スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

国民のための大東亜戦争正統抄史21~24汪兆銘工作の謀略的意義

【汪兆銘工作の謀略的意義】
 

21、主謀者

 昭和十三年十二月二十二日発出の近衛声明は、

 「近衛声明原案を尾崎は牛場首相秘書官と共に執筆したり。この時執筆はせざりしも同室に在りて意見を述べつつありし者に西園寺公一と岸秘書官有り。この声明案は文章等に付陸軍方面に異論有り。異論の有する事を影佐軍務課長より風見書記官長に対して述べたる結果、更に一の試案を中山優氏が書き、首相の意見を加え、最後に之を基として陸海立会の上にて清書したるもの」(犬養健手記)

である(1)。そして汪兆銘工作の主謀者は、近衛の最高政治幕僚、尾崎秀実であった。尾崎は汪兆銘工作について次のように供述した(2)。 

 「昭和十三年春頃より当時同盟通信上海支局長であった松本重治と南京政府亜州司長高宗武との間に日支間の平和回復に関する努力が払われていました。当時高宗武の肚は蒋介石を引出す意図であった様に察せられましたが其処へ周仏海等が合流したことに依り汪兆銘派の運動に変形し奥地に居る汪兆銘との密接な連絡が生じて行きました。此の運動には上海に於ける日本の特務機関も関連を持ち影佐少将も参加するに至ったものであります。

 昭和十三年春には高宗武が秘かに渡日し下相談が進められ松本重治等の斡旋に依り近衛内閣も直接工作に携り松本の友人である犬養健、西園寺公一等も直接交渉の常事者として之に参加するに至りました。

 私(註、尾崎秀実)は此の工作には直接参加しなかったのですが犬養、西園寺等と友人関係にあることや近衛内閣の嘱託であったことから此の間の情況を屡々耳にし又同人等より此の工作に付き意見を求められて居りました。日支関係は全面的和平の望がなく長期戦の形を取って来るので近衛内閣としては一面蒋介石に対する未練がありながらも汪兆銘工作に力を注ぐこととなり、汪兆銘は日本側と連絡を取りつつ重慶より昆明雲南を経てハノイに脱出し、昭和十三年十二月二十三日の近衛首相の更生新支那との国交調整に関する声明に呼応して、三十日重慶に対し通電を発するに至りました。

 近衛内閣は翌十四年一月総辞職し平沼内閣となりましたが汪兆銘工作は其のまま平沼内閣に引継がれ、現地の軍部、外務省、興亜院の参加の下に前述の諸氏により交渉が継続され昭和十四年春には汪兆銘の上海乗込みとなり次で汪兆銘は秘に上京し、近衛公、平沼首相等と会見して上海に帰り、真正国民党の大会を開き、秋には青島会議が開かれ、次いで翌十五年三月三十日南京に於て国民政府の還都式が挙行され、阿部全権大使の渡支となり、同大使と汪兆銘政府との間に正式交渉が行われ、遂に同年十一月三十日汪兆銘の新国民政府に対し日本の正式承諾となり、日華の間に条約の成立を見たのであります。併し乍ら此の間に於ても蒋介石との直接交渉及地方軍閥工作等が、汪兆銘工作の進展と並行して依然として行われて来て居りました。

 日本と蒋介石との直接和平交渉は早くより香港を中心として小川平吉氏、萱野長知氏、頭山満氏の子息、軍関係者、外務省関係者等その他に依り、夫々別々な路線を通して工作が行われていたことは新聞記者仲間の話、現地での聴込み、反対の立場に立つ汪兆銘運動関係者の話等から聞いて居りました。」

 西園寺公一(西園寺公望の孫)と犬養健(犬養毅の長男)は、近衛の最側近にして尾崎秀実の大親友で、ゾルゲ機関に深く関与し(いずれもゾルゲ事件に連座)、とくに西園寺は生涯中国共産党を崇拝し続けた狂信的共産主義者であった。同じく近衛の最側近であり尾崎と親交していた松本重治も第二次世界大戦後、共産中国に操を立て台湾訪問を拒絶した人物であり、松本が高宗武と共に萱野老人の和平工作を妨害し、我が陸軍に漢口作戦を強行させた張本人の一人であった。

 犬養健によれば、昭和十三年七月に高宗武が来日した際、軍人以外で高に面会した者は、松本、西園寺、犬養、そして尾崎秀実であったが(西義顕、伊藤芳男の両名は案内者)、尾崎は影佐禎昭に迷惑をかけることを恐れ、西園寺の友人であると述べて列席したという(3)。

 昭和十四年三月末、香港に赴いて萱野長知と合流した小川平吉が、「このままでは第三国を利するのみ」と危惧し蒋介石の幕僚に日支和平の必要性を説いていた杜石山(広西軍閥の李済深の参謀長、日本の陸軍士官学校卒業)や張季鸞らと和平会談を行っていた頃、汪兆銘一派がハノイで重慶暗殺団の襲撃を受け曽仲鳴を暗殺された為、四月初旬、影佐禎昭大佐は犬養と共に、山下汽船「北光丸」に乗り込み、汪兆銘一派を救援し、五月五日、彼等を乗せた北洋丸は上海に入港した。ここで梅思平と共に汪兆銘に合流した高宗武は、五月七日にまたしても不可解な行動を取り、「和議は到底日本軍部の容るる所とならざるべし」と重慶に打電したのである。これに接した蒋介石は、

 「小川翁の港に到るは何の為なりや。日本軍人亦極めて明瞭たらん。何を以て便法を商定せざる以前に在りて、継続して重慶を爆撃するや。是を以て日本軍政二界の不協調を知るに足る。即ち小川翁有心以て和平を促起するも、深く恐る、中途少壮軍人の阻害する所となるを。是れ慮るべきなり。万一和議の交渉中途に挫折し、蒋自己の失敗に因て政権紅軍の手に落ちば、国に前途、苦悩更に多し。委曲全きを求むる所以にして徹底の所に想到するに非るなきなり。小心ならざらんと欲するも、自ら亦為し難き処あり」

と小川を詰問して和平交渉の前途に対する深い疑念を示し、また同時に昭和十三年十二月から重慶や蘭州など支那大陸奥地に在る国民政府の政戦両略の要地および航空基地に対する戦略爆撃を開始した日本軍部への強い不信感を示したのである。小川は、この蒋介石の疑念と不信を解く為、六月二日、杜石山を介して蒋に、

 「日本政府も対外案件を決定せる以上は、少壮軍人に覆されるが如きことなし、予らは政府の代表者に非ざれども、代表以上の人を以て自任するものなり、蒋氏の苦衷は諒解せり」

という覚書を送付し、蒋を擁護するに吝かならざることを申し入れたところ、蒋介石は、

 「実は小川先生の来函あるや、之を端緒として要人派遣の意を決し、陳部長をして現地二、三の軍人に打合わせをなさしめたる後、先生の函を直系幹部会に提出し、代表派遣交渉着手を議したるに、共産党員等多数が軍事委員会会場に押しかけて蒋に面会を求め、主和者の逮捕厳罰、統一戦線反対者の駆逐、西安への遷都を要求し、形勢頗る宜しからず、就いては新たに措置を講じ、時機を見て和平を実現せんとす。此の旨諒解を乞う」

と回答せざるを得なかった(4)。つまり小川平吉と萱野長知の和平工作は汪政権樹立派と中国共産党の双方によって妨害されたのである。渡日した汪兆銘による政権樹立の阻止を重慶政権から要請された小川は、十一日、萱野長知を香港に残して帰国の途に就いた。

 小川や萱野の和平工作と時期を同じくして、上海では、ソ連の動向を警戒する参謀本部ロシア課から派遣された小野寺信中佐がアスターホテルに事務所を設け対ソ諜報活動を行っていた。五月上旬、小野寺中佐は影佐機関による汪政権樹立工作胎動の徴候を察知し、このまま之を放置すれば日本の運命ひいては東亜の将来に一大事をもたらすおそれがあり、支那事変の処理は対重慶直接交渉を措いて他ないと判断し、早速に南京の中支派遣軍総司令部を訪ねた。小野寺中佐は、派遣軍総参謀長の河辺正三中将と膝をつき合わせて談判し、中佐自身が陸軍中央に赴き派遣軍首脳部の名において参謀本部および陸軍省を動かす一方、支那大陸の事情に精通している小野寺機関員の吉田東祐と、吉田に接触してきた重慶特務機関CC団員の朱泰耀と姜豪(国民党上海市党部委員)を香港に派遣して、国民党組織部副部長の呉開先やマフィアの杜月笙等を通じて、重慶政権と交渉し、近衛または板垣を蒋介石またはその代理者と会見させ、一挙に支那事変の解決を図ることを力説した。すると河辺総参謀長は、この案に全幅の信頼を寄せ、「必要の経費は総軍司令部から支出するから後顧の患のない様に」と述べ、小野寺中佐に全権を委任し、速やかに上京して、中央の首脳部に諮って善処する様に命じたのであった。

 小野寺中佐は留守中の手配を吉田に委せ東京に赴き、陸軍士官学校の同期であり時期を同じくして欧州に勤務した親友の臼井茂樹大佐に相談した。参謀本部第八課長の臼井大佐は、影佐大佐らと共に汪政権樹立派の中心として動いており、上京中であった周仏海と密かに謀議を進めている最中であったが、内心は対重慶工作の必要性を考慮しており、小野寺中佐の説に耳を傾け、

 「よし、板垣陸軍大臣、中島参謀次長と一晩会って話してみようじゃないか、俺が斡旋の労を取る」

と賛意を示したのである。間もなく陸相官邸で臼井大佐と共に大臣、次長と会見した小野寺中佐は、直接交渉説を力説し、板垣の決意を促したところ、板垣陸相は、

 「日本は目下親米疏英政策によって、英米を離間する政策が着々進んでいる。又約十億ドルの借款の話も進んでいる。何も今更重慶に秋波を送る必要もあるまいが、君の言うことも一理ある。それができれば勿論結構だ。香港での直接交渉をやってみてもよい」

と小野寺工作を許可したのである。

 ところが上海に潜伏する重慶特務工作組織を掃討する為に、土肥原機関と影佐禎昭大佐によって上海ゼスフィールド路七十六番地に設立された汪派特務機関の丁黙存と李士群(元CC団員)の一隊が、香港に出発しようとした姜豪一派を逮捕し、日本軍憲兵隊に引き渡したという電報が吉田より参謀本部に着信した為、小野寺中佐が臼井大佐に相談したところ、参謀本部は直ちに釈放命令を発した。参謀本部では、「汪兆銘工作が日蒋直接和平の障害となること」を警告し「日本は満洲を除く全支那大陸から撤兵して蒋介石と講和しソ連に備えるべきである」と力説する小野寺中佐と意見を交換した作戦課の中枢である秩父宮雍仁親王中佐と堀場一雄少佐が汪兆銘の擁立に疑念を抱き、小野寺工作を暗黙内に鞭撻していたからであった。

 小野寺中佐は、改めて和平工作の準備を進める為に上海に帰還する途中に福岡雁巣飛行場で、小野寺機関の和平活動を知り上海から急いで帰日した影佐大佐と鉢合わせとなり、両者は、支那事変の処理方策を巡って大激論を戦わせたのであった(5)。

 小野寺中佐の上海帰還と入れ違いに上京した影佐大佐は、対重慶和平工作の中止と汪政権の樹立とを陸軍首脳に具申しただけでなく、

 「小野寺を何としても東京へ戻せ、さもなければ小野寺の命は保証しない」

とまで主張して、小野寺中佐を激烈に排撃し、彼を陸大教官に左遷させてしまい(6)、斯くして六月六日、五相会議は従来の新政権樹立工作と対重慶工作の混淆というべき「汪、呉、既成政権、翻意改善の重慶政府等を以て構成分子とする」中国新中央政府樹立方針を決定したのであった。

 この後、影佐大佐は犬養や松本重治を始め多数の新聞人が参加した政府直轄の「梅」機関を指揮して、汪兆銘政権樹立を強引に主導したのであるが、石射猪太郎に「陸軍の知能犯」と形容された影佐禎昭(後、中将、南京政府軍事顧問)は、池田純久と同じく東京帝大に派遣され(池田は昭和四年四月~昭和七年三月、影佐は大正十四年四月~昭和三年三月)、マルクス主義に汚染された統制派の革新幕僚であった。影佐は池田、今井武夫、柴山兼四郎と共に昭和同人会(昭和研究会の外郭団体。昭和十三年四月十五日発足)に名を連ねており、尾崎秀実や犬養、風見章(元信濃毎日主筆。近衛の最側近で尾崎の大親友。第一次近衛内閣の内閣書記長、第二次近衛内閣発足時の法相。戦後社会党左派に所属しソ連のフロント組織、世界平和評議会の委員や日ソ協会の副会長を務めた狂信的共産主義者)と親睦を深めていた(7)。

 つまり驚くべきことに、汪兆銘工作は表面上「反共和平」を謳いながら、尾崎と彼に連絡していた共産主義者によって準備実行され、彼等は汪兆銘工作と同時並行していた我が国の対重慶和平工作を妨害していたのである。

 内閣嘱託として近衛文麿に支那事変処理に関する意見と汪兆銘工作に付いての意見を具申していたのは尾崎秀実であり、尾崎はソ連のスパイとしてソ連を包囲する資本主義国家群を噛み合わせて消耗崩壊させ、敗戦革命へ誘導せよというレーニンの敗戦革命論およびコミンテルン二十八テーゼ(コミンテルン第六回大会決議、帝国主義戦争と各国共産党の任務に関するテーゼ、一九二八年八月二十九日)に沿い、明らかに支那事変の拡大長期化を画策していた。そして尾崎の獄中手記(8)が述べているように、尾崎秀実が遂行していた任務は、狭義には日本帝国主義からソ連を防衛すること、広義には世界資本主義体制に替わる共産主義的世界新秩序と、その一環としての東亜新秩序を創建することであった・・・。

 そうだとすれば、多田駿参謀次長以下陸軍参謀本部の早期和平方針を粉砕した第一次近衛声明に連動して尾崎等一連の共産主義者によって樹立された汪兆銘を首班とする新興親日政権の正体は何であるか。それは、二十八年テーゼ(ブルジョアは、戦争の内乱への転化を阻止する為に、重要な思想的武器として「平和」に訴えるが故に、共産主義者は、平和に関するあらゆる空文句に対して精力的に戦わなければならない)に従い、最も有効な「戦争との闘争手段」「戦争反対の処方箋」である日蒋間の和平講和交渉を遮断し支那事変を長期化させる為に、尾崎等共産主義者によって打ち込まれた「楔」(障害物)であり(9)、日蒋双方を消耗させ(国民政府を徹底的に武力掃討し抹殺する)ソ連および中国共産党の防衛と強大化を図り、東亜新秩序を実現することを目的とするソ連の作為戦争謀略(make war)の成果であったと言わざるを得ない。

(1)尾崎秀実、今井清一【開戦前夜の近衛内閣】三十一頁。
(2)三田村【戦争と共産主義】二二一~二二二頁「尾崎秀実獄中手記」
(3)【現代史資料ゾルゲ事件4】五一〇頁。尾崎、今井【開戦前夜の近衛内閣】二十八頁。
(4)【小川平吉関係文書1】四八二~四八六頁「小川平吉日記昭和十四年五月二十六日~六月五日」、六五五~六五八頁「赴香始末」
 この小川の記録によれば、汪工作に猛反対した香港総領事の田尻愛義は、昭和十四年五月二十六日、「高の香より上海に赴くに際し(五月初か)、日本某武官と某外交官と二人同船にて高に対し日本は決して蒋を相手として講和をなすものに非る旨を詳説し、且つ曰く、蒋は早く謝罪するか共産党討伐でもやるが宜し云々と語りたるに、高は悟る処ありて之を蒋に打電して可なるやと問いしに付き、二人は可なりと答えたり、彼は直ちに之を打電せしならん」と小川に報告した。
(5)吉田東祐【二つの祖国にかける橋】一一四~一一八頁「小野寺信中佐覚書」
 吉田は自分の生活可愛さに、昭和八年、本当に左翼運動から離れた元非常時共産党員であり、「祖国敗戦主義の理論の上では帝国主義日本が中国の固い壁に頭をぶつけて崩壊することは喜ぶべきことなのかも知れない」と考えていたが、これにより数百、数千万人の人間が死んで逝くことには耐えられず、参謀本部ロシア課の嘱託を引き受け、支那大陸に赴き和平工作に従事したのである。吉田の言動は、革命の実現に執念を燃やして人間の良心を喪失した共産主義者が、支那事変に如何なる態度で臨んだか、を示唆していよう。
 
 また吉田によれば、小野寺機関に出入りしていた近衛文隆(文麿の長男、東亜同文書院理事)は、上京する小野寺中佐に、蒋介石に対する直接和平交渉の必要性を説く、父親宛の親書を手渡し、蒋介石の側近戴笠少将率いる重慶特務機関「藍衣社」に自ら接触するなど、熱心に対重慶直接和平工作を行った為、汪工作推進者から睨まれ、昭和十五年二月、召集令状一本で満洲に送られたという。
 文隆は、敗戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留され、昭和三十一年(一九五六)十月二十九日、イワノバ州レジニェヴォ地区チェルンツィ村内務省第四十八号ラーゲリで謎の死を遂げた。ソ連の謀略に立ち向かい、獄中におけるソ連の洗脳に屈しなかった彼が、もしソ連より生還を果たし日本に帰国していれば、ソ連の表裏を知り尽くした強靱な反共の首相として、ソ連を礼賛する革新勢力の跳梁跋扈を許さず、日本再建に尽力する可能性を秘めていただけに、彼の死は我が国にとって痛恨の損失であった。
(6)小野寺百合子【バルト海のほとりにて武官の妻の大東亜戦争】六十五~八十二頁、今井武夫【支那事変の回想】一五四頁。
(7)後藤隆之助【昭和研究会】一〇五頁「昭和十四年一月作成昭和同人会規約及名簿」
 第一次近衛内閣成立にあたり、風見章を書記官長に推したのは、当時の陸軍次官梅津美治郎の意を呈した柴山軍務課長であるという(三田村【戦争と共産主義】一三四頁)。
(8)三田村【戦争と共産主義】二一一~二三五頁。
(9)三田村【戦争と共産主義】一六七頁。


22、永久抗争

 近衛内閣が汪兆銘政権を公式承認し、国際法上において我が国の交戦相手である蒋介石の重慶政権を完全に否認した昭和十五年(一九四〇)十一月三十日、昭和天皇が参謀総長の杉山元大将に対して、次のように下問されていた。

天皇「我が国もいよいよ汪政権を承認した以上、いわゆる全面和平は当分難しいと思うが、そうすれば、政治的に見れば持久戦ということになるのであるが、この際徹底的に蒋介石を撃破する方策があるか」
杉山「それは難しい」
天皇「それならば、我が国の財政物資等の見透しからしても、この際、戦線を整理して国力相応に調整する必要はないか」
杉山「急に兵をひくと敗北したと宣伝されるおそれがある、漢口は維持する必要があります」
天皇「それはそうかも知れぬが、この際思い切った案を立てないといけないのではないのか」

 昭和天皇は重ねて下問されたが、杉山総長は「充分研究致します、財政物資等の問題は充分考慮致します」と答えただけであった(木戸幸一日記昭和十五年十二月二日の条)。昭和天皇は杉山総長との問答を木戸内大臣に伝え、さらに海相の及川古志郎大将にも「支那戦線を縮小すべきではないか」と下問されたが、天皇の御懸念とは反対に及川大将は「現状にては押すを可とす。三ヵ月位後に重慶に重大なる変化あるべし」と強硬論を唱える始末であった。それから二日後の昭和十五年(一九四〇)十二月二日、国民党中央党部の拡大総理紀念週に出席した蒋介石は、

 「敵軍閥が一昨日、汪逆賊のニセ組織を承認し、同時に、敵とニセ組織がニセ条約を発表した。和平のデマ攻勢に失敗した敵が採った、道理に反する荒唐無稽な行動である。この種のホゴ同然のニセ条約は、ニセ組織が、自由意志を完全に封じられて、甘んじて日本の奴隷となることを承認したものであり、根本的には一顧だの価値もない。しかし、中日両国の仇恨史上、将来ひとつの重要な資料となるであろう。しかも、この一枚のニセ条約は、中日両国の戦禍を無窮に延長し、中日両民族間に、百世にわたっても解けない仇恨をもたらすものである。これは、近衛内閣(第二次)最大の罪悪である」

と近衛内閣を非難し、この日の日記に次のように書き記した(1)。

 「近衛は、無知無能にも、汪政権を承認したことで、中日両国間に解くことのできない仇敵関係をつくりだした。これは敵国(日本)のためにもまことに残念なことであるばかりでなく、さらに東亜のためにも危機感を深めるものだ。」

 我が国では昭和十五年十一月十三日の第四回御前会議が、日満華共同宣言案並びに日支基本条約案(政府提出)と支那事変処理要綱(大本営提出)を可決し、それまで政府軍部民間が各個に同時並行していた多数の和平工作(当時の噂では十七本、資料では十三本)を政府の一筋にまとめ、汪兆銘政権の承認が完了する十一月末まで汪蒋合作を建前として実効的な最後の対重慶和平工作を行い、和平不成立の場合は「情勢の如何にかかわらず長期戦方略への転移を敢行し飽く迄も重慶政権の屈服を期す」と決定した。御前会議では近衛文麿首相が原案可決と認める旨を述べて宣言案条約案と支那事変処理要綱を最終決定に持ち込み、会議の終了を昭和天皇に言上したのであるが、この処理要綱提案理由には汪政権承認の危険性が次のように明記されていた。

 「然れども新中央政府承認迄に重慶側を新中央政府に屈服合流せしめ以て新中央政府をして真に新支那に於ける新中央政府たるの実を備うるに至らしむべきは帝国として最も希求する所にして殊に新中央政府承認後に於ける対重慶諸工作の困難性を予想せらるるに於いて然りとす」

 それにもかかわらず十一月二十八日首相官邸で行われた連絡懇談会(出席者は首相、外相、陸相、海相、参謀本部次長、軍令部次長、興亜院の鈴木貞一政務部長)は、汪政権承認十一月三十日を議決し、「十一月三十日までに停戦申込ありたる場合においても承認期日を変更することなし」と決定してしまった(2)。

 そして浙江財閥の有力者にして蒋介石と親交を結ぶ銭永銘(交通銀行総経理)に日中和平の仲介を依頼する対重慶工作を担当していた外務省の田尻愛義参事官が香港から東京に「泣いて廟議の再考を乞う」旨を繰り返し打電したにもかかわらず、近衛首相が銭永銘工作を打ち切り汪政権を公式承認した後、日中和平工作の路線は、昭和十九年末に繆斌(ミョウヒン)工作が浮上するまで約四年ものあいだ完全に閉塞状態に陥ったのである。これが外交的にも軍事的にも我が国の致命傷となった。

 汪政権の樹立後、我が国政府は、汪らを見捨てた上で重慶政権を相手として和平交渉を行えず(見捨てるべきであったが)、苦肉の策として、蒋汪両政権合流による国民政府の統一と日中和平提携の実現という二段階の和平案を採った。しかし斎藤隆夫代議士が議会演説(昭和十五年二月二日)の中で指摘した通り、中国共産党に容共抗日を強要された蒋介石の重慶政府と、反共親日を標榜する汪兆銘の新政府は氷炭相容れざる「讐敵」の関係にあり(3)、たとえ第二次国共合作が決裂したとしても、面子を重んじ、汪兆銘を裏切り者、逆賊として激しく憎悪する蒋介石ら重慶政権が、汪政権との合流や汪を通ずる対日講和を受諾することは「夢物語」に等しく、汪を経由しなければ蒋と和議を開始しないという主張と蒋汪合流の要求は、講和そのものを絶対に否認するという「第一次近衛声明」と同一の結果を招き、思慮ある政治家の執るべき態度ではなかった。それにもかかわらず蒋汪合流に固執した我が国の政府は、遂に支那事変を解決できないまま国家を日米開戦から敗北へと導き、我が国の敗戦後に勃発した国共内戦において、中国共産党は、支那事変により消耗した国民党を台湾へ追い落として支那大陸を制覇し、一九四九年に中華人民共和国を樹立したのである。

 昭和十八年十一月二十日と二十三日、チャンドラボースは汪兆銘と共に、

 「私は、過去に於いて中国が日本に抱いた不満はよく知っているし、中国が日本と戦うに至った経緯も知っている。しかし五年前の日本はもはや存在しない。西欧との決裂以来、一大変革が日本全土を風靡した。私は東亜に帰ってインド独立連盟の任務に入って以来、日本と密接な協力のもとに活動しているが、もし日本の誠意に疑わしい節があるなら、私のような民族主義者、革命家にとって日本との協力は絶対不可能であった筈である。 

 十一月五、六日の大東亜会議は日本の誠意と信実を確信させたものである。しからば重慶の諸君は、今日、何者と戦っているのか、敵と手を組み、味方と戦っているのではないか。諸君はしばらく休息し、熟慮し、而して決意する用意はないか」

と重慶政府に日中全面和平の実現を呼びかけた(4)。だが蒋介石は頑として之に応じようとはせず、さらに蒋は連合軍中国方面最高司令官として、スチルウェル米軍中将の指揮する米軍式装備の支那軍精鋭二個師団をビルマ最北部のフーコン峡谷に侵入させ、米英軍の過酷な徴発により大飢饉(餓死者百五十~三百万人)に瀕していたインドに独立をもたらすための日印両軍のインパール作戦(昭和十九年一月七日~七月四日)を米英軍と共に妨害し、ボースを激怒させた。

 昭和十九年(一九四四)秋、日中全面和平を模索して支那戦線を視察した宇垣一成大将が小磯国昭首相に「南京政府の存在は却って重慶政府に対する和平工作の妨害になっている」と報告した。チャンドラボースの要請すらも拒絶し抗日戦を選択した蒋介石が、汪兆銘の死後(昭和十九年十一月十日、名古屋帝国大病院にて汪は病死)、対日態度を軟化させ、南京政府の解消を条件にして我が国に和平を求めてきた繆斌工作は、斎藤代議士の演説と宇垣大将の観察が正しかった証拠であろう。今井武夫が、

 「近衛第三次声明は軟弱外交であると非難する者も少なくなかったが、この頃、あたかも東亜協同体論を提唱し、東亜各国の解放を主張する運動が行われたため、大衆を啓蒙し、世論を本声明是認の方向に誘導するに大いに力となり、続いて発表された汪兆銘の艶電が、昭和十四年元旦の新聞やラジオで一斉に報道され、国民の不満を解消し納得せしむることが出来たので、日本国民は希望に輝きながら、新年の屠蘇を祝った」

と回顧したように(5)、我が国の帝国陸海軍将兵および一般国民のほとんどは、近衛文麿の東亜新秩序声明と、之に呼応した近衛のブレーントラスト昭和研究会が執拗に宣伝した「東亜協同体論」とに幻惑されてしまい、汪兆銘政権樹立工作の正体―反共和平の衣を着けた東亜共産化工作―を見抜けなかったのである。この汪兆銘工作の主謀者が尾崎秀実であったことを示す証拠の一つが以下の中央公論昭和十四年五月号「第二次世界大戦と極東(座談会-出席者は細川嘉六、堀江邑一、城戸又一、丸山政男、尾崎秀実、平貞蔵、一九三九年四月五日)」である(6)。    

尾崎「大雑把に言えば、こういう非常に大きな問題の中でですねぇ、日本は将来のそういう重大な時局に備えて、大きな広い観点から準備しなければならん、或は政策上の間違いがあったら修正しなければならんという状態に在ると思うのですが…。」
平「欧州大戦前の状況と今日の状態とは似通ったことになっている。で、もしこれ以上国家の発展が阻止される、国家の面目が潰されることになれば国内的、国際的にも世界大戦に訴える外ないという情勢に近付きつつあるが、そこでそいつを最後に決定し得る力は、日本とアメリカだろうが、その点で日本の立場はデリケートであり重要でもあると思うのです。
 欧州大戦が始まった場合の日本の立場は色々なことから考えて考慮の余地 もあると思うが、現実の日本は、矢張り独伊と提携強化して行く外なくなった。それで我々が茲でどうすべきかという議論をしても、それは議論の限界を一寸越えて来たという気がするんですがなあ。」
尾崎「城戸さん、さっきから何遍もお尋ねするのですが欧州大戦の危機はですねえ、ヨーロッパにお出になって御覧になると殊に駸々として進んで行くように見えるでしょうが、その場合極東はどういう形でその中に捲込まれるか、捲込まれない場合があり得るか、というようなことに就いて、その見透しですがねえ。」
城戸「そうですね、それは私の考えでは日本が全く捲込まれないでいようと思えば、捲込まれないで済むという気がするんですがねぇ。」
尾崎「さっきの平氏の話と結論が違う訳ですね。」
平「大戦になる場合は決定的に世界が二つの陣営に分れた時だ。だから日本が大戦が起こった場合に捲込まれずに居られようかというようなことは、単なる仮説じゃないかということなんだ。」
堀江「現在支那問題を控えておって、そこへ大戦の危機が迫っておるのだから、逆に大戦の勃発を待つという気分が相当多いですなあ。」
城戸「結局に於てですね。欧州に大戦が始まれば日本もきっと始めるでしょう。結果から見ればヨーロッパの戦争というものは、結局世界全体の戦争になる。これは間違いないと思いますが。」
細川「始まれば日本は無論参加するでしょう。その参加する場合にですね、国力はまだ戦争準備に費やされる余裕はあるが、今度のやつは更に大きいですからねえ。だから矢張り満を持した戦略ということが必要だろうと思うんだ。」
平「英仏にしろ、ロシアにしろ自分が戦争をしながら支那を助けるということはないので、そうすると日本が有利な地点に立籠もって、反撃して来る勢力を抑えるには却って非常に有利になる一面もあるのじゃないか、素人論だが…。」
細川「此方も素人論だが、ソ連、イギリス、アメリカ等の世界的な勢力の連中がジワジワ動いた日には、ヨーロッパ戦争が起れば支那が武器なんかの援助を受けられんと、そう甘く見られんと思うがね。」
尾崎「まあ平氏の言われる状態になるにはもっと先のことと思うのですが、支那の奥地の抗日政権と対抗し得る新政権が、本当に確立強化されるということになれば、あなた(平氏に)の言われる条件が出てくる。」
細川「それはその通りだ。」
尾崎「それは細川氏の言うような条件で、武器なんかを売って貰えないということは問題にならぬような反日的勢力が盛返して来るということになるだろうと思う。そのためにはどうしても、それに対抗するものを造って置かなければならん。」
平「その時に抗日政権に対抗するだけの政権、○○○工作などよりもう一段と突込んだ工作をする以外にはないと考えるのですが。」

記者「ここで一寸ヨーロッパに戦争が始った場合、アメリカは中立を守れるか、民主主義国に荷担するかという問題を願います。」
平「殆ど参加は決定的じゃありませんか。」
記者「アメリカにしてもソ連にしても最初は財政的、物資の援助という形で、そいつが長引けば途中から参戦するという形になるのでしょうね。」
堀江「そうなって来ると思いますね。」
記者「結局戦争無しに新しい秩序と言うが、そっちの方に行ける可能性はないんじゃないか、これは宿命的なものですね。」
堀江「そうじゃないかと思う。」
(中略)
堀江「最後に尾崎君に締括りをやって貰いたいが。」
尾崎「無い方がいいのじゃないか。」
細川「それは容易じゃないからね。」
平「それでは(尾崎氏に)東亜協同体の理論家として相済まんじゃないか。(笑声)」
尾崎「東亜協同体と云っても、その中にいろいろなものが入っているからね。僕の考えでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権に対抗し得る政権を造り上げること、それが一朝一夕に仲々むづかしいとするならば日本がそれを助ける方策、有効な方策を採って行く。そういう風な一種の対峙状態というものを現地に造り上げて、日本自身がそれに依って消耗する面を少なくして行く…曽って或る時代の日本が考えたような形で征服なり、解決したりするというのではなくて、そういう風な条件の中から新しい…それこそ僕らの考えてる東亜協同体―本当の意味での新秩序をその中から纏めて行くということ以外にないのじゃないか。」

 中国共産党の毛沢東は、延安の抗日戦争研究会において「持久戦について」(一九三八年五月)と題して以下のように講演し、共産党員に対して支那事変の本質が日中両国を改造する正義の革命的な戦争であることを訴え、抗日戦争は持久戦でなければならないことを強調していた(7)。

 「革命戦争は一種の抗毒素であって、それはたんに敵の毒素を排除するばかりでなく、自己の汚れをも洗い清めるであろう。およそ、正義の革命的な戦争というものは、その力がきわめて大きく、それはひじょうに多くの事物を改造したり、事物を改造するための道をきりひらくことができる。
 中日戦争は中日両国を改造するであろう。中国が抗戦を堅持し、統一戦線を堅持しさえすれば、かならず、古い日本を新しい日本にかえ 、古い中国を新しい中国にかえ、中日両国の人も物もことごとく、今回の戦争のなかで、また戦争のあとで改造されるであろう。」

 尾崎秀実はその獄中手記の中で「対ソ連攻撃の危険性の最も多い日本及びドイツが前者は日支戦争により、後者は欧州戦争により、現実の攻撃可能性を失ったと見られた時、ソ連の地位が強大化していく」「少なくとも支那は共産主義的方向に進むであろう」と述べ、又尾崎は改造昭和十二年十一月号「敗北支那の進路」において「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく可能性が特に発生する根拠があることを看過してはならないのである」と結論づけている(8)。
 尾崎等共産主義者にとって、汪兆銘政権樹立工作により決定的に長期化することになった支那事変とは、ソ連及び中国共産党に漁夫の利を与え、東アジアを資本主義より解放し共産化する「聖戦」であった。

 中国共産党の謀略たる廬溝橋事件(昭和十二年七月七日)を発端として開始された支那事変八年間において、支那大陸で戦死した日中両軍将兵は二百万を超えると言われている(内我が軍将兵は約四十万人)・・・。尾崎秀実は自分の謀略構想を胸中深く秘め一部少数の同志の他は妻にすらこれを語っておらず、戦死した日本軍将兵は誰一人として近衛内閣が支那大陸出兵の目的として掲げた東亜新秩序の謀略的意義を知らなかったに違いない。それにも拘わらず中央公論昭和十四年一月号「東亜協同体の理念とその成立の客観的基礎」の中で、

 「我々は静かに『聖戦』の意味について三思する必要がある。今日一部に於て、もしも日本がその大陸に対する要求を具体的に明瞭に形の上に現わすのでなければ尊い血を流した勇士たちは瞑することが出来ない、又艱難辛苦しつつある出征兵士たちがおさまらないであろうとの説をなすものがある。絶対に正しからざる説である。恐らくは心事高潔ならざる輩が自己の心事をもって推しはかったものであるに違いない。一身を抛って国家の犠牲となった人々は絶対に何等かの代償を要求して尊い血を流したのではないと我々は確信するのである。東亜に終局的な平和を齎すべき『東亜における新秩序』の人柱となることは、この人々の望むところであるに違いないのである―。」

と断言した尾崎秀実(9)は、レーニンの革命的道徳体系(後述)を忠実に実践した凶悪非道な共産主義者であった。

 昭和十五年(一九四〇)二月二日第七十五回帝国議会において衆議院の斎藤隆夫代議士は、汪兆銘が日華協議記録に沿った発言を繰り返していることや、「何時ぞや或る有名な老政治家が演説会場に於て聴衆に向って今度の戦争の目的は分からない、諸君は分って居るか、分って居るならば聴かして呉れと言う所が、満場の聴衆一人として答える者がなかったと云う」話を紹介して、次のように質問した。

 「新政権を相手に和平工作を為すに当りましては、支那の占領区域から日本軍を撤退する、北支の一角、内蒙附近を取除きたる其の他の全占領地域より日本軍全部を撤退する。過去二年有半の長きに亙って、内には全国民の後援の下に外に於て我皇軍が悪戦苦闘して進軍しました所の占領地域より日本軍全部を撤退すると云うことである。是が近衛声明の趣旨でありますか、政府は此の趣旨を其のまま実行する積りでありますか」

 「次に事変処理に付ては東亜の新秩序建設と云うことが繰り返されて居ります。此の言葉は昨日以来此の議場に於てもどれだけ繰返されて居るか分らない。元来此の言葉は事変の初めにはなかったのでありますが、事変後約一年半の後、即ち一昨年十一月三日近衛内閣の声明に依って初めて現れた所の言葉であるのであります。

 東亜の新秩序建設と云うことはどう云うことであるか、昨日外務大臣の御言葉にもあったように思いますが、近頃新秩序建設と云うことは此の東洋に於てばかりではない、欧羅巴に於ても数年来此の言葉が現れて居るのであります。併しながら欧羅巴に於ける新秩序の建設と云うものは、詰り持たざる国が持てる国に向って領土の分割を要求する、即ち一種の国際的共産主義の如きものでありますが、其の後の実情を見ますると全然反対である。随分持てる所の大国が持たざる所の小弱国を圧迫する、迫害する、併呑する、一種の弱肉強食である。茲に至って欧羅巴に於ける新秩序建設の意味は全く支離滅裂、実に乱暴極まるものであります。併し欧羅巴のことはどうでも宜しい、欧羅巴に於ける新秩序の建設などは、吾々に於て顧る必要はない。

 此の東亜に於ける新秩序建設の内容は如何なるものがあるか、是も近衛声明及び之に呼応したる所の汪兆銘氏の声明を対照して見ますると、新秩序建設には確に三つの事柄が含んで居るそれは何であるか、第一は善隣友好と云うことである、第二は共同防共である、第三は経済提携であります、是が是までの公文書に現れて居る所の新秩序建設の内容でありまするが、政府の見る所も之に相違ないのであるが、新秩序建設と云うことが朝野の間に於て屡々謳われて居るのでありまするが、其の新秩序建設の実体は以上述べたる三つのことに過ぎないのであるが、尚この外に何ものかがあるのであるか、なければ宜しい、あるならばそれを聴きたい、あっても言えないと言わるるならばそれも宜しい。

 兎に角是ほど広く、是ほど強く高調せられて居る所の戦争目的であり、犠牲の目的である所の東亜新秩序建設の実体は、政府の見る所は何であるか、之を承って置けば宜しいのであります」

 「国家競争は道理の競争ではない、正邪曲直の競争でもない、徹頭徹尾力の競争である世にそうでないと言う者があるならばそれは偽りであります、偽善であります、吾々は偽善を排斥する、飽くまでも偽善を排斥して、以て国家競争の真髄を掴まねばならぬ、国家競争の真髄は何であるか、曰く生存競争である、優勝劣敗である、適者生存である、適者即ち強者の生存であります、強者が興って弱者が亡びる、過去数千年の歴史はそれである、未来永遠の歴史も亦それでなくてはならないのであります。

 此の歴史上の事実を基礎として、吾々が国家競争に向うに当りましては、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ、自国の力を養成し自国の力を強化する、是より外に国家の向うべき途はないのであります。

 彼の欧米の基督教国、之を見ようではありませぬか、彼等は内にあっては十字架の前に頭を下げて居りますけれども、一度国際問題に直面致しますと、基督の慈善博愛は蹴散らされてしまって、弱肉強食の修羅道に向って猛進する、是が即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります、此の現実を無視して唯徒に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯の如き雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない、私は此の考を以て近衛声明を静に検討して居るのであります、即ち之を過去数千年の歴史に照し、又之を国家競争の現実に照らして彼の近衛声明なるものが果たして事変を処理するに付て最善を尽くしたるものであるかないか、振古未曾有の犠牲を払いたる此の事変を処理するに適当なるものであるかないか、東亜に於ける日本帝国の大基礎を確立し、日支両国間の禍根を一掃し、以て将来の安全を保持するに付て適当なるものであるかないか、之を疑う者は決して私一人ではない、苟も国家の将来を憂うる者は必ずや私と感を同じくして居るであろうと思うそれ故に近衛声明を以て確乎不動の方針なりと声明し、之を以て事変処理に向わんとする現在の政府は私が以上述べたる論旨に対し、逐一説明を加えて、以て国民の疑惑を一掃する責任があるのであります」

 そして質問を終えた斎藤隆夫代議士は、最後の一言として政府に対して、

 「吾々は遡って先輩政治家の跡を追想して見る必要がある、日清戦争はどうであるか、日清戦争は伊藤内閣に於て始めて伊藤内閣に於て解決した、日露戦争は桂内閣に於て始められ桂内閣が解決した、当時日比谷の焼討事件まで起りましたけれど、桂公は一身に国家の責任を背負って、此の事変を解決して然る後に身を退かれたのであります、伊藤公と云い、桂公と云い、国に尽す所の先輩政治家は斯の如きものである。

 然るに事変以来内閣は何であるか、外に於ては十万の将兵が殪れて居るに拘らず、内に於て此の事変の始末を付けなければならぬ所の内閣、出る内閣も、出る内閣も、輔弼の重責を誤って辞職をする、内閣は辞職すれば責任は済むかは知れませぬが事変は解決しない、護国の英霊は蘇らないのであります、私は現内閣が歴代内閣の失政を繰返すこと勿れと要求をしたのであります。

 事変以来我が国民は実に従順であります、言論の圧迫に遇って国民的意思、国民的感情をも披瀝することが出来ない、殊に近年中央地方を通じて、全国に瀰漫して居ります所の彼の官僚政治の弊害には悲憤の涙を流しながらも、黙々として政府の命令に服従する政治の統制に服従するのは何が為であるか、一つは国を愛する為であります、又一つは政府が適当に事変を解決して呉れるであろう、之を期待して居るが為である、然るに若し一朝此の期待が裏切らるることがあったならばどうであるか、国民の心理に及ぼす影響は実に容易ならざるものがある、而も此の事が国民が選挙し、国民を代表し、国民的勢力を中心として解決せらるるならば尚お忍ぶべしと雖も、事実全く反対の場合が起ったとしたならば、国民は実に失望のどん底に蹴落されるのであります、国を率いる所の政治家は茲に目を着けなければならぬ」

と要望したのである。これに対して米内光政総理大臣は次のように答弁した(3)。

 「支那事変処理に関する帝国の方針は確乎不動のものであります。政府はこの方針に向かって邁進せんとするものであります。戦争と平和に関するご意見は能く拝聴致しました。以下具体問題についてお答を致します。

 支那側の新中央政府に関する帝国の態度は如何、こういうご質問であります。汪精衛氏を中心とする新中央政府は、東亜新秩序建設につきまして、帝国政府と同じ考えを持っておりますから、帝国と致しましては、新政府が真に実力あり、かつ国交調整の能力あるものであるということを期待致しまして、その成立を極力援助せんとするものであります。

 その次に新政府樹立後、これと重慶政権との関係は如何というご質問でありまするが、新政府が出来上がりまして、差し当たり重慶政府と対立関係となるということは、やむを得ないものと考えておりまするが、重慶政府が翻意解体致しまして新政府の傘下に入ることを期待するものであります(以下略)。」

 帝国議会が審議し議決する政府提出の予算および税法は、直接的間接的に支那事変と関係する以上、政府の歳入と歳出を監督する帝国議会とくに予算の先議権を有する衆議院(憲法第六十五条)において、斎藤隆夫が東亜新秩序構想の具体的な内容と「日本の支那に求めるものが、区々たる領土にあらず、又戦費の賠償に非ざる」ことを宣言した近衛三原則の当否を政府に問い質し、莫大な血税と国力を浪費し国民の生活を脅かす支那事変の急速解決を政府に要求したことは、衆民の公選により成立する代議士の最も緊切な職任の履行であった。しかるに東京朝日新聞は、

 「既に廟議決定し、確乎不動の策として確立した近衛三原則に対する苛烈なる批判と聖戦目的の追求を今頃持ち出すのは、時期も時期、場所も場所だけに不謹慎のそしりを免れない」

と斎藤隆夫を非難したのである(10)。
 元朝日新聞副社長の美土路昌一が香港日記(神尾茂著/自家蔵版一九五七年)の冒頭に次のような紹介文を書いている。

 「争いの嫌いな神尾君は、日華事変の結んで解けないのを、どれほど悩んでいたか知れない。言論弾圧が厳しく、新聞紙上に公然和平問題を論議することが出来なかったので、朝日新聞社は特に神尾君を煩わして、ひそかに和平の溝渠を拓開させる努力をした。」

 「軍部の言論弾圧が厳しく」と書かなかったところが美土路の良心である。上海派遣軍司令官の松井石根大将は、日露戦争時の明治政府と同じく、出征と同時に和平工作を開始した。支那事変の前半の我が陸軍参謀本部は懸命に日中和平の実現を目指した。神尾茂は参謀次長の多田駿陸軍中将の密使となった。戦時中の朝日新聞人の中には神尾のように和平工作に従事した人物がいた。美土路もそのうちの一人である。しかし朝日新聞人の和平工作は個人的努力に止まり、朝日新聞紙面の論調にはならなかった。

 なぜなら満洲事変当時、急伸した新しいメディアであるラジオに対抗するために、新聞各紙が莫大な費用をかけて戦場報道にのめりこみ、大衆感情に迎合する論調をもって部数拡張に努めた結果、読者の間に盲目的愛国主義と戦争熱が根付いてしまい、読者を失う覚悟がなければ、紙面の編集方針の転換が不可能な状態に朝日新聞社は陥っていた。これはまさに新聞社が自ら造りだした世論なるものに、新聞社自身が金縛りにされる自縄自縛現象である。そして昭和研究会に参加した尾崎秀実、佐々弘雄、笠信太郎といった朝日新聞社の革新勢力は朝日首脳の営利優先主義によって硬直化させられた朝日新聞社の編集方針につけこんで戦争を煽動したのである。かくして昭和十三年九月には朝日新聞編集顧問の神尾茂が多田参謀次長の伝言を携えて香港で和平工作に従事している時に日本国内では朝日新聞社は尾崎秀実とともに戦争の拡大を煽り、挙句の果てに近衛内閣の強硬方針を擁護したのである。

 近衛声明を支持し斎藤演説を非難した朝日新聞社とは、紙面において近衛内閣の暴走と尾崎秀実の謀略構想を援護し続けた言論暴力団であった。

(1)【蒋介石秘録12】二二一頁。
(2)参謀本部編【杉山メモ上】一三九~一五五頁。
(3)斎藤隆夫【回顧七十年】二八一~三〇三頁「支那事変処理に関する質問演説の官報速記録より削除せられたる部分」
(4)深田祐介【黎明の世紀】一九一頁。
(5)今井武夫【支那事変の回想】九〇頁。
(6)三田村【戦争と共産主義】二五三~二五五頁、中央公論昭和十四年五月号「第二次世界大戦と極東」(座談会)抜粋。
(7)中国人民解放軍総政治部編【全訳毛沢東語録】三十九頁。
(8)【尾崎秀実著作集2】八十七頁。
(9)【尾崎秀実著作集2】三一三頁、中央公論昭和十四年一月号「東亜協同体の理念とその成立の客観的基礎」
(10)土門周平【参謀の戦争】九十五頁。


23、浸透

 昭和十四年から翌年にかけて尾崎ら昭和研究会幹部の諸論文が示唆した様に、第二次近衛内閣において彼等共産主義者は「東亜新秩序建設の聖戦貫徹」を口実として、ソ連共産党を模倣する上からの国内革新運動であった近衛新体制運動(大政翼賛会)を推進し一党独裁の実現を画策した。これに加えてゾルゲ機関と昭和研究会の謀略活動の全貌を示唆する重大な事実は、尾崎が中央公論昭和十三年六月号「長期戦下の諸問題」の中で、外務省とは別の対支機関(興亜院)設置の必要性を強調し(1)、更に日本外事協会発行の英字誌ContemporaryJapan昭和十四年四月号「呉佩孚と汪精衛の活動」の中で、汪呉合流工作を予告し(2)、のみならず参謀本部付の土肥原賢二中将が中央公論昭和十四年六月号「新時代を戦う日本」で、陸軍省報道部長の佐藤賢了大佐が日本評論昭和十三年十二月号「東亜協同体の結成」で、それぞれ尾崎等共産主義者と同じく公然と東亜新秩序の意義を強調し、東亜協同体(協同体とは私有のない無階級社会)論を展開していたことである(3)。

 土肥原は満洲国建国に参加し、土肥原機関を指揮して唐紹儀、靳雲鵬、呉佩孚を引き出す工作(いずれも日蒋間の和平交渉を遮断する「楔」の頭目にする意図だったのか)を行い、昭和十四年五月十七日、板垣陸相を説得し「汪呉合作」を採択させ(翌日、参謀本部第八課が汪呉工作指導腹案を起草したが、同年末、呉佩孚は病死)、東京裁判ではA級戦犯として処刑された。佐藤は、陸軍省軍務課員として蒋介石政権の否認や国家総動員法案の成立を強硬に主張し、南支派遣軍参謀副長として、昭和十四年七月広東において、影佐禎昭と共に汪兆銘一派と会談し、

 「新秩序を叫ぶのはごく一部のインテリにすぎず、日本の大部は今なお営利本位の自由経済体制にあります。そこから中国へ出てくる利権屋が、昔ながらの侵略搾取の気分が抜けないのも当然です。日本は革新されなければならない。同様に、蒋介石の中国は、赤い悪魔とドルの旦那との間をうろついて、真に日本と握手する孫文の大アジア主義を忘れているところに今日の不幸があるのです。孫文の真義に立ち返って中国は再革命されねばなりません。汪先生の和平運動は、単に事変解決のための和平工作だけでなく、日華提携して植民地秩序を打ち破り共栄の新秩序を打ち立てるものでなければなりません」

と強調して彼等を感激させ、汪兆銘政権の樹立を推進した統制派革新幕僚であった(4)。大東亜戦争研究において著名な土肥原賢二、佐藤賢了、影佐禎昭、今井武夫が、支那事変前半すでに尾崎秀実の同伴者と化していたという事実は、尾崎らゾルゲ機関の謀略網が早くから深く陸軍中枢に浸透していたことを示唆している。

 尾崎秀実は、常に露見逮捕という場合の結果を自分一個の死と結びつけ「要するに死ねばいいのだろう」という一点に覚悟の基礎を置いていたという。ある一人の人間がこの世で最も残酷非道な犯罪を行ったところで、彼自身に与えられる最高の刑罰は死刑である。従って刑罰に縁座制が無い場合、人間は死への恐怖を克服し、自分の命を捨てる覚悟を持てば、自己の目的を達成する為に、数百万数千万の無辜の民を死に至らしめる凶悪な非常手段を選択し得るのである。

 尾崎とは、共産革命の為に自分の生命と人間の良心とを生け贄に捧げ「悪魔とその祖母」(レーニンの言葉)から異常な諜報謀略能力を獲得した、世界史上稀に見る天才スパイであった。

(1)【尾崎秀実著作集2】一一〇頁。
(2)【尾崎秀実著作集5】十四~十五頁。小川平吉は日記昭和十四年三月二十三日欄に、影佐大佐の意見として「蒋との交渉は絶対反対なり。汪を中心として、白、李を連衡し南北政府、呉佩孚等を含みて新政府を作らんと欲する在り」と記述している(【小川平吉関係文書1】四五八頁)。
(3)三田村【戦争と共産主義】一六九、一七二~一七三、二四三~二四四、二五五~二六六頁。
(4)佐藤賢了【大東亜戦争回顧録】一一〇頁。


24、愚人

 昭和史研究所所長の中村粲教授はその大著「大東亜戦争への道」四七六頁において「汪は中国民衆にとって漢奸だったのか。それとも救国の士だったのか。かつて日本の戦友たりし汪について、日本人としても改めて評価を下すべき時期に来ているのではなかろうか。」と述べられている。筆者はそのどちらでもないと断言する。

 汪は反共和平を掲げ支那事変の早期解決を望みながら、支那事変を長期化させソ連及び中国共産党の勢力拡大に奉仕するという大失策を犯したのである。また汪と中華民国南京政府の存在が、昭和天皇の聖慮に沿って懸命に日米和平交渉をまとめようとした東條内閣をして、我が国に支那仏印からの陸海空軍兵力および警察(憲兵)力の撤収、重慶政府以外の政権の否認等を要求したアメリカ政府の対日最後通牒ハル・ノート(ソ連の対米諜報謀略組織バイコフ機関次いでNKVDに所属していたソ連のスパイ、アメリカ財務次官補ハリーデクスターホワイトによって作成されたホワイト・モーゲンソー案、ソ連側コードネーム、雪作戦)を拒絶し対米英開戦を決意せしめたことを考慮すれば、汪兆銘とは、いかに尾崎秀実や西園寺公一等に騙されたとはいえ、日中両国を含め東亜全域に限り無き大厄災をもたらした、二十世紀史上もっとも愚劣な政治家であった、と言わざるを得ない。



スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究に於いて最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。