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国民のための大東亜戦争正統抄史16~20汪兆銘工作

【汪兆銘工作】


16、泥沼

 昭和十三年(一九三八)八月二十二日、大別山脈と揚子江に沿って漢口に向かい分進合撃を開始した兵力三十万を越える我が中支那派遣軍は、大陸の炎熱とコレラに苦しめられながらも敵軍の抵抗を排除し、十月二十六日、武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)を陥落させ、支那事変中最大の激戦となった漢口作戦は終了した。

 我が軍の損害は戦死者七千十一人、戦傷者は二万四千八百七人である。これに対し中華民国軍の損害は戦死者だけで約二十万、新規徴募兵百万人の補充を必要とする程であった。戦場における日中両軍の損害を比較すれば、漢口戦は我が軍の大勝利であるが、萱野長知が警告した通り、国民政府は我が軍の占領可能半径外にある支那大陸奥地の重慶に根拠地を移し、第二期持久戦態勢に入った。我が国は蒋介石政権の屈伏という作戦目的を達成できなかったのである。

 「其後の状態は遅々として進展なく、抗日長期戦の準備は現在の四期綫に敗れれば五六期と画策されつつある次第なれば何れの時下火に相成るべきかは見当つき不申、実に杞憂寒心の外無之候。但し我が使命の方は依然として努力致し居候間御安心被下度候。」(昭和十三年十一月十八日小川平吉宛萱野長知(在香港)書簡)

 我が軍は、天津、北京、青島、上海、南京、徐州、広東、漢口など支那大陸の主要大都市を占領したものの、支那戦線に二十四個師団以上もの兵力を吸引され、満洲には八個師団(極東ソ連軍は二十四個師団)、内地、朝鮮にはそれぞれ一個師団、台湾には軍司令部を残すのみとなり、予備の動員可能師団にいたっては皆無という惨状に陥ってしまったのである。

 しかも我が軍の漢口作戦準備中に、極東ソ連軍が、満鮮ソ国境付近を流れて日本海に水を注ぐ豆満江の河口より二十キロ上流にある満洲国領内の張鼓峰に不法侵入し、我が朝鮮軍(第十九師団)と衝突するという張鼓峰事件(昭和十三年七月十一日~八月十日)が発生した。朝鮮軍は、陸軍中央よりソ連領内への越境攻撃を禁じられる(専守防衛)という不利を克服して辛うじてソ連軍を撃退したものの、極東ソ連軍の侵入が威力偵察と本格的対日侵攻の準備を兼ねていたことは明白であった(1)。

 支那事変は武力によって解決される目途を喪失して泥沼化し、我が国に戦力国力の枯渇とかねてより参謀本部が危惧していた対支ソ二正面戦争という危機をもたらそうとしていた。一九三八年二月「抗戦必勝の条件と要素」として、

 「広大な土地と多数の人民―この二つの条件が、われわれの抗戦必勝の最大の武器である。われわれには四千万平方里の国土がある。このような遼遠な山河、このように果てしなく続く広大さは、一日本が総力を傾けても、すべてを侵略、占領することはできない。いやたとえ二つ、三つの日本が、現在の二倍、三倍の総力を集めても、まだわが全国の土地を占領はできない。この一点から言っても、日本がいかに凶暴であろうと、わが国家を亡ぼすことができないことは証明できる。広大な土地こそ、われわれが敵人との戦いに勝つ第一の最大の条件なのである。

 つぎに、われわれは五千年の悠久の歴史をもつ民族であり、全地球人類の四分の一、つまり四億五千万人の同胞がいる。このように歴史の古い、人口の多い偉大な国家は、小さな一日本が併合し、消滅しようとしても、決してできるものではない。四億五千万人の人口をたのみに、倒れてもあとに続き、死をかけて抵抗すれば、どのような力が生まれるだろうか。ただ、この事実を見るだけで、日本は絶対にわが中国を滅亡できないことが証明できる。多数の人口、これがわれわれの抗戦必勝の第二の最大の条件である。

 われわれはいま敵人と戦いを交えているが、これは時間を争っているのである。われわれは長い時間によって広大な空間を守り、広大な空間によって抗戦の時間の延長をはかっている。それによって敵人の戦力の消耗をはかり、最後の勝利を戦い取るのである!」

と演説した蒋介石の「空間を以て時間に換え、敵前を変じて敵後となす」持久戦略が功を奏したといえよう(2)。

(1) 一九三〇年以降、外蒙古ではソ連の虐政に対する反乱が頻発しており、一九三七年にゲンデン前首相やマルヂー参謀総長を始め政府軍部要人とラマ僧約二千人を含む約二万六千人がソ連軍によって反乱分子とみなされ処刑された。当時の外蒙古の総人口は約八十万人であるから約三十人に一人が殺害されたのである(小田洋太郎、田畑元【ノモンハン事件の真相と戦果ソ連軍撃破の記録】二十三頁)。
(2)【蒋介石秘録12】一五六~一五八頁。


17、松本重治と高宗武

 以上の様に戦場における我が軍の勝利とは裏腹に、我が国にとって戦況が著しく悪化してゆく中、渡日を終え上海に帰還した高宗武と松本重治等によって秘かに継続協議されていた和平裏面工作、すなわち汪兆銘(号は精衛)を中心とする新政権樹立工作の準備が進行していた。

 八月二十七日、高宗武の要請を受けて上海から香港に赴いた松本重治は、体調を崩した高から国民政府中央宣伝部長、周仏海の部下の梅思平(中央宣伝部香港特派員)と交渉するよう依頼された。翌日、松本は、神尾茂(朝日新聞社編集局顧問)と会談し、神尾は中村総領事と喬輔三の交渉内容や、張季鸞が「日本が相手とすべきは絶対に蒋介石である」と主張していること等を話した。松本は、

 「喬輔三はよい人物だが大任を果たせる力量は疑わしく、おそらく孔のメッセンジャーだけだろう。中村総領事はまじめな能吏ではあるが、外交官の通弊で中国との接触を独占的に考える傾向がある。喬輔三相手なら、機略ある外交交渉はおぼつかないのではないか」

と疑問を呈した(1)。松本が進めている高宗武との交渉について、神尾茂は、日記(昭和十三年八月二十八日)に次のように記している(2)。

 「松本君の話すところによると、彼は高宗武を伴れて日本に渡り(高は六月廿九日上海を立つ)一週間日本に滞在し、多田、板垣、岩永同盟社長(近衛公に代り)に面談した。板垣陸相は高に対し、

 『日本は従来の因縁によって、どうしても蒋介石と両立せぬ、若し蒋に代って汪兆銘が出るならば、条件を寛大にし、十分面子を立てるようにして、決して漢奸に終らしめることをしない。』

ということを汪兆銘に伝えさせた。高らのグループは四十代の新官僚四十二名より成る秘密結社である。抗日の結果の寒心すべきものであることに目醒め、蒋介石を犠牲にするにしても国家の大事には代えられぬと決心し、蒋の下野を、内面的圧迫によって成し遂げようとしている一派である。高宗武は日本から帰って来て漢口へ行けなくなった。蒋介石一派の不興を買ったので危ういとて、周仏海等から漢口行を止めて来た。

 それで高は乾児をやって、私(わたくし)に汪兆銘に板垣の意向を伝えさせた。そこで秘密にこれを受けて研究中であって、蒋介石一派に内密になっている。最近、陳伯生が漢口から出て来たが、これも汪兆銘の傘下にあり、日本との接近を策している。」

 九月五日には、神尾茂が松本重治を訪ねて時局を語り、松本から多くの重要な情報を得た。神尾は「松本君のやっている筋が将来メーン・コースとなりて、実現するに非ずや」と思い、松本との談話の要領を次のように日記に書き留めた(3)。

 「今度香港滞在中に、高宗武ら一派と前後七回会見した。今朝の如きは、六時半から八時半まで高と話し、八時半から十時過ぎまで周作民が来て加わったので、三人鼎座で語った。結局支那の第一案は見込みなく、第二案に依る外あるまいというので、今度の会見でその手順を研究打合わせをしたようなものだ。即ち漢口が陥落し長沙が取れて、日本の軍事行動が一段落した時を移さず、日本は新たに声明書を発表し、対支戦争の目的を述べて、蒋介石の下野を迫る。蒋にして素直に下野するなれば、日本は必ずしも条件を強要して、支那を圧迫せず、頗る寛大に善後策を樹ててやろうと思う。

 自衛的停戦の宣言を発表する。これを機会に汪兆銘の一派が内部から策応して、蒋介石の下野を余儀なくせしめ、国民政府の改造を断行して、日本の声明に順応する。

 今度の会見に於いて、日本の声明に織り込むべき支那の希望、日本側に予め諒解して貰いたき箇条について意見を交換したのである。支那では五色旗でなく、是非とも晴天白日旗を維持さしてほしいと言っているが、肝腎の下野とその後の国民政府の改組は、何でもなく出来るように信じているようだ。この計画は極めて秘密に進められており、蒋介石の幕僚(張群一派は除外さる)と汪兆銘の一派とが、一致してやっていることが特色と言える。張群の手のものを除外したのは、蒋介石に知れたら如何なる弾圧の手が及ぶかも知れないからである。

 高宗武らの一派は、張群の筋から日本に対して、第一案の達成を運動しているとの説を耳にしているが、それは物になるまいと見ている。即ち蒋のために命乞いは駄目だと見ている。今度初めて最後の会見の時になって打ち明けたところによると、西南各省の軍人に働きかけて、大規模の組織になりつつある。何鍵、龍雲、陳齊棠、張発奎が主なるもので、師長級には相当手広く渡りをつけている。

 日本軍が漢口、長沙を取り西安もやるそうだから、一二回重慶の空襲を試み、恐怖のドン底に陥れた後なら相当成功の見込みがあるだろう。自分(松本君)は近く日本に帰り、このラインに添うた運動を試みるつもりである。」

 松本重治と梅思平は和平条件を協議し、日本軍がバイアス湾奇襲上陸作戦を敢行し広東を陥落させた十月二十一日、高宗武に代わり梅思平が、重慶に赴き上司である周仏海と協議した上で、汪兆銘にこれまでの経緯を報告し、決起を促した。汪は初めて聞く話であり即答を避けたが、漢口が陥落するに及んで、汪の和平心は強化され、梅思平に改めて対日交渉を命じたのであった。

(1)松本重治【上海時代下】三〇六頁。
(2)神尾【香港日記】七十二~七十三頁。
 昭和十三年十一月十八日陸軍省部決定「十三年秋以降戦争指導方針」には「高宗武一派を利用する新官僚及民衆獲得工作を取る」とある。  
 リヒャルト・ゾルゲを逮捕した吉河光貞検事によれば、ゾルゲは検事訊問に対し支那におけるソ連の諜報組織の詳細を隠し通したという。
 松本重治の傘下には中国共産党や尾崎秀実と緊密な関係を有し、尾崎の情報源となっていた共産主義者の中西功(満鉄調査部上海事務所、戦後共産党員)が居た(【現代史資料ゾルゲ事件2】一〇〇頁。三田村【戦争と共産主義】二四七頁。西義顕【悲劇の証人】二〇九~二一〇頁。ゴードンプランゲ【ゾルゲ東京を狙え下】二九九頁)。
 
 もし松本のいう「新官僚」が近衛上奏文(後述)に登場する「新官僚」と同じ意味を持っていたのならば、高らの秘密結社とは上海に複数存在したコミンテルン諜報機関の細胞だったのかもしれない。
 松本蔵次によれば、日支双方に正反対の情報を打電した高宗武の奇怪な行動を知った漢口政府は直ちに彼の逮捕命令を発したという(三田村【戦争と共産主義】一五六~一五七頁)。

 今井武夫【支那事変の回想】六十九頁には、「高宗武がそのまま漢口に帰れば蒋介石の意向に反して無断で渡日した以上、逮捕あるいは監禁されることは必然であった」と記され、【蒋介石秘録12】一八八頁には、高宗武が蒋介石に彼の渡日期間の日記、会談記録、個人の感想を送付し、「ご参考にすれば、あるいは小官の越権の罪の万分の一でもあがなうことができると存じます」と謝罪したと記されている。
(3)神尾【香港日記】八十~八十二頁。


18、第二次近衛声明

 昭和十三年十一月三日、近衛内閣は第二次近衛声明を発表した。この声明は、

 「今や陛下の御稜威に依り帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要域を戡定した。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、尚同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが壊滅を見るまで、帝国は断じて矛を収むることなし。

 帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に存す」

と述べ、「新秩序」とは日満支三国の提携で東亜に国際正義・共同防共・経済結合・新文化の創造を実現することであるとした。更に声明は、

 「帝国が支那に望む所はこの東亜新秩序の任務を分担せんことに在り、帝国は支那国民が能く我が真意を理解し以て帝国の協力に応えんことを期待す。固より国民政府と雖も、従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ新秩序の建設に来り参ずるに於ては敢えて之を拒否するものにあらず。惟うに東亜に於ける新秩序の建設は我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。帝国は必要なる諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、万難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。茲に政府は帝国不動の方針と決意を声明す」

と述べた。近衛首相はこの政府声明を敷衍してラジオを通じて国民に訴え、

 「支那における先憂後楽の士は速やかに支那をして本来の道統に立ち還らしめ、更生支那を率いて、東亜共通の使命遂行の為に決起すべきであります」

と新しい指導者の出現を呼びかけ、第一次近衛声明中にある「帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し之と国交調整して更生新支那の建設に協力せんとす」の具体化を示唆したのである。       

 十一月十二日から十四日にかけて上海の重光堂において、梅思平は今井武夫中佐、西義顕、伊藤芳男と会談し、これまで協議されていた次のような和平条件がまとめられた。

1、日支防共協定の締結と日本軍の防共駐兵。
2、支那は満洲国を承認する。
3、日本は治外法権の撤廃と租界の返還を考慮する。
4、日本の優先権を認める日支経済提携。
5、日本軍は和平克復後に即時撤兵を開始し支那内地の治安恢復と共に二年以内に完全撤兵する。但し「防共駐兵」は協定期間存続。

 これに対して、梅思平は合意に成立に伴う支那側の挙事計画を提示した。

1、汪兆銘は、日本政府の条件承認を知った一両日後、同志とともに重慶を脱出して昆明に向かう。
2、汪の昆明到着後に、日本政府は和平条件を公表する。
3、汪は蒋介石との断絶を声明し、ハノイ経由で香港に出て、東亜新秩序設定の為、和平呼応および反蒋声明を発表する。
4、汪の声明に応じて、雲南軍、四川軍が反蒋独立する。雲南省主席龍雲と四川軍将領とは同志としての盟約がある。
5、汪は、雲南、四川その他の日本軍未占領地域に新政府を組織し、日本は広西、広東から撤兵して両省を新政府の地盤に加える。    


19、脱出

 十五日、今井中佐は帰国し東京の陸相官邸において、以上の内容を陸軍省と参謀本部の幹部に報告したところ、一同は驚き、かつて孫文の後継者と目され、蒋介石の片腕である汪兆銘が反蒋決起し日本と提携するという和平工作に疑念を抱き、今井中佐に「君は支那人に騙されているのではないか」と訝しがった。

 しかし極東ソ連軍の脅威が増しつつある中、陸軍には重慶まで蒋介石を追撃し屈伏させる余力はなく、中央直轄の土肥原機関が行っていた呉佩孚工作―呉を迎え、日本軍の支配下にある北京の臨時政府と南京の維新政府を統一し、新支那政府を樹立する―も頓挫の気配を見せ始めていた為、板垣陸相、多田参謀次長を始め陸軍首脳は協議した上、支那事変解決の希望を託して汪兆銘工作に同意したのである。 

 二十日、今井中佐は、陸軍省軍務課長の影佐禎昭大佐と逓信省参与の犬養健と共に再び上海の重光堂に赴き、高宗武、梅思平と前述の和平条件を盛り込んだ「日華協議記録」を作成、これに調印し、梅思平は早速香港、ハノイを経由して重慶に帰還し、汪兆銘と脱出の段取りについて協議した。

 三十日、我が国の御前会議は日華協議記録の内容に即した「日支新関係調整方針」を決定し、十二月一日、香港に舞い戻った梅思平が我が国政府に対し、

 「汪兆銘は八日に重慶を出発し、成都経由で十日に昆明に到着する。脱出は機密を要するので日本側和平条件発表は汪が安着した後、十二日頃にしてほしい」

との回答を送ってきた。日支両国において汪兆銘工作の準備が整えられたのである。
 斯くして汪兆銘は遂に我が国に対する盟約に従い決起した。予定は狂ったものの、十八日、夫人の陳壁君、秘書の曽仲鳴を伴い、飛行機で重慶を脱出、昆明を経て十九日に仏印のハノイへ到着、二十二日、近衛首相は日支新関係調整方針に基づき、第三次近衛声明を発表した。


20、第三次近衛声明

 「政府は本年両度の声明に於いて明らかにしたる如く、終始一貫、抗日国民政府の徹底的武力掃蕩を期するとともに、支那における同憂具眼の士と携えて、東亜新秩序の建設に向かって邁進せんとするものである。今や支那各地に於ては、更生の勢力澎湃として起り、建設の機運愈々昂まれるを感得せしむるものがある。ここに於て政府は更生新支那との関係を調整すべき根本方針を中外に闡明し、以て帝国の真意徹底を期するものである。日満支三国は東亜新秩序の建設を協同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである。これが為には先ず何よりも旧来の偏狭なる観念を清算して、抗日の愚と満州国に対する拘泥の情とを一擲する事が必要である。即ち日本は支那が進んで満洲国と完全なる国交を修めん事を率直に要望するものである。次に東亜の天地にはコミンテルン勢力の存在を許すべからざるが故に、日本は日独伊防共協定の精神に則り日支防共協定の締結を以て日支国交上喫緊の要件とするものである。而して支那が現在直面する実状に鑑みこの防共の目的に対する充分なる保障を挙げる為には、同協定継続期間中特定地点に日本軍の防共駐屯を認むる事及び内蒙地方を特殊防共地域とすべき事を要求するものである。

 日支経済関係については、日本は何等支那に於て、経済的独占を行わんとするものに非ず。又新しき東亜を理解し、これに即応して行動せんとする、善意の第三国の利益を制限するが如きことを支那に求むるものにも非ず。唯だ飽迄日支の提携と合作とをして実効あらしめんことを期するものである。

 即ち日支平等の原則に立って、支那は帝国臣民に、支那内地に於ける居住営業の自由を容認して、日支両国民の経済的利益を促進し、且つ日支間の歴史的経済関係に鑑み、特に北支及び内蒙地域に於ては、其の資源の開発利用上日本に対し、積極的に便宜を与える事を要求するものである。日本の支那に求むるものの大綱は、以上の如きものである。日本が敢えて大軍を動かせる真意に徹するならば、日本の支那に求めるものが、区々たる領土にあらず、又戦費の賠償に非ざることは明らかである。日本は実に支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要なる最小限度の保証を要求するものである。日本は支那の主権を尊重するは固より、進んで支那の独立完成の為に必要とする治外法権を撤廃し、且つ租界の返還に対して、積極的なる考慮を払うに吝かならざるものである。」

 張鼓峰事件と漢口作戦時における近衛首相の戦争指導の実態は明白に「親ソ拡共」であり、近衛声明は「日本軍の撤兵」に言及せず、近衛文麿の意図が「日支和平」とは正反対の方向に向かっていることを示していたにも拘わらず、汪兆銘は、二十九日、近衛声明に呼応し、重慶の国民政府に「反共、対日和平」を提議する通電を発した。この通電要旨は支那の主権と独立を尊重すると明言している第三次近衛声明を信頼して日支和平交渉に入るべきであると述べ、

 「支那の抗戦の目的は国家の生存と独立にある。正義に合致する平和で戦争を収束できるなら、国家の生存と独立は保持できるのであるから抗戦目的は既に達成されたことになる」

と説き、日中和平の確立を訴えた。だが汪の訴えも空しく、龍雲ら雲南、四川の諸将は動かず、蒋介石は第三次近衛声明に対して、

「近衛は『東亜新秩序は中国が新生したのちの日満支三方面の合作を基礎にする』といっている。だが、彼のいう『中国の新生』とは、独立した中国をほろぼし、それとは別に奴隷的中国をつくって、永遠に日本の支配下におこうというものであり、『新秩序』とはこうした奴隷国家となった中国と日本、および日本がつくったニセ満洲国との緊密なつながりにもとづいてできあがるものなのである。

 いわゆる『東亜協同体』の日満支も、平面関係ではなく立体関係でなければならぬと公言している。すなわち家長制であり、日本を家長とし、満支を子弟とすべきだというのである。言葉をかえれば、前者は統治者であり、主人であり、後者は被統治者であり奴隷である。これが併合でなくて、何であろうか。

 彼のいう『経済集団』は、わが中国の関税と金融を操縦し、わが国全体の生産と貿易を一人占めし、ひとり東亜の覇権をほしいままにしようとするだけではない。さらに歩を進めれば、中国のすべての個人の衣食住と行動を制限し、いささかの自由も与えず、生殺与奪権を思うままにし、中国民族を一人残らず奴隷となし、牛馬となして、鞭打ち搾取して、中国民族を消滅するものとなるであろう。

 いわゆる興亜院(註、十二月十六日設置)は、中国滅亡計画のすべてを執行する最高機関にほかならない。日本がこれまで、中国で悪事を重ねてきた特務機関を集大成する総特務機関が、覆面をはずし、憶面もなく敢然と成立したわけである。

 近衛の声明を総合して断言できることは、日本が真に欲するところは、わが国を丸ごと併呑し、わが民族を根本的に消滅することにあり、いわゆる中日合作とか経済提携などの形式にあるものではない。

 われわれは、かつて日本人が、日韓一体、日韓不可分などの言葉で朝鮮の人民を惑わし、麻痺させたこと(朝鮮併合)を忘れていない。いま彼らはまた『日満支不可分』『東亜協同体』をさかんに唱えている。あっさりいえば、それは『中日合併』であり、『日本大陸帝国』の完成にほかならない。

 現在、彼らの中国滅亡計画と、その道具だてはすべて整い、侵略併呑の意図と手段もあますところなくあらわとなった。あとは、中国がそれにだまされ、その威脅を受けて屈伏し、ワナに引っかかるのを待っているだけなのである」

と激しく反論し(1)、続いて昭和十四年(一九三九)一月一日、国民党は汪兆銘を「是非を転倒して敵の方を持つもの」と非難応酬し、売国奴(漢奸)として汪の党籍を永久に剥奪し、一切の公職からも追放する決議を行った。
 そしてその三日後には、何と汪の交渉相手である近衛内閣が支那事変を放置したまま総辞職してしまい、この余りに酷い近衛の無責任に怒りを通り越して呆れ果てた参謀本部戦争指導班は、

 「支那事変の処理方針は、近衛三原則に非ずして三無原則に陥りつつあり。無定見なるが故に方針は明確安定ならず、無責任なるが故に国策必ずしも実行を伴わず、無反省なるが故に過誤反覆して恬然たり。これ国の禍なり。近衛総理は百万の軍を野に曝して逃亡せり」 

と慨嘆したのであった…(2)。

(1)【蒋介石秘録12】一九九~二〇〇頁。
(2)堀場【支那事変戦争指導史】二四二頁。



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龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究に於いて最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

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