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国民のための大東亜戦争正統抄史25~37近衛新体制

【近衛新体制】


25、テロリスト

 昭和十二年十二月十五日、各新聞夕刊は一斉に「全国民に告ぐ」と題する公爵一条実孝、頭山満、海軍大将山本英輔三名の連名の檄文を掲載した。この檄文は「万世一系の天皇儼然として国家組織の中心を為した給い、億兆心を一つにして天壌無窮の皇運を扶翼し奉り、君子一体、忠孝一致」の我が国体の本義が現状において顕現されていない事を指摘し、世界は秩序壊乱、禍機鬱勃、正に歴史的転換の潮頭に立っている今日、「内、国力を統合して一体となし、外、世界未曾有の変局に処すること」が我が使命であり、その使命達成のためには「西洋の余毒たる憲法政治を以て、政党対立の政治と解するが如き」考え方を排し「全国民の一致せる精神に即して一体となる」「皇国の政党」の理義の徹底が今日の急務であるから「現在一切の諸政党は宜しく覚醒する所あり、彼我相対の境地を超越し、渾然一体となって、強力政党の新組織を遂げよ」と呼びかけ、「苟も之を怠らば、現存諸政党は歴史的鉄則の下に粉砕せらるるの日、必ずや遠きにあらざるべし」との警告を発した。

 重信嵩雄の中央公論昭和十三年二月号「一国一党の全貌」という記事によると、「全国民に告ぐ」は、近衛文麿と密接な関係を持っていた政界の黒幕、秋山定輔が近衛の了解の下に、右翼と共に「挙国一党結成促進研究会」を組織していた宮崎龍介等を使い、一条等の名前を装って発した警告だという。

 昭和十三年一月、一条らの声明に呼応して中溝多摩吉らが防共護国団を結成し、「国内相剋排除、一国一党」をスローガンとして既成政党の解消を目指して動き始めた。中溝等は東京に二ヶ所の駐屯所を作り、そこに団員を常駐させ、彼等に各政党代議士を訪問させ、政友・民政両党の解消を勧告させた。ところがこの運動が十分に成果を収めぬ為、中溝らは実力を行使し、政友・民政両党本部に「推参」して党議によって解消を断行させようとする計画を立てたのである。

 二月十七日、カーキ色の服に戦闘帽を被った防共護国団員六百名がトラックに分乗して両党本部に押し掛け、党の解消、挙国的態勢による新党樹立を要求した。十時間後には全員が検挙され、逃走していた中溝も三月十八日に自首し「政党本部推参事件」は落着したが、政党関係者を震撼させたこの事件の首謀者は、信じ難いことに近衛首相自身なのである。中溝の部下であった青木保三は戦後の回想の中で、中溝、青木ら護国団幹部が計画を作ったと告白し、

 「それは十六ヵ条よりなり、先生(中溝)自ら筆をとって書き上げ、私に『君がつきっきりで、誰にも見せず、大至急タイプに三通を取って来てくれ』と依頼された。私は直系の配下で能書家を呼び、四通複写して、翌日三通と元書を先生に手渡した。先生は秋山氏と荻窪の近衛邸に持参して、説明した。先生が帰っての報告では、

 『最後の項の、大日本党部の組織に賛成をしない国会議員一人につき、防共護国団員二名、警察官一名、憲兵一名をつけ、芝浦埠頭に待機の姿勢でおる橘丸に、一時監禁をし、伊豆大島へ流島の刑に処するという項については、「これは少し行き過ぎではないかと言って」自ら消したが、あとのことについては「中溝君、なかなか面白い計画ですね」と言われて、自分としては、非常に面目を、ほどこした』

と言ったことは、今でも目に見えるようである。

 従ってこの内容については、近衛公はもちろんのこと、秋山氏、秋田氏、当時の内閣書記官長風見章氏、内務大臣末次信正、麻生、亀井の各氏と、ほかに近衛側近では後藤隆之助氏ら、極少数の人々は、あらかじめ承知して居ったと、私は今でも思っておる。

 中溝先生が近衛公に提出した、建策書のうちには両党本部を占拠した暁には、都合によっては、開催中の議会に押しよせ、その実力で議会を休会に追い込ませる場合もあり得る、という事項もあったが、これは実行できなかった」

と述べた(1)。さらに麻生久(社会大衆党書記長)自身が、彼の晩年を近衛新体制の確立とこれを通ずる日本の革新に捧げ尽くした心境について、河野密に次のように告白したのである(2)。 

 「昭和十三年二月、第七十三議会の開会中、防共護国団による政友、民政両党の本部占拠があった。これをやったのは中溝多摩吉であるが、彼を背後から踊らしてやったのは近衛であった。国会開会中にその離れ業をやらして口を拭ってしゃあしゃあとしている度胸。これは革新をやるに足る人物だと思って自分は近衛に接近する気になった。日本の革新は、明治維新の革新でもそうだが、下から丈けでは出来ないので、上と下を結びつかなければ駄目である。それには近衛の門地と家柄はあつらえ向きである。」

 昭和十二年六月、組閣の大命を受けた近衛は、総理としてまず「政治の貧困から引き起こされた国内の相剋摩擦の所産たる種々の事件の受刑者に、大赦を施すべきだ」と主張し、政治生命を賭けて投獄された二・二六事件、五・一五事件、血盟団事件の関係者、さらには共産党の受刑者をも無罪放免しようと狂奔したのである(近衛クーデター事件)。

 これは国家の法秩序を破壊する大暴挙であり、昭和天皇、元老重臣、陸海軍首脳が挙って猛反対した為、近衛は大赦を断念したのであるが、翌年二月には近衛自身がテロを指揮したのである。参謀本部の早期和平方針を粉砕した第一次近衛声明の発表から一ヶ月後のことである。昭和十三年に近衛がテロを用いてまで画策した大日本党による一国一党計画は、第一次近衛内閣の総辞職によって流産したのであるが、更に近衛は、団琢磨や井上準之助を殺害し、無期懲役刑を受けたものの皇紀二千六百年祝典の恩赦によって仮出所した血盟団事件の首魁であった井上日召を、昭和十五年末から彼の私邸「荻外荘」に同居させたのである(3)。我が国の憲政史上、非合法暴力主義者を擁護し且つ自分の懐刀として召し抱え、政党にテロを仕掛けた総理大臣など近衛文麿以外にはいない。

 第二次世界大戦後の我が国では、過去の反省として軍部や東條英機を非難すれば事足れりとする風潮が一般的であり、東條を日本のヒトラーになぞらえる史家もいるが、蒋介石政権との和平交渉継続を求める陸軍参謀本部を恫喝し、政党にテロを仕掛けた近衛こそ日本のヒトラーでありスターリンであろう。

 日本憲政史上稀に見る狡猾にして強力な近衛の政治指導力は第二次近衛内閣においても遺憾なく発揮されていった。

(1)伊藤【近衛新体制】六十九~七十六頁。頭山満は政党意見書を迷惑がったという(小川平吉日記昭和十三年二月十八日の条)。
(2)河上丈太郎編【麻生久伝】四七八頁。
(3)勝田龍夫【重臣たちの昭和史下】二一五頁。尾崎、今井【開戦前夜の近衛内閣】二七五頁。


26、革新華族

 風見章から「何れにしても既成政治勢力を叩き壊すに非ざれば新しき政治体制の出発は不可能なるを以て、何よりも先ず既成政党爆破工作を第一の目標として、諸方に斡旋するの急務」なることを進言された近衛文麿は、昭和十五年(一九四〇)五月二十六日、彼の親友、木戸幸一、そして日本革新農村協議会を背景としていた有馬頼寧と会合し、「新党樹立に関する覚書」を作成した。それは次のような内容であった。

一、大命を拝する以前に於ては新党樹立は積極的にやらぬこと。

 但し政党側の自発的行動によって新党樹立の機運生じたる時は考慮すること。

一、大命降下ありたる場合考慮すべき事項

(イ)陸海軍両総長、内閣総理大臣、陸海軍大臣を以て最高国防会議を設置すること。
(ロ)陸海軍の国防、外交、財政に関する要望を聴取すること。
(ハ)新党樹立の決意を表明し各政党に対し解党を要求すること。

一、総理と陸海軍大臣だけにて組閣し他は兼任とすること。

 但し情勢により二、三の閣僚(例えば外務省等)を選任すること。

一、新党成立の暁党員中より人材を抜擢して全閣僚を任命すること。新党結成前に選任したる閣僚は必ず新党に加入すること。

 昭和九年(一九三四)十月、近衛は革新官僚の富田健治に、

 「今の政党はなっていませんよ、議会はどうにもなりませんよ、これは衆議院だけじゃない、貴族院だって同じことだ。不勉強と無感覚だといって、若い軍人が怒るのも無理はないと思う。私はそこで、今の日本を救うには、この議会主義では駄目じゃないかとさえ思う。この議会主義をたたきつけなければならない。この議会政治の守り本尊は元老西園寺(公望)公です。これが牙城ですよ」

と語っており(1)、近衛文麿は政党と議会制デモクラシーを破壊しようと執念を燃やしていたのである。

(1)富田健治【敗戦日本の内側】一一一頁。


27、上からの政権奪取

 そして風見と並ぶ近衛の最高政治幕僚の尾崎秀実は、昭和十五年六月号満鉄内部極秘刊行物「時事資料月報」の中で、現在の所謂新党工作は内容的には第一には新政党の樹立、第二には内閣の更迭、第三には国民再組織の問題という三つの要素から成っていると解説し、

 「近衛運動(新党運動)は実際問題としては先ず上からの政権奪取が成功し(之は成功率は突変的支障なき限り一〇〇パーセントである。其の時期は遅くも来月迄には実現するであろう)、ついで新党樹立が行われるであろう。勿論新党樹立が先行することもあり得る(後者の場合は内部的な混乱が生ずる危険が一層大きい)。其の後に於て国民再組織運動に着手せられるのであろう」

と予言し、

 「近衛自らも要望する新味ある結果を期待するが為には、単なる内閣閣僚の顔振れに新味を出すと謂うが如きことに止まることは出来ないのであって、党の性格の中に新味を求めなくてはならない。党の組織の中に、又其の直後に於て活溌に行わるべき粛党工作の中に求められねばならない」

と力説し、新党樹立後これに加わった既成の非革新勢力が排除されることを示唆した(1)。

 尾崎の予言した近衛の「上からの政権奪取」と「新党樹立」は、ヨーロッパの戦況が激変する渦中で、彼と密接な関係を有していた陸軍統制派の主導によって実行されていったのである。

(1)【尾崎秀実著作集3】一六二~一六四頁。


28、具眼の戦争指導班参謀

 昭和十五年(一九四〇)三月三十日、畑俊六陸相と閑院宮参謀総長は、沢田茂参謀次長、富永恭次第一部長、神田正種総務部長、阿南惟幾次官、武藤章軍務局長ら省部首脳を集めて会議を開き、「重点主義と節用主義の徹底的励行」という予算編成方針(昭和十四年七月四日閣議決定)に準拠する大蔵省によって削減された陸軍予算から軍備拡充費用を捻出するために、十五年中には政戦謀略のあらゆる手段を講じて支那事変の和平処理に邁進し、年末に至ってその見込みが立たない時は、十六年初頭から自発的に撤兵を開始し、十八年中には、上海付近および蒙疆の一角を残して全部を撤兵する方針を申し合わせたのである。この申し合わせは、陸軍省部の一部と支那派遣軍の反対によって修正されたものの、五月十八日、陸軍省部決定「昭和十五、六年を目途とする対支処理方策」としてまとめられ、斯くして陸軍の方針は、昭和十五年中に終戦外交が成功しない場合は、自主的に態勢の収縮を図ることで一致したのである。

 歴史とは真に皮肉である。一年前の昭和十四年五月、小野寺機関から、

 「蒋介石は表向きは国共合作を採用しながら、支那事変長期化による中国共産党の勢力拡大を憂い、内実は容共抗日団体を弾圧しており、日本が中国侵略を思いとどまるならば、いつでも戦争を終息させる用意をしている」

ことを報告され(1)、小野寺工作を強く支持していた参謀本部作戦課戦争指導班長の堀場一雄中佐は、六月、上海から汪兆銘の来日を告げに来た今井武夫大佐を「時機尚早」と激しく非難した(2)。汪兆銘は、六月十日、我が国政府首脳と会談し、次の三ヶ条を打診した。

1、日本側は重慶を相手として事変解決を図るや。この場合予は居仲斡旋すべし。
2、日本側は国民党以外の有志と和平方策を講ずるや。この場合予は野に在りて協力すべし。
3、日本側は和平政権を樹立して事変解決を図るや。この場合予は政権を樹立すべし。

 しかし堀場中佐は、

 「第三案政府樹立案は、対立政権に堕し長期大持久戦に陥るの公算大にして、斯くの如き事態に政府及国民を決意せしむることは容易の業に非ず。汪政権を以て解決政府たらしめんとするの希望は、ハノイにおける期待外れ以来汪兆銘の真意乃至真価に数段の変化あり。之を直視せずして当初の夢を持続するは情勢認識の錯誤なり」

と判断、汪兆銘に対して、

 「卿今回微行の真意は共感諒承せり。願くは直ちに重慶に至り、日本の真意を伝えたる上改めて公然全権として再来せられんことを。飛行機は直ちに準備し日本側亦同行すべし」

と直言し、中島鉄蔵参謀次長に対しては、第一案を進言すると共に、汪に停戦使節としての機能を発揮せしむべきであると具申した。続いて七月五日、参謀本部戦争指導班は事変解決秘策(案)を策定した。この中で戦争指導班は、

 「汪と重慶との合流を策しつつ対重慶停戦を指導し次で汪及重慶を包括する新中央政府を樹立する。重慶を包括せざれば、新中央政権に武力及財力の基礎なし。汪は停戦を令すと称するも、実力なき新政府の威令行わるるの筈なし。停戦は日本と重慶との問題なり。百万の軍を汪個人に依存すべからず。新政府を樹立して後重慶を切崩し乃至獲得せんとするは両政府の対立を前提とするものにして持久方略なり已むを得ざる場合の策なり」

と述べ、汪兆銘の新中央政権を樹立した場合、蒋汪両政権の対立により「永久抗争」の事態を招きかねないと危惧し、停戦の実行は蒋を相手として直接停戦条件の折衝を行い、停戦問題について重慶側が応諾して汪兆銘が承知しない時は「汪を排除」すべきであり、

 「新中央政府の樹立決定は事前合流か事後合流か或いは両政府対立永久抗争かの予見と之に応ずるの対内外決意とを確立し一大決心を以て之を行う。是今事変の運命を決すべき最大の決心なり。今や国民政府相手にせずの自らの声明に束縛せられ軽率なる新中央政府樹立乃至態度決定は百年の悔を遺すものなり」

と警告を発し、戦雲が色濃さを増すヨーロッパを前にして、

 「欧州情勢鎮静せば、列国の極東共同干与の時期あるべく、又欧州大戦に移行せば、其推移に応じ東亜新秩序に関し我指導的発言権を確保するの要あり。乃ち速かなる事変の解決を以て当面の急務となす。現態勢を以て今次戦争目的の達成は可能なり。今後漫然たる戦争継続は徒労なり。今次事変を以て一挙支那問題の全面解決を望むは無理あり。野に既に疲労の色あり。長陣は乱を生ず。故に断乎たる決意を以て事変の解決を策す」

べきだと主張したのである(3)。

(1)香港から帰国した小川平吉も、「蒋介石は多数要人と同じく心中和平を希望して其の時期を窺うと共に、講和の場合を慮り共産軍に対する中央軍の配置を完うし、又中央軍に対する共産党の侵入を杜絶し、其の宣伝を禁じ、学生青年等の赤化防止に力を尽くせるは顕著なる事実なり。彼は長期戦争の結果、両国倶に傷つきて共産党の乗ずる所となるを深憂し、其の体面を損ぜざる範囲と時期とに於いて講和を締結せんことを今尚熱望し居ること毫も疑なし」と政府要人に報告しており、小川は、もし不幸にも汪蒋両政権の勢力が拮抗して互いに相下らなければ、日支親善の実は挙がらず、共産党はこの間に乗じて益々地方に勢力を扶植し、東亜の平和は永く攪乱せらるる虞がある、と危惧していた(【小川平吉関係文書1】六五九頁「赴香始末」)。
(2)参謀本部第八課は、汪兆銘一行と共に来日した高宗武を特別に扱い、向島の大谷米次郎別邸に高一人を宿泊させ、犬養健が連絡に当たっていた。小川平吉は汪兆銘と会談した近衛から得た情報として日記昭和十四年六月二十日欄に「汪は去に臨みて高宗武は彼是噂あるも、予は絶対信用すといえり(影佐は之を疑い、東京に止めて軟禁せし由)」と記述している。松本重治の回想によれば、だが陸軍の一部が高宗武の不審な行動を怪しみ、高を「ぶった切ろう」とした為、六月末、松本等は急いで高を離日させたという(松本【上海時代下】三二七頁)。

 高宗武は、昭和十五年一月三日に汪兆銘の下を出奔、上海から香港に脱出し、汪一派にとって極めて苛酷な和平条件を列挙した「日支新関係調整要綱」(日華基本条約の草案)の内容を香港大公報に曝露し、「国に対する汪の反逆の万悪が、遂にここまで達したとは痛苦に耐えない」と蒋介石を激怒させ、その後、アメリカに逃亡した(【蒋介石秘録12】二一四頁)。

 神尾茂は香港日記昭和十五年一月十一日欄に「梅華堂に至り影佐少将と少時語る。高宗武、陶希聖は汪兆銘に書を寄せ、一時の興奮から同志を騒がしたことを謝し、決して他意ある訳ではないから、事を共にした同志の機密を売るようなことはしないから、放心して貰いたいといって来たそうで、一先ず安心すべき状態になったと」と記述している。
(3)堀場【支那事変戦争指導史】二六四~二六五、二六九~二七二頁。


29、ノモンハン事件と第二次ヨーロッパ大戦

 約三千四百万人もの人命が失われた第一次欧州大戦の惨劇の再発を危惧する英仏両国の対独宥和政策を利用し、一九三九年三月にチェコを併合、スロバキアを保護国にしたドイツは、八月二十三日、ソ連と不可侵条約を締結、ポーランドにダンチヒ回廊の割譲を要求していた。だがポーランドが頑なに之を拒絶した為、九月一日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻を開始し、三日、英仏両国は遂にドイツに宣戦を布告、第二次ヨーロッパ大戦が勃発した。ゾルゲ機関から、

 「日本政府はノモンハン事件を局地で解決する方針であり、それを拡大するつもりはない。日本政府はソ連と全面的に戦争をする意図はまったく持っていない。一般国民もまたソ連との戦争を望んでいない」

という報告を受諾し、後背の安全を確信したスターリンは、ノモンハン事件の停戦協定成立から二日後の十七日、ドイツ軍に続いてソ連軍をポーランドへ侵攻させ(1)、二十八日、ポーランドは独ソによって分割され消滅してしまった。さらにソ連は、ドイツとの秘密協定に基づき、バルト三国に相互援助条約と軍事基地提供を要求、これ等を受諾させ、ソ連軍を進駐させ(一九四〇年八月、バルト三国を併合)、次いでフィンランドに侵攻し(冬戦争、一九三九年十一月~一九四〇年三月)、国際連盟によって侵略国と認定され連盟から追放された。

 ノモンハン事件(昭和十四年五~九月、満蒙国境で日満軍とソ蒙軍が衝突した紛争事件)に遭遇した平沼内閣は、ドイツとの防共協定(昭和十一年十一月二十五日締結、翌年十一月六日イタリア加盟)をソ連或いはソ英仏等を対象とする軍事同盟に発展させる是非を審議し、ドイツと交渉を重ねていた。
 だがドイツ政府は国家意志の定まらない日本に失望しソ連と不可侵条約を締結した為、日独関係の温度は一挙に氷点に達し、我が国政府はドイツに防共協定違反を抗議して交渉を打ち切った。昭和十四年(一九三九)八月二十八日、困惑した平沼首相は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」云々との迷言を残し総辞職し、阿部信行内閣が誕生したが、貿易省問題、統制経済とくに米価問題に失態を重ね、翌年一月十四日には倒壊してしまい、十六日、米内光政内閣が成立した。

(1)土門周平【参謀の戦争】三十四頁。


30、桐工作

 ソ連は故意に国境紛争を惹起しこれを口実に外蒙古に大軍を派遣して頻発する反ソ暴動を制圧し、進んで外蒙古から満洲に侵攻する企図を有しており、昭和十四年(一九三九)五月十一日、スターリンの指示を受けた外蒙軍が、外蒙古と満洲国の国境のハルハ河を越え、満洲国軍とノモンハン付近で衝突した。六月十七日以降には、ソ連軍がソ連の唱える国境線から二十キロ東にある満洲国領内の将軍廟にまで侵入したが、関東軍の頑強な抵抗に遭遇し苦戦した為、八月二十日、ソ連軍は約二十三万以上の大兵力を動員し日本軍に大攻勢を仕掛けた。関東軍(最弱師団の第二十三師団)は、政府軍中央の不拡大方針に掣肘を加えられながらも砲兵に援護された精強なる我が下士官兵の挺身戦闘によってソ連軍に大打撃を与えよく満洲国防衛の任務を全うし、スターリンは止むを得ず東亜侵攻を一時中断しソ連軍の矛先を東欧と北欧へ向けたのであった。

 ノモンハン事件の日ソ両軍の損害数は、日本軍の戦死傷者が一万七千四百五名で、ソ連軍の戦死傷者は二万五千六百五十五名以上に及んだ。ソ連は余りにも拙速に大軍拡を行った為に、ソ連軍の諸兵器は多数の粗製濫造品を抱えており、一九三七年五月二十七日のトハチェフスキー元帥の逮捕に端を発したスターリンの大粛清によって有能な幹部を喪失していたソ連軍将兵の練度は士気と共に極めて低く、最大で約一対十一の日ソ軍の兵力比を勘案すれば、ノモンハン事件は我が軍の大善戦であった。当時の極東ソ連軍司令官ジューコフは、第二次世界大戦後、米国ミシガン大学のハケット教授や新聞記者らと会談した際、「どの戦いが一番苦しかったか」と質問されて「ハルハ河」と即答し、モスクワ攻防戦やスターリングランド攻防戦を予想した者を驚愕させ、彼等は改めて日本軍将兵の桁違いの精強を認識したのであった。とはいえノモンハン事件の後半戦には、関東軍将兵は日露戦争以来の日本陸軍の通弊である弾薬の不足に苦しみ著しく損害を拡大しており、我が陸軍が現代戦に対応するための補給能力とこれを支える輸送力を欠いていることを露呈したのである(1)。

 従って陸軍首脳は、汪兆銘政権樹立の危険性を看破した具眼の堀場一雄中佐の警告を受け容れ、梅機関と汪一派の日支内約交渉(昭和十四年十一月一日~十二月三十日、「日支新関係調整要綱」を調印)を巡って難航していた汪兆銘政権樹立工作を中止し、昭和十四年十二月二十七日、香港大学教授の張治平の斡旋により鈴木卓爾中佐(参謀本部支那課)が宋子良(蒋介石の妻宋美麗の弟)を名乗る男(重慶特務機関「藍衣社」工作員の曽広)に接触したことを端緒として開始された、蒋介石の重慶政権に対して和平を図る「桐工作」に集中して支那事変を解決し、支那戦線に投入されていた膨大な資金資材人員を対ソ戦備の再建更新と、欧米列強に比べて格段に劣っていた我が国の生産力や技術力の向上に充当すべきであった。

 だが汪一派に苛酷な和平条件を列挙した日支新関係調整要綱に難色を示し、東亜新秩序や東亜協同体を批判して新政権樹立を断念しようとした汪兆銘に対し、あくまで愛国者として初志貫徹を貫くよう呼びかけた西園寺公一を筆頭に(2)、我が国の各雑誌や朝日新聞社が、汪兆銘工作を「東亜の新秩序を実現する、理想に満ちた日支和平工作、支那再建運動」として礼賛し、これを執拗に宣伝推進していた。

 公論昭和十四年十一月号に掲載された以下の尾崎秀実の評論「汪精衛政権の基礎」(一九三九年十月十日脱稿)が示す汪政権樹立のための宣伝工作の狙いは、まさに蒋汪両政権を参謀本部戦争指導班の危惧した「対立永久抗争」という最悪の事態へ誘うことにあった(3)。

 「人々が汪精衛運動の発展に期待することは、この運動がやがて東洋の天地を被う陰惨深刻なる日支抗争の現状を打開する結果を齎すであろうということだと思われる。それはまさに日本政府の立場から見れば、事変処理方策の内容決定を意味するものであるわけである。しかしながら我々は汪精衛運動の期待を決してそのような手近な方便の上に置かんとするものではないのである。それはこの運動の発展自体が支那の再建過程を通じて将来本極りの日支関係をつくり上げ、かくて東亜の新秩序の誕生を待つ段取りとなるであろうと信ずるがためである(中略)。

 日本の当局者の責任は与うかぎり速かに汪運動の全貌を国民の前に明らかにし、国民をしてこれを理解せしむるべきである。汪精衛運動が支那再建の唯一の方策であり日本としては全力を挙げてこれを守る以外に良策なきこと、しかもこれは日本が後日大陸に雄飛し得べき具体的な足がかりを提供するものであることを明らかにすべきである。

 日本人はまず心を虚しうして汪運動の前進をはかるべきである。戦勝者の威容をつくることも悪くはあるまい、特殊の要求を持ちこむことも技術的に不可能ではあるまい。後日の保障を求めて置くことも無意味ではないかもしれない。しかしながらあらゆる問題の中で何が一番大切かといえばともかくも多くの困難なる条件によって発展の可能性を縮小されている汪精衛政権の誕生と発展とをはからなければならないということである。

 すべての条件が一応ことごとく汪精衛運動によく作用し民族資産家階級を根幹とする政権が出来たとしてもそれで問題が終わったのではない。汪政権がほぼ事変前の蒋介石政権の水準に近づくというだけのことである。その後には民族問題を根本的に解決する難問が待ちかまえているのである。
 宋美齢夫人が支那はこの戦争によって始めて国家意識をはっきりと持ち始めたというのはあながち誇張ではない。従来の支那の民族運動は未だ国家意識によって裏づけられるところまで到達してはいなかったのである。
 汪精衛運動が民族運動のヘゲモニーを重慶政権との間に争うべき最後の段階はやがてその後に到達するであろう。」

 それにもかかわらず合理主義より周囲の空気に付和雷同する日本人の習性から脱却できない凡庸な陸軍首脳は、弱体な汪政権の樹立が果たして支那事変の解決として結実するのかと疑問視しながら之を中断できず、昭和十五年三月十五日、阿南次官、武藤軍務局長、沢田参謀次長は、陸軍省軍務局高級課員の西浦進と石井秋穂の両中佐が起案した「当面の対支処理要領」を受諾し、汪工作の続行を決定してしまったのである。

 この「対支処理要領」は、「新中央政権樹立工作と桐工作とは別個に促進する」ことを方針として掲げ、第三項で「停戦の条件として、新中央政府の樹立を中止又は延期せしむることなし。随って桐工作が不成功に終わることを予期す」と述べ、文字通り汪兆銘政権の樹立が桐工作の障害となることを認識しながら、

 「政府樹立と停戦協定調印の先後関係に拘らず汪蒋合作を内面的に促進し、之が実現を見たる上正式和平交渉を開始するものとす。桐工作の成功を促進し且之を国内的に秘匿する為、汪を中心とする新中央政府の樹立竝に之に対する挙国支援態度を具体化するものとす。之が為新中央政府樹立せば之に対し、臨時特命全権大使を派遣し、指導協力竝に政府正式承認の前提として、日支関係条約締結の交渉に当たらしむる建前を以て其の準備に着手するものとす。
 但し現地に於ける政戦両略の一致を害するが如き結果を来さしめざる様、万全の措置を講ずるものとす。全権出発後桐工作速急に具現せる場合に於ける全権の任務は、汪蒋合作後の国民政府に対する日支新関係条約の締結交渉に在りとす」

と定めるなど矛盾を抱えていた。堀場中佐は、戦争の本質と国力に関する認識究明を欠き支那事変の解決を省みない陸軍省部の首脳陣に深く失望し、前年十二月初旬、

 「権益思想は玄界灘以東に止めよ。予は南京に到り大乗国策を以て事変を現地解決すべし」

と一縷の希望を抱いて支那派遣軍参謀に進んで転出し、南京で香港機関(桐工作)からの電報をもとに停戦会談から和平成立までの日程を組みながら、ひたすら重慶側の回答を待望していたが、この「当面の対支処理要領」の内容を知り「汪政権を主とする並行放任策」と評して嘆息したのであった…(4)。

 そして堀場中佐の赤誠溢れる意見具申から遅延すること約九ヶ月後、陸軍首脳がようやく戦略転換を申し合わせた三月三十日、汪兆銘が中華民国臨時政府および中華民国維新政府と合同して南京に新政権を樹立してしまい、支那事変は「永久抗争化」してしまったのである。

 実際、六月マカオで行われた日中和平会談において、宋子良ら重慶側代表は「汪ありて蒋なし。汪ありては和平なし」と汪兆銘が日中和平の障害であることを強調し、せめて汪兆銘を亡命あるいは隠退させてほしいと要求したが、今井武夫ら日本側代表は当然これを拒否し(5)、以後の和平交渉は進展せず、九月十九日、支那派遣軍は桐工作を中止した。

(1)小田、田畑【ノモンハン事件の真相と戦果ソ連軍撃破の記録】参照。
(2)上坂冬子【汪兆銘の真実上】二五三~二五九頁、中央公論昭和十四年十二月号「汪兆銘への公開状」
(3)【尾崎秀実著作集2】三七五~三七八頁、公論昭和十四年十一月号「汪精衛政権の基礎」
 なお同書三六八~三七四頁にある中央公論昭和十四年五月号「汪兆銘問題の新展開」の中で、尾崎は、「汪兆銘の奥地脱出以後、汪派の行動と蒋介石との間に何等かの脈略があるのではないかという観測が存在するが、これは明らかに穿ちすぎた観測であって、具体的には何等の連絡なきことは事実である」と断言している。
(4)堀場【支那事変戦争指導史】三二〇、三七六頁。
(5)今井【支那事変の回想】一三八頁。


31、倒閣

 一九四〇年四月八日、イギリスはノルウェーの鉄鉱石がドイツに輸入されることを阻止する為、ノルウェーの中立を侵害してナルビック港を封鎖した。翌日、ドイツ政府は、デンマークとノルウェー両国政府に対し「英仏の不法行為に対する自衛手段として両国の中立を保護する為に之を占領する」と通告、ドイツ軍は四十八時間以内に両国を制圧し、続いて五月十日からオランダ・ベルギー・ルクセンブルク三国に同時侵攻し、僅か一日で三国の首都を占領した。急降下爆撃機と機甲部隊を複合利用したドイツ軍の電撃作戦は凄まじく、ベルギーに進出して之を阻止しようとした英仏軍を押し返し、五月二十四日にはマジノ戦を突破したドイツ軍が北フランスのカレーを占領した。カレーの北方ダンケルクでドイツ軍に包囲されたイギリス軍は武器を捨てイギリスへ退却し、六月十四日、ドイツ軍はパリへ入城、そして三日後、フランスは降伏した。

 瞬く間にヨーロッパを席巻した一九四〇年四~六月のドイツ軍の快進撃により、英仏の対支援助の減少に伴う抗日戦力の減衰を余儀なくされた中華民国の国民政府内部では、蒋介石一派と孔祥煕一派が和平工作の主導権争いを起こす程、彼らは対日和平を欣求していた。

 上海で和平工作に従事していた和知鷹二大佐と松本蔵次が、七月七日に重慶、香港両方面より到着した王子恵の密使から得た情報によれば、蒋介石と孔祥煕等は必ず和平を決行する決心を固めており、対内対外関係に細心の注意を払い、アメリカに対して無理な抗戦援助を要求し、これに応じなければ対日和平の外なき由を提議し、和平後の経済問題を好転させる準備を取りつつあり、日支戦争を促進する為に中華民国へすでに約三億ドルもの軍事借款を提供していたソ連に対しても応諾不可能な抗戦援助と中共への支援の中止を申し込んで、ソ連と訣別する外交方針を決定しており、蒋介石は、対日和平を外部に発表する際は六時間以内に大占領を断行、講和反対派を弾圧する覚悟を固め、もし日本が和平に応じ国民政府を援助する覚悟を有するならば、孔祥煕が指定の場所に来て日本側と会談し、孔から交渉成立の電報を受ければ、蒋介石は、抗日戦以来蒋に次ぐ実力を獲得し、一九四〇年初頭から反共言説を繰り返していた陳誠(軍事委員会政治部長)に命令を発し一挙に和平を決せんと決意していたという。

 だが支那戦線では、我が陸海軍航空部隊が五月十五日から第四次奥地進攻作戦(百一号作戦)を発動し、九月二十三日の我が軍による北部仏印進駐の頃まで中華民国軍民の反日抗日気運をみすみす煽り立てる重慶爆撃を連続反復し、影佐禎昭や今井武夫ら汪兆銘政権樹立派が板垣征四郎支那派遣軍総参謀長を操り、「上海に在る重慶方面の輩は皆新政府の攪乱者」であるとして重慶側要人の捕縛を繰り返し、日蒋直接和平工作を執拗に妨害していた(1)。我が国では、「バスに乗り遅れるな」と親独世論が沸騰し、陸軍内部でも、ドイツに呼応して南進し英仏蘭の植民地を我が国の勢力圏に収めると共に仏印(ラオス、ベトナム、カンボジア)、ビルマにおける米英の援蒋ルートを遮断して蒋介石を屈服させるべきであるとの強硬論が勢いを増した。

 斯くして三ヶ月前の「支那事変の和平処理」「態勢の自主的収縮」方針とは反対に、陸軍省と参謀本部の課長会議は、昭和十五年六月二十一~二十五日まで僅か五日間の討議によって、仏印進駐を中核とし(我が軍は、昭和十五年九月二十三日北部仏印、翌年七月二十八日南部仏印に進駐)、米国が参戦せず英国の屈服が見込まれる「好機」を捕捉してマレー半島、香港(英領)、蘭印(オランダ領インドネシア)の攻略を予定する「対南方戦争」案を策定した。

 この案は、七月三日「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」として決定され、翌日、海軍の合意を得た陸軍の中堅幹部は、米英友好を強調し南進の障害となる米内内閣を倒す為、沢田次長、阿南次官を通じて閑院宮参謀総長を動かし、畑陸相に次の参謀総長覚書を提示した。

 「帝国としては一日も速に支那事変の解決を得策とす。而して之が為には国内体制の強化を前提とするのみならず、又変転極まりなき国際諸情勢に対しても積極機敏に処理すること急務なり。

 然るに、現内閣の施策する所を視るに、消極退嬰にして到底現下の時局を切抜け得るとも思われず、進で国軍の志気団結に悪影響を及ぼすの惧なしとせざるを以て、此際挙国強力なる内閣を組織して、右顧左眄することなく断固諸政策を実行せしむること肝要なり。右に関し此際陸軍大臣の善処を切望す。」

 「陸軍大臣の善処」とは米内首相に総辞職を勧告し、承知されなければ陸相が辞表を提出して内閣を崩壊させよ、という意味である。南進を論外の論と考えていた畑陸相は、沢田次長から提示された覚書を読んで絶句したが、陸軍最長老であり皇族である閑院宮参謀総長の指示には逆らえず、十六日、畑陸相は辞表を提出し、陸軍から後任陸相(現役の大、中将)を出せない旨が伝えられると、米内首相はそれを理由に内閣総辞職を決意した(2)。

 これは、昭和十一年五月十六日に陸軍統制派が二・二六事件を契機に陸軍中央より追放された皇道派の復活を阻止する為に、広田弘毅首相に圧力をかけて復活させた軍部大臣現役武官制(勅令第六十三号「大臣及次官に任ぜらるる者は現役将官とす」)の威嚇効果である…(3)。

(1)【小川平吉関係文書2】六七八~六八〇頁「昭和十五年七月、六、九日萱野長知(在東京)宛松本蔵次(在上海)書簡」
 書簡の中で、松本は萱野に「茲に困った事は又々板垣が今井等の煽動に乗せられ、上海に在る重慶方面の輩は皆新政府の攪乱者なれば、皆捕縛せよと云うにあれば一般に恐慌を来し居候。」「今井臼井等が宋子良を使い重慶工作をなさしめたるも皆失敗に終りたれば、其の非を覆う為め、蒋介石に宋子良が直接逢うて其の意向聴きたるに、蒋介石に於いては断じて和平の意志なきと。斯くの如き報告を聴きたる板垣は心機一転弾圧と決心したるものにて、租界にある重慶要人は皆陰謀攪乱者なれば皆捕縛せよと命令したる次第なり。和知も非常に残念がり居ると雖も目下の場合致し方なき次第。」と報告した。
 堀場中佐は、日本側代表が重慶に乗り込めば、話は必ず解決すると信じ、鈴木中佐に直接その旨を含め折衝を行わせたが、今井大佐は必ずしも賛成しなかったという(堀場【支那事変戦争指導史】三八九頁)。
(2)【畑俊六日誌】昭和十五年七月十六日の条。
(3)但し陸軍が後任陸相として現役将官を出さない場合、内閣総理大臣は内閣官制第九条「各省大臣故障アルトキハ他ノ大臣臨時摂任シ又ハ命ヲ承ケ其ノ事務ヲ管理スヘシ」に依り臨時に陸軍大臣事務管理を兼任できたので、法令上軍部大臣現役武官制は軍部に内閣の生殺与奪権を与えるものではなかった(筒井清忠【昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像】参照)。


32、第二次近衛内閣発足

 七月十七日、木戸幸一(昭和十五年六月一日内大臣就任)を司会とする重臣会議は、陸軍次官の阿南惟幾中将を通じて陸軍から出馬を要請されていた近衛文麿を次期首班に奏薦することに決定し、昭和天皇は近衛に後継内閣組閣の大命を下された。木戸は近衛の親友であり、

 「元来今の陛下は科学者であって、非常に自由主義的な方であると同時に、また平和主義の方でもある。そこで、この陛下のお考えになり方を多少変えて戴かなければ、将来陛下と右翼との間に非常な隔りが出来ることになると、ちょうど孝明天皇が晩年に側近をすっかり幕府に取替えられてしまったような具合に、どうされるか判らない。で、陸軍に引きずられるような恰好でいながら、結局はこっちが陸軍を引張って行くということにするには、もう少し陸軍に理解をもったような形をとらなければならん」(原田日記昭和十四年四月二十日)

とまで昭和天皇を批判し、

 「別席にて近衛公と懇談す。新党々首云々について、大体左の如き事情なることを知り得た。漢口攻略後の時局の転回に当りては、或いは蒋を対手とするの事態を生ずるやも知れず、又失業其他国内の状勢は相当憂慮すべきものあり、是等に対処するには政党を打って一丸とし、所謂一国一党的態勢を整うるの要ありとの見地より、秋山、秋田、久原、麻生等が参加し居り、前田も最近秋田の仲介にて秋山と会見したりとのことなり、右の如き意味にて政党合同運動の進展する場合には、近衛公としても之が党首を断ることも如何かと考え、曖昧なる返事を為し居るとのことであった。

 尚、近衛公は、自分が組閣以来支那事変の勃発に逢い、種々苦心を続け来りたるが、南京攻略後の見透し、一月十六日の声明の結果、新政府樹立の効果、成績等に顧るに、常に事志と違う処少からず、此上いよいよ蒋を対手とすると云うことにならば、其責任も重大なるを以て桂冠するの外なしと心中を語らる。尚、最近宇垣方面より、首相の方針等につき悪声の伝えらるるは、結局此の内閣を倒さんとの意図の下に行わるるやにも推せらるとの述懐ありたるを以て、余は此の際蒋を対手とすると云うことを以て首相が退き、其新政局を宇垣外相の方針にて処理せむとするが如きは、到底思もよらざることにて、其の結果は国内に恐らく一擾乱を起し、結果より見て我国の負となるの虞十分あり、絶対に如斯ことは考えず、今一応勇気を起して邁進するの必要を力説し、其の為めには必要とあらば新党々首を引受けらるるも不得止べし」(木戸幸一日記昭和十三年九月七日の条)

と対支強硬策を力説し、昭和十五年五月二十七日、風見章に新党運動に関する「白紙委任状」を渡した一国一党論者であり(1)、この二人の「革新」華族が我が国を敗滅へ引きずっていったのである…。

 七月十九日、近衛は、入閣予定の東條英機(陸相)、吉田善吾(海相)、松岡洋右(外相)を「荻外荘」に招き、世界政策として次の四項目を決定した。

1、世界情勢の急変に対応し、且つ速かに東亜新秩序を建設するため、日独伊枢軸強化を図り東西互いに策応して諸般の重要政策を行う。しかし、枢軸強化の方法や時機については、情勢に応じて機宜を失わないことを期する。

2、対ソ関係は、国境の不可侵協定(期間五~十年)を結び、且つ懸案の急速解決を図ると共に、右の期間内に対ソ不敗の軍備を充実する。

3、東亜にある英仏蘭葡(ポルトガル)の植民地を新秩序に包含せしめるため、積極的な処理をする。但しこれに関する列国会議はなるべく排除する。    

4、米国とは無用な衝突を避けるが、東亜新秩序の建設に対する米国の実力干渉は、これを排除する堅い決意を持つ。

 二十二日、近衛内閣は朝日新聞社から「米内有田外交の総決算」(十七日)、「明察を鉄の意思で貫け」(十八日)など声援を受け発足し、二十六日には陸軍省軍務局と秋永月三(陸軍大佐)、迫水久常、毛利英於菟ら企画院革新官僚が作成した「綜合国策十年計画」を台本として起草された「東亜新秩序建設」「自由経済を基調とする現存経済機構を計画経済の運営に適応させる公益優先主義」等を強調する「基本国策要綱」を発表し、松岡外相は、その新秩序とは仏印、蘭印を含む「大東亜共栄圏」の確立をめざすものだ、と声明した。

 そして翌二十七日、大本営政府連絡会議は、陸海軍主務者が検討、修文を加え合意した「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。事実上、我が国の進路(破滅への道)を決したといえるこの要綱は「帝国は世界情勢の変局に対処し、内外の情勢を改善し、速に支那事変の解決を促進すると共に、好機を捕捉し、対南方問題を解決す」を基本方針とし、軍事戦略、外交政略として「好機を捕捉する南方武力進出」「重慶政権の屈服による支那事変の解決」「独伊との政治的結束」「対ソ国交の飛躍的調整」「対米開戦の準備」「蘭印に対する暫定的資源獲得外交交渉」を定め、内政施策として「強力政治の実行」「総動員法の広汎なる発動」「戦時経済体制の確立」「国内世論の統一」等を掲げ、新世界情勢に基づく国防国家の完成をめざして強力に推進すると定めており、陸海軍統帥部は南方武力行使および対米英戦の具体的な検討と準備とを開始し、八月三十日、小林一三使節団が東京を出発、蘭印へ向かった。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌(註、種村佐孝が主として執筆した陸軍参謀本部戦争指導班の業務日誌)

昭和十五年八月十六日金曜
一、南方綜合作戦計画ニ関スル陸海軍打合セヲ水交社ニテ行フ 瀬島案ノ再検討ヲ行フ

昭和十五年八月十九日月曜
一、南方綜合作戦研究アリ 蘭ヨリスヘキヤ馬来(マレー)ヨリスヘキヤニ関シ要ハ対英戦ノ決意ナキモノハ駄目
一、午後南方戦争指導要綱並ニ時局処理要綱ノ再検討ニ関シ種村案ヲ基礎ニ研究アリ
一、 沢田大使ヨリ仏側カ軍隊通過ノミヲ認メタル旨ノ通電アリ 南方ニ関スル限リ海主陸従ナルモ陸軍統帥担当者ガ無研究ノマヽ海軍案ヲ賛美スル傾向アルハ適当ナラス   

昭和十五年八月二十二日木曜
イ、対南方戦争指導ニ関シ第三次案ヲ基礎トシテ省部関係者ノ協議アリ
 軍事課長ヨリ武力戦内容(英蘭カ蘭カ英カ)不明ニシテ同意シ難シトテ更ニ明日附議スルコトトナレリ
ロ、「大東亜新秩序建設目標」ノ検討アリ

(1)尾崎、今井【開戦前夜の近衛内閣】五十七頁。


33、近衛新体制 

 第二次近衛内閣の誕生から間もない昭和十五年八月一日、東京市内に千五百本もの「贅沢は敵だ」という看板が国民精神総動員本部によって立てられ、食堂・料理店での米食が禁止された。十月三十一日には、東京のダンスホールが閉鎖され、戦時下の我が国の世相は暗く貧しくなっていった。鳩山一郎は日記昭和十五年十月十六日欄に、

 「布施氏が、贅沢は敵だ、というスローガンは曾てレーニンが使用したる句なり。レーニンは先ず此のスローガンを宣伝して、次に、贅沢と貴族は敵だ、と云うスローガンを播かし、其の次に、贅沢と貴族とクレムリンは敵だ、と宣伝した。現時の日本の状態は全くレーニンの初期時代に髣髴とすと述べて居たと」

と記している…。
 近衛内閣によって我が国の政治経済が戦時統制一色に塗りつぶされていく中で、八月二十三日の新聞に新体制準備委員の陣容が発表された。近衛の枢密院議長辞任と新体制参加表明(六月二十四日)に呼応して、赤松克麿一派の日本革新党が解党し(七月二日)、社会大衆党、政友会が次々と之に追随し、そして最後に民政党が解党し(八月十五日)、遂に我が国から政党が消滅してから八日後のことである。

 「広く会議を興し万機公論に決すべし、上下心を一にして盛に経綸を行うべし」の五カ条の御誓文を履行した明治天皇によって明治二十三年(一八九〇)に開会され、半世紀に亘り我が国の政治を担ってきた帝国議会の衆議院は、ここに全く権威を喪失し、代議士の集団は大政翼賛会の議員部的存在に転落してしまったのである。
 政党を棄てた彼ら衆議院代議士たちは昭和十二年(一九三七)四月三十日の第二十回衆議院総選挙で当選を果たした政治家である。この選挙では、民政党と政友会が宇垣一成内閣を流産させた帝国陸軍中央部の傀儡政権であった林銑十郎内閣との対決姿勢を鮮明にして大勝利を収め、無産階級の革新政党である社会大衆党(戦後の日本社会党の前身)が衆議院の第三党に上り、政府与党の立場を採る昭和会と国民同盟は惨敗した。

<第二十回衆議院議員総選挙の党派別獲得議席数>

立憲民政党 百七十九議席
立憲政友会 百七十五議席
社会大衆党 三十六議席
昭和会 十八議席
国民同盟 十一議席
東方会 十一議席
諸派 七議席
中立 二十九議席

 立法承認権と予算承認権を有する帝国議会衆議院の刷新を狙い予算の食い逃げ解散を強行した総理大臣の林銑十郎陸軍大将(予備役)は、この選挙結果に因り政権を維持できなくなり、同年五月三十一日に林内閣は総辞職した。政友会と民政党と社会大衆党そして有権者は自由な普通選挙を通じて合法的に陸軍中央の傀儡政権を倒したのである(1)。ところが支那事変勃発の直前に復活した我が国の政党政治は、衆議院代議士の任期満了を待たずに衰亡してしまった。

 昭和十五年八月二十八日首相官邸で行われた第一回新体制準備会で松岡外相は、「一人を刺殺せずプリンス近衛の出馬に依り政党が解消したのは二十世紀の、否人類史上の最大の奇蹟」と感嘆した(2)。これは昭和十二年末から近衛文麿が行ってきた政党粉砕工作の成果であり、昭和研究会の宣伝工作の結実であった。

 昭和研究会に結集した近衛の革新(左翼)政治幕僚たちは、汪兆銘工作と同様に、中央公論や改造を通じて近衛新体制を推進する論文を次々と発表し国民世論を操作した。特に尾崎秀実の同志であろう平貞蔵(労農派過激社会主義者)の二つの論文(中央公論昭和十五年七月号「事変処理の視角から」、改造昭和十五年八月号「新体制に関連して」)は、彼等が秘めていた「戦争を利用する国内革新」謀略思想を余す所なく示唆している。

 平は、まず「日本は屡次の声明に於て、支那の基本的要求を認めると言明したのであるから、この絶好の機会に更に一歩を進め、抗日支那存立の地盤が消失する途を選ぶべきである。」と蒋介石政権に対する徹底的武力掃蕩戦を煽動し、さらに「支那事変が東亜解放の聖戦たる基礎は、戦争の結果が日本の進出および支那の発展、東洋植民地区域瓦解の一歩となり世界資本主義の従来の均衡を破壊することに存するが故に、聖戦の遂行は従来のままの性格、従ってまた世界資本主義との本質的結び着きを放棄しない限り不可能である」と断言した。
 さらに平は、列強の運命と東洋の運命とが定まる数百年に一度しか来ない現在の歴史的転換期に処して、日本が生き、戦い抜き、国家的使命である東亜新秩序建設の指導的役割を果さんとすれば、「我々は英米との経済政治関係を新しく考え直し、これら世界の旧秩序に結び付く国内旧秩序への執着を日本において一挙に払拭しなければならない」と言葉巧みに日本の対英米協調時代の国内旧秩序すなわち立憲自由主義議会制デモクラシーを否定し、国内革新の必要性を説き、

 「所謂非常時がそのまま常態化した事実の認識の上に立って、一切の国民が国家の発展のために協力する体制を、今や躊躇するところなく樹立せねばならぬのである」

と国民に近衛新体制運動への協力を迫っていたのであった(3)。

(1)一九三七年当時は天皇の名代として司法権を行使する独立不羈の裁判所に一般人が参与する日本版の陪審制(一九二八~一九四三年、戦局悪化により一時中断したまま二十一世紀に至る)があった。昭和天皇は陪審法(大正十二年法律第五十号)の施行を非常に喜ばれたという。
(2)伊藤【近衛新体制】一四三頁。
(3)三田村【戦争と共産主義】二六四、二六六~二六七頁。


34、帝国憲法改正に関する意見書

 八月二十七日、近衛は側近の矢部貞治によって起草された「新体制に関する声明文案」を内奏し、木戸幸一に「憲法の運用」「外交方策」「財政経済」の三節からなる意見書を渡して昭和天皇の内覧に供するように依頼し、三十日、木戸はこれを昭和天皇の内覧に供した。近衛の意見書は次のように述べている(1)。

1、憲法の運用について、

 「憲法に妄りに改変紛更を試みるは、断じて許されざるところであるが、法も亦進化発展の理法を免れざるところである。帝国憲法は、建国の精神を基礎として制定せられたるものであるが、国体法に属する部分にはその時代の欧州諸国の政体法より摂取せられたるものも存在する。この部分こそが時代の進展に伴ってその運用を考慮せらるべき部分である。起草当時の欧州諸国の憲法は、所謂自由主義的立憲国家の憲法であり、その社会的経済的に意味するところは勃興期に在りし資本主義の担い手たるいわゆる第三階級の要求を表現したものという点にあり、有産階級のための『夜警国家』にほかならない。ところが資本主義はその発展とともに所謂独占化の段階に到達し、自由貿易は止んで、資本主義国家間に所謂帝国主義的対立と闘争を激化し、国内にも共存共栄の時代は去りて、凡ゆる領域に階級的対立と闘争を尖鋭化するに至った。そしてまた議会政治、選挙、政党等の諸政治原理が著しく階級的なる道具と変じ、立憲政治は金権政治と同一視せらるるに至った。

 そこで十九世紀の終わりから世界的傾向として国家は益々政治経済生活の凡ゆる領域に干渉せざるを得なくなり、また自由放任の経済に全体的公益の立場より統制を行わざるを得ざるに至り、そしてそのために権力分立、牽制均衡を棄てて、寧ろ強力なる国家権力の集中を図り、その集中的政治機関として執行権を強化し、為に議会は政治の中枢より後退するの已むなきに至って居る。この傾向は近代戦の特色として致しましての国家総力戦の要請による所謂国防国家体制の必要から今日ますます強められている。この半世紀間、欧州各国は憲法改正ないし運用によってこうした傾向に順応しており、これが一番はっきりしているのが所謂全体主義国家である。

 帝国憲法の場合においても政体法の組織及び運用におきましては、著しく分立主義、均衡主義の要素が存在し、日本もまた前述のような政治体制の強化をどこの国よりも必要とする今日、憲法改正のことを申しまするは憚りがありまするが、少なくとも時代の進展に応じて、憲法の運用につき考慮せらるることは、切望に堪えざるところであり、必要ならば、八(註、議会閉会の場合の緊急勅令による法律の改定)、十四(註、戒厳)、三十一(註、戦時又は国家事変に於ける国民の権利財産の制限)、七十(註、議会召集不能の場合の緊急勅令による財政上必要の処分)条等を適宜に活用すべきものとも考えられる。」

2、外交方策について

 「現代の如き動乱の時代におきましては、かかる受動的態度を以ては、東亜の安定勢力たる帝国の任務は、到底之を有効に遂行致し得ず、寧ろ進んで帝国の世界政策を確立し、来るべき世界秩序の建設に指導的役割を演ずべきことが、必要である。日本が今日追及している東亜新秩序の理念は、現に進行中の欧州戦争と相俟ちまして、現行世界秩序たるベルサイユ体制乃至ワシントン体制に代り世界新秩序の模型たる世界史的意義を有するのである。ブロック化の傾向はモンロー主義のアメリカ、ソ連、統一に向かいつつあるヨーロッパを形成しつつあるが、日本も東洋を解放し一つのブロックつまり東亜自主圏を形成しなければならない。日本の自主外交への要求と経済的基礎の英米依存というジレンマを解決すべく一度血路を開くには、世界全体に亙る一大転換期たる現在を措いて、再び来るべしとも思われない。そのためには、ドイツ・イタリアとの緊密なる提携が必要であり、それによってソ連の脅威は減少に至るであろう。」

3、財政経済について

 「政治体制強化と統制経済体制の整備は補完関係にあり、統制経済の確立の傾向は、現代の戦時体制乃至高度国防国家体制におきましては、絶対的な要請にまで高められているのであります。」

(1)伊藤【近衛新体制】九~十三頁。


35、満洲国協和会と大政翼賛会

 近衛および彼の最高政治幕僚は、「近衛幕府、新体制はアカだ」という批判を回避する為に、運動体、中核等の様々な煙幕の言辞を発したが、コミンテルンの左翼史観(註1)に沿い資本主義と議会政治を排撃する近衛の意見書に、近衛新体制運動の正体が色鮮やかに映し出されている。それは究極的に東亜新秩序をめざした国内革新運動であった。理論的実践的に優れた党が、全ての国家機関を支配下に置き、国家目標に向かって、職業、居住地域、年齢、性別等によって組織された国民組織を指導し、党の指導者が天皇に対する唯一の輔弼(助言と承認)者となるのである。  
 近衛新体制運動とは、ソ連共産党、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)、伊ファシスト党、そして満洲国の協和会を模倣した一国一党独裁運動であった(1)。

 「日本もナチス張りよりスターリン張りと相成申候。統制と分配は産組を基礎として弥々隣組みの細胞組織に入り申候。ソビエトの経過と同様の道を踏み出し申候。組織図解は其の直訳と存候。欧洲の形勢より打算すれば一日も早く事変処理を為さざるべからず。然るに之を棚に上げて国家は何れの方向に行きつつあるか、ああ寒心に堪えざる也。」(昭和十五年九月十三日小川平吉宛萱野長知書簡)

 新体制運動を異常なほど積極的に推進した尾崎秀実は、中央公論昭和十五年十二月号「満洲国と協和会」で次のように述べた(2)。

 「第一次近衛内閣の末期に国民再組織の問題が論ぜられ始めた時から、新政治体制の具体的な提案のうちに満洲における協和会の組織や経験が多分に取入れられているのが見られた。本格的な段階に達した日本の新体制の中核組織たる大政翼賛会の構造、特に協力会議には少なからざる類似点が見られる。ともかくも満洲協和会の十年に近い民衆組織の実践は充分いかさるべきであろう。もとより日本政治の現段階は満洲のそれよりはるかに複雑であり、高度のものではあるが、日本民族が、政治的未開墾地に試みた貴重なる実験の結果は高く評価されなくてはならない筈である。」

 満洲事変を強行した石原莞爾は、辛亥革命以降の支那大陸における軍閥の群雄割拠、絶え間ない抗争内乱を見て、支那人の政治能力を疑い、満蒙問題解決の唯一の方策として満蒙領有論を唱え、「漢民族は自身政治能力を有せざるが故に日本の満蒙領有は日本の存立上の必要のみならず支那人自身の幸福である」とまで主張していたが、この満蒙領有論は実際に事変が起こり、また満蒙の統治が現実の問題となってきてから、却って反対に満蒙の独立論に変わっていった。石原は満洲建国前夜の心境として次のように語っている(3)。

 「その第一の理由は、支那人の政治能力に対する従来の懐疑が再び支那人にも政治の能力ありとする見方への変り方であった。当時支那は蒋介石を中心とする国内の統一運動が国民党の組織をその基盤として非常な勢で延びて行った。生活の根本的な改善からはじまって国民の生活と国家の政治、経済等の直接的な結びつきに依る革新運動は、従来の軍閥のやり方と全然違って新しい息吹きを支那に与える様に思われたのである。

 支那人自身に依る革新政治は可能であると言う従来の懐疑からの再出発の気持は、更に満洲事変の最中に於ける満洲人の有力者である人々の日本軍に対する積極的な協力と軍閥打倒の激しい気持、そしてその気持から出た献身的な努力更に政治的な才幹の発揮を眼のあたり見て一層違って来たのである。

 在満三千万民衆の共同の敵である軍閥官僚を打倒することは日本に与えられた使命であった。此の使命を正当に理解し此の為に日本軍と真に協力する在満漢民族其の他を見、更にその政治能力を見るに於て、私共は満蒙占領論から独立建国論に転じたのである。何故ならば支那問題、満蒙問題は単に対支問題ではなく、実に軍閥官僚を操り亜細亜を塗炭の苦に呻吟せしめて居るものは欧米の覇道主義であり、対支問題は対米英問題である以上、此の敵を撃砕する覚悟がなくて此の問題を解決することは木に拠り魚を求むるの類いであると思って居たが為に他ならない。

 斯くて私共は満蒙に新生命を与え、満洲人の衷心からの要望である新国家の建設によって、先ず満洲の地に日本人、支那人の提携の見本、民族協和に依る本当の王道楽土の建設の可能性を信じ、従来の占領論を放擲して新国家の独立を主張するまでの転向となったのであった。」

 南京の国民政府は、北伐完成直後の昭和三年(一九二八)七月七日、日支間不平等条約の効力を一方的に否定する「革命外交」を我が国に通告、彼らに帰順した張学良の奉天軍閥は、満鉄に対する併行線の敷設やテロ破壊活動、在満邦人に対する土地商祖の禁止、朝鮮人開拓地の没収など、戦争に代わる抗敵手段として外国民および外国貨排斥運動を執拗に繰り返し、日露戦争のポーツマス条約の締結以後、我が国が正当かつ合法的に獲得した在満権益を侵害した。「支那が如何に術策を弄するとも、以上の如き不信不義の堆積を弁護すべき理由は断じてない。この正義と、満蒙生命線確守に対する熱烈なる日本の国民的要求の前に、世界列強がいかに認識不足たりと雖も到底これを否認し得ないことを確信する」と結論づけ中華民国を痛烈に非難する大阪朝日新聞記事「満洲は支那でない立派な独立国-歴史が語る満蒙を見よ」(一九三二年四月十八日)の内容は、リットン報告書が柳条湖事件を関東軍の自衛措置とは認めず、事変以前の満洲独立運動の実在を無視したものの、中華民国の不法な排日運動に苦しめられていた日本国に同情と理解を示し、以下のように満洲事変が抱える「問題の複雑性」を認めた(4)歴史的背景そのものである。

「本紛争は一国が国際連盟規約の提供する調停の機会を予め十分に利用し尽くすことなくして他の一国に宣戦を布告せるが如き事件にあらず。又一国の国境が隣接国の武装軍隊に依り侵略せられたるが如き簡単なる事件にもあらず、何となれば満洲に於ては世界の他の部分に於て正確なる類例の存せざる幾多の特殊事態あるを以てなり。」(リットン報告書)

 そればかりか奉天軍閥は不換紙幣を濫発して農民から農産物を収奪し、民衆には出産税や木植税まで重課し、一九三〇年度の歳入の八割八分を軍事費に当て紙幣価値を百分の一以下に暴落させるなどリットン調査団に「言語道断なる政府の強奪であり、憐れむべき多数民衆に対する最も憎むべき犯罪に外ならない」と非難された程の虐政を重ねていた。

 その為に邦人を含む在満住民の怨嗟は頂点に達しており、満洲を国民政府支配から切り離して、北伐完成以後も続いていた支那本土の戦乱と張学良の虐政から住民を守ろうとした満洲文治派の保境安民運動、満洲に混在する諸民族の共存共栄を目指す満洲青年連盟の民族協和運動などの満洲分離独立運動が存在した他、清帝退位協定(一九一二年十二月二十六日公布)によって保障された諸権利を中華民国に蹂躙された満洲族や蒙古族が、一九一九年以降も在満地方各軍閥諸将や日本政界の一部と連絡しながら、清朝最後の皇帝である溥儀を推戴する清朝復辟(廃帝が再び帝位に就くこと)運動を執拗に行っており、張学良政権の崩壊を「天賦の福音」と歓迎した彼等の建国に対する熱意、悲願、政治能力が石原莞爾をして強硬な占領論者から、民族協和への確信、漢民族に対する信頼を基礎とする確固たる独立論者に転向させ、日満漢鮮蒙の東亜諸民族から絶大な支持を受けた東亜連盟構想へ飛躍させたのであった。

 清帝退位協定とは、辛亥革命後、朝廷と革命政府間の対立の継続が内乱から無限の民族戦争に発展し、無辜の大衆が戦乱に巻き込まれ、国民相互の大虐殺が行われることを深く憂慮した隆裕皇太后が六歳の宣統帝溥儀を潔く退位させた際、清帝国朝廷と中華民国政府(現実には革命に協力する交換条件として孫文から大総統の地位を譲り受けた袁世凱が代表した)との間に結ばれた国家承継(相続)協定である。これは、清室優待条件、皇族待遇条件、満蒙回蔵各族待遇条件から成り、清皇室、満蒙王族の特権(年金支給、兵役免除、称号維持等)および満蒙回蔵各民族の私有財産の完全保護、通商居住信教の完全自由、漢民族に対する完全同等の地位等を保障するもので、中華民国政府はこれをハーグ国際法廷に登録し諸外国に通達し国際法として遵守することを誓約した。

 清朝は張作霖に革命軍の前進阻止を命じ満洲の防衛に成功しており、蕭親王善耆と恭親王専偉は、袁世凱によって提示されたこの妥協案の受諾を非難排撃し、皇帝の退位の無用を主張したが、彼ら二人を除く清朝の皇室王族以下満洲人は、袁の巧言に幻惑され、満洲に撤退して清朝を存続させる実力を有していたにも拘わらず、この「国譲りの契約」を信頼して静かに武器を置き、国家の統治権を革命政府に譲渡したのである。

 だが中華民国は協定を無視し、彼等諸民族の権利を剥奪し財産を没収してしまい、欺かれた満蒙人は迫害から逃れる為に、憤怒の情を胸中に秘めつつ地下に潜伏し、再起する機会を窺っており、これが満洲事変と綏遠事件の伏線となったのである。
 さらに中華民国政府(黄郛内閣)は一九二四年十一月六日、溥儀と日英蘭の公使の反対を無視して、清帝退位協定清室優待条件改定に関する大総統令を布告し、溥儀から外国君主としての待遇と皇帝の尊号を剥奪し、二八年七月には、大総統令第四条「清室の宗廟寝陵は永遠に奉祀し民国により衛兵を附して之を保護す」が蒋介石の北伐軍によって蹂躙されてしまったのである。だからこそ侮辱、嘲笑、反清主義者による死の脅迫、宝物の没収、協定の不履行等に耐え忍んできた溥儀は、遂に堪忍袋の緒を切り、満洲独立運動への合流と復辟とを決意したのであった(5)。
 中華民国政府は、自ら全条項に亘り清帝退位協定を蹂躙した代償として、清帝国の版図を継承し満洲蒙古の領有を主張する権利を喪失しており、充分な資金や武器を持たない溥儀および満洲族が関東軍の作戦行動に便乗し、彼らの故郷を南京政府に帰順したアヘン中毒の暴君の張学良から奪還したのである。

 斯くして昭和七年(一九三二)二月十八日、復辟派の張景恵ら諸将と斉王凌陞および趙欣伯(奉天市長、日本国の明治大学を卒業した法学博士)らによって組織された東北行政委員会は満洲の独立を宣言、全会一致の決議によって、満洲女真族の太祖ヌルハチから数えて十二代目の子孫にあたる溥儀が新国家の元首に選ばれ、三月九日、満洲国執政に就任したのであった(昭和九年三月一日帝政実施)。
 翌日の大阪朝日新聞は「満蒙栄光に映え溥儀執政、厳かに就任、三千万民衆の待望報いられ万歳轟く新国都長春」と題して以下のようにその模様を報道し、新満洲国と新元首と三千万民衆に熱烈な声援を送った。

 「これ時大同元年三月九日栄光燦然として輝く新興満洲国が若き新元首溥儀氏を迎え新国都長春において盛大なる建国の大典を挙げ、新元首執政就任の晴の大儀の行われるその日は来た、この日無風快晴、茫漠涯なき満蒙の夜は朗らかに明け、瑞雲靉靆して三千万民生の『新国都万歳』『新元首万歳』の歓呼の声は満蒙の天地に百雷の如く轟く、新国家、新首都、森羅万象はすべてこれ新にして生気溌剌、すべてこれ清新すべてこれ祝福、ことにめでたきは御齢正に二十七歳、清朝の末裔たる若き新元首溥儀氏が帝制と民本政治とその国体は異なれども再び一国の元首に就任され、しかも二百八十八年の昔清朝の祖愛新覚羅氏が創建せる清朝発祥の地たるこの満蒙の天地において世界の歴史を飾り極東史を画する執政就任の大儀が行われることである三千万民衆、殊に忍苦と受難に恵まれざりし宣統帝の同族満洲人三百万のその喜びと感激よ!

 専制悪業、秕政、百悪の代名詞たる軍閥政治は根こそぎ打倒されてその廃墟の上に元首も国もともに若々しき王道国家『満洲国』は彗星のように極東の一角に打建てられた、晴の御儀はいよいよこの日午後三時新装なれる国務院内において金モール燦爛たる執政服を召された新元首溥儀氏臨場の下に厳かに挙行され、ここに新理想国満洲国の国基は名実ともに定まるのである、新満洲国と新元首と、三千万民衆の上に栄光あれ!」

  また昭和九年(一九三四)三月十三日の報知新聞は「満洲帝国の独立は日本の所業に非ず」と題して溥儀の家庭教師の著書を紹介し、以下のように満洲独立運動の秘史を報道していた。

 「ロンドン十一日発連合=満洲国新帝がその昔清朝の皇位より逐われて紫禁城に居られた時代、家庭教師として近侍し前後五ヶ年間にわたり御教育の任に当ったサー・レヂナルド・ジョンストン氏は目下ロンドンにあって新帝の登極を慶賀し奉って居るが、この喜びを永久に記念するために『禁苑の黎明』と題する著書を上梓しいよいよ十二日出版されることとなった。右の著書中には光緒皇太后、新帝の御性格より袁世凱その他の人物及び北京城内における多くの劇的事件、秘められた陰謀がことごとくジョンストン氏の見聞、体験に基づいて如実に描き出されているが、特に氏は満洲国の独立運動が日本の発議に成るものでなく満洲人自身の発意によるものであることを強調し左の如く述べて居る。

 満洲国の独立運動は着々奏功してついに新帝の登極を見るに至ったが、右運動は決して日本の創意に成るものでなく少くとも一九二三年張作霖氏が満洲に復辟を企てた時以来の支那人及び満洲人の創意に成るものである。余は張作霖氏自身の口から聞いたのであるが一九一二年の宣統帝の退位の際は満洲人はこれを拒否しようと思えば拒否し得たのであり、そのまま帝位を満洲に移し得たのだとの事である。」

 溥儀は、辛亥革命によって退位することを余儀なくされ、第二次奉直戦争(一九二四年九月、袁世凱の死後、彼の北洋軍閥から派生した、張作霖の奉天軍閥と呉佩孚の直隷軍閥の戦争)に巻き込まれ、北京の紫禁城を追われ天津の日本租界に隠棲していた。しかし蒋介石の率いる国民革命軍兵士が北京の清朝歴代皇帝の陵墓を爆破、宝物を掠奪し、溥儀の先祖の遺骸を切り刻むという大蛮行(一九二八年七月三~十一日)を犯すに及んで、溥儀は彼らに許し難き憤りを覚え、自分自身の自由意志に基づいて、天津を去って満洲へ向かい、溥儀に対し何の謝罪も遺憾の意も表明しなかった国民政府に対する全ての忠誠を放棄し、また皇帝の主権に関する中華民国側の全要求を一蹴して満洲国皇帝に即位し、父祖の地である満洲に清朝後継国家を再建し復辟するという宿望を成就したのである(5)。

 だが溥儀と石原莞爾の関係は同床異夢であった。石原は、昭和三年に陸軍大学校教官として二年学生の為にマルクス十二講を引用して欧州古戦史を講義していたように、尾崎秀実ほどではないにせよ、少なからずマルクス思想に汚染されており、昭和七年六月二十五日、満洲国の採るべき政治組織について、

 「然れども永久に軍司令官を満洲国の主権者たらしむるべきにはあらざるを以て為し得る限り速にその後継者を養成せざるべからず。而してその後継者は専制君主たる溥儀か、然らず、自由主義による民衆の代表立法議会か、然らず、吾人は統制主義(註、専制と自由を止揚させた石原独特の概念で、個々の自由創意を最高度に発揚する為に必要最小限度の専制を加えることをいう。石原は日本の一九四〇年戦時体制を自由から統制への進歩ではなく専制への後退であると批判していた)による民衆の代表機関たる一の政治的団体たるべしと断ぜざるを得ず。満洲国協和会は実に此の目的の為に設立せられたるものなり。(中略)

 満洲事変直後設けられる自治指導部は総督政治を予想しある時代に於て民衆の蒙を啓き、之を指導して新政治の意義を解せしむる為に軍司令官直属として設けたるものなるが、新国家成立と共に更に此事業の精神を拡大して一国一党の理想の下に協和会は成立せるものなり」

と主張したのである(6)。
 昭和六年十月に満洲を視察して帰国した外務省の守島伍郎によれば、

 「彼ら関東軍の参謀たちは、酒を飲めば必ず『この計画は前からちゃんと企ててあった。これに成功したのだから、次には内地に帰ったらクーデターをやって政党政治をぶっ壊して天皇を中心とするいわゆる国家社会主義の国を建てて、資本家三井、三菱のごときをぶっ倒して富の再配分を行おう。必ずやってみせる』と放言していた」

という(7)。酒を飲めない石原莞爾が参謀達の放言に加担していたか定かではないが、石原自身、三月事件(後述)の失敗後の昭和六年五月に、

 「戦争は必ず景気を好転せしむべく爾後戦争長期に亘り経済上の困難甚だしきに至らんとする時は、戒厳令下に於いて各種の改革を行うべく平時に於ける所謂内部改造に比し遙かに自然的に之を実行するを得べし。我が国情は国内の改造を第一とするよりも寧ろ国家を駆って対外発展に突進せしめ途中状況により国内の改造を断行するを適当とす」

と述べ、確かに満洲事変後の国内改造を想定していた(8)。そして石原は、参謀本部作戦課長就任後、宮崎正義(満鉄社員、モスクワ大学卒の統制経済学者)を起用し、参謀本部の外郭機関として日満財政経済研究会を設け、これに昭和十一年秋頃、対ソ戦備の基礎となる総合工業生産力の拡充計画と共に、「政治行政機構改造案」を立案させたのである(9)。この案は検討段階で中止となったが、日本国権社会党による一国一党政治、少数内閣制、銀行、重要産業、商業の国公営化などを目標として想定しており、マルクス主義の影響を色濃く受けた危険な国内革新計画であった。これを見た岩淵辰雄(元毎日新聞記者)や殖田俊吉(田中義一内閣の首相秘書官)は、

 「立派な本当のコミュニズム計画です。しかし感心なことに共産の共の字も書いていない」

と評して陸軍内部の革新思想に戦慄し、日米開戦後に統制派アカ論を展開して早期和平運動に参加し、昭和二十年の日本バドリオ事件を引き起こしたのである。

 満洲国の建国は「ソ連による極東攻略の阻止」という目的と同時に、一九二九年十月のウォール街の株価暴落と、三〇年六月のホーリー・スムート法(アメリカに輸出される商品に超高率の関税をかける関税障壁法)による世界自由貿易の破壊に始まる世界大恐慌に対応できなかった満洲事変勃発直前時の日本国内の政治経済制度(立憲自由主義議会制デモクラシーと自由主義的市場経済)の行詰まりを打開する「満洲国協和会による一国一党(革新政治)の実験」という性格を帯びており、満洲事変は「ゾルゲ機関の日本潜入」を招来しただけでなく近衛新体制運動を引き起こす一因ともなったのであった。

 だが近衛の意見書が述べるように、伊藤博文や井上毅らがアメリカ、イギリス、プロイセン、ベルギー、オランダ、スウェーデン、デンマークなど立憲自由主義的な欧米諸国の憲法を比較研究しつつ日本史を徹底調査して起草した帝国憲法(10)の下では、天皇は国の元首として国土臣民を統治する権限を総攬(すべて掌握)しながらも(憲法第四条)、統治権を構成する立法権、行政権、司法権において、憲法に遵い(帝国憲法発布勅語および憲法第四条)それぞれ議会(衆議院と貴族院)の協賛(憲法第五条および第三十七条)、内閣を組織する国務各大臣の輔弼と副署(憲法第五十五条)、裁判所への委任(裁判所の代行、憲法第五十七条、司法権の独立)に依って大権を行使しなければならない立憲君主であり、近衛新体制は、天皇直属の国家機関が天皇を補佐するための権能を分有して並立し互いに均衡を保つという権力分立均衡主義を採る帝国憲法に違反する独裁体制であった。

 そこで近衛文麿は、合法的に近衛新体制を実現し、これによって統制(計画)経済を更に強化し、国防国家すなわち政府が政治経済および国民生活のあらゆる領域に干渉する全体主義国家を確立し東亜新秩序を実現する為に、帝国憲法の改正ないし運用の変更による執行権力の強化すなわち天皇輔弼者の一元化を、憲法改正発議権を専有する昭和天皇(帝国憲法勅語と憲法第七十三条および第七十五条による)に求めたのである。

(註1)共産党と議会主義についてのコミンテルンのテーゼ(一九二〇年八月二日)

(一)国家制度としての議会主義は、ブルジョアジーの「民主的な」支配形態となった。ブルジョアジーは、一定の発展段階においては人民代表機関という擬制を必要とする。それは、外面的には超階級的な「民意」の組織として現れるが、本質上は支配的な資本家の手ににぎられた弾圧と抑圧の用具である。

(二)議会主義は、国家制度の特定の形態である。したがって、それは、階級をも、階級闘争をも、いかなる国家権力をも知らない、共産主義社会の形態とはけっしてなりえない。

(三)議会主義は、ブルジョアジーの執権からプロレタリアートの執権への過渡期におけるプロレタリア的国家統治の形態でもありえない。内乱へと移行しつつある激化した階級闘争の時期には、プロレタリアートは、自己の国家組織を、不可避的に、以前の支配階級の代表を参加させない戦闘組織として建設しなければならない。およそ「人民の総意」という擬制は、プロレタリアートにとって直接に有害である。議会的な権力分立は、プロレタリアートには不必要で、有害である。プロレタリア執権の形態はソビエト共和制である。

(四)プロレタリアートは、ブルジョア国家機構の重要な装置の一つであるブルジョア議会そのものを長期にわたって獲得することはできない。それは、プロレタリアートがブルジョア国家一般を獲得することができないのと同様である。プロレタリアートの任務は、ブルジョアジーの国家機構を爆破し、それとともに、共和制のそれと、立憲君主制のそれとを問わず、議会施設を破壊することにある(11)。 

(1)伊藤【近衛新体制】二一九頁。
(2)【尾崎秀実著作集3】一八五頁。
(3)【石原莞爾資料国防論策編】九〇~九一頁。
(4)国際聯盟支那調査委員会編【リットン報告書全文】二三二頁。
(5) レジナルドジョンストン【禁苑の黎明】一一七~一二一、三二四~三五二、五三一~五九四、六四四~六四七、六五六~六五九頁。【東京裁判却下未提出弁護側資料2】一四三~一四七頁「大正十五年九月十四日有田八郎天津総領事発幣原喜重郎外相宛報告、有田、康有為会談―復辟運動と日本側不同意」、「昭和四年十二月二十六日岡本武三天津総領事発幣原外相宛報告、満蒙帝国建設と側近の運動」、【小川平吉関係文書1】九十八頁「昭和三年六月二日小川平吉宛恭親王書簡」、白土菊江【将軍石原莞爾】一七九~一九七頁。
(6)【石原莞爾資料国防論策編】五十八、一〇一頁。
(7)矢部【近衛文麿上】一九九頁、岡崎久彦【幣原喜重郎とその時代】三四九~三五〇頁。
(8)【石原莞爾資料国防論策編】七十六~七十八頁「満蒙問題私見」
 満洲事変時におけるこの石原の構想が、近衛内閣と陸軍統制派に悪用され、支那事変拡大長期化による国内革新謀略を引き起こしたのである。
(9)秦郁彦【軍ファシズム運動史】二四六~二四七頁。伊藤【近衛新体制】五十九~六十頁。
(10)清水伸【帝国憲法制定会議】参照。伊藤博文が枢密院帝国憲法制定会議に提出した大日本帝国憲法原案付属文書の「注解」と「参照」によると、帝国憲法原案起草のための参考資料となった諸外国の憲法は、プロイセン憲法、スウェーデン憲法、ベルギー憲法、フランス憲法(1814)、オーストリア憲法、イタリア憲法、オランダ憲法、デンマーク憲法、バイエルン憲法、ヒュルデンブルグ憲法、ザクソン憲法、スペイン憲法、イギリス憲法、フランス憲法(1815)、ポルトガル憲法、フランス憲法(1848)、ドイツ憲法、フランス憲法(1791)、ルクセンブルグ憲法、スイス憲法、フランス憲法(1875)、フランス憲法(1793)、フランス憲法(1795)、アメリカ憲法、フランス憲法(1830)、フランス憲法(1852)、バーデン憲法、ブラウンシュバイヒ憲法、オルデンブルヒ憲法、アルテンブルヒ憲法、ハノーフル憲法、サクソン・マイニンゲン憲法、である。
 自由民権運動の研究者であった鈴木安蔵は、「注解」と「参照」を読み次のように力説した。

「以上の二条文(註、帝国憲法第七十条および七十一条)だけについて見ても、如何に起草当事者とくに井上毅が苦心し、全世界の憲法について如何に綿密熱心な調査研究を行ったかが極めて明瞭に看取されるのである。

 それにしても、ひとしく全世界の各憲法を参照しながら、かの明治九年以来十一年、十三年に及ぶ元老院の国憲取調員たちの作成した草案、十五年井上毅がプロシア憲法を範として作成せる私案等とグナイスト、スタイン、モッセ、特にロエスレルの助言の下に愈々公的に作成された諸草案との間に生じた相違、またこの公的諸原案自体の間における相違の意義こそは、我々の見逃してならないところである。しかもなお井上毅などが、我が国体の独自性を余すところなく憲法上に条文化しつつも、幾多の条文について参照し典例とせる諸外国と共通の立憲主義的原則ないし法理によって条文の理論的基礎づけを全からしめんと努力せる事実は、けだし近代国家の根本法としての普遍性の存在を一方において一定程度において認めたがために外ならぬものと思われる。

 この事実は特に今日において再認識するを必要とする。もちろん帝国憲法の本質を認識するに当たって、我が国にのみ独自的に存在する諸契機、諸範疇の識別は根本的に重要であり、いたづらに諸外国憲法の普遍的帰納の成果たる諸概念、諸基準をもって解釈するは誤りであるが、しかしながら如何なる国家といえども、それがひとしく近代的立憲国家たるかぎり、近代的国家統治の根本法たる憲法を有する国家体制たるかぎり、それは一定の近代的普遍性を共通に有するものであり、共通的原理を根柢に有するものであって、一国の独自性は実にかかる普遍性と共通性に立っての、もしくは貫かれての、あるいは背景づけられての独自性に外ならないのである。この近代的契機を有することが帝国憲法たるゆえんの一つであって、これなくしては憲法発布前の統治形態と発布後の統治形態とは同一のものとならざるを得ない。 
 帝国独自の史的特性、国体、仁愛と忠愛との原理が近代的諸要素・諸規定のうちに生かされ顕現せるもの、すなわち帝国憲法である。

 明治天皇が伊藤博文を遠くドイツに派遣し給いしも、かかる近代的諸要素、諸規定の調査に万遺憾なからしめんとされし大御心によるものであり、井上毅が終始あらゆる国家の憲法を研究し、絶えずロエスレル等に質疑し教示を乞うたのも、一面より言えば、帝国憲法をして近代的国家統治の根本法として間然するところなからしめんがためであった。しかもこの近代的契機と我が国独自の伝統、国体、特殊性とは二つの分離・対立せる因子ではなくして、渾然と融合・統一されて比類なき独特の憲法をなしているのである。
 帝国憲法の本質の研究にあたって、ひろく諸国の憲法、憲法史、憲法学説の研究の必須不可欠なるを、この際なお繰り返して力説しておきたい。」(鈴木【憲法制定とロエスレル日本憲法諸原案の起草経緯と其の根本精神】三一八~三二〇頁。)
(11) 【コミンテルン資料集1】二二四頁。


36、延命

 だが帝国憲法の定める立憲自由主義議会制デモクラシーを尊重された昭和天皇は、近衛の意見書を読み終えた後、直ちに木戸を呼び、

 「憲法改正を必要とするのであれば、正規の手続により改正するに異存はないが、近衛はとかく議会を重んぜないように思われる。我が国の歴史を見るに、蘇我、物部の対立抗争以来、源平その他常に二つの勢力が対立している。この対立を議会に於て為さしむるのは一つの行き方で、我が国では中々一つに統一ということは困難な様に思われる」

と近衛をたしなめられた為に(木戸幸一日記昭和十五年八月三十一日の条)、近衛は憲法改正による合法革新を断念し、彼の誕生日である十月十二日首相官邸大ホールで挙行された大政翼賛会の発会式において、近衛総裁は挨拶の最後に、 

 「本運動の綱領は大政翼賛の臣道実践ということに尽きると信ぜられるのでありまして、このことをお誓い申し上げるものであります。これ以外には綱領も宣言もなしといい得るのであります。かく考えて来て、本日は綱領、宣言を発表致さざることに私は決心致しました」

と宣言せざるを得なかった。

 さらに翌十六年一月二十一日から再開された第七十六回帝国議会では、尾崎咢堂や鳩山一郎をはじめ、政党を喪失した各議員が大政翼賛会に激しい非難を浴びせた。
 一月二十五日の衆議院予算委員会にて鳩山派の川崎克代議士は、伊藤博文の憲法義解と明治二十六年二月十日に明治天皇が在廷の臣僚と議員に賜うた勅語を援用し、近衛首相に大政翼賛会の法律上の根拠を問い質した(1)。

川崎「私はそれは総理から承りたいのでありますが、総理から御答弁を願う前に其の意義をはっきり申し上げます、しばしば申上げますように、大政翼賛と云うことは理義明確でありまして、立憲国においては大政を翼賛する機関は制限せられている。臣民の翼賛に俟つと仰ったが、臣民の翼賛に俟つ為には帝国議会がある。帝国議会は、即ち衆議院にありては、千五百万人に近い所の有権者に参政の権を与え、この参政の権を行使せしめて、其の代表者が議会に集まって、即ち臣民の代表として翼賛し奉る。貴族院は特殊の階級を代表して翼賛し奉る。この両院の組織に依ってあらゆる階級層の代表機関が憲法的に、立憲的に、整然として備わって、責任の所在は明確である。

 私が先程責任の所在を総理に質したのは是にあった。大臣輔弼の責任と云うものを果すならば、上意下達は完全に行われる、上意下達が完全に行われないならば、輔弼の責任を尽くしたとは申されませぬ。他の機関の力を藉るの必要は断じてない。私は立憲国において他の機関を要すると云うことは何処にあるかと云うことを法律上の根拠を承ったが、法律上の根拠は法制局長官は示していない、法律上の根拠はありませぬ、只今の答弁は法律上の根拠ではありませぬ。

 臣民の代表と仰るならば、臣民の代表は帝国議会がある、合理的なる帝国議会がある。もし其の議会が間違っているならば、解散して新しく国民の意思に問うて代表を出して宜しい。参政権の行使は全く政治に翼賛し奉る行為それ自体なのである。法律的にはそれ以外には途はありませぬ。憲法義解の著者は明かに其の軌道を外してはいかぬと云うことを只今も申し上げたように書いてある。軌道の外に出てはいかぬ、それでは責任の紛淆を免れぬ、責任を糺すと云うことは其の機関において責任を糺す以外にはない。所謂道義的観念において翼賛と云うことは、是は万民翼賛で宜しい。大政翼賛と云うことになって問題が起る。

 而して又総理の説明せられた上意下達、下意上達は如何なることを指すのかと云うことを私が御尋ねしたらば、内閣の立てた政策を国民に徹底せしむるにあると仰せられるが、国民に徹底せしむるならば、議会を通じ、又内閣諸官制を通じて、只今申上げた新体制の組織の上において十分徹底し得るのである。命令権が行き届けば必ずやれる。又国民の不平或いは希望があるならば、調査して国政の上に参考に供しい、これは議会が当然行い得る権限であります。議会には上奏権もある、請願権もある、建議権もある。昔のように之を上奏する場合が起れば差し止められると云うようなものでなしに、真に民の心を御採りになる機関と云うものは完全に備わって居る。又帝国議会の職責の上においてせなければならぬ、建議をしなければならぬ、上奏をしなければならぬ、請願をしなければならぬのは、帝国議会の職務権限の上において行われなければならぬ。なぜ其の当然の機関を御通しにならないか。当然の機関だけで十分行い得る。他の機関があることに依って紛淆を免れない、権限の争いを免れない、命令が二途に出る、政府の外に政府を作ったことになると云うことは争い得ないことでありまして、憲法の精神に反することは明らかである。

 余り問い詰めるようでありますが、是は正しくしなければならぬ問題でありますから私は申すのでありますが、私の考えが間違って居るならば、お前の考えは精神において間違って居ると云うことをはっきり正して戴きたい、どうぞ其の点を御答弁願います。」

近衛「大政翼賛会、或いは大政翼賛運動は、憲法上において認められたる上意下達、下意上達の機関である所のこの帝国議会の権限に対して、少しも之を侵すものではないのでありまして、上意下達、下意上達と云うことの帝国議会の行いまする作用を補充すると云う意味において行われるのであります。」

川崎「それは益々不可解なことを仰せになります。今の補充をなさると云うことは、是は補充をすると云う法律上の根拠はありませぬ。これは何処にも其の規定がない。憲法義解の一番劈頭を御覧になれば斯う云うことが書いてある。即ち『大臣の輔弼と議会の翼賛とに依り機関各々其の所を得て而して臣民の権利及義務を明にし益々其の幸福を進むることを期せむとす此れ皆祖宗の偉業に依り其の源を疏して其の流を通ずる者なり』とあって、此の機関以外には無いことをはっきり明確にせられて居る。それから私は前に申上げたように、此の明治二十六年の詔書の中にもはっきりと此のことが仰せられて居ります。機関の紛淆と云うことを飽くまでも御避けになって居る。此の精神と云うものは『万機公論に決すべし』と云う五箇条の御誓文を御出しになって後、憲法政治を実施せられるまで二十三箇年の間、朝野のあらゆる意見を通じてここに到られて居る。

 木戸孝允、大久保利通、或は元田永孚と云うような人々の憲法に対する建白書を読んで見ますと真に日本の此の君主立憲政体の有難きことを掲げると同時に、其の責任の紛淆を避けなければならぬ、立憲政治の上には斯う云う風にして行かなければならぬと云うことも述べてある、憲法を制定するまでに於ける所の道行と云うものは、二十三箇年の長い間、朝野の歴史ある研鑽の結果から生れて、そうして畏多いことでありまするけれども、明治大帝の大御心に依ってこの憲法政治が確立せられたのであります。

 世間動ともすると不祥の言をなし、憲法は改正すれば宜しいではないかと云うことを言う者がある、不都合至極の言議である。『ナチス』は一九三三年に『ヒトラー』が憲法改正を行うた、斯様な『ドイツ』あたりで憲法の改正を行うたようなことが日本で行われるものではありませぬ。申すまでもなく憲法の上諭書にも『将来若此の憲法の或る條章を改定するの必要なる時宜を見るに至らば朕及朕が継統の子孫は発議の権を執り』と仰せられて居る。陛下以外には此の憲法改正の御発議は出来ない。日本の憲法は欽定憲法として、明かに陛下の御言葉に依るにあらざれば改正の出来ないことだけは明確である。それを何すれぞ憲法改正、何事を言うか、そう云う不逞の輩があって、憲法は時に改正をすることが出来るかのような間違った考えを持って居る者がある。

 なるほど日本の憲法も実施して居る間においては危険な時期もあった。伊藤内閣の時分に遼東還附、屈辱講和をしたと云うので囂然として物議が起って、議会は之に対して非常な決議をしたと云うことに対して、在廷の閣僚は憲法の中止を御願い申上げた所が、是は御聴入れがなかった、是は宮中に二十年も居りました渡邊幾治朗君の著書の中にも此のことが書かれてある、如何に明治天皇が憲法を重んぜられ給うたかと云うことは、畏多いことである。この憲法の條章以外に出て機関を作ると云うことであれば、責任の紛淆は免れませぬ。

 私は総理大臣に最初官界の気風を一新する上において、先ず第一に責任政治を行われるかと云うことを御尋ねした趣旨は茲に在った、責任政治を行うのであれば、即ち上意下達、政策の徹底、政府の政務の徹底、国務の徹底は内閣において十分行われる、そうして議会において民意を暢達することにあって、議会と政府と一体になって、憲政を運用することが十分になし得る、何ぞ外の機関を借らなければならぬのか、外の機関を借ることになれば憲法の大義を紊ると云うことは、どうしても是は避けられませぬ(以下略)。」

 さらに川崎代議士は、大政翼賛会が日本一贅沢な建物である東京会館に陣取り、政府予算に三千七百万円もの経費を要求しながら、国民に向かって盛んに「贅沢は敵だ」(2)と叫んでいる矛盾に疑問を呈した後、

 「大体に於て其の大政翼賛会の機構を細かに見て参りますとドイツのナチスの機構に倣った所もあり又共産ロシヤの機構に倣った所もあり、其の混血児的出現であるかのような感じがされるのであります、そう云う機構の上に打立てられて居るかの如き感を持つことは、政府の外に政府があって、そうして其の政府の外にある政府に指令権を持つかの如き機構になって居りますことは全体の条文なり、主張なりを御覧になったならば明らかに分かるのである。或は之に対して決してそうではないのだ、強制力を持たして居るのではないと御説明にはなって居りますが、先程指摘致しましたように国策の樹立遂行に協力すると云うことは、一種の政治的の力を以て政府に迫り、立法府に迫らんとする所の意味が其処に現れて居る。

 それが即ち政治力でありまして、吾々の如何にしても承服し難い点であるのであります、機構既に然り、其の内容に盛られたものは如何であるかと申せば、大政翼賛会に対して批評を加えてならない、批評を加えれば厳罰に附すると云うようなことを言って、恰も治外法権、幕府的存在を明かに致した、此の幕府的存在を明かに致したるが為に、それが温床となって、過激なる思想の養成所となりし感あることは免れない。

 私は大政翼賛会の中にありまする人の中には尊敬すべき紳士あることは認める、併しながら中には何人が認めても相当に危険なる思想の所有者なりと認めらるる人もなきにあらずと言わなければならぬ。是は改組をなさる機会には此の点に付て十分な御考慮になって思想上の宣伝を企つるが如き、赤き思想の宣伝を企つる如き者の翼賛会内より根絶することを政府に於て期せられたいのであります」

と翼賛会の左翼全体主義的な方向性を激しく批判して議員から拍手を浴びた(1)。そして貴族院では岩田宙造議員(弁護士として、宮内省、日本銀行、日本郵船、東京海上火災、三菱銀行、日本勧業銀行各顧問を歴任後、一九三一年に貴族院議員に勅任)は次のように質問した。

 「実質上国家に大変革を与えようという大運動が、何等法律に根拠することなく、単純な民間の事実行為として行われんとすることは、どうしても私どもの常識からいって許されないことと考える。況や、現在行われている憲法政治の根本は、決してかくの如き行為を容認するものではないと確信する。

 統治を行う機関いわゆる政治を行う権限もその行使の方法も、すべて憲法の規定によってのみ行うことが憲法政治の根本原則であると信ずる。憲法の認めない統治の機関や政治の運営は絶対に憲法の容認せざるところである。憲法第四条に『天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う』と明示されているのは即ちこの意味に外ならないと考える。大政翼賛会は、何等法令に基づくところがない。しかも、国民の組織を根底から覆してこれを新にするような仕事を目標として起こった大組織が、憲法や法令に全然無関係のものであるとして許されるものであるということは、どうしても私どもの了解できないところである。」

 これに対して近衛文麿首相は、

 「私はどこまでも政府が主であって翼賛会は従である。政策を樹てる者はすなわち政府であり、翼賛会はこれに協力してゆく従的なものであると考える。実は翼賛会成立当時、一つの強力なる政治力を結合してこれが一つの政策を樹て、これが政府を指導して引張ってゆくといったような、ドイツやイタリーに見るが如き考えをしている人もあったようである。しかし私ははじめからその考え方に逆なのである。この点、最初の新体制準備委員会における声明においても、そういうことになれば一国一党となる。これは我が国体に照し、憲法政治の本当の正しい運用から申しても、ゆゆしいことであると特に申し述べている」

と答弁せざるを得ず(一九四一年二月六日貴族院予算委員会)、さらに岩田議員の「現在の機構組織で之に相当の資力が加われば総裁の意見に反して一国一党になる危険があるのではないか」との追及質問に対して、近衛首相は「適当な組織の改革を行って其の目的使命に沿うよう努力すること」を約束したのであった(3)。

 斯くして大政翼賛会は大幅に予算を削減された上で、数次の改組を経て企画、政策、議会の三局を廃止され、政府の補助組織に転落し、昭和十六年四月八日、大政翼賛会組織局九州班長の勝間田清一(戦後社会党)、稲葉秀三、和田耕作ら昭和研究会に所属していた企画院革新官僚が治安維持法違反容疑で検挙された。これが企画院事件である。

 昭和十年五月、陸軍統制派の陸軍省軍務局長、永田鉄山少将の進言を受けた岡田啓介内閣によって設立された内閣調査局が企画庁に発展し、昭和十二年十月、陸軍省資源局と合併し、企画院となったのである。この企画院事件の訊問調査によって判明した恐るべき事実は、国家総動員法発動と近衛新体制運動を推進した、企画院および「一、現行憲法の範囲内で国内改革をする。二、既成政党を排撃する。三、ファシズムに反対する」ことを根本方針として設立され、転向左翼と革新官僚の巣窟であった昭和研究会の正体が、コミンテルン三十五年テーゼに基づき合法的に政府部内に流入した共産党正統派系、労農派系、社会民主主義左派系統の共産主義者のフラクションであり、彼ら企画院の革新官僚はそれぞれ相異なる系統に属しながらもマルクス主義とコミンテルンを支持し、尾崎秀実の理論指導を受けており、彼等は、

 「戦時下に在りては戦争目的達成の為には国家自体従来の資本主義経済に対して急激に統制改編を加えることを必要とし然もこれが資本主義を根本的に変革せずしてその基礎の上に実施せられるものたる限り資本主義の矛盾を激化せしめ更に此の矛盾を克服する為に一層統制を強化せざるを得ず。斯の如くして国家はその目的の如何に拘わらず客観的必然的要請として綜合的なる社会主義計画経済体制を整備せざるを得ざると共に其過程に於て益々資本主義の本質的矛盾を深刻化せしめ以て社会主義社会実現の主観的客観的条件を成熟せしむるものなり」

という基本的観念において一致し、かかる思想的共通性を基礎として、日本共産党を中軸とする下からの革命運動との関連において当面の国家要請である「戦争遂行体制の確立」を利用する「上からの変革」即ち彼等の目的とする社会主義社会体制の基礎を確立すべき諸方策を国策の上に実現させ、国家の自己崩壊を促進すべく企図していたことであった…(4)。

 昭和十六年五月六日、矢部貞治は、「近衛自身は軍部に追随するだけでも、既成政党が相互の間に障子と襖とを取り払うと云うだけでも意味を成さぬと云い、両者を打って一丸として、既成四分、革新六分の勢力を以て行こう」と考え、翼賛会は出発に当って既にその性格について意見の対立が見られ、出来上がった翼賛会は互に呉越同舟的な妥協となっていたが、

 「その主力は、之を親軍的一国一党運動として支持し、米内内閣打倒、三国同盟の原動力たりし、ソ連邦との抱合を企図する革新右翼であった」

と述べ、暗に近衛新体制運動推進者と、米内内閣を倒した陸軍中堅層の正体を示唆した。矢部の分析によれば、「諸種の新体制運動の荷い手となった革新右翼」は、

1、利潤統制、公益優先、資本と経営の分離、指導者原理等に不安を感じた財閥、就中大阪財閥。
2、赤の排撃ソ連の警戒を根本的主張とし、支那事変の急速処理、南方進出の危険性、英米との開戦の不可を説いて、財閥勢力との提携し、その思想の無内容さからして、自己の排斥する個人主義、自由主義と手を握るに至った観念右翼(皇道派や日本主義派)。
3、独の上陸作戦の遅延、伊の敗戦を主張する親英米派(枢軸外交反対派)。
4、自由主義的既成政党の一部。

の四勢力から反撃され、「大政翼賛会は政治力を失い、精神総動員運動に堕し去った」のである。矢部はそのことを嘆きつつも、

 「革新は既に失われたのか。否。個人主義的、自由主義の再支配は考えることの出来ぬことである。国防国家建設が現実の問題である以上、その実現の地盤たる新体制は必ずや遂行しなければならない。新体制と国防国家とは切り離すことの出来ぬものである。

 唯、右の日本政治の動向を辿る時、吾々の反省すべき問題がある。それはドイツ方式を直ちに以て日本に輸入したことに対する反省である。種々国情の差を無視してドイツ方式を輸入したことが、右の如き失敗の一因となったのである。(十二月二十一日の平沼内相、陸軍皇道派の柳川法相の入閣に続く)最近の小倉氏(註、住友財閥)の入閣も大阪財閥の反撃の一表現であった。それは新体制、低物価政策に対する産業資本主義的反動を意味する」

と総括した(5)。そして力を取り戻した帝国議会では、昭和十六年九月二日、三百二十九名の議員によって結成された翼賛議員同盟が政府与党となった。

 帝国議会は、近衛の詭弁にだまされ国家総動員法を可決してしまったが、大政翼賛会に対しては違憲論を掲げて譲らず、辛うじて我が国の立憲自由主義的議会制デモクラシーを死滅から救い出したのである。これを換言すれば、帝国憲法と昭和天皇が近衛文麿や尾崎秀実ら昭和研究会の野望を粉砕し、我が国が最悪のソ連ドイツ型全体主義体制に陥っていくことを阻止したのである。
 明治天皇の詔命を奉じて帝国憲法原案を起草した伊藤博文公を始め明治維新の功労者の叡智は、日清日露戦争を我が国の勝利へ導いただけでなく時空を超えて昭和日本の立憲君主制議会制デモクラシーを「内なる敵」から守り抜いた偉大なものであった。

(1)衆議院予算委員会議録第四回昭和十六年一月二十五日。川崎克【欽定憲法の真髄と大政翼賛会】七十九~八十二頁。
(2)清水留三郎代議士は「翼賛会の標語に贅沢は敵だと言うのもソ連共産党から来たものでよく調べると尾崎氏だとの事だ」と述べた(【現代史資料ゾルゲ事件4】五三四頁、昭和十七年官情報八五九号「国際諜報団事件に対する意向」)。
(3)貴族院予算委員会議事速記録第五号昭和十六年二月六日。伊藤【近衛新体制】一九二、二一三頁。 
(4)三田村【戦争と共産主義】二八四~三〇二頁「警視総監報告書抜粋、昭和十七年二月十二日、特高一秘第一三八号」
 これによると、稲葉秀三は人民戦線戦術に基づき日本共産党再建運動を展開していたマルクス主義法学者の風早八十二に協力し、風早を昭和研究会労働問題研究員に推薦参加させていた。また勝間田は、戦時体制について「日支事変が東亜民族をして英、米、仏等の民族的搾取から解放せんことを重要目的として居た戦争に進歩的意義を発見し、又前述の如き高度の体制を採ることは同時に次期の共産主義社会機構の基礎的体制を整備するものであって社会発展の歴史的方向に向かって居ること、戦時体制の強行は生産力の発展を阻害しつつあった半封建的生産関係を除去する過程を履まざるを得ないこと等の進歩的性格に魅力を持って居りました」と証言し、マルクス主義的に良心的であり、進歩的な彼等の活動はマルクス主義社会革命の前衛たる日本共産党が目的を達成する上に将来において何等かの寄与をするものである、と思っていたという。  
 大政翼賛会は、尾崎秀実のいう「粛党工作」を経て、最終的には「日本共産党」そのものに変貌することを目指していたのであろう。
(5)【現代史資料国家総動員2】四八四~四八八頁。


37、憎悪

 ところで議会を叩き潰すことに執念を燃やしていた近衛文麿は、「近衛新体制」の実現を御許しにならなかった昭和天皇に如何なる感情を抱いていただろうか?この頃の近衛の心中を窺うに足る興味深い語句が近衛のポケット日記の巻末(昭和十五年)に書き記されている(1)。  

 君君たらずんば臣臣たらず(論語顔淵篇)
 君の臣を視ること土芥の如くなれば、即ち臣の君を視ること寇讎(註、仇敵)の如し(孟子離婁章句下)
 君臣を択べば臣亦君を択ばん(後漢書馬援伝)   
 君命受けざる所あり(孫子九変篇)

 孟子は支那の易姓革命を正当化した思想家であり、

 「『周の創、武王一たび怒りて天下の民を安くす。臣として君を弑すといふべからず。仁を賊み義を賊む、一夫の紂を誅するなり 』といふ事、孟子といふ書にありと人の伝へに聞侍る。されば漢土の書は経典史策詩文にいたるまで渡さゞるはなきに、かの孟子の書ばかりいまだ日本に来らず。此書を積て来たる船は、必しも暴風にあひて沈没よしをいへり。それをいかなる故ぞととふに、我国は天照すおほん神の開闢しろしめしゝより、日嗣の大王絶る事なきを、かく口賢しきをしへを伝へなば、末の世に神孫を奪うて罪なしといふ敵も出べしと、八百よろづの神の悪ませ給うて、神風を起して船を覆し給ふと聞。されば他国の聖の教も、こゝの国土にふさはしからぬことすくなからず」(雨月物語)

という伝説が存在したほど、我が国の伝統とは絶対に相容れないとされてきた。近衛家は大織冠藤原鎌足の嫡流であり、遠く遡れば、その祖は天孫降臨の際に供奉した最上首神たる天児屋根命である。まさに二千年にも及ぶ皇恩を辱うしてきた摂関家筆頭たる近衛家の棟梁が孟子の一節を引用して昭和天皇への憎悪を露わにしていたのである。

 近衛文麿が遂行せんとした立憲自由主義議会制デモクラシーの破壊、統制経済と一国一党独裁の導入、暴力主義(テロリズム)の肯定、そして革命…。これらから連想される政治経済思想は何であるか。それは言うまでもなくマルクス・レーニン主義である…。

(1)勝田【重臣たちの昭和史下】一九三頁


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龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究に於いて最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

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