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国民のための大東亜戦争正統抄史38~42ソ連の対日米支諜報謀略網

【ソ連の対日米支諜報謀略網】


38、太平洋問題調査会

 尾崎秀実と西園寺公一が出席した学術団体「太平洋問題調査会Institute of Pacific Relations」の第六回太平洋会議(一九三六年八月十五~二十九日、カリフォルニア州ヨセミテ国立公園)の議事抄録「オクスフォード大学刊一九三六年の太平洋の諸問題、太平洋諸国の社会及経済政策の目的と結果、中共紅軍の活動と反帝救国統一戦線の結成」が東京裁判却下未提出弁護側資料(昭和二十二年四月二十五日、第二〇四回公判に提出予定)に存在する(1)。
 この議事抄録が詳述する支那大陸の情勢は、日支提携論者の石原莞爾が参謀本部作戦課長に起用された昭和十年(一九三五)八月一日、中国共産党が八・一抗日救国宣言を発表し、以後、北京と上海において、中国共産党の指揮煽動の下に学生を中心として、蒋介石に内戦中止と容共抗日という統一戦線の結成を強要する多数の抗日救国団体が出現し、中華民国の排外主義の矢を日本に向け、日本と蒋介石を噛み合わせて漁夫の利を得んとする中国共産党の新戦略-コミンテルン三十五年テーゼに依拠する人民戦線戦術が功を奏しつつある、というもので、この中には、

 「領土の一部にソビエト政権が存在する支那の如き国家の条件下に於いて反帝国主義的人民戦線の戦術の正しい適用は、ソビエト革命の向後の勝利のためプロレタリアートのヘゲモニー強化のための闘争における共産党の地位と力を弱めず、却って強めているということを強く確信するを要する」

という、コミンテルン第七回大会に出席した中国共産党員中最高指導者の一人たる王明(陳紹禹)の言葉が引用されている。このIPR第六回ヨセミテ会議から四ヶ月後、西安事件が発生したのである。

(1)小堀桂一郎【東京裁判日本の弁明】三五六~三六四頁。尾崎は会議に「最近の段階における日支関係」という論文を提出した(【尾崎秀実著作集1】三六九頁。【尾崎秀実著作集5】三九九、四二七頁)。


39、西安事件

 一九三五年十一月一日、国民政府は、彼等の第五次掃共戦(一九三三年十月五日~三十四年十一月十日)を受け壊滅的大損害を被り、瑞金を放棄し外蒙古に近い延安に根拠地を移した中国共産党軍(大西遷、一九三四年十月十五日~三五年十月二十日)を掃討する為、陜西省の西安に西北剿匪総司令部を設置、日本軍によって満洲を追われた張学良を副司令に任命し、東北軍に掃共戦を行わせていた。

 だが満洲事変以降、東三省を失い、奉天から錦州へ、錦州から北京へ追われ、東北の故郷を想い、失地回復を夢見ていた東北軍将兵は、「中国人は中国人を打たず」「一致抗日」「我等と連合し、日本と闘って満洲へ帰ろう」など人民戦線戦術に基づく中国共産党の巧妙なスローガンに動揺して掃共戦を停止してしまい、張学良は三六年四月から中国共産党と秘かに接触、共同抗日について協議していた。

 そこで西北剿匪総司令官たる蒋介石は、張学良に掃共戦を督促するため西安に赴いた。だが四年前の満洲独立に刺激された蒙古族の徳王の率いる内蒙古独立軍が関東軍の後援を得て綏遠省に侵入したものの(綏遠事件、三六年十一月十四日)、同省主席の傅作儀軍に大敗北を喫したという報に接した東北軍は、俄然抗日気運を高め、一九三六年十二月十二日、蒋介石を逮捕監禁し、一切の内戦の中止、愛国的領袖(抗日運動指導者)の即時釈放、集会結社の自由、救国会議の即時開催など、中国共産党の主張に沿った八項目の受諾を要求し、南京政府に次の通電を発したのである。

 「当軍はここ数年来中央の命に従い辺疆に赴いて専ら剿匪事業に従事し中国の安寧、人民の福祉増進のため努力し来ったが、この間蒋介石の南京政府は批政百出し、まず対外的には華北を失い冀東、冀察の独立を見、更に綏遠もこれに倣わんとす、国民政府は須らく対日宣言を布告し以て外侮を一掃すべきものなるに軟弱屈折し外交交渉に終始し、国家国民は今や危殆に瀕せんとし見るに忍びざるものあり、我等はこの機に於いて蒋介石の現国民政府を否認し国家の改造を断行し、外敵を駆逐して東北四省その他失地を回復し国家国民の幸福の為、第一線に立たんとするものである。」

 西安事件の報に接した中国共産党は、モスクワに指示を仰いだところ、スターリンによって「連蒋抗日」と蒋介石の釈放を命じられた為、周恩来ら中共幹部が西安に飛び、張学良と協議した上で、十二月二十五日、蒋介石を釈放した。
 蒋介石、周恩来、張学良の間にいかなる密約が交わされたのかは不明だが、三七年一月六日、西北剿匪総司令部が廃止された。二七年四月の蒋介石の反共クーデターにより第一次国共合作が破綻してから約十年間に及ぶ国共内戦は停止し、滅亡寸前に追い込まれていた中国共産党は蘇生する機会を得たのである。

 昭和十一年(一九三六)六月五日、参謀本部に新設された戦争指導課の初代課長に就任し、国防国策を鋭意構築していた石原莞爾大佐は、西安事件の報に接するや直ちに「対支実行策改正意見」、「帝国外交方針及対支実行策改正に関する理由竝支那観察の一端」(昭和十二年一月六日)を起案した。
 参謀本部戦争指導課は、漢民族伝統の精神を復活させ彼等の悩める所を正確に認識しその病根を我が国力により救済し、石原の「世界最終戦論」から導き出された国防国策大綱(註1)が想定する対外戦争遂行に必要不可欠な「東亜連盟構想に基づく日満支の提携」を実現する為には、我が国が、純正大和民族の誠心を以て、支那に対する帝国主義的侵攻政策、侵略的独占的優位的態度を放棄是正する必要性を強調し、具体的な対支方策として以下の六項目を掲げた。

1. 帝国の対支強圧的又は優位的態度を更改し真に友情的対等的たらしむ。

2. 北支特殊地域なる観念を精算し之を五省独立の気運に誘致するが如き方策を是正し現冀察政権の管掌する地域は当然中華民国の領土にして主権亦其中央政府に在る所以を明確にす。

3. 冀東地区は満支経済提携の梃子とし該地域内の経済開発を急速に実現せしむる為暫く現状を維持せしむると共に支那が軍閥誅求の苛烈なる圧迫下にある現状に対する模範的楽土たるの一試験場として帝国並満洲国によりて支援し後述新支那建設と相俟ち適時支那に復帰すべきものとす。冀東政権に対する誘導は右に準拠す。

4. 施策の対象は軍、政、党に偏することなし。特に列強角逐の複雑混迷を正確に認識し大義名分に立脚せる行蔵に終始し具体的問題を捕捉して日支従来の尖鋭関係を正道に入らしむるを要す。

5. 抗日人民戦線は其発生関係を不問に附するに於ては支那現代の苦悩の一表現なり。之を正当なる民衆運動に転向せしめて以て支那統一新支那建設の指導層たらしむるを要す。

6. 綏東問題は内蒙軍政府が蒙古民族復興を方針として対外侵寇を中止し終始蒙古国建設に傾注することにより支那側との確執を解消せしむ。支那側に対しても亦対蒙圧政政策の非を悟り民族善隣の誼に則るが如く逐次和解指導するに至らしむ。

 さらに石原は北支における日支間の無益の紛争を回避する為、豊台の兵力を通州に移転し通州天津を確保して冀東防衛の態勢を明かにする一方、満洲とは異なる北支に駐屯し天津に司令部を置く我が支那駐屯軍(一九〇一年の義和団事件議定書に基づき駐留)の政治経済指導権を廃止し、北京(北平)に外交機関を置き、融和諒解を主として冀察政権との交渉に当らせ、我が国の権益を獲得せんとする行動を避けることを主張したのである(1)。

(註1)国防国策大綱(昭和十一年六月三十日)

一、皇国の国策は先ず東亜の保護指導者たる地位を確立するにあり之が為東亜に加わるべき白人の圧迫を排除する実力を要す。

二、蘇国及英米の圧迫に対抗する為には所要の兵備特に航空兵力を充実すると共に日満及北支を範囲とし戦争を持久し得る万般の準備を完了すること肝要なり。

三、先ず蘇国の屈伏に全力を傾注す。而して戦争持久の準備に就て欠くる所多き今日英米少くも米国との親善関係を保持するに非ざれば対蘇戦争の実行は至難なり。

 又我兵備充実に当りては外交的手段に依り蘇国の対抗手段の緩和に努む。(独乙の利用〔石原註記〕)

四、兵備充実成り且戦争持久の準備概ね完了せば蘇国の極東攻勢政策を断念せしむる為積極的工作を開始し迅速に其目的の達成を期す。而して戦争に至らずして我目的を達成することは最も希望する所なり。

(一、対支我行動を妨げざること。二、対英戦争に少くも中立を厳守すること〔石原註記〕)

五、蘇国屈伏せば適時之と親善関係を結び進で英国の東亜に於る勢力を駆逐す。

 好機を捉え実力を以て東亜に於る其根拠地を奪取し一挙被圧迫東亜諸民族を独立せしめ且「ニューギニア」豪洲及「ニュージーランド」を我領土とす。此際米国の参戦を覚悟すと雖も成し得る限り其中立を維持せしむることに努力す。

六、日支親善は東亜経営の核心にして支那の新建設は我国の天職なり。然れども白人の圧迫に対し十分なる実力無くして其実現は至難なり。

 対蘇戦争の為現下の対支政治的工作は南洋方面の諸工作と共に英米殊に米国との親善関係を保持し得る範囲に制限するを要す。此間新支那建設の根本的準備に力を払う。(一、英米と妥協する為めの条件、其能否。二、右方針に出でたる場合我対支経済の受くる影響〔石原註記〕)

 日満北支を範囲とする戦争持久の準備成り蘇国を屈伏せば堂々積極的工作を開始す。

七、蘇英屈せば日支親善の基礎始めて堅し、即ち東亜諸国を指導し之と協同して実力の飛躍的進展を策し次で来るべき米国との大決勝戦に備う。

 昭和十一年十一月、石原莞爾は約一ヶ月間の予定で北支および満洲の視察に出張した際、支那側から駐米大使の胡適との会談を要請された。石原は承諾したが、胡大使が便船の都合により帰国が遅れた為、北支大学教授の鮑明鈴と会談した。石原は鮑に対し、東洋の平和を保つ為には今後東亜連盟の線に沿って日支の国交調整を図りたいと述べ、連盟の内容と具体的問題について説明し、

 「満洲国の独立は貴国にとっては遺憾でありましょうが、この意味で認めていただきたい」

と話した。鮑は石原の支那人に対する謙譲な、誠意ある態度、高邁な識見、大胆な方略に、「日本の軍人からこんな話を聞かされようとは思わなかった」と驚愕し、直ちに蒋介石に電話で会談の内容を伝え、之に対する回答を仰いだところ、「石原大佐の意見には国民党幹部は全面的に賛成である」という回答を得ており(2)、石原は、

 「南京にある国民党との間に尚国交調整の途が十分あると信ぜられる、その条件としては国民党は満洲国の独立を承認し日本は支那の独立を極力援助し差し当り豊台の兵を通州にやって冀東防衛に任じ冀東は支那が満洲国独立を承認すれば直ちに還すと云うこと、即ち満洲独立を両国和平成立の条件としてその間冀東の政治だけは思う存分合理的な事をやり一面天津軍の冀察政権の政治的指導を停止せしめ、政治的経済的要求を避けたならば時局が緩和でき逐次東亜連盟の方向に進み得る」

との確信を深めていたからであった(3)。

(1)【石原莞爾資料国防論策編】一八三、一九八、二〇二頁。
(2)横山【秘録石原莞爾】二五七頁。
(3)【石原莞爾資料国防論策編】四三六頁。
 西安事件後の国民党と共産党との交渉経緯について、中国人民解放軍・軍事科学院・軍事歴史研究部が編纂した中国抗日戦争史(解放軍出版社)は次のように記述している(深堀道義【中国の対日政戦略】一四五~一四六頁)。

 「一九三七年二月の国民党第五次三中全会までは、抗日統一戦線の形成は初歩的段階になった。国共第二次合作と全国の抗日民族統一戦線を推進するために、二月中旬、三月下旬と六月中旬に、中共代表周恩来、邦邦憲、葉剣英等と国民党代表蒋介石、顧祝同、宋子文等は、西安、杭州、廬山で三次にわたり高級会談を行った。然しこれ等の会談中、国民党は国民革命同盟会の成立を企図し、紅軍と陝甘寧地区を支配しようとして談判は進展しなかった。」


40、廬溝橋事件

 だが昭和十二年(一九三七)七月七日―日ソ間の軍事的均衡破綻を克服しようとする参謀本部作戦部長の石原莞爾少将(昭和十二年三月一日就任)や戦争指導課員の堀場一雄大尉らによって推進された我が国の対ソ戦備拡充を目的とする重要産業五カ年計画が陸軍省に採択され、第一次近衛内閣が発足してから約一ヶ月後―「日蒋提携」を阻止し「連蒋抗日」を実現すべく、中華民国軍第二十九軍内部に浸透していた中国共産党(第二十九軍副参謀長の張克侠は中共北方局主任の劉少奇書記から指令を受けていた秘密共産党員)は、北京の西郊十数キロに位置し永定河をまたぐ廬溝橋から約一キロ北方にある竜王廟前面地区において夜間演習を行っていた日本軍(支那駐屯軍歩兵第一連隊第三大隊第八中隊)に銃撃を浴びせ、宋哲元と第二十九軍将兵の抗日を積極的に推進し、盧溝橋事件で奮起させ抗戦八年の序幕を開いたのである (1)。

 「七・七事変は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が、決死的行動を以て党中央の指令を実行したものである。これによって、わが党を滅亡させようとして第六次反共戦を準備していた蒋介石南京反動政府は、世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった。その結果滅亡したのは中国共産党ではなく、蒋介石南京政府と日本帝国主義であった。」

 興亜院政務部によれば、廬溝橋事件から一週間内にコミンテルンが中国共産党に発した指令の骨子は以下の通りである(2)。

1、あくまで局地解決を避け、日支全面的衝突に導かねばならない。
2、右目的の貫徹のため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺してよい。
3、下層民衆階級に工作し、彼等に行動を起こさせ、国民政府として戦争開始のやむなきにたち至らしめねばならない。
4、党は対日ボイコットを全支那に拡大し、日本を援助する第三国に対してはボイコットをもって威嚇せよ。
5、党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならない。(興亜院政務部/コミンテルンの対支政策)

 七月八日、中国共産党中央委員会が、全国の各新聞社、団体、軍隊、中国国民党、国民政府、軍事委員会ならびに全国同胞に対し「日軍廬溝橋進攻に関する通電」を発し、宋哲元将軍の率いる第二十九軍および南京中央政府が全軍を即時動員し日本軍に応戦し、中国に潜伏する漢奸売国賊分子、一切の日寇スパイを即時粛清すべきことを要求すると共に、

日本帝国主義に寸土たりとも中国を侵略させるな!
国土保衛のため最後の一滴の血を流せ!
全国中国同胞、政府と軍隊団結して、民族統一戦線の鞏固長城を建立し、日寇の侵略に抵抗せよ!
国共両党親密に合作して日寇の新進攻に抵抗せよ!
日寇を中国から駆逐せよ!

と檄を飛ばせば(3)、十一日東京において近衛内閣が、

 「相踵ぐ支那側の侮日行為に対し支那駐屯軍は隠忍静観中の処、従来我と提携して北支の治安に任じありし第二十九軍の、七月七日夜半廬溝橋付近に於ける不法射撃に端を発し、該軍と衝突の已むなきに至れり。為に平津方面の情勢逼迫し、我在留民は正に危殆に瀕するに至りしも、我方は和平解決の望を棄てず事件不拡大の方針に基き局地的解決に努力し、一旦第二十九軍側に於て和平的解決を承諾したるに拘わらず、突如七月十日夜に至り、彼は不法にも更に我を攻撃し再び我軍に相当の死傷を生ずるに至らしめ、而も頻に第一線の兵力を増加し更に西苑の部隊を南進せしめ、中央軍に出動を命ずる等武力的準備を進むると共に平和的交渉に応ずるの誠意なく遂に北平に於ける交渉を全面的に拒否するに至れり。 

 以上の事実に鑑み今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし、思うに北支治安の維持が帝国及び満洲国にとり緊急の事たるは茲に贅言要せざる処にして支那側が不法行為は勿論排日侮日行為に対する謝罪を為し再び今後斯かる行為なからしむる為の適当なる保障等をなすことは東亜の平和維持上極めて緊要なり、仍て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり」

と北支派兵を発表した(4)。さらに同日午後八時、現地の日中両軍委員が次の停戦協定の調印を終了するに至るや(5)、

1、第二十九軍代表は日本軍に対し遺憾の意を表し且つ責任者を処分して将来責任を以て再び斯の如き事件の惹起を防止することを声明す。

2、中国軍は豊台駐屯日本軍と接近し過ぎ事件を惹起し易きを以て廬溝橋城廓及竜王廟に軍を駐めず保安隊を以て其の治安を維持す。

3、本事件は所謂藍衣社共産党其他抗日系各種団体の指導に胚胎すること多きに鑑み将来之が対策をなし且つ取締を徹底す。

 その直後に近衛内閣は報道界政界財界の代表を集め、改めて「武力の顕示によって支那側に謝罪と将来の保障を為さしめる為に北支派兵を行う」との政府の決意に対する諒解と支援を求め(6)、尾崎秀実が、

 「恐らくは今日両国人の多くはこの事件の持ち来すであろう重大なる結果につき、さまで深刻に考えていないであろうが、必ずやそれは世界史的意義を持つ事件としてやがて我々の前に展開され来るであろう」

と予言した通り(改造昭和十二年八月号「北支問題の新段階」)、中国共産党の謀略によって着火された日中両軍の戦火は、北支において我が軍が中華民国軍から不意討ちを受けた廊坊、広安門事件(二十五、二十六日)、事変以前から第二十九軍に内通していた冀東自治政府保安隊によって約二百名の邦人居留民が惨殺された通州虐殺事件(二十九日)、上海において和平工作に従事していた大山勇夫海軍中尉が中国軍に惨殺された大山事件(八月九日)、中国軍が租界の居留民を保護する我が海軍上海陸戦隊を攻撃し国際共同租界を無差別爆撃した第二次上海事変(十三日)など、相次ぐ中国側の排日侮日抗日事件によって油を注がれ、北支から上海に拡大し、八月十五日、近衛内閣は、

 「此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは帝国として最早穏忍其の限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり」(廬溝橋事件に関する政府声明)

と上海派兵と不拡大方針の放棄を発表、日中関係は遂に全面戦争へ突入し、二十一日、中ソ不可侵条約が締結され、翌日、中華民国の国民政府軍事委員会は、共産軍主力を国民革命軍第八路軍として政府軍の編成下に入れ、九月二十二日、第二次国共合作が成立した。

 四日後、朱徳が第八路軍を率いて陜西省北部から前線に出動するにあたって、毛沢東は第八路軍の幹部を集めて、

 「中日の戦いは本党の発展の絶好の機会であり、われわれ共産党の基本政策は、全力の七分を自己の勢力の拡張に、二分を国民政府との対応に、残りの一分を抗日にあてる」

と講演し、国民政府に対する政策として、一、妥協、二、競争、三、反攻の三段階を示し、段階を追って国民党の領導権を奪い取る陰謀を明らかにした(7)。この毛沢東の戦争指導は見事に成功し、中国共産党の勢力は、支那事変勃発直前、党員兵力それぞれ約四万人だったが、昭和二十年六月には党員約百二十万、兵力約九十一万人にまで膨張したのであった…。

〔満洲事変から支那事変までの日支関係年表〕

昭和六年(一九三一)

七月一日、万宝山事件。満洲長春郊外で朝鮮農民が支那農民と衝突、支那官憲に弾圧される。

九月十八日、石原莞爾、板垣征四郎、花谷正、今田新太郎ら関東軍一部将校が満鉄線路を爆破、日中両軍衝突を作為し、満洲事変勃発。

十一月二十七日、中華ソビエト共和国臨時政府樹立(瑞金政府、主席毛沢東)。

昭和七年(一九三二)

一月七日、アメリカスチムソン国務長官スチムソン、満洲における新事態不承認の政策を日支両国に通達。二十八日、帝国海軍陸戦隊が支那第十九路軍と交戦、第一次上海事変勃発。

四月二十六日、瑞金政府が対日宣戦を布告。

五月五日、上海停戦協定調印。

昭和八年(一九三三)

三月二十七日、日本、国際連盟を脱退。

五月三十一日、塘沽停戦協定成立。長城以南に非武装地帯を設定し、日中両軍は撤兵。

昭和九年(一九三四)

四月十七日、日本外務省天羽情報部長、東亜の秩序維持は日本の単独責任とし、列国の対中華民国援助非難声明。二十五日、ゼークト大将を団長とするドイツ軍事顧問団中華民国国着任。

昭和十年(一九三五)

六月十日、梅津・何応欽協定。河北省から中華民国中央直系軍と国民党機関の撤退を決定。二十七日、土肥原・秦徳純協定。察哈爾(チャハル)省から宋哲元の第二十九軍撤退。

十一月二十五日、長城以南の非武装地帯に冀東防共自治委員会成立、国民政府から離脱独立を宣言。

十二月十八日、北京に河北、察哈爾両省を管轄する冀察政務委員会が成立。委員長に宋哲元が就任。

昭和十一年(一九三六)

十一月十四日、綏遠事件。関東軍の支援を受けた内蒙古独立軍が綏遠省に侵入し、同省主席傅作儀軍に敗北。

十二月十二日、西安事件。張学良が蒋介石を監禁。

昭和十二年(一九三七)

七月七日、中華民国軍第二十九軍(中国共産党)が廬溝橋事件を起こし日中両軍衝突。

八月十三日、第二次上海事変勃発。

九月二日、近衛内閣、北支事変を支那事変と改称。五日、近衛首相が「断固暴支膺懲」の施政方針を演説。

十二月十三日、南京陥落。

(1)葛西純一【新資料廬溝橋事件】五頁「中国人民解放軍総政治部発行/戦士政治読本」、中村粲【大東亜戦争への道】三九四~三九五頁「劉少奇同志の第二十九軍に対する統一戦線工作に関する史実の検討」(新華書店北京発行所)
 神尾茂が喬輔三から聞き得た談話によると、孔祥煕院長は元来日支合作論者で、一九三七年欧州に行った帰りには日本に立ち寄り対日政策を具体化する計画を抱いており、その準備として秘書の喬輔三を先に帰して日本に先発させるつもりであったが、喬が六月シベリア経由で北平に辿り着くと忽ち廬溝橋事件が勃発し、すべてが画餅に帰したという。
 喬輔三は「過去両三年の事を回顧すれば共産党の策動は非常なものだ。人民戦線派の抗日救国運動実は皆今回の事変を誘発させるための工作である。廬溝橋は孔祥煕氏の日支合作計画を嗅ぎつけた共産党の先手を打った陰謀ではないかと自分は思っている。共産党が如何に丹念に手を廻しているかを思うと、そう断ぜざるを得ないのである」と述べた(神尾【香港日記】昭和十三年七月二十三日「喬君より聞き得た談話の要領」)。
(2)中国共産党はこの指令に基づき代表の周恩来をして蒋介石と会見せしめ、国共合作と共産軍の改編を主題として申し入れを為さしめたという(波多野乾一【赤色支那の究明】一四四頁)。解放軍出版社の中国抗日戦争史には次のように記述されている(深堀【中国の対日政戦略】一四六頁)。

 「事件の翌日、中共中央は『国共両党は緊密に合作し、日本の進攻に備えよ』と電報を打った。中共代表周恩来、秦邦憲、林泊渠等は廬山で国民党と会議を行い、七月十五日、中共代表団は『中共中央が公布する国共合作宣言』を蒋介石に手交した。『宣言』中に述べたのは次のようなことであった。全民族の抗戦、民権政治の実行、人民生活の改善の三項目の政治的主張、国共合作要綱と人民の共同奮斗目標であった。同時に全国に対して声明を発表し、孫文の三民主義の徹底、国民党政権が推す地主による土地没収政策の停止、ソビエト政府の名を取止め特別区政府とする、紅軍の名を取消し、名と番号を国民革命軍のものとする。これ等の宣言で共産党は民族の利益を尊重し、全民族の抗戦の誠意を示したのであった。」

(3)【東京裁判却下未提出弁護側資料5】五一七~五一八頁「外務省情報部、中国共産党一九三七年史」、深堀【中国の対日政戦略】一七〇頁「解放軍出版社抗日戦争紀事」
(4)【日本外交年表並主要文書下】三六六頁「昭和十二年七月十一日夕刻発表、華北派兵に関する声明」
(5)【現代史資料太平洋戦争4】五五四頁「北平陸軍機関業務日誌昭和十二年七月十一日」
(6)近衛内閣が開催したこの北支派兵声明パーティに参加した石射猪太郎によると、総理官邸はお祭りのように賑わい、政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配を示しており、石射は、「事件がある毎に、政府はいつも後手にまわり、軍部に引きずられるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出るほうが、かえって軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近の考えからまず大風呂敷を広げて気勢を示したのだ」といわれたという(石射猪太郎【外交官の一生】二七二~二七三頁)。北支派兵声明パーティを主唱した首相側近とは風見章内閣書記官長である。
(7)【蒋介石秘録12】一二〇頁、アルバート・ウェデマイヤー【第二次大戦に勝者なし下】一二〇~一二八頁。


41、ソ連の諜報謀略網

 小堀教授は「ヨセミテでの会議がどの様な性格のものであったか、日本からの参加者があったのか否かを編者はつまびらかにしない。この資料が提出されずに終わった理由がよくわからない」と述べている。
 尾崎秀実は、昭和十一年(一九三六)十月二十六日から十一月二日にかけて「アメリカ西海岸を歩く」と題する紀行文を帝国大学新聞に寄稿し、その中で、

 「今夏ヨセミテで開かれた太平洋会議には太平洋に関係ある各国の知名の学者、政治家、評論家など多数参集し、この人里離れた国立公園に時ならぬ賑いを呈せしめた。注目に値すると思われたのは会議の指導機関である太平洋問題調査会事務局の空気であった。ここにはいかにも秀才といった感じの若手の学者や評論家がいてその傾向は頗る進歩的であった」 

と述べている(1)。筆者が推測するに、IPR第六回ヨセミテ会議の裏面の性格は、

 「資本主義国である日本の外交、政治、経済、軍事等一切の情報や資料を探知蒐集して之をソ連に通報漏泄し日本の経済力外交政策の軍事に関する作戦、軍事力等を事前に知らせて置き日ソ戦が勃発した場合ソ連が有利な地位に立って日本の弱点につけ込んで日本を敗戦に導き或は疲弊せしめ、更にソ連が米英と結託して之等の国をして日本を牽制動肘せしめ、或は又支那満洲国等に働きかけ殊に中国共産党や中国の共産軍等を使嗾して対日長期抗戦をやらせる事に依り一面に於いては共産主義の国ソ連を防衛し他面に於いて日本を敗戦又は疲弊せしめて革命へ導く」

ソ連独自の世界革命という世界政策(2)を推進援助する日米共産共同謀議だったのではないか。

 IPRは、太平洋に接する国々の協議会で構成され、各国の政治社会経済技術についての情報を交換、議論する学術団体としてニューヨークに本部を置き、「太平洋会議」という名を冠せられた、太平洋諸国の抱える問題を協議する国際会合を開催していたが、昭和研究会や企画院と同様、「コミンテルン第七回大会」において採択された「合法場面を極度に利用して活動すべし」という反ファッショ人民戦線戦術を信奉する共産主義者に潜入された組織であり、第二次世界大戦において、盛んに反日論を展開しアメリカ政府(国務省)の反日外交を主導し、日本の敗戦後には、トーマス・ビッソンやアンドリュー・グラジャンツェフといった左翼分子をGHQ民政局に送り込み、GHQの対日占領作戦にまで大きな影響力を及ぼし、治安と防諜を担当するGHQ情報参謀部(G2)の調査対象になった。

 情報参謀部長のチャールズ・ウィロビー少将に提出された調査報告書は、太平洋問題調査会の支配的位置にいる八人の幹部のうち最も活動的で強い発言力を持つ四人-エドワード・C・カーター、フレデリック・V・フィールズ、オーウェン・ラティモア夫妻-は共産党員とそのシンパであると分析し、彼らの人物像を次のように解説している(3)。

 「エドワード・C・カーター(一九二五年の創立以来の所員)は、これらの支配的連中のうちでも、もっとも影響力がある。その公然たる共産主義的傾向にもかかわらず、彼はIPRの基金を集めることにかけては稀なる才能を発揮し、またオルグとしても腕のさえを見せている。カーターはアメリカにある親ソ的、ならびに共産党のフロント組織にすべて加入している。これには『今日のソビエト・ロシア』、『アメリカ・ソ連協会』をはじめ、二十にものぼるソ連戦争救済団体などが含まれる。彼はオリエント地方を広範に旅行し、ロシアにも何度か行っている。彼は自分でもシンパであると公然といっており、アメリカ共産党と緊密な関係にあるものと推測される。カーターは優秀な左翼的著者を見つけ出すことに尽力し、これを教育し、将来、政府部内の極東専門家やライターとして戦略的地位を世話する。このような教育や就職斡旋は、IPR所員に対する研究員としての立場から行われる。

 オーウェン・ラチモア-これら四人のうちで疑いなくもっとも有名な人物である。アメリカ政府の高度の政策決定レベルの部門に、共産主義者が浸透しているもっとも著しい例である。ラチモアとその妻のエレアノール・ラチモアの考え方や論文は、一貫して親ソ的・親共産主義的なのである。」

 尾崎と同じく支那問題の権威でありコミンテルン影響下の共産主義者であったラティモアは、一九三四年よりIPR機関誌「パシフィック・アフェアーズ」編集長となり同誌に親ソ親支那の政治的立場を十字軍的に唱道する論文と反日プロパガンダを満載し、一九五〇年、ジョセフ・マッカーシー上院議員から「ソ連スパイ網のトップエージェント」だとして告発されたが、何とラティモアが一九三六~三九年まで編集助手として使っていた陳翰笙なる支那人は、かつてゾルゲ機関に所属していたのである(4)。

 一九二五年に党籍をドイツ共産党からソ連共産党に移し、ソ連市民権を得てコミンテルン諜報員となりヨーロッパを舞台に活動していたリヒャルト・ゾルゲは、四年後、ソ連赤軍第四部(情報部)の長であり実質的な創設者であったイワン・アントーノヴィチ・ベルジン将軍に見出され、混沌渦巻く東洋の魔都上海に確固たる情報網を構築する任務を与えられた。三〇年一月、上海に到着したゾルゲは、アメリカ人女性ジャーナリストのアグネス・スメドレーを訪ね、支那人協力者を選ぶ為の援助を求めた。当時彼女は「中国共産党こそが貧しい農民を助けられる」と考え、多くの左翼系知識人と接触しており、ゾルゲが支那で唯一頼りにしていた人物であった。

 スメドレーはゾルゲに対し、中国共産党と密接な関係を有していた在上海日本人左翼運動の指導的地位にあった朝日新聞上海特派員の尾崎秀実と陳翰笙を紹介した。陳は二六年北京大学農業経済教授を務めていた時にコミンテルン工作員となり、それ以降は中国共産党員であるとともにソ連の為に情報活動を行い、二八年から上海に滞在しスメドレーの知遇を得た。陳は尾崎以上にスメドレーやゾルゲと親しく、三三年九月にドイツ人ジャーナリストとして来日したゾルゲを補佐し尾崎との連絡を受け持った。だが三五年にモスクワから来日した連絡員が逮捕され、身の危険を感じた陳は東京からモスクワへ脱出し、ソ連共産党の指示を受け、次はラティモアの補佐としてニューヨークに派遣され、太平洋問題調査会の常任書記を務め、ヨセミテ会議で尾崎と会合したのであった。ソ連の諜報謀略網は、日米支の国家中枢に対して、太平洋をまたぎ、根深く有機的に浸透していたのである(5)。

 独ソ戦が勃発する直前の一九四一年五月末、ソ連からアメリカに潜入したビタリーパブロフ(GPUの後身、ソ連人民委員部所属)はアメリカ非公然組織長のイクサ・アフメーロフ(ソ連人民委員部所属、ホワイトの名にちなんだ対日謀略「雪作戦」の提唱者)と相談した上で、アメリカ財務次官補(財務省特別補佐官)ハリーデクスターホワイトに接触、「日本のソ連侵攻を困難にすること」を依頼し(6)、ホワイトは、六月六日、彼自身がまとめた対日通牒試案「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」を財務長官モーゲンソーに手渡した。そして七月八日、ラティモアは、彼やホワイトと親しい関係にあった大統領補佐官ロクリン・カリー(ソ連のスパイ)の推薦を受けた大統領フランクリン・ルーズベルトによって重慶に派遣され、蒋介石の政治顧問に就任した。尾崎秀実は、大陸新報昭和十六年八月一~二日「東亜外交の新段階」の中で、

 「この程蒋介石政府の顧問として、オーウェン・ラチモアが重慶に赴いたという報道は生真面目でいかにも学究的な同氏を知る我々には一種奇異にさえ感じられたのである。アメリカ政府とどれだけの直接関係において行ったのであるか判らないが、現下の重慶に立つ国際情勢下において多分に政治的な使命を帯びるものでなくてはならない」

と観測したが(7)、特に注目すべきことは、ラティモアが、三八年から中国共産党の勢力拡大に伴い相剋を深めていた国共両党の調整に乗り出しただけでなく、四一年十一月二十五日、重慶からカリーに対して、日本にとって過酷なホワイト・モーゲンソー案をルーズベルトに採択させるように打電し、カリーと共に、日米和平交渉をまとめる可能性を秘めたハル暫定案(九十日の停戦を骨子とし、日本は南部仏印より撤退する一方、アメリカは日本に民間用の石油、食糧、医薬や月額六十万ドルまでの綿花を輸出し、且つ日支和平交渉を斡旋することを内容とする、ハル国務長官によって作成された日米妥協案)の採択阻止に狂奔していたことである(8)。即ち我が国の外交史上、永久の痛恨事たる汪兆銘政権樹立工作による支那事変長期化とハル・ノートによる対日挑発にはソ連の謀略活動があり、いずれもソ連の指揮下にあった日米の共産主義者によって推進されたのである。

(1)【尾崎秀実著作集5】五十四~五十五頁。
(2)【現代史資料ゾルゲ事件3】九十八頁、昭和十七年三月二十三日ゾルゲ機関員マックス・クラウゼン証言。
(3) チャールズ・ウィロビー【知られざる日本占領】二〇〇頁。
(4)【現代史資料ゾルゲ事件2】一〇〇頁、プランゲ【ゾルゲ東京を狙え上】一九一頁、産経新聞社【ルーズベルト秘録下】五十三~五十七、六十三~六十七頁。
(5)【ルーズベルト秘録下】参照。
(6)須藤真志【ハルノートを書いた男】一三六頁。
(7)【尾崎秀実著作集3】一九〇頁。
(8)ハミルトンフィッシュ【日米開戦の悲劇】四十頁。


42、歴史に対する罪

 ポツダム宣言の正式調印後、占領軍の情報参謀部は我が国の司法省刑事局の『ゾルゲ事件資料』を押収し、直ちに事件の調査を開始、ワシントンに「ゾルゲ諜報団-極東における国際諜報の実例研究」を送付した。情報参謀部長のチャールズ・ウィロビー少将は、ソ連および国際共産主義勢力の諜報謀略網が占領軍総司令部(GHQ)にも及んでいることを察知し、占領軍最高司令官と参謀長に「総司令部への左翼主義者の浸透状況」(一九四七年四月二十三日付)を提出、「共産主義に対するアジアの防壁としての日本の育成はいまや危機に瀕している」と警告し、民政局長のホイットニー准将を激怒させた。日本国憲法案を起草した民政局(GS)と経済科学局(ESS)はニューディーラー(アメリカの容共主義者)の巣窟であり、明らかに左翼思想に基づく日本の「民主化」を遂行しようとしていたからである。

 米ソ関係は連合国共通の敵である日本国の降伏を契機に冷たい対立へ移行し、支那大陸では蒋介石の国民党と毛沢東の共産党との間に激烈な内戦が勃発し、GHQ内部では反共派が親ソ容共勢力を排除し始めたのである。それらの情勢変化は直ちにアメリカの政治を大きく揺り動かした。

 一九四八年二月号の「カソリック・ダイジェスト」に「アメリカを蝕むもの、モスクワの指令下に米国上層部に喰入るソ連秘密警察」と題する記事が掲載された。執筆者は一九三三~三五年まで農業金融局に、三五~四〇年まで財務省に勤務したエドナ・ロニガンであり、彼女は次のように述べている(1)。

 「国会は今、ソ連の秘密警察のアメリカに於ける目的と活動は何か?という実際問題を検討している。ソ連の秘密警察は、米国の政策をして自ら墓穴を掘らしめるため、その手先の者をアメリカの重要な地位につける仕事にたずさわらせているのだ。

 ソ連秘密警察は一九三三年以来、連邦政府に浸透しようと努力して来た。その最初の細胞は明らかに農務省に設立されたのである。要員は大学の細胞から出た。スターリンは、一九二九年という遙か以前から、即ち不景気が危篤期に入ったと気づいたとき、彼は党員に命じてアメリカの大学にもぐりこませたのである。このことはニューヨーク州議会のラブ・コーダート委員会報告書に証明されている。各々の細胞は分裂して、他の細胞を生み出した。ソ連秘密警察の指導者達は、連邦政府内部の『機構図表』を持って居り、党員を次から次と重要な地位に移したのである。網状組織によって地位につけられた人々のうち、ある者は『純真』な人々であり、ある者は、夢想的な革命論者であった。しかし、大抵は、網状組織に好意を持たれれば速やかに昇進出来ることに気づいている小利口な、悪がしこい人々であった。

 有能なソビエトの手先がなすべき事は、スパイではなく、政治指導者の信頼を博することであった。彼等の仕事は、高官や、その夫人達と親しくなることであり、友好的に、魅力的に、敏捷に、理知的に、同情的になることであり、昼夜にわたって、一層大きな責任を引きうける用意をすることであったのだ。そして、やがて、そのような責任ある地位が彼等に与えられたのである。

 斯くの如くして、網状組織は毎年仲間達をだんだんと高い地位に移して行った。戦争が始まったとき、八年間陰謀で鍛えた古強者達は、最高政策をあやつる地位に到達していたのである。この網状組織によって選ばれた人々は、意見が分かれているあらゆる問題においてアメリカの政策を指導し始めた。ファーレィ(民主党領袖)が落伍した後、彼等は重要産業地方の投票を得る仕事を引き継ぎ、その報酬として戦争の指導権をにぎったのである。連戦連勝の米軍は、スターリンの希望通りの処で停止した。彼等は満洲と北朝鮮を共産党に与えた。」

 同年夏アメリカ下院非米活動委員会において、エリザベス・ベントレーとホイテカー・チェンバース(いずれも元アメリカ共産党員)は、アメリカ共産党やイクサ・アフメーロフ、ボリス・バイコフ大佐(ソ連赤軍第四部)らが、アメリカ政府内部に構築したソ連諜報網の全容を告発した。続いて一九四九年二月十日にはアメリカ陸軍省がゾルゲ事件を新聞に公表し爆発的な反響を呼び起こした。
 その結果として、下院非米活動委員会に喚問されたハリー・ホワイトはスパイ疑惑を否定した後ジギタリスを大量服用して不可解な死を遂げ、ロクリン・カリーはコロンビアへ逃亡、新聞にゾルゲ機関への関与を報道されたスメドレーはロンドンに亡命し、下院非米活動委員会に召還された日の夕方に急逝した。そしてアメリカ国務省を代表してヤルタ会談に出席し、重病のルーズベルト(一九四五年四月十二日死亡)を補佐してソ連に日支の主権を譲渡したヤルタ秘密協定(註2)に深く関与したアルジャー・ヒス(一九九五年にアメリカ議会によって公開されたソ連暗号電文解読作戦Venona資料ではAlesという隠名を持っていた赤軍第四部のスパイ)は投獄され、アメリカ国内に反共のマッカーシズムの嵐が吹き荒れた(2)。

 これに対してアメリカの容共的な歴史学者は、ベントレーやチェンバースの証言に信憑性を認めず、またアグネス・スメドレーの猛烈な抗議に恐れをなした陸軍長官ケネス・ローマルの素早い謝罪談話(一九四九年二月二十七日)等を挙げてマッカーサーおよびウィロビーを非難し、スメドレーを擁護してきた。第二次世界大戦後の歴史学会は米ソ冷戦の縮図であり、反共派の研究者と容共派の学者が数十年に亘り不毛な論争を続けてきたが、遂に歴史の神は反共派の研究者に軍配を上げた。ソ連の崩壊後にロシアによって公開された次のコミンテルン機密文書が暴露したアグネス・スメドレーの正体は、やはりコミンテルンの工作員であった(3)。

 「親愛なる同志ディミトロフ

 われわれは同志岡野(註、日本共産党の野坂参三)、東洋書記局、プロフィンテルン(註、赤色労働組合インターナショナル、コミンテルンの労働組合部門)とともに、日本共産党への支援計画とも連動させつつ汎太平洋労働組合書記局の計画を練ってきた。全員がその計画に賛同し、同志ブラッドフォード(現在、プロフィンテルンの仕事でヨーロッパ滞在中)をアメリカに送りその計画を指揮させるという重要なポイントも含めて同意した。もし貴兄がこの計画に同意するなら、残る問題は形式上の決定と資金の手配だけである。

 目下、上海にいるアグネス・スメドレーが現地で反帝国主義の英字紙を発行するのを援助するという提案は、最終決定されるべきである。情勢はますます好転しており、そのような新聞が出れば大きな影響力を発揮するだろうと、彼女は手紙に書いている。アメリカ合衆国共産党は政治的にも技術的にも優れた助手を彼女に提供することができる。中国人同志たちも同意している。ただしこれら上海の同志たちがもし中国共産党と接触した場合には、その活動が危険に晒されるから、それを避けるために彼らには中国共産党と接触させないという条件つきである。このプロジェクトの価値は明白だ。承認の形式的手続きと必要な資金の準備が待たれる。

 最後に、今大会とその成果について私の深い満足と、この大会がアメリカ合衆国共産党および全世界の党を新しい高次の体験に導くだろうという私の見解とを表明しておきたい。アメリカ共産党がこの目的のために貢献し得るどんなことであれ、貴兄からの要請を私は喜んで受け入れる。

 友愛の熱い挨拶をもって アール・プラウダー モスクワ、1935年9月2日」

 一九三五年にスメドレーは、アール・プラウダーが書記長を務めるアメリカ共産党の人的支援と、コミンテルン第七回大会において反ファッショ人民戦線戦術を発表したゲオルギー・ディミトロフ(ブルガリア人の共産主義者)が議長を務めるコミンテルンの資金援助を得て「中国の声」を創刊していたのである。

 アメリカ共産党党首のアール・ブラウダーは、共産主義者に対するソ連秘密警察の監視役を務め、いわば日本共産党の指導者である野坂参三と同じ役回りを演じていた人物である。アメリカ共産党は党本部のあるニューヨークからNKVDを経由してモスクワに多くの暗号電文を発していた。ソ連に忠誠を誓ったアメリカ共産党のモスクワへの活発な報告がアメリカ陸軍保安局(国家保安局NSAの前身)に、それらの暗号電文を傍受し解読する作戦(コードネームVenona)を実施する機会を与えたのである。

 コミンテルンが解散した一九四三年(実際の機能停止は一九四五年)、モスクワから七百五十マイル東のウーファという町の近くにある外国人共産主義者のためのコミンテルンの学校に入っていたドイツ人青年ウルフガング・レオンハルトは特殊な任務を与えられた。コミンテルンの文書保管所は、ドイツ軍がモスクワに迫った時にウーファに移されており、レオンハルトは混乱した資料を整理し直す学生の一人だった。彼に与えられた任務とは、アメリカ共産党の記録の整理であった。

 ソ連はこの種の資料の存在自体を認めていなかったが、ソ連の崩壊後、ロシア現代史文書保存・研究センターは膨大なコミンテルンの機密文書を公開した。H・クレア、J・H・ヘインズ、F・I・フィルソフは一九九一年から、センターの文書係が作成した検索手段を使って有力候補を絞り込み、数千ページの文書を収録したコミンテルンとアメリカ合衆国共産党のファイルを千点以上調査し、重要な機密文書九十二点を「アメリカ共産党とコミンテルン-地下活動の記録」に掲載した。

 読者の反論を許さない生々しい機密資料が暴露した歴史の真実は、アメリカ共産党の秘密組織がアメリカの情報活動および秘密諜報活動を統括していた戦略事務局(OSS、CIAの前身)をはじめアメリカ政府内部に深く浸透し、コミンテルン、ソ連秘密警察NKVD(KGBの前身)、ソ連軍参謀本部情報部(GRU)と密接に連携しながら、ソ連の諜報活動に奉仕していたことである。それと渾然一体となったアメリカ共産党の地下活動は、労働運動への浸透から、ゾルゲ機関の結成(宮城与徳の日本への帰国)、アグネス・スメドレーへの支援、日本共産党の再建への協力、在米邦人協力者の獲得、スペイン内戦に参戦したコミンテルン国際旅団のアメリカ人義勇軍三千三百人(約八十パーセントが共産主義者)の移送、トロツキーの殺害、独ソ戦勃発後におけるアメリカ合衆国のソ連への援助とヨーロッパ戦線へ軍事介入、原爆情報の盗取にまで及んでいた。しかも以上はソ連の対米諜報謀略活動のほんの氷山の一角に過ぎない。依然としてソ連秘密警察とソ連軍参謀本部情報部の保管していた膨大な機密記録文書がロシア政府によって封印されているからである。

 もしIPR第六回太平洋会議議事抄録が東京裁判で徹底的に審議されたならば、西園寺やラティモアが喚問され、日米支に張り巡らされたソ連の諜報謀略網の実態がもっと早期により詳細に判明し、大東亜戦争の真実が白日の下に曝され、東京裁判は国際連盟によって侵略国と認定され連盟より除名されたソ連を責め裁く裁判となり、ソ連の勢力拡大に奉仕したアメリカ合衆国は面目を失ったに違いない。

 以上の事態を阻止する為に、極東国際軍事裁判所は第六回太平洋会議議事抄録の法廷への提出を許さず、東京裁判昭和二十二年(一九四七)六月六日第二三二回公判に提出された「ソルゲ、スパイ事件の詳細発表/ニッポン・タイムス一九四五年十二月二十四日」、「ゾルゲ、スパイ事件/オットー・D・トリスチヤス東京報告一九四三年レイノルーヒッチコック出版」を却下したのであろう(4)。

 東京裁判インド代表判事のラダビノッド・パルは、法廷によって却下された被告弁護側の証拠資料について次のように評価した(5)。

 「一般に第三者の意見または信念はぜんぜん証拠とはなり得ないものであって、したがって受理され得ないものである。証人等は事実だけすなわち、かれら自身が見聞したことだけを陳述すべきことになっている。述べられた事実にもとづいて自己の結論または意見に達することは判事および陪審員の職務である(中略)。
 
 しかしながら法廷が正確な判断を下す立場にないという種々の場合がある。すなわち審理に関係のある問題が、普通の経験または普通の知識の範囲外である場合、あるいはある科目の特別の研究、またはこれに関する特別な経験を必要とする場合がこれである。このような場合には、特別な研究、訓練、又は経験を必要とする事項について、専門家の助力が必要となってくるのである。こういう場合には法廷して適当な決定に達せしめるため、専門家の証拠を受理するのである(中略)。

 まえに述べた原則に準拠して、法廷は本件の審理中に提出を試みられた数多くの証拠を却下したのであるが、これらの証拠というものは、裁判官の意見では、たんに、その作者たちの抱いていた意見を証言しようとしたものであった。たとえばこの理由をもとに本法廷は前駐日アメリカ大使グルー氏が、関係ある時期中に、中華民国また日本に起っていた諸事件の同氏自身の判断を示している陳述を却下したのである。法廷は同様に、ロバート・クレーギー卿、レジナルド・ジョンストン卿、ジョン・パウエル氏およびその他の人々の意見をも却下したのである。法廷はまた当時の日本の政治家たちの意見、太平洋問題調査会による当時の事情、事件の評論、その他それに類似したものを証拠として受理することを拒絶した。

 本官の意見としては、本件の状況に鑑みて、この原則をまえに述べた事件に無差別に適用したことは不正当であったと信ずる。本官は、日本によるある特定の行動が侵略的であったかどうかを決定するうえにおいて、法廷が必ず当面することとなる難点をすでに指摘しておいた。もしこの目的のため裁判官の求められているところが、ある特定の状況が実在していたか又はある特定の事件が実際に起ったかというのではなく、自身の仮定のもとづいて行動していた人々が『善意をもって』その状況の存在、または事件の惹起を信じ、その所信にもとづいて妥当に行動したかという点を調べることであるとしたならば、日本を含む国の政治家、外交官、記者、および類似の人々のその当時における見解、意見、および信念の持つ証明力は大であると本官は判断する。

 このような見解、信念、意見は、ある状況の実在または係争中のある事件の発生を証明するというのではなく、当時一般に抱かれていた意見を確証し、ひいては本件に関係のある人々の見解ならびに信念の『善意』を確証する目的にたいしては、本件に関して極めて価値があり、また肯綮にあたった証拠的事実であるというのが、本官の意見である。」

 一九四八年十一月二十九日、デイビッド・スミス弁護人、ジョン・ブラナン弁護人ら被告弁護団がアメリカ連邦最高裁判所に東京裁判の違法性を訴え、被告への人身保護令の適用を申し立てた。人身保護令とは米英の法制度で、違法な拘束に対する人身の自由の最高の法的救済措置である。申し立ては一旦受理されたものの、しかし十二月二十日になって連邦最高裁は、連合国の軍事法廷について審理する権限をアメリカの法廷は持たないという理由から「訴願受理の管轄権なし」として被告弁護団の訴願を却下し(6)、同年十二月二十三日、東條英機元首相ら七人のA級戦犯が絞首刑に処されてしまった。この却下理由について同裁判所のウイリアム・ダグラス判事は、

 「極東国際軍事裁判所は、裁判所の設立者から法を与えられたのであり、申立人の権利を国際法に基づいて審査できる自由かつ独立の裁判所ではなかった。それ故に、パル判事が述べたように、同裁判所は司法的な法廷ではなかった。それは政治権力の道具に過ぎなかった」

と述べた(7)。つまり東京裁判は正式な裁判ではない以上、被告の再審請求は成立しないという意味である。驚くべきことに、連合軍最高司令官マッカーサー元帥の命令によって開廷された東京裁判の合法性は、その閉廷直後に、日本国と未だ講和条約を締結していなかったアメリカ合衆国の連邦最高裁判所によって完全否定されたのである。

 GHQの対日占領作戦とは、ポツダム宣言、戦時国際法、大日本帝国憲法、マッカーサー占領軍憲法(日本国憲法)、自由デモクラシーを蹂躙した明白な戦争犯罪であるばかりでなく、有史以来最悪の途方もない大錯誤であり、全く無実の日本人を公職から追放し或いは処刑し、第二次世界大戦の真実を闇の世界に埋葬した「歴史に対する犯罪」である。

(註2)ヤルタ秘密協定(一九四五年二月十一日)

 三大国即ち「ソビエト」連邦、アメリカ合衆国及英国の指導者はドイツ国が降伏し且ヨーロッパに於ける戦争が終結したる後二月又は三月を経てソビエト連邦が左の条件に依り連合国に与して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定せり。

一、外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持せらるべし。

二、千九百四年の日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたるロシア国の旧権利は左の如く回復せらるべし。

(甲)樺太の南部及之に隣接する一切の島嶼はソビエト連邦に返還せらるべし。

(乙)大連商港に於けるソビエト連邦の優先的利益は之を擁護し該港は国際化せらるべく又ソビエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口の租借権は回復せらるべし。

(丙)東清鉄道及大連に出口を供与する南満州鉄道は中ソ合弁会社の設立に依り共同に運営せらるべし但しソビエト連邦の優先的利益は保障せられ又中華民国は満洲に於ける完全なる主権を保有するものとす。

三、千島列島はソビエト連邦に引渡さるべし。

 前記の外蒙古竝に港湾及鉄道に関する協定は蒋介石総帥の同意を要するものとす大統領はスターリン元帥よりの通知に依り右同意を得る為措置を執るものとす。

 三大国の首班はソビエト連邦の右要求が日本国の敗北したる後に於て確実に満足せしめらるべきことを協定せり。

 ソビエト連邦は中華民国を日本国の覊絆より解放する目的を以て自己の軍隊に依り之に援助を与うる為ソビエト社会主義共和国連邦中華民国間友好同盟条約を中華民国国民政府と締結する用意あることを表明す。(J・スターリン、フランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・S・チャーチル)

(1)三田村【戦争と共産主義】五十二~五十四頁。
(2)【ルーズベルト秘録下】参照。
(3) H・クレア、J・H・ヘインズ、F・I・フィルソフ【アメリカ共産党とコミンテルン-地下活動の記録】一〇四~一〇八頁、「アグネス・スメドレー、コミンテルンの工作員」
(4)【東京裁判却下未提出弁護側資料3】七五二~七五四頁。
(5)【パル判決書上】五六二~五六四頁。
(6)富士信夫【私の見た東京裁判下】五二〇~五三一頁、「米大審院への訴願」
(7)佐藤和男【憲法九条・侵略戦争・東京裁判】九十四頁。



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龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民の戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究において最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

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