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国民のための大東亜戦争正統抄史57~59石原莞爾と尾崎秀実

【石原莞爾と尾崎秀実】


57、不拡大早期和平論の敗北

 昭和十二年(一九三七)七月八日、廬溝橋における日中両軍衝突の報告を受けた陸軍参謀本部作戦部長の石原莞爾少将は次の理由を挙げて、支那と交戦状態に入る危険な軍事行動に猛反対した(1)。

 「日本は、今後支那と相携えてソ連に備えるという正しい認識の下に、昨年十一月の北京会談で国民政府の意向を知った。直接話し合えば即時和平解決ができる。

 もし戦争状態に入れば、長期戦となり、短期間に蒋政権が崩壊するなどという判断は誤りである。満洲事変後、蒋政府は抗日スローガンの下に鋭意新政権運動に力を用い、その兵備はドイツのゼークト参謀総長以下五十名の将校を軍事顧問として招き、ドイツ式戦力の向上に努力している。

 支那は土地広大、かつ交通状態は近代装備をもってする行動には適せず、また各地方が自給自足可能であり、持久戦に有利である。特に警戒を要するのは、ソ連の極東兵備の充実である。支那人の抗日戦意は日ソ兵備の主客転倒が最大原因である。

 それ故に今日こそ日満産業五ヶ年計画を遂行し、国防力の充実を図り、ソ満国境にソ連を圧倒するだけの兵力を集中し得るようになれば、漢民族は必ず日本を信頼してくる。それまでは隠忍自重して支那とは即時和平し、来るべき欧米特にソ連との戦争に備えるべきである。

 支那がもしも徹底抗戦を続ければ、戦線は支那全土に拡大して、全面戦争になること必至である。」

 だが廊坊事件(二十五日)に続いて広安門(二十六日)事件が勃発した。北平(北京)の居留民を保護する為に北平城内の日本兵営に向かった日本軍が中国軍の同意を得て北平外城広安門を通過し始めたところ、中国軍が突如として城門を閉鎖し、日本軍部隊を城門の内と外に分断し、日本軍に手榴弾と機関銃の猛射による不意打ち攻撃を加えてきたのである。

 広安門事件勃発の報を聞くや、病欠の参謀次長を代行する石原作戦部長は「もう内地師団を動員する外ない、遷延は一切の破滅だ」という悲痛な叫び声を上げ、

 「万一北支在留邦人二十万の保護に欠くるところあり、シベリア出兵当時の尼港の惨劇をくりかえしては、軍の面目に関する重大問題である。三個師団の動員、これが最大限だ。これで一応喰い止め、南京政府と早期和平を期すべきである」

と述べて不拡大方針の撤回と北支への援軍派遣を決定し、二十八日、支那駐屯軍司令官の香月清司中将が中華民国第二十九軍に開戦を通告、我が軍は北平を占領したものの、北平を追われた第二十九軍長の宋哲元から蜂起指令を受けた冀東自治政府保安隊が、翌日、通州に居留する邦人三百八十五人のうち幼児を含む二百二十三名を惨殺したのである(通州事件)。
 筆舌に尽くし難い余りに猟奇的な支那人の虐殺行為が我が国の世論を激昂させる渦中にあって、石原作戦部長は、無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に、

 「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」

と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶されてしまった(2)。九月末、石原莞爾少将は「今のままでは日本は四つの島だけになるだろう」という予言を残し、杉山元陸相によって関東軍参謀副長に左遷された。だが石原は早期和平と日支提携をあきらめず、昭和十三年六月、戦争計画要綱(戦争指導方針)を作成し、以下のように主張した(3)。

 「北支の軍権我に帰し進んで漢口を攻略し得たりとするも、蒋政権の覆滅は尚望み難く又、仮りに蒋政権倒壊するも全土抗日気運は断じて解消することなかるべく、辺彊尺寸の国土存する限り国民党を中心に長期に亘り我に抵抗すべきは疑を容れざる処たるべし。蓋し斯る場合に於ける漢民族の抵抗の意外に強靱なるは歴史の教うる処なり。

 従って武力の絶対を盲信し即戦即決主義に依て之を屈せしめんとするは四億の民と近代的装備を持つ支那を土民国エチオピアと同視せんとするの誤謬を犯すものたり。対支戦に於ては戦局は必ずや長期化し単に武力のみならず政治経済の綜合的持久戦となるべし。

 而して彼を徹底的に屈服せしめんとせば数十ヶ師団の兵力を数十ヶ年に亘って異境に須うるの難事を遂行し得るの自信なかるべからず。若しこの覚悟なくんば仮令一時の戦勝を得たりとするも彼は十年ならずして国力を恢復し再び事を構うるに至るべきは大戦後の独乙の先例にみるも明かなるべし。

 今日政論家徒に積極的作戦を強調し武力の優越を過信するものは支那事変が持久戦の覚悟を要請するの根本義を解せざるものと云うべく為政者兵を絶域に須いて局地の捷報に国民を悦しめんとするものはその政治的弱体の曝露を覆わんとして無名の師に国力を蕩尽せんとするものと云わざるべからず。斯の如きは独り国家百年の計を過るのみならず東洋の二大民族を駆って永遠の憎悪抗争に陥らしめ平和の招来を絶望ならしむるのみ。真に日支の提携を齎らさんとせば卅年来の対支国策に於てビスマルク的転回を敢行し恩威並び行って相侶に協力すべきなり。

 ソ連の向背は未だ遽に逆賭し難しと雖もその参戦信ずべしとせば須らく速に支那と和を講じて之に当たらざるべからず。幸に両三年彼起たずと推せば今日過剰の兵器弾薬を生産して之に備えるを姑く己め国防産業生産力自体の拡充に全力を傾注すべし。一方に対支戦局を拡大しつつ他方又対支戦備に貧弱なる生産力の過半を奪われるる如きは前後の狼虎に餌を与えて庫中空しきに到るもの、斯の如くんば国防産業の確立も十全の軍力整備も到底之を期待し得ざるものと云わざるべからざるなり。」

 石原の戦争指導方針は、支那事変の本質と、日本がこれを解決し対支和平を実現するための「処方箋」を説き明かす卓見であったが、同じ頃、尾崎秀実は、中央公論昭和十三年六月号「長期戦下の諸問題」において次のように主張していた(4)。

 「同じく東洋民族の立場から、又人道的立場から支那との提携が絶対に必要だとする主張は正しいかもれない。しかしながら現在の瞬間に於てこれを考え、これを説くことは意味をなさないのである。敵対勢力として立ち向うものの存在する限り、これを完全に打倒し了せて後、始めてかかる方式を考うべきであろう。ことは深刻な民族戦争の問題なのである。虫のいい考えは捨て去って日本の踏みこんだ大陸政策の道が頗る困難なものであることを充分認識すべきである。敵対勢力を圧伏することによって「民族感情」の問題がはたして解決するものであるかどうか、それは容易に云い難いことである。しかしともかくもあまい考えや、虫のいい考えが許さるべき余地の無いのは疑うべくもないのである。

 今後日本の進むべき道は結局勝つためにまっしぐらに進む以外はないであろう。戦に勝つ上に於いて日本が絶対に自信を持つところは、その軍事行動をすすめるということだけである。軍事行動そのものの遂行が幾多重大なる国民的負担の犠牲を要するとか、軍事行動の遂行には相当の時間を要するとか、軍事行動によってもたらされる成功には限度があるとか、種々の条件がともなうことは確かであるが、ともかくも、軍事的成果がかなりの政治的効果を生むべきことは確かであり、かつこの軍事的力量だけは絶対に支那に優越するという意味に於て結局この軍事的行動が極限まで推し進められ、これの結果が政治的効果に変ることに期待がかけられることとなるのであろう。

 中支政権の経済的地盤を培養するために山東を列ねて陸続きに北支と結ぶことが考えられているが、上海の経済的基礎が長江の水運にある点から見ても漢口への進軍が次の段取りとして具体的考慮の対象となることも考えられるのである。漢口を失うことはまた軍事的にも政治的にも支那にとって大打撃でなければなるまい。

 日本は支那側の出方に応ずべく自らまた長期抗戦の姿勢をとらざるを得ないことはまさに当然であるが、それと同時にあくまで力を集中して急速に敵対勢力を粉砕するの必要があるのである。」

 石原の戦争指導方針は、日支提携の可否、政治と武力の関係、漢口攻略の効果等に亘り、まるで石原の主張に逐一反論を加えこれを完全否定するが如き対支強硬論を唱えて大衆を煽動する尾崎を最高政治幕僚としていた近衛内閣には届かず、十二月、石原莞爾は失意のまま舞鶴要塞司令官という閑職に左遷されてしまった。

 国民が論理もしくは合理より周囲の「空気」を重んじる我が国においては、一般大衆を煽動し世論を醸成する支那問題の権威の「支那撃滅論」が、陸軍首脳に提出された関東軍参謀副長の「日支提携論」を打ち破り、結果的に国策の決定に圧倒的な影響力を及ぼしたのである。

(1)横山【秘録石原莞爾】二八七~二八八頁。
(2)【石原莞爾資料国防論策編】四四一頁。横山【秘録石原莞爾】二九三頁。
(3)【石原莞爾資料国防論策編】二二四頁。
(4)【尾崎秀実著作集2】一〇三~一一〇頁、中央公論昭和十三年六月号「長期戦下の諸問題」


58、名将の運命

 同年末、第二、三次近衛声明(東亜新秩序声明)が発表され、汪兆銘工作が具体化した後、尾崎が東亜新秩序の意義、東亜協同体論、聖戦を強調する論文を次々と発表し、支那事変の拡大長期化を正当化し煽動し続けた。
 舞鶴時代の石原莞爾の資料や日記では、昭和十四年二月、石原は、軍の政治関与に関する意見として、

 「軍は国家の触角なり。満洲事変以後に於ても国家が依然自由主義の夢より醒めざるに当たり敢然警鐘を乱打して広義国防を提唱せり。

 広義国防は天皇親裁の下に国家全体を挙げてその完璧を期すべきものにして、軍自らその全面的指導にあたるべきにあらざること勿論なるも、満洲事変以来自由主義政党が政治指導体たる機能を失い而もその後継者を欠きし為、軍は止むなく所謂政治の推進力となり国防国家体制の整備に力を用いつつあり」

と述べている。石原は、二・二六事件以後も日本が依然として自由主義政治によって支配され、驚異的な速度で進行するソ連の軍備拡張の脅威に直面しても、なお積極的建設計画を樹立する熱意を欠いた為、彼が設立した日満財政経済研究会および宮崎正義が諸国策を立案し軍を通して間接的に国策の方向を指導したことに一定の評価を下しつつも、かかる軍の政治参与の継続は、軍人間の政見の相違を生み軍の統一を破壊し、「野心家により軍内部を攪乱せらるる危険大なり」と指摘し、軍は国防上の要求を国家に明示し国策の確立に伴い機を失することなく政治の参与より退却する必要がある、と主張していたのである(1)。
 そして石原は、昭和十三年末の東亜新秩序声明により、欧米の圧迫を排し、国体の本義に基づく公正なる「東亜大同」の実現すなわち、

一、国防の共同
二、経済の一体化
三、政治の独立

を結成の基礎条件、「王道」を結成の指導原理とし、日本、満洲国、支那の三国を中核、その他の東亜地域を経済的相互依存関係の靱帯により日満支と結合した外郭として構成される「東亜連盟」の結成が国家の大方針として確定された、と断言し、この際、軍が広義国防唱導に付き任務を終了し、機を失することなく政治の参与を撤回し、大作戦における必勝の準備を完成させるという軍本来の任務に集中しなければ、軍の統一が破壊される危険が刻々増大する、と警告を発した。次いで石原は、陸軍内部に浸透しつつあった尾崎秀実ら共産主義者が盛んに提唱していた「東亜協同体論」を問題視したのである(1)。

石原日記

六月二十九日(昭和十四年) 

 輿論指導要領中「東亜協同体論につき」なる馬鹿気た一項あり。

七月六日

 町尻より返信更に手紙をかく。「東亜協同体論」問題なり。 

 昭和十四年八月三十日、板垣陸相の輔弼により京都第十六師団長に親補された石原莞爾中将は、隷下団隊長を集めて、「昭和維新の必然性を確認し、軍はその本然の任務に邁進することにより維新の先駆たるべし」と訓示し、師団に「新戦術を正確に把握し訓練方法を革新して速に最新鋭の軍隊たるべきこと」を厳命した。張鼓峰ノモンハン両事件の戦訓を検討し、さらに日露戦争の沙河会戦の戦訓を採用した石原は、火力において日本軍よりはるかに優勢なソ連軍に対抗する為の新戦術の要領は分散して行動し適時所望の地点に分散せる戦力を統合的に発揮するにあり、と判断して正式の歩兵操典に基づく戦闘訓練を中止し、兵にソ連軍の中隊長に匹敵する能力を習得させ、「戦闘間敵火の下に於ける躍進に於いては絶えず少数(各個人)が徹底的に偽装し巧みに地形を利用して水の如く流れ作業の如く前進し敵に好機を与えることなく敵陣地に接近潜入する」というソ連軍に対する滲透戦術の練成および諸兵器の改善に着手した。歩兵学校は教育総監部を通じて第十六師団に「独断に過ぎる」と抗議したが、石原は「戦術は千変万化である」と全く意に介せず、斯くして師団演習場では、将兵が姿と声とを消し去り粛然として戦野に溶け込む無音無形の異様な訓練風景が出現したのであった。

 「国家に身命を捧げる兵は神である」という信念に基づき下士官兵を心より愛し、形式主義にとらわれない石原師団長の創造性豊かな統率に触発され、新戦術の猛訓練に励む第十六師団は翌年早々に、満洲北部チチハル付近への移駐を内命された。宿縁の地満洲へ三度復帰し宿敵ソ連と対決し武人の本懐を遂げる機会を与えられた石原は感激して大いに奮い立ち、四月二十四日、師団司令部にて部下に向かい、満洲国建国の意義を力説し、現地に適した新しい戦術および生活様式の創造、子弟教育の為の学校の開設、スポーツ音楽映画芝居ラジオ放送の振興、栄養食糧の自給自足の為の開墾園芸牧畜狩猟事業の実施など万般に亘る壮大な建設計画を提示し、師団全将兵とその家族とが一体となって、東亜連盟の国防第一線たる重責を全うすると共に、建国の理想たる民族協和を実践して満洲全域に活模範を与える決意の下に計画を完遂するように、第十六師団将兵の身命に沁みる清冽な闘志を全身にみなぎらせて訓示したのであった(2)。

 およそ名将と呼ばれる古今東西の武人は、才気に溢れ、自分の見識直感哲学を根拠とする自身の判断に確固不動の自信を持つ為に、彼等の目から見れば愚鈍極まりない上司の意向や既存の法律規則秩序等を傲然と無視し、自己の信念や構想を実行に移すのである。故に名将は必ず組織の破壊者となり、上司から嫌悪され、悲劇的な末路をたどることが多い。同期の横山臣平から才幹抜群、卓見奇偉、気節豪邁、機略縦横という言葉があてはまる不世出の名将と評された石原莞爾は、「悲劇」を演ずる条件を充分すぎるほど具備した武人であった…。

 石原は率先して軍本然の任務に邁進集中しようと努力したものの、彼は一流の兵学者であると同時に、膨大な読書に裏付けられた幅広い見識、政治的難題を解決する具体的方策を生み出す優れた政治家の資質、大衆を惹きつける宗教家の魅力を有していた為に、師団長でありながら各界の支持者や大学から求められて東亜連盟運動普及の講演活動を継続し、結果として、石原とは政見を異にし東亜連盟構想を懐疑する東條英機と武藤章の一派と激しく対立し、石原自身が軍の統一を破壊してしまったのである。のみならず石原は、自己の保身など全く眼中に無きが故に国際情勢に対する曇り無き鋭敏な観察眼を備えており、我が国の軍事戦略と外交政略に対する苦言や、上官に対する直言と批判を繰り返し、支那事変を解決できぬまま三国同盟を締結し欧米を敵に回し始めた我が国の行く末を非常に憂慮し、昭和十五年十一月、陸軍中央を訪れ、東條陸相の率いる陸軍統制派の戦争指導を次のように激しく糾弾した(3)。

 「東條軍閥は石油がほしいので、南方諸島を取ろうとしている。石油のないことは始めからわかりきったことだ。何がない、かにがない。だから他国の領土に手をつける、これは泥棒ではないか。石油がなくて戦争ができないなら、支那事変は即時やめるがよろしい。ヤツらのやることは皆これだ。

 北支に手を出したヤツらは北支は豊庫だと考えていた。北支などは月経の干からびたお婆さんと同様だ。何があるものか。それ南支、それどこだ、とやたらに手をつける。そして国民に向っては、今次事変は『聖戦』だといっている。これを他民族は何と思うか。聖戦とは泥棒の戦いとしか思わない。またしきりに『皇道宣布』と声を大にして叫んでいる。これでは皇道とは侵略主義と誤解されるではないか。

 支那事変が始まって以来、日本のやっていることは大家の亡びる時とそっくりである。大家の亡びる時は、あれに手を出して失敗し、これにも手をつけて損をし、といったように自信も信念もなく、やたらに手ばかり広げ、ついに倒産してしまう。

 ヤツらは今南方に手を出そうとしているが、日本海軍には日本本土防衛計画はあるが、南方地域防衛の作戦計画はない、南だ、北だ、支那海だといって諸方面の防衛に当れば、本土はガラ空きだ。オレの言う事を聞かぬと、今に船がなくなるぞ。そして日本の都市は丸焼けになるぞ。必ず負けるぞ。」

 しかしながら、たとえ日蓮信者の石原が国難を予告するとき日蓮聖人を彷彿とさせ、石原の警告が「偉大なる予言者」という彼の称号にふさわしい神通の洞察であったとしても、石原は自己の信念を貫いて政府と陸軍中央の不拡大方針を無視し満洲の広野に戦闘を拡大した張本人である。その石原が東亜連盟とは異なる内容の東亜新秩序を構想し国防国家の建設という目標に向かって支那事変を拡大する統制派革新幕僚に対して戦争の不拡大を提唱したことは、やはり撞着を拭えず説得力を持ち得なかった。彼等を折伏できなかった石原は陸軍内で孤立し、遂に昭和十六年三月一日、陸軍内の統制秩序の回復を標榜する東條陸相によって予備役に編入されてしまった。

 そして石原自ら関東軍参謀部第四課と日系官僚と戦い、彼等に政治の実権を掌握された満洲国に(4)建国の精神と理想とを甦らせなければならないという石原の使命感が立案した第十六師団北満移駐建設計画もまた水泡に帰してしまい、石原莞爾は、張学良軍閥の打倒に協力してくれた在満三千万民衆と石原が交わした堅い約束―彼等民衆の政治能力を信頼し日中提携の見本となる民族協和王道楽土を理想とする新たな独立国家を建設すること―を果たせずに終わったのである…。

(1)【石原莞爾資料国防論策編】二七六~二七七、二八四頁。
(2)【石原莞爾資料国防論策編】四〇四~四二三頁「昭和十五年四月二十四日師団長訓示」
(3)横山【秘録石原莞爾】三五六~三五八頁。
(4)満洲国総理の張景恵は、日本人の内面指導に愚痴をこぼす満洲国役人に「日本人ほど便利な民族はいないではないか。権威さえ与えておけば、安月給で夜中までよく働く」と諫めたという。老獪不敵と形容された張総理は、日本のかいらいを装いながら、実は、巧みに日本人を操り牛馬の如く働かせ、満洲国を発展させていたのである(深田【黎明の世紀】七十四頁)。


59、対決

 石原莞爾は、対ソ戦備の拡充を主張し、日支提携と東亜連盟を唱え、支那事変聖戦論、東亜協同体論、資源獲得を目的とする南進戦略を非難した。尾崎秀実は、ソ連防衛を主任務として遂行し、支那事変の解決を妨害し我が国を南進させ、東亜協同体論者として、

 「東亜連盟論者宮崎正義氏の主張の特徴の一つは連盟の政治組織、並びに経済機構、特に後者について詳細なる案を示していることである。しかしながらこれらの諸計画は、いずれも現在における事情を基礎としてこれの発展拡充を目指したものであって、連盟構成の過程において構造的変化を齎す如き方法は準備されていないのである」

との批判を東亜連盟論に加え、「東亜協同体の理念は最もその理想主義的方面において特徴的であり、東亜新秩序の言葉の提示者である近衛公の胸中における考え方に最も近いものではなかったかと思われるのである」と述べ、近衛文麿の胸中には尾崎と同じ構想が潜んでいることを仄めかしたのである(1)。さらに尾崎は石原の東亜連盟構想に対して、

 「東亜連盟論を東亜協同体論に比較する時は、いちじるしくその匂い、感触において異なるものあるを感ぜしめる。東亜連盟論もまた直接には日支事変を契機として展開されたものではあるが、この場合は後者がこの大異変によって新たに生まれたのに対して、始めから用意されていた大陸政策の一プランが発動したという感じである。

 いずれの主張も今日未だ東亜の新秩序の内容として公認されたものでないことは明らかであって、これらの主張は東亜に生起しつつある現実状態の急テンポなる変化にともなって推移するであろう。いずれの主張が最も正しきかは東亜全局における今後の事態が最後の審判者となるであろう」

という挑戦的な見解を示し(1)、獄中では、

 「最後の頃には東亜連盟論者とも接近しました。但しこれはその未熟な理論主張に期待したのではなく、石原莞爾将軍の『世界最終戦争論』の主張に興味を感じたからでありました。即ちアメリカと日本は世界的決戦を行い日本は勝利すべきであるが、それは二、三十年先のことで、それ迄に遂行すべき手順がある。現在はたとえ踏まれても蹴られても戦争をしてはならぬ、という堅い信念でありました。私は秘かにこれに敬意を表したのでありました」(獄中手記)

と嘯いたのである(2)。
 石原莞爾が日蓮聖人の予言「前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし」とヨーロッパ戦史研究から構想し、昭和十五年三月立命館の講演において発表し世人を驚かせた「世界最終戦論」を要約して説明すれば、まず戦争の性質は二つの傾向に分かれるという。

 武力が絶対的価値を持ち敵国を迅速に屈伏させることができる場合、戦争は通常短期戦争となる。これが決戦戦争である。

 武力が様々な要因により絶対的価値を失い敵国を迅速に屈伏させることができない場合、戦争は通常長期戦争となり、長期戦を遂行する為の経済や、戦争目的を限定し戦争を終了させる為の外交、敵国の継戦能力意思を低減させる謀略といった武力以外の戦争遂行手段の価値を相対的に高める。これが持久戦争である。

 戦争の性質を持久戦争とする要因は次の三つである。

一、軍隊価値の低下

 文芸復興以来の傭兵は全く職業軍人である。生命を的とする職業は少々無理があるために、如何に訓練した軍隊でも、徹底的にその武力を運用することは困難であった。これがフランス革命まで持久戦争となっていた根本原因である。フランス革命の軍事的意義は職業軍人から国民的軍隊に帰ったことである。近代人はその愛国の至誠によってのみ、真に生命を犠牲に供し得るのである。

二、防御威力の強大

 戦争に於ける強者は常に敵を攻撃して行き、敵に決戦戦争を強制しようとするのである。ところが、そのときの戦争手段が甚だしく防御に有利な場合には、敵の防御陣地を突破することができないので、攻者の武力が敵の中枢部に達し得ず、やむなく持久戦争となる。

三、国土の広大

 攻者の威力が敵の防御線を突破し得るほど十分であっても、攻者国軍の行動半径が敵国の心臓部に及ばないときは、敵国の抗戦が継続され、自然に持久戦争となる。

 四年に亘る持久戦争となった第一次欧州大戦の後、五十年内外に、科学技術の飛躍的な大進歩なかでも原子核エネルギーによる産業大革命が起き、敵国の主要都市を一夜にして廃墟にする破壊兵器とこれを運搬する無着陸地球周回航空機が開発され、あらゆる防御手段を無力化し、戦争の性質を政治が武力に優越する持久戦争から武力が政治に優越する決戦戦争へ変貌させる。

 一方、政治史の大勢を予想すれば、国家連合の時代はヨーロッパ、ソ連、アメリカ州、東アジアの四集団から、英独仏各国の内紛によるヨーロッパの崩壊とスターリンの死によるソ連の崩壊を経て、アメリカの大統領を指導者とし西洋覇道(抑圧政治)文明を代表するアメリカ州と、日本の天皇を盟主とし東洋王道(道治政治)文明を代表する東アジア(東亜連盟)の対決に収斂される。そして両者の間で前述の決戦兵器を使用する決戦戦争が行われた後、世界は統一され、これが人類の経験する最後の戦争となる。

 なぜなら世界の一地方を根拠とする武力が、全世界の至るところに対し迅速にその威力を発揮し、抵抗するものを屈伏し得るようになれば、世界は自然に統一することになるからである。   
 斯くして国家的対立と共に戦争は消滅し、瞬間に敵国の中心地を潰滅させる大威力による戦争の極端なる惨害に直面した人類は、心から国家の対立と戦争の愚とを悟り、人類の闘争心は戦争を必要としない新文明の創造へ向かい、世界の政治的思想的統一と産業大革命が人類にもたらす物資の充足とによって、戦争に明け暮れた人類の前史が終焉し、世界恒久平和が実現するというのである(3)。

 五百旗頭真教授は、石原の最終戦争論に「戦争術の極度の発展が戦争を不可能とするという根本認識は、きわめて正確な洞察であり、近代史におけるもっとも独創的にして刺激的な史論の一つであることは疑い得ないのである」との評価を与えているが(3)、これは国際法史に対する無知から生じた誤解である。石原の根本認識は独創的とは言い難い。なぜなら第二次世界大戦の前、これに酷似する国際法思想が流行していたからである。世界最終戦論の核心部分は、航空機の出現と実戦参加を目撃した複数の国際法学者によって、一九一一年の前後から盛んに提唱されていた楽観的な空戦平和主義思想と同一である(4)。

 「空戦の結果の恐るべきを見て、遂に諸国家はかかる結果を避けんが為に、戦争自身を廃止せんとするに至るであろう。戦争を廃止する最良の方法は、結局戦争をして益々恐るべきものとすることに在るのではないか。」(ポール・フォーシーユ)

 「飛行機が我々にもたらすものは平和の将来である。その及ぼす惨害の大なるには何人も辟易して、これに敢えて刃向かおうとする程の人間離れをした無謀な国家はなくなるであろう。」(シャルル・リシエ)

 我が国においても同様の意見が当時の学者によって提唱された。末広重雄博士が京都法学会雑誌に掲載した「飛空機関と将来の戦争」と題する論説は、明治四十四年(一九一一)年すなわちイタリア・トルコ戦争開始の数ヶ月前に書かれたものであるが、その爆撃に関する法理論は、この時代のものとしては極めて進歩的であり、軍事目標主義、予告不要主義を採る点において、第一次世界大戦後の空戦法学説とその趣旨を等しくする。しかしこの論説の最後も、上記に紹介した学者と同一傾向の楽観説によって結ばれているのである。

 「空中戦闘力すなわち飛行機関の使用により、戦争は益々破壊的となり非人道的となるべし。然れども其の甚だしきに伴いて国家間の紛議を最後の手段に訴うることを慎むこと一層切なるべく、たとえ一旦やむを得ず干戈に訴うるも、戦争の災害の及ぶ所大なるだけ戦敗国人心の動揺甚だしく、戦争は将来益々短期となり比較的少なき費用と人命とを失うて平和を回復することを得べく、戦争の非人道的となるは反って人道的となる所以なり。軍事上飛行機関の使用は結局人類社会の為に喜ぶべし。」(末広重雄)

 これらの学者の希望的観測は、第一次欧州大戦の経験によって破られたにもかかわらず、大戦後においても、航空機の発達によって人類にもたらされるであろう将来戦の惨禍が、世人によって正しく認識されるならば、戦争は廃止され得ると信じる人は跡を絶たたなかったのである(4)。

 だが石原莞爾は、東亜諸民族の全能力を綜合運用して対米最終戦争に必勝の態勢を整える「昭和維新」の断行を力説しながらも、一九四一年時点での日米開戦には猛反対した。なぜなら我が国は開戦劈頭に西太平洋の制海権を掌握すれば、アメリカ本土からの補給を喪失したフィリピンを容易に占領し得るが、広大なアメリカ本土の東海岸にあるアメリカの政治経済の心臓部を攻撃破壊することはできず、必然的に持久戦に陥り国力の消耗を余儀なくされる。そしてアメリカ本土の巨大な人的物的資源および経済力の支援を受けるアメリカ軍が、日本の国力の消耗に伴い弱体化する日本軍に反撃し日本本土周辺の島嶼群を占領すれば、日本の本土は狭い為に、日本の政治経済の心臓部はアメリカ軍の作戦半径から逃れられず、空襲を受けて徹底的に破壊され、日本は継戦能力を喪失しアメリカに屈服せざるを得ない。
 
 つまり空軍の大発達とくに決戦兵器が実現し、日本軍が容易にワシントンやニューヨークを空襲し得る兵器を保有しない限り、日米戦において、アメリカは自国の滅亡を危惧することなく日本に決戦戦争を強制し得るが、逆に日本は重要資源と戦略縦深を欠く経済小国でありながら国家の存亡を賭け国家の総力を挙げて持久戦争を戦わねばならず、我が国は自国の地理条件によって極めて困難な戦争指導の遂行を宿命づけられていたからである。

 石原の「今に船がなくなるぞ、日本の都市は丸焼けになるぞ、必ず負けるぞ」という予言と「現在はたとえ踏まれても蹴られても戦争をしてはならぬ」という固い信念は、世界最終戦論から導き出された合理的な結論であり、石原莞爾は理想主義者であると同時に日米間に厳然として存在する国防地理条件の非対称性を直視する現実主義者だったのである。

 石原と尾崎は、まさに不倶戴天の仇敵関係にあり、満洲事変以降の我が国の戦争は、日本史上屈指の世界構想、哲学、洞察力を備えていた両天才の対決であったといっても過言ではない。そしてこれを象徴するように、歴史の神は、日米開戦から遡ること二ヶ月前の一夜、この二人を直接対決の舞台へと導いたのであった。

 尾崎秀実に情報を提供した朝日新聞社政治経済部長の田中慎次郎が、昭和十六年十月八日、赤煉瓦の三菱丸の内何号館かにあった後藤隆之助事務所で夕方六時に開かれた「石原莞爾中将の話をきく会」に、後藤から案内があって出席すると、偶然に尾崎も居合わせたのであった。出席者は十四、五名であった。

 出席者一同は、日米関係の破局を避け、米国の仲介によって、行き詰まった支那事変を終結し、太平洋に平和をもたらすことを狙いとする日米交渉が実を結ぶとは誰も確信しておらず、しかも日本は交渉を長期化させることはできず、日本の石油保有量が戦争遂行を不可能とする期限までに交渉がまとまらねば、対米開戦を免れ難いことを推知していた。会合が重苦しい空気に支配される中、この事態を憂慮し、陸軍首脳にドイツの実力を過信する危険性を訴えて対米英開戦を阻止する為に上京していた石原莞爾は、「自分は既に予備役に編入されている身であり、軍の中枢部に何の関係も持たぬから具体的な話はできないが、私見を述べる」と前置きして、

 「日米開戦となれば、日本は必然的に南方に進出して、南方資源に頼らねばならぬが、このように長い補給線を、長期にわたって維持することは困難であり、輸送船舶は逐次撃沈されて、日本の資源は枯渇する。従って勝敗のおもむく所は、おのずから明らかである」

と結論づけ、我が国の南進戦略には勝算がないことを説明し、たとえ屈辱的であっても一切戦争は不可であると主張した。すると尾崎は「いや、日本はビルマ・マレー作戦を断行すべきだ」と反論し、石原は激怒して「何を根拠にそんな馬鹿なことを言うかっ!」と大喝を浴びせたのであった(5)。

 日米開戦時、我が国は約六百五十万トンの船舶を保有し、敗戦までに約三百五十万トンを建造したが、我が帝国海軍は海上護衛戦の重要性を全く理解せず、海上輸送路護衛戦力を殆ど保有しておらず、開戦後の昭和十七年四月十日に陸軍の要請を受けて漸く第一、第二海上護衛艦隊(旧式駆逐艦十隻、武装徴用民間船九隻、水雷艇二隻)を創設し、翌年の十一月十五日に海上護衛総司令部を発足させた。しかし我が国の生命線である海上輸送路の護衛に貧弱な戦力しか割かなかった帝国海軍がアメリカ軍の海上交通破壊作戦を阻止できるはずもなく、我が国は約八百四十万トンの船舶を連合軍によって撃沈され、国力を消失した。

 石原莞爾は、士官学校時代から、日露戦争において東郷平八郎大将を補佐した天才参謀の秋山真之と並び称される海軍の国防論の大家、佐藤鉄太郎(中将、海軍大学校長)に私淑し、海軍戦略にも精通しており、だからこそ石原は、正確に日本の敗北原因を予想し、また尾崎秀実の強硬論に潜んでいた、我が国を敗戦へ導こうとする尾崎の意図を直感的に察知して激怒したのであろう…。

 「石原莞爾中将の話をきく会」では、石原が必ず質問者にその主張の根拠を求めたために議論が成り立たず、きく会はすぐに解散となった。散会後、田中慎次郎は尾崎秀実と日比谷交差点まで歩き、近くの喫茶店で紅茶を飲みながらしばらく雑談をして別れた。田中によれば、石原と対面した尾崎は少し疲れているようで、いつもとは違い雑談に活気がなかったという(5)。
 謀略の天才として政府軍部内に暗躍し或いは大衆を煽動し、任務を遂行してきたマルクス・レーニン教徒も、戦争の天才として戦局を見透す仏法者の慧眼と大喝に、悪魔と妥協した邪悪なる内心を射抜かれ、さすがに魔力の減衰を余儀なくされたのかも知れない…。

 この夜から一週間後の十五日、尾崎は検挙され、翌日、近衛内閣は総辞職したのであった。

(1)【尾崎秀実著作集2】三五〇~三五二頁、東亜問題昭和十四年四月創刊号「東亜新秩序論の現在及び将来―東亜協同体論を中心に」
(2)【現代史資料ゾルゲ事件2】三十三頁。
(3)石原莞爾【最終戦争論戦争史大観】参照。
(4)田岡良一【空襲と国際法】三十三~三十五頁。
(5)【尾崎秀実著作集2付録月報】七頁「開戦前の一夜」、矢部貞治日記昭和十六年十月八日の条。酒井三郎【昭和研究会】二三三~二三四頁、倉前盛通【悪の論理】六十八~七十一頁。
 倉前氏によれば、百年戦争論、東亜協同体などを軍部に吹き込んだ者は、尾崎秀実らにつながる仮装マルキストの論客が大半であったという。



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