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国民のための大東亜戦争史43~56独ソ開戦と日本の南進

第二章、日 米 開 戦 史


【独ソ開戦と日本の南進】


43、検察の苦悩

 我が国の敗戦直後に近衛文麿によって公刊された自己保身のための宣伝書「平和への努力」を信用した中村粲教授の大東亜戦争史観は、汪兆銘政権樹立工作は第一次近衛声明を修正した和平工作であり、第二次近衛内閣(昭和十五年七月二十二日発足)が日独伊三国同盟を締結した(昭和十五年九月二十七日。のちハンガリー、スロバキア、ルーマニア、ブルガリアが加盟)目的は、日本の国際的立場を強化して、アメリカの武力行使を抑止し日米和平交渉をまとめ、支那事変の解決を促進することだった、である(1)。

 だが汪兆銘工作は第一次近衛声明と連動しており、支那事変を決定的に長期化させてしまった。近衛首相の行動は一貫して支那事変の拡大長期化を画策しており、近衛文麿の意図は日中和平の実現とは正反対の方向に向いていた。それらのことは、日支条約案と支那事変処理要綱を可決した第四回御前会議(昭和十五年十一月十三日)冒頭における以下の近衛自身の挨拶によっても説明されていた(2)。

 「政府より提出致しましたる案件に就きまして御説明申し上げます、帝国は昭和十三年一月十一日御前会議決定の支那事変処理根本方針ならび昭和十三年十一月三十日御前会議決定の日支新関係調整方針に基き、従来重慶政権に対し其の反省を促し、急速に支那の全面的屈伏を強要する共に、新なる政治勢力の育成を企図し、これを実行し来ったのであります。 
 然るに現下の情勢においては、短期間に之が屈伏至難なるやに察せらるる一方、南京に樹立せられたる新政府は逐次其の政治力を増大し来りつつあるのみならず、該政府と帝国使臣との間に行われたる条約交渉は今や政府において之が採否を決すべき時機に到達したのであります。
 帝国はこの際、新政府を承認し、其の政治力を強化培養して之を我が方の事変遂行に協力せしめ以て飽くまで事変の完遂を期するの方途に出づることが必要と認められるのであります。
 依て政府は別紙条約案に対し調印締結の手続を執らんとするものであります、もっとも条約調印後、重慶政権の屈伏を見る場合においては更に新なる処断に出づべきこと勿論であります。」

 加藤高明内閣の司法大臣として治安維持法の制定を主唱した小川平吉はかねてより「昭和塾講師および組織者に赤化の徒が多く、累を近公に及ぼす」と懸念し、知人と秘かに善後策を協議していたが(小川平吉日記昭和十三年十月二十一日の条)、不幸にも近衛の赤い人脈に対する小川の危惧は的中していたのである。

 昭和三年(一九二八)六月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締に従事しながら国際共産主義運動の調査研究に没頭した後、衆議院議員となり中野正剛と共に東條内閣倒閣運動に加わった三田村武夫によれば、昭和十六年(一九四一)十月十五日に検挙された尾崎秀実と特別の関係にあった陸軍軍務局関係者は、尾崎の検挙に反対であり、特にドイツ大使館員としてドイツ駐日大使オットーの信頼を得ることに成功していたリヒャルト・ゾルゲとの関係において、陸軍は捜査打ち切りを要求したが、十六日、近衛内閣が総辞職し、東條内閣の出現となり、尾崎秀実の取り調べによって尾崎と近衛文麿との密接なる関係が浮かび出てきたことを知った東條首相は、この事件によって一挙に近衛を抹殺することを考え、逆に徹底的な調査を命じたのである。

 しかしながら時は日米開戦直後であり、日本政治最上層部の責任者として重要な立場にあった近衛及びその周辺の人物をこの事件によって葬り去ることが如何に巨大な影響を国政に与えるかを考慮した検察当局は、その捜査の範囲を国防保安法の線のみに限定せざるを得ず、彼等の謀略活動をできる限り回避すべく苦心したという(3)。

 国際共産党諜報機関検挙報告には、「要路高官の信任を博したる尾崎は、単に政治中枢の秘密を探知するに止まらず秘かに抱懐するコミュニストとしての新体制理論を協同体論に偽装して政府の方針を歪曲せんとの謀略策動をも併せ行うに至れるも失敗せり」と記述されているが、尾崎の謀略策動の中核たる、東亜協同体論によって装飾された支那事変の拡大長期化工作に対する言及は無く、犬養健が検事に「尾崎秀実、西園寺公一が雑誌等に論文を執筆して汪兆銘工作が日本の執るべき唯一の道であることを強調していた」と証言しているのに、検察は、共産主義者の尾崎が反共和平を掲げる汪工作を推進したその謀略的意図や、尾崎と影佐禎昭ら陸軍の革新幕僚との関係を追及しておらず(4)、ゾルゲ事件の被逮捕者は僅か三十五名に過ぎない。

 昭和十六年十月十日に特高警察に逮捕された元アメリカ共産党員の宮城与徳は、刑事の取り調べ中に築地警察署の二階から飛び降りたものの灌木の上に落ちて自殺に失敗した。宮城は心の鍵を自損して放心状態になったのか、訊問再開後、別人に生まれ変わったように心中に秘めていたゾルゲ機関の全容を延々と自白した。その規模の大きさ、その主要メンバーの社会的地位、その国際関係を知った刑事たちは肝を潰し、東京刑事地方裁判所検事局の吉河光貞検事に指示を仰いだ。尾崎秀実を近衛文麿側近の輝ける星の一人と認めていた吉河検事は、元アメリカ共産党工作員の自白だけでは尾崎を逮捕できないと判断し、警察に裏付け調査の開始を指示し、警察はすぐに多数の証拠を発見した。しかし宮城の自白を裏付ける証拠を入手した検事と刑事たちは、証拠が告げる事態の深刻さに恐怖する余り、却って尾崎の正体と事件の真相を受け容れられなくなり、彼等は尾崎の無実を信じ込もうとして代わる代わる宮城に嘆願するように「これは本当か?」と尋ねたのである。宮城与徳は飽き飽きしながらもきっぱりと「本当です」と答え、検事刑事たちを観念させた(5)。さらに宮城は検事訊問(昭和十七年三月十七日)に対して、

 「近衛首相は防共連盟の顧問であるから反ソ的な人だと思って居たところ、支那問題解決の為寧ろソ連と手を握ってもよいと考える程ソ連的であることが判りました」

とまで証言した(6)。昭和十七年十一月十八日、近衛は中村光三予審判事から僅かな形式的訊問を受け、「記憶しません」を連発し尾崎との親密な関係を隠蔽した(7)。国家総動員法や大政翼賛会による立憲自由主義議会制デモクラシーの破壊に猛反対した鳩山一郎(政友会)が日記(昭和十五年十一月一日の条)に、

 「近衛時代に於ける政府の施設凡てコミンテルンのテーゼに基く。寔に怖るべし。一身を犠牲にして御奉公すべき時期の近づくを痛感す」

と書いたことは正しかったのである。

 昭和十六年二月三日、第七十六回帝国議会衆議院の国防保安法案委員会において三田村武夫代議士が指摘した我が国の防諜体制の深刻な欠陥は、いくら政府と議会が軍機保護法を改正し要塞地帯法を作り、防諜の規定を強化しても、従来日本の外交上、国防上、経済上、政治上重要なる機密が一般の国民の間からではなく常に上層から洩れて居ることはロンドン会議以来国民の知る所になっているにもかかわらず、第一次近衛内閣の馬場鍈一内務大臣が「私も従来しばしば日本の重要なる国家機密が上層部から洩れることを聞いて知って居るが、洵に残念だと思うが、斯う云う人に対しては法律を以て直ちに臨むことは困難だ、各人の自省を俟って何とか善処したいと思います」と答弁したことであった。三田村代議士は、

 「是は由々しき問題だと思います、或いは此の立法を以てしても、馬場内務大臣の御意見通り、斯う云う人に対しては直ちに法律を以て臨むことが不可能かも知れませぬ、其の問題をどうするかと云うことを、此の日本歴史始まって以来未だかつてない国家興亡の岐路に直面しながら、重大なる時局を担当する政府の責任者に私はしっかり申上げて置きたいのです、近衛さんは去る二十七日の予算総会で、一死を以て奉公の誠を竭すと云う決意を、涙を浮かべて披瀝されました、吾々は大いに其の決意を諒とし心を汲む次第でありますが、其の決意は予算総会の席上に於ての決意だけでは困る、唯一人の息子を戦地に送った人が、其の息子が戦死しても、溢れる涙をぐっと呑込んで、倅は御国の御役に立ちまして洵に喜ばしい次第でありますと国民は言って居ります、泣いて居る時じゃないのだ、しっかり肚を決めてやって貰わなければ、此の法律を作ってみてもいかぬと思う、馬場内務大臣の言葉通り、抜穴があって、大きなものがドンドン逃げて行ったら何にもならぬ」

と警鐘を鳴らして近衛を叱咤し、たとえ世間から危険視されても国家の為に徹底的に、第三国の思想謀略、経済謀略、外交謀略、政治謀略、中でも最も恐ろしい、無意識中に乃至は第三者の謀略の線に踊らされた意識せざる諜報行為に対する警戒と取締を強化するように政府(第二次近衛内閣)に要求した(8)。しかし当然この要求は実現することなく、またしても日本の政治最上層部から国家機密がソ連に漏洩してしまった。近衛文麿の「一死を以て奉公の誠をつくす」という涙ながらの決意表明は、帝国議会議員と有権者を欺く狡猾な演技にすぎなかったのである。

 そして革新的青年学生を育成する為に昭和十三年九月に昭和研究会幹部によって設立された昭和塾の幹事を尾崎秀実と共に務めていた角田順(昭和研究会委員、太平洋協会所属)が漏らしたように、近衛首相が日独伊三国同盟を締結し、野村吉三郎海軍大将を説得して駐米日本大使就任を受諾させ、井川忠雄(大蔵省出身の元駐米財務官、産業組合中央金庫理事)をアメリカに派遣し(昭和十六年二月十三日)、日米和平交渉に着手した真の目的は、支那事変を日蒋間の対立から、ソ連を包囲する位置にある日独伊と英米蒋の世界戦争(9)―近衛の最高政治幕僚であった尾崎秀実が獄中手記で述べた、ファッショ派帝国主義国家群と正統派帝国主義国家群の相互闘争―に発展させ、ソ連の防衛と拡大とを図り、地球規模でソ連に漁夫の利を与えようとしたのであろう。 
 なぜなら昭和十五年十一月三十日、アメリカ駐支大使ネルソン・ジョンソンが、

 「汪兆銘のかいらい政権の承認は、日本が国民政府と蒋介石の破壊を決意したことを意味する。そうなれば、米国と日本の直接対決は不可避となるだろう」

と政府に警告した通り(10)、近衛内閣の汪兆銘政権承認によって支那事変が「永久抗争」化した以上、事変解決を議題とする日米和平交渉は完全妥結する可能性を有さず、最終的には、支那事変を、日蒋間の対立から、汪を支持する日本と、日華基本条約締結直後に之を否認し、蒋介石の懇請に応じて一億ドルの対支借款供与を発表、蒋政権支持を明示したアメリカとの衝突へと発展させる導火線にならざるを得ないからである。
 「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」(昭和十五年七月二十七日)において「対米開戦の準備」を決定した近衛文麿は、次に日米和平交渉に着手することによって、日米関係を破裂させるための時限爆弾の導火線に点火したのである。

(1)中村【大東亜戦争への道】五五八頁。
(2)参謀本部編【杉山メモ上】一四三頁「第四回御前会議内閣総理大臣挨拶」
(3)三田村【戦争と共産主義】一三七~一三八頁。
(4)【現代史資料ゾルゲ事件4】四、五一五~五二一頁、犬養健に対する第三回検事訊問調書昭和十七年四月二十一日。
(5)プランゲ【ゾルゲ東京を狙え下】一六一~一六九頁「彼は死線を越えた」
(6)【現代史資料ゾルゲ事件3】二六三頁。
(7)【現代史資料ゾルゲ事件2】四〇二頁。
(8)衆議院国防保安法案委員会議録第三回昭和十六年二月三日。
(9)後藤【昭和研究会】一三三頁、角田順【太平洋に於ける英帝国の衰亡】一一五頁、【石原莞爾資料国防論策編】五五二頁。
 角田順の「政治と軍事―明治・大正・昭和初期の日本」(光風社出版、一九八七)一〇八~一一〇頁は、石原莞爾と堀場一雄の戦争指導を評価しながら、堀場が反対した西義顕、伊藤芳男、董道寧、高宗武、松本重治らの汪兆銘政権樹立工作を、

 「日中両国を横断して全面和平達成を企図する構想であり、この構想の背後に日中の国籍をこえたアジアの未来像が潜み、共にこの高貴な理想を仰ぐ感激と信頼とが互いにかわされたことも、疑いない事実であった。この事実から生れた汪派の要人・李聖五が今日なお『東京のある席上で、彼らの行動の正しかったこと、のみならず汪政権に対する日本有志の態度はあれでも世界史上、類例のない誠実にして公平なものであったことを、満足と自信をもって語った』ことをここに粛然と付記しよう」

と大仰に礼賛するという矛盾を犯している。角田の史論は汪工作の謀略的意義を隠蔽しようとする余り、これを和平工作として推進宣伝した尾崎秀実ら共産主義者の戦時論文に酷似してしまい、却って角田自身の正体を曝露している。
(10)【ルーズベルト秘録下】八四頁。


44、日独伊ソ四ヶ国協商構想の背景

 第二次近衛内閣において、外務大臣を務めた松岡洋右は次の如き遠大な構想?を抱いていたという(1)。

 「まず三国同盟の成立をはかる。次にこの同盟の威力をかりて日独伊ソ四国協商の実現を図る。その際、とくにドイツのもつ対ソ影響力(註、一九三九年八月二十三日独ソ不可侵条約成立、同年九月一日ドイツ軍が、十七日ソ連軍がポーランドに侵攻、第二次欧州大戦勃発)を活用して、日ソ国交調整の斡旋の役割を担当させる。さらに四国協商が成立すれば、この提携の威圧を利用して対米交渉に乗り出し、諸懸案の妥結を図ると同時に、アメリカをしてアジアおよびヨーロッパでの干渉政策から手を引かせ、同時にこれらの地域での平和回復に共同協力することを約束させる。尚この間三国同盟および四国協商の力で英米を牽制して、日本の南進政策を推進する。こうしてヨーロッパ、アジア、アフリカで四国間に生活圏を分割し、世界新秩序を樹立する。」

 日本が日独伊ソ四国協商によりアメリカを牽制し日米和平交渉をまとめて支那事変を解決し、フランスの無力化とイギリスの弱体化に乗じて南進し大東亜共栄圏を構築し、世界を大東亜圏、欧州圏(アフリカを含む)、米州圏、ソ連圏(インド、イランを含む)に分割する(イギリスには豪州およびニュージーランドを残し概ねオランダ待遇とする)。これが松岡構想であった。昭和十六年(一九四一)二月三日に松岡が主張した大東亜共栄圏とは以下のような構想である(2)。

 「帝国は大東亜共栄圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の責任を負う。右地帯居住民族は独立を維持せしめ又は独立せしむるを原則とするも現に英、仏、蘭、葡等の属領たる地方にして独立の能力なき民族については各その能力に応じ出来得る限りの自治を許与し我においてその統治指導の責に任ず。経済的には帝国は右地帯における国防資源につき優先的地位を留保するもその他の一般的通商企業については他の経済圏と相互的に門戸開放機会均等主義を適用す。」

 しかし昭和十五年(一九四〇)十一月二十六日、ソ連が四国協商を承認する条件として、

1、ドイツ軍のフィンランドからの撤退。
2、ソ連とブルガリアの相互援助条約締結と、ボスフォラス及びダーダネルス圏内のソ連陸海軍の基地設置。
3、バツーム及びバクーの南から大体ペルシャ湾に至る地域がソ連の領土的希望の中心たることの確認。
4、日本の北樺太における石炭、石油採決権の放棄。

をドイツに提示したものの、アドルフ・ヒトラーが之を拒絶し、十二月十八日、対ソ開戦準備命令を発した時点で、松岡構想は破綻しており、翌年三月末ベルリンにおいて、ドイツ首脳は、口を極めてソ連の不信を攻撃し「一度ソ連に打撃を加えなければ欧州の禍根は到底除かれない」と語り、独ソ関係の険悪化を松岡に示唆したにも拘わらず、松岡はベルリンからの帰途モスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を締結し(昭和十六年四月十三日)、我が国からドイツに呼応する北進戦略を少なくとも条約上奪ってしまったのである。

 モスクワからの帰途、松岡外相の胸中に、帰国後の松岡が次は重慶へ赴き蒋介石と会談し一緒に米国へ飛んでルーズベルトを交えて三人で支那事変の解決を話し合うという壮大な和平構想が描かれていた時、米海軍省は次のような情報を国務省に伝えていた(3)。

 「アンカラ(トルコ)駐在武官によれば、同地駐在ソ連海軍武官は、日ソ中立条約について、以下の説明を行った。『ソ連の政策は明確である。それは、ソ連人は戦わずにすべての他国民を戦わすことである。』と」

 ゾルゲ機関員のマックス・クラウゼンは、

 「日ソ間に中立不可侵条約の如き親善関係が出来ましたが私はソ連は真面目に斯様な問題を取り上げて居るものではないと信じて居ります。ソ連が資本主義国と真面目に斯様な親善関係を結ぶという事は所謂階級闘争の共産主義理論と全く矛盾するからであります。要するにソ連は、一面に於てはソ連防衛の手段として条約を利用し、他方に於てはソ連は戦争を欲せずと見せかけておいて資本主義国の監視警戒の緩和を図り、之に依って益々容易に且活発にスパイ活動其の他共産主義運動を展開しようとして居るものに相違ないと考えて居りました」

と日ソ中立条約がソ連の常套手段「偽装和平」であることを証言した(4)。筆者が推測するに、おそらく松岡洋右も汪兆銘と同様に、自らの構想に陶酔する余り現実を見失い、松岡の外相就任と同時に外務省政務嘱託となり三国同盟と日ソ中立条約の締結に加わった西園寺公一(戦後共産党員)、そして尾崎秀実、平貞蔵を始め、ソ連の政策を支持する近衛の革新幕僚等に操られていたのであろう。

 本来、同盟は自国の欠陥を補う為に締結され、国家間の利害関係の一致する所に存在する。日本の莫大な対満投資が満洲国を順調に発展させていたとはいえ(5)、日本の満支開発は一朝一夕に実現されることではなく、依然として我が国は大陸から必要な資源を充分には輸入できずにいた。

満洲国の対日貿易額(単位は円。出典は大連商工会議所編満洲経済統計年報)
一九三一年 輸出248,340,628 輸入136,139,949
一九三二年 輸出192,683,576 輸入182,920,674
一九三三年 輸出177,326,651 輸入313,749,276
一九三四年 輸出172,262,488 輸入383,295,990
一九三五年 輸出183,523,623 輸入434,273,822
一九三六年 輸出237,508,643 輸入507,324,215
一九三七年 輸出277,418,277 輸入627,233,080
一九三八年 輸出344,946,864 輸入922,308,042
一九三九年 輸出428,301,435 輸入1,399,482,507
一九四〇年(九月迄)輸出292,396,680 輸入1,160,714,358

満洲国の対米貿易額(単位は円。出典は大連商工会議所編満洲経済統計年報)
一九三一年 輸出9,547,283 輸入19,693,602
一九三二年 輸出5,077,654 輸入20,067,904
一九三三年 輸出7,603,515 輸入28,961,778
一九三四年 輸出5,966,010 輸入35,227,096
一九三五年 輸出15,589,646 輸入24,935,651
一九三六年 輸出16,352,551 輸入23,735,307
一九三七年 輸出18,673,846 輸入57,923,053
一九三八年 輸出11,359,898 輸入93,069,965
一九三九年 輸出15,395,939 輸入80,181,516
一九四〇年(九月迄)輸出16,107,050 輸入55,529,877

 だから信義を基礎とする条約によって阻止されないソ連の軍事的脅威と東亜赤化の野望とに直面していた我が国の採るべき最良の選択肢は、日露戦争時の如く可能な限り米英と親善友好関係を維持し、後背の安全を確保しつつ、戦争政策に比べて圧倒的に費用対効果の優れた資源獲得手段である貿易によって、輸出市場を欲していた米英の持つ豊富な資源を輸入し、ソ連に対する我が国の軍備を強化することだったであろう。

 だが平貞蔵は、中央公論昭和十五年九月号「新体制と外交」で、日独伊が、大英帝国の崩壊なくしては必要な進出を阻止される点、ソ連及び北米の強大な勢力に対抗するには本国の資源のみでは足らざる点において、「あきらかに共通の運命、共通の利害関係を有する」と詭弁を弄し、既得権益を維持するために共同戦線を張る米英ソに対抗する為には、

 「日独伊もまた目的達成には協力せざるを得ない。世界史的方向に沿う発展を遂げんとする三国が提携すべきであると言われるのはかかる理由に基く」

と強調して、無資源国家(持たざるもの)日独伊の三国同盟の必然性を説き、さらに平は、

 「ソ連、イギリスと共に日本に圧力を加えつつある北米は大なる経済力と軍備を擁して戦争の圏外にある。北米が日本との経済関係を絶てば、依存関係が深いだけに北米の期待を裏切り、日本は敢然起つであろう。だが日本も北米を牽制する手段を有しないわけではない。日米貿易の断絶は、北米にとっても打撃であり、日独伊枢軸を強化し日本が南洋に進出すれば北米は原料において困窮する。

 次にイギリスに対しては、対米、対ソ以上に用うべき途がある。事変解決、日ソ国交の調整によるソ連の中亜、近東進出、実力を伴う南進政策、日独伊枢軸の強化を以てあたり得る。この中の一部が有効に実行されるのみでも、イギリスはアジアより全面的退却を余儀なくされる」

と述べ、ソ連を利する日ソ中立条約および我が国の南進政策の有効性を説いて松岡外交を推進援護しており(6)、支那事変の拡大長期化を画策してきた近衛の革新幕僚たちの作為戦争謀略活動(make war)が松岡構想に重なっていたのである。

(1)【太平洋戦争への道5】二六一頁。
(2)【杉山メモ上】一七三~一七六頁「昭和十六年二月三日第八回連絡懇談会、松岡提案の対独伊蘇交渉要綱の件」「連絡会議決定、対独伊蘇交渉要綱」
 この二月三日の連絡懇談会は松岡外相が主張した「南方に根を下ろすための支那戦線の縮小」を否決したが、このとき従来懇談会席上殆ど発言しなかった近衛首相も口を開き戦線縮小に反対した。
(3)児島襄【ヒトラーの戦い3】四九五頁。
(4)【現代史資料ゾルゲ事件3】九七頁。
(5)黄文雄【満州国の遺産】参照。
(6)三田村【戦争と共産主義】二六九~二七〇頁。
 昭和研究会の主要会員であった笠信太郎と佐々弘雄の合作と推定される昭和十五年九月二十七日朝日新聞解説記事「同盟の世界史的意義」は、三国同盟締結の意義として、日本が日独伊ソの大陸国家群の一員として、自由通商主義、デモクラシー、個人主義を基底とする海洋国家群の英米が建設し維持してきた世界秩序を根本的に改造する歴史的使命を帯びていることを強調し、さらに日本の南進の必要と英米との衝突を予想し、欧州におけるドイツの軍事的優位と西太平洋における日本の海軍力の優位との結合により、英米の敗勢は必至であり支那事変の解決も容易となる、と解説していた(稲垣武【日本的組織原理の功罪】二〇三~二〇四頁)。


45、独ソ戦勃発

 日ソ中立条約成立後も独ソ戦の風雲急を告げる情報が、在外武官などから頻繁に入電してきたにも拘わらず、松岡は独ソ戦の可能性を信じようとしなかった。だがバトルオブブリテン(一九四〇年七月~翌年五月に行われた英独空軍の熾烈な航空戦)に敗れドーバー海峡を越えられなかったドイツは軍の鉾先をソ連へ向け、昭和十六年六月二十二日、ドイツ軍は、リープ将軍の北部軍集団、ボック将軍の中央軍集団、ルントシュテット将軍の南部軍集団、合計百四十九個師団三百十三万七千人を揃えてバルバロッサ(赤髭と東方への進出で知られた神聖ローマ皇帝)作戦を遂に発動し、三方よりソ連に対する侵攻を開始、独ソ国境付近に集結していたソ連軍を次々と撃破し、ドイツ政府は六週間でソ連を征服すると発表した。だが奇しくも六月二十二日は、一八一二年にナポレオンがニーメン河を越え、ロシアへ侵攻した日であり、二正面戦争の遂行を選択したヒトラーはナポレオンと同じ運命を辿ることになる…。ドイツ駐日大使オットーから、

 「ドイツは一九三九年の独ソ協定に期待したが、その後それが根本的に誤りなることが判明した。コミンテルンは直ちに対独破壊工作を開始し、ソ連の公式の代表機関がこれを補佐した。大規模にサボタージュ、テロ、戦争が準備せられ、スパイは政治上、軍事上、経済上活動した。ドイツ近隣諸国及びドイツ占領下では、対独使嗾工作がなされ欧州に秩序を樹立せんとするドイツの企図に、反対の工作が行われた。ベルグラードで押収した文書は、ソ連参謀本部が反独のため武器を供与したことを示している。
 かく見れば独ソ条約は、ソ連の欺瞞隠蔽工作に過ぎぬ。条約締結の際明確にされた利益範囲の国家を、ボルシェビキ化又は併合しないとの約束に反し、ソ連は軍事的に可能なる軍事力を西方に及ぼし、ボルシェビキ化を欧州にまで押進めている。バルカン、フィンランド、ブゴビナ、ルーマニア等皆然り。モロトフをベルリンに招いた時、ソ連は、ブルガリア海峡地帯におけるソ連軍事基地の設定、フィンランドの完全な支配等、容認すべからざる野望を示したが、現にドイツのブルガリア占領の妨害、トルコへの背後からの援助、ユーゴーでの策動等、反独政策を実行している。かかる政策のためソ連は、東海から黒海に至る赤軍を増強しつつあり、更にクリップス大使を通じ、英国と軍事協力を交渉しつつあり、脅威益々増大するに対し、ドイツは対抗手段を取らざるを得ぬ。
 
 要するにソ連は、受諾せる諸義務に反して、対独対欧州破壊の企てを継続強化し、益々反独的外交政策をとり、その全軍事力を以て、ドイツ国境に待機の姿勢を取り、かくて生存のための闘争を続けつつあるドイツに、背後より襲いかからんとしている。故にドイツは、この脅威をあらゆる権力手段を尽くして反撃する」

というドイツの対ソ開戦理由(1)を通告された松岡外相は、「日本は三国同盟の目的と精神に基づいて行動する」とオットーに言明し、宮中に参内して、

 「独ソ開戦した今日、日本もドイツと協力してソ連を討つべきである。この為には南方は一時手控える方がよい」

と上奏した。松岡の無節操な豹変に驚かれた昭和天皇は、

 「即刻総理の許へ参り相談せよ」

と命じられたが、これは「松岡が近衛を差し置いてシベリア出兵を唱える」と先読みした木戸幸一が、松岡より一歩先に昭和天皇に拝謁して、

 「今回の事件は極めて重大なれば充分首相と協議すべしとの意味を仰せ戴きたく、首相中心の御心構えを御示し願いたし」

と上奏してあったからである。松岡の上奏騒ぎは、その夜に松岡と近衛の会談があり、翌日、近衛首相が、

 「外相は彼個人の最悪の事態に対する見通しを申し上げた」

と上奏して一応の収拾をみた。だがその後も松岡外相は対ソ主戦論を主張し続けた為、我が国政府は、南進すべきか或いは北進すべきか、を巡って紛糾し、昭和十六年四月十八日、野村大使がアメリカ国務長官コーデル・ハルの賛意を得たとして「日米諒解案」(井川忠雄、野村大使の要請を受けて渡米した岩畔豪雄陸軍大佐、昭和十五年十一月にアメリカから来日し日米国交調整の可能性を探り帰国したウォルシュ司教、ドラウト神父が作成した日米和平案)を打電してきたことから開始された日米和平交渉を顧みる余裕を失ってしまった。  

「日米諒解案(一部抜粋)」

支那事変に対する両国政府の関係

 米国大統領が左記条件を容認し且日本国政府が之を保障したるときは米国大統領は之に依り蒋政権に対し和平の勧告を為すべし。

1、 支那の独立。
2、日支間に成立すべき協定に基く日本国軍隊の支那領土撤退。
3、支那領土の非併合。
4、非賠償。
5、門戸開放方針の復活但し之が解釈及適用に関しては将来適当の時期に日米両国間に於て協議せらるべきものとす。
6、蒋政権と汪政府との合流。
7、支那領土への日本の大量的又は集団的移民の自制。
8、満洲国の承認。

 蒋政権に於て米国大統領の勧告に応じたるときは日本国政府は新たに統一樹立せらるべき支那政府又は該政府を構成すべき分子をして直に直接和平交渉を開始するものとす。日本国政府は前記条件の範囲内に於て且善隣友好防共共同防衛及経済提携の原則に基き具体的和平条件を直接支那側に提示すべし。

(1)矢部【近衛文麿下】二九六~二九七頁。


46、南進論と北進論

 一方、長年に亘りソ連(ロシア)を仮想敵国とし対ソ戦の主力となるはずの陸軍内部では、意外な事に、独ソ戦勃発に伴い松岡外相の主張とは正反対の戦略転換が行われようとしていた。   

 昭和十六年一月十八日から約二ヶ月をかけて、陸軍省戦備課は我が国の物的国力から対南方武力行使の成否を検討し、

 「帝国の物的国力は、対米英長期戦の遂行に対し、不安あるを免れない。すなわち第二年終期ころまでは、敵の進撃を撃滅するにおおむね十分になる弾撥力を有すべきも、そのころ一時液体燃料に懸念を生ずる懼れあるとともに、戦局持久するに随い、経済抗堪力が動揺することがあるであろう」

との結論を得た。陸軍屈指の合理主義者であった戦備課長の岡田菊三郎大佐は、この検討結果を三月十八、二十二日に陸軍省部の主務者、二十五、二十六日に参謀本部首脳に説明し、昭和十五年夏以来、電撃作戦により瞬く間に欧州を席巻したドイツに呼応する南進戦略に傾斜していた陸軍中枢に再考を促したのである。この影響は甚大であった。二十四日に行われた有末次大佐(種村佐孝少佐に代わり昭和十五年十月十日から昭和十七年一月十九日まで班長に就任)ら参謀本部第二十班(戦争指導班)の検討会は、

 「戦備課ノ物的国力判断資料ニ基キ第二十班トシテ対南方武力行使ニ関スル判決ヲ決ス 好機ニ投スル対南方武力行使ナシ 紆余曲折ヲ経テ今日ニ至ル 感慨無量ナルモノアリ第二十班トシテ右判決不動ナリ」 

との結論に達し、二十七日には参謀本部作戦課と陸軍省軍事課の西浦進中佐、服部卓四郎中佐も戦争指導班に同意したのである。即ち昭和十六年春に至り、陸軍省部は前年七月二十七日に大本営政府連絡会議で決定された「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」の対南方武力行使に関する準拠を修正し、

 「好機ニ投スル武力行使ナシ 支那事変処理ト対「ソ」戦備ニ専念セントス」(大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌昭和十六年三月二十七日の条)

と決定し、四月十七日までに「帝国は外交的施策に依り、帝国と仏印、泰、蘭印間の政治経済に亙り緊密なる関係を確立す。欧州戦争に於て英本国の崩壊確実と予察されるに至らば、対蘭印外交措置を更に強化し目的達成に努む」という対南方施策要綱をまとめ、「日米諒解案」に原則的に同意したのである。我が国の陸軍中枢には、まだ数学的合理思考と軍事的良識が残っていた。ところがそれらは「独ソ開戦確実」という情報の入電によって吹き飛ばされてしまった。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十六年六月六日金曜
一、大島大使ヨリ「ヒ」及「リ」ト会談セル結果独「ソ」開戦概ネ確実ナリノ電アリシヲ以テ先ヅ情報ノ交換ノ為連絡懇談会開催 至急独「ソ」開戦ニ伴フ帝国国策ヲ決定スルニ意見一致ス
二、軍務課長及軍事課長ヨリ第二課長第八課長、第二十班長ニ会談ヲ申込ミ断乎南方ニ武力進出スヘキヲ強調ス
 (軍務課長ハ第一案断乎南方武力行使、第二案対米協調シツツ北方解決、第三案現状通リノ三案ヲ携行シ第一案ヲ主張ス)第二課長第八課長同意ス   
 第二十班長不同意
 今頃何事ゾヤ当班半年ノ結晶ノ結果カ南方施策要綱ナリ
 変ヘル事ガ出来ルナラ海軍ヲ動カシ得ルナラ動カシテ見ヨト云ヒ度シ
 明確ナ空気決定的国策ヲ採リ得ヌガ帝国ノ現状悩ミナリ
 此ノ悩ミヲ軍務課長知レルヤ否ヤ


47、佐藤賢了と尾崎秀実

 六月八日、芝の料亭「つかさ」において、軍務課長の佐藤賢了大佐と軍事課長の真田穣一郎大佐は、軍務局長の武藤章少将、軍務課高級課員の石井秋穂中佐、軍事課高級課員の西浦進中佐とともに「情勢の推移に伴う国防国策要綱」を策定した。要綱の主旨は次の如くである。

1、独ソ戦に対しては介入することなく形勢を観望し、戦争の推移が我が国の為に極めて有利に展開したならば武力を行使して一挙に北方問題を解決する。
2、欧州戦争に於いて枢軸陣営の勝利が確定的となるに至らば、南方要域に進出して之を我が勢力圏内におさめる。
3、米国が参戦した場合は、三国同盟条約の精神に基き態度を決するが、武力行使の次期及び方法は別に定む。

 1項の「戦争の推移が我が国の為に極めて有利に展開したならば」とは、ソ連が敗北してから国際情勢を見極めて北進する(熟柿主義)、換言すればソ連が敗北しない限り北進しないという意味である。

 十日午後、陸海軍部局長会議は、蘭印において小林一三に替わり資源獲得交渉を行っていた芳沢謙吉代表の引揚を決定すると共に、佐藤賢了ら陸軍省軍務局幹部によってまとめられた国策要綱を協議し、ドイツ軍がソ連領内に殺到した翌日の二十三日午後、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」と名題を変えて決定した。その内容は国防国策要綱にほぼ一致していたが、陸軍が南方より手を引くことを大いに恐れた海軍省軍務局長の岡敬純少将ら海軍側の主張により、より南進戦略に傾斜していた。
 二十五日この帝国国策要綱が大本営政府連絡会議に提議されるや、松岡外相は次の理由を挙げて対ソ攻撃を主張した(1)。

1、独ソ戦が始まった以上、米英はソ連を支持し、米国は参戦態勢を強化する。 
2、時間がたてばソ連の抵抗力は増し、日本は「米英ソに包囲される」ことになる。
3、ソ連をたたきドイツに勝たせておいて南方に進出すれば、米英を押さえ得るだろうが、先に南方に出れば、米英との衝突になり、同時に米国の欧州参戦を招いてドイツは不利になる。その結果は、ソ連は生き延び、ドイツと日本はともに敗北しかねない。

 独ソ戦の勃発が松岡外相を覚醒させたのか、松岡の主張は卓見である。だが松岡の対ソ即時開戦論は受け容れられず、二十八日、大本営政府連絡会議は、大本営陸海軍部案に松岡外相の外交に関する意見を加え、要綱案に対ソ武力行使の条件として規定されていた「独ソ戦争の推移が我が国に極めて有利に進展せば」の文言のうち「極めて」を削除するなど若干の修正を行い、帝国国策要綱を正式決定した。佐藤大佐はそれを聞いて衝撃を受け、ますます対ソ非戦論を唱え始め、陸軍内(特に参謀本部)でも松岡外相に同調する北進論が高まる中、陸軍大臣室に駆け込み、東條英機陸相と木村兵太郎次官を詰問した。

佐藤「いったい対ソ戦はやるつもりですか。それともやらないつもりですか。大臣のハラを承っておきたいと思います。御前会議案の『極めて』の三文字が削られた為、ずいぶん議論が起こっています。この削除によって熟柿主義が変わったのではありますまいね。この点しかと大臣のお気持ちを承りたいのです。」
木村「熟柿主義に変わりはないさ。しかし、その言葉は俗な言い方で意味も曖昧だ。御前会議の文句通り『独ソ戦の推移が帝国の為、有利に進展せば』武力を行使するんだ。大臣だって誰だって、この御決定に違反してはならないじゃないか。」
佐藤「作文の議論をしているのではありません。ハラの問題です。熟柿主義といっても人によって解釈が違います。あわて者はちょっと柿が赤くなれば、ソレ熟したといって竿をもってきて叩き落とすでしょう。木をゆさぶって落ちるのを熟柿という者もありましょう。しかし私は、前々からひとりでに落ちてきたら拾うのが熟柿主義で、竿で叩いたり、木をゆさぶったりするのではないと信じております。このハラが、大臣、次官と違うならば今はっきり言っていただきたい。そこに意見の食い違いがあっては、部内のまとめができません。」
木村「それじゃ、一発も撃たないで、シベリアがとれるときでなければ出ないと言うのか。」
佐藤「その通りですよ。シベリアなんか欲しくありません。欧露で負けたソ連軍がシベリアになだれこんできて治安が乱れるとき、治安維持のために出るだけと考えております。」
木村「それは詭弁というものだ。御前会議の決定前ならとにかく、決定された字句をそんなふうに曲解してはいけない。」

 佐藤大佐は木村次官と言い争った後、東條陸相が終始無言で聞いていることにしびれを切らし、

 「大臣、次官が北に行こうたって、私は足にしがみついてもやらせませんぞっ!」

と大喝し、大臣室を退出していった(2)。同じ頃、佐藤賢了と密接な関係を持っていた尾崎秀実もまた、日本軍の北進を阻止すべく狂奔していた(3)。朝飯会(近衛の最高政治幕僚会議)において尾崎は、

1、元来シベリアは独立して立ち得る地域ではなく、欧露によってのみ支配されるべきもので、従って日本がシベリアを領有してみても欧露に強い政権ができれば、シベリアもその政権に支配されるにいたる。

2、資源の関係からみても、日本が現在必要とする石油、ゴムの如きはシベリアにはなく、この点からすれば日本にとってはむしろ南方進出こそ意味がある。

3、現在の日本としては、ソ連の内部崩壊が到来すれば極東ソ連は武力を用いずして支配下に収め得るので、ことさら武力を用うるの必要を認めない。

と主張し、日本が北進しドイツと共にソ連を挟撃することに猛反対したのであった(4)。

 三十日、ドイツ政府がドイツ駐日大使オットーを介して我が国に南進を延期して対ソ軍事行動を発動するよう要請してきた。連絡会議はドイツに対する通告を審議したが、すると果然、松岡外相は、

 「我が輩は数年先の予言をして的中せぬことはない。南に手をつければ大事に至ることを我が輩は予言する。それを総長はないと保障できるか。なお南仏に進駐すれば石油、ゴム、錫、米等皆入手困難となる。英雄は頭を転向する、我が輩は先般南進論を述べたが、今度は北方に転向する次第である」

と述べ、南部仏印進駐を六ヶ月延期して北進すべきことを再度主張したが、大本営政府連絡会議は之を拒否し(5)、斯くして昭和十六年(一九四一)年七月二日、第五回御前会議が開かれ、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を最終決定した。

(1)【杉山メモ上】二二五~二四六頁、児島襄【天皇4】二二三~二二四頁。
(2)佐藤【大東亜戦争回顧録】一三七~一四〇頁。
(3)尾崎秀実は、八月七日、丸の内の料亭「常磐」にて佐藤賢了、後藤隆之助、矢部貞治らと外交問題を協議した(【現代史資料ゾルゲ事件2】一八四頁)。
(4)三田村【戦争と共産主義】一九一頁。
(5)【杉山メモ上】二四八~二四九頁。


48、昭和十六年七月二日御前会議

 政府側からは近衛首相と松岡外相、統帥部からは杉山・永野両総長が提案趣旨と内容の説明を行い、そのあと原嘉道枢密院議長と政府・統帥部との質疑応答があった。昭和天皇は発言されず、最後に原議長が、アメリカへの刺激を避ける為、南部仏印進駐に際しては武力不行使を求め、

 「独ソ開戦が、日本の為真に千載一遇の好機なるべきことは、皆様も異論ないことと思う。ソ連は共産主義を世界に振り撒きつつある故何時かはこれを打たねばならぬ。日本は現在支那事変遂行中である故ソ連を打つのも思うように行かぬと考えるが、機を見てソ連は打つべきものなりと思う。日ソ中立条約の為に、日本がソ連を打てば背信なりと云うものもあろうが、ソ連は背信行為の常習者である。日本がソ連を打って不信呼ばわりするものはない。私はソ連を打つの好機到来を念願して已みませぬ。今度の場合は少なくとも日本より進んで対米戦争行為を避くべきだと信じるが、ソ連に対しては出来得れば早く討つということを軍部政府に希望いたします。」

と述べ、東條陸相は「原議長と同じ考えであるが、目下帝国は支那事変遂行中である点を御承知ありたい」と応じ、会議は終了した(1)。    

 「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」は、その方針の中で、自存自衛の基礎を確立する為「南方進出の歩を進め、又情勢の推移に応じ北方問題を解決す」と述べ、その「要領二」で、「対仏印泰施策要綱」及び「南方施策促進に関する件」に拠り「南方進出の態勢を強化す」として南部仏印進駐を決め、「帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せず」と決定し、独ソ戦に関しては「要領三」で次のように決定した。

 「独ソ戦に対しては三国枢軸の精神を基調とするも、暫くこれに介入することなく、密かに対ソ武力的準備を整え、自主的に対処す。この間もとより周密なる用意を以て外交交渉を行う、独ソ戦の推移帝国のため有利に進展せば、武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す。」     

 以上は独ソ戦勃発から僅か十日後の決定事項である。近衛首相は、

 「七月二日の御前会議は、松岡外相が非常に積極論を唱え、また陸軍も満洲に兵力を集中しており、いつでも対ソ戦に乗り出すという情勢であったので、これを抑えるのが主目的であった。その結果多少代償的な意味で仏印進駐を認めた。」

と言っており(2)、近衛、尾崎、佐藤賢了ら陸軍省軍務局関係者の意志および海軍の南進戦略の一致が、七月二日の御前会議の決定となったのである。 

(1)【杉山メモ上】二五四~二六四頁。
(2)マックス・クラウゼンはソ連に「近衛は常に日ソ戦を回避せんと試みつつあり」と打電したという(【現代史資料ゾルゲ事件1】四二頁)。


49、第三次近衛内閣発足

 昭和十六年七月十六日、近衛内閣は総辞職した。これは対ソ開戦を唱える松岡外相の更迭を狙ったもので組閣の大命は再度近衛に下り、十八日に第三次近衛内閣が成立し、外相には南進を主張する海軍の豊田貞次郎大将が就任した。帝国憲法下では、天皇が国務大臣を任命し、国務各大臣がおのおの天皇を輔弼しその責に任ずるものであり、首相は他の国務大臣を罷免する権限を有せず、内閣改造を行うには、国務大臣から辞任の同意を取り付けるか、総辞職して再組閣するしかなかったからである。

 二十一日、我が国は北部仏印進駐(前年九月二十三日)に続いて、フランス(ドイツ支配下のビシー政権)に、日本軍の駐屯が一時的なものであり、日本がフランスの主権を尊重すること等を条件として、

1、仏印の共同防衛を目的とする軍事協力。
2、必要な日本陸海軍部隊の南部仏印への派遣。
3、サイゴン以下八カ所の空軍基地の使用。
4、サイゴン、カムラン湾の海軍基地としての使用。

等の要求を受諾させ(日仏共同防衛協定)、二十八日、我が軍は南部仏印に進駐した(昭和二十年三月、明号作戦を発動しフランスからベトナム、カンボジア、ラオスを独立させた)。

 南部仏印は、マレー半島(英領)、インド(英領)洋への出口であるマラッカ海峡、ボルネオ、スマトラ島(蘭領)、フィリピン(米領)を制し得る東南アジアの戦略要衝であり、日米開戦後、サイゴンから発進した我が海軍航空部隊が、戦艦プリンスオブウェールズを旗艦とするイギリス極東艦隊を撃沈し(マレー沖海戦、昭和十六年十二月十日)、山下奉文中将の率いる我が第二十五軍のマレー半島上陸作戦を成功させた事が示すように(昭和十七年二月十五日シンガポール陥落)、我が国の南部仏印進駐とは、まさに対米英開戦の準備であった。


50、ABCD包囲網

 我が国の南部仏印進駐に対して、七月二十三日、アメリカ大統領ルーズベルトは、支那問題特別補佐官のロクリン・カリーによって提唱された五百機の中国空軍を編成し、アメリカ軍の爆撃機に十一月までに支那大陸から日本本土を直接爆撃させ日本の戦争能力を事前に挫く「JB(米陸海軍統合参謀本部)355」作戦を認可し、中国軍に参加する義勇兵に偽装したアメリカ航空部隊「フライングタイガース(AVG)」をビルマ経由で支那戦線に派遣した(1)。九月十三日にはアメリカによって中華民国に提供される大量の兵器の適切な使用について蒋介石政権に助言を与えるアメリカ軍事使節団の第一陣が重慶に到着した。

 経済問題担当の大統領補佐官であったロクリン・カリーは、蒋介石の要請を受けたルーズベルトの特別代理人として一九四一年一月二十八日から三月十一日まで中華民国を訪問し、帰米後はアメリカの対中支援の責任者として、対中武器貸与計画に専念し、特に中国空軍を十月末までに再建する作業に打ち込んだ人物であるが、ルーズベルトの厚い信頼を得ていたカリーの正体はソ連のスパイであった。アメリカ共産党本部のあったニューヨークとモスクワとの間のソ連暗号解読作戦Venona資料によると、ロクリン・カリーの隠名はPageであり、カリーは、アメリカ共産党がエリザベス・ベントレーを介してアメリカ政府内に構築したスパイ網(シルバーマスターグループ、後にKGB直轄となる)に属していたのである(2)。

 続いて七月二十五日、アメリカ政府は在米日本資産凍結を声明し、二十六日、イギリスも在英日本資産凍結を発表した他、日英通商航海条約、日印通商条約、日緬(ビルマ)通商条約の廃棄を通告してきた。二十七日、ニュージーランドが対日通商関係の廃案を通告、二十八日、蘭印(オランダ)が日本の資産凍結令、日本との金融協定、日蘭石油民間協定の停止を公表した。そして八月一日、ルーズベルトは石油禁輸強化を発令、日本を対象として発動機燃料、航空機用潤滑油の輸出禁止を発令し、これ等の経済制裁によって我が国は完全に石油の供給を絶たれることになった。これが所謂ABCD対日包囲陣の完成である。

 戦後日本の通説では、アメリカの対日経済制裁は我が国の南部仏印進駐に対する報復制裁措置とされてきたが、東京裁判却下未提出弁護側資料によると、アメリカ国務省は七月二日に「米国に於ける日本資産の凍結は近き将来に予期され得る」との結論に到達していた(3)。

 奇しくも昭和十六年七月二日、日米両国政府において日本を南進に誘導する政策決定が為されていたといえよう。なぜならアメリカの対日経済制裁は近代国家の生存に必要不可欠な資源(特に石油)を欧米に依存する我が国から物理的に北進能力を奪い、陸軍内の北進論者をも南進戦略に転換させたからである。

 参謀本部作戦部長の田中新一少将は、御前会議決定中の「独ソ戦の推移帝国の為有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」を根拠にして強硬に北進を主張し、陸軍省を代表して対ソ開戦に反対する軍事課長の真田穣一郎大佐と激論を繰り返していた。

 七月四日夜、あくまで北進に反対する真田に業を煮やした田中少将は、東條陸相に直接談判し、関東軍特別演習実施に同意させ、「国策要綱」で採択された対ソ武力的準備を発動させたのである。だがアメリカの対日石油禁輸措置が発表されるや否や田中少将は、

 「もはや、北は純国防上の見地において処理されるべきであり、南は国防上の窮迫に先だち、進んで資源獲得の見地から処理しなければならない。南進政策の強行をもって不動の国策とすべきである」

と「頭を転向」し、八月九日、遂に参謀本部と陸軍省は、年内対ソ武力行使の企図を中止し、「十一月末を目標として対英米作戦準備を促進」方針を定め、海軍の意思表示を待った。田中少将を始め北進派の雄大な企図の下に行われた関特演も、動員だけは実施されたが、その作戦発動は消え失せてしまった。ここに我が国の国策は南進戦略(対米英戦)に統一されたのである。

(1)【ルーズベルト秘録下】九四~九六頁、小堀【東京裁判日本の弁明】五三八~五三九頁、吉田一彦【アメリカ義勇航空隊出撃】一〇〇~一一四頁。爆撃機はイギリスに優先供与され、結局AVGには戦闘機しか送られず、真珠湾攻撃前の日本本土爆撃は実行されなかった。AVGの初陣は、一九四一年一二月二十日昆明上空における日本軍爆撃隊に対する迎撃である。
(2)John Earl Haynes、Harvey Klehr【Venona Decoding Soviet Espionage in America】一四五~一五〇頁「Lauchlin Currie:White House Aide as Soviet Spy」、三四六、四四九頁。
(3) 小堀【東京裁判日本の弁明】五二八頁「ウィリアム・ローガン弁護人最終弁論・自衛戦論」


51、昭和十六年九月六日御前会議、明治天皇の御製

 十四日、海軍は「十月十五日迄に対米英開戦戦備を完了する」という計画を陸軍側に提示してきた。参謀本部は、九月下旬又は十月上旬に開戦決意、十一月初旬に開戦し、ソ連が対日戦を行い難い冬期十二~五月に南方要地を攻略することを構想しており、陸海軍の協議と修正が繰り返された後、九月三日、大本営政府連絡会議は新国策『帝国国策遂行要領』という重大な国策を遂に決定した。尾崎秀実が、満鉄大連本社での「新情勢の日本政治経済に及ぼす影響の調査」会議に出席する為、東京から満洲に出張した翌日である。それは次の如き内容であった(1)。

1、帝国は自存自衛を全うする為、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途として戦争準備を完整す。

2、帝国は右に併行して、米英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む。対米(英)交渉に於て、帝国の達成すべき最小限度の要求事項、並に之に関連し、帝国の約諾し得る限度は別紙の如し。

3、前号外交交渉により、十月初旬に至るも尚我が要求を貫徹する目途無き場合に於いては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す。対南方以外の施策は、既定国策に基き、之を行い、特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む。

(別紙)

 対米(英)交渉に於て、帝国の達成すべき最小限度の要求事項、並に之に関連し、帝国の約諾し得る限度。

第一、対米(英)交渉に於て、帝国の達成すべき最小限度の要求事項。

一、支那事変に関する事項

米英は帝国の支那事変処理に容喙し、又は之を妨害せざること。

(イ) 帝国の日支基本条約及日満支三国共同宣言に準拠し、事変を解決せんとする企図を妨害せざること。

(ロ) 「ビルマ」行路を閉鎖し、且蒋政権に対し、軍事的並経済的援助をなさざること。

二、帝国国防上の安全を確保すべき事項(省略)

三、帝国の所要物資獲得に関する事項(省略)

第二、帝国の約諾し得る限度。

第一に示す帝国の要求の応諾せらるるに於ては、

一、 帝国は、仏印を基地として、支那を除く其の近接地域に武力進出をなさざること。

二、 帝国は、公正なる極東平和確立後、仏領印度支那より撤兵する用意あること。

三、 帝国は、比島の中立を保障する用意あること。

 (注)(イ)三国同盟に対する帝国の態度に関し、質疑し来る場合は、三国条約に関する帝国の義務遂行は、何等変更すべきものにあらざる旨、確言するものとし、我より進んで帝国の三国条約に対する態度、及米国の欧州戦争に関する態度に付いては、論議せざるものとす。

 (ロ)ソ連に対する帝国の態度に関し、質疑し来る場合、ソ側に於て、日ソ中立条約を遵守し、且日満に対し脅威を与える等、同条約の精神に反するが如き行動無き限り、我より進んで武力行動に出づることなき旨、応酬す。

 五日、昭和天皇は、近衛首相から同案を内奏されると目を見張って不安な表情を示され、

 「之を見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける。この点に明日の会議で統帥部の両総長に質問したい」

と仰せられた。近衛は「政府は外交を主とし、その遂にまとまらぬ場合に戦争の準備を始める趣旨である」と奉答し、「統帥部総長への御質問は、御前会議では場所柄いかがかと存じますので、今すぐに御呼び出しになられては」と奉答すると、昭和天皇は「直ちに呼べ、総理も陪席せよ」と述べ、拝謁した杉山参謀総長、永野軍令部総長に、次々と鋭い御質問を下された。

天皇「本国策要領の趣旨はできるだけ外交の推進にあり。従って本文の一、二は置き換えられてよかるべきものと考うるが如何。」
両総長「その通りでございます。」
天皇「南方作戦は直ぐすむように考えるか。また予定通り行くと考えているか。」
杉山「まず南方要域攻略作戦は冬季に予定しあるをもって、その間は北の方面は大した考慮なく南方作戦に専念し得ます。北方は三月以降にならなければ大作戦はないと判断しておりますので、この間南方要域攻略作戦を終了し、来春になれば北方に対する作戦の自由を保有することができます。海軍との協同研究の結果によれば、南方要域攻略作戦すなわち緒戦は大体五ヶ月で終了し得るものと考えております。すなわち比島一ヶ月半、マレー約百日、それに蘭印攻略をいれて約五ヶ月とみております。すなわち、これらの地域の要点占領に五ヶ月、尚なし得る限りこの時日の短縮に務めたいと存じております。」
天皇「その通りいかぬこともあろう。」
杉山「さようでございます。作戦ならば予定通り行かぬこともあります。但し只今奉答の案は幾回にもわたり陸海軍協同研究の結果得た結論であります。」
天皇「支那事変の初め、陸軍大臣として閑院宮と一緒に報告し、速戦即決を主張したが、果たして如何。今に至るも事変は長く続いているではないか。考え違いか。」
杉山「一挙に事変を解決するよう申し上げ、まことに恐縮のほかありません。」
永野「じり貧論を申し述べ、時機を逸して数年の後に自滅するか、それとも今の内に国運を引き戻すか、手術を例に御説明を申し上げた。まだ七、八分の見込みがあるうちに最後の決心をしなければなりませぬ。相当の心配はありますが、この大病を癒すには大決心をもって国難排除に決意するほかはありません。将来の活路を開くための決意が必要であります。ドイツ軍のノルウェー上陸の例もありますが、思い切る時には思い切らねばならぬと存じます。」
天皇「勝つか、絶対に勝つと言えるか。」
永野「絶対とは申されません。事は単に人の力だけではなく、天の力もあり、算があればやらなければなりません。必ず勝つかと仰せられれば必ず勝つと奉答しかねますが全力を尽くして邁進するほかはございません。外交で対米妥結といっても、一年や二年限りの平和ではものになりません。少なくとも十年、二十年なればともかく、一年や二年の平和では第一に国民が失望落胆いたします。」
天皇「わかった。」
両総長「戦争を好むというのではありません。本要領案は避くべからざる場合に対処するためのみのものでございます。」
近衛「両総長の言の如く、まず第一は外交交渉にあります。」
天皇「わかった承認しよう。」

 翌日、宮中東の間において、御前会議が開かれた。出席者は近衛文麿首相、田辺治通内相、豊田貞次郎外相、東條英機陸相、及川古志郎海相、小倉正恒蔵相、鈴木貞一企画院総裁、杉山元参謀総長、塚田攻参謀次長、永野修身軍令部総長、伊藤整一軍令部次長、武藤章陸軍省軍務局長、岡敬純海軍省軍務局長、原嘉道枢密院議長、富田健治内閣書記官長であった。近衛首相は単に開会の辞を簡単に述べただけで、杉山・永野両総長が統帥部の見解を詳細に説明した。原枢密議長が質問に起ち、

 「本案は一見戦争を主として外交を従とするやに見えるが、真意はあくまで外交による打開に努め、万やむを得ない時に戦争をするものと解釈して宜しいか」

と述べると、及川海相が起って之を肯定した。するとその時である。昭和天皇は、慣例を破り突如発言され、

 「先刻原がこんこんと述べたのに両統帥部長が一言も答弁しなかったがどうか、極めて重大なことなのに統帥部長の意思表示がないのは自分は遺憾に思う」

と仰せになり、懐中から紙片を取り出されて、明治天皇の御製「四方の海」を二度詠まれ、さらに言葉を継がれて厳粛に宣された(2)。

 四方の海みな同胞と思う世に

      など波風の立ちさわぐらむ 

 「私は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せんと努めているものである、どうか。」

 昭和天皇は、内閣国務各大臣の補弼と副署に依り宣戦講和大権を行使しなければならない立憲君主(憲法第四条、第十三条、第五十五条による)として、一同に「帝国国策遂行要領」を再考し、和平努力を尽くすようにとの御自身の平和希望を示唆されたのである。満座は水を打った如く肅然とし、暫くは一言も発する者は無かった。だが帝国国策遂行要領は覆されることなく、御前会議は未曾有の緊張裡に散会した。宮中から陸相官邸に引き上げてきた東條陸相と武藤軍務局長は、待機していた陸軍省部の主な部課長に向かって、

 「聖慮は平和にあらせられるぞっ!」

 「おい、戦争なんぞは駄目だ。陛下はとてもお許しになりっこない!」

と大声で叫んだが、もはや日本国政府に残された外交交渉の猶予期間は、僅か一ヶ月間でしかなかった…。

(1)【杉山メモ上】三一二~三一三頁。
(2)【杉山メモ上】三一一頁。


52、窮地

 十九日、満洲旅行から帰京した尾崎秀実はゾルゲに対し、関東軍の動向や満鉄の輸送状況を報告した。ゾルゲは、尾崎の報告や日本政府統帥部の国策決定を分析し、十月四日、モスクワに次の報告を打電した。それは彼等の最後の諜報活動となった。

 「我々とクレッチマー、ヴェネッカー及びオットー大使の判断によれば、日本がソ連を攻撃する可能性は少なく、少なくとも、来るべき冬季の終わりまでは確実にないと思われる。これは絶対に疑いを入れない。日本が攻撃を開始するのは、ソ連の大部隊の兵力がシベリアから撤退し、或いは、シベリア内乱が起きた時であろう。日本の陸軍部内では、余りにも早急に大動員を行ったことに対する責任問題が起きている。余りにも大部隊の関東軍を維持することは、経済的、政治的に種々の困難を引き起こすからである。」

 ゾルゲ機関をはじめ世界中に張り巡らされたソ連の諜報機関からの報告を受諾し、後背の安全を確信したスターリンは、一九四一年末迄に、シベリアで関東軍と対峙する極東ソ連軍から約半数の兵力(歩兵十五個師団、騎兵三個師団、航空機千五百機、戦車千七百両)を抽出し、対ドイツ戦に投入した。この戦力転用はソ連の勝利に大いに貢献し、一九六四年にソ連共産党は、ゾルゲの最後の通信を次のように賞賛した(1)。

 「我が国の危機に際して、リヒャルト・ゾルゲと恐れを知らぬ彼の同志らは、ソ連国民に対して計り知れない貢献を再びしたのであった。彼等は、ヒトラーが赤軍に対処し得ると確信した日本の軍国主義者が太平洋で戦争を始めるべく兵力を集結中である、と報告してきた。関東軍の存在がソ連の大兵力を東部国境に留めることをまだ必要としていたが、この情報によって、極東からソ連の師団を移動させることが可能になった。」 

 ソ連がゾルゲ機関の諜報活動によって対独抗戦力を増し窮地を脱しつつあった時、彼等の謀略活動によって支那事変の解決を妨害され対米英戦へ誘導された我が国は、逆に窮地に追い込まれ、和戦の決断を迫られていた。

(1)プランゲ【ゾルゲ東京を狙え下】一五一頁。


53、日米首脳会談

 我が軍の南部仏印進駐直後の八月四日、近衛首相は陸海軍大臣を招き、

 「このままずるずると、戦争に這入ると云う事は、世界の平和特に日米の国交を最も御軫念遊ばさるる陛下に対し奉ても又国民に対しても為政者として申訳ない事と考える。つくす丈の事はつくして遂に戦争となると云うならば、之は致し方なし。その場合には吾々も腹も据り国民の覚悟もきまる。

 此の際は全く危機一髪の時であって、野村大使等を通しての交渉では時機を失するおそれあり、むしろ総理自ら大統領と会見の上、帝国の真意を率直大胆に、披瀝すべし。

 其の際、彼にして了解せざれば、席を蹴て帰るの覚悟を要するは固よりなり。従て対米戦の覚悟をきめてかかる事柄で、大統領と直接会て遂に了解を得られなかったと云う事であれば、国民に対しても、真に日米戦止むを得ずとの覚悟を促す事になり、又一般世界に対しても侵略を事とするのではなくして太平洋平和維持の為には此れ丈け誠意を披瀝したのである事がはっきりして、世界輿論の悪化を幾分にても緩和し得る利益あり」

と語り、我が国政府は「日米諒解案」に含まれていた日米首脳会談の実現をアメリカ政府に申し込んでいた。だが蒋介石政権を支持し日本と対立する米英がドイツを打倒する為、対ソ支援を強め、ABCD対日包囲網がソ連を加えたABCDS包囲網に発展する様相を呈し、我が国の国力が低下していく中、統帥部は対米交渉が遅々として進展しない情勢に焦燥し、九月二十五日の連絡会議にて、杉山参謀総長を代表として政府に対し、

 「帝国国策遂行要領に伴う帝国の対米開戦決意の時機に関しては作戦上の要請を重視すべく、之が為日本外交交渉に一日も速かに其の成否を判定し、遅くも十月十五日迄に政戦の転機を決するを要す」

と通告した。だが二十七日、近衛首相は病気を理由に鎌倉山の別荘に引籠もってしまい、首相に代わって豊田外相がアメリカ駐日大使グルーを招き、

 「当方としては総理一行を輸送すべき船舶は勿論、陸海軍大将を含む諸随員もそれぞれ内定し、何時にても出発しうる態勢にあり」

と改めて首脳会談の実現を申し込んだ。だが十月二日、ハル国務長官は野村大使に、

 「米国政府としては予め諒解が成立しなければ、両国首脳の会見は危険であると思考する」

と従来の主張を繰り返し、長文の覚書を手渡した。それは、日本は支那に「不確定期間駐兵」を目論んでいると非難し、日本にハル四原則(1、あらゆる国家の領土保全と主権尊重、2、内政不干渉、3、機会均等、4、平和的手段によらぬ限り太平洋の現状不変更)の承認を求め、日本軍の支那仏印からの撤退、三国同盟の死文化を迫る内容であった。

 近衛文麿が五十歳の誕生日を迎えた十月十二日、近衛首相は、東條、及川、豊田、鈴木を「荻外荘」に招いて五相会議を開いた。午後二時から始まったこの会議は、開戦期日が迫る中で外交交渉の見透しを研究すると共に和戦の方向を論議する重大な会合であった。


54、近衛文麿・東條英機会談

 会議ではまず近衛が、外交的打開の途無きに非ず一層これに努めたいという意見を述べた(1)。

豊田「日米交渉妥結の余地あり、それは駐兵問題に多少のあやをつけると見込みがあると思う、北仏の兵力増加は妥結の妨害をしている、これを止めれば妥結の余地はある。」
近衛「九月六日の日本側提案と九月二十日の提案との間には相当の開きがある、米側が誤解しているにあらずやと思わる、これを検討すれば妥結の道はある」
東條「判断は妥結の見込みなしと思う、凡そ交渉は互譲の精神がなければ成立するものでない、日本は今日まで譲歩に譲歩し、四原則も主義としてはこれを認めたり、しかるに米の現在の態度は自ら妥協する意志なし、先般の回答は九月六日九月二十日の我が方の書類に対する回答と存ず。」
及川「外交で進むか戦争の手段によるかの岐路に立つ、期日は切迫して居る、その決は総理が判断してなすべきものなり、もし外交でやり戦争をやめるならば、それでもよろし」
東條「問題はそう簡単にはゆかない、現に陸軍は兵を動かしつつあり、御前会議決定により兵を動かしつつあるものにして今の外交は普通の外交と違う、やって見ると言う外交では困る。
 日本の条件の線にそって統帥部の要望する期日内に解決する確信がもてるなれば、戦争準備を打ち切り外交をやるもよろしい、その確信はあやふやな事が基礎ではいかぬ、この様なことでこの大問題は決せられぬ、日本では統帥は国務の圏外に在る、総理が決心しても統帥部との意見が合わなければ不可なり、政府統帥部の意見が合い御裁断を要す。
 総理が決心しても陸軍大臣としては之に盲従は出来ない、我輩が納得する確信でなければならない、納得できる確信があるなら戦争準備は止める、確信をもたなければ総理が決断をしても同意はできぬ、現に作戦準備をやって居るのでこれをやめて外交だけやることは大問題だ、少なくとも陸軍としては大問題だ、充分なる確信なければ困る。
 外相に確信がありますか、北部仏印のことは瑣末の問題だ、外交が延びるからあのような問題が起きるのだ、陸軍がやるから外交困るといわれるのは迷惑だ、軍のやっとる基準は御前会議決定によっておるのだ。」
豊田「遠慮ない話を許されるなれば、御前会議御決定は軽率だった、前々日に書類をもらってやった。」
東條「そんなことは困る、重大の責任でやったのだ。」
近衛「戦争は一年二年の見込みはあるが三、四年となると自信はない、不安がある。」
東條「そんな問題はこの前の御前会議の時に決まっている。七月二日の御決定に南方に地歩を進め北方は解決すと練りにねって決められたのだ。各角度から責任者が研究し、その責任の上に立ったものでそんな無責任なものではない。」
近衛「今どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ず、戦争に私は自信ない、自信ある人にやって貰わねばならぬ。」
東條「これは意外だ、戦争に自信がないとは何ですか、それは国策遂行要領を決定する時に論すべき問題でしょう、外交に見透しありと言う態度ではいけない、確信がなければいけない。」

 結局、荻外荘での五相会議はまとまらず、今日和戦の決を下すことは時期尚早として散会した。十三日夜、近衛首相は、豊田外相から、全面撤兵を約すれば妥結の見込みあり、これを拒めば絶望という外交予想を聴取し、翌朝、首相官邸において閣議前に東條陸相と会談した。

近衛「この際、一時屈して撤兵の形式を彼(米国)に与え、日米戦争を回避するとともに、支那事変に結末をつけることが、国力、国民思想の上から考えて必要だ。」
東條「駐兵以外にも問題は残っている。駐兵が中心となるというのは当方の想像だ。譲るも成功するかどうか疑問だ。」
近衛「戦争は心配だ。」
東條「首相は国内の弱点を知り過ぎて悲観に陥っているが、米国にも弱点はあるのだ。人間、時には清水の舞台から飛び降りる勇気を必要とする。」

 近衛は「そうなれば見解の相違で致し方ない。閣議で今の説を述べてもらいたい」と言い捨てると、東條は「見解の相違というよりも性格の相違です」と言い返し、二人の会談は終了した。その後の閣議において、東條陸相が「外交交渉が必ず成功する確信があるなら戦争準備は止めてもよい」と言えば、豊田外相は「交渉の中心は支那仏印の撤兵問題だ」と答え、全面撤兵による外交妥結工作を主張したところ、東條陸相は語気を強めて次のように反論した(1)。

 「撤兵問題は心臓だ、撤兵を何と考えるか、陸軍としては之を重大視して居るものだ、米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満洲国をも危うくする、更に朝鮮統治をも危うくなる。帝国は聖戦目的に鑑み非併合、無賠償としておる。支那事変は数十万の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷兵、数百万の軍隊と一億国民の戦場及び内地で辛苦をつまして居り、尚数百億の国幣を費やしておるものであり、普通世界列国なれば領土割譲の要求をやるのは寧ろ当然なのである。

 然るに帝国は寛容な態度をもって臨んで居るのである。駐兵により事変の成果を結果づけることは当然であって世界に対し何等遠慮する必要はない。巧妙なる米の圧迫に服する必要はないのである。北支蒙疆に不動の態勢をとることを遠慮せば如何なりますか、満洲建設の基礎は如何なりますか、将来子孫に対し責任の禍根を貽すこととなり、これを回復する為に又々戦争となるのであるります。

 満洲事変前の小日本に還元するなら又何をか言わんやであります。撤兵は退却です。帝国は駐兵を明瞭にする必要があります。所要の駐兵をして其の他の不要なものは時が来れば撤兵するのは当然です。撤兵を看板とせば軍は志気を失う、士気を失った軍は無いも等しいのです。撤兵の問題で少策を弄し彼に逐次我が主張を変更せしめられることは不可であります。

 駐兵は心臓である。主張すべきは主張すべきで譲歩譲歩譲歩を加え其の上にこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか、これまで譲りそれが外交とは何か、降伏です。益々彼をして図に乗らせるので何処までゆくか、わからぬ。

 青史の上に汚点を貽すこととなる、国策の大切な処は譲らず、たとえ他は譲っても之は譲れぬ。この様なやり方でなく三国同盟を堅めて彼を衝くも宜し。作戦準備で脅威するならこれもよし、独ソの和平を米は気にしているからこの弱点をつきこれを成功せしめて米の軍備拡張を脅威して我が主張を通すもよろしい。

 彼の弱点をつき、これをもって外交上自信ありと言わるのなればわかるが、譲ることのみをもって自信ありと言われても私はこれを承け容るることは出来ぬ。」

 斯くして閣議が一致しないまま解散した後、武藤陸軍省軍務局長は富田書記官長に、

 「海軍は和戦について『総理一任』と言っているが、総理の裁断だけでは陸軍部内は抑えられない。しかし海軍が『戦争を欲せず』と公式に陸軍に言ってくれるならば陸軍としては部内を抑え易い。何とか海軍の方から『戦争を欲せず』と言ってくれるように仕向けて貰えまいか」

と依頼してきたので、書記官長が岡海軍省軍務局長に話したところ、岡は、

 「海軍としては戦争を欲しないということは正式には言えない。『首相の裁断に一任』というのが精一杯だ」

と答えた。

 十月六日の陸海軍部局長会議で福留繁軍令部第一部長が「南方戦争に自信なし、船舶の損耗につき戦争第一年に一四〇万撃沈せられ自信なし」と陸軍側に告白しており(機密戦争日誌昭和十六年十月六日の条)、海軍側さえ「戦争欲せず」と言明すれば、陸軍が如何なる強硬論を唱えようとも、我が国の対米英開戦は不可能になる為、東條陸相は対米英開戦の準備を放棄する決意を固めていた。しかし海軍が「対米英戦欲せず」と公式に言明すれば、彼等がただ組織維持の為に米英を仮想敵国として膨大な国力を消耗してきたことが朝野(政府と民間)に知れ渡る為、及川海相と岡軍務局長は「和戦総理一任」などという無責任な言辞を弄したのである。

(1)【杉山メモ上】三四五~三五〇頁。


55、近衛内閣総辞職

 午後六時、近衛首相は平然とした表情で元鉄道大臣の内田信也邸を訪問し、

 「いやー、もうあなたに入閣をお願いする話は必要がなくなりました。内閣はもうお終いですよ」

と述べた。「それはまたどうしたことか」と内田が反問すると、近衛は、

 「もう一度閣議を開くことにはなっているが、東條陸相から今日、日米交渉打ち切りの発言があった。それで及川海相に、海軍は戦争に対する自信があるかと尋ねたんだが、首相一任という答弁だ。いや海軍として戦争可能か不可能かを聞いているので、政治上の裁決を問うているのではない、と重ねて意見を叩いたんだが、しかし依然として曖昧を極め、首相一任を繰り返すだけだ。海軍さえ戦争不可能を明言してくれれば、話は早いのだが、海軍がこんな態度じゃ陸軍を抑えることも出来ません。いずれ次の閣議でまた蒸し返すことになろうが、所詮まとまる見込みはない。そんなわけで今日はただ御馳走になるだけです」

と寂しく微笑み、内田と食事を共にした後、ふと筆をとり色紙に「夢」と大書し、

 「二千六百年、永い夢でした」

と呟いた(1)。近衛と内田が談話を交わしていると十時頃、東條陸相が鈴木貞一企画院総裁を通じて近衛に、

 「海軍大臣は戦争を欲しないようであるが、それなら何故海軍大臣は自分にそれをはっきり云ってくれないのか。海軍大臣からはっきり話があれば自分としても考えなければならない。然るに海軍大臣は全責任を総理に負わせているが、これはまことに遺憾である。海軍の肚が決まらなければ、九月六日御前会議は根本的に覆るのだから、この際総辞職してもう一度案を練り直す以外にない」 

と述べ、更に「陸軍を抑える力のある者は臣下には居ないので、後継内閣首班は宮様しかない」と述べ、後継首班として、かねて非戦論者であり、熱心に日米和平交渉の成立を期待して来られた東久邇宮殿下を奏薦することに協力して欲しいと要請してきた。
 すると近衛首相は、海軍首脳より和戦の決を一任されていたにも拘わらず、十六日、昭和天皇に「臣文麿」に始まる次の辞表を捧呈し、第一次近衛内閣の終末と同様の厚顔無恥この上なき総辞職を敢行したのである。

 「曩に図らずも三度大命を辱うして内閣を組織するや、現下の国際政局に処して国家将来の伸長を期せんが為には、速に米国との友好関係を調整し、依て以て支那事変の急速解決を図らざるべからずと確信し、米国政府に対し全力を挙げて屡次の交渉往復を重ね大統領に対しては親しく両者会談の機を与えられんことを要望し以て今日に及べり。

 然るに内閣最近に至り、東條陸軍大臣は、右交渉はその所望時期(概ね一九四一年十月中、下旬)までには、到底成立の望み無しと判断し、即ち本年九月六日御前会議の議を経て勅裁を仰ぎたる『帝国国策要領』中、三の『我が要求を貫徹しうる目途なき』場合と認め、今や対米開戦を用意すべき時期に到達せり、となすに至れり。  

 つらつら惟みるに、対米交渉は、籍すに時日を以てすれば、尚其の成立の望みなしと断ずべからざると共に、最も難関なりと思考せらるる撤兵問題も、名を棄て実を取るの主旨により、形式は彼(米国)に譲るの態度を採らば、今尚妥結の望みありと信ぜらるるを以て、支那事変の未だ解決せざる現在に於て、さらに前途の見透すべからざる大戦争に突入するが如きは、支那事変勃発以来、重大なる責任を痛感しつつある臣文麿の到底忍び難き所なり。因て此の際は、政府軍部協力一致其の最善を尽して、あくまで対米交渉を成立せしめ、以て一応支那事変を解決せんとするは、国力培養の点より言うも、将又民心安定の上より見るも、現下喫緊の要事にして、国運の発展を望まば寧ろ今日こそ大いに伸びんが為に善く屈し、国民をして臥薪嘗胆益々君国の為に邁進せしむるを以て、最も時宜を得たるものなりと信じ、臣は衷情を披瀝して東條陸軍大臣を説得すべく努力したり。之に対し陸軍大臣は、総理大臣の苦心と衷情とは深く諒とする所なるも、撤兵は軍の士気維持の上より到底同意し難く、又一度米国に屈する時、彼は益々驕横の措置に出で、殆ど停止する処を知らざるべく、仮令一応支那事変の解決を見たりとするも、日支の関係は両三年を出ずして、再び破綻するに至ることも亦予想せられ、且国内の弱点は彼我(日米)共に存するを以て、時期を失せず、此の際開戦に同意すべきことを主張して已まず、懇談四度に及びたるも遂に(東條に撤兵を)同意せしむるに至らず、是に於て臣は遂に、所信を貫徹して、補弼の重責を完うすること能わざるに至れり、是偏へに臣が菲才の致す所にして、洵に恐懼の至りに堪えず、仰ぎ願くば聖慮を垂れ給い、臣が重職を解き給わむことを。」     

(1)内田信也【風雪五十年】二八九頁。


56、任務終了

 二日後の十八日、リヒャルト・ゾルゲが特高警察外事課ソ連担当の刑事によって逮捕された。十五日、ゾルゲは部下のマックス・クラウゼンに何枚かの通信文を手渡しモスクワに発信するよう命じたが、その中には「日本における任務は終わったから帰国しようと思うが如何」との通信文があったという(1)。

 ゾルゲ事件の訊問調査書は、国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法に違反するゾルゲ機関の諜報活動に焦点を当て、「帝国主義国家相互間の戦争激発」や「東亜新秩序構想」など彼等の謀略活動について、ほんの僅かしか言及していない。だが獄中手記の中で、ゾルゲは「若い青年将校の動向がどの程度まで共産主義的即ち革命的色彩を帯びて居るかと云う事を研究することが私の義務であった」と述べている(2)。また尾崎秀実は、「私は所謂軍部嫌いではありませんでした。個人的には軍人の友人も多く、軍部の立場からはその政策の遂行が当然だと理解して居りました」と述べ(3)、また帝国大学新聞昭和十四年六月二十六日「東亜協同体論」の中で、

 「現在、協同体論者の主張は次の人々によって代表されている。満洲建国イデオロギー派ともいうべき杉原正巳氏、毛利英於菟氏らの一派がある。蝋山政道氏を中心とする昭和研究会派。三木清、三枝博音氏等の哲学者グループ、船山信一氏もしばしば注目すべき論文を発表している。山崎経済研究所に拠る山崎靖純氏は、『評論』誌によって最も活発なる協同体論の主張を続けつつある。その他学者、軍人等の中にも協同体論の支持者のあることは、少しくこれに注意しているものの容易に気付くところと思われる」

とも言っており(4)、ゾルゲ機関の任務が諜報活動だけでなく革新思想に汚染された政府および軍内部に対する浸透工作を含んでいたことを示唆している。

(1)【現代史資料ゾルゲ事件4】一七八頁。三田村【戦争と共産主義】一九一頁。
(2)【現代史資料ゾルゲ事件1】一一九頁。
(3)【現代史資料ゾルゲ事件2】三三頁。
(4)【尾崎秀実著作集5】一七二~一七三頁。



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龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民の戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究において歴史学徒が最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに修正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

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