意昂揚に努めた。

 「極右」のヒトラーと「極左」のスターリンは、いずれも敵対する社会主義勢力に対する権力闘争の為に、国家民族主義を戦術的に利用した社会主義者であり、両者の間に本質的差異は全く存在しない。故にドイツにおいてナチス、ファッショ運動に狂奔した者が、第二次世界大戦後に赤旗を担ぎ歩くという運動が顕著に現れたのである。

(1)三田村【戦争と共産主義】二六七頁、細川嘉六著改造昭和十五年九月号時局版「青年の興起と新政治体制運動」。石原【人類後史への出発】一五〇頁。
(2)アドルフ・ヒトラー【わが闘争上】四八四頁、「国家社会主義ドイツ労働者党の最初の発展時代」
(3)【コミンテルン資料集6】一六五~一六六頁。
(4)渡部昇一【ハイエク】一七六頁。ユダヤ人を自由主義の象徴として侮蔑した社会主義勢力はナチスだけではない。笠信太郎は、

 「新しき倫理が、その高い立場から階級対立の意識を克服すると同時に、これを生んだ個人主義乃至自由主義、その最も好ましからぬ属性であるところの俗にいわゆる猶太人根性を克服する方向をさしていることは、もはや云うまでもない」

と公言していたのである(笠信太郎【日本経済の再編成】一七六頁)。


83、戦争指導の変遷

 一九二九年の世界大恐慌以来、対外輸出の減少と井上準之助蔵相の緊縮財政を原因とする深刻なデフレ不況に陥った我が国では、昭和六年(一九三一)十二月十三日、若槻内閣に代わって誕生した犬養内閣の蔵相高橋是清が円レートを切り下げ輸出の振興を図ると共に、日銀引受による国債発行を財源として大幅な財政支出の増加に踏み切るなど、ケインズ理論を先取る模範的な総需要拡大政策を実施し、昭和恐慌を克服して経済を回復軌道に乗せることに成功し、社会主義政党が独裁政権を樹立することはなかった。 

 だがデフレ不況に直撃された貧しい農村出身者の多い帝国陸軍将校が、資本主義は財産を少数者に集積させ貧困失業を必ず生み出す(絶対窮乏化の原理)が故に失業貧困を無くすためには資本主義を倒さねばならない、と説くマルクス・レーニン主義に傾倒して政治経済の実態を見失い(マルクスは社会主義を実現すれば失業貧困が消滅するとは言っていない)、

 「抑国家を保護し国権を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」(明治天皇の軍人勅諭)

に反して、政治介入を開始したのである。彼等は国粋、民族主義的な言動を重ねながら盛んに国内政治経済の革新(共産主義)を叫んだように、表身に日本民族主義の衣を着け、内心をマルクス・レーニン主義に汚染された復古的革新将校であり、スターリンと本質的に変わらないのである。

 満洲事変から二・二六事件まで、陸軍中枢は、天皇革命すなわち「天皇を戴く社会主義的政権の樹立」を目論んで立憲自由主義議会制デモクラシーを排撃したが、日本の国益を重視する反ソ的な国家主義を維持していた。だが石原莞爾の衣鉢を継いで「東洋道義文化の再建」を掲げ支那事変の解決に尽力した堀場一雄(昭和十二年二月一日~十四年十一月二十七日参謀本部戦争指導班)が支那派遣軍参謀に転出し、堀場に「軍内権力覇道主義者」と非難痛罵された(1)種村佐孝(昭和十四年十二月十八日~二十年八月五日参謀本部戦争指導班。降伏時、第十七方面軍(朝鮮)参謀。戦後共産党員)が大本営陸軍部の戦争指導を担当することになった後、陸軍中枢はその性格を大きく変え、第二次近衛内閣が出現した昭和十五年(一九四〇)夏以降には、革新「右翼」として、日本と「左翼」のスターリン・ソ連との抱合を画策し、昭和二十年には日本共産党と同様に反国体(皇室)姿勢を露にしていた。

(1)堀場【支那事変戦争指導史】六九〇頁。
 石原莞爾によれば、「戦争指導」とは「戦争における国力の運営を指すものにして、戦争に方り、武力の行使即ち統帥と武力行使以外の事、即ち戦争における政治との両者を調和統一して、戦勝を獲得する」を言う。


84、石原莞爾の悲劇

 昭和十八年、参謀本部は「独の対米英単独講和若くはヒ政権の崩壊等より帝国が独力対米英戦争を遂行せざるべからざるが如き場合の世界終戦の為の帝国の対米英講和条件」は、(イ)無併合、無賠償(ロ)米の四原則の承認(ハ)三国同盟の廃棄(二)支那に関しては日支事変以前への復帰(ホ)仏印以南の東亜細亜南太平洋の昭和十五年九月以前状態への復帰(へ)内太平洋の非武装(ト)日米通商関係の資金凍結前への復帰、で済み、国体の変革は含まれないと考えていた(1)。

 それにも拘わらず、種村佐孝大佐が、実際に「日ソ中立条約破棄通告を受け且独崩壊し」我が国が独力対米英戦争を遂行せざるを得なくなった昭和二十年四月末以降、「対米終戦に関する外交交渉成功するも米は偽装停戦して我が戦意を喪失せしめたる後必ず国体の破壊を吹掛けて来る」と吹聴し、

 「ソ側の言いなり放題になって眼を潰る、日清戦争後に於ける遼東半島を還付した悲壮なる決心に立換ったならば今日日本が満洲や遼東半島や或は南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて日清戦争前の態勢に立還り、明治御維新を昭和の御維新によって再建するの覚悟を以て飽く迄日ソ戦を回避し対米英戦争完遂に邁進しなくてはならない」

 「日清戦争前の態勢にかえってもソと戦をしないか、真逆ソとしてはそんな無理は云うまいと思われるけれ共帝国としては此の肚を以て日ソ戦争を絶対に回避すべきであって其処迄肚を極めて対ソ交渉に移るべきである、移った以上ソ側の言い分を待って之に応ずると云う態度に出づるべきである」

 「今後に於ける帝国の対ソ態度は絶対対ソ戦回避に存するを以て今更ら対ソ戦生起を前提として行うところの作戦準備は厳に反省を要すべし」

 「ソの仲介若くは恫喝に依り世界終戦への導入を余儀なくせらるることである、帝国としては対ソ施策に発足した以上否応なしに其の仲介若くは恫喝に従わざるを得ない」

と主張した(昭和二十年四月二十九日、今後の対ソ施策に対する意見)真の目的は、我が国が米英に降伏することによって自由主義へ後退することを断固として排し、「独の屈伏に依る場合は三国同盟、防共協定を廃棄し日ソ提携に関しソを全面的に利導して世界和平導入に努め已むを得ざる場合帝国は独力戦争完遂に邁進」(昭和十九年八月八日、今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案三2イA)し、日ソ提携によるソ連の援助を受けて(ソ連は我が国の国体破壊を考えておらず、国体と共産主義は両立するという虚言を弄して、ソの導入を図り)日本社会経済の根本的立て直しを行いを親ソ社会主義国家としての日本国を確乎として築き上げ、日ソ支(延安政権)の結合を強化し、大東亜の新秩序を建設することであり(昭和十八年九月十六日、大東亜戦争終末方策、第一戦争目的)、国体護持のスローガンは、彼らの正体と企図を隠蔽し我が国の政府将兵国民を欺く詭弁であり虚言であった。だから種村等陸軍の革新幕僚は、

 「国家が大規模かつ長期に亘り戦争を行い敗北すれば、大衆は彼らに戦争の惨苦をもたらした君主、政府、体制に激しい怨恨憎悪を抱くようになり、暴力革命勃発の温床が生まれる」

というレーニンの敗戦革命論そのものにして国民壊滅、国家敗滅、国体消滅を意味する「一億玉砕」を叫び、立憲君主制を容認する米英に対して徹底抗戦を唱え、それを認めないソ連の「言いなり放題になって眼を潰れ」とまで極言し、ポツダム宣言の受諾を決断された昭和天皇にクーデター未遂事件を起こし、敗戦後には共産党に入党したのである。すなわち彼等は国体の衣を着け(天皇尊重の偽装)、国体を利用して(国体護持の為の対米英本土決戦一億玉砕)、国体を破壊せんと画策し(敗戦革命)、敗戦後、国体の衣を脱ぎ捨て正体を暴露した(共産党への入党)のである(2)。松谷誠の言葉を借りれば、敗戦後日独両国において「極右より極左に転向」し赤旗を振る運動が顕著に現れたのであった(3)。

 英米支に対する我が国の不毛な長期戦、陸軍将校の共産化、統制派に牛耳られた革新陸軍中枢に対する尾崎秀実らゾルゲ機関の諜報謀略工作の浸透、戦争遂行阻害分子の徹底的絶滅化(昭和二十年四月五日、陸軍新内閣施政方針)および敗戦革命を阻止するために早期講和を模索していた吉田茂の検挙、対米英徹底抗戦本土決戦一億玉砕、ポツダム宣言受諾時の陸軍総兵力を百七十三個師団(五百四十七万人)にまで膨れ上がらせた根こそぎ動員、昭和二十年八月十四日深夜から翌日未明にかけて陸軍省軍務局軍務課軍事課の少壮幕僚が近衛師団長の森赴中将を殺害し、偽命令を発して近衛師団を動かし、玉音放送録音盤を奪取、昭和天皇を宮中に軟禁しようとした継戦「宮城クーデター」(八月革命未遂事件というべきであろう)等は、すべてコミンテルン二十八年テーゼの具現化であった。尾崎秀実ら我が国の共産主義者はコミンテルンの「ブルジョア国家機関を破壊する目的でこれらの機関を利用する」という革命戦術(4)と二十八年および三十五年のテーゼを忠実かつ徹底的に併用し実践したのである。

一九二八年コミンテルン第六回大会決議「帝国主義戦争に反対する闘争と共産主義者の任務に関するテーゼ抜粋要約」(5)

 「最近帝国主義諸国家の政策は、反ソ政策と中国革命圧迫の方向に一歩前進して来たが、同時にまた帝国主義諸列国相互間の反目抗争甚だしくなり、反ソ戦に先立ちて帝国主義国家間に第二次世界戦争勃発の可能性高まりつつある。かかる客観情報は、第一次大戦に於いてソ連のプロレタリア革命を成功せしめたと同様に来るべき世界大戦は、国際プロレタリアートの強力なる革命闘争を誘発し前進せしめるに違いない。したがって各国共産党の主要任務は、この新なる世界戦を通じてブルジョア政府を転覆し、プロレタリア独裁政権を樹立する方向に大衆を指導し組織することにある。」    

 「資本主義の存続する限り戦争は避けがたい。だから戦争を無くするためには資本主義そのものを無くしなければならないが、資本主義の打倒はレーニンの実証した如く革命によらなければ不可能である。したがって世界革命闘争を任務とするプロレタリアートは全ての戦争に、無差別に反対すべきではない。即ち各々の戦争の歴史的、政治的乃至社会的意義を解剖し、特に各参戦国支配階級の性格を世界共産主義革命の見地に立って詳細に検討しなければならぬ。」

 「現代の戦争は、帝国主義諸国相互間の戦争、プロレタリア革命あるいは社会主義を建設中の国家に対する帝国主義国家の反革命戦争、プロレタリア革命軍、社会主義国の帝国主義国家に対する革命戦争の三つに分類し得るが、各々の戦争の実質をマルクス主義的に解剖することはプロレタリアートのその戦争に対する態度決定に重要なことである。

 帝国主義諸国のプロレタリアートは、第一の帝国主義国家相互間の戦争の場合は、自国政府の敗北と、この戦争を反ブルジョア的内乱戦に転化することを活動の主要目的としなければならない。第二の反革命戦争の場合は、自国政府の敗北を助長し、プロレタリア革命軍を勝利させなければならない。また第三の革命戦争は世界革命の一環としてその正当性を支持し、プロレタリア革命国家を防衛しなければならない。」

 「プロレタリアートは、政治権力を獲得し、生産手段を搾取者の手からもぎとるまでは、祖国を持たない。広く用いられている「祖国防衛」という表現は、戦争の正当化を意味する通俗的な表現である。プロレタリアートは、プロレタリア革命国家が帝国主義国家に対して行う革命戦争では、自分達の社会主義的祖国(註、当時はソ連を指していた)を防衛しなければならない。

 プロレタリア革命国家では、祖国擁護は必須の革命的義務であるが、帝国主義諸国では祖国擁護は許されない。」

 「共産主義者の帝国主義戦争反対は、一般平和主義者の戦争反対運動とその根底を異にしている。我々はこの反戦闘争をブルジョア支配階級覆滅を目的とした階級戦と不可分のものとしなければならない。蓋しブルジョアの支配が存続する限り帝国主義戦争は避け難いからである。

 帝国主義戦争時に於ける共産主義者の政治綱領は、ボルシェビキ党がレーニンの指導下に、第一次帝国主義大戦に反対する英雄的闘争の中で作成し、適用したものと同じ綱領である。

(1)自国政府の敗北を助成すること。

(2)後方における大衆の革命的行動と前線における交歓とを手段として、帝国主義諸国家の戦争をブルジョアジーに反対し、プロレタリアートの独裁をめざし、社会主義をめざすプロレタリアートの内乱に転化すること。

(3)帝国主義戦争の条件の下では、民主的方法による正義の平和は、主要な交戦諸国のブルジョア打倒とプロレタリアートによる権力の奪取なしには、不可能なるが故に、中心スローガンは平和ではなく、プロレタリア革命でなければならない。共産主義者は、平和に関するあらゆる空文句に対して精力的に戦わなければならない。

 ブルジョアは、戦争の内乱への転化を阻止する為に、重要な思想的武器として「平和の空文句」に訴えるからである。

 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争との闘争手段」の適用を一切断固として拒否しなければならない。また大衆の革命的前進と関係なく又はその発展を妨害するような個人的行動を拒否し、プチ・ブルの提唱する「戦争反対の処方箋」の宣伝と戦わなければならない。共産主義者は国際ブルジョアジー覆滅の為にする革命のみが戦争防止の唯一の手段であることを大衆に知らしめねばならない。」

 「多くの共産主義者が犯している主要な誤謬は、戦争問題を頗る抽象的に観察し、あらゆる戦争に於いて決定的な意義を有する軍隊に充分の注意を払わないことである。共産主義者は、その国の軍隊が如何なる階級又は政策の武器であるかを充分に検討して、その態度を決めなければならないが、その場合決定的な意義を有するものは、当該国家の軍事組織の如何にあるのではなく、その軍隊の性格が帝国主義的であるか又はプロレタリア的であるかにある。」 

 「現在の帝国主義国家の軍隊はブルジョア国家機関の一部ではあるが、最近の傾向は第二次大戦の危機を前にして各国共に、人民の全部を軍隊化する傾向が増大して来ている。この現象は搾取者と被搾取者の関係を軍隊内部に発生せしめるものであって、大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従えばブルジョアの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。」 

 「プロレタリアの帝国主義軍隊に対する関係は、帝国主義戦争に対する関係と密接な関係を持っており、自国政府の失敗を助長し、帝国主義戦争を駆って自己崩壊の内乱戦に誘導する方策は国防及軍隊の組織問題に対する態度に方向を与える。
 労働者を軍国主義化する帝国主義は、内乱戦に際しプロレタリアの勝利を導く素地を作るものなるが故に、一般平和主義者の主張する反軍国主義的立場とはその立場を異にする。われわれの立場は、労働者が武器を取ることに反対せず、ブルジョアの利益の為にする帝国主義的軍国化をプロレタリアートの武装に置き換えるのである。」

 満洲事変がソ連の対日諜報謀略戦を発動させ、満洲国の民族協和という理念から発展した東亜連盟という政治構想が軍人間の政見の対立―東亜連盟論者と東亜協同体論者の対立―を生み陸軍内の統一を破壊し、尾崎秀実ら東亜赤化の野心を秘めた共産主義者の陸軍内部に対する浸透攪乱工作を助長し、満洲国協和会による一国一党の実験および政治行政機構改造案が、戦争を利用する国内革新すなわち近衛新体制運動を引き起こす一因となり、そして石原莞爾が対ソ持久戦争を想定し陸軍の俊英を集め参謀本部内に創設した戦争指導課は、幾多の変遷を経て、ソ連の勢力拡大に奉仕し、「一億玉砕」を唱え、東亜全域のソビエト化を画策する革新将校の巣窟に変貌してしまったのである。

 純粋に日本民族を愛した石原莞爾の憂国の至誠から発せられた行動は、全て石原の意志に反して、西洋覇道の最先端にあった共産主義を信奉する尾崎秀実ら反日の革新勢力に国政を壟断されるという日本国の悲劇を生み落としてしまい、石原自身の諸構想と共に我が国を敗北へ導いたのであった。

 帝国陸海軍将兵と一般国民合わせて約三百万の我が国国民を死に至らしめた我が国の対支米英戦争とは、マルクス・レーニン主義の特徴である「共産主義者による共産革命の為の自国民大殺戮」だったのである。

(1)【終戦工作の記録上】一三三~一四六頁「昭和十八年九月十六日、大東亜戦争終末方策、其の五世界終戦二、別紙第三」
(2)中川八洋【近衛文麿とルーズベルト】二六六~二七六頁参照。
(3)松谷【大東亜戦争収拾の真相】二七〇頁。
(4)【コミンテルン資料集1】二二四頁「共産主義、プロレタリアートの執権のため、ブルジョア議会の利用のための闘争」
(5)【コミンテルン資料集4】三七五~四一三頁。三田村【戦争と共産主義】三十七~四十頁。
 本来帝国とは複数民族によって構成される国家を指し、帝国主義とは植民地を獲得して帝国を指向する政治思想である。共産中国が、満洲、内蒙古、ウイグル、チベットを植民地とし、台湾の征服を狙っている帝国主義国家であるように、帝国主義は資本主義固有の産物ではない。また十九世紀末、ほとんど植民地を有していなかったドイツの工業力が世界中の至る所に植民地を有していたイギリスの工業力を追い抜いたように、すでに帝国主義政策は国家に利益ではなく財政的負担をもたらすだけの愚策に転落しており、国家が資源や市場を獲得して経済発展を遂げる為には、自由貿易を行えばよく、軍事力を発動し他国と戦争を行い植民地を獲得拡大する必要は全くない。

 だがレーニンは、イギリスの領土拡大と海外投資の間には密接な因果関係があると錯誤した英国ジャーナリスト、ホブソンの誤謬に基づき、帝国主義を資本主義の最終段階の金融資本、独占資本であり、世界の領土分割が終わっている段階の資本主義と定義し、戦争の本質を帝国主義化した資本主義国家間の植民地再分割争奪戦と錯覚し、戦争を消滅させる為には資本主義を消滅させなければならない、と断定したのである。


85、思想侵略

 フランス暴力革命の嫡流たるロシア暴力革命の勃発前後から国境を越えて日本国内に流入し始めたマルクス主義は、昭和時代の幕開け(一九二六年十二月二十五日)と共に、華族官僚軍人知識人学生を中心として、若い世代の精神を征服する勢いを示し、国家中枢を深く汚染していたのである。出版界は左翼関係書の洪水に襲われ、書店には、マルクスの資本論全巻、マルクス・エンゲルス全集、レーニン選集、スターリン、ブハーリン全集が必ず置かれ、内務省警保局がいくら発禁押収しても、暴力革命を煽動する共産党関係の非合法書籍が次から次へと出版され、マルクス主義の研究は全盛期を迎えたのであった。

 華族は、汗と埃にまみれる労働者を見て、何不自由なく暮らす自分達の存在に懐疑の念を抱き、人間の不平等の起源に苦悩してマルクスに救いを求め、マルクスに洗脳された学生は資本主義を憎悪し、失業貧困差別のない理想郷として共産主義社会を憧憬し、やがて彼等は政府軍部の要職に就き、対支米英戦争に東亜を資本主義より解放し社会主義から共産主義へ導く進歩的意義を見出して、これを遂行したのである(1)。

 昭和三年の三・一五事件以来、日本共産党が警察の厳重な取締を受け組織を破壊されていったのに反比例して、右翼(急進国家主義)団体が急速に台頭し、昭和六年三月九日には、右翼各団体が全日本愛国者共同闘争協議会を結成し、

一、我等は亡国政治(註、議会政治)を覆滅し、天皇親政の実現を期す。
一、 我等は産業大権の確立により資本主義の打倒を期す。
一、 我等は国内の階級対立を克服し、国威の世界的発揚を期す。

を綱領として、「錦旗革命断行」の旗を押し立てて街頭デモ行進を行い、この日協の「前衛隊」が血盟団事件や神兵隊事件などに関係するテロリストを輩出したのであるが、彼等は天皇尊重を偽装(転向)して治安維持法から逃れた共産主義者で構成されており、立憲自由主義議会制デモクラシーを英米の害毒として憎悪していた。
 故に彼等右翼勢力は、私有財産の保障によって基礎づけられた自由主義経済の象徴である財閥や、彼等から献金を受けていた自由主義政党を排撃し、対支米英戦争では、自由主義国たる米英を「鬼畜米英」、彼等の支援を受けた蒋介石の国民政府を「中国の自主独立を棄てて米英に隷従しアジアの復興に叛逆する米英資本主義の買弁政府」と罵倒し、「東亜を解放せよ」と絶叫して(2)、国民世論がソ連や中国共産党攻撃に傾くことを阻止し、ソ連の政策たる「帝国主義国家相互間の戦争激発」に貢献し(3)、レーニンの敗戦革命論に基づき、いかなる犠牲を払っても平和を求める戦争反対論者を「非国民」と罵倒し、「贅沢は敵だ」というスローガンを掲げたのである。

 小川平吉は日記昭和十三年九月十七日欄に、

 「宇垣外相曰く、各種の事件に関連し近来真に不可解なる事少なからず、共産主義者が意外の方面に喰い込み仮面を被りて撹乱するに非る乎、本件失言問題の捏造も亦戦局収拾を阻止する者に非る乎と疑えり。予は共産党が一昨年来右翼に入りて撹乱を図るの方針なる事より其の実例の少なからざるを述べ、互に警戒を約す」

と記し、田村秀吉代議士は昭和十六年二月十二日の衆議院治安維持法改正法律案委員会において、

 「我が国に左翼思想、共産主義を以て国体変革を企図するというようなことを考えて運動する者に対しては私共は惧れを抱いて居ない、そう云うことで日本国民に対して国体の変革を表面から謳って来た場合に、これに感染する者は凡そ日本国民の中には殆どないと私は確信している。そこで国体変革を企図する所の表面に現われて来る運動よりも、その仮面を被って裏面に国体変革の思想を蔵してやって来る運動が一番怖いのであります」

と危惧し、この点に対する内務大臣の観測と方針を尋ねたところ、平沼騏一郎内務大臣は次のように答弁した(4)。

 「ただ今御質問の趣意は所謂国体擁護もしくは皇道主義の仮面を被って共産主義の運動をする、こう云う傾向が今日ある。これは非常に危険なものであろうと云うことを御述べになった。私もその通りであると考えます。元来これまで、先年検挙を致しました所謂共産主義運動、『コミンテルン』の運動は表面やはり国体破壊等を標榜いたして居ったのであります。

 今日は御話の通り運動が非常に巧みになって参りまして、全部そうでもありませぬが、共産主義を標榜いたしまして、その標榜する所は所謂共産主義に止まって居りまして、その実は革命、その極端に参りまするのは国体破壊の思想、これは最も怪しからぬ運動でありますから、これに対しましては厳重なる取締をしなければならぬことであります。したがって今回の治安維持法の改正に付きましても二つに分けましたから、一方の共産主義運動いわゆる私有財産否認と云う条項にしか表面は当らぬことになりますが、しかしこれはよく取調を進行致しますれば、自らこれは一つの『カモフラージュ』であるか、あるいはその考えて居る所は国体の変革までに至らぬのであるか、そこはよく調べますればこれは明瞭になってまいるであろう、その取調の方法は自ら当局におきまして、これは多年研究も致しております。その真相は必ずこれを明らかにすることが出来るのであろうと考えております。

 御話の通り今回条文を二つに分けました結果、その標榜する所は私有財産否認に止まると云う理由で或いはなる場合もございましょう。しかし本当の思想、これをよく探求いたしますれば、たとい表面は私有財産の否定に止まっておりましても、本当に、国体変革までの考えを持って運動を起こしているということを、明確にすべき手段はあろうと思います。もしその方に属しまするものでありますれば、やはり国体の変革の条文に依ってこれを処断することが出来るに至るであろうと思います。そこはこれを取調べる官憲の働きにあることであろうと考えます。
 しかしながら本当に私有財産の否定だけでありますれば、国体の変更を腹に持っている者に比すれば軽いのでありますが、今条文を別けましたことは理由のあることと思います。実際の取調の結果どちらに参りますか、これは実際を見ないと分らないのであります。」

 しかしこの内務大臣の取締方針は右翼勢力の跳梁跋扈を全く防止できず、平沼の答弁から半年後には、平沼自身が神兵隊事件の首謀者である天野辰夫らによって結成された右翼団体「勤皇まことむすび」の銃撃を受け重傷を負った。岩村通世司法大臣は昭和十七年七月八日に我が国の右翼運動について、

 「組織右翼は国内的には国家社会主義を、対外的には南方武力進出と英米打倒とを主張し来れり。直接実力行使に傾く。平沼男爵を襲いたる『まことむすび』の会は之に属す。今や対外的に其の主張実現したるを以て鎮静なるが如きも、南方経営に資本主義を以てするには反対なりと称し居りて、情勢進展の模様によりては決起せんとす」

と枢密院に報告した。岩村司法大臣の報告に対して原嘉道枢密院議長は、右翼運動に対する取締の寛に過ぎること又は見当違いであることを力説して、右翼と赤とは必ずしも区別すべきではないことを強調した(5)。さらに昭和十九年六月、「荻外荘」に招かれた警視庁特高第一課長の秦重徳は、我が国の共産主義運動について、

 「今日のわが国には共産党はなく、従って、共産主義運動は統一性を欠いている。けれども、共産主義者は職場と時とに即応して運動を行っており、戦争による国民生活水準の低下は、これら運動の温床になっている。その運動は正面から共産主義を標榜せず、敗戦の場合にそなえて共産主義者を養成するという目的でなされているものが多い。要するに、現在の情勢は『枯草を積みたる有様』であるから、これにマッチで火をつければ、直ちに燃え上がる。警視庁では国体を否認するものを左翼、そうでないものを右翼として扱っているものの、この右翼の中には実は左翼の多いことは、明かである。最近の産業奉還論のごときは、その良い例である。またいわゆる転向者の大部分は真に転向しているのではない」

と近衛に説明し(6)、近衛自身も日記(昭和十九年七月二、十四日)に、

 「当局の言明によれば皇室に対する不敬事件は年々加速度的に増加しており、又第三インター(註、コミンテルン)は解散し、我国共産党も未だ結成せられざるも、左翼分子はあらゆる方面に潜在し、いずれも来るべき敗戦を機会に革命を煽動しつつあり。これに加うるにいわゆる右翼にして最強硬に戦争完遂、英米撃滅を唱う者は大部分左翼よりの転向者にして、その真意測り知るべからず。かかる輩が大混乱に乗じて如何なる策動にいづるや想像に難からず」

 「此において予は、敗戦恐るべし。然も、敗戦に伴う左翼的革命さらに怖るべし。現段階は、まさに此の方向に歩一歩、接近しつつあるものの如し。革命を思う者は何れも、その実現に、もっとも有力なる実行者たるべき軍部を狙わざるなし。故に陸軍首脳たる者は、最も識見卓抜にして皇国精神に徹底せる者たるを要するは言を俟たず。軍部中のいわゆる皇道派こそ、此の資格を具備すというを得べし。外に対しては支那事変を拡大し、さらに大東亜戦争にまで拡大して、長期にわたり、政戦両局のヘゲモニーを掌握せる立場を悪用し、内においては、しきりに左翼的革新を強行し、遂に今日の内外ともに逼迫せる皇国未曾有の一大難局を作為せし者は、実に、これ等彼の軍部中の、いわゆる統制派にあらずして誰ぞや。

 予は此の事を憂慮する余り、陛下に上奏せる外、木戸内府に対しても縷々説明せるも、二・二六以来、真崎、荒木両大将等をその責任者として糾弾する念先入観となりて、事態の真相を把握し得ず。皇国精神に徹せるこれ等、皇道派を起用するに傾くこと能わざるは真に遺憾なり。寺内元帥なども、いわゆる皇道派を抹殺すれば粛軍終れりとなせるも何ぞ知らん。皇道派に代りて軍部の中心となれる、いわゆる統制派は戦争を起して国内を赤化せんとしつつあり」

と書いている。 

 戦前右翼の首魁として有名な北一輝と大川周明も、前者が「純正社会主義者」と自称し、後者が「日本社会主義研究所」を設立したように、天皇尊重を偽装したマルクス・レーニン主義者であった。だから北が上海で執筆し、大川が日本に持ち帰った「日本改造法案大綱」と日本社会主義研究所の暫定綱領は、皇室の存在を認めている点を除いて、日本共産党の主張と異なる処はなく、徹底的に資本主義経済組織を打倒し、私有財産制度を否認するに等しいのである。

<日本改造法案大綱>

一、天皇を奉じて速に国家改造(註、革新の同義語)の根基を完うするために、三年間憲法を停止し両院を停止し、両院を解散し全国に戒厳令を布く、そのためにはクーデターを断行する。
一、戒厳令の施行中、普通選挙による国家改造議会を招集、この国家改造議会は天皇の宣布したる国家改造の根本方針を討議することを得ず。
一、国民一般の所有すべき私有財産は百万円を超えることを得ず。
一、私有財産限度の超過額は無償を以て国家に納付せしむ。
一、資本家の財産徴収に当たっては二、三十人の死刑を見れば天下ことごとく服せん。
一、日本国民一家の所有し得べき私有土地限度は時価十万円とす。
一、私人生産制度の限度を資本一千万円とす。
一、労働省を設け、労働賃金は自由契約、労働時間は八時間とし、日曜、祭日は公休、賃金を支給すること、ストライキは別に法律の定めるところにより労働省これを裁決す。
一、婦人の労働は男子と共に自由にして平等なり。
一、国民教育の機関を満六歳より満十六歳迄の十ヶ年とし、男女を同一に教育し、エスペラントを課し第二国語とす。

<日本社会主義研究所暫定綱領>

一、我等は日本伝来の天皇制を以て日本国民最適の国家形態と信じ、一切の経綸を此の前提の下に行わんとす。
一、我等は生産手段の私有を基礎とする資本主義の無政府経済制を以て我国民の生活を圧殺するものと認め、出来得る丈け急速にこれが撤廃を期す。
一、我等は現日本国民大多数者生活の窮乏を救済するは生産手段の国有並びに国家による集中的計画経済の施行の外に途なきものと信じ、あらゆる手段を尽くして之が実現を期す。 
一、我等は、日本国民は凡て平等の権利及び義務を有し、且つ何人も公益に反して私益を追う能わざることを要求し、これに反したる者を「非国民」と認め徹底的な排撃を期す。

 故に日本改造法案大綱は、河上肇ら左翼に称賛され、彼等の牙城であり、日本共産革命を使命としていた改造社から出版され(一九二三年五月)、マルクス・レーニン主義に汚染された青年革新将校の聖書となり、三月事件(昭和六年三月二十日、橋本欣五郎、武藤章、影佐禎昭、今井武夫、真田穣一郎ら陸軍省部の少壮将校によって結成された桜会と大川周明らによるクーデタ計画)、十月事件(昭和六年十月十七日、桜会急進派と大川周明らによるクーデタ未遂、錦旗革命事件)、五・一五事件(昭和七年五月十五日、海軍革新将校と大川周明らによるクーデタ事件)、二・二六事件(昭和十一年二月二十六日、陸軍皇道派革新将校と北一輝らによるクーデタ事件)等を引き起こしていった。

 警視庁が桜会を「錦旗共産党」と呼んでいたことや、皇道派の大岸頼好中尉が日本改造法案大綱を参考にして執筆した「皇政維新法案大綱」(昭和六年九月一日)にある、

 「一切を挙げて上御一人へ、一切を挙げて国家総動員へ。天皇は国民に対し原則として一切の私有を禁止す」

という一節が示す通り(7)、大川および北とこの二人に煽動された陸海軍の革新将校の狙いは、明治天皇の憲法発布勅語と昭和天皇の大日本帝国憲法遵守の御意志とを無視し、無理やり昭和天皇を私有財産制度を否定する共産主義者すなわち日本のレーニンに仕立て上げ、共産党独裁(実際は共産党党首による個人独裁であり国家独占私物化)ならぬ天皇親政(専制、独裁)による国内革新すなわち帝国憲法によって定められた立憲自由主義(私有財産制、市場経済)議会制デモクラシーを破壊し、計画(統制)経済を導入することであった。

 故に彼等は天皇を補弼する国務各大臣や立憲自由主義議会制デモクラシー君主制を維持せんとする牧野伸顕、西園寺公望ら重臣を「君側の奸」として排除しようとする一方で、皇室廃絶を画策するコミンテルンに忠誠を誓わない反ソ的な国家民族主義をまとい(特にサーベルを日本刀に替え、軍隊を皇軍、国土を皇土と呼んだ荒木貞夫の陸軍皇道派)、二・二六事件の際、皇道派革新将校は、首相官邸や国会議事堂など国政の中枢を押さえながら、決して宮城を占拠しようとはしなかったのである。

 日本社会主義研究所の赤松克麿は、

 「私は敢てマルクスの言説を以て悉く虚なりとするものではない。問題は共産党に行くか、我々の行動に行くか、二つしかない。それだから、共産党で行けば、成功し得るという見通しが付いて、僕等の方で行けば、成功しないということの見通しが付けば、それは問題だと思う。僕等は今日の所、共産党の行き方が見通しが付いて、それ以外のものは見通しが付かんとは思わない。それは、今僕等がこういう戦術ですれば、必ず成功するというような大きいことは言いませんが、比較的にコミンテルンの指令下に居るよりか、我々の下に居た方が可能性が多いのじゃないかということですな」

と述べ、彼らが共産主義を全くかなぐり捨てたのではなく、プロレタリア革命への段階として戦術的に右翼に転向したに過ぎないことを告白しており、彼らの国家社会主義は、マルクス主義における国際主義を国家主義に置き換えたものに過ぎないのである(8)。だから明治の自由民権派の生き残りであった福岡日日主筆の菊竹六鼓は、五・一五事件事件の際、

 「何人も知る如く、近来右傾運動の勃発に乗じ、左翼運動者輩が、国家民族の仮面をかむり、ファッショという流行語を借り来たりて、ややもすれば国民を煽動せんとするあり、或いは政治的野心家がその政権欲を遂げんが為に、陛下の軍隊と軍人に誘惑の手を延ばさんとするあり」

と指摘し(9)、彼等右翼が国家民族主義をまとった左翼であることを見抜いていた。二・二六事件の首謀者の栗原安秀中尉は獄中において、

 「今日本を誤りつつあるは、軍閥と官僚だ、その二者を殲滅せば依拠を失える財閥は、自ら崩壊せざるを得ざるべく、財閥の背景なくして売国的政党の存立するなし。昭和維新も、兵卒と農民と労働者との力を以て軍閥、官僚、政党を粉砕せざる間は招来し得ざるものと覚悟せざるべからず。機関説的天皇より国民の自主的天皇へ、これ昭和維新の一大目標ならざるべからず」

と述べ、同じく新井勲元中尉は、

 「国家改造を夢見ながらも、青年将校と幕僚の間には、十月事件以来溝が出来た。続いて起こった血盟団や昭和七年の五・一五事件は、いずれも青年将校の流れをくむものであったが、幕僚を主体とする軍はこの機会を巧みにつかんで、ついに政党政治に終止符を打った。政権把握の軍の野望達成には、最早国内テロの必要はなくなった。戦争が開始されれば、必然的に軍の権力は拡大する。望むのは戦争だけである。国際的進出―対外侵略―と並行し、その企画統制の下に国家改造を断行する。これが永田鉄山を首領とする統制派幕僚の政策であった。

 政党政治が崩壊しても、それだけで青年将校の国家改造運動は、到底おさまる筈がなかった。昭和三年来全国を襲った深刻な不景気、特に中小商工業者や、農、山、漁村の困窮を最も敏感に感じとったのは、兵と直接接触する青年将校である。腐敗した政党と貪欲な財閥を打倒し、悩む下層階級を救おうというのが、かれらを貫く思想であった。陛下の赤子と言われるのに、一面では栄耀栄華に暮らすものがあるかと思えば、一面では働けど、働けどその日の生活に喘ぐ者があった。中でも東北地方の冷害で、満洲に出征した兵の家庭では、姉妹が娼妓に売られる悲劇さえ起きていた。この社会矛盾の解決なしには、青年将校の間に広まった国家改造の機運はおさまる道理がなかった」

と述べており(10)、彼ら青年将校が、金を湯水のごとく使いドブに捨ててもビクともしない財閥資本家富豪成金の貪欲な華美贅沢や酔狂な国内投資が、富を社会に還元、再配分し、景気を回復させ、新たな産業を育て、雇用を生み、中小商工業者や農山漁村を潤し(景気=国内生産=有効需要=民間消費+民間投資+政府支出+輸出-輸入)、下層階級を救うことを理解しておらず、貧困失業の原因を資本家の「搾取」に求め「平等」に至高の価値を認めて資本家に対する浅薄な嫉妬憎悪を煽動正当化し、労働者農民の救済を叫ぶマルクス・レーニン主義に汚染されていたことを吐露している。

 昭和十年二月の貴族院議員の菊池武夫による糾弾に端を発して、陸軍(皇道派)や右翼団体は、議会と政党を基盤とする立憲主義政治体制の土台となる美濃部達吉の「天皇機関説」を排撃し、帝国憲法を徹底的に歪曲解釈して天皇は無制限絶対権力を持つと吹聴した上杉慎吉の「天皇主権説」を賞揚したが、これも天皇親政による国内革新を狙った真赤な虚偽学説であり、上杉も、北一輝同様、天皇尊重を偽装し社会主義の実現を目指した暴力革命家であった(11)。
 一九一一年の「国民教育帝国憲法講義」において既に上杉は「無用有害なる中間の分子」の排除、天皇と人民の直結を説き、さらに一九二三年には「総動員」の中で、彼は資本家を非愛国的なる非日本人と非難し、農民の子であり労働者の子である大多数の軍人の政治化と全国民の兵士化を提唱し、次のように述べて、「起てよ無産の愛国者」と檄を飛ばし、北一輝の腹心である岩田登美夫の大文化会を通じて緊密な間柄となった社会主義者の高畠素之と経綸学盟を結んだのである。

 「政党は打破しなければならぬ、官僚は逐い払わねばならぬ、一切の現存の勢力を綺麗にかたづけてしまって、初めての君民合一の真の日本が復興せらるるのである、政党と官僚の背後には資本家と貴族が居る、これも取り除かなければ、国体そのままの真の日本は建設せられぬ」(全国軍人諸君に告ぐ)

 新聞に報道された上杉と高畠の提携は、右翼と左翼の国家主義における提携として世間に大きな衝撃を与えた。まさに上杉慎吉とは北一輝の先駆者であり同類であった(12)。

 一九三四年に来日した仏人ジャーナリストのモーリス・ラシャンは、当時のこれら一連の右翼革新運動を、天皇と勤労大衆を直結してその中間にある資本家階級を排除しようとする「ナショナル・コミュニズム」であると指摘した(13)。計画経済の本質が政府の恣意的な判断決定に依存する非計算経済であることを論証、これを完全否定し、小川平吉と共に近衛新体制に反対した山本勝市博士は、

 「結局自由経済に優るものなし、今日日本では右翼も左翼も皆マルキシズム思想を根底とする如し」

と述べ(鳩山一郎日記昭和十五年四月二十九日の条)、いずれも右翼の正体が共産主義者であることを見抜いていた。

 さらに国民精神文化研究所所員の山本勝市博士は、近衛内閣の経済新体制の理論的支柱になっていた日本経済の再編成および笠信太郎を徹底的に糾弾する「日本経済の再編成批判」を発表(一九四〇年六月~九月)、笠信太郎の言動を分析して、「頻りにイデオロギーからの出発を否認する」笠が愛国者に擬装している共産主義者であること、笠の経済理論がマルクス主義に全面依拠する珍説愚論の類であり時局を救う提案としては一顧の価値もないこと、笠の推進する経済新体制は需給関係を示す市場価格の変動と利潤の計算(販売価格-仕入価格)に基づく自然かつ自由で合理的な人的物的資源配分と価格設定を不可能とし必ず「経済計算の困難」という不可避の暗礁に乗り上げ日本経済を崩壊させることを指摘し、マルクス主義の根本的誤謬とマルクス主義に囚われた国の経済が崩壊する根本的原因とを理論的かつ実証的に解き明かしたのである。そして山本博士は、日本経済を再興するためには、政府が国家総動員法の施行から僅か二年で「もう手を挙げるより外ない」(一九四〇年八月二十二日、商工次官の岸信介の発言)という惨状に陥った戦時統制経済政策を潔く放棄し、アダム・スミスが神の手と名付けた無数の人間の意識を超えた自動調整機能を持つ自由主義的市場経済の復元を図らなければならないことを説き、国民に向かって次のように訴えたのである(14)。

 「殊に政策の行詰まりから、当局自身が手を挙げる外ないという如き場合こそ最も危険な時期である今日『新体制』等の掛声に乗じて、猛烈な左翼の暗躍の存することは疑うべくもないが、吾々は断じて、我が政治の当路をして左翼の敷施せる軌道に乗せる様な失態あらしめてはならない。
 政府当局も『新体制はどうなるか』という如き傍観的態度ではなく『どうするか』という態度を持つべしと国民に要求して居る。私は日本国民の一人として、殊に久しく経済体制の問題の研究を職として来た一人として、臣道実践の自覚のもとに敢えてこの小冊子を世に送るのである。

 なお一言付記して置きたい。最近地方の某県が笠氏を招いて講演せしめた際、あとで聴講者の一訓導は『貴下の思想は共産主義だとの批判があるが如何』と質問したところが、氏はそれに答えて『それは国民精神文化研究所のものであろう。彼は自由主義者である、自由主義は清算さるべきものだ、また彼は批判するが対案がないではないか』という意味のことを云ったそうである。
 読者よ注意されたい。共産主義者は常に自由主義を排撃するのだという事を(中略)。

 別に対案を出せという非難も、私に対しては当たらぬのである。私はそれを出して居るからである。神ながらの自らなる道(註、自由主義的市場経済のこと)に帰れというのがそれである。もっと具体的に明治の経済および経済政策の道に帰れと主張して居るのである。
 神ながらの道を、自由経済だの資本主義だのと勝手に非難して外に道を求めるという態度こそ今日、本道を逸脱して行詰を来した所以なのであるから、政治も倫理も、新しい道、新しい原理を編み出そうというすべての小ざかしき企てを捨てることこそ肝要なのである。
 甲案が行きつまったからと云って、乙案を求め、乙案が行き詰まったといっては、丙案を求めるという風に、あくまで新しい人智の改造案を古来の道の外に求めるという態度がいけないのである。昔ながらの倫理により、昔ながらの経済と経済政治の道を行くということになれば、道は、皇祖皇宗の御遺訓として、また祖先の遺風として、何人にも明に與えられて居ることを発見するであろう。

 物価を公定したり、物資を一元的に配分することを以て、戦争遂行のために必然不可避と考える人々は、明治時代の政治家は誰一人としてそのようなことを、必然不可避とは考えずに、却ってそのような思想を社会主義として弾圧しつつ、軍備も整え、戦争もやったという事実を反省すべきである。
 而して自分たちがそのような政策を必然不可避と考えるに至ったのは、何時頃からのことか、また如何なる思想の影響によるか、ということを静に反省して見るがよいのである。 
 社会主義による『自由経済否認、資本主義反対』という思想的前提なくして、そのような必然不可避論があり得るのであろうか。」

 だが反乱軍に対する昭和天皇の断固たる御意志(朕自らが近衛師団を率いて鎮定に当たらん)によって失敗に終わった二・二六事件は、昭和天皇が帝国憲法で定められた立憲議会制デモクラシーを尊重される自由主義者であり、国内革新にとって最大の障壁であることを証明した為に、大川周明によって作成された支那事変対策(昭和十三年一月十一日近衛文書)が、

一、国民政府否認。
一、封鎖の完成と駐兵の合理化―広東、漢口の占領。
一、蒋政権を打倒し新政権を援助す。
一、第三国の容喙を一切排除―ドイツ講和斡旋打ち切り。
一、日独伊防共の強化。
一、将来英国をして支那より全く退却の余儀なからしむ。
一、臨時政府を充実、強化し中央政府に迄発展せしむ―南京政府系のものの参加を認む。

等を掲げたように(15)、天皇を戴く一君万民の社会主義国家を夢想していた右翼も多数の革新将校も、社会主義放棄ではなく皇室廃絶に傾斜してしまい、それに伴いソ連の勢力拡大に奉仕するようになり、尾崎秀実の東亜新秩序構想に同調したのである。  

(1)【小川平吉関係文書1】六一七~六二三頁「緊急勅令発布ならびに関係記事」、三田村【戦争と共産主義】七十九~八十六頁をそれぞれ参照。
 例えば、大正十五年一月、最初の治安維持法違反者三十七名を出して社会に大きな衝撃を与えた「京大学連事件」に連座し検挙起訴された男爵の石田英一郎は、皇室の藩屏として特別待遇を受けていた華族の当主であったにも拘わらず、治安維持法違反の外、不敬罪を問われ、親戚一同に改悔転向を懇請されたが、頑として聞く耳を持たなかった。また一九一一年に生まれ、極貧の幼少期を過ごした朝枝繁春は、陸軍士官学校入学前、労働者として社会主義運動に挺身しようと決意しており、徳田球一の共産党が健在であれば堂々入党していたほど極左思想に汚染されており、朝枝は、陸士入学後も、国体論、皇国史観を疑問視し、神田の古本屋でマルクス本を買い漁り、日曜下宿で貪り読んでいたという(三根生【参謀本部の暴れ者陸軍参謀朝枝繁春】十、三十四~三十五、九十~九十五、一〇九頁)。また戦後日本の保守派知識人の重鎮となった元東大総長の林健太郎は教授であった戦時中の自分の思想について「しかし幸いなことに資本主義国家というものは社会主義に敵対するだけではなく、資本主義国家同士の間でも激しく対立する。だからその矛先をソビエトではなく他の資本主義国家に向けさせなければならない。これがスターリン、ゾルゲ、尾崎秀実らの考えであり、マルクス主義者の眇たる一分子であった私(林)もまたそれと同じ考えであった」と告白した(林健太郎【昭和史と私】一〇八頁)。
 戦前の日本国では、共産党だけではなく、華族や将校や教授にも、国体破壊の共産革命を画策する秘かな赤い精神が蠢動していたのである。
(2)平野義太郎【大アジア主義の歴史的基礎】二~四頁。この著書の中で平野は、「一九四一年五月からアメリカはオーウェンラティモアら太平洋問題調査会の東洋専門家を集め、日本支那の研究、情報収集に着手したが、彼らは、反日意識を燃やしている割合に東洋の基礎知識に乏しく、アメリカが我ら東洋の郷土を侵略する為の戦争に東洋学者を動員しようとしたところで、役には立たない。」とラティモアらを罵倒し、大衆の反米感情を煽りながら、敗戦後、平野は一転してアメリカの対日賠償委員として訪日したラティモアと一九四六年三月号世界評論「新しきアジアの構想」で対談を行い、一九五〇年に岩波文庫から刊行された【中国】(ラティモア著/平野監修)の中で、「ラティモア氏は現在生きて動いて発展しつつあるアジアを最もよく知っているアメリカ人のうちの数少ない一人である」と礼賛したのである。
 平野は一九三五年に訪日したラティモアと中国史の根本問題を談じ合っており、戦前から敗戦後にかけての平野の言動は、日米共産主義者の共同謀議による日米間の作為戦争謀略の存在を窺わせると共に、目的を達成するために平然と自己の主張を百八十度転回できる共産主義者の本質を示している。
(3)【現代史資料ゾルゲ事件1】四十四頁。
(4)衆議院治安維持法改正法律案委員会議録第二回昭和十六年二月十二日。
(5)深井英五【枢密院重要議事覚書】二二八頁。
(6)岡義武【近衛文麿】二〇二頁。
(7)秦【軍ファシズム運動史】二三、二八四~二八九頁。
(8)【現代史資料ゾルゲ事件4】三三一頁。
(9)稲垣武【朝日新聞血風録】二三四頁。
(10)三田村【戦争と共産主義】一二二~一二六頁。
(11)中川八洋【正統の哲学異端の思想】二四七~二五六頁。
 コミンテルン執行委員会の招集によって一九二二年一月二十一日から二月二日まで、モスクワ次いでペトログラードで開かれた第一回極東諸民族大会は、「日本における共産主義者の任務」(日本代表団によって採択された綱領)の中で、次のような帝国憲法に関する真赤な虚偽説を発表した(【コミンテルン資料集2】五〇三頁)。
 「日本は、その住民のほとんど全員が読み書きでき、五〇〇〇万人の住民のうち、プロレタリアが六五〇万人、零細小作農=半作男が五〇〇万人を数える、きわめて急速な発展をとげた資本主義国であるにもかかわらず、大土地所有およびその中から出てきた軍閥と元老が、えせ立憲的な形態(財産資格にもとづく、きわめて制限された選挙法、ミカドの無制限権力と、軍事的・財閥的元老寡頭制の独裁のもとでの二院制度)でつつまれた君主制度と、軍閥の独自の地位とに依拠して、国の政治生活において今なお指導的な役割を演じている。」
(12)長尾龍一【日本憲法思想史】六〇~一四一頁「上杉慎吉伝」
(13)曽村保信【地政学入門】一三二頁。
(14)山本勝市【日本経済の再編成批判】前書き。
(15)【現代史資料日中戦争2】一〇六頁。


86、統制派とコミンテルン

 満洲国の建国後、ソ連が我が国に不可侵条約締結を求めてきた際、皇道派の荒木貞夫を陸軍大臣、真崎甚三郎を参謀次長、小畑敏四郎を作戦課長とする陸軍は、ソ連との不可侵条約締結を拒絶した。その理由は、ソ連の東漸政策は三百年の伝統を持ち、一片の条約に信頼を寄せることは危険であること、不可侵条約を締結すれば、対ソ国防力の建設という陸軍の推進目標が失われ、海軍の南進政策が促進されること、ソ連の常套戦略は、自ら進んで戦争に訴えることはなく、まず敵を内部崩壊に至らしめた後、最後の瞬間の決定打として武力を使うものであり、不可侵条約の締結はかかるソ連の思想謀略に対する警戒態勢を弱化させることになる、であったという。

 国家戦略として反ソ連・親英米支主義を掲げていた陸軍皇道派は、ソ連の意図を正確に看破していたが、昭和九年一月、荒木に代わって陸相に就任した林銑十郎大将、林の下で陸軍省軍務局長に起用された永田鉄山少将以下、反英米支主義の統制派(十月事件後に成立)が皇道派の弾圧を開始し、皇道派と統制派の相剋は陰惨を極め、昭和十一年二月二十六日、焦燥に駆られた皇道派青年革新将校が二・二六事件を起こしたものの失敗し、皇道派は陸軍中央より追放されてしまい、統制派の皇道派に対する弾圧は結果的に日本軍の鉾先を英米支に向け、ソ連を利することになった。

 さらに統制派は、昭和九年(一九三四)十月十日、陸軍省新聞班から、「国防の本義と其強化の提唱」というパンフレットを公刊した。主たる執筆者は東大でマルクス主義に汚染され熱狂的な計画経済論者となり、影佐禎昭、武藤章等と共に、永田鉄山(昭和十年八月十二日、皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される)の麾下に所属していた池田純久(当時少佐、陸軍省軍事課員)であった。

 このパンフレットは「戦いは創造の父、文化の母である。試練の個人に於ける、競争の国家に於ける、斉しく夫々の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である」と戦争を賛美した上で、広義国防を提唱し、国防国家を、

 「国際主義自由主義個人主義思想を芟除し、これらに立脚した、排他的階級的にして、富の偏在、大衆の貧困失業を招来する経済機構を改廃し、国防目的のため、皇国の精神的物質的潜勢力を組織統制して一元的に運営する国家」

と定義したのである(1)。池田はパンフレットを作成した動機として次のように語っている(2)。

 「われわれ統制派の最初に作成した国家革新案は、やはり一種の暴力革命的色彩があった。警視庁を占領するとか、議会を占領するとか、著名政治家を監禁するとかの暴力沙汰であった。しかしそれは飽くまで軍の統率のもとに一糸乱れぬ指揮をもって行動しようというのである。

 しかしわれわれの研究が逐次進むにつれて、暴力革命的方式を廃して、合法的手段、つまり現行憲法に抵触せずして国家革新を行うことに頭をひねった。陸軍大臣は軍人であるとともに政治家でもある。陸軍大臣を通じて、政治上の要望を政府に提案してこれを推進するならば、必ずしも暴力革命の手段によらずとも、国家革新は可能である、という結論に達した。統制派は、かくして暴力革命を排し陸軍大臣を通じ行う方式を採用することに、その態度を一変したのである。こうなると破壊工作などは、統制派にとっては無用の長物である。建設工作だけで事は足りるということになる。しかし建設計画ということになると、軍人だけでは到底できない。それには専門的知識を必要とする。着実、実際的な立案を打ち出すことが望ましくなる。かくしてわれわれは、優秀な官僚と手を結ぶ必要に迫られた。そこにいわゆる新官僚が生まれてきたわけである。」

 池田は、手を結んだ新官僚として、後藤文夫、唐沢俊樹、和田博雄などを挙げている。コミンテルンを支持する進歩的新官僚の巣窟であった企画院が昭和十六年十一月に発行した「国防国家の綱領」も、

 「今日叫ばれている国防国家というのは、近代社会の自由主義国家観とは違った新しい国家観に基く国家である。自由主義国家観は国家の基礎を個人に置いて、個人の集り、その結合関係に国家の本質を求めている。すなわち個人の価値は国家または民族の価値に優先するという思想がその根底を貫いているのである。随って国家の任務は個人の自由に奉仕するにあって、個人の生命、財産、営業の安定、自由を保証し得る限りにおいて国家存立の理由がある。これが自由主義国家観の特質である。しかるに国防国家においては、かような国家観は根本的に否定され、個人の生命も財産も営業も、すべて国家は国家として個人のあらゆる生活部面も指導し干渉しうるとする全体主義国家観に基いている」

と言い、人類歴史の流れにおいて進歩と発展があるとすれば、自由主義、個人主義、営利主義、唯物主義の世界が没落して、全体主義、公益優先主義のより高い人類文化が、これに代わらんとしている、現代の世界戦争の渦中にある世界史の転換期において、

 「今こそこの自由主義、個人主義を清算し廃棄することこそ、歴史必然の運命であって、古き政治、古き経済、古き文化の一切が、この歴史転回の過程で批判し、検討されねばならぬ。

 聖戦已に丸四年を閲するもなおわが国民的政治地盤なくつねに各勢力の妥協と均衡の上に立って強力政治を断行し得ず、頻々と交迭した。また経済は依然として営利主義を以て指導精神とし、すでに統制経済から計画経済の段階に入っているが、かかる経済は一時的、臨時的のものであるとの皮相なる観案が全体を蔽い、文化も教育も、いまなお明治以来の自由主義を脱せずにいる。かかる非国防国家的な自由主義体制を根本的に変革し、東亜共栄圏の確立と国防国家の建設に邁進することが現下最大の要請である」

と述べ、明白に自由主義と現在から未来へ継承されるべき過去の伝統的遺産とを否定するマルクス主義の政治経済観、進歩的歴史観に基づく国防国家の建設を説いている(3)。

 「国防の本義と其強化の提唱」に対して、石原莞爾は、

 「単に国防といっても簡単ではなく、狭義国防の戦略戦術等はもちろん軍人の任務であるが、広義国防ともなって、産業、経済、交通、運輸等となると当然政治と密接に関連する分野である。政治行動をする大臣の輔翼(註、軍人の輔弼)のための意見開陳ならともかく、一般国民へ向かって軍が一々産業経済を口にするのは越権である。本来政治というものは、必ず人によってその意見を異にする。反対あり、摩擦あり、賛成ありである。今回の国防強化の提唱は、正に一個の政見だ。すべからくひっこめるべきで今陸軍がこんなものを出すべき時期では断じてないのだ。これこそ軍の政治干与であり、ここから軍は乱れる。軍閥が生まれる。軍人にして徒党を組み政治行動に出る者を軍閥というのだ」

と、その危険性を喝破し厳しい批判を浴びせたが(4)、社会大衆党の麻生久は、

 「今回の軍部の改革的態度は五・一五事件当時の如き軍の一部と所謂愛国団体の一部との通謀による陰部的非合理性のものでなくして飽くまで合法的なものである。前回の改革意見が非科学的であって等しく資本主義に反対するも、その根拠は単なる道義的精神的批判の上に立脚せるものに過ぎなかったのに対し、今日のそれは科学的態度に発展し、率直に資本主義的機構を変革して社会国家的ならしむることを主張していることである。日本の国情に於いては資本主義打倒の社会改革に於いて軍隊と無産階級の合理的結合を、必然ならしめている。目的を達するには、此の必然を激成して行く以外に道はない。而して今回のパンフレットは、公然としてその道を開いた。

 党員諸君は、その開かれた道を正認しこのパンフレットを仲介として研究会を開き、勇敢に在郷軍人会、青年団、産業組合の陣営に進出し、このパンフレットの内容に沿って反資本主義勢力の拡大強化に努力して党の拡大強化を図るべし。その必然に開かれた道に対して勇敢に突進し得ざるものは、社会改革運動の落伍者である」

と最大の礼賛を与えた(5)。
 さらに池田純久が執筆したといわれる「陸軍当面の非常時政策」(昭和十年九月十八日)は、

 「軍部の動員が暴力革命の動員たることは近世史の明示するところ改革日本の政治過程を健全に前進せしめんと称せば軍部の上下一糸乱れざる結束の下に断固たる改造の決意を透徹遍備するを要す。三月事件、十月事件、五・一五事件の経験が示したる所謂白足袋革命論の誤謬は、社会主義運動十余年の歴史が示す大衆革命論の無駄骨と共に実践に価値なく且危険なる卓上戦術なること既に自明たるべし、過誤は反復すべからず。

 我が軍部は、東西の近代に其の比を見ざる独特の構成形態を以て、新世界史的意義を持つ『変革日本』の現段階に重大なるレーゾンデートルを強化強大しつつある所以を深刻大胆に自己認識し、目捷の間に急進せる『日本改造』の指導的中心たる大方針を断定して以て左記諸案の断行を急ぐべし。」

一、ブレーントラストの構成
一、在郷軍人会の統制
一、陸軍労働組合の組織
一、公益労働者組織の獲得
一、民間改造団体に対する軍部の加護統制
一、ジャーナリズムの利用

 「近代国家に於ける最大最強のオルガナイザーにして且つアジテーターはレーニンが力説し全世界の共産党員が実践して効果を煽動したるジャーナリズムなり、軍部はこのジャーナリズムの宣伝煽動の機能を計画的に効果的に利用すべし」

と述べ、共産党の戦術を採用してまで陸軍主導による国家の改造を煽動したのである(6)。

 海軍大将の山本英輔は、斉藤実内府に送るの書(昭和十年十二月二十九日)の中で、政府が一向に荒木、真崎の陸軍皇道派の要望に応えない為に、革新将校が「意気地がなく手緩い、最早上官頼むに足らず、統制派の方がマシだ」といい、我が国体に鑑み皇軍の本質と名誉を傷つけることなきを立て前とし、大元帥陛下の御命令にあらざれば動かないと主張する皇道派を見限り、統制派の勢力が拡大しつつあることを指摘し、 

 「始めは将官級の力を藉りて其目的を達せんと試みしも容易に解決されず、終に最後の手段に訴えて迄もと考える方の系統が「ファッショ」気分となり、之に民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔手、赤化運動が之に乗じて利用せんとする策動となり、之が所謂統制派となりしものにて、表面は大変美化され居るも、其終局の目的は社会主義にして、昨年陸軍の「パンフレット」は其の真意を露わすものなり。林前陸相、永田軍務局長等は之を知りてなせしか知らずして乗ぜられて居りしか知らざれども、其最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、凡てを国家的に統制せんとするものにて、ソ連邦の如き結果となるものなり」

と近衛上奏文から遡ること約九年前に統制派の正体を見抜き、警告を発していた(7)。中国共産党の毛沢東は、一九三八年五月の「持久戦について」と題する講演の中で、支那事変の本質が日中両国を改造する正義の革命的な戦争であることを訴え、尾崎秀実は改造昭和十三年五月号「長期抗戦の行方」の中で、

 「日本に本質的な根本的な改造をもたらすことを伴わないでは、この日支事変は解決し得る性質のものでないであろう」

と述べ、同時期に両者ともに戦争を利用する「国家改造謀略」の存在を示唆しており(8)、まさにそれを実践した統制派と新官僚は、「国防国家の建設」の名の下に、将校の赤化を図り「革新」軍閥を形成し、戦争を利用する「上からの合法的変革(共産主義革命)」を狙うコミンテルンの謀略を秘めていたことが窺われる(9)。

 「国防の本義と其強化の提唱」「国防国家の建設綱領」等の論理魔術に心酔し或いは洗脳されて、軍人の建設すべき国防国家とは自由主義を否定し政府が個人のあらゆる生活部面も指導し干渉しうる全体主義国家(即ち社会主義、共産主義国家)であると確信し、二・二六事件の失敗と大政翼賛会の挫折を目撃した統制派の革新幕僚が陸軍省部の主導権を掌握した昭和十五年末以降、陸軍中枢は共産化し尾崎秀実の同伴者と化したのである。

 以下の機密戦争日誌は、参謀本部戦争指導班の革新幕僚が自由主義(資本主義)を激しく憎悪していたことを後世に伝えている。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十六年四月十九日土曜
一、日米全面協調(註、日米諒解案)電文ノ翻訳完了
1、日本ハ武力南進セズ米ハ対独武力参戦セズノ根本条件ニテ日米ノ全面協調ヲ策セントスルニ在リ
2、米ハ日支直接交渉ニ依ル全面和平ヲ蒋ニ勧告ス
3、日米相携ヘテ世界ノ平和ヲ招来セントス
四、国内問題ガ重大ナリ
  解決ノ道ハ強力政治ニ在リ
  自由主義ヘノ後退ハ之ヲ断乎トシテ排セザルベカラズ

昭和十六年八月十五日金曜 
四、英米共同宣言ヲ発ス
  英米ノ戦争目的和平条件ヲ宣言シタルモノナリヤ否ヤ
  結局ハ英米ノ世界制覇、自由主義現状維持ニ依ル世界制覇ニ他ナラズ
  何ガ自由何ガ平和ナリヤ

昭和十七年八月二十七日木曜
一、陸軍省戦備課富塚少佐ヨリ鉄、アルミノ生産状況85%ニ振ハサル件聴取ス
 彼恰モ資本主義擁護者ノ如シ賃銀、就業時間ノ制限ヲ解ケハ生産向上スヘシトノ見解ニハ同意シ得ス
 陸軍省ニ此ノ醜態アリ恐ルヘシ

(1)秦【軍ファシズム運動史】三二一~三三八頁。
(2)池田純久【日本の曲がり角】二十四頁。
(3)三田村【戦争と共産主義】二七七~二八三頁、【共産党宣言】四十五~五十、六十五~六十九頁。
 山本勝市は明治以来の自由主義について次のように解説している(山本【日本経済の再編成批判】四十四~四十五頁)。
 「明治維新は、欧羅巴諸国においてすでに社会主義が猖獗を極めつつある時代に行われたにかかわらず、政府は市場の自由なる取引機構の上に富国強兵のための経済政策をかなり強力に遂行して行った。社会という言葉の使用さえも許さぬほどの峻厳さを以て社会主義を弾圧し、それから国民経済を衛った。このような意味において私は今日の困難なる諸問題を解決打開せんがために、敢えて明治の経済体制に帰れと主張したいのである。
 明治維新をブルジョア革命と考えるところの社会主義者やその亜流は『明治の経済体制への復古』を以て『資本主義経済体制への復帰』を意味するものとして反対するであろう。而してすでに社会主義思想に汚染せられ、社会主義の造語『資本主義』を口にし、資本主義を以てあたかも悪のシノニムの如くに信ずるに至っている所謂知識人たちには、『明治の経済体制への復帰』をば、単なる反論として受け取るであろう。
 けれども度々述べたように、価格が市場における具体的現実的取引によって定まり、その価格を経済計算の基礎として生産の方向が決せられるという市場機構は、明治維新によって意識的に蘇生確立せらるるに至ったというものの、実は古今に通じ、中外にあやまることなきものなのである。
 徳川時代の末期にはそれが著しく妨げられて居たのであるが、維新とともに其の拘束のきづなが断ち切られ、そこに再び経済は自然の組織軌道にのることとなって、僅々数十年の間に驚異に値する生産力の発展をそのもとに可能ならしめたものである。」
(4)藤本治毅【石原莞爾】一四六~一四七頁。
(5)秦【軍ファシズム運動史】三三九頁。
(6)秦【軍ファシズム運動史】三五四~三五九頁。
 一九二一年八月十三日のコミンテルン決議「われわれの新聞について」は、「われわれの扇動では、新聞が最大の役割を演じる。われわれの党が一紙ないし数種の日刊新聞を持っている国では、とくにそうである」と述べている(【コミンテルン資料集2】二十三頁)。
(7)【木戸幸一関係文書】二五七~二五八頁。
(8)中国人民解放軍総政治部編【全訳毛沢東語録】三十九頁。【尾崎秀実著作集2】九十六頁。
(9) 広西元信著「資本論の誤訳」によれば、日本で、マルクス主義の国有化計画経済方式を剽窃した先例は、統制派の経済政策であり、統制派の周辺には、常にマルクス主義者が出入りし、彼等の「太平洋五十年戦略方針」は、細川嘉六、中西功、平野義太郎ら、歴然たる共産主義者の積極的参加によって出来上がったものであったという。

 細川嘉六が編集し昭和十七年五月に刊行した「新世界の構想と現実」は、尾崎秀実の論文「大戦を最後まで戦い抜くために」に酷似した第二次世界大戦史観を論じ、「日本は対米英戦争の最も果敢な遂行によって現に世界新秩序建設の原動力たるべき積極的使命を帯びた東亜新秩序の建設の達成に邁進しつつあるのである」と我が国の戦争遂行を正当化し、日本の新秩序は、「英米の金融帝国主義的支配を廃絶し、すでに歴史的使命を終わった古き国際主義、古き民主主義、古き自由主義に処刑の宣告を下すことである」と説明したのである。更にこの本は統制派のパンフレットと同様に「国防国家は国家の総力が国防目的に統一集中されている国家」という定義を述べ、「生産される富の大部分が必然に少数者の手に帰し、人民の大部分が必然に窮乏を強いられる社会構造の中で、自由主義はますます少数者にとっての自由、多数者にとっての不自由の原則となっている」と言い、彼等が推進する国防国家の建設に必要とされる革新の原理としてまず「自由主義の否定」を挙げ、「国防国家では、国民の政治経済行為、思想が厳重に統制され、国家目的に背反する私的目標の追求は許されない」と断言していた。

 これからも戦時下の我が国の共産主義者達が尾崎の謀略構想を共有し尚且つ統制派革新幕僚と密接な関係を持ち、彼等の企図する日本の社会主義化(左翼全体主義化)を「国防国家の建設」という文言に置き換えて官憲と大衆とを欺き、戦争遂行に藉口して国内革新を推進していたことが判るのである。


87、戦争と平和

 朝日新聞社が戦時中に暴支應懲や鬼畜米英を叫び、斎藤隆夫代議士をはじめ戦争反対早期講和論者に言論暴力を振いながら、戦後一転して、日本国憲法第九条を悪用し反戦反軍平和主義を唱え、再軍備、日米同盟強化論者に軍国主義者(タカ派)あるいは復古主義者(戦前回帰派)というレッテルを張ってこれらに言論暴力を振い、祖国に対する国民の忠誠や愛情を否定排撃する「地球市民主義」を打ち出していることについて、時流に迎合した朝日の転向あるいは変節と批判する識者が時々現れる。

 朝日新聞社は、近衛文麿の最高政治幕僚組織である昭和研究会と朝飯会に尾崎秀実、佐々弘雄、笠信太郎らを派遣し、近衛の革新国策を支持推進援護し、尾崎の「大戦を最後まで戦い抜くために」とほとんど変わらない日米開戦社説(昭和十六年十二月九日)を発表し、本土決戦の遂行を煽動し、朝鮮戦争の勃発を契機に容共政策を改めたGHQのレッドパージ(一九五〇年七月十八日からすべての共産主義者および共産主義的傾向の出版物は無期限に発行禁止となった。共産党の赤旗は一九五二年五月一日より再発行)によって、社内から一〇四人もの共産分子を追放された(1)。以上の事実が示すように朝日は、戦前戦中戦後を通じて終始一貫、日本の国益を害する反日反米反中(中華民国)のマルクス・レーニン主義者の巣窟なのである。ただ彼等は政府の取締や国民の反発を避けるために、あるいは政府の政策や国民の世論を操作するために、時流に応じて変装し、共産革命戦術を変更しているだけなのである。

<朝日新聞開戦社説昭和十六年十二月九日>

 帝国の対米英宣戦

 宣戦の大詔ここに渙発され、一億国民の向うところは厳として定まったのである。わが陸海の精鋭はすでに勇躍して起ち、太平洋は一瞬にして相貌を変えたのである。

 帝国は、日米和協の道を探求すべく、最後まで条理を尽して米国の反省を求めたにも拘らず、米国は常に謬れる原則論を堅守して、わが公正なる主張に耳をそむけ、却て、わが陸海軍の支那よりの全面的撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄というが如き、全く現実に適用し得べくもない諸条項を強要するのみならず、英、蘭、重慶等一連の衛星国家を駆って、対日包囲攻勢の戦備を強化し、かくてわが平和達成への願望は、遂に水泡に帰したのである。すなわち、帝国不動の国策たる支那事変の完遂と東亜共栄圏確立の大業は、もはや米国を主軸とする一連の反日敵性勢力を、東亜の全域から駆逐するにあらざれば、到底その達成を望み得ざる最後の段階に到達し、東條首相の言の如く『もし帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し、支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となる』が如き重大なる事態に到達したのである。

 事ここに到って、帝国の自存を全うするため、ここに決然として起たざるを得ず、一億を打って一丸とした総力を挙げて勝利のための戦いを戦い抜かねばならないのである。

 いま宣戦の大詔を拝し、恐懼感激に堪えざるとともに、肅然として満身の血のふるえるを禁じ得ないのである。一億同胞、戦線に立つものも、銃後を守るものも、一身一命を捧げて決死報国の大義に殉じ、もって宸襟を安んじ奉るとともに、光輝ある歴史の前に恥じることなきを期せねばならないのである。

 敵は豊富なる物資を擁し、しかも依って立つところの理念は不逞なる世界制覇の恣意である。従って、これを撃砕して帝国の自存を確立し、東亜の新秩序を建設するためには、戦争は如何に長期に亙ろうとも、国民はあらゆる困苦に堪えてこの「天の試煉」を突破し、ここに揺ぐところなき東亜恒久の礎石を打ち樹てねばならぬのである。

 宣戦とともに、早くも刻々として捷報を聞く。まことに快心の極みである。御稜威のもと、尽忠報国の鉄の信念をもって戦うとき、天佑は常に皇国を守るのである。

 いまや皇国の隆替を決するの秋、一億国民が一切を国家の難に捧ぐべき日は来たのである。


 暴支應懲、鬼畜米英など戦争を煽動した戦時朝日の報道、ソ連軍、中共軍、北朝鮮軍の侵攻行為を支持弁護し、彼等に対峙する我が国の自衛隊と日米同盟を排撃する戦後朝日の反戦平和報道、共産主義国家の軍備拡張や偏狭なナショナリズムを看過容認しながら、日本の愛国心教育、国防体制の再建運動、国益を擁護重視する政治家を排撃する戦後朝日の反ナショナリズム報道はそれぞれ、

 「資本主義国家群を噛み合わせて消耗崩壊させ敗戦革命へ誘導せよ、これを阻止する『戦争反対の処方箋』の宣伝を拒否せよ、『いかなる犠牲を払っても平和を』という感傷的な偽善的なスローガンを倒せ。

 共産主義者はプロレタリア革命軍の資本主義国家に対する革命戦争を支持し、社会主義的祖国を防衛せよ。プロレタリア革命国家では祖国擁護は必須の革命的義務であるが、帝国主義諸国では祖国擁護は許されない」

に沿う共産革命スローガンであり、朝日新聞社に巣くう共産主義者の群れはレーニンの敗戦革命論、二十八年テーゼ、日本の歴史を全否定するスターリンの独善的反日史観である三十二年テーゼ、そして合法場面の利用をうたった三十五年テーゼに沿って「ソ連および国際共産主義勢力の防衛と拡大」を支援してきたのである。風見章、勝間田清一、細川嘉六、堀江邑一、平野義太郎、鈴木安蔵ら戦時中の好戦的右翼にして敗戦後の反戦的左翼も全く同様である。

 我が日本国は、第二次世界大戦中に蒋介石の国民党および英米と卍巴に戦い、ソ連と中国共産党に漁夫の利を与えてしまった。そして第二次世界大戦後において我が国が自衛隊を撤廃し日米同盟を廃棄すれば、ソ連と中共および北朝鮮に、日本、台湾、韓国に武力侵攻する絶好機を与え、東アジアの共産化は完全成就していた。彼等共産主義者の戦時中の好戦的言動と戦後の反戦的言動は、一見すると百八十度違うようでも実はいずれも国際共産主義勢力の拡大に奉仕していたのである。

 例えば、昭和研究会の教育問題研究会委員を務めていた宗像誠也(東大教育学科卒)は、改造昭和十六年十一月号に「臨戦態勢は教育を圧迫するか」と題して徴兵検査による兵隊の選抜を否定する次の強制兵役論を発表した。

 「ところでこのいわゆる圧迫とは何なのであるか、何処からそんな圧迫が出るのであるか、果たして圧迫なのか。

 結論は国防も産業も教育と密接な有機的関係に置かねばならないということである。国防も産業も教育と歩調を揃え、或いは教育的任務を分担しなければならぬ。例えば兵役制度である。従来兵制と学制とが寸分隙のない連繋の下に置かれていたとはいえない。

 我々は次のような試案を考えてみた。心身が異常でない限り、少し位からだが弱くても凡て兵役に取つてはどうか。実践的な国民的信念、国民的教養を作り上げる精神教育をすることは勿論だ。身分も職業も学歴も問わず、全部が共同の営舎生活を一定期間するということは国民性格を練成するのに必要な、また極めて有効な手段だと考えられる」

 そして宗像は、昭和十八年七月には「楽善抄」なる文集を刊行し、

 「父は大東亜戦争を知らなかった。しかしこの聖戦の目標なり、この戦争下の国民の思想なり生活の倫理なりは、父が予感し、又主張して来た方向にあるといえるように思う。あさおがみ趣旨なり、家々に神棚を設けることの主張なり、隣組の精神なり、質素倹約、間にあわせなり、尚武の精神なり、練成の理念なり、皇謨翼賛、臣道実践、滅私奉公の根本精神はいうまでもない」

と述べ、「吾人日本人としては皇道が神の道なり。道徳に一致する事は神に一致することなり」と書き残して逝去した厳父の逸郎に対して「ちちのみの父のみことばを胸には彫りて我が生きむとす」と誓約した。

 然るに我が国の敗戦後、東大教育学部教授になった宗像誠也は、「教師は労働者である」という規定を持つ有名な日教組の教師倫理綱領を起草したばかりか、自分の父親に対する自身の誓約を踏み躙り、日教組を理論的に指導する平和教育委員会委員として反米、反天皇、反文部省、反軍備、反戦論を展開し始め、教育昭和二十七年七月号に「歴史的認識と人権の感覚」と題して、

 「わたしは、平和教育の一面は、いわば人権教育だと信じているのである。戦争が人権に対する最大の挑戦者であり破壊者であることはいうまでもない。だからして『教え子をふたたび戦場に送るな』という日教組のスローガンには、うちかち難い強さがある。わたしは、教師がこの良心の声を純粋に叫び続けることが大切だと思う。

 教師がときとすると、いわば一種の責任感から『国論の統一』に役立たねばならぬという意識に支配され、教師としての良心に背いて、現実政治に足並みをそろえようとすることがあるのは反省されねばならぬ」

と教師に説教したのである(2)。
 
 しかし日教組が支持した社会党の左派(社会主義協会)の理論的指導者であった九州大学教授の向坂逸郎は、諸君昭和五十二年七月号「マルクスよりマルクス」の中で「プロレタリア独裁の下では政府に反対する言論・表現の自由は絶対にない」と断言し、日本に社会主義政権が誕生し日米安保が破棄されアメリカの軍事力が重大な脅威となる時は、社会党の非武装中立政策を考え直すと公言し、社会党はこの発言を否認しなかった。また東大マルクス憲法解釈学者の小林直樹は、国際法上あり得ない社会党の非武装中立論(中立国は中立侵害排除義務を履行するために武装せざるを得ない)を礼賛し、日本の非武装化の後に訪れるソ連軍による日本占領を「ソ連が公費で日本に留学生を送ってきたのと同じ結果になります」と肯定し、世間の大ひんしゅくを被り、憲法学者の信用を失墜させた。

 社会党系左翼学者の発言が暴露した真相は、左翼勢力の護憲平和主義と非武装中立論と「子供を二度と戦場に送るな!」という反戦スローガンが、日本国が社会主義化するまでの方便であり、ソ連および共産主義勢力の防衛と拡大を支援し、日本周辺の共産主義国家の軍事力を導入して我が国を共産化する為の詭弁であったということである(3)。

(1)【世紀末から見た大東亜戦争】二〇八頁。
(2) 【進歩的文化人学者先生戦前戦後言質集】一六一~一六六頁。この言質集に挙がっている風見章、平野義太郎、堀江邑一、鈴木安蔵、高倉テル、三枝博員をはじめ四十四人の進歩的な文化人学者政治家すなわち戦後日本における左翼勢力の幹部としてマルクス・レーニン主義に基づく反戦反核反米反日親ソ親中親朝的言動を繰り返した共産主義者たちは、戦時中は右翼として尾崎秀実と同じく仰々しい美辞麗句を連ねて大東亜戦争の遂行を美化煽動正当化し、あるいは大政翼賛の近衛新体制運動を推進していたのである。
(3)稲垣武【悪魔祓いの戦後史】参照。


 
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テーマ : 歴史
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龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民の戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究において最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

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