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国民のための大東亜戦争正統抄史10~15日支全面和平を打ち砕いた者

【日支全面和平を打ち砕いた者】


10、萱野長知

 犬養毅、頭山満、宮崎滔天等と共に孫文の支那革命に協力し、蒋介石以下国民党首脳部の面々とも極めて親しい間柄であった日本初の本格的中華料理店「陶々亭」主人の萱野長知は(1)、第二次上海事変勃発直後の昭和十二年八月三十日、上海派遣軍司令官の松井石根大将の依嘱を受け、上海に渡り、景林巷アパートに事務所を設けて独自の立場から事変解決の裏面工作を開始した。

 陸大卒業後、心から愛する支那で生涯の大半を過ごした松井大将は、日支両国の闘争は「亜細亜の一家における兄弟げんか」であり、我が国の武力発動は、支那に対する憎悪の発露ではなく、危機に陥った在支邦人および権益を保護する為の真にやむを得ない防衛的方便である、という信念を抱いていた。松井は上海派兵の任に就くに当たり、日支紛争の解決に尽くすことを願い、この派兵が長く日支両国民間相互の怨恨の原因となることなく、却って爾後の親善提携の基礎となることを切望しており(2)、そこで満洲事変の際に犬養毅首相の密使となり事変の収拾に奔走した萱野に再び白羽の矢を立て、日支和平の斡旋仲介を依頼したのであった。この時、萱野の秘書兼協力者として終始行動を共にしたのは、かつて幸徳秋水らの無政府主義思想に共鳴して社会運動に参加した後、宮崎滔天の一門に参加し、殆どその半生を支那問題に捧げて来た松本蔵次であった。

 昭和十三年三月下旬、賈存得(徳)という人物が松本蔵次に連絡をとってきた。松本が上海のカセイホテルで賈と会ったところ、彼は国民政府行政院兼財務部長、孔祥煕の恩人の息子で孔の意を呈して日支和平工作に奔走しており、松本に、

 「このままで行けば日支共倒れとなり、亜細亜全体の不幸を招来する。何とかして全面和平の道を講じなければならない」

と率直に語った。松本蔵次はこの賈存得の意見を萱野に伝え協議した上で、四月二十日、再びカセイホテルで彼と会見した。この時、萱野が出した日本側の和平条件は、満洲国の独立と内蒙における日本の立場の承認(支那側)であり、賈の出した支那側の条件は日本軍の全面的撤兵であったが、日本側が原則的に承認すれば、撤兵の時期と方法等具体的処置に関しては日本側の希望も考慮するという内容であった。そこで現地軍の意向を確認する為、松本と賈は、松井大将が和平工作の相談相手として萱野に紹介していた特務機関の臼田寛三大佐に相談したところ、「漢口政府が真剣に全面和平を考えるならよかろう」と大佐の賛同を得たが、この工作を如何にして具体的に進めるかという問題になると、賈存得は、

 「日本側の言うことは何時でも信用ができないから、責任ある者の書面をくれ」

と要求した。臼田大佐は、中支那派遣軍特務機関長の原田熊吉少将の名を挙げたが、賈に拒否された為、松本が「萱野長知の書面でどうか」と言ったところ、賈は非常に喜んで、

 「萱野先生なら書面でなくても名刺で結構です。政府首脳部で萱野先生を知らぬ者は一人もありません」

と言った。そこで翌日、賈存得と萱野の会見となり、萱野が、孔祥煕宛に二尋余に及ぶ日支全面和平の必要を説いた漢文の手紙を書いて賈存得に託すと、賈は躍り上がって喜び、すぐに香港へ渡り、孔祥煕夫人と合流、夫人の自家用飛行機で漢口へ飛んだ。

 五月末、賈存得は、孔祥煕自身が蒋介石と協議した上でまとめた萱野宛の長文の返書を携え、上海に帰って来た。この孔の手紙は、日支和平条件、今後の日支問題処理に関する詳しい意見を述べたもので、その内容は、

1、日支両国共即時停戦すること。
2、日本は支那の主権を尊重し、撤兵を声明すること。
3、支那は日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的には之を承認するが具体的には日支両国で協議すること。

などであった(3)。

(1)昭和三十五年四月台北で、蒋介石が先頭に立って萱野の十三回忌追悼会を開催した程、二人の関係は親密であった(久保田文次【萱野長知孫文関係資料集】三八七頁)。
(2)冨士信夫【南京大虐殺はこうして作られた】一九七頁「東京裁判松井石根宣誓供述書」
(3)三田村【戦争と共産主義】一五〇~一五二頁。


11、宇垣一成

 一方、支那戦線では、我が陸軍参謀本部が北支那方面軍と中支那派遣軍の合計七個師団を投入し、徐州付近に集結していた李宗仁を最高司令官とする中華民国軍の精鋭五十個師団を南北から包囲殲滅すべく徐州作戦を発動し、五月十九日、我が軍は徐州を占領したが、包囲兵力の不足により北支中支両戦線でしばしば経験した如く又しても殲滅の一歩手前で中国軍の主力を逃してしまい、国民政府の抗日戦力を破砕することはできなかったのである。

 戦争終結への期待を込めて徐州会戦の勝利を祝賀した我が国の国民の間では、動揺と失望が広がり始めた為に、東京では、徐州陥落から一週間後の二十六日、近衛首相が、国民政府との和平交渉打ち切りに加わった広田外相と杉山陸相に辞職を求め、内閣改造を行い、外相に宇垣一成大将、陸相に板垣征四郎中将を起用してみせた。宇垣大将は外相就任の条件として、

1、閣内一致結束を一層強化す。
2、速に対時局の方針を決定す。
3、対支外交の一元化を期す。
4、蒋介石を対手とせず云々に拘泥せず。

を提示しており、宇垣の入閣により、近衛内閣は、とりあえず「蒋介石を対手とせず抹殺する」との対支強硬方針を転換したといえよう。

 六月六日、萱野は、孔祥煕の書面を携え我が国政府軍部と協議する為、上海を発ち、九日東京に着いた。すると陸軍は現地軍からの連絡で萱野が軍の非行でも暴く為に帰ったものと誤解したらしく、萱野老人の行動を警戒し始め、まず参謀本部第八課(謀略)課長の影佐禎昭大佐が萱野を呼び出してどなりつけ、また憲兵隊に呼び出して調べたが、萱野は気にも留めず、政友会の長老小川平吉を訪問し次のように報告した(1)。

 「三月以来国民政府要人と往復を重ねた結果、孔等はいよいよ講和の決心を定めたり、蒋介石は之を下野せしめ第三国を介せずして直接談判を開かんと欲す、講和の上は国民政府は勿論之を解散し北京南京新政府と合して新政府を建設する見込みなりと彼の決意なり、此の旨を日本政府に報告すると共に政府の意向を確かめんと欲す。

 上海中国銀行内に於ける無電台を使用するを得て大に便を得たり、孔の代理賈秘書は今上海に在りて予の帰還を待つ。」

萱野「吾人同志は共に第一革命を援助して民国を建設して失敗に帰したが、今や真の新政府はまさに吾人の手に依って建設せられんとす、共に努力していただきたい。」
小川「察するに蒋の下野云々はたとえ蒋の諒解なくとも、蒋の脈を打診したる上の事であろう。蒋は最早下野の考えをも胸中に秘蔵して時機を待っているのだろう。共産党を駆逐することはどうか。」
萱野「無論である。」
小川「然らばいよいよ蒋の同意又は諒解が必要になる。私は従来蒋を相手として講和してもよいとの意見を持っていた。蒋の力を藉りずして共産党を駆逐することは面倒になる。」
萱野「講和派は漸次勢力を得て団結しているようだ。又彼等は蒋の下野を希望している。」
小川「張群はどうか。」
萱野「張群は未だ代理は寄越していないが、無論同意しているだろう。」

 萱野の報告は希望的観測を含んでいたようだが、小川平吉は萱野の手を握って大いに喜び、日記昭和十三年六月九日欄に次のように記した。

 「萱野長知上京。漢口政府との間に一脈の道路開通せるを覚う。此路従来容易に開かず、政府の手にては勿論小径だも通ぜざりしなり。予は萱野の功小ならざるを賛嘆し、漢口移転以前に講和の申込をなさしめんと欲す。しかし之は中々容易ならざるべし。何となれば我が天兵攻略の神速なると、敵の退却頗る敏捷なればなり。然れども講和の端緒一たび開かるるに於ては、彼れ蒋はたとえ昆明に移るとも、継続進行することを得べし。何れにするも講和の端緒を得たるは萱野の功なり。政府が初めて国民政府内講和派の決心を知りしも又萱野氏の功なりというべし。」

 十日午後、小川平吉は外務省に宇垣外相を訪ね、萱野上京の事を告げたところ、宇垣外相は萱野の報告を怪しまず、

 「極秘なれども張群は私の就任に際して電報を寄せ、私が兼ねて同人が外交部長就任の際同人に寄せた、日支共同して白人に当たり共に提携親善して東洋の平和を確保すべき旨の電報を繰り返して、今や閣下の外相就任に当たり此の点に努力を乞うとの旨を縷陳して来た」

と打ち明けた。小川は、

 「その電信は即ち講和を希望すとの陳述する電信である。時期はすでに熟す。萱野の談によれば蒋を下野させるといえども、蒋を相手とすることも可能ではないか」

と答え、宇垣外相の同意を得た。その日の夜、萱野は、小川の紹介により近衛首相と面談し日支和平の必要性を語り、翌日、宇垣外相と会談した。宇垣外相は萱野の報告を大いに喜び、蒋を飽くまで排斥するには及ばない旨を語り、萱野が上海に帰還した上で、萱野自身の考えに沿って国民政府に対する態度、講和内容に関して彼等と種々協議し、いよいよの時は電報にて東京に照会することを決定したのであった(2)。

(1)【小川平吉関係文書1】三八四~三八五頁。
(2)【小川平吉関係文書1】三八五~三八七頁。


12、和平交渉成立

 そこで十七日、萱野は小川平吉と暗号協定や蒋下野後は日本政府をして将来十分に彼を援護せしむべきことを打ち合わせ、東京を出発、上海到着と同時に賈存得に連絡した。だが中国共産党が八・一抗日救国宣言を発表した昭和十年(一九三五)八月以降、上海は抗日運動の策源地となっており、親日派要人へのテロが相次いだ為、賈との会見には十分な警戒が必要であり、萱野はやむを得ず二、三日空費したところ、同盟通信上海支局長の松本重治と遭遇したのである。

 松本重治は近衛と親しく、三月下旬より香港を拠点として、西義顕(満鉄南京事務所所長)、伊藤芳男(満鉄嘱託)と共に、国民政府外交部亜州司長の高宗武、董道寧(亜州司長日本科長)と日支和平について協議しており、彼等は、我が国の影佐大佐と参謀本部支那班長の今井武夫中佐に連絡していた。

 当時、日中和平交渉は複数の路線で試みられており、松本重治もその一人であることをかねて聞いていた萱野は、賈存得との会見を待っている間に、松本から香港方面の事情を聞き、また彼に賈との交渉経過をありのままに話してしまったのである(1)。

 萱野は賈存得と会見し、国民政府の解消、共産党の分離、蒋介石の下野など日本側の和平条件を漢口の国民政府に伝えたが、これに対し国民政府からは、蒋の下野は無理なので孔祥煕の辞職ではどうか、との回答があった(2)。

 そこで七月五日、萱野、松本蔵次、賈存得それに和知鷹二大佐を加えた一行四人は、和平交渉の進展を図る為、フランス郵船で上海を発ち香港に向かい、賈存得と同じく孔祥煕の密命を帯びた喬輔三(孔の秘書)と和平交渉を進めていた中村豊一香港総領事の出迎えを受け東京ホテルに入り、国民政府との交渉を再開した。

 二十一日、居正(国民政府考試院長)夫人、馬伯援等が孔祥煕の代理として香港の宿舎に萱野を訪ねて来た。萱野はこの居正の娘を「華恵」と名付け養女として育て上げた親戚の間柄で、両者の間には日本と支那の区別はなかった。一人は生みの親、一人は育ての親、この二人が日中両国を代表して日中和平交渉を行い見事にまとめたのである。その要領は、

1、日支両国から代表者を出して、即時全面和平の取り決めを行うこと。
2、支那側の代表は主席孔祥煕行政院長、副主席居正、何応欽、李宗仁、他に戴天仇又は張群の五名とする。
3、日本側は近衛首相又は宇垣外相を主席とし、陸、海軍の代表を加えて構成する。
4、場所は香港港外、日本側軍艦を用いて洋上会見とする。
5、日支両国代表によって行う取り決め内容は、日支双方とも即時停戦命令を発することに署名すること。
6、停戦後の条件は、両国の間で具体的に協議すること。

などであった。居正夫人は萱野に、

 「萱野さん、これでいいでしょう。戦争をやめてしまえば後はどうにでもなります。日本側から言えば、国民政府の代表としてこの五人を日本の軍艦に乗せて談判するんじゃありませんか。捕虜にしたも同然でしょう。これで日本側の面目が立つでしょうし、中国側もこれだけの政府首脳部五人が頭をそろえて日本側の軍艦に乗り込み、日本に停戦を承認させたということだけで面目が立ち、あとは何とかおさまります」

と述べた(3)。萱野は小川平吉に、

 「予定を早め二十二日香港発帰朝ある。かねての問題に付き漢口方面と打合中のところ、支那国内の情勢は蒋の下野を許さず。蒋本人は一刻も早く止めたいのだが、周囲の状況がどうしても許さない。混乱を恐れて後を引受けるものがない。此点さえ緩和し得れば他の条件は問題なしとの確信ついたし、此上は上京して頭山翁の力によって日本側の再考を促すのみだ。これさえ出来れば時局は急転直下解決に向かうものと信ず。出先官憲とも協議した。中村総領事も急に同船で帰朝することとなった」

と打電し(4)、松本蔵次と中村豊一香港総領事と共にエンプレス・ジャパン号で香港を発ち、二十七日、東京に到着した。
 中村総領事は、六月二十三日から七月十九日まで六回に亘って喬輔三と会談し、喬から国民政府が希望する対日和平条件として、漢口陥落前に和平合意を実現し休戦協定を成立させること、蒋下野は困難なので代わりに孔祥煕が全責任を負って辞職することの他、

1、反日行為の停止。
2、日満華条約締結による満洲国の間接承認(ただし満洲国は自発的に「満洲自由国」となることが望ましい)。
3、内蒙古自治の容認。
4、華北の特殊地域化は困難(中国全体での平等互恵の経済開発は認める)。
5、非武装地帯の問題は日本の具体的要求をまって解決する(非武装地帯には日本側も駐兵しないことを希望する)。
6、共産党との関係清算(防共協定加入あるいは特別協定締結は未定)。
7、賠償支払の能力なし。

など七項目を伝えられていた(5)。
 萱野は直ちに小川平吉を訪ね、居正夫人等との交渉結果を報告するとともに、

 「漢口の実状は共産党の勢力七分という形勢なり、蒋の下野は本人も希望なれども下野すれば混乱して収拾し難き故あと引受人なし、たとえ協議してやるも講和条約を実行することも不能なり。共産党の細胞組織は広く行き渡れり。日本の捕虜も赤化して放送などせり。日本の対支占領は点、線、遍の中、点線丈けなり。漢口陥落せば、赤の蔓延、手の下しようなくなるべし」

と支那事変の拡大長期化が中国共産党の勢力拡大を助長していることを指摘し、改めて早期講和の必要性を論じ(6)、宇垣外相、板垣陸相に会って日本側の態度決定を要求した。

(1)三田村【戦争と共産主義】一五三頁。
(2)【小川平吉関係文書2】五九二頁。
(3)【小川平吉関係文書1】三九二頁。三田村【戦争と共産主義】一五四~一五五頁。
(4)【小川平吉関係文書2】五九三頁。
(5)神尾茂【香港日記】昭和十三年九月五日の条。戸部【ピースフィーラー】二一四~二一五頁、勝田龍夫【重臣たちの昭和史下】七十頁。
(6)【小川平吉関係文書1】三九二頁。


13、高宗武の来日

 ところが宇垣外相は、萱野に「暫く待機する」ことを要請した。板垣陸相は、

 「支那側に全然戦意なし、このままで押せば漢口陥落と同時に国民政府は手を挙げる。日本側から停戦の声明を出したり、撤兵を約束する必要はない」

と述べた。萱野は、

 「それはとんでもない話である。国民政府には七段構えの長期抗戦の用意ができている。支那側に戦意なし、無条件で手を挙げるなどの情報は一体どこから出てきたのだ」

と開き直ったところ、板垣陸相は、

 「実は君の留守中に松本重治が国民政府の高宗武を連れて来た。これは高宗武から直接聞いた意見で、支那側には全然戦意がなくなった。無条件和平論が高まっており、無条件和平の中心人物は、元老汪兆銘だという話をして行った。軍の幕僚連もこの情報を信じているから、君の取り決めた話は、折角だがとりあげることは出来ない」

と聞く耳を持たなかった。この板垣の意見に憤慨し且つ失望した萱野は、早速近衛首相に会って談判したところ、近衛も板垣と同様、松本重治と高宗武の情報を信用し、また軍の態度がそうなった以上仕方がないと言い出し、近衛、宇垣両相の背信に衝撃を受けた萱野は、心労から軽い脳溢血を起こし倒れてしまった。

 ちょうどその頃、松本蔵次は大川周明、白川敏夫、後藤隆之助など近衛や陸軍と連絡ある連中に会って話をしてみたが、いずれも板垣、近衛と同様の意見で固まっており、我が国政府および陸軍の対支強硬方針を覆すことはできなかった(1)。
 昭和十三年七月七日、近衛首相は支那事変一周年にあたって、

 「国民政府を対手にしないのは国民政府が容共抗日政策を採っているからである、従って国民政府が共産党と手を切り共産党分子を排除し、また抗日政策を放棄するならば、国民政府は容共抗日の国民政府でなくなるのだからこれを対手とすることも考えられるわけである。これは国民政府を対手とせずと云うことを理論的に見た場合である。然し実際は国民政府の中心となっているのは蒋介石である。容共抗日政策を追求している蒋介石が中心となって動いている国民政府を対手として安んじて和平の話を進めるわけに行かぬ、これが『国民政府を対手とせず』ということを実際的に見た場合である。且つ仮に蒋介石が下野して日本と真に提携する誠意を持った他の有力な人物が国民政府内に立って、日本との講和を希望した場合があるとしてもその場合蒋介石無き国民政府はこれを支那の中央政府として取扱うことは出来ぬ、事実上現に北支には臨時政府があり中支には維新政府があるからこれに国民政府が合流して支那に新しい中央政府が出来た場合にはその中央政府を対手とすることは考えられる、要するに実際問題として今後いかなる事態が起って来ても国民政府を対手とすることはあり得ない」

と国民政府を対手としない所信を再度表明し、八日、我が国の五相会議(首相、蔵相、外相、陸相、海相)は、我が軍の漢口作戦によって国民政府が屈伏して来る場合は、蒋介石の下野、抗日容共政策の放棄および親日満防共政策の採用等の条件を受諾させ、国民政府と我が軍の占領下に誕生した三つの親日政権(蒙彊連合委員会、中華民国臨時政府、中華民国維新政府)を合同して新中央政権を樹立し、国民政府が屈伏して来ない場合には、支那の大勢を制する要衝の占領を図り政治経済外交思想に亘る謀略を強化し、抗日勢力内部の切り崩しを行い、国民政府の分裂崩壊、地方政権への転落を期すと共に、親日諸政権を拡大強化し、新中央政権を樹立すると決定していたのである。

 さらに五相会議は、参謀本部がまとめた第二期謀略計画(現地軍が支那の軍閥を懐柔帰服させる「獣」工作、中央直轄機関が支那の一流人物を味方につける「鳥」工作、六月十七日決定)に基づき、第十四師団長から参謀本部付に転出した土肥原賢二中将を工作責任者に任命し、二十二日、土肥原機関が設置され、新中央政権の首班として、唐紹儀(国民党の元老)、靳雲鵬(山東軍閥の統領)、呉佩孚(直隷派の総帥)を引き出す謀略工作を開始した。近衛首相は宇垣大将の入閣条件の一つ「蒋介石を対手とせず云々に拘泥せず」を反故にしてしまい、近衛内閣は国民政府(蒋介石)を相手にしない方針に戻ってしまったのである。

 萱野長知は香港、上海に待機中の中国側代表から和平交渉の経過を談判すべきことを要請されたものの、返答に苦しみ、そこで松本蔵次が萱野を東京に残したまま先発し、八月初め長崎から上海に行き、賈存得に会って板垣、近衛の意見を率直に話し、東京の空気が一変したことを伝えた。賈は非常に驚いて、直ちに上海中国銀行六階に設けられていた秘密連絡所から、漢口の国民政府に電報でこの旨を連絡した。すると国民政府からすぐ返電して来たが、それによって驚くべき事実が判明した。高宗武が東京から漢口に、日本側に戦意なし、支那側が飽くまで抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵するという秘密電報を送っていたのである。つまり高宗武は日支両国政府に全く正反対の情報を送ってせっかく実現寸前まで漕ぎ着けた和平交渉を打ち壊してしまったのである。

 萱野は、先発した上海の松本蔵次に宛てた八月二十九日付けの手紙の中で、

 「天運来らず、近衛、宇垣両相の決断出来ず遂に今日に及び申候。その理由小生東上と同時頃に武漢政府の外交部司長の職に在りたる高宗武という者軍部関係者より運動して来京、蒋介石下野を、汪兆銘、張群其他二、三十名の共同一致を以て余儀なくせしめる方法ありと申出ありたるを以て、小生等の提案よりは至便なるものなる故此の方に賛成して、我等の提案を後廻しにしたるものの如し。

 又一方土肥原将軍関係者は唐紹儀を表面に推し立てて蒋政府を圧し潰ぶす計画を着手しつつあれば、何れにしても我等の案よりは日本に取りて有利なるものと見做され、荏苒遂に今日と相成候次第也」

と述べ無念を滲ませた(2)。

 しかし萱野は、日中両国民の和平希望に応える為、なお全面和平の実現を諦めることなく病身老躯を押して政府軍部と折衝を進め、信州に出張中の小川平吉に書簡を送った。萱野の書簡が小川に伝えた中華民国の内情は、蒋介石が唐紹儀を相手にせず、日本政府はすでに何の権威も実力もない年老いた政治家の唐を本気で漢口新政府に推すのかと疑問視しており、また漢口の国民政府が、

 「日本は支那側に防共を声明せよとの事なれども、張鼓峰事件発生の日、我(支那)と休戦を実行しソ連に全力対決せず、却てソ連と協定停戦す、而して尚我と防共を再談せんとするは寧ろ人を欺く詞に非ずや、日本側は、有心者は既に無権主張、有権者は又不明利害、何必妄費唇舌…云々」

と憤慨し、国民政府の容共抗日政策を非難しながら、日本に反共親日政策の採用を条件とする講和を申し込んだ国民政府を攻撃し続ける一方で、中国共産党を始め世界中の共産主義者を操るソ連とは早々に停戦協定を結んで反ソ戦に集中しない近衛内閣の矛盾した戦争政策に対して、不信感を募らせているということであった。この書簡の中で萱野は、

 「想うに此の儘にて絶縁せば将来彼等を招撫するに困難と存候。故に小生は近々出動して最善の方法を研究致置き度候。

 将来国民政府員全体を窮地に陥れしむると我方の味方と為すことは何百億の巨額にも代え難き重大問題と存候。

 漢口攻略後際限なき長期抗戦に入りソ連は勿論世界的重大問題と為りては国家の為め寒心措く能わざるもの有之候。此際大乗的見地を以て小嫌を超越し電光影裏に春風を斬るの英断を要することと存候。頭山翁とも相談して何んとか応急の処置を致度候」

と我が国が国家存亡の危機を迎え政府が和平を英断すべき時機は日一日と切迫しつつある旨を訴え、小川に速やかなる帰京を要請したのであった(3)。

(1)【小川平吉関係文書1】三九三頁。三田村【戦争と共産主義】一五五~一五六頁。
(2)三田村【戦争と共産主義】一五六~一五七頁。戸部【ピースフィーラー】二二四、二二九頁。
 松本重治に説得され来日した高宗武を板垣陸相に面会させた軍人は、影佐禎昭と今井武夫である。高の来日時には諸説あるが、石射猪太郎は日記昭和十三年七月一日欄に「陸軍は高宗武を香港から連れて来た相だ。陸相は帰京車中で、蒋在職中は講和なし、と語る。影佐の作なるべしとの説に一致す」と書いている。
(3)【小川平吉関係文書2】五九四~五九五頁「昭和十三年八月二十五日小川平吉宛萱野長知書簡」


14、萱野再び上海へ

 八月二十九日に帰京した小川平吉は、九月三日、宇垣外相を訪ね、

 「蒋は共産党と絶ち講和を為したる以上国民に対して責を引き下野するが大英雄を全うするの途なり、必ず喜んで下野すべし。漢口陥落抗敵継続せば支那内地の平和恢復は容易ならず、第一新政権は兵隊一人を有し居るものなし。軍閥はみな彼に走れり、彼等は兵隊より地方人民に連絡あり、これが抗日に従事するが上に一般人民の空気が抗日を通念とする以上彼等の操る糸に乗りて踊ることは当分絶えざるべし。蒋をして共産を絶ち戦局を収拾せしめて而る後下野せしむるは古来講和の条件として通例のことなり。一般国民は漢口陥落にて講和成ると確信し居る状況にて、この希望に合する為には陥落前に工作の必要あり」

と述べ、まず蒋介石を相手として講和を図るよう宇垣外相を激励し、国民政府と和平交渉を進める為に、萱野を再び上海に出発させた(1)。次いで張鼓峰事件に遭遇し対ソ戦の準備を焦る多田駿参謀次長が宇垣外相を訪ね、

 「一日も早く時局を片付けて貰いたし、蒋相手にても差支えなし、北京と南京の両政権の始末は考えてもらいたい」

と依頼してきた(宇垣日記昭和十三年九月三日の条)。ここに至り宇垣外相が呼んだ外務官僚は、かねてより新中央政権樹立論に反対し、外務省の焼打を覚悟して第一次近衛声明を突破し、漢口攻略までに国民政府を相手として和平交渉を開始すべきことを主張していた石射猪太郎東亜局長であった。宇垣外相は石射に向かい、

 「事変の収局に付ては君の提案の如く蒋介石相手の和平より外なかるべしと思う、自分も大臣就任のとき近衛首相に対し一月十六日の声明は場合により乗り切ることとの了解を得ているのだ、只急に蒋相手の和平を提案しては騒がれるばかりだから潮時を見て居たのだが最近の状勢から見て最早その工作に取掛って然るべき時と思う、出来るならば漢口攻略前に蒋と話を付けたしと考える」

と万難を排して日中和平を実現する決意を語り、香港に帰任した中村総領事に宛てて、

 「日本国内の情勢は、和平後、蒋が支那国民に対し自発的に下野するならば蒋を相手に和平するも可なり、との空気が濃厚となりつつある旨を喬に告げ孔との話を繋ぎ、再び先方の意向を打診せよ」

という内容を持つ新しい訓令の起草を、石射局長に命じたのであった(2)。すると「国家の為に大事を為さん」と勇躍上海に赴いた萱野が、八日、

 「孔祥煕、蒋介石、居正ら反共を内約する事に、停戦を申し出る事出来るとせば、日本政府はこれに応ずる事出来るか、念のため確かめ、返。」

と小川平吉に打電してきた(3)。

 小川と協議した宇垣外相は、反共と和平後の蒋下野を確約することが必要であり、停戦には出先軍が面倒な条件を提出するおそれがある為、孔と宇垣が直接談判に乗り出した方がよい、会談場所は長崎(雲仙)という趣旨の返電を送ったところ、萱野は十三日、小川平吉に宛てて書簡を送った。その中で萱野は、長崎への直行便がなく、国民政府代表が香港上海等で船を乗り換え長崎に赴くと、大変危険であるばかりか、交渉内容が新聞記者に漏洩して公になるおそれがあると指摘し、萱野が先にまとめた和平交渉条件に盛り込まれた日本側軍艦を用いる洋上会談の開催を提案した。さらに萱野は、

 「事前に蒋介石の下野を反共、和平後に決行すると云うことを表示せしむることは面子を気にする彼等としては頗る困難に候。反共、和平成立後は下野は必然のことなれど内約又は表示の形式を現わす事は非常に苦痛の様子にて、事後に於て自発的に決行することは孔祥煕等一同が責任を帯びて保証する処に候。孔祥煕等が出張することは命懸けの重大決心を要する次第にて、孔祥煕等が出張と同時に漢口方面にては重大事件を惹起するやも知れず。即ち出張は分水嶺の危機と存候。想うに脱出後の彼等は若し不成立に了れば生還覚束なきものと推察され候」

と日本側が国民政府要人の身になって考えれば大いに憂慮同情すべき彼等の苦しい立場を説明し、この際形式的面子をかなぐり棄て寛大なる講和条件を提示して日支和平を実現させることを宇垣外相に要望した。そして「日本側の至誠の表示に於て万事氷解する」と確信する萱野は、支那側要人と相談して交渉を進めるべく、イタリア郵船に乗り、再び香港の東京ホテルへ向かったのであった(4)。

 そして香港では、九月八日、孔祥煕の秘書である喬輔三が、朝日新聞主筆の緒方竹虎によって香港に派遣されていた神尾茂(朝日新聞社編集局顧問)と会談した。神尾茂は萱野や中村総領事と連絡しながら、蒋介石の信用篤い漢口大公報のジャーナリスト張季鸞と和平交渉を進めており、神尾は東京を出発する前に(昭和十三年七月一日香港到着)知友の多田駿参謀次長と面会していた。多田参謀次長は、

 「戦争は戦争で何処までもやるが、これと同時に挙国一致それぞれ手分けして各々の分に従って戦争目的の達成を図らねばならぬ、政戦両略の並行を期して居る際だから、新聞人として大いにやってもらいたい」

と神尾を激励し、多田声明が陸軍最高首脳部の精神であることを説明して次の伝言を神尾に託した(5)。

一、日本の出兵は支那を征服するためではない。支那と提携してやって行きたいのが本心だ。

二、日本としては支那と戦って見て、支那軍の強味も十分わかったし、支那民族の抵抗力が益々強化されつつあることもわかった。実際満洲の如き辺境を自由に料理したようには行かないことがよくわかって来た。従って相互にその長所を諒解して、互いに尊重し合うことも出来る。最早この辺で講和の時期とすべきではないか。

三、日本は蒋介石を相手にせずと言うけれども、それは抗日政策を継続する間のこと、従来の政策を一変すれば、日本としては蒋介石と雖も排斥すべき理由はないのである。併し当面の責任者であるから一度は下野するのが当然と考える。適当な時に復活は差支えないばかりでなく、或意味では望ましくもある。

四、新政権については、支那の実情に照らして、いくつか地方に分割統治するを適当と考える。所謂分治合作の方式により臨時、維新、抗日をやめた国民政府の後身等が、合作して行けばよいと思う。

五、支那の有力者に会った時に、右の日本の精神の在るところを、説明して貰いたい。

 神尾茂の和平工作は、何としても第一次近衛声明を乗り越えて日中講和に辿り着こうとする我が陸軍参謀本部の和平努力でもあった。喬輔三は神尾に、

 「孔祥煕の試みつつあった日支和解の運動は、日本が下野を固執しているので不成立、一切打切りになったことを明言したが、何れはまた談判再開となり、その中には何とかなるものと信ずる」

と語った。神尾がこの問題に関し抱懐している意見を述べようとすると、喬は今までになく極めて明快に次のごとく語り、萱野長知の主張と同じく日本側に対支認識の転換を求めたのであった(5)。

 「長期戦となれば日本も支那と共倒れになる。長期戦の結果、共産党の勢力は必ず増大する。現に年少気鋭の青年学生は争って第八路軍に投じ、共産軍の手先となりつつある。学生達は学校を潰されて奥地へ逐い込まれ、何の希望もなく学業を廃せざるを得なくなり、遂に自暴自棄抗日の一途を辿る有様だ。

 更に長期戦となれば日本軍の向かうところ敵なく、支那の内地は悉く蹂躙されるだろう。農民は四散して流民となり、潰滅した軍隊はゲリラと化して、何れも皆共産党繁栄の温床となるだろう。独り支那ばかりではない。今度二三年に亘る長期戦に於いて、日本の出征軍隊の間に不穏の空気が発生しないと誰が保障出来ようか。結局長期戦の結果は支那も日本も左傾して、共産党の天下となるかも知れぬ。これだけでも長期戦は互いに避けねばならない第一の理由となすに足るだろう。

 第二の理由として、更にもっと寒心すべきことがある。それは長期戦のため支那は無茶苦茶に破壊され、日本も疲労困憊その極に達し、欧米諸国のために勝手にこねくり廻されることになろう。これ実に黄色人種の最大の危機ではないか。この二つの理由によって、戦争は速やかに結末にしなければならないと思う。

 それには先ず両当局者が、この動かすべからざる情勢について認識を深めることである。自分の考えるところでは、孔祥煕院長は勿論のこと、蒋介石も今はよく徹底した見透しを持っている。遺憾なことには日本の当局者は、支那の情勢について認識が足りないように思う。この点を日本に於いて更に考慮して貰いたい。」

(1)【小川平吉関係文書1】四〇〇~四〇一頁。
(2)戸部【ピースフィーラー】二四〇頁。
(3)【小川平吉関係文書2】五九五頁。
(4)【小川平吉関係文書2】五九七~五九八頁。
(5)神尾茂【香港日記】三十五、七十九、八十六~八十七頁。


15、単独辞職

 ところがである。あたかも萱野や宇垣外相の和平工作を妨害する如く、尾崎秀実が大陸昭和十三年九月号「漢口攻略の意義」において、

 「日本の武漢攻略の目的は、国民政府の政治軍事上の重要拠点を撃破することの重要性は無論のことであるが、寧ろ、その結果、蒋政権が地方政権に転落して奥地に移転することからして生じる二つの大きな事実に期待しているということが出来るであろう。第一は、所謂赤色ルートを中断し、共産党と国民党との地盤を分離せしめることによって国共両党の分裂に導かんとすること、第二には、全く転落し偏在する国民政府に対する列国の期待を棄てしめ列強をして国民政府援助から手を引かしめんとすることにあるのである。

 武漢喪失は共産党にとって何よりも打撃であり、また支那を共産党の側から援助しつつあるソ連にとっても少なからざる打撃を受けることとなるであろう」

と公言し、萱野の観察および喬輔三の警告とは正反対に漢口攻略の防共価値を説いて(1)、大衆を欺瞞、煽動し(小川平吉日記昭和十三年九月十五日の記述によると、聖戦貫徹同盟が五万人の署名を集め、近衛に圧力をかけたという)、続いて記者の何者かが、

 「宇垣外相が先月二十八日葉山の別荘にて記者会合の席上オフ・レコの談話として一月の蒋を相手とせずとの声明を罵り、又板垣の強硬談を攻撃し末次を誹謗し国民政府との和平を説いた」

との宇垣外相の失言を捏造して陸軍に内報し、板垣、末次両相を激怒させ、宇垣に対する不信感を閣内に醸成し、さらに十六日朝日新聞朝刊は、近衛首相が元老の西園寺公望を訪問した帰途に新聞記者に語った、

 「漢口攻略戦は順調に進展しているが漢口の陥落で事態の結末がつくかどうかは疑問だ、我方としては飽迄容共抗日を標榜する蒋政権の徹底的壊滅に邁進するのみだ。漢口攻略前後には色々と重大な動きや問題も生ずると思われるので帝国政府の態度を闡明する声明を発するつもりで目下声明の案及び其の時期に付て研究を進めているが、結局蒋政権が一地方政権に堕したという烙印を押すということになるであろう」

という談話を報道し、日中和平の実現に向きつつあった我が国の空気を打ち砕いてしまい、宇垣外相を愕然とさせたのである。

 宇垣外相は、九月二十一日、萱野の書簡を小川平吉から受け取り、二十三日、五相会議に提出、一同の賛同を得、さらにこの内容を昭和天皇に内奏し、その御内諾を得た。小川平吉は、

 「国民政府と交渉開始、五相会議賛成!!!軍艦会見云々の件、五相会議いよいよ賛成せるは真に一大快事なり。ただ先方が果して実行し得るや一縷の懸念あり。しかし彼れ躊躇するとも必ず彼をして実行せしむるは吾人の天職なり。至誠は神に通ず、況や彼等中心の希望が和平に在りて存するに於てをや」

と昨年来の積憂が解消していくことに大きな安堵を覚え、胸をなで下ろしたのであった(2)。
 だが「蒋介石を対手とせず云々に拘泥せず」という入閣条件を承認しながら、これを無視して公然と対支強硬論を唱え、更に影佐禎昭大佐等によって推進された、外務省から権限を奪う興亜院の設置を容認する近衛首相に対して、失望を隠せなくなった宇垣外相は、

 「世界環視の下において、今日特殊な機関を作って支那を植民地扱いするような事は、全く馬鹿げた話で、列強の思惑もあり、支那の感情を悪くするばかりでなく、事務的に見ても国の外交を多元的にするもので、絶対に不賛成である。私は支那問題を解決するという事を主要な使命として入閣して来たのに、あなたが自分の手から支那問題を取上げるならば、私に出て行けというのと同じではないか」

と近衛首相を難詰して(3)、三十日、単独辞職し、宇垣・孔祥煕工作は惜しいことに自然消滅してしまった。翌日、小川平吉は宇垣大将を国立に訪ね午餐の饗を享けた。辞職の理由を聞かれた宇垣は、

 「辞職は二ヶ月程以前より思い立っていたが、このまま廣日弥久して機を失せば相互に迷惑になると考え、対支機関問題を機として辞職を決意した。脅迫などはなかった」

と語り、講和問題については「香港の中村は蒋の下野を求めて不調となったようだ」と述べた。小川は、宇垣の辞任は無論対軍部関係の不円滑並びに失言問題の感情齟齬などによって促され、軍部少壮連の反対挙動もまた宇垣の感情を害したる結果、と推察したが、ともかく中村総領事の和平交渉が失敗した以上、今後は萱野長知の方面を進行すべきでありお互いに国家の為に努力すべきであることを提言し、宇垣の応諾を得た。

 十月二日夜、小川平吉は九月二十四日発の萱野の書簡を接収した。その内容は、漢口共産化の状況、日支双方とも高宗武の如き和平の安売りが出て困ること、そして萱野が中村交渉決裂に付き馬を漢口、重慶に遣わし蒋、孔等と和平を談じ、また香港にいる蒋、李、白の手の要人に対しても秘密に連絡し第二の策を講じていること等を報告するものであった。

 小川は和平工作継続の為にこれを近衛首相に送付したが (4)、一方の宇垣大将は近衛に対する憤懣を収められず、日記(昭和十三年十月三、四日)に次のように記した。

 「十月三日外拓相の事務を近衛公に引継いで全く重荷を卸したり。新外相就任当初の記者団との会談に於て蒋の下野を強調して居る様である。夫れが彼の真意であるか、或一派に迎合の為の弁であるか、或は一派より云わせられたる談であるか?? 恐らく第二、第三の辺の処ではないか、夫れとも公卿流の東西南北何れにも調子を合して居る手に余が乗ぜられて居るのではないか、と思われる。

 御公卿様を擁して平家と同様に壇の浦まで行かねばなるまい! 仕方なく国民もその御伴を為さねばなるまい。しかしながら皇国は由来神護あり、決して衰亡の極に陥ることはないと自信する。只当面の国民は気の毒苦労なれども夫れは我慢して貰わねばならぬ!!!」

(1)【尾崎秀実著作集2】一二一頁。
(2)【小川平吉関係文書1】四一一~四一二頁。
(3)額田坦【秘録宇垣一成】二一二頁。
(4)【小川平吉関係文書1】四一三~四一四頁。



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龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民の戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究において最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
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