スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

国民のための大東亜戦争正統抄史1~9南京陥落

「戦争の天才」と「謀略の天才」の戦い 国民のための大東亜戦争正統抄史1928-56 東亜連盟戦史研究所所長 龍井榮侍(たついえいじ)

【はじめに】

 一九九一年、ソ連が崩壊し、マルクス・レーニン主義の破綻が誰の目にも明白になった。しかし我が日本の革新(共産主義)勢力は決して退潮しておらず、市民、環境、人権、そして平和の衣をまとい、我が国の過去糾弾による反体制反国家反国体運動に狂奔し、むしろ勢いを増している。このままでは、彼等の目論見通り、二十一世紀の前半に我が国は溶解してしまうだろう。

 「くに」を表記する正漢字は國である。國とは城砦(とりで)を意味する。囗(かこい)は城壁に囲まれた領土を示し、口(くち)は領土に居る人の集落を意味し、戈(ほこ)は領土と人を防衛する軍隊を表す。
 国家とは、政府もしくは権力それのみではなく「領域と、これに存在する自然と過去現在未来の人々、領域と人を防衛する軍隊、そしてそれらが長い時間をかけて築き上げる文化伝統繁栄名誉によって構成される城塞」なのである。

 然るに国家の再興を図るべき保守政治家の彼等に対する抵抗力たるや真に弱々しい。森喜朗首相は、 「日本は天皇陛下を中心とする神の国」という我が国の伝統に基づく正論を述べたにも拘わらず、我が国の革新勢力の言論暴力に屈し弁解に終始するという醜態を晒した。保守を自称する政治家は、革新勢力が推進する戦後民主主義狂育に洗脳され、大東亜戦争史を全く知らず、彼等の虚偽を見抜いて反論することを為し得ないのである。

 万物は生成発展し、発育の終局に至って死滅する。革新勢力が半世紀以上に亘り営々と積み重ねてきた虚偽の巨塔は、国民によって真実の鉄槌を下されるならば、たちまち倒壊して彼らを押し潰し、却って我が国再興の基礎となるであろう。
 故に筆者は、座して亡国を見るに忍びず、若輩浅学を省みず、国民が一読して大東亜戦争の真実と我が国の敗因とを把握し得る、第一次史料に依拠する正統史を敢えて執筆した。

 筆者の願いは、石原莞爾が予言したように、国民が尾崎秀実の後継者である革新勢力の呪縛から解放されて真実に目覚め、太陽の出づる極東に存在するが故に、日本という王朝名と太陽の女神である天照大神を皇祖神とする神話を持ち、天に輝く太陽を意味する日の丸を国旗として掲げ、天照大神の御子孫たる天皇陛下を国家元首として戴く我が国が永続することである(二〇〇三年三月記す)。


第一章、支 那 事 変 抄 史


【南京陥落】


1、トラウトマン工作

 昭和十二年(一九三七)十二月十三日、支那事変が勃発してから五ヶ月後、支那(中華民国)の首都南京は、我が日本軍の総攻撃を受け、遂に陥落した。第二次上海事変(同年八月十三日勃発)から南京占領まで、我が中支那方面軍(上海派遣軍と第十軍)が被った損害は、戦死者二万一千三百人、負傷者五万余人に及んだ。

 我が大本営が中支那方面軍に南京攻略を命じた翌日の十二月二日、中華民国総統の蒋介石は、ドイツ駐支大使トラウトマンと会見、日本を勝者とみなさず、十一月二日に日本政府がドイツ駐日大使ディルクセンからドイツ政府を通じて国民政府に提示した次の対支和平条件(十一月ベルギーで行われたブリュッセル国際会議に期待をかけていた蒋は之を一旦拒絶)

1、内蒙古の準独立。
2、北支の非武装地帯を平津鉄路以南にまで拡大する。和平成立の場合、北支の行政権はすべて中央政府に属するが、日本は行政長官には親日的人物を希望する。
3、上海停戦区域をさらに拡大し、国際警察によって管理する。
4、支那は排日抗日を停止する。
5、支那は日本製品に対する関税を低減する。
6、支那は外国人の在支権利を尊重する。
7、日支防共協定の締結。

が変更されないことを確認した後、ドイツを仲介として日本と講和する用意がある旨を伝え、蒋介石はトラウトマンに次の支那側条件を提示した。

1、支那は講和交渉の一基礎として日本の要求を受諾す。
2、北支の領土保全権、行政権宗主権に変更を加うべからざること。
3、ドイツは当初より講和交渉の調停者として行動すべきこと。
4、支那が第三国との間に締結せられたる条約は、講和交渉により影響を受けざること。

 十二月七日にトラウトマンからディルクセンを通して日本政府に通達されたこの蒋介石の対日講和方針について、南京陥落後の我が国政府首脳の反応は冷淡かつ強硬であった。陸軍参謀本部第二課(作戦)第一班(戦争指導)の堀場一雄少佐によれば、

「十四日の閣議では広田外務大臣まず発言し、犠牲多く出したる今日、斯くの如き軽易なる条件をもってはこれを容認し難きを述べ、杉山陸軍大臣同趣旨を強調し、近衛総理大臣全然同意を表し、大体敗者としての言辞無礼なりとの結論に達し、その他皆賛成せり」

という雰囲気であったという。

 これに対し、極東ソ連軍の増強と我が国の戦力国力の限界とをよく認識し、対支和平を主張する参謀本部戦争指導班は「閣議国を誤る事此に至り、挺身以て国家の危急を救うは今日に在り。各人分担して直接次長及び長官を衝き、今次の閣議決定を絶対に取り消すべし」と談判し、

 「広田外相の強硬論は何ぞや、自らの失態を蒋介石に転嫁するものか。両大臣が実情を知りて之に和せしとせば罪深し。抑々トラウトマンは、蒋介石の質問に答えるため改めて最近広田外相に念を押したるに非ずや。面も先の条件も広田外相より発出せるものに非ずや。当時是認せりとせば、その変化は南京追撃の戦況に酔いて倨傲となれるか、或は輿論を恐れて臆病となれるか、是認せる条件に基づく回答ならば責を一身に負いて交渉に入ること当然にして、亦是外相の機略ならずや。

 念を押したる上の回答を無視する本措置は、国家の信義を破ると共に日本は結局口実を設けて戦争を継続し侵略すと解釈するの外なし。是道義に反す。成し得べくんば支那側今次の申出を取り上げ交渉に入るべし。交渉に入らば折衝妥結の道自ら開くべし。

 本条件絶対に容認し難きとせば、我が欲する条件を明確に示すべし。その条件は既に久しく用意あり。之が取り扱われざりしのみ。群衆は常に強硬なり。解決条件は寛大なるを要す。況や日支大転換を企図するにおいてをや。無礼呼ばわりして具体的応酬なき本措置は戦勝に驕れるの甚だしきものなり。何をもってか日支兄弟の好を結ぶを得ん」

と憤激した(1)。

(1)堀場一雄【支那事変戦争指導史】一一七~一一八頁。


2、参謀本部の早期和平論

 ソ連の動向を警戒する我が陸軍参謀本部は、我が国とは防共協定を結び、蒋介石の国民党政府には軍事顧問団と大量の武器を送り込んでいたドイツ政府が行う日支和平の仲介に大きな期待を寄せていたからである。

 昭和十二年(一九三七)九月上旬、参謀本部情報部の馬奈木敬信中佐(元駐独大使館付武官補佐官)は、参謀本部作戦部長の石原莞爾少将の指示を受け、駐日ドイツ大使館付武官のオイゲン・オットー少将と接触し、日支和平の糸口を探っていた。
 十月二十六日、馬奈木中佐は、多田駿参謀次長と本間雅晴情報部長の了解を得て、オットー少将と共に上海で極秘裡にドイツ駐支大使オスカー・トラウトマンと会見した。馬奈木中佐が彼と旧知の間柄であったトラウトマンに日本の陸軍参謀本部が蒋介石の打倒や北支の完全分離を望んでいないことを伝えると、トラウトマンは驚き、この参謀本部の穏当な和平条件は今後の和平交渉の基礎になり得るものと判断した。これがトラウトマン和平工作の端緒となった。参謀本部がこの有望な和平工作を開始したのである。

 それから約一ヵ月後の十一月二十一日、参謀本部作戦課は、「対支那中央政権方策」を起案し、次の三つの理由を挙げて、北支内蒙および上海等の問題は全支問題の部分として之を処理し、これ等各方面の既成自治政権は支那本然の事態に即し中央宗主権下における範囲の存在として之を継承容認せしめ、現下時局解決のため現状においては尚現中央政権(蒋政権もしくは其継承政権)をして翻意我に提携せしめ全支の問題を統一処理する方針を堅持していた。

1、 東亜経綸の大局的見地より、静に支那本然の姿を観るに近世の歴史東西南北悉く侵略受難ならざるはなし。支那人ならずとも排外の思想勃発せざるを得んや。我が友邦のために之を憂うる所以なり。而して排欧米就中防共の問題は支那の為には国内の問題にして東亜のためには日支共同の関心事なり。東亜の経綸は支那の解放と日支の提携とより始まる。而して支那最大の苦悩は日本の威力と「ソ」邦の赤化なるを思うとき日本が支那を善導するに道を以てし所要の統一を助け其脅迫感を除くとき日支提携の大道此に通じ支那は欧米勢力就中赤化より自己を解放するに専念するを得べく近き将来に予想すべき諸般の事態に処して支那を以て東亜経綸の伴侶たらしむるを得ん。

2、 日支問題解決上の見地より、日支全般の問題を根本的に綜合して解決し次期の東亜経綸に前進せんがためには支那に中央政権の存在を必要とし之がためには反省せる蒋政権若くは其継承政権の存続を必要なりとす。蓋し蒋政権の否定は彼等を反日の一点に逐い込み窮鼠反噛の勢を馴致し其崩壊と否とに拘わらず結局相当年月の間に亘る全支分裂の出現となるべく此の間必然的に「ソ」英米策源の推進と相俟ち此に永久抗争のため帝国は永き将来に亘り之に莫大の国力を吸収せらるべく且東洋を駆て欧米輩の好餌に供し東亜経綸の前途を誤る所以なればなり。

3、 防共上の見地より、支那赤化を最少限度に極限するが為には中央現政権一派の統制力崩壊するの以前に於て本事変を終結するを可とし又赤禍の駆逐には事変後の将来に於て現中央政権一派をして西面せしめ之を赤系分子の清掃に推進するを以て東亜経綸大局上の上策とすべし。蓋し持久長きに従い蒋勢力の衰微と共に分裂の形勢を馴致し赤禍の台頭を予想すべく又何れの形式なるに拘らず講和発生の場合には赤系分子は分離して奥地に残存すべければなり。而して最悪の場合依然として排日統一政権の存続することあるも之が容共ならざる限り其我に対する不利は分裂に乗ずる赤化が日満両国に及ぼす禍害に比ぶれば尚軽易なるものと謂うべし。

 参謀本部作戦課は、

 「本項の目的達成の為には現中央政権が一地方政権たるの実に堕せざる以前に於て長期持久の決心に陥ることなく其面子を保持して講和に移行する如く我諸般の措置を講ずるを要するものとす」

と判断していたのである(1)。

 だが近衛内閣が十二月二十一日閣議決定した「日華和平交渉に関する在京独逸大使宛回答文」は、十一月の対支和平条件に比べ、支那側にとって過酷であった。その内容は、

1、支那は容共抗日満政策を放棄し日満両国の防共政策に協力すること。
2、所要地域に非武装地帯を設け、且該各地方に特殊の機構を設定すること。
3、日満支三国間に密接なる経済協定を締結すること。
4、支那は帝国に対し所要の賠償をなすこと。

の四つの包括的条件を掲げ、満洲国承認を含む細目十一項を付属させ、前文にて、

 「支那側が之を講和の条件として総括的に承認して、帝国に和を乞うの態度を示し来るに於いては日支直接交渉を開始する用意あり」

と強調していた。

 翌日、広田外相と会見したディルクセンは、条件加重を指摘して「国民政府が受諾する可能性は極度に少ないと思う」と述べると、広田外相は、戦況の変化と世論の圧力により、これ以外の条件を認めることはできないと応え、支那側の回答期限を昭和十三年一月五ないし六日に設定した。

 二十六日、トラウトマンから四条件を伝えられた国民政府行政院副院長の孔祥煕は、

 「日本が提出した条件には、思いつくかぎりのすべてのことが含まれている。日本は十個の特殊政権と、十個の非軍事区がほしいとでもいうのだろうか。こんな条件を受け入れられる者はいない。日本は将来に思いをいたさなければ、みずから滅亡するだろう」

と日本の反省を求め、蒋介石も、

 「日本の提出した条件はかくも過酷である。受け入れる余地は絶対にない。今日、投降することをのぞいて和平はなく、抗戦のほかに生存の道はない」

と我が国に対する態度を著しく硬化させた(2)。

 当時、朝日新聞社によって煽動された暴支膺懲世論が日本列島を覆う中、支那側回答が遅延する間に、近衛内閣は「講和問題に関する所信」として、

 「今や南京陥落し蒋介石政権も昨今は頗る窮境に立つに至りし如くなるも未だ彼の権威全く地に堕ちたりと断ず可らず、少しく手を緩めれば再頽勢を挽回し来るや明なり。いわばもう一押しと云う所なり。かかる状勢にある際我より進んで条件を提示し講和を促すことは我に重大なる弱点なき限り軽々になすべきことでなく却てそれが為に彼の侮を受けて彼の戦意を復活せしめ大害を将来に招く恐ありと考えらる故に政府側としては独逸大使を通じての今回の交渉に対しても必ずしも衷心より賛成せるに非ず、只軍部側の切なる希望もあり且今回提示せる要求は我最小限度の要求なりとの了解の下に賛成したるなり。従てもし支那が此要求を全面的に承諾せざる場合には此交渉は当然打ち切るべきものと了解し居れり。

 然るに最近に至り軍部側にありては支那が此要求の一部修正を申込み来る場合には更に多少の譲歩をなしても何とか此際講和を成立せしめんと希望せらる由を聞く、元来我より進んで講和条件を提示することさえ如何かと思わるるに彼の一部拒絶に遭うて再び譲歩の色を見するが如きことありては益々彼の乗ずる所となるべきや明なり。政府側としては軍部が斯くの如き拙策を採りてまで講和を急がるる真意を了解するに苦しむ次第なり」

と軍部の弱腰を批判し、

 「ここに於て政府側としては軍部がかくの如く講和を急がるるには何等かそこに深き事情が存するに非ずやと推測せざるを得ず、然るに今日迄の陸軍大臣の説明だけにては今日講和の急がざる可らず理由明白ならず、もし真に此際講和を急がざる可らざる事情存するならば陸軍大臣は率直明白に之を他の閣僚に説明すべきものと信ず。然れども不幸にして陸軍大臣の説明が十分他の閣僚を納得せしむる能わざる場合には政府全体としては軍部側と別個之独自の所信に向て邁進する外なかるべし」

と述べ(3)、蒋政権否認論と新興政権樹立論を強めていた。しかし参謀本部は、政府とは反対に、和平による事変解決を望む立場から、日支関係再建の為の御前会議を開催し公正な国策を樹立すべきであると強硬に主張、斯くして昭和十三年一月十一日、昭和天皇が御臨席された御前会議にて「支那事変処理根本方針」が決定された。

 参謀本部が陸海軍外務の三省と協議し定めた根本方針は、十二月二十一日の閣議決定を和平条件の基礎としつつも、講和実現の場合には、我が国は、非武装地帯の設置、塘沽停戦、梅津何応欽、土肥原秦徳純および上海停戦の各協定を廃棄し、治外法権、租界、駐兵権など対支特殊権益の廃棄を考慮するのみならず、進んで支那の復興発展に寄与するとし、前文にて、

 「帝国不動の国是は、満洲国および支那と提携して東洋平和の枢軸を形成し之を核心として世界の平和に貢献するあり。今次の支那事変処理に関しては日支両国間過去一切の相剋を一掃し、両国国交を大乗的基礎の上に再建し、互いに主権領土を尊重しつつ渾然融和の実を挙げることが究極目的である」

と謳っていた。しかし政府側の要求により支那現中央政府が一月十五日迄に和平を求めて来ない場合は、

 「帝国は爾後之を相手とする事変解決に期待を掛けず、新興支那政権の成立を助長し之と両国国交調整を協定し更生新支那の建設に協力す。支那現中央政府に対しては帝国は之が潰滅を図り又は新興中央政権の傘下に収容せらるる如く施策す」

と決定されたのであった。

 二日後の十三日、中華民国外交部長の王寵恵はトラウトマンと会見し、

 「去る十二月二日、閣下は日本側提議による停戦条件を示され、それを基礎とし斡旋を申し出られた。当方はドイツの好意と、日本の和平希望とを了承し、同案を討議の基礎とする旨を約した。然るに十二月二十六日にいたり、日本は事情の変化に伴うという理由で同案の改変されたものを提起した。その改変案は従来のものに比して範囲が広きに過ぎることを知った。それ故に、国民政府は十分に検討して確たる返答をなすため新条件の性質と内容を詳報されんことを望む」

と申し入れ、日本が細目条件を公式に通知するよう要請した。トラウトマンは書面を一読した後、

 「この通知は回答なのか。もし日本側がこれを言い逃れ回答とみなしたら、どうするか」

と尋ねると、王寵恵は、

 「我々は四条件の内容を知りたいのだ。もし我々が言い逃れをするつもりなら、あらためて内容や性質は尋ねない」

と明答した(4)。

 だが十四日、ディルクセンからこの支那側回答に接した近衛内閣は、蒋介石には和平実現の誠意がなく、支那側回答は遷延策にすぎない、と判断、蒋介石との和平交渉を打ち切ることを閣議決定し、十五日、大本営政府連絡会議において陸海軍統帥部に同意を求めたところ、両者の間で大激論が交わされることになった。

(1)【現代史資料日中戦争2】四十九頁。
 南京陥落前の陸軍省部内における蒋政権否認の急先鋒は、陸軍省軍務課と参謀本部支那課であり、軍務課は早くも昭和十二年十月三十日に、「事変長期に亘る場合の処理要綱案」を作成し、「南京政府にして遂に反省せず交渉の対象とすべからざるに於ては一地方の共産政権と見なしあらゆる方法を以て之が壊滅を計ると共に一方北支政権を拡大強化し更生新支那の中央政府たらしむる如く指導する」という方針を掲げていた(堀場【支那事変戦争指導史】一一六頁。戸部良一【ピースフィーラー】八十、一四七頁)。
(2)サンケイ新聞社【蒋介石秘録12】一〇一~一〇二頁。
(3)【現代史資料日中戦争2】一〇四頁。
(4)【蒋介石秘録12】一〇六頁。


3、昭和十三年一月十五日大本営政府連絡会議

 大本営政府連絡会議は、午前九時三十分すぎから首相官邸で開かれたが、参謀次長の多田駿中将は、参謀本部を出発する時、決然たる口調で言明した。

 「本日の会議は必ず決定を保留せしむべし。」

 そして、この言葉通りに、会議での中将の奮闘はめざましかった。政府側は、既に「交渉打ち切り」を決定しているので、経緯を説明して陸海軍統帥部の同意を求めた。参謀総長の閑院宮載仁元帥は、支那側が条件細目の提示を要求しているのだから、それを知らせてやって期限付き回答を求めてはどうか、と述べた。多田中将は、支那側の口上書には交渉打ち切りは明言されていないではないか、と指摘して、

 「この回答文をもって脈なしと断定せず、脈あるように図るべきである。僅かの期日をあらそい、前途暗澹たる長期戦に移行するのはあまりに危険であり、承服できない」

と強調した。海軍側の軍令部総長の伏見宮博恭元帥と次長の古賀峰一中将も、参謀本部側に同調する意見を述べた。しかし政府側は、陸相の杉山元大将と海相の米内光政大将も、もはや交渉は無用である、と主張し続けた。午前十一時四十分、会議は昼食の為の休憩に入った。多田中将が参謀本部に帰ると、第二課長の河辺虎四郎大佐と戦争指導班の高嶋辰彦中佐、堀場一雄少佐らが、次長室を訪ねた。多田中将は、会議の模様と最後まで初志を固執する決意を語り、戦争指導班を安堵させた。 

 会議は、午後三時に再開されたが、閑院宮と伏見宮の両総長は出席しなかった。午前中の会議では、二人の皇族がいたので幾分遠慮もあったらしいが、皇族不在となると、政府側の論調は俄然激化した。多田中将が、午前中と同様に、「即断」は避けて右か左かの確答を支那側から引き出すべきだ、と主張すると、

杉山「期限まで返電無きは、和平の誠意無き証左なり。蒋介石を(交渉の)相手にせず、(蒋が)屈服するまで作戦すべし。」
広田「永き外交官生活の経験に照らし、支那側の応酬ぶりは和平解決の誠意なきこと明瞭なり。参謀次長は外務大臣を信用せざるか。」

 近衛文麿首相は、カン高い声で論戦に終止符をうつ形で発言した。

 「速やかに和平交渉を打ち切り、我が態度を明瞭ならしむを要す。」

 しかし、それでも多田中将は自説をまげず、古賀中将も多田中将を支持する発言を行った。すると米内海相は、不満を露わにした表情で、その古賀中将の発言を制止して、

 「政府は外務大臣を信頼す。統帥部が外務大臣を信用せぬは、同時に政府不信任なり。政府は辞職の外なし」

と述べた。一説には、米内海相のこの時の発言は、「かくなる上は、参謀本部がやめるか、内閣がやめるか、どちらかだ」というものだった、といわれるが、いずれにせよ、辞職を口走ったことは間違いなく、途端に多田中将は、海相の無責任な言辞に反撥し、

 「明治大帝は朕に辞職なしと宣えり。国家重大の時期に政府の辞職云々は、何事ぞや」

と双眼を涙で潤ませて強調した。

 だが政府側は譲らず、このまま多田中将が和平交渉打ち切りに反対し続ければ内閣は総辞職せざるを得ない、との恫喝を込めた主張を継続した為に、多田中将は、参謀本部総務部長の中島鉄蔵少将、情報部長の本間雅晴少将、河辺虎四郎大佐と協議し、

 「蒋政権否認を本日の会議で決定するのは時期尚早であり、統帥部として同意は出来ない、しかし内閣倒壊の不利を認めて黙過し、敢えて反対は唱えない」

との結論に達した。この参謀本部の屈伏または譲歩を得て、午後七時三十分、大本営政府連絡会議は蒋介石との和平交渉打ち切りを可決したのであった。


4、暴走

 軍国主義とは「軍人による政治支配(Primacy of Soldiers over Politicians 政治家に対する軍人の優位)」を指す(1)。我が国は、大日本帝国憲法の施行以来、立憲議会制デモクラシー君主国であり、国民の代表機関である議会は予算協賛権(帝国憲法第六章)を行使して国政全般を支配し、国防計画を決定し、和戦の決をすら図り得る強大な権限を有しており、帝国陸海軍の軍事刑法の改定、国民が負う兵役義務の内容を定める兵役法の改定、我が国が軍拡と戦争を遂行するための軍事費の支出は、いずれも帝国議会の協賛(consent、承認、同意、承諾)を経なければならなかった(2)のだから、我が国において軍国主義は、公選議会から立法承認権と予算承認権を剥奪する憲法の抜本的改正が行われない限り、合法的に成立し得ない。

 児童用尋常小学校修身書第四期(一九三四~一九四一)巻六(昭和十四年二月二十八日発行)の第十五「国民の務(其の三)」は、帝国憲法下における我が国の立憲議会制デモクラシー(大衆参加政治、一般国民が国家権力に参加して国家を運営する政治制度)を次のように説明していた。

 「帝国議会は憲法の規定によって毎年召集され、我が国の法律や予算などを審議して、大政に協賛する大切な機関であります。議会で議決したことは、天皇の御裁可を経て公布されます。
 帝国議会は貴族院と衆議院から成り立っています。貴族院は皇族・華族の議員や勅任された議員で組織され、衆議院は選挙権をもっている国民が公選した議員で組織されています。
 我等は、帝国議会の議員を選挙し、或は其の議員に選挙されて、国の政治に参與することが出来ます。帝国議会の議決は国の盛衰に関係しますから、したがって其の議員の適否は、国家・国民の幸不幸となります。

 それで議員を選挙するには、候補者の中から、性行が立派であり、よい考えをもっている人を選んで投票しなければなりません。自分だけの利益を考えて投票し、又は他人に強いられて適任者と思わない人に投票してはなりません。又理由もないのに大切な選挙権を棄てて投票しないのは、選挙の趣旨にそむくものであります。
 帝国議会の議員に選ばれた者は、其の職責の重大なことを思い、かりそめにも私情に動かされず、利害にまどわされず、奉公の至誠を以て、其の職責を果たさなければなりません。

 府県には府県会があり、市や町村には市会・町村会があって、それぞれ府県や市町村のきまりを設けたり、予算を定めたりして地方の繁栄をはかって居ります。
 府県会・市会・町村会の議員の職責も、帝国議会の議員の職責と同じように大切ですから、これを選挙する人も、選挙されて議員となった人も、奉公の精神を以て其の務を尽くさなければなりません。」

 もっとも昭和十五年二月二日第七十五回帝国議会において、支那事変の拡大長期化に猛反対する質問演説を行い、政府に国益至上主義の貫徹と「聖戦」の早期終結を訴えたものの、朝日新聞社によって、

 「既に廟議決定し、確乎不動の策として確立した近衛三原則に対する苛烈なる批判と聖戦目的の追求を今頃持ち出すのは、時期も時期、場所も場所だけに不謹慎のそしりを免れない」

と非難され、社会大衆党(戦後社会党の前身)らによって「聖戦目的を侮辱した」として衆議院を除名された斉藤隆夫代議士(民政党)を除いて、帝国議会は朝日新聞社によって煽動された暴支膺懲世論に拘束されてしまい、国家・国民の幸福の為に和平を図ろうとはしなかったが…。

 南京陥落後のトラウトマン和平工作を巡り、和平交渉の打ち切りを強行する政府と日支和平の実現を焦る統帥部との激しい対立が示すように、支那事変の拡大長期化とは、軍人が政治を支配したのではなく、文民政治家が軍事政策を最終決定するシビリアンコントロールの結果なのである。

 そして十六日正午、全世界に向かって、我が国の文民政治家による独断暴走が発生した。それは悪名高き第一次近衛声明である。          

<帝国政府声明(昭和十三年一月十六日)>

 「帝国政府は南京攻略後なお支那国民政府の反省に最後の機会を与うるため今日におよべり。しかるに国民政府は帝国の真意を解せず、みだりに抗戦を策し、内人民塗炭の苦を察せず、外東亜全局の和平を顧みるところなし。よって帝国政府は、爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす。元より帝国が支那の領土及主権竝に在支列国の権益を尊重するの方針には毫もかわる所なし。今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し。政府は国民が此の重大なる任務遂行のため一層の発奮を冀望して止まず。」 

 二日後、近衛首相は更に補足声明として、

 「爾後国民政府を対手とせずと云うのは、同政府の否認よりも強い意味をもつものである。国際法でいえば、国民政府を否認するためには新政権を承認すればその目的を達成するのであるが、正式承認できる新政権ができていないので、とくに国際法上新例を開いて国民政府を否認し、これを抹殺するのである」

と断言し、二十二日の第七十三回帝国議会衆議院本会議においても、近衛声明の意味を問い質す川崎克代議士や、皇軍の占拠地域における処理方針を問い質す島田俊雄代議士に、

 「支那の蒋介石政府とは日支両国の国交調整についての交渉を一切やらない、将来はいかなることがありましても、蒋介石を対手とすることはない、対手としないのみならず、蒋政権を壊滅に導くべく軍事上その他あらゆる工作を現に為しつつあり、又将来も之を続けて参るのであります」

と答弁したのである(3)。

 およそ我が国が交戦中の敵国の政府を相手にしなければ、日中間に和平交渉も講和も永久に成立しない。この余りにも非常識な近衛声明には世界各国のみならず我が国の参謀本部も驚愕した。大本営政府連絡会議がトラウトマン和平工作の打ち切りを可決した直後、近衛内閣の強硬な方針に反発した和平派の参謀本部戦争指導班は、多田次長を翻意させ、参謀本部が蒋政権否認に不同意である、との趣旨を参謀総長から天皇に上奏するという非常手段に訴え、何としても連絡会議の決定を覆そうとしていた。しかし、

 「戦争指導当局は之に依り恐らく政府に対し再考の勅語あるか、或いは御前会議となるべしと予測せり。然るになんぞ知らん、翌一月十六日国民政府対手にせずの政府声明発出ならんとは。南京陥落前後を通じ平行線上を走れる和戦両論は、此に不幸なる帰結に到達し、一挙解決の機は遂に失わるるに至れり」

と落胆し(4)、支那戦線の我が軍将兵からは、

 「今迄戦をして来て居るのに今此処でこんな声明を出して作戦目標を捨ててしまったならば将来何を目標として戦をするんだ」

と困惑する声が上がった。第一次近衛声明が日本の国内外に大きな波紋を広げる中で、一月十九日付の読売新聞夕刊に掲載された「長期戦の覚悟」と題する三木清の論文が注目に値する。彼は、

 「いよいよ長期戦の覚悟を固めねばならぬ場合となった。それは勿論、新しいことではなく、事変の当初から予想されていたことである。今改めて悲壮な気持ちになることではない 。長期戦の覚悟として必要なのは強靱性である。長期戦となればいきおい局面は複雑化し、思いがけない事が起こって来る可能性もふえるわけであるが、これに処して行くには強靱な精神が必要である」

と述べている。三木は山田盛太郎、中野重治と共に共産党シンパ事件(昭和五年五月二十日)で検挙された経験を持ち、暴力革命を信奉した過激な共産主義者であり、昭和二十年三月、共産主義者の高倉テルを庇護して再検挙され獄中死を遂げた。以下は戦前の我が国内外の共産主義運動について簡潔な説明である。

(1)伊藤正徳【軍閥興亡史2】一二七頁。
(2)明治二十二年六月二十八日に英吉利法律学校(現中央大学)から刊行された伊東巳代治の英訳憲法義解では、帝国憲法第五条「天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行う」は「The Emperor exercises the legislative power with the consent of the Imperial Diet.」と翻訳されている。
(3)官報号外昭和十三年一月二十三日衆議院議事速記録第三号 近衛国務大臣の答弁。
(4)堀場【支那事変戦争指導史】一三一~一三二頁。


5、日本共産党

 日本共産党は、大正十一年(一九二二)七月十五日に結成され、同年十一月、コミンテルン(国際共産党、実態はソ連共産党国際部)の第四回大会において、その指揮統制下に彼等の目的である世界共産主義社会の実現の為、日本において革命を遂行し我が国体を変革し私有財産制度を廃止しプロレタリア(共産党)独裁を樹立し、この過程を通じて我が国に共産主義社会を実現する結社「コミンテルン日本支部」として正式に認められた。

 当時の我が国には、これを取り締まる特別の法律はなかったが、明治三十三年(一九〇〇)三月に公布された治安警察法第二十八条「秘密結社を組織し又は秘密の結社に加入したる者は六月以上一年以下の「軽禁錮」に処す」という規程に基づき、大正十二年六月、委員長堺利彦をはじめ山川均、荒畑勝三、徳田球一ら百余名が検挙され、内二十九名が起訴された。

 検挙後間もない九月一日、関東大震災が起こったが、「日本の客観的条件下では共産党を結成したこと自体が誤りであった」と主張する山川均、赤松克麿などに代表される解党派が大勢を占め、共産党は大正十三年二月に党の解体を決議してしまい、ロシア暴力革命(一九一七年)に影響を受けた我が国の共産主義運動は、社会的にまだ大きな影響力や指導力を有していなかった。
 ところが六月、モスクワで開かれたコミンテルン第五回大会は、日本問題委員会において日本共産党解党に反対し「即時党再建」を決議した。これに応じて大正十四年一月、徳田球一、佐野学ら数名が上海にあるコミンテルン極東部のボロチンスキーを訪ね、彼の指示により党再建の基本方針を決定した。

 そして大正十五年十二月四日(同年十二月二十五日大正天皇崩御、摂政裕仁親王践祚、昭和と改元)、山形県五色温泉において、日本共産党再組織協議会が開かれ、昭和二年(一九二七)一月、渡辺政之輔、徳田球一、福本和夫、佐野文夫、河合悦二、中尾勝男ら党幹部が大挙してモスクワを訪ね、十一月、日本にコミンテルン二十七年テーゼ(日本問題に関する決議)を持ち帰ったのである。

 この二十七年テーゼは、国際資本主義の現段階をマルクスの言う資本主義最後の段階たる金融独占支配の崩壊過程にあると規定し、片岡直温蔵相の失言に端を発した昭和金融恐慌の渦中にあった日本資本主義も崩壊前夜にあると認識判断し、日本資本主義の最後の支柱たる天皇制の打倒をスローガンとして、ブルジョア政府を転覆し、プロレタリア独裁政権を樹立せよ、と日本共産党に命じたのである。

 これに基づき日本共産党は、勤労階級の政党として一番左にあった「労働農民党」及び最左翼の全国的労働組合組織として注目されていた「日本労働組合評議会」並びに青年層の戦闘的左翼団体として結成された「全日本無産青年同盟」の三団体を指揮下に入れ、猛烈な非合法暴力革命闘争を展開し始めた。

 この情勢を密かに偵察していた内務省は、我が国の独立主権と憲法秩序すなわち天皇を国の元首として戴く立憲君主制自由主義議会制デモクラシーをソ連および日本共産党から防衛する為に、加藤高明内閣(自由主義の護憲三派連合)と帝国議会とによって普通選挙法と同時に制定された治安維持法に基づき、普通選挙第一回目の衆議院総選挙から一ヶ月後の昭和三年三月十五日未明を期して、一斉に共産党関係者の大検挙を敢行した。

<治安維持法(大正十四年四月十二日施行、昭和三年六月二十九日緊急勅令により一部改正)>

第一条 国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りて之に加入したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す 2 前項の未遂罪は之を罰す
第二条 前条第一項の目的を以て其の目的たる事項の実行に関し協議を為したる者は七年以下の懲役又は禁錮に処す
第三条 第一条第一項の目的を以て其の目的たる事項の実行を煽動したる者は七年以下の懲役又は禁錮に処す
第四条 第一条第一項の目的を以て騒擾、暴行其の他生命、身体又は財産に害を加うべき犯罪を煽動したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す
第五条 第一条第一項及前三条の罪を犯さしむることを目的として金品其の他の財産上の利益を供与し又は其の申込若は約束を為したる者は五年以下の懲役又は禁錮に処す情を知りて供与を受け又は其の要求若は約束を為したる者亦同じ

 国体(prescriptive Constitution)とは、悠久の歴史の中で億兆の先人の試行錯誤と取捨選択とによって自然発生的に形成された国の根本規範にして、国政の成り立ちを定める由緒ある慣習法であり、フランス革命のイギリスへの波及を阻止した偉大な保守主義の父エドマンド・バークのいう「基礎的政治の原則」である。我が国の国体(Fundamental Political Principle of Japan)は万世一系の天皇が国の元首として統治権を総攬し給うことであり、これが大日本帝国憲法の改正限界(少なくとも憲法第一条から第四条までの国体規定)を構成し、我が国の国体を変革する憲法の改廃は、日本国固有の国体を成文化し強化した帝国憲法の第七十三条違反であった(1)。
 当時の日本共産党は、憲法の根拠にして憲法の基礎である国体の破壊を目論んだ違憲の暴力団体であり、尚且つあらゆる自由の根幹である私有財産制度を否定する違憲の左翼全体主義者であり、コミンテルンとその日本支部に対して我が国の「戦う自由デモクラシー」が迎撃戦を開始したのである。

 これが所謂三・一五事件であるが、この一斉検挙によって起訴収容された者は五百三十名(治安維持法違反、共産党加入者)に上り、取り調べを受けた者は五千数百名に及び、その中には東京、京都帝大(両大学はマルキストの巣窟、母体であった)を始め、大学、高専の学生二千数百名がいた。

 この事件は、新聞紙上に大々的に報道され、街には号外が飛び、社会に一大衝撃を与えた。政治家は狼狽し、資本家は戦慄し、思想界は動揺し、皇室を素朴に崇拝する一般国民は、皇統を覆滅してソ連の支配下にある共産党の独裁を企てる者が我が国に数百数千名も存在していたことに驚愕し、「労働農民党」「日本労働組合評議会」「全日本無産青年同盟」の三団体は内務大臣により結社禁止処分を受けた。

 だが三・一五事件で壊滅したかに見えた日本共産党は、たちまち再建闘争を開始し、一年を出ずして全国的な組織を盛り返して来た。そこで内務省は昭和四年四月十六日、次いで翌年二月二十四日、共産党関係者を一斉検挙した。その後も内務省と非合法暴力革命を目論む共産党の死闘は繰り返されていったが、昭和十年三月、共産党は組織的にほぼ消滅した。

 その理由は、共産党員が、ピストル、日本刀、竹槍などで武装し、メーデー会場に突入し警官隊と衝突、多数の負傷者を出した川崎メーデー武装事件(昭和五年五月一日)、同じく川崎第百銀行大森支店を襲撃し資金を強奪した銀行ギャング事件(昭和七年十月六日)や、宮本顕治ら党幹部が労働者出身の小畑達夫を警視庁のスパイと疑い虐殺したリンチ共産党事件(昭和八年十二月二十三日)など陰惨なテロを繰り返し、天皇制打倒を標榜する共産党は、皇室を素朴に崇拝する一般大衆の支持を全く得られなかったこと、そして治安維持法による取締であるが、この治安維持法の運用には重大な欠陥が存在した。

 加藤高明内閣の小川平吉法相は、治安維持法の制定にあたり司法官会議席上において、

 「無政府主義者もしくは共産主義の如き我が国体民情と絶対に相容れず、また国民経済生活の根幹を破壊せむとする暴戻なる思想を鼓吹してその実行を謀るが如きは断じて許容すべからざる所なり、近時我が国においても一般道徳の衰微と思想の動揺とに乗じ、この種の運動各地に蔓延し単に思想の研究に止まらず進んで結社を組織しあるいはその実行を協議し、又は犯罪を煽動する者あるに至れるは、まことに国家の深憂大患なりというべし。   

 抑も本法は言論出版集会結社の自由と相関連すること極めて密接なるものあり、もし一度その適用を誤らむか、思想の研究を妨害し人心の不安を招来するの虞なしとせず、各位は平素善く思想界の情勢を精察し、本法を適用するに当たりては特に周匝慎密かの不逞の徒輩に対しては、一歩も仮借する所なく以て国害を未然に防止すると同時に、細心の注意を払いて事件を審究し、決して濫用の誹りを受けざらむことを期せざるべからず」

と訓示していたにも拘わらず(2)、司法省、特高警察、内務省関係者の大半は、共産主義者を取り締まるに当たり、彼等が国体の変革を目的とした場合を重視し、私有財産制度の否認を目的とした場合を軽視していた上に、ソ連や共産主義者の謀略活動を充分に研究していなかった為、天皇制打倒の主張をとりあえず訂正した共産主義者を転向者と判定し、彼等を釈放するばかりか、政府、軍部、民間の調査研究部門への就職をすら斡旋していたのである(3)。

 その為、共産党の壊滅すなわち共産主義者の消滅とはならず、彼等の多くが天皇尊重を偽装して治安維持法から逃れていた上(治安維持法に基づく被逮捕者約六万、被起訴者約六千、被死刑者0)、コミンテルンが、最も危険な戦争放火者である日独伊ファシズム―コミンテルンの定義に従えば、金融資本の最も反動的、排外主義的、帝国主義的な分子の公然たるテロル独裁の樹立―から「ソ連の平和」を擁護する為、各国の共産主義者に、

1、一国的な規模でも、国際的な規模でも、あらゆる手段を用いて社会民主党その他との統一戦線の樹立につとめること。
2、従来の画一的国際主義を廃し、各国の具体的な条件や特殊性に即した戦術を採用すること。
3、各国の合法的存在の独占権を持っているあらゆる大衆的ファシスト組織に加入し、どんなに瑣末なものでも、そういう組織の中で活動する合法的および半合法的可能性を利用して、ファシズムの大衆的基盤を分解させること。

等を命じた三十五年テーゼ(コミンテルン第七回大会決議、反ファッショ人民戦線戦術、一九三五年七~八月)に従い(4)、政府軍部民間内部に潜入していた。      

 特に三木が所属していた近衛文麿の最高政治幕僚組織「昭和研究会」や新聞社、満鉄等は転向(天皇尊重偽装)左翼の巣窟であり、彼等の中心的人物が、昭和七年二月上海より日本に帰還し昭和十二年四月から昭和研究会に参加した朝日新聞社出身のソ連のスパイ、尾崎秀実であった(5)。

(1)伊藤博文【憲法義解】帝国憲法第七十三条解説。金子堅太郎【憲法制定と欧米人の評論】八十五~九十七頁「国体は変換せぬ」 
(2)【小川平吉関係文書1】八十二頁「小川法相訓示」
(3)三田村武夫【戦争と共産主義】一三六頁。
 帝政ロシアの裁判所は、一八二五年から一九一七年までの九十二年間に政治の分野に関して裁判すべき事件を通して、六千三百二十一人に死刑判決を下し、実際に三千九百三十二人が処刑された。これに対して、レーニンのロシア共産党は一九一八年九月五日に「赤色テロルについて」という政令を布告、階級の敵に対するテロルを合法化し、それから僅か二ヶ月の間に約一万から一万五千人の政治犯が厳格な法的手続きを経ることなく共産党の秘密警察チェーカによって虐殺された。マルクス・レーニン主義は人類史上もっとも残虐非道な政治経済思想である(ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ベルト【共産主義黒書犯罪・テロル・抑圧<ソ連編>】八十七頁)。
(4)【コミンテルン資料集6】一六五頁。
(5)昭和研究会には十二の部会があり、尾崎秀実は東亜政治研究会の責任者であり、三木清は昭和研究会常任委員、文化問題研究会委員、政治動向研究会委員であった(昭和同人会編【昭和研究会】巻末付属資料三十七~三十九頁、昭和研究会名簿昭和十四年二月現在)。


6、満洲事変とゾルゲ機関

 日本労働組合評議会関東出版労働組合に所属していた尾崎が三・一五事件の検挙から奇跡的に逃れ、朝日新聞社上海支局に転勤した一九二八年十一月、スターリンの率いるソ連共産党は、農業の国有集団化による農民の徹底搾取と、レーニンによって創設された秘密警察、密告網、強制収容所、反政府運動者に対するテロの奨励から成る「監獄国家制度」とによって、資金と囚人労働力とを確保し、第一次五ヶ年計画を開始していた。

 これは、一党独裁・計画経済(これが全体主義である)―共産党が国家の富および権力を独占私物化し、労働条件、地代、公定価格、資源配分を恣意的に操作して人民を徹底的に搾取し、物資配給の停止によって反政府的人間を容易に餓死させることができる全般的奴隷制―による工業力の拡張であり、一九三二年から翌年にかけてソ連で約六百万人以上の農民と労働者を餓死に至らしめた軍備の増強であった。

 一九二九年七月、張学良(二八年六月、蒋介石率いる国民革命軍の北伐に敗れ、満洲の奉天に撤退する途中に、関東軍高級参謀河本大作大佐によって爆殺された張作霖の息子。同年十二月に満洲五色旗を国民党の青天白日旗に易え、南京の国民政府への帰順を表明した。これを満洲易幟という)が、ハルピンのソ連領事館捜索で共産革命計画を押収したことを契機として、シベリア鉄道とウラジオストークを繋ぐソ連の東支鉄道の実力回収に踏み切った。これに対し、十一月、極東ソ連軍が満洲に侵攻、張学良の東北軍を撃破し、東支鉄道を奪還した(一九三五年、満洲国に売却)。

 これが不戦条約の締結後に起きた最初の戦争である。米英仏伊の諸国は、不戦条約の義務につきソ連の注意を喚起したが、ソ連は、満洲侵攻は自衛行動であると反論し、第三国の干渉を拒絶した。ソ連は、軍事侵攻によって支那側に与えた勢威を利用し、北満において白系ロシア人の駆逐、反共機関の撲滅を策しつつ東支鉄道を牙城として赤化機関の拡充に腐心し、翌年には世界初の全金属・単葉四発式重爆撃機TB-3を完成させた。

 さらに三一年四月十六日、日本の清津警察署員が挙動不審な一名の朝鮮人と彼の五名の仲間を逮捕し取り調べたところ、彼等はいずれもソ連共産党員、候補党員、ウラジオ赤色労働会員で、ウラジオGPU(ソ連共産党秘密警察チェーカの後身)総長ナチヤリニツクより鴨緑江、大同江、清川江その他の鉄橋を爆破し日本軍の後方および朝鮮の治安を攪乱するように命令され多数の爆薬を携帯しており、ソ連は赤色朝鮮人支那人を操り我が国に対する不正規戦を画策していたのである(1)。

 もし軍備拡張を完成したソ連が満洲を制圧し拠点化する場合、ソ連は満洲からの南進圧力に対して脆弱な朝鮮半島を征服し、朝鮮と樺太から日本列島を挟撃し西太平洋を制し得るばかりか、満洲と外蒙古(一九一一年支那が中華民国となると同時に外蒙古は独立を宣言し、且つ満人皇帝の下に王国制度が支那に復活したならば蒙古は何時でも自発的にその治下に還ると宣言したが、二一年にソ連軍に侵攻され赤化、二四年にソ連の衛星国家となる)から内蒙古と北支を挟撃し、中国共産党を尖兵として支那大陸内部に侵入することが可能になる。

 逆に我が国が満洲を制圧し拠点化する場合、我が国は満洲の資源と興安嶺・黒龍江の地形とを利用して強力な防衛線を構築し、以上のソ連の膨張を抑止し、国策の命ずる所に依り、支那本土あるいは南洋に向い国家の発展を企図し得るばかりか、ソ連の極東攻略の拠点であるウラジオストーク(東方を征服せよ)を含む沿海州を満洲、朝鮮半島、日本本土、樺太から包囲制圧することが可能になる。この日ソ間の軍事的緊張関係が続く限り、ソ連は沿海州の防衛に大きな戦力を割かざるを得ず、欧州諸国に対するソ連の軍事的脅威が減少するのである。当時の満洲は、極東を制し、欧州の安全保障に影響を及ぼす戦略要衝であった。故に河本大佐の後任として満洲に赴任し、「陸大創設以来かつてない優秀な頭脳の持つ将校」と評された関東軍作戦主任参謀の石原莞爾中佐は、

 「日本政府および軍中央は、徒にソ連との衝突を恐れているが、現在、ソ連は極東輸送力、とくにその補給力は貧弱で、その兵力の一部を極東に使用しているに過ぎない。もし日本軍が進攻せば、ザバイカル以東を放棄する決意を有しているものと推定せられる。またアメリカは極東において、日本進攻への根拠地がなく、日本攻撃の至難なことは世界軍事界の等しく認めるところである。とくにアメリカ海軍はいわゆる均整を欠き、日本海軍の実質的比率は決して我に不利ではない。さればアメリカは渡洋作戦に自信がなく、武力の伴わない経済封鎖によって日本を屈伏させようとするが如きは空論に過ぎない」

という国際情況判断の下に(2)、「われ日本の柱とならん、眼目とならん、われ日本の大船とならん」の日蓮精神をもって、柳条湖事件を惹起、満洲の実情に疎い我が国政府軍部の不拡大方針を敢然と無視し、彼等に掣肘を加えられていた関東軍司令官の本庄繁中将以下関東軍将兵一万余を駆り、兵団の機動力を最大限に発揮させる戦力集中・各個撃破作戦を指導し、正規不正規兵あわせて約二十五万の張学良軍閥を打ち破り、満洲国の建国を強行し、政府と陸軍中央にこれを既成事実として追認させた。そして昭和七年六月十四日、帝国議会衆議院は「満洲国承認は国民一致の輿論」として満場一致を以て満洲国承認決議案(政友会と民政党による共同提案)を可決したのである。

 石原莞爾の戦略は、大陸において戦争によって戦力を養い「陸を以て海を制する」というナポレオンの対英封鎖戦略にならい、満洲を「我が勢力下に置き対外長期作戦(持久戦争)のため資源その他に関し確固たる策源地」としてソ連の極東攻略を阻止しアメリカに対峙する構想であり、ソ連のスパイたるリヒャルト・ゾルゲをして、

 「一九三一年の秋に起こった満洲事変で、極東に於ける日本の地位は一変した。満洲の支配権を獲得すると、日本は東アジアで益々活発な役割を演じてみようという気になった。なにしろ満洲を征服したことであるから、そうした役割を強力且つ独占的に行おうとする日本の決意が強められるようになったのは、見やすい道理であった。ソ連はこれまで国防上とかく等閑に付しがちであった広大な辺境地方で、直接日本と相対することとなった。言い換えるなら、ソ連にとって容易ならざる新事態が起こったのだ」

と戦慄せしめたのである(3)。満洲事変後、関東軍に機先を制されたソ連共産党は、対ソ攻守地理戦力を高めた日本からソ連を防衛する為、昭和六年末から翌七年にかけて日本政府に不可侵条約締結を求める一方、尾崎秀実、ゾルゲらを日本に潜入させ対日諜報謀略戦を開始すると共に、軍備の拡張を加速させ、昭和十一年末には、日本の陸軍兵力は二十五万、関東軍は五ヶ師団と航空機二百三十機を保有していたのに対して、ソ連の陸軍兵力は百六十万に達し、極東ソ連軍は十六ヶ師団と航空機千二百機を保有するに至った。この日ソ間の軍事的均衡の完全破綻が、支那の抗日気運を煽動し支那事変を勃発させる一因となったのである。

 ソ連に最も警戒された石原莞爾は、日本の敗戦後の昭和二十一年に「東亜連盟は満洲建国に端を発せり。若し建国前後に於ける我らが心境の開陳を許さるるならば次の如し」と述懐した(4)。

 「満洲事変前満洲に於ける日支の紛争は日に切迫し日本が政治的軍事的に全面的退却をなす以外平和的解決の道なしと判断せられたり。日本の退却後ソ連の南下に対し支那が独力防衛の力なきは明白にして日本の退却は更に新しき東亜の不安を招来せん。

 満洲事変を契機として実力を以て満洲を支那より分離する行動は重大なる暴挙なるは明なるも反面これにより前項の不安を一掃すると共に満洲国の建設に際し日本が深き反省の下に本来の態度を一変し、満洲に於ける既得のあらゆる権益を満洲国に譲渡し、各民族は満洲国に於て全く平等の待遇を受け民族協和の実を挙げるに於ては却て遠からず支那の理解を得て多年に亘るお互の不信を一掃し得べきを信ぜり。

 民族協和の理想は在満支那人中にも強き共鳴を以て迎えたる人多かりしも彼等は日支両国の和解なくしては安じて建国に協力し難しとせるは当然なり。依て日鮮支各民族の同志が研究協議の結果民族協和の理解を押し進めて道義による東亜連盟を結成すべしとの結論に達せり。これがため支那が満洲建国を認むるならば日本は支那に対する凡ての権益を返還すべきものとせり。即ち日本は治外法権の撤廃、租界の返還等は勿論支那より完全に撤兵し支那の完全なる独立に協力せんとするものなり。東亜連盟の思想は満洲国協和会に採用せられ昭和八年三月正式に声明せられたり。

 満洲事変勃発後一年ならずして関東軍の責任者は全部転出せしめられ満洲国は右方針と全く反対の日本独占の方向に急変し以後建国の同志の努力により時に改善の希望を与えたることありしも遂に大勢を挽回する能わずして今次世界大戦の導火線となれり。
 我等は全世界に向い衷心より自己の不明を陳謝し、謹んで全責任を負わんと欲するものなり。」 

(1)【東京裁判却下未提出弁護側資料3】一八四~一九一頁「昭和七年十二月外務省亜細亜局、支那及満洲に於ける共産運動概況」
(2)横山臣平【秘録石原莞爾】一五一頁。
(3)【現代史資料ゾルゲ事件1】一六六頁。
(4)【石原莞爾資料国防論策編】五〇七頁。


7、転向声明

 昭和八年(一九三三)五月三十一日、日支両軍間に塘沽停戦協定が成立し、満洲国と支那の境界が確定し、柳条湖事件(昭和六年九月十八日)に端を発し、千回を超える戦闘が行われた満洲事変は終結した。

 それから一週間後、獄中にあった日本共産党の最高幹部である佐野学と鍋山貞親が転向声明を発して共産党から除名された。中華民国の執拗な排日運動と之に対する幣原喜重郎外相の軟弱な協調外交に不満を抱いていた我が国の国民は、柳条湖事件から熱河作戦(昭和八年二月二十三日~五月三十一日、熱河省の帰属を巡り日満両軍と中華民国軍が衝突)まで、日本の約三倍の総面積と約三千万の人口を有する広大な満洲を制圧した我が関東軍の「寡を以て衆を制する」「疾風迅雷枯れ葉を巻く」が如き快進撃に昂奮し感激した。

 満洲事変を契機として、一九二〇年代に流行したエロ・グロ・ナンセンス嗜好や反軍主義から一転して愛国主義や親軍感情を高める国民の熱狂が(1)、佐野と鍋山をして、天皇制打倒のスローガンが国民に受容される可能性はあまりにも少ないことを痛感せしめ、二人に転向を決断させたのであった。

 佐野と鍋山は、六月八日に発表した「共同被告同志に告ぐる書」の中で、世界革命の為には、自国を犠牲にすることも恐れないという従来のプロレタリア国際主義を批判し、天皇制打倒のスローガンは、日本の天皇制とロシアのツァーリズムを混同したコミンテルンの誤りから生まれたもので、このスローガンの採用は、労働者の気持ちを離反させ、君主を防身の楯とするブルジョア及び地主を喜ばせることになったと指摘し、ソ連の現状を見ても、世界社会主義は、世界革命と世界国家という形で生まれるのではなく、それぞれの国の労働者階級がそれぞれの国の特殊な条件に応じた形で、まず一国社会主義を実現することによって成立するだろうと予見した。

 さらに彼等は、コミンテルンは日本共産党に「機械的無内容」なる敗戦主義を課しているが、それもまた、「不可避に迫る戦争に勝たざるべからずと決意しこれを必然に国内改革に結合せんとしている」大衆の胸に訴え得ないだけでなく、

 「戦争に一般的に反対する小ブルジョア的非戦論や平和主義は、我々のとるべき態度ではない。我々が戦争に参加すると反対するとはその戦争が進歩的たると否とによって決定される。ソ連並びに支那ソビエト政府への戦争は反動戦争であるから断固として反対するが、支那国民党軍閥に対する戦争は客観的にはむしろ進歩的意義をもっている。また現在の国際情勢の下において米国との戦争の場合、それは相互の帝国主義戦争から日本側の国民的解放戦争に急速に転化し得る。更に太平洋における世界戦争は後進アジアの勤労人民を欧米資本の抑圧から解放する世界史的進歩戦争に転化しうる」

と述べて日米戦を予言し、「我々は日本、朝鮮、台湾のみならず、満洲、支那本部を含んだ一個の巨大な社会主義国家の成立をめざす」と述べた(2)。佐野学、鍋山貞親は以上の主張を実現するため転向し、二年後、コミンテルンは佐野学らに批判された方針を大転換し、反ファッショ人民戦線戦術を発表したのであった。

 戦時中、憲兵隊を監督する陸軍省兵務課長の職にあり、軍人の思想的傾向に対し常に注意していたという田中隆吉の戦後の回想によれば、二・二六事件以降、陸軍中枢を支配していった統制派は、彼等の主張する「国防国家の建設」や「経済機構の変革」の実行に当っては性急なることを極力避けようとした石原莞爾や、事変拡大に猛反対する石原を支持する多田駿中将らを満洲組と名付けて冷笑し、目の仇としていたという。

 世界の大勢と支那の実力、日本の国力の限度を知り尽くしていた石原等のあらゆる不拡大早期和平努力にも拘わらず、支那事変が統制派の希望する如く拡大長期化した理由として、田中隆吉が挙げた軍部の内情は、統制派が、事変の発展と永続は必然の結果として国防兵力の増強を来し、これに伴う軍用資材需要の増加はまた国内の経済機構に計画性をもたらすものであるから、手に唾せずして彼等の理念である国防国家建設と国内経済機構の変革を行い得る、と確信し、戦争の不拡大とその急速なる解決に反対したということであった。田中は、

 「日中戦争の中途、武藤章氏が軍務局長となるや、左翼の転向者(これを私は転向右翼と名付けた)が、彼の周囲にブレーンとして参加した。陸軍省の部局に転向共産主義者が招集将校として起用されたのはこの頃である。統制派政治軍人の理念はこれがためにさらに飛躍した。すなわち大東亜共栄圏の理念である。この理念はコミンテルンの被圧迫民族解放の理念と表裏一体のものである。転向右翼との握手により、統制派の国防国家建設の理念から大東亜共栄圏建設の理念へと発展したことは、やがて三国同盟の締結となり、大政翼賛会の創設となり更に翼政会の出現となり、我日本を完全なる全体主義国家に変貌せしめた。しかも太平洋戦争の勃発は、憲法を無視する推薦選挙の暴挙を生み、国民から言論結社の自由を奪い、ここに世界史に稀にみる軍部独裁の政治体制を確立したのである。

 この政治体制は全く陸軍が転向右翼の戦術に乗じられたものでなくて何であろう。統制派の政治軍人が軍人の本分を忘れ、濫りに政治に関与し、国民に号令しつつあるとき、私のいわゆる転向右翼はすでに統制派の内部に巣喰い、彼ら転向右翼が目指す祖国敗戦の方途を画策しつつあった。政治にも思想にもまた経済にもほとんど無知な軍人が、サーベルの威力により、その付け焼刃的理念を政治行動に移して強行し、自己陶酔に耽りつつあったとき、巧妙にして精緻なるこの種の策謀に乗ぜられたのは当然の帰結である。(中略)

 私の見るところでは、この転向右翼が軍人に及ぼす害毒は観念右翼よりさらにひどかった。なんとなれば前者は頭脳が緻密であり、その理念は巧妙で、国家革新を叫ぶもその具体的方案に無知なる軍人に対しては異常なる影響と感激を与えるからである。
 転向右翼は日本革命の手段として戦争を是認し、これをアジアの弱小民族解放の線に沿わしめ、日本と英米との衝突を激発せしめる戦術を考えていた。この戦術をとっていたことは、鍋山貞親氏の言明も裏付けている」

と回顧し、陸軍統制派の背後に転向右翼-左翼の転向者の暗躍があったことを指摘した(3)。それでは統制派の希望通り拡大長期化の一途をたどった支那事変の最中に、田中が指摘したような我が国の共産主義者による戦争激発謀略活動は本当に実在していたのであろうか?

(1)昭和七年十二月九日、東京朝日を始め日本の新聞および通信社合計百三十二社が、わざわざ協同して満洲国擁護宣言を発表した(【東京裁判却下未提出弁護側資料2】三五四頁)。        
 日本のマスコミは満洲事変を閉塞した時代の突破口として歓迎する国民に迎合したのである。当時の日本国民が如何に熱狂し満洲国の建国に感激していたか窺えよう。
(2)伊藤隆【近衛新体制】二十五頁。
(3)田中隆吉【日本軍閥暗闘史】九十~九十三、一一〇頁。


8、支那問題の権威

 第二次世界大戦後の日本国では、尾崎秀実の諜報活動だけが強調されがちであるが、尾崎はソ連の利益に奉仕するために自分の立場に伴う影響力を行使して我が国の政府の政策および世論を操作し誘導する工作員でもあり大衆煽動家であった。近衛文麿の最高政治幕僚として或いは「進歩的な支那問題の権威」として政界言論界の重鎮を為した尾崎が発表した多数の戦時論文は、尾崎秀実著作集全五巻(勁草書房)に収録されており、尾崎が所属したゾルゲ機関の謀略活動、近衛内閣の軍事外交内政の真の目的、さらに近衛の正体まで、余す処なく示唆しているばかりか、当時の支那戦線の戦況や、我が国軍部の戦略構想、国民感情をも克明に伝える貴重な第一次史料である。以下の戦時論文は尾崎秀実の中央公論昭和十三年六月号「長期戦下の諸問題」の抜粋である(1)。

 「五月の青空の下に歴史的な徐州大会戦が展開されつつある。支那軍四十万がもしも完全に撃破され潰滅するようなことになれば、或いは大会戦としては最後のものとなるかもしれない。現に日本側としては充分かくの如き期待をもって慎重に行動が進められたものである。

 我が国の事情通方面ではこの徐州の結末に多大の期待を置き、これをもって今度こそ支那側の抵抗力に最後の鉄槌を下すものであり、支那側の屈服は最早期して待つべきのみであるとの確信を抱きつつあるものが多いのである。
 しかしながら一方に於ては、一般に従来の経験に鑑みて戦闘の効果に直ちに政治的な効果を期待することは困難であるとなすものが少なくなく徐州戦の結果についてなお完全な信頼を持つに至っていないようである。

 率直なる印象を述べるならば日本についての最大なる問題は現下の日支関係について正確なる認識を一般が持っていないということに尽きる。
 『上海をとれば支那が参るであろう』とか、『南京が陥ちれば勝負は決ったのである』とかいうことが期待をもって語られたのであった。日本国民の多くはこれだけやっつければもう敵が参るであろう。あれだけやっつけたからもうやがて膝を屈して来るであろう、というように考えて来たのである。『もうやがておみやげを持って支那から我々の兄弟が凱旋して来るに違いない』という胸算用が常に行われていたように見うけられるのである。これはひとり一般の民衆ばかりではない、責任ある指導的地位にあるものも、支那の事情に通じるものの中でも一応考えていたものと考えてよいのであろう。

 ところが事態がそのように展開しなかったのと、時期の経つにつれて国内的にいろいろの困難が加わるのと相まって確かに一部に弱気らしい見解(註、講和論)が生まれつつあるのではなかろうか。

 我々は初めの虫のいい期待を排すると共にこの種の弱気もまた有害にして無意味なものとして斥けたいのである。我々は事変の初期に於ては、この事件の持つ重大性を予知して、両国のために速なる解決と和平の手段を発見すべきことをひそかに希うたのであるが、その後事件が現在の如き決定的な、完全なる規模に展開を見た以上、もはや中途半端な解決法というものが断じて許されないのであって、唯一の道は支那に勝つという以外は無いのである。面をふることなき全精力的な支那との闘争、これ以外に血路は断じてないのである。 

 退却も方向転換も不可能である。ただまっしぐらに全力を挙げてつき進んで解決をはかる以外に道はないのである。(但しこれは必ずしも軍事行動のみをしゃにむに遂行すべしというのではない。)
 ここに於いて国内機構全般にわたる急速なる編成替えが絶対に必要となって来るのであって、現にそれが進行の過程にあることも事実である。
 然しながら問題はその進行の仕方である。次から次へと起こって来る目前の事態に応ずる如き姑息の方法をもってしては、対処し得ないおそれがあるであろう。計画的にして根本的なるものでなければなるまい。」

 田中隆吉の指摘通り、支那事変の拡大長期化を煽動、正当化し、「最も弱いのは参謀本部、最も強いのは国民」と形容された程の強硬な暴支膺懲世論を醸成し、戦争の拡大を利用する「国内経済機構の変革」を画策した元凶は、三木清や尾崎秀実ら天皇尊重を偽装して近衛文麿の下に集結した共産主義者であった。

(1)【尾崎秀実著作集2】一〇三~一一〇頁、中央公論昭和十三年六月号「長期戦下の諸問題」


9、国家総動員法

 第一次近衛声明から六日後の昭和十三年一月二十二日、第七十三回帝国議会において近衛文麿首相は以下の施政方針演説を行った。

 「事変下に新年を迎え重大時局に直面する第七十三回帝国議会に臨み諸君とともに聖寿の万歳と皇室の御繁栄とを寿ぎ奉りここに政府の所信を開陳いたすの議会を得ましたことは私の光栄とするところであります、今期議会開院式に当りましては特に優渥なる勅語を賜わり時局に対する深き御軫念のほどを拝しましてまことに恐懼感激に堪えぬ次第であります。

 申すまでもなく日満支の強固なる提携を枢軸として東亜永遠の平和を確立しもって世界の平和に貢献せんとするは帝国不動の国策であります、先般無反省なる支那国民政府に対し断乎これを相手とせざるの方針をとるにいたりましたのもはたまた列国との友好関係の増進に不断の努力を怠らざるも、共にこの国策の命ずるところであります、殊に昨秋防共の理想を同じくする盟邦イタリーを加えて日独伊三国間に防共協定が成立しましたことは世界平和のため真に同慶のいたりであります。

 顧るに事変勃発以来ここに半歳余戦線は北支より中南支に及び皇軍の勇武果敢なる行動により戦捷相つぎ忽ち首都南京を攻略し戦局は極めて有利に展開しつつあるのであります、是固より御稜威の然らしむるところでありますが皇軍将兵諸士の忠勇と銃後国民諸君の熱誠とは真に感謝措く能わざるものであります、今や政府は帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待しこれと両国国交を調整して更正新支那の建設に協力しよってもって東亜長久平和の基礎を確立せんとするものであります、もちろん帝国が支那の領土ならびに主権および支那における列国の正当なる権益を尊重するの方針には毫も渝るところはありません、惟うに東亜の安定勢力たる帝国の使命はいよいよ大にしてその責任は益々重きを加えるに至れるものといわねばなりません、この使命を果しこの任務を尽くすためには今後といえども多大の犠牲を払うの決意を要するは固よりであります。しかも今日においてこの決意をなすにあらざれば結局不幸を将来に貽すものであります。

 したがって現代のわれわれがその犠牲を忍ぶことは正にわれわれが後代同胞に対する崇高なる義務であることを信ずるのであります、政府はかくのごとき見解に本づき全力を挙げて支那事変に対処しその目的の達成に邁進せんとするものであります、これがためには物心両様にわたり国家総動員事態の完成をはかりこれに必要なる諸般の施策の実現を期するものであります。政府はこの方針によりまず軍備の充実と国費の調達とに遺算なからしむることが極めて緊要なりと信じ、財政、経済いずれの方面におきましてもここに重点を置くことといたしました、昭和十三年度予算案の編成につきましては事変の長期にわたるに備え、物資及び資金を出来得る限り軍事の需要充足に集中し軍需に関係ある資材および資金の一般消費はなるべくこれを減少せしめる建前の下にこれを編成したのであります。

 産業方面においては日満支を通ずる全体計画の下、我が国生産力の充実を計るをもって基調となし殊に国防上緊切なる物資の供給、重要産業の振興、輸出貿易の伸張に力をいたしてまいりたいと存じます、また銃後の処理に最善を尽し出征将兵をして後顧の憂いなからしむるはもとより戦死傷病者とその遺族、家族に対する扶助援護につき適切機宜の措置を講ずるつもりであります。

 事変の前途は遼遠であります、これが解決は長期にわたることを覚悟せねばなりません、しかして実に事は曠古の大業であります、この大業を前にして国民挙って勇躍難に赴くの精神を発揮するにあらざれば到底成果をおさめ難いのであります。
 政府は堅忍持久、不退転の決意をもって事変の解決に努めんとするものであります、以上の如き考えによりまして政府はここに必要なる法律案および予算案を提出するものであります、よろしく政府の意のあるところを諒とせられ協賛を与えられんことを切望する次第であります。」

 そして二月十九日、近衛内閣は、長期戦遂行体制確立の必要性を強調し、国家総動員法案を頂点として電力事業を民有国営体制にする電力国家管理法案など、我が国の政治経済社会を全面的に戦時体制へ移行させる八十六本にも及ぶ法案を議会に提出したのである。
 特に国家総動員法案は、企画院の革新官僚がソ連の第一次五ヶ年計画(一九二八~三二)を模倣して作成した革新国策であり、戦時事変に際し国防目的達成の為、国家の全力を最も有効に発揮せしむるよう、政府に対し、議会の審議を一切経ずに勅令及び省令(行政命令)によって、労働力、価格、物資、金融、事業など広範多岐に亘る分野の人的物的資源の統制運用を行い得る強力な権限を与える法案であり、運用次第では憲法と議会とを部分的に停止させてしまう危険性を孕んでいた。

 大日本帝国憲法の各条項を解説する伊藤博文の憲法義解によれば、帝国憲法第二章臣民(subject、君主国の国民。共和国の国民はcitizen)の権利条項に設けられた「法律の範囲内に於て」「法律の定むる所に依る」の立法趣旨は、政府が国民の自由を制限する際は、必ず議会の承認(協賛)を経た法律(憲法第五条及び第三十七条)に由らなければならないことを明示して、行政命令(憲法第九条)による制限を厳禁し、国民の自由と議会の権限(民議的な手続き)を貴重すると同時に、国権の必要から生じる自由への制限に対して法律をもって一定の範囲(限界)を設け、国権の必要と国民の自由の間に適切な調和を図ることであった(1)。

 だから国家総動員法案の議会審議では、衆議院の牧野良三代議士や斉藤隆夫代議士などが、

 「本法案が臣民の権利義務に関する広汎なる規定を一切勅令に委任していることは、たとい二、三の先例ありとしかつ純形式論としてはとにかく本法案の如き広汎なる委任立法は憲法発布以来ないことであって、本法の成立により議会の協賛権、大権命令などを完全に阻止し実質上憲法停止の効果を生ぜしめ、議会は全く白紙委任状を政府より突つけられたもので一歩運用を誤れば憲法政治は根底より奪われるものではないか」

と違憲論を掲げて総動員法案を非難すれば、三月三日には陸軍省軍務課員の佐藤賢了中佐(統制派)が国防国家論を持ち出し、総動員法の成立を強硬に主張する演説を行い、法案に反対する者は非国民、国賊である、という佐藤中佐の論旨に野次を飛ばした宮脇長吉委員に対し、「黙れ!」との暴言を吐いたのである。

 この佐藤の一喝が問題となり、「あのカーキ色の暴漢をつまみだせ!」との怒号が飛び交うなど、議会は、あたかも自由経済と統制経済、議会制デモクラシーと全体主義、現状維持派と革新派が激しく衝突する言論の戦場と化した如く、騒然となった。そこで近衛首相は反対論を緩和する為に三月十九日の貴族院国家総動員法案特別委員会において、勅任の山岡萬之助議員(法学博士、日本大学総長、東京弁護士会会長)に対して、

 「この支那事変との関係でありますが、支那事変はこの法の第一条の『戦争に準ずべき事変』ということに当たるのでありまして、従って本法が制定せられ、施行せられることになりますれば、本法は固よりこの度の事変にも之を発動し得るのであります、しかしこれが実際の運用に付きましては、政府は大体次のような方針を執る積りであります、第一には現に軍需工場動員法に依って工場の管理等を実施して居るのでありますが、この部分は本法の施行と同時に発動するのであります、第二には支那事変関係の臨時諸法律は今後の事態の著しき変化なき限りそのままに施行致しまして、本法に於ける当該部分は之を発動せしめない」

と答弁したのである(2)。かくして第七十三回帝国議会は総額八十億円を超える予算(臨時軍事費四十八億円、公債発行額五十四億円)と共に国家総動員法案および電力国家管理法案など諸法案を可決してしまった。

 ところが総動員法が公布された昭和十三年四月一日から一ヶ月後の五月五日、近衛首相は前言を翻し、自ら国家総動員審議会総裁に就任、支那事変への総動員法の施行を開始し(昭和十三年五月三日勅令第三百十五号、三百十六号、三百十七号、三百十九号による)、以後、政府は、拡大する戦闘に必要とされる軍需物資の調達、軍事支出の増大および民需物資の減少に伴うインフレの抑止、世論の統制誘導など長期戦遂行の施策として、国民に消費節約、貯蓄奨励などを強いただけでなく、

 「資本主義的自由経済思想は反戦思想だ」
 「営利主義は利敵行為だ」
 「この戦時下に自由主義的な営利主義を考えたり、個人主義的な自由経済を考える者は国賊である。我が忠勇なる将兵は戦場で国家に生命を捧げている。資本家財閥はその生産権を国家に奉還せよ」

との号令の下、工場事業場管理令のみならず、国民徴用令、学校卒業者使用制限令、賃金統制令、工場就業時間制限令、会社利益配当及資金融通令、価格等統制令、地代家賃統制令、電力調整令、総動員物資使用収用令、工場事業場収用令、土地工作物管理使用収用令、陸運海運統制令、新聞用紙制限命令など、次々に統制命令を濫発し、上からの国内革新(日本の社会主義化)を遂行していった。結局のところ我が国は政府内部に浸透した共産主義者によって国政を壟断され、明治天皇の五箇条の御誓文および交詢社ならびに立志社らが主導した自由民権運動と(3)、帝国憲法の制定および大正デモクラシー運動とによって漸く開花した立憲自由主義的議会制デモクラシーを衰退させられてしまったのである。

 法律上の自由(国家権力に干渉介入されないこと)は国民の権利にして其の生活及び知識の発達の本源である。しかし自由は、法の支配が確立して国家権力を適正に制限し法秩序を整えた社会に棲息するものである以上、国民が自由を維持する為には、社会法秩序の破壊と自由主義の否定とを是認する思想を持つ勢力の政治的自由を認めてはならない。これは自由に内在する必然の制約なのである。

(1)伊藤【憲法義解】参照。
 大日本帝国憲法が保障する国民の自由度は、法律の留保をまつことなく国民の権利全般に「公共の福祉に反してはならない」という制限をかけるマッカーサー占領軍憲法(日本国憲法)の自由度に勝るとも劣らない。憲法義解は帝国憲法第二十九条を以下のように解説している。

「第二十九条 日本臣民は法律の範囲内に於て言論著作印行集会及結社の自由を有す。

 言論・著作・印行・集会・結社は皆政治及社会の上に勢力を行う者にして、而して立憲の国は、其の変じて罪悪を成し又は治安を妨害する者を除く外、総て其の自由を予えて以て思想の交通を発達せしめ、且つ以て人文進化の為に有益なる資料たらしめざるはなし。
 但し、他の一方に於いては此れ等の所為は容易に濫用すべき鋭利なる器械たるが故に、此れに由て他人の栄誉・権利を傷害し、治安を妨げ、罪悪を教唆するに至ては、法律に依り之を処罰し又は法律を以て委任する所の警察処分に依り之を防御せざることを得ざるは、是れ亦公共の秩序を保持するの必要に出る者なり。但し、此の制限は必ず法律に由り命令の区域の外にあり。」
(2)貴族院国家総動員法案特別委員会議事速記録第二号昭和十三年三月十九日。
(3)自由民権運動の研究者であった鈴木安蔵は、「一八八〇年代、大日本帝国憲法がつくられる前に民間でつくられた、さまざまな憲法草案」のうち国民の間に最も広く普及し共鳴されていた憲法草案として福沢諭吉らによって設立された交詢社の「私擬憲法案」および交詢社系統の郵便報知新聞掲載「私考憲法草案」を挙げている。両案の模範はイギリス憲法であるが、両案とも帝国憲法に似ている。とくに天皇の地位と権限に関する条項は帝国憲法に酷似している。交詢社憲法案も帝国憲法も「帝室は直接に万機に当たらずして万機を統べ給う者なり」という福沢諭吉の日本皇室論と同一であり、フランス暴力革命の主義思想であるルソーの「主権在民」を掲げていない。また皇位継承は古来よりの慣例-不文の大典に拠り、敢えてこれを憲法に掲げない趣旨を述べる「私考憲法草案」第一条註解は、伊藤博文の憲法義解第二条解説とほぼ同じである(鈴木安蔵【憲法制定とロエスレル】九十九~一三五頁)。

郵便報知新聞社説(明治十四年五月二十一日~六月四日)私考憲法草案(カッコ内は交詢社の私擬憲法案)

第一条 皇帝は万機を主宰し宰相並に左右両院に依りて國を治む政務の責は一切宰相に帰す(第一条 天皇は宰相並に元老院國会院の立法両院に依て國を統治す 第二条 天皇は神聖にして侵すべからざるものとす政務の責は宰相之に当る)

第一條註解 

皇統一系万世無窮天地と悠久なるは我日本建國の大本にして敢て臣下の議すべき所にあらず。また皇祚継承の事も皇太子もしく皇嫡女の践祚するは皇帝の特旨に由るといえども古来より慣例ありて皇嗣は自ら御男子と定まりしことなり。

これらは憲法の明文に掲げざるも臣子たるもの固より不文の大典を奉じ敢えて渝ることなきは亦天地と悠久なるべき筈なるをもって余輩の私考に拠れば、皇祚及皇嗣云々を憲法の明文に掲ぐるは故らに尊厳に触るる恐れなきにあらざるを以て敢てこれを記せず。

且つそれ憲法を定立するは即ち益々皇室の基礎を鞏固にし國家の安寧を保持するの主意に外ならざるを以て故らに皇.祚皇嗣の箇條を明文に記せざるを是とす。これ余輩が巻首に皇帝陛下の特徴を記載し不文の大典すでに固定し千古に渉りて明々白々たる皇統皇嗣のことを書かざる所以なり。

近来英人が自國の憲法を記したる書冊中には往々帝室の瑣々たる事項を記しあれども、英國は憲法すでに定立せること久し故に、今日その國憲を記すものは唯現時に行わるる実事(ママ)を掲記するものなれば、我國のごとく未だ立憲の制あらざるにおいて其の参考案を立てるもの之を見て直ちに明文に掲ぐると否との区別を定むべからずを信ずるなり。

皇帝は万機を主催したまうといえども政務の責に任じたまわざる所以は、皇帝は神聖にして侵すべからざるものなるが故に総べて宰相の責任に帰するものなりとす。

第二条 皇帝は左右両院に於て議決せる日本政府の歳出入租税國債諸般の法律を批准す(第三条 日本政府の歳出入租税國債及諸般の法律は元老院國会院に於て之を議決し天皇の批准を得て始めて法律の効あり) 

第三条 皇帝は行政並に司法の権を有し行政及び司法の官吏をして法律を遵奉して各其務に任ぜしむ(第四条 行政の権は天皇に属し行政官吏をして法律に遵い総て其事務を執行せしむ 第五条 司法の権は天皇に属し裁判官をして法律に遵い凡て民事刑事の裁判を司らしむ) 

第四条 皇帝は諸般の法律を布告し陸海軍を統率し外國に対して条約を結び戦令を発し講和を為し官吏を命じ爵位を授け功労を賞し貨幣を鋳造し罪人を懲罰し罪犯を宥恕し左右両院を開閉し中止し左議員を命じ右院を解散するの権あり但し海関税を更改するの条約は予め之を左右両院の議に付す可し(第六条 天皇は法律を布告し海陸軍を統率し外國に対し宣戦講和を為し条約を結び官職爵位を授け勲功を賞し貨幣を鋳造し罪犯を宥恕し元老院國会院を開閉し中止し元老院議員を命じ国会院を解散するの特権を有す但し海関税を更改するの条約は予め之を元老院国会院の議に附すべし)

スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民の戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究において最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。