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東京書籍のウソを暴く鈴木安蔵-明治の自由民権派を代表する交詢社系の憲法私案

 東京書籍中学校教科書(平成9~12年度版、採択率41.1%)に掲載されたコラム「新憲法の誕生」は次のように述べる。

 「GHQが政府に憲法の改正を命じると、各政党や民間でも多くの憲法草案がつくられました。そのうち、憲法研究会がつくった草案は、国民主権や基本的人権の尊重の考え方にもとづく画期的なものでした。この会には、憲法学者や自由民権運動の研究者がいて、一八八〇年代、大日本帝国憲法がつくられる前に民間でつくられた、さまざまな憲法草案を参考にし、その精神が受け継がれたからです。そしてその草案はGHQに提出されました。

 政府の憲法改正案は、大日本帝国憲法の字句修正にすぎなかったため、GHQは、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重を三つの柱とする案を示しました。それは、形のうえでは日本政府に押し付けられたといえますが、内容の点では、明治時代の自由民権運動以来、国民が望んでいたものがようやく実現したといえるものでした。事実、日本国憲法制定後、国民の圧倒的多数はそれを支持してきました」


 我が国の左翼勢力が称揚する憲法研究会の中心人物にして自由民権運動の研究者であった鈴木安蔵は、「一八八〇年代、大日本帝国憲法がつくられる前に民間でつくられた、さまざまな憲法草案」のうち最も代表的な憲法草案を「憲法制定とロエスレル」(鈴木安蔵著/東洋経済新報社/1942年発行、99~135ページ)に掲載している。鈴木はそれについて次のように述べている。


明治十四年政変当時における民間の支配的憲法論-憲法草案

 我が憲法制定の根本方針は、(明治)十四年政変を機とせる岩倉具視の憲法意見提出によって決定されたのである。岩倉の憲法論の史的意義を理解するには、当時の我が国を支配せる憲法制定・国会開設論、憲法私案の性質を明らかにせねばならぬ。

 明治十三年から十四年にかけて、自由民権運動は全国を風靡し、全国到るところに国会開設請願運動が展開され、立憲政体樹立を要望する大小各種の政治結社が簇生(註、そくせい、簇の意味は「むらがる」)した。

 それらの運動、諸結社の主張するところはそれぞれ異同もあるが、現在の有司専制を廃して立憲政体を樹立する点で軌を同じうした。而してその最も代表的なる憲法意見は立志社ならびに同系の憲法論と交詢社ならびに同系のそれとである。特に交詢社的主張は最も広く普及し共鳴されていたように思われる(中略)。

 しからば交詢社系の憲法論は如何なるものであったか。今その典型的資料として「郵便報知新聞」紙上に明治十四年五月二十日以降六月四日に亙って掲載されし「私考憲法草案」を挙げ得る。代表的憲法草案としては交詢社の「私擬憲法案」を挙ぐべきであるが、この「私考憲法草案」は交詢社案と以下見るごとく多少表現の相違はあるが、その根本趣旨は同一であり、加うるに交詢社案になき条文註解があるので研究に便であるから、これを主として参照しよう。その主要箇条ならびに註解を見れば、略々この派の意見を知り得るだろう。


 交詢社は明治十二年九月二日、福沢諭吉、小幡篤次郎、小泉信吉、阿部泰蔵、江木高遠、荘田平五郎、矢野文雄、中上川彦次郎、藤田茂吉、箕浦勝人、九鬼隆一、門野幾之進、馬場辰猪その他三十一人が会合して設立したもので、彼らは慶応義塾の関係者である。「私擬憲法案」は「交詢雑誌」第四十五号(明治十四年四月二十五日)に発表された。郵便報知新聞の「私考憲法草案」の執筆者は藤田茂吉、箕浦勝人らと推定される。

 交詢社の「私擬憲法案」および郵便報知新聞の「私考憲法草案」の模範はイギリス憲法であるが、両案とも帝国憲法に似ている。とくに天皇の地位と権限に関する条項は帝国憲法に酷似している。いずれも「帝室は直接に万機に当たらずして万機を統べ給う者なり」という福沢諭吉の日本皇室論と同一であり(詳細はこちら)、「主権在民」を掲げていないのである。また皇位継承は古来よりの慣例-不文の大典に拠り、敢えてこれを憲法に掲げない趣旨を述べる「私考憲法草案」第一条註解は、伊藤博文の憲法義解第二条解説とほぼ同じである。

 両憲法案を読み終えた時の所長の感想は、「伊藤博文は交詢社系憲法試案を剽窃して帝国憲法原案を作ったのではないか」というものであった。

 よくよく考えてみれば、帝国憲法の模範がプロイセン邦憲法であるとの俗説が正しくとも、プロイセン邦憲法の模範はベルギー憲法であり、ベルギー憲法の源流はイギリス憲法である。そしてベルギー憲法はプロイセン邦憲法と同じく帝国憲法原案起草の参考資料となっていたから、帝国憲法がイギリス直系の交詢社憲法案に似るのは当然のことであった。

 明治13年から14年にかけて日本全国を風靡した自由民権運動を代表する交詢社系憲法案は帝国憲法によく似ており、「帝室は直接に万機に当たらずして万機を統べ給う者なり」という思想を成文化し、主権在民を規定していない以上、自由民権運動の憲法思想を受け継いだ憲法は大日本帝国憲法である。マッカーサー占領軍憲法(日本国憲法)は帝国憲法違反であるばかりか、明治の自由民権運動の憲法思想からも懸け離れているのである。

 従って日本国憲法が「内容の点では、明治時代の自由民権運動以来、国民が望んでいたものがようやく実現したといえるものでした」という東京書籍中学校教科書(平成9~12年度版、採択率41.1%)の記述は真っ赤なウソである。我が国の公教育は無数の生徒の脳裏にウソとデマを刻み込み、亡国のマッカーサー占領軍憲法を支持する有権者を生産しているのである。

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戦後日本の左翼痴識人は無限のルーピーズ-橋下徹に対する山口二郎の迷言

 民主党のブレーン北大教授の山口二郎(1958年7月13日生まれ東京大学法学部卒業)が以下のように呟いて火だるまになった。

「橋下を相手にテレビでしゃべるのは難儀なことでした。大学についてはこれから動きがあると思います。佐藤優さんが橋下の本質はマッカーシズムだと看破していました。橋下現象自体が長続きするとは思いませんが、彼得意の民意の絶対化、教育における顧客主義は続くかも。」

 1995年アメリカ議会が公開したヴェノナ作戦の機密文書は、マッカーシズム(第二次世界大戦直後にアメリカで起きた赤狩り)が正しかったことを証明したのだから、山口二郎の呟きは、橋下が正しくて、橋下をハシズムと誹謗してきた山口自身がマッカーシズムの対象にされるべき売国奴であると認めたに等しい。

 宮崎県の河野俊嗣知事(1964年9月8日生まれ東京大学法学部卒業)は1月17日の定例記者会見で、「大阪都」構想を掲げる橋下徹大阪市長の動向に注目が集まる政治情勢について「国政に閉塞感がある中で、分かりやすく発信力がある勢力に周囲が乗っかり、全体として危ない方向に行かないか危惧している」と批判した。

 河野知事は、過去にドイツでナチスが選挙を通じて権力を掌握した例を挙げ、「ドイツの独裁は、民主主義の過程を経てそうなった。難しい課題ばかりあるが、政権与党には辛抱強く地道な議論を積み重ねることを期待したい」と述べた。

 橋下徹の政策内容や政治手法には毀誉褒貶があって当然である。しかし河野俊嗣が橋下徹をナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)になぞらえて批判したのは、仙谷由人(1946年1月15日生まれ東大法学部中退)が民主党の事業仕分けを中国共産党の文化大革命(20世紀最大級の虐殺事件)になぞらえて自画自賛したことと同じくらい滑稽である。

 どうみても日本のナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は、思想的にも人脈的にも民主党、社民党、共産党、そして橋下徹と戦っている日教組だからである

 かの朝日新聞社出身のソ連スパイ尾崎秀実は、大正11年(1922年)に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部(現東京大学)に入学し大正14年(1925年)に卒業した後、東大大学院に進学し、一年間在籍し、そこで、大森義太郎が指導する唯物論研究会に参加し、共産主義の研究を行い、狂信的な共産主義者になった

 東大法学部は、おそらく第一次世界大戦後ぐらいから、記憶力に優れる「日本の神童」たちを吸引し、学生に反日左翼的な思想を吹き込み、彼らを立派な売国紳士に育て上げては、政界、官界、法曹界、報道界に送り込む工作機関になっているのだろう。

 そして宮澤俊義、芦部信喜、横田喜三郎らに牛耳られた戦後の東大法学部は、昭和38年に死んだ真っ赤なウソだらけのゾンビ憲法学(詳細は正統憲法復元改正への道標)を学生に刷り込む違憲有効界の魑魅魍魎の楽園になってしまっている。

 東京大学に必要な改革とは秋入学制の導入ではなく、次から次へ有害な反日分子を垂れ流す東大法学部の解体である

<現在の日本政府は頼りにならない。我々一般国民が文部省と日教組と反日マスコミから日本の子供を守るしかない!>

 ソ連が崩壊し、マルクス・レーニン主義が、地獄の門を開く淫祠邪教、人類に大厄災をもたらす思想ペスト菌であることが明白になりました。それにもかかわらず、我が国の公立学校は、日教組(民主党系)、全教組(共産党系)に支配されており、ほとんどの教科書会社は、販売促進の為、彼等に迎合した教科書を製作しており、とくに高校の歴史教科書はおよそ真実とは無縁の反日左翼政治パンフレットに堕落しております(教科書検定の近隣諸国条項という呪い)。

 これを信用すると、戦後の我が国の反日左翼勢力のように、事あるごとに「アドルフ・ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党(略称ナチス)を否定する戦後ドイツを見習え」と喚きながら、社会主義を信奉して偏狭なナショナリズムをまといジェノサイドをほしいままにする中国共産党や北朝鮮労働党を礼賛し、社会主義を信奉しながら、ソ連の統制経済一党独裁を模倣した国家総動員法と近衛新体制に象徴される我が国の戦時体制を「軍国主義、ファシズム」といって非難し、ソ連を模倣した我が国の1940年戦時体制を非難しながら、朝日新聞出身のソ連スパイ尾崎秀実と一緒にこれを作り上げた堀江邑一、西園寺公一(戦後共産党)、風見章、帆足計、勝間田清一(戦後社会党)、笠信太郎(戦後朝日新聞)、宗像誠也(戦後東大教授、日教組講師団の一人)といった元近衛内閣の政治幕僚たちを平然と自分達の大幹部に戴き(進歩的文化人―学者先生戦前戦後言質集)、ポツダム宣言に基づき断罪されるべきであった彼等共産主義者を大幹部に戴きながら、「アドルフ・ヒトラーの国家(民族)社会主義ドイツ労働者党(略称ナチス)を否定する戦後ドイツを見習え」と喚くという、全く訳の分からぬ(爆笑)無限のルーピーズになりかねません。

アドルフ・ヒトラー
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ナチズム(国家社会主義)と共産主義(マルキシズム)は、同じものである!

 竹本忠雄氏は朝日新聞の「報道犯罪」を次のように暴露しています。

 昨日、ナチス・ドイツとの積極協力者であったメディアほど隠れ蓑として、今日、日独同罪論を叫び立てている実状に気づかねばなりますまい。戦時下、「ユダヤ人を一掃」せよだの、「ドイツ人がユダヤ人を煮て食おうが焼いて食おうが」勝手である、「新秩序建設の軍は即ちユダヤを地上から抹殺する戦ひでなければならぬ」などと書いたのは、『朝日新聞』や『毎日新聞』の記事、社説だったのでありますから

 これは、宮澤正典「昭和前期における大新聞とユダヤ観」早稲田大学社会科学研究所発行『社会科学研究』第九五号所載、1987―1989、所載の引用による記述です(詳細は明治 閃光の記憶)。

 今なおレーニンの亡霊たる左翼教職員が跳梁跋扈する学校教育の現場から日本の子供たちの嫉妬心に憑依する悪魔ルソーマルクスを祓いたい方は、かつて反日革命を目指し反日亡国闘争を行った元極左過激派の死刑囚大森勝久氏を保守主義者に転向させた正統の哲学 異端の思想を座右に置いてください。そうすれば日本国民の心からルソーマルクスは退散するでしょう。

 そしてキレイさっぱり心のアカを洗い流した日本国民が戦前の偉大な教育者の杉浦重剛を思い出し、昭和天皇の学ばれた杉浦の教育勅語解説を読めば、日教組と全教組の余りに酷い反日的な洗脳狂育に怒り、知事と市長に戦前の道徳教育の復活を求める輿論が盛り上がります。日本国の左翼教職員たちは、ノイローゼになるでしょう

 反革命歌である「君が代」の伴奏を強いられた大阪のある音楽教師は、ストレスのあまり胃から出血し緊急入院し、動脈の8カ所で止血を施すほどの重症を患ったそうです。

 とどめに、君が代のすべてと遂に復刻した皇紀二千六百年奉祝楽曲集/玉音放送をノイローゼで入院中の左翼教職員に聞かせてあげましょう。彼等の聴覚と脳髄が崩壊して、戦後民主主義の洗脳狂育は終焉するでしょう。

教科書検定の近隣諸国条項という呪い

 2002年は、朝日新聞以下我が国の反日左翼マスコミが敢行した、歴史上稀に見る邪悪な報道犯罪「教科書検定事件」から20周年にあたったが、マスコミは「過去のあやまちを直視せよ、反省せよ」と国民に説教しながら、この事件について口を拭い、まったく反省、謝罪の弁を述べようとはしなかった。

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新風舎の書評

<所長が新風舎から頂いた原稿審査の結果>

 当社の企画、編集、営業の各担当者がご応募賜りました貴稿「戦争の天才と謀略の天才の戦い」を拝読しました。日中戦争から太平洋戦争に続く大東亜戦争の真相を、国際共産主義運動の視点から解明を試みた龍井様の並々ならぬ意欲に、全員が目を見張る思いをしました。

 日中戦争史、太平洋戦争史、第二次世界大戦(第二次欧州大戦)史はこれまでそれこそ無数の刊行されていますが、これらの戦争に共通した真相を探るため公刊資料だけでも200点近くの資料を漁渉され(実際に漁渉された資料はこの数倍に達するものと拝察します)、史実に基づき「共産主義運動の暗躍」を明らかにされた龍井様の真摯な姿勢と業績は、思想の違いを超えて高く評価されるものと思います。

 本書の中で特筆すべき箇所をあげればそれこそ切りがありません。その中でランダムに1つだけあげると、月間英文雑誌「極東評論」主筆のジョージ・ブロンソン・リーの著作を発掘し、満州国建国の合理性に言及されているのは非常な説得性があります。

 日本人は「植民地支配」というと、欧米各国が行った収奪的な帝国主義的植民地支配を想像し、日本が戦前行った植民地支配は、欧米各国の収奪的なそれとは全く異なり、植民地の産業振興と民生向上に主眼を置いた人道的援助的なものであったと筆者は理解しています。このことは細川嘉六の「植民地経営論」で明らかにされていますし、台湾や韓国の古老たちが植民地時代の日本や日本語に嫌悪感を持っていない事実からも推察できます。

 「民主教育」の名のもとに行われた戦後教育により歪められた日本人の歴史観に、一石を投じる意味でも本書の価値は計り知れないものがあります。

 本書の内容はきわめて実証的で客観的です。率直に申し上げて、龍井様には失礼ながら右翼思想の方(これは左翼思想の方も同じですが)の論理展開は教条主義的で観念的なものと、筆者は誤解していました。しかし本書を読み、この理解が先入観の為せる業だと反省しました。

 筆者のような「右翼思想人観」を持つ一般日本人が大半だと思います。一般日本人のこの先入観を取り除く意味でも、実証的で客観的に著述された本書を刊行する意義は高いと思います。

 龍井様のさらなるご活躍を期待しております。

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国民のための大東亜戦争正統抄史94~95大東亜戦争の本質

【大東亜戦争の本質】


94、大東亜戦争の本質

 国際法上、戦争は国家間の決闘であり、講和条約の発効によって終了する。従って大東亜戦争の終結日は昭和二十年八月十五日ではなく、昭和二十七年(一九五二)四月二十八日のサンフランシスコ講和条約の発効に続いて日ソ共同宣言が発効し、日ソ間の戦争状態が終了した昭和三十一年(一九五六)十二月十二日である。

 サンフランシスコ講和条約第一条a「日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。」

 日ソ共同宣言第一条「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の戦争状態は、この宣言が効力を生ずる日に終了し、両国の間に平和及び友好善隣関係が回復される。」

 然らば、大東亜戦争の開始日は何時とすべきか?戦後日本の通説では廬溝橋事件(昭和十二年七月七日)ないし真珠湾攻撃(昭和十六年十二月八日)であるが、いずれも正しくない。

 東京裁判において日本断罪の根拠となった不戦条約(1)が締結され、帝国主義戦争に反対する闘争と共産主義者の任務に関するテーゼ(コミンテルン二十八年テーゼ)が発表された昭和三年(一九二八)、世界最終戦争による世界恒久平和を構想した「戦争の天才」石原莞爾が関東軍作戦参謀として満洲に赴任し(十月)、三・一五事件の検挙から奇跡的に逃れた「謀略の天才」尾崎秀実が朝日新聞社上海支局に転勤し(十一月)ソ連のスパイとなり、世界共産主義革命による世界恒久平和を構想したことから、大東亜戦争は開始されたのである。

 第一次欧州大戦後、ヨーロッパに蔓延した反戦平和主義者が戦争の惨禍の再発を恐怖し回避しようとする余り、ナチスドイツの軍事膨張に対する宥和政策を生み出し第二次欧州大戦を勃発させ、世界恒久平和の実現をめざした日本の二人の天才が大東亜戦争の勃発を主導したのである。第二次世界大戦は、「平和主義は時として大きな戦争を引き起こす」という悲しい逆説を証明したのであった…。

 そして大東亜戦争の本質は、人種と資源をめぐる宿命の戦い(小林よしのり)、門戸開放主義をめぐる日米抗争、共産主義との戦いという二大底流の合する所に生起せる戦争(中村粲)ではなく、第一次日露戦争(一九〇四~〇五)、第二次日露戦争(シベリア出兵、一九一八~二二)に次ぐ第三次日露戦争(一九二八~五六)というべきであろう。

 第一次日露戦争にて大日本帝国は明石元二郎大佐をロシア帝国に派遣し、その革命気運に乗じてその内部に諜報謀略網を組織して大勝利を収め、第三次日露戦争にて国教をロシア正教からマルクス・レーニン教に替えたソビエト・ロシアは尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲを大日本帝国に派遣し、その革新気運に乗じてその内部に諜報謀略網を組織して大復讐を果たしたのである。

 日露間の講和条約がポーツマスで調印された後、帰国を命令された明石大佐は、ヨーロッパを去るにあたり、参謀次長の長岡外史少将宛てに長文の手紙を書き送り、ロシアのロマノフ王朝はいずれ民衆の大々的な蜂起によって崩壊し、その後に来るものは、社会主義、共産主義の潜行跋扈である、と的確に予想し、日本は戦勝に油断することなくこれに対抗する準備を直ちに開始しなければならないことを力説した。

 しかし明石元二郎は、その後、歩兵第七連隊長、韓国駐留軍参謀長兼憲兵隊長、参謀次長、第六師団長、台湾総督兼台湾軍司令官を歴任し、彼から諜報謀略の威力を学んだレーニンが世界赤化の参謀本部としてコミンテルンを創設してから七ヶ月後の大正八年(一九一九)十月二十四日、脳溢血に襲われ五十五歳の若さでこの世を去ってしまった。明石は、レーニンそしてスターリンが指揮するコミンテルンの世界赤化の野望を打ち砕く力を持つ偉大な軍人だっただけに、彼の急逝は、大日本帝国だけでなく世界人類にとって真に不運であり不幸なことであった(2)。

 戦時中、大本営陸軍部情報部の堀栄三少佐は、諸種の情報を徹底的に収集分析してアメリカ軍の作戦行動を的確に先知し、マッカーサー参謀という異名を取ったが、彼は、陸軍士官学校卒業後、騎兵少尉に任官してから、陸軍大学校卒業後、士官学校戦術教官を経て、昭和十八年十月一日、情報部ドイツ課付参謀に起用されるまで、一度も情報教育を受けたことがなく、堀少佐はたまたま情報部に起用され、困惑しながらも勤務中に情報戦のイロハを学び、天性の情報能力を開花させたのである。

 陸軍大学校には、情報学級も特殊な情報課程もなく、わずかに情報訓練が行われたこともあったが、それも戦術や戦史、通信課程の付随的なものに過ぎず、大東亜戦争中の我が国では、情報戦の素人が突然に大本営陸軍部の情報参謀に起用され実務を任されるという、信じ難い人事が行われていたのである(3)。

 およそ戦いに身を投ずる者は、分野を問わず、休戦後、必ず戦いの軌跡を正確に分析し、敗因を克服し勝因を継承し、次の戦いに備えなければならない。 

 日露戦争後、我が国の政府軍部首脳が明石大佐の大活躍を目の当たりにしながら、彼を長とする統合情報機関を創設せず、陸軍大学校で諜報謀略防諜を含むあらゆる情報戦の教育を充実させ明石大佐の経験を学生に学ばせなかったことは、孫子の兵法に反する大失態であり、万死に値する大罪といえよう。

 昭和十五年(一九四〇)七月二十七日、イギリス駐日大使クレーギーと親しいロイター通信東京支局長ジェームス・コックスが英国系船舶会社支配人の海軍予備大佐アダムス某と共にスパイ容疑で逮捕され、三十一日、監視憲兵の隙に乗じて飛び降り自殺した(4)。山口富永氏は「昭和史の証言真崎甚三郎」四十八頁に、

 「昭和十六年(ママ)に、コックスというドイツ共産党のスパイが、憲兵隊に逮捕されて取り調べを受けている時、そのすきを狙って取調室の二階から飛び降りて自殺したことがあった。この時、このスパイの手帳の中に『日本の大官、顕官を全部とりこにすることができた。但し、陸軍の真崎だけは梃子でも動かなかった』と書きしるしてあった、と筆者はある筋の権威者から聞いた」

と記述している。

 すなわち我が国の敗因は、報復の原則(敵が新しい兵器戦術戦略を使用すれば、味方はそれらを模倣しその対策を立て報復すべし、味方が新しい兵器戦術戦略を使用する際は、敵がそれらを模倣しその対策を立て報復を仕掛けてくることに備えるべし)を弁えず、国策を立て機密を作る国家中枢部に対する防諜体制の強化を怠った慢心、天皇尊重を表向き装いながら私有財産制度と資本主義を否定する共産主義者を転向者と判定し釈放していた治安維持法に基づく取締の寛容、そしてマルクス・レーニン教の蔓延を防止する尊皇護国反共の精神を涵養する教育の不足であった。

 国家に物資が満ち溢れ科学技術が高度に発達しても、国家の栄枯盛衰は国家を動かす人に在り、而して人の正邪曲直は人を動かす内なる精神によって決せられるのである。

(1)我が国を代表する国際法家の信夫淳平は、第三十三回学士院恩賜賞を受けた戦時国際法講義(信夫淳平著/丸善、一九四一)第一巻七〇二頁に不戦条約に対する次の辛辣な批評を引用している。

 「ケロッグ氏の原提案は戦の無条件的抛棄であった。然るに仏英両国の解釈の限定を受けたる結果として、本条約は最早や戦の抛棄を構成せざるものとなった。当事国各自が勝手に解釈し、勝手に裁定する所の自衛という戦は、本条約に依り総て認可せられる。これ等の例外及び留保の巾さを考うるに於ては、過去一百年間に於ける何れの戦も、また向後のそれとても、一つとしてその中に編入せられざるものありとは思えない。本条約は戦を抛棄するどころか、之を公々然と認可するものである。戦なるものは過去に於ては、適法でも違法でもなき一種の疾病と見られた。然るに今日は、この世界的の一条約に依り、事実総ての戦は公的承認の刻印を得たのである。本条約第一条の単なる抽象的の戦の放棄は、本条約に付随する解釈に依りて認可せられたる具体的の戦の前に最早や之を適用する余地は全然無いのである。」(Borehard & Lage,Neutrality for the U.S.,pp.292-3)

 信夫も不戦条約の解釈を分析した上で「自衛の果たして自衛なるやは、個人間の正当防衛が裁判所に依りて判定せらるるのとは異なり、戦を遂行する国自身が判定するのであるから、自衛戦を適法と認むる不戦条約の下にありては、殆ど全ての戦は適法の戦として公認せらるるのである。不戦条約は不戦どころか、大概の戦の遂行を適法のものとして裏書きするものである」と指摘し、不戦条約による戦争の違法化を否定した(戦時国際法講義第一巻七〇三頁)。

 極東国際軍事裁判所インド代表判事のラダビノッド・パルは、不戦条約に関して博引傍証した上で次のように結論づけた(パル判決書上三一六~三五二頁)。

 「国際生活において、自衛戦は禁止されていないばかりでなく、また各国とも、『自衛権がどんな行為を包含するか、またいつそれが行使されるかを自ら判断する特権』を保持するというこの単一の事実は、本官の意見では、この条約を法の範疇から除外するに十分である。ケロッグ氏が声明したように、自衛権は関係国の主権下にある領土の防衛だけに限られていなかったのである(中略)。
 本官自身の見解では、国際社会において、戦争は従来と同様に法の圏外にあって、その戦争のやり方だけが法の圏内に導入されてきたのである。パリ条約は法の範疇内には全然はいることなく、したがって一交戦国の法的立場、あるいは交戦状態より派生する法律的諸問題に関しては、なんらの変化をももたらさなかったのである。」
(2)豊田穣【情報将軍明石元二郎】四〇三~四一一頁。
(3)堀【大本営参謀の情報戦記】十七頁。
(4)大谷敬二郎【昭和憲兵史】三九二~三九六頁。


95、戦後民主主義の本質

 トラウトマン和平工作の終了以降、日支和平交渉の仲介人を務めた萱野長知は、上海における松本重治との会見を「運命の日であった」と悔やみ(1)、昭和十三年の宇垣・孔祥煕工作が流産した後も、汪兆銘政権樹立工作は「子宮外妊娠」であり(2)、

 「汪兆銘を成立せしめても長びくのみにて喜ぶ者は共産党と英、仏、露、米国らのみ」

と看破し(3)、日本国政府と蒋介石政権との直接和平を実現するために、日米開戦直前まで日支間を懸命に奔走し、その志ついに成らずも、昭和二十一年、吉田茂内閣によって長年の功労を認められ勅任の貴族院議員に推薦された。だが萱野は「野人その任に非ず」とこれを固辞し、翌年四月十四日、この世を去った。

 昭和二十年九月一日、萱野老人は、古くからの同志に宛てた手紙の中で、日支提携を衷心より望んでいた孫文と義兄弟の契りを結んだ間柄でありながら、日支間の全面和平を回復できなかった自分の無力を恥じ、断腸の思いをにじませながら敗残日本の行く末に絶望したのであった・・・(4)。

 「去る十九日御認めの御書面只今拝読致候。実は此頃如何ヤと御案じ中に有之処、次第に御快方の由、安心致候。東哥々のお宅は戦災に罹りたる由、未亡人もお困りとの事と拝察申上候。但し老兄の方面は御無事なりしは不幸中の幸と存候。小生の芝の宅は没有と為りたるも、腰越は戦災を免れ申候。但し此頃は多数の聯合艦隊が江の島付近より小田原三崎方面にかけて浮城を築き、夜は不夜城にて恰も海市の如く、洋中の壮観を現わし申候。

 我七十三歳、始めて夷・斉の心持ちを理解致候。但し首陽山がないのでお米さんの御領地で飯を食い、湘南に釣して余生を送らんかなと思居候。重慶の旧友も段々やって来ると思わる。我等何の面目あって彼等を見んか。最早娑婆っ気を脱して乾坤無用人と相成可申候。『把竿何処之、江島泛扁舟、世事不評論、応和欸乃叟』とは予め覚悟に候へども、凡夫の悲しさ時に愚痴も出で可申候。此方面はエサ無之、大に痩せ申候。皺腹を切るも不甲斐なき心地致候。命長くして辱多しとは、古人今人一様に存候。

  八月十五日偶筆 擬荘宗詞韻

一葉落。乾坤寞。如今万物当新作。
回頭心肝寒。紅嵐吹戒幕。吹戒幕。
錯雑都荒漠。

  又擬長左思詞体韻

先覚憂。後覚憂。憂悶傷心何歳休。
亜東雲肖愁、人涕流、鬼啾啾
鬼怒人悲仇未酬。仰天又垂頭。

 こんな気持致居候。老兄以て如何と為す。早く全快して焼野原の京浜其他大中小の都市を一見するも参考と為るべし。覇道の末路はこんなものなり。
 お気の毒の人は腹を切り、ツケ火の張本人はノホホンで巧みに時めく、之では立直りの見込み更に無之候。我兄以て如何。首相宮殿下のお陰で言論通信自由と為れり。時には通信致度く候。長知」

 翌日、我が国の政府統帥部代表はアメリカ海軍戦艦ミズーリ号上でポツダム降伏文書に調印した。昭和二十年九月五日、東久邇宮稔彦王首相は、第八十八回帝国議会(昭和二十年九月一日召集、四日開院式、六日閉院式。帝国憲法第四十三条「臨時緊急の必要ある場合に於いて常会の外臨時会を召集すべし臨時会の会期を定るは勅命に依る」に基づく)における以下の「戦争終結に至る経緯竝施政の方針に關する演説」の中で、ポツダム宣言の履行と帝国憲法の遵守、そして自由主義および議会制デモクラシーの復活強化を高らかに宣言した(5)。

 「是より先、米英支三国はポツダムに於て帝国の降伏を要求する共同宣言を発し、諸般の情勢上、帝国は一億玉碎の決意を以て死中に活を求むるか、然らざれば終戦かの岐路に立つたのであります、日本民族の将来と世界人類の平和を思わせられた大御心に依り、大乗的御聖断が下されたのであります、即ち「ポツダム」宣言は原則として天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの諒解の下に、涙を呑んで之を受諾するに決し、茲に大東亜戦争の終戦を見るに至つたのであります。

 帝国と連合各国との間の降伏文書の調印は、本月二日横浜沖の米国軍艦上に於て行はれ、同日御詔書を以て連合国に対する一切の戦闘行為を停止し、武器を措くべきことを命ぜられたのであります。顧みて無限の感慨を禁じ得ませぬと同時に、戦争四年の間、共同目的の為に凡ゆる協力を傾けられた大東亜の諸盟邦に対し、此の機会に於て深甚なる感謝の意を表するのであります、連合国軍は既に我が本土に進駐して居ります、事態は有史以來のことであります、三千年の歴史に於て、最も重大局面と申さねばなりませぬ、此の重大なる国家の運命を担って、其の向かうべき所を誤らしめず、国体をして彌が上にも光輝あらしむることは、現代に生を享けて居りまする我々国民の一大責務であります、一に懸つて今後に処する我々の覚悟、我々の努力に存するのであります。

 今日に於てなお現実の前に眼を覆い、当面を糊塗して自ら慰めんとする如き、又激情に駆られて事端を滋くするが如きことは、到底国運の恢弘を期する所以ではありませぬ。一言一行悉く天皇に絶対帰一し奉り、苟くも過たざることこそ、臣子の本分であります、我々臣民は大詔の御誡めを畏み、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、今日の敗戦の事実を甘受し、断乎たる大国民の矜持を以て、潔く自ら誓約せる「ポツダム」宣言を誠実に履行し、誓つて信義を世界に示さんとするものであります。
 
 今日我々は不幸敗戦の苦杯を嘗めて居りますが、我々にして誓約せる所を正しく堂々と実行するの信義と誠実を示し、正しきと信ずる所は必ず之を貫くと共に、正しからざる所は速かに之を改め、理性に悖ることなき行動に終始致しまするならば、我が国家及び国民の真価は必ずや世界の信義と理性に訴え、列国との友好関係を恢復し、茲に万邦共栄の永遠の平和を世界に現わし得べきことを確信するのであります。
 
 今後に於ける我が外交の基本も、正しく之に存するのであります、畏くも大詔に於きましては「世界の進運に後れさらむことを期すべし」と御示しになつて居ります、私共は維新の大業成るに当たり、明治天皇御自ら天地神明に誓わせられました所の五箇條の御誓文の御精神に復り、此の度の悲運に毫も屈することなく、自肅自重徒らに過去に泥まず、将来に思い迷うことなく、一切の蟠りを去つて虚心坦懷、列国との友誼を回復し、高き志操を堅持しつつ、長を採り短を補い、平和と文化の偉大なる新日本を建設し、進んで世界の進運に寄与するの覚悟を新たにせんことを、誓い奉らなければならぬと存じます。

 組閣の大命を拝するに当たりまして、畏くも天皇陛下に於かせられましては私に対し、『特に憲法を尊重し、詔書を基とし、軍の統制、秩序の維持に努め時局の収拾に努力せよ』との有難き御言葉を賜わりました、私は此の有難き大御心に副い奉ることを唯一の念願として、之を施政の根本基調として、粉骨砕身の努力を致し、国民の先頭に立ち平和的新日本の建設の礎たらんことを期して居ります。

 国民諸君も亦畏き聖慮の存する所を再思三省され、心機一転、溌剌清新の意気を以て、新たなる御代の隆昌に向つて勇往邁進して戴きたいのであります。是が為に特に溌剌たる言論と公正なる輿論とに依つて、同胞の間に溌剌たる建設の機運の湧上ることが、先づ以て最も重要なりと信ずるのであります。私は組閣の初めに当たりまして建設的なる言論の洞開を促し、健全なる結社の自由を認めたき旨意見を表明する所があつたのでありますが、政府と致しましては、言論の尊重、結社の自由に付きましては、最近の機会に於きまして言論、出版、集會、結社等臨時取締法を撤廃致したき意向であり、既にそれ等の取締を緩和致しましたことは(註、八月二十八日)曩に発表致しました通りであります。

 苟くも国民の能動的なる意欲を冷却せしむるが如きことなきよう、今後とも十分留意して参る所存であります、特に帝国議会は、国民代表の機関として名実共に真に民意を公正に反映せしめ得る如く、憲法の精神に則り正しき機能を発揮せられんことを衷心より希望するものであります。」

 ポツダム宣言第五項には「吾等の条件は、左の如し、吾等は、右条件より離脱することなかるべし」とある。文字通りポツダム宣言とは我が国に有条件降伏を要求するものであり、宣言に列挙された連合国の対日条件は、連合国および日本国の双方に権利と義務を課したのである。しかも日本政府は、「疑わしきは主権に有利に解釈せらるべし」という国際法の大原則に基づき、ポツダム宣言の曖昧な部分を日本側の有利に解釈し、可能な限り日本国の義務を軽減することができた。
 アメリカ国務省はこのことを熟知しており、ポツダム宣言によって連合国が計画していた日本に対する無条件降伏政策が著しく変更されたことに困惑していた。無条件降伏政策の骨子は以下の通りである。

1、敗者の発言権をすべて剥奪し、勝者が何でもできる権利を確保すること。
2、敵国の長期無力化、半永久的武装解除を実施すること。
3、今後戦争を起こすことができないように敵国の社会的基盤を完全に破壊すること
4、これらの政策を実行するために敵国を長期占領して占領下で徹底した改革を実施すること。

 そこでアメリカ政府は、日ソ中立条約を蹂躙したソ連の遣り方を模倣し、昭和二十年九月二日に連合国および日本国を拘束する国際条約(厳密には休戦協定)となったポツダム宣言を全条項に亘り蹂躙することを決意した。同年九月六日、アメリカ政府はトルーマン大統領の承認を得て「連合国最高司令官の権限に関するマッカーサー元帥への通達」を発し、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高である」と訓示した。そして十五日、占領軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは日本側に次のような命令を発表したのである。

 「マッカーサー元帥は、連合国はいかなる点においても日本国と連合国を平等にみなさないことを、日本が明確に理解するよう希望する。日本は文明諸国間に地位を占める権利を認められていない。敗北せる敵である。最高司令官は日本政府に対して命令する。交渉はしない。」

 我が国の政府はこの声明を聞いて驚愕した。ポツダム宣言の受諾に伴う日本国の国際的地位について十分に研究していた外務省の萩原徹条約局長は、次のように反論した。

 「日本は国際法上、条件付終戦、せいぜい有条件降伏をしたのである。何でもかんでもマッカーサーのいうことを聞かねばならないないという、そういう国として無条件降伏をしたのではない。」

 しかし反論がGHQに受け容れられるはずもなく、荻原局長はGHQの怒りを買い左遷を命じられた。日本列島を占領した連合軍は、対日要求の一つであった日本軍の無条件降伏と武装解除すなわち日本国の非武装化に乗じ、ポツダム宣言を蹂躙して残酷な対日追撃戦を開始、空前絶後の大検閲を行い、東久邇宮内閣が復活させた帝国憲法下の自由デモクラシーを抹殺し、日本国民から歴史の真実を知る機会を奪い、国防法体系および伝統的な家制度と教育制度とを破壊し、報道と教育を通して大量の反軍反日的虚偽情報を流布するWGIP(War Guilt Information Program、戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)を実施して(6)、日本国民とりわけ知識と判断力を欠き洗脳に対して無防備な児童生徒(一九三三年~一九四五年生まれ)から愛国心と敢闘精神を奪い去り、日本国に「戦後民主主義」というマッカーサー占領軍憲法(日本国憲法)体制を残していった。

<日本国憲法を起草したGHQ民政局員>

〈運営委員会〉C・L・カーディス陸軍中佐、A・R・ハッシー海軍中佐、M・E・ラウエル陸軍中佐、R・エラマン嬢
〈立法権に関する委員会〉F・E・ヘイズ中佐、G・J・スウォーブ海軍中佐、O・ホージ海軍中尉、G・ノーマン嬢
〈行政権に関する委員会〉C・H・ピーク、J・I・ミラー、M・J・エスマン陸軍中尉
〈人権に関する委員会〉P・K・ロウスト陸軍中佐、H・E・ワイルズ、B・シロタ嬢
〈司法権に関する委員会〉M・E・ラウエル陸軍中佐、A・R・ハッシー海軍中佐、M・ストーン嬢
〈地方行政に関する委員会〉C・G・ティルトン陸軍少佐、R・L・マルコム海軍少佐、P・O・キーニ
〈財政に関する委員会〉F・リゾー陸軍大尉
〈天皇・授権規定に関する委員会〉J・A・ネルソン陸軍中尉、R・A・プール海軍少尉
〈前文〉A・R・ハッシー海軍中佐

 明治天皇の詔命を奉じ、井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治を統率して大日本帝国憲法原案を起草した伊藤博文の愛読書は、明治三年に政況および財政調査のためにアメリカを訪問した伊藤に、当時のアメリカ国務長官ハミルトン・フィッシュが贈与したアメリカ合衆国(合州国)憲法のコメンタリー(解釈書)「ザ・フェデラリスト」(一七八八年刊行)であった。伊藤博文は明治三年以来、このアメリカの古典的名著に依拠して憲法を研究し、彼ら四人が帝国憲法原案を起草していた時はもとより、明治二十一年から始まった枢密院帝国憲法制定会議の際にも、伊藤はフェデラリストを常に自分の座右に置いて何か問題が生じる度にこれを繰り返し読み、帝国憲法の制定に尽力したのであった(7)。

 帝国憲法の精緻な権力均衡分立主義と、デモクラシー(大衆参加政治)の暴走と諸悪から皇室と一般国民を含む国家を救済する帝国議会二院制は、アメリカの立憲議会制デモクラシーの起源であるフェデラリストの著者たち即ちアメリカ合衆国憲法の制定に尽力したジェイムズ・マディソン、ジョン・ジェイ、アレクサンダー・ハミルントンの思想を受け継いだものであった。そして明治二十二年紀元節の帝国憲法発布式が終了した後、金子堅太郎から帝国憲法のコメンタリー「憲法義解」の英訳を贈られたオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア(元ハーバード大学教授、金子堅太郎の恩師、マサチューセッツ州の大審院判事)は帝国憲法を次のように評したのである。

 「憲法学の原理ほど各種の法律学中において不定にして且つ不強固なるものはあらざるなり。故に憲法学の地位を称して変遷の時代にありと言う。この見地より日本憲法を観察すれば日本の天皇および之を輔翼せし政治において一時急激に憲法政治の境域に狂奔せず、徐々にその基礎を固め漸次立憲の制度を施行するの目的を定められしは予のもっとも賞賛する所なり。

 また予が日本憲法を熟読するに当たり、天皇及び其の政府において保守主義を以てこの憲法を制定せられたる精神の全篇に充満するを祝賀するものなり。何となれば予は明治四年以来日本人と交わりを結び其の国の将来に向って大いに嘱望するが為に、時々その政治の変遷するを見ては常に日本政府及び其の人民の旧態を破壊し新制を創設するに急激なるを恐れ、其の前途を誤らざるかと憂慮せしが、今やこの憲法を見て明治四年以来の杞憂は全く消散すればなり。

 この憲法は予の観察する所によれば、古来専制の君主権を制限して人民に参政の権利を与えられるものなり。其の之を制限し其の之を付与するに付きこの憲法は明に君主権を制限する箇条を示し、また詳らかに人民に附与せし権限をも明文に記載せり。而して其の不文に属し明瞭に記載せざるものは往古の如く悉く天皇の旧来継承せらるる大権に属するものなりとの主義を採りて起草せられたるが如し。

 又一国の基本法(即ち憲法)を制定するに当ては、先ず狭隘なる区域内において立憲の政治を試み、漸次年月と共に其の区域を拡張するの目的を立つるを以て必要とす。然らば即ちここに一の問題生ず、これ他なし日本国民は此の憲法を以て満足せしや否やにあり。横浜メール新聞の記載する所に拠れば憲法発布の当時より今日に至るまで国民は此の憲法を以て満足したることを認めたり。
 日本憲法は欧州各国の憲法の如く人民の腕力に訴えて創定したるものにあらず。全く天皇の恩賜にして国民も又その恩賜を感拝するを見れば、実に喜悦の情に堪えざるなり(中略)。

 そもそも憲法政治とは一国の政治を処理する機関の配置及び権限を明確にし、之を主管又は執行する軌轍を明示し、その確定したるものは天皇といえども濫りに之を変更することを得ざるの政体を云う。而して其の機関の中において人民もまた政治上に参与するの権限を得たるの政体を云う。然れども其の参政の程度及び権限の広狭は各国古来の歴史習慣等によりて定まるべきものなり、故に甲国においては参政の程度広大にして乙国においては其の区域の狭小なるものあり。これ全く各国の習慣及び歴史より生ずるものなり。これ憲法に付いては一定の原理なき証拠なり。

 然れども其の参政の区域の広狭に拘らず憲法を以て帝王の専横を検束し、人民に参政の権利を与えたる政府なれば之を称して立憲政府と云わざるを得ず。日本憲法はこの理を看破せられたるものと予は断言せんと欲す。又日本憲法は天皇の大権のある部分を拘束して本年よりは日本人民に政治上の生命を与えられ、而してこの政治上の生命は古来いまだかつて存在せざるものなり。この政治上の生命あれば即ち其の政府を称して立憲政府と謂わざるを得ず。日本政府においてこの論理を採用せられたるは予がもっとも感服する所にして、賢明なる政治家の所為と言わざるを得ず。

 この憲法に付き予がもっとも喜ぶ所のものは、日本憲法の根本古来の歴史制度習慣に基づき、而して之を修飾するに欧米の憲法学の論理を適用せられたるにあり。欧米の憲法は欧米国に適するも日本国に適用せず、日本の憲法は日本の歴史制度の習慣より成立せざるを得ざるものなり。故に本年議会開設の後は日本の政治家たる人はこの憲法の精神に基づき、行政上においても古来の法律、習慣を研究し、国家の歴史慣例を標準として漸次欧米の立憲政治の論理を適用せられんことを望む。」

 ザ・フェデラリストに宿るアメリカ合衆国建国の父たちの英知がよく伊藤博文を指導し伊藤らに助言を与え帝国憲法原案の起草を補佐し、後にアメリカ連邦最高裁判所判事を務めアメリカの良心となったホームズが伊藤の憲法義解に満腔の共感を覚え、帝国憲法を絶賛したのである(8)。
 大日本帝国憲法はザ・フェデラリストの英知および金子が邦訳し井上毅が信奉したエドマンド・バークの著書フランス革命の省察の英知と、天皇を中心とする日本国の歴史との間に生まれた子であり、比較憲法学の成果にして歴史憲法学の結晶であった。そして近衛文麿および尾崎秀実ら国体の衣を着けた共産主義者たちの度重なる政党破壊工作によって衆議院の全政党が解散に追い込まれ、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)とソ連共産党を模倣した大政翼賛会が出現した戦時下の我が国の国家的危機に際して、帝国憲法は静かにその真価を発揮して大政翼賛会の一党独裁を阻止し、日本の立憲君主制議会制デモクラシーを護り抜き、日本の左翼全体主義化を防いだのである。

 それなのに「自由デモクラシーの尊重」を国是とするはずのアメリカの占領軍は違法不当に日本国の最高法規の地位から帝国憲法を追放した。昭和二十一年(一九四六)二月十三日にGHQ憲法草案の余りに醜悪で拙劣な内容に驚愕した松本丞治国務大臣から議会制デモクラシーに関する平易な講義を聞くまで議会二院制の意義すら知らなかったほど無知蒙昧だったGHQ民政局のニューディーラー(アメリカの容共主義者)が日本の民主化と称して帝国憲法秩序を破壊したのである。これは中国共産党が文化大革命と称して支那歴代王朝の文化遺産を破壊したことと同類の暴挙であった。これを可能とした占領政策が占領軍によって実施され且つ厳重に秘匿された検閲であった。

 占領軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは、昭和二十一年の元日に「いまやすべての人が、不当な規制を受けることなく、宗教の自由と表現の権利を享受できる」との声明を出したが、これは真赤な虚偽であり、実態は違った。占領軍は検閲指針として以下の三十項目に関する言論を禁止した。これは日本国の義務であり権利でもあったポツダム宣言第十項「言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せらるべし」に違反する措置であった。日本国憲法前文には「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるが、平和愛好諸国民を自称する連合国とその執行機関の占領軍司令部に、ポツダム宣言を誠実に遵守する公正と信義は無かったのである。

(1)SCAP-連合国最高司令官(司令部)に対する批判
(2)極東国際軍事裁判(東京裁判)批判
(3)SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判
(4)検閲制度への言及
(5)合衆国に対する批判
(6)ロシアに対する批判
(7)英国に対する批判
(8)朝鮮人に対する批判
(9)中国に対する批判
(10)他の連合国に対する批判
(11)連合国一般に対する批判
(12)満州における日本人取り扱いについての批判
(13)連合国の戦前の政策に対する批判
(14)第三次世界大戦への言及
(15)ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
(16)戦争擁護の宣伝
(17)神国日本の宣伝
(18)軍国主義の宣伝
(19)ナショナリズムの宣伝
(20)大東亜共栄圏の宣伝
(21)その他の宣伝
(22)戦争犯罪人の正当化および擁護
(23)占領軍兵士と日本女性との交渉
(24)闇市の状況
(25)占領軍軍隊に対する批判
(26)飢餓の誇張
(27)暴力と不穏の行動の煽動
(28)虚偽の報道
(29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
(30)解禁されていない報道の公表

 とくに第21項「その他の宣伝」は酷く、占領軍の検閲対象はまさに縦横無尽、伸縮自在の無制限であった。一九四一年十二月十八日、アメリカ連邦議会は、第一次戦時大権法を成立させ、ルーズベルト大統領に、検閲の実施を含む戦争遂行上必要な大幅な権限を与えた。翌日ルーズベルトはこの戦時立法を根拠として合衆国検閲局の設置を定めた大統領令八九八五号に署名した。これによれば、検閲局長官は、郵便、電信、ラジオその他の検閲に関して、全く随意に職務を執行し得るものとされた。   

 奇しくも同日は日本において帝国議会によって可決された戦時立法である言論出版集会結社等臨時取締法の公布日であった。この法律の罰則は最高刑懲役二年に過ぎなかったのに対して、アメリカの第一次戦時大権法第三百三項が規定した検閲違反者に対する罰則は、最高刑罰金一万ドルまたは禁固十年、あるいは双方であった。アメリカは日本よりも峻厳な戦時立法を行っており、占領軍は、アメリカ国内では一九四五年九月二十八日に大統領令九六三一号によって打ち切られたアメリカ政府の随意検閲を、既に戦時統制を解除し言論の自由を復活させていた日本国に導入したのである。

 占領軍は日本人の膨大な私信から十通に一通を無差別に抽出し、日本人の動向を探っていた。占領軍に雇われた日本人または日系二世の検閲官がこれを検閲し、検閲要項に抵触するものは片っ端から翻訳、危険人物と思われる者は占領軍によってブラック・リストに載せられ、あるいは逮捕され、場合によっては手紙そのものが没収された。

 これは言論および思想の自由を謳ったポツダム宣言に違反する措置であり、占領軍自身の手に成る新憲法にも抵触するような検閲が、日本国憲法公布後もなお数年間にわたって実施されていたのである。然も一九四九年末には占領軍の検閲は事前検閲からより陰湿な事後検閲へ移行し、それはサンフランシスコ講和条約の発効日まで続いたのである(9)。

 それから二十三年後の昭和五十年(一九七五)、高宗武と共に萱野長知の和平工作を妨害して汪兆銘工作を推進し、支那事変を永久抗争化させた張本人の一人である松本重治は「上海時代-ジャーナリストの回想」なる回想録を発表し、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。松本は上海時代下巻のあとがき三一八頁で、

 「私がこの上海時代を二年半がかりで書きつづけてきたのは、ある意味では、遺言を書くような気持であったということである。そしてその遺言の趣旨は、日本人はもっと中国人の気持をもっとよく理解して欲しいという一言に尽きる。約四十年前のことどもについての私の回想録は、東亜の一大悲劇たる日中戦争が惹き起こされた最大の原因が、当時の日本人の多くが、中国人の気持を理解し得なかったことにあることを、私なりに書きたかったのである。今日の私は、自らをオールド・リベラルと信じているが、個人の人格を尊厳視し、言論の自由を尊重し、平和を愛し、他の人々の思想行動に対して寛容であるという立場は、四十年以前の当時と、今日とで変わっていないつもりである」

と嘯き、平成元年(一九八九)、八十九歳でこの世を去り、天寿を全うしたのである…。

 レーニンの著書「国家と革命」によれば、国家は特殊な権力組織であり、ある階級を抑圧するための暴力組織であり、当然あらゆる国家は非自由であるという。そして資本家階級が労働者階級を抑圧する資本主義国家が労働者階級が資本家階級を抑圧する社会主義国家へ移行し、労働者階級の独裁があらゆる生産手段を国有化し、資本家階級の反抗を打ち砕き、終局的に資本家が消滅し、階級がなくなったら即ち社会的生産手段に対する関係から見て、社会の構成員の間に差別がなくなった共産主義社会で初めて、抑圧する対象を喪失した国家は自らの存在意義をも喪失して死滅し、人間は自由について語り得るようになるというのである。ソ連のレーニン・スターリンによる大粛清は、マルクス、エンゲルス、レーニンの国家観から必然的に発生した人道に対する犯罪であった。

 そしてレーニンが繰り返し力説した革命理論は、資本主義国家から社会主義国家への移行は暴力革命によらなければいけないということであり、レーニンは世界各国の共産主義者に対し、官僚組織、政党、議会、警察、常備軍などブルジョア国家機構の完全破壊を命じたのである。だからこそコミンテルンの誕生後、資本主義国家の共産主義者は、社会改良主義者や祖国防衛のための愛国心を涵養する教育の必要性を訴える愛国主義者と非妥協的に戦い、青少年に対し祖国の前途に対する希望の燈を奪い、祖国蔑視、祖国呪詛の精神を扶植しようとするのである。これは、それだけ確実また急速にブルジョア社会を覆すためである(10)。昭和二十七年(一九五二)、日本共産党の志賀義雄は、

 「何も武装闘争などする必要はない。共産党が作った教科書で、社会主義革命を信奉する日教組の教師が、みっちり反日教育を施せば、三、四十年後にはその青少年が日本の支配者となり指導者となる。教育で共産革命は達成できる」

と予言した(11)。昭和天皇の御聖断と全国御巡幸(昭和二十一~二十九年)によって敗戦革命の夢を打ち砕かれた我が国の共産主義勢力は、将来の共産革命を準備するために今度は教育界に深く根を下したのである。

 この年我が国では、日本弁護士連合会が口火を切り、六月七日、「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に伝えた。これが契機となり、戦犯釈放運動は瞬く間に全国規模の一大国民運動に発展し、各種の団体や地方自治体は、政府に、サンフランシスコ講和条約第十一条に基づいて関係各国に対して赦免勧告を行うように続々と要請した。署名運動も急速に広がり、戦犯の赦免を求める署名数は、地方自治体が集めたもの約二千万、各種団体が集めたもの約二千万、合計約四千万に達し、また各国代表部や国会、政府、政党に対する陳情も夥しい数に上った。

 こうした国民世論に後押しされた日本政府は、十月十一日、立太子礼を機会に日本の国内外に抑留されている全ての日本人戦犯の赦免減刑を関係各国に要請した。続いて我が国の衆議院は政府を支援すべく、昭和二十七年十二月九日、講和条約第十一条に基づき以下の「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」(自由党、改進党、両社会党、無所属倶楽部の共同提案、田子一民ほか五十八名提出)を可決した(12)。

 「独立後すでに半歳、しかも戦争による受刑者として内外に拘禁中の者はなお相当の数に上り、国民の感情に堪え難いものがあり、国際友好の上より遺憾とするところである。よつて衆議院は、国民の期待に副い家族縁者の悲願を察し、フイリツピンにおいて死刑の宣告を受けた者の助命、同国及びオーストラリア等海外において拘禁中の者の内地送還について関係国の諒解を得るとともに、内地において拘禁中の者の赦免、減刑及び仮出獄の実施を促進するため、まずB級及びC級の戦争犯罪による受刑者に関し政府の適切且つ急速な措置を要望する。右決議する。」

 サンフランシスコ講和条約第十一条は、アムネスティ(国際法上の大赦)の対日不適用条項であり、戦犯に対して講和条約発効後の日本政府による刑罰の執行と連合国関係国政府および日本政府による赦免に関する手続を定めた条項である。

 「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決(英語ではthe judgements、スペイン語ではlas sentencias )を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。
 極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。」(講和条約第十一条)

 国際法上の大赦とは、講和条約の法的効果の一つであり、「戦争中に一方の交戦国の側に立って交戦法規違反行為を犯した全ての者に、他方の交戦国が責任の免除を認める」効果を持つ。つまり講和条約の締結と発効は、国際法上の戦争状態を終了させるだけでなく、同時に戦時中の交戦国の軍事行動である軍事裁判の判決をも失効させ、すべての戦争犯罪人を免責するのである。

 国際法史上有名なアムネスティ条項は、三十年戦争を終結させた一六四八年のウェストファリア平和条約第二条である。そこには、戦乱が始まって以来、言葉、記述、暴虐、暴行、敵対行動、毀損、失費のかたちで行われたすべてのものにつき、「交戦諸国相互間で、永久の忘却、大赦ないし免罪があるべきものとする」と規定されている。

 このように、全てを水に流す「全面的忘却」の精神に基づくアムネスティ条項は、戦争によって煽動された国家間の憎悪を鎮め平和を回復するために必要とされ、十七世紀から十九世紀中に締結された数多くの講和条約の中に盛り込まれ、一九一八年三月三日のドイツ・ソ連条約の二十三~二十七条や、同年五月七日のドイツ・ルーマニア条約の三十一~三十三条も一般的アムネスティ条項を構成している。

 以上の諸国家の慣行に基づき、第二次世界大戦前には、アムネスティ条項が講和条約中に無くとも、講和条約の発効それ自体がアムネスティ効果を持つに至った。そのことが国際条約(明示の合意)と共に国際法を構成する国際慣習法(黙示の合意)-国際社会に生まれた慣習にして、複数の文明諸国家によって、彼らの正しいとの信念の下に繰り返し行われ、遵守すべき規範(ルール)として確信されるに至った慣習-として確立したのである。

 従って本来ならば、一九五二年四月二十八日サンフランシスコ講和条約が発効した時点で、日本政府は所謂A級戦犯を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)およびアジア太平洋地域の各地で開廷されたBC級戦犯裁判の判決の失効を宣言し、日本国内で服役している日本人戦犯を直ちに釈放し、且つ、外国で拘禁されている日本人戦犯の即時釈放を連合国に要求する国際法上の権利を有し、連合国はこれを承認する義務を有していたのである。

 しかし講和条約第十一条はこの権利を日本国に認めず、逆に我が国に対して、講和条約の発効後も、連合国が赦免するまで、日本国内で拘禁されている日本人戦犯に対する刑の執行の継続を義務づけたのである。その結果として講和条約が発効し、我が国が独立を回復した後においても、巣鴨、モンテンルパ(フィリピン)、マヌス島(オーストラリア)で千二百二十四名もの日本人および戦時中日本国籍を有していた朝鮮人および台湾人が戦犯として拘禁され続けていた。

 要するに、サンフランシスコ講和条約第十一条は、連合国が日本政府による日本人戦犯に対する刑の執行の停止を阻止するために同条約に盛り込んだ条項に過ぎず、極東国際軍事裁判を合法かつ正当な裁判として、所謂東京裁判史観を唯一絶対の真実として、我が国に認めさせるものではなかった。

 だから衆議院において「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」を提案した自由党、改進党、両社会党の各議員は、同時に決議の趣旨説明として、パル判決やこれを全面的に支持するイギリスの国際法家ハンキー卿の著書「戦犯裁判の錯誤」を援用し正々堂々と極東国際軍事裁判を糾弾する国会演説を行ったのである。その中でも特に第二十二回帝国議会衆議院総選挙(一九四六年四月十日実施、帝国憲法下の日本で初めて女性に参政権を認めた普通選挙)で当選した三十九名の女性代議士の一人である山下春江議員(一九〇一年生まれ)が行った以下の痛烈な演説は、WGIPとその中核である極東国際軍事裁判の実態を余すところなく指摘した(12)。

 「私は、改進党を代表いたしまして、ただいま上程されました戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議案に対しまして賛成の意見を申し述べたいと存じます。(拍手)
 先ほど趣旨弁明の言葉の中にもございました通り、かつての極東裁判の判事であり、しかも日本の無罪を主張いたしましたインドのパール博士は、去る十一月十一日に、巣鴨の拘置所において、戦犯に対して、あくまでも正義を主張してやまない人間の真実の叫びとして、大要左のようなあいさつをされたのであります。

 『すべて、裁判官の真諦は、人間の心の中に法の公正さに対する信頼感をもたらすことにある。その意味で、今次戦争最大の損失、最大の災害は、法的正義に対する信頼感の破壊にあつた。法律家の中には、連合国のつくつた法は、敗者である皆さんのみを対象としたものであつて、彼ら自身もしくは一般人類に適用されないものであるということを告白している。もしそれが真実ならば、そこに生れたものは法律ではなく、そこに成り立つたものは正義ではない。ここにおられる皆さんは可能なる最悪の不公正の犠牲者である。英国において上層部の間に論争が行われている。そのうちのある者は、戦犯條例によつて定められた法は、ドイツ人を、あるいは日本人を対象とした法であつて、一般社会に適用されるべきものでないことを認めている。連合国は一体どこから権利を得てこれらの法律をつくり、それを適用し、それによつて判決を下し得たのであろうか。』

というあいさつをされておるのであります。
 
 占領中、戦犯裁判の実相は、ことさらに隠蔽されましてその真相を報道したり、あるいはこれを批判することは、かたく禁ぜられて参りました。当時報道されましたものは、裁判がいかに公平に行われ、戦争犯罪者はいかに正義人道に反した不運残虐の徒であり、正義人道の敵として憎むべきものであるかという、一方的の宣伝のみでございました。また外地におきまする戦犯裁判の模様などは、ほとんど内地には伝えられておりませんでした。国民の敗戦による虚脱状態に乗じまして、その宣伝は巧妙をきわめたものでありまして、今でも一部国民の中には、その宣伝から抜け切れないで、何だか戦犯者に対して割切れない気持を抱いている者が決して少くないのであります。
 
 戦犯裁判は、正義と人道の名において、今回初めて行われたものであります。しかもそれは、勝つた者が負けた者をさばくという一方的な裁判として行われたのであります。(拍手)戦犯裁判の従来の国際法の諸原則に反して、しかもフランス革命以来人権保障の根本的要件であり、現在文明諸国の基本的刑法原理である罪刑法定主義を無視いたしまして、犯罪を事後において規定し、その上、勝者が敗者に対して一方的にこれを裁判したということは、たといそれが公正なる裁判であつたといたしましても、それは文明の逆転であり、法律の権威を失墜せしめた、ぬぐうべからざる文明の汚辱であると申さなければならないのであります。(拍手)

 その一、二の例をあげますと、事件の内容で、有罪項目が自分の行為ではなく、まつたく虚構であつたか、あるいは捏造された者、人違いであつた者、あるいは部下または上官の行為の責任をとらされた者などが非常に多く、さらにまた、事件発生の部隊または地域にたまたまおつたというとによつて添えを食つた者、さらにはなはだしきは、日本人なるがゆえに、他に何らの理由もなく処罰された者などがあるありさまでありまして、自己の行為と多少のつながりがあるといたしましても、著しく事実を誇張し、またはゆがめられたものが圧倒的に多かつたのであります。

 また、裁判の審理が一方的で、公判廷において被告に十分の陳述を許されず、証拠も物的証拠はなく、ほとんどが人的証拠、すなわち証人の証言によるものでありましたが、その証人も多くは公判廷に出席せず、検事のつくつた宣誓口述書を単に読み上げるものが多かつたようでございます。それは、もし証人を出席させますと、被告人と対決することにより、証人の偽つた証言が暴露されることをおそれたからでございましよう(以下省略)。」

 極東国際軍事裁判の検察側立証段階で、宣誓供述書、陳述書、訊問調書、手記、日記等、ある特定の個人が書き、或いはその述べたことを文書にしたもので、証拠として法廷に受理されたものは九百八十三通あった。その内、その文書作成者が証人として出廷し宣誓の上、その文書内容が真実である旨証言して証拠として受理されたものは二百六十八通、残りの七百十五通は、ただ文書だけが提出され、証拠として受理されたものであった。

 この内、日本軍の俘虜虐待等戦争法規違反を立証するものとして提出されたものは、南京事件関係を含め、合計六百通であったが、その内、陳述者が証人として出廷、宣誓証言の上証拠として受理されたものは僅か三十通(5%)に過ぎず、残りの五百七十通(95%)は、ただ文書だけが証拠として受理された。つまり検察側によって提出された証拠の大部分は、反対尋問を受けるために法廷に現れなかった人々から採った陳述すなわち伝聞だったのである。しかも裁判所条例の中には「偽証罪」の規定がなかったため、単に供述書、陳述書のみの提出者は、その中にいかに事実を偏向し、歪曲して書き、極端な場合には、全く虚偽の記述をしても、弁護人の反対尋問によってそのことが暴かれてしまうことを心配する必要もなく、その結果「偽証」の罪に問われることもない状態で、その供述書、陳述書を書くことができた(13)。

 裁判所は、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが制定した極東国際軍事裁判所条例中の以下の規定により、「関連性なし」「証拠能力なし」「重要性なし」「セルフ・サービング」という理由をつけて、検察側の主張に反論するために被告弁護側が用意した膨大な証拠資料を却下し、そのうち特に重要な証拠資料を未提出に終わらせたばかりか、法廷において検察側の陳述者にその陳述内容の真偽を問い質すための反対尋問を行う機会の大半を被告弁護側から剥奪していたのである(14)。

<極東国際軍事裁判所条例抜粋>

第十三条
(イ)本裁判所は証拠に関する専門技術的法則に拘束せらるることなし。
(ロ)本裁判所は証拠の関連性の有無を判定するため、証拠の提出前、証拠の性質につき説明を徴することを得。
(ニ)本裁判所は公知の事実、またはいずれかの国家の公文書および報告書の真実性もしくはいずれかの連合国の軍事機関またはその他の機関の作成にかかる調書、記録および判定書の真実性についてはその立証を要求せざるものとす。

第十五条
(二)検察官および弁護人は証拠の提出をなすことを得べく、裁判所は右証拠の受理いかんにつき決定すべし。  

 我が日本国は、朝野を挙げ断固として極東国際軍事裁判を始め連合軍が戦時中に行った対日軍事裁判の正当性を否定し、講和条約の発効後も戦犯として拘禁中の日本国民および彼らの家族を救済し、連合軍に戦犯という濡れ衣を着せられた彼らの名誉を回復する。これが一九五二年の日本の国家的意志であり、当時の我が国は経済的に困窮し、軍事的に極めて弱体であったにも拘わらず、この決意を実行に移して、国際社会から非難されることなく、一九五六年十二月十八日に連合国(国連)に加盟したのである。

 ところが占領軍のWGIPと、これを相続し強化する日教組の反日教育および朝日新聞社の反日報道とによって洗脳され反日的日本人の群れと化した敗戦後世代のエリートたちが政界官界報道界の上層部を占めるようになった平成元年以降、歴代の日本政府が共産中国と南北朝鮮の反日的恫喝と強請に屈服して彼等に媚び諂い謝罪朝貢外交を繰り返したあげく、朝日新聞社ら反日の革新勢力によって捏造された「従軍慰安婦強制連行説」を始め、日本軍に被せられた冤罪を事実として認めてしまった結果、インドネシアの対オランダ独立戦争に加わったインドネシア残留元日本軍将兵ですらも現地の民衆から卑劣な侵略戦争の手先と非難され、彼等の子孫は侵略者の末裔として迫害されるようになった事例があるという…。
 これほど救い難い残酷な悲劇は世界に類例を見ないであろう。日本のために、インドネシアのために、身命を賭して戦った日本人が日本政府によって名誉を剥奪され、インドネシア人によって非難されながら人生を終えねばならなくなってしまった。

 日本政府は、日本民族を野蛮人に貶め「華夷秩序」を実現せんとする共産中国と南北朝鮮の歓心を買う為に、愚劣にも自ら率先して日本軍将兵の名誉と尊厳を売り、世界中に無知と偏見と誤解に基づく反日感情運動を蔓延させ、再び世界各国による対日包囲網を作り出しているのである。

 戦後民主主義なるものは、ソ連と尾崎秀実に協力して我が国を敗北へ導いた反日の革新勢力が報道と教育とを牛耳り、反戦平和主義者と正義道徳の守護者を騙って一般国民を欺き、マルクス・レーニン主義を信奉礼賛してソ連共産党、中国共産党、北朝鮮労働党の利益拡大に奉仕し、また彼等の謀略活動によって命を奪われた我が帝国陸海軍将兵とその御遺族、そして我が国我が民族の歴史に対し、誹謗中傷侮辱の限りを尽くすという詐欺と錯乱と屈辱の時代であり、我が国の犯した政治的過誤を一切直視することも反省することも無く、虚偽、卑劣、卑屈など人間界に存在するありとあらゆる悪徳が大手を振って跳梁跋扈する、神武肇国以来、我が国の最も恥ずべき時代である。

 今日、国民の代表である我が国の政治家と官僚の多くが国家に対する忠誠を忘却し、為政者に必要不可欠な、国家を支える四本の綱たる礼義廉恥―礼節を正し、信義を守り、足るを知って贅沢を慎み、恥を知って名誉を重んずる精神―を喪失し、自己保身に汲々として私利私欲に溺れ、無知をもって過去の反省と為し、卑屈をもって外交の美徳と為す錯誤を犯している。国家の栄誉と国民の幸福とを蹂躙する彼等の無様な醜態は、戦後民主主義の産物以外の何物でもない。伊藤博文の座右の書「ザ・フェデラリスト」の詳述する以下の公選議院特有の欠陥が衆参両院から成る実質的公選一院制の国会から内閣まで国政全般を覆い尽くしているのである。

<公選議院特有の欠陥>

・党利党略に走り、度を越した有害な決議を行う。
・立法の目的や原理について、必要な理解と知識がない。
・不安定で、思いつきの政策を乱発し、自国の利益を他国の餌食にする。
・私欲に塗れ、国家の名誉を重んじない。
・重大な事態において責任が欠如する。
・議席を獲得するために有権者をだます。

 我々日本国民自身がこの戦後民主主義を覆滅して敗戦前から今日に至るまで我が国を呪い続けるレーニンの亡霊を払拭しない限り、日本の再興はあり得ないのである。蓋し祖国に高貴なる名誉と価値、光輝なる歴史が存在してこそ、国民は、国家の生命力そのものである「祖国を愛し守り発展させんとする精神」を身命に宿すのである。

(1)三田村【戦争と共産主義】一五三頁。
(2)【萱野長知孫文関係資料集】三五七頁。神尾【香港日記】昭和十四年十月二十五日の条。
(3)【小川平吉関係文書2】六六〇頁「昭和十四年十月一日小川平吉宛萱野長知(在香港)電報」
(4)【萱野長知孫文関係資料集】二六五頁。
(5)官報号外昭和二十年九月六日衆議院議事速記録第二号 国務大臣稔彦王殿下の演説。
(6)関野通夫【日本人を狂わせた洗脳工作いまなお続く占領軍の心理作戦】参照。
(7)瀧井一博編【伊藤博文演説集】八〇~八三頁。金子【憲法制定と欧米人の評論】六四~六六頁。
 アメリカの占領軍が日本国を民主化したと戦後民主主義教育によって信じ込まされてきた戦後生まれの日本人にとって皮肉な事に、人民の能力への不信感を率直に表明し、立法機関を厳重に制限し直接民主制を否定しなければならないことを力説するザ・フェデラリストの第四七篇「権力分立制の意味」、第四八篇「立法部による権力侵害の危険性」、第四九篇「権力簒奪防止策」、第五一篇「抑制均衡の理論」、第六二篇「上院の構成」、第六三篇「上院の任期」、第七八篇「司法部の機能と判事の任期」が伊藤博文の憲法義解への理解と尊敬を深め、非公選の貴族院と皇室の自治を欠く日本国憲法の数々の欠陥を教えてくれるのである。
(8)金子【憲法制定と欧米人の評論】三三四~三四一頁。井上孚麿【現憲法無効論-憲法恢弘の法理】一五三~一五四頁。
(9) 甲斐弦【GHQ検閲官】一一九~一二〇頁。江藤淳【閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本】参照。アメリカ軍第三民間検閲局(CCD)に勤務した甲斐弦は、上司から「憲法への反響には特に注意せよ」と指示されていたが、検閲官として甲斐が読んだ手紙の八割から九割までが悲惨きわまりないものであったものの、新憲法を歓迎する手紙は無かったという。
(10)【コミンテルン資料集1】一九三~一九四頁「一九二〇年八月六日コミンテルン第二回大会 資本主義世界とコミンテルン プロレタリア革命とコミンテルン」、五〇四頁「一九二一年七月十二日共産主義インタナショナルと共産主義的青年運動についての決議」

 共産党が私有財産制度を否定し生産手段を国有化する一党独裁国家は、果たして何時どのようにして死滅し得るのか?誰もが抱くこの疑問に対してレーニンは「われわれは、国家は不可避的に死滅するというにとどめて、この過程が長期にわたること、それが共産主義の高度の段階の発展速度に依存していることを強調し、国家死滅の期日やそれの具体的形態の問題はまったく未解決のままに残しておいてさしつかえない。なぜなら、このような問題を解決するための材料がないからである」という実に詭弁家らしい逃げ口上を述べ、回答を避けた(レーニン【国家と革命】一三五頁)。

 筆者が推測するに、共産主義国家内部においてマルクス・レーニン主義の特徴であるテロ連鎖現象が長く続いて人口が激減し、国家の存立そのものが不可能になる時、国家は死滅するのであろう。
(11)田中正明【掃葉集このままでは日本は危ない】一三頁。
(12)官報号外昭和二十七年十二月九日第十五回国会衆議院会議録第十一回。
(13)冨士【南京大虐殺はこうして作られた】六三頁。【パル判決書上】五三七~五三八頁。
(14)小堀【東京裁判日本の弁明】九~六十二頁。【パル判決上】五三五~六一四頁「第三部証拠および手続きに関する規則」


【主要参考引用文献】

<公刊戦史>

大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯1~5
大本営海軍部開戦経緯1~2
支那事変陸軍作戦1~3
昭和二十年の支那派遣軍1~2
北支の治安戦1~2
大本営陸軍部1~10
関東軍1~2
中国方面陸軍航空作戦
海上護衛戦
(以上、防衛庁戦史叢書/朝雲新聞社)

日中戦争1~5(児島襄著/文春文庫、一九八八)
太平洋戦争上下(児島襄著/中公新書、一九六六)
天皇1~5(児島襄著/文春文庫、一九八一)
第二次世界大戦ヒトラーの戦い1~10(児島襄著/文春文庫、一九九二)
大東亜戦争への道(中村粲著/展転社、一九九〇)
軍閥興亡史1~3(伊藤正徳著/光人社文庫、一九九八)
興亡と夢1~5(三好徹著/集英社文庫、一九八八)
重臣たちの昭和史上下(勝田龍夫著/文春文庫、一九八四)
ヒトラーの戦場(柘植久慶著/集英社文庫、一九九三)

<研究書>

大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義(三田村武夫著/自由選書、一九八七)
近衛文麿とルーズベルト(中川八洋著/PHP出版、一九九五)
近衛新体制(伊藤隆著/中公新書、一九八三)
参謀の戦争(土門周平著/PHP文庫、一九九九)
ピースフィーラー(戸部良一著/論創社、一九九一)
黎明の世紀(深田祐介著/文芸春秋、一九九一)
異なる悲劇日本とドイツ(西尾幹二著/文芸春秋、一九九四)
繆斌工作成らず(横山銕三著/展転社、一九九二)
仕組まれた南京大虐殺(大井満著/展転社、一九九五)
南京大虐殺はこうして作られた(冨士信夫著/展転社、一九九五)
南京虐殺の徹底検証(東中野修道著/展転社。一九九八)
敗者の戦後(入江隆則著/徳間文庫、一九九八)
ハルノートを書いた男(須藤真志著/文春新書、一九九九)
日ソ諜報戦の軌跡―明石工作とゾルゲ工作(黒羽茂著/星雲社、一九九一)
戦略大東亜戦争(佐藤晃著/戦史刊行会、一九九六)
満洲事変(西内雅著/錦正社、一九八八)
世紀末から見た大東亜戦争(現代アジア研究会編/プレジデント社、一九九一)
日本は侵略国家ではない(勝田吉太郎編/善本社、一九九三)
世界から見た大東亜戦争(名越二荒之助編/展転社、一九九一)
アジアに生きる大東亜戦争(アセアンセンター編/展転社、一九八八)
封印の昭和史(小室直樹、渡部昇一著/徳間書店、一九九五)
抹殺された日本人の現代史(小日本社編集員会編/全貌社、一九九五)
自ら国を潰すのか(小室直樹、渡部昇一著/徳間書店、一九九三)
かくて昭和史は甦る(渡部昇一著/クレスト社、一九九五)
日本史から見た日本人昭和編(渡部昇一著/クレスト社、一九八九)
人間はなぜ戦争をするのか(日下公人著/クレスト社、一九九六)
軍ファシズム運動史(秦郁彦著/原書房、一九八〇)
戦後秘史崩壊の歯車(大森実著/講談社、一九七五)
悪の論理(倉前盛通/角川文庫、一九八〇)
日本的組織原理の功罪(長谷川慶太郎編/PHP、一九八六)
情報戦の敗北(長谷川慶太郎編/PHP文庫、一九九七)
パール博士の日本無罪論(田中正明著/慧文社、一九六三)
満州国の遺産(黄文雄著/光文社、二〇〇一)
ノモンハン事件の真相と戦果ソ連軍撃破の記録(小田洋太郎、田端元著/有朋書院、二〇〇二)
Venona Decoding Soviet Espionage in America(John Earl Haynes、Harvey Klehr著/エール大学、二〇〇〇)

<資料>

パル判決書上下(東京裁判研究会編/講談社学術文庫、一九八四)
東京裁判却下未提出弁護側資料1~8(東京裁判資料刊行会/国書刊行会、一九九五)
東京裁判日本の弁明―東京裁判却下未提出弁護側資料抜粋(小堀桂一郎編/講談社学術文庫、一九九五)
終戦工作の記録上下(江藤淳監修、波多野澄雄編/講談社文庫、一九八六)
尾崎秀実著作集1~5(尾崎秀実著/勁草書房、一九七九)
小川平吉関係文書1~2(岡義武編/みすず書房、一九七三)
木戸幸一関係文書(木戸日記研究会/東京大学出版、一九六六)
木戸幸一日記上下(東京大学出版、一九六六)
近衛日記(共同通信社、一九六八)
宇垣一成日記(みすず書房、一九七一)
萱野長知孫文関係資料集(久保田文次編/高知市民図書館、二〇〇一)
枢密院重要議事覚書(深井英五著/岩波書店、一九五三)
大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌(軍事史学会編/錦正社、一九九八)
東條内閣総理大臣機密記録(伊藤隆編/東京大学出版、一九九〇)
鳩山一郎日記(鳩山一郎著/中央公論社、一九九九)
現代史資料ゾルゲ事件1~4(みすず書房、一九七一)
開戦前夜の近衛内閣(尾崎秀実、今井清一著編著/青木書店、一九九四)
現代史資料国家主義運動(みすず書房、一九六三)
現代史資料日中戦争1~5(みすず書房、一九六六)
現代史資料国家総動員1~2(みすず書房、一九七〇)
畑俊六日誌(みすず書房、一九八三)
矢部貞治日記銀杏の巻(読売新聞社、一九七四)
最終戦争論戦争史大観(石原莞爾著/中公文庫、一九九三)
石原莞爾資料国防論策編(角田順編/原書房、一九九四)
敗戦の記録(参謀本部編/原書房、一九六七)
杉山メモ上下(参謀本部編/原書房、一九八九)
日本陸海軍事典(原剛、安岡昭男編/新人物往来社、一九九七)
コミンテルン資料集1~6(村田陽一編/大月書店、一九八一)
我が闘争上下(アドルフヒトラー著/角川文庫、一九七三)
マルクスエンゲルス共産党宣言(岩波文庫、一九五一)
国家と革命(レーニン著/岩波文庫、一九五七)
満洲国歴史(矢野仁一著/目黒書店、一九三三)
禁苑の黎明(レジナルド・ジョンストン著/大樹社書房、一九三四)
満洲国出現の合理性(ジョージ・ブロンソン・レー著/日本国際協会、一九三六)
日本経済の再編成(笠信太郎著/中央公論社、一九三九)
日本経済の再編成批判(山本勝市著/日本工業倶楽部調査課、一九四〇)
一億人の法律(猪俣浩三著/有光社、一九四〇)
欽定憲法の真髄と大政翼賛会(川崎克著/固本盛國社、一九四一)
太平洋問題研究叢書太平洋に於ける英帝国の衰亡(角田順著、太平洋協会編/中央公論社、一九四二)
新世界の構想と現実(細川嘉六編/中央公論社、一九四二)
大アジア主義の歴史的基礎(平野義太郎著/河出書房、一九四五)
進歩的文化人―学者先生戦前戦後言質集(全貌社、一九五七)
憲法義解(伊藤博文著/岩波書店、一九四〇)
憲法制定と欧米人の評論(金子堅太郎著/日本青年館、一九三八年版)
アメリカ共産党とコミンテルン-地下活動の記録(H・クレア、J・H・ヘインズ、F・I・フィルソフ著/五月書房、二〇〇〇)
帝国憲法制定会議(清水伸著/岩波書店、一九四〇)
修身全資料集成(宮坂宥洪、渡部昇一編/四季社、二〇〇〇)
空襲と国際法(田岡良一著/巌松堂書店、一九三七年)
リットン報告書全文(国際聯盟支那調査委員会編/朝日新聞社、一九三二)
新国家大満洲(趙欣伯著/東京書房、一九三二)

<伝記回顧録>

参謀(児島襄著/文春文庫、一九七五)
日本の曲がり角(池田純久著/千城出版、一九六八)
幣原喜重郎とその時代(岡崎久彦著/PHP、二〇〇〇)
敗戦日本の内側(富田健治著/古今書院、一九六二)
侍従長の回想(藤田尚徳著/中公文庫、一九八七)
風雪五十年(内田信也著/実業之日本社、一九五一)
田尻愛義回想録(田尻愛義著/原書房、一九七七)
昭和動乱の真相(安部源基著/原書房、一九七七)
日本軍閥暗闘史(田中隆吉/中公文庫、一九八八)
大本営機密日誌(種村佐孝著/芙蓉書房、一九八五)
石原莞爾(藤本治毅著/時事通信社、一九六四)
石原莞爾(青江舜二郎/中公文庫、一九九二)
石原莞爾甦る戦略家の肖像上下(佐治芳彦著/日本文芸社、一九八七)
陸軍の異端児石原莞爾(小松茂朗著/光人社、一九九一)
将軍石原莞爾(白土菊枝著/中央公論社、一九九五)
秘録石原莞爾(横山臣平著/芙蓉書房、一九七一)
秘録宇垣一成(額田坦著/芙蓉書房、一九七三)
秘録土肥原賢二(土肥原賢二刊行会編/芙蓉書房、一九七三)
支那事変の回想(今井武夫著/みすず書房、一九六四)
作戦部長東條ヲ罵倒ス(田中新一著、松下芳男編/芙蓉書房、一九八六)
大東亜戦争収拾の真相(松谷誠著/芙蓉書房、一九八〇)
支那事変戦争指導史(堀場一雄著/原書房、一九七三)
堀場一雄反骨の記録ある作戦参謀の悲劇(芹沢紀之著/芙蓉書房、一九七四)
岡村寧次大将資料(稲葉正夫編/原書房、一九七〇)
大本営参謀の情報戦記(堀栄三著/文春文庫、一九九六)
大東亜戦争回顧録(佐藤賢了著/徳間書店、一九六六)
参謀本部の暴れ者陸軍参謀朝枝繁春(三根生久大著/文藝春秋、一九九二)
バルト海のほとりにて武官の妻の大東亜戦争(小野寺百合子著/共同通信社、一九八五)
瀬島龍三(保坂正康著/文春文庫、一九九一)
沈黙のファイル瀬島龍三とは何だったのか(共同通信社会部編/新潮文庫、一九九九)
近衛文麿上下(矢部貞治著/弘文堂、一九五二)
蒋介石秘録12(サンケイ新聞社、一九七一)
ルーズベルト秘録下(産経新聞社、二〇〇〇)
第二次大戦に勝者なし上下(A・C・ウェデマイヤー著/講談社学術文庫、一九九七)
昭和研究会(後藤隆之助編/経済往来社、一九六八)
昭和研究会(酒井三郎著/TBSブリタニカ 一九七九)
日米開戦の悲劇(ハミルトンフィッシュ著/PHP文庫、一九九二)
私の見た東京裁判上下(富士信夫著/講談社学術文庫、一九八八)
私の中の日本軍上下(山本七平著/文春文庫、一九八三)
国際スパイゾルゲの真実(下斗米伸夫著/角川文庫、一九九五)
ゾルゲ東京を狙え上下(ゴードンプランゲ著/原書房、一九八五)
日本陸軍英傑伝(岡田益吉著/光人社文庫、一九九四)
さらば吉田茂(片岡鉄哉著/文芸春秋、一九九二)
ハイエク(渡部昇一著/PHP出版、一九九九)
1941.12.20アメリカ義勇航空隊出撃(吉田一彦著/徳間文庫、一九九八)
二つの祖国にかける橋(吉田東祐著/元就出版社、二〇〇一)
プリンス近衛殺人事件(V・A・アルハンゲリスキー著/新潮社、二〇〇〇)
秘録東京裁判(清瀬一郎/中公文庫、一九八六)
悲劇の証人(西義顕著/文献社、一九六二)
情報将軍明石元二郎(豊田穣著/光人社文庫、一九九四)
昭和史の証言真崎甚三郎、人その思想(山口富永著/政界公論社、一九七〇)
昭和憲兵史(大谷敬二郎著/みすず書房、一九六六)
昭和史と私(林健太郎著/文芸春秋、一九九二)
回顧七十年(斎藤隆夫著/中公文庫、一九八七)

<その他>

戦争学(松村劭著/文春新書、一九九七)
朝日新聞血風録(稲垣武著/文春文庫、一九九六)
悪魔祓いの戦後史(稲垣武著/文春文庫、一九九七)
正統の哲学異端の思想(中川八洋著/徳間書店、一九九六)
悪魔の思想(谷沢永一著/クレスト社、一九九六)
日本の神々の事典神道祭祀と八百万の神々(薗田稔、茂木栄監修/学習研究社/一九九七)
国民のための戦争と平和の法(小室直樹、色摩力夫著/総合法令、一九九三)
痛快憲法学(小室直樹著/集英社、二〇〇一)
憲法はかくして作られた(伊藤哲夫著/日本政策研究センター、一九九一)
地政学入門(曽村保信著/中公新書、一九八四)
インフレとデフレ(岩田規久男著/講談社現代新書、一九九〇)
歴史の鉄則(渡部昇一著/PHP文庫、一九九六)
亡国か再生か(西村真悟著/展転社、一九九五)
朝日新聞の犯罪(世界日報社、一九八六)
日本的革命の哲学(山本七平著/PHP出版、一九八二)
人類後史への出発(石原莞爾平和思想研究会編/展転社、一九九六)
世界が裁く東京裁判(終戦五十周年国民委員会編/ジュピター出版、一九九六)
日本国憲法を考える(西修著/文春新書、一九九九)
一九四六年憲法(江藤淳著/文春文庫、一九九五)
現行憲法無効宣言(南出喜久治著/動向平成九年盛夏号所載)
国際法と日本(佐藤和男著/神社本庁研修ブックレット、一九九二)
正統憲法復元改正への道標(小森義峯著/国書刊行会、二〇〇〇)
現憲法無効論-憲法恢弘の法理(井上孚麿著/日本教文社、一九七五)など
(順不同)

 その他多数にのぼりますが、この場を借りて著者先生方に厚くお礼申し上げます。なお本文中の引用資料について、大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌を除いて、読者の便を考え、筆者がカタカナをひらがなに、歴史仮名遣いを現代仮名遣いに直し、適宜句読点を加えました(龍井 榮侍)。

【石原莞爾の予言】 

 それにしても日本は今後物心両面に亘る恐るべき疾風怒濤時代を迎えるのである。アメリカは自己の善と信ずる生活文化、様式、思想を滝の如く注いで日本をアメリカ化せんとすることは明らかである。それは教育に浸透し、生活を風靡するに至るであろう。それに英国的、ソ連式思想が加わってくる。日本的思想、醇風美俗、世界人心は滔々たる大勢に押し流され、寸断されもみくちゃにされる。

 私は日本は思想的にどん底まで叩き落とされるものと確信する。満洲事変、支那事変においても日本国民は目覚めず、大東亜戦争においても未だ精神的に立ち上がらず、その敗戦の惨烈さに遭ってはじめて覚醒するかと思えば未だしの感である。要するにまだ足りないのだ。落ちて落ちてどん底に突きあたりどうにもならぬ時に至ってはじめて民族の魂が究極の拠り所を呼び求めるのである。一陣の清風、一個の炬火、それは真に魂が求める時にこそ与えられるべきものである。怒濤よ逆巻け、暴風よ吹け、それはすべて日本人が経験しなければ目覚め得ぬ「民族の禊」である事を私は確信する(昭和二十年八月二十八日、石原莞爾)。


【あとがき】

 私は幼少の頃より周囲の人間から変人扱いされてきたほどに歴史好きな男であり、いつか総合戦史を執筆したいと思っていました。

 森首相が「日本は天皇を中心とする神の国」と発言した直後に行われた衆議院選挙の最中に、私はボランティアとして西村真悟さんの選挙事務所へ手伝いに行ったのですが、そこで遠山景久氏と「戦争と共産主義」の復刊に携わった月間日本発行人の南丘喜八郎氏の部下である月間日本編集委員の野間健さんと出会いました。私も野間さんも、「戦争と共産主義」を所有している人間は日本にほとんど居ない、と思っていたので、不思議な縁に驚き、すっかり意気投合しました。

 私は、東京裁判史観を覆す比類なき名著と評価される「大東亜戦争への道」のどこが名著なのかサッパリ判らず、せいぜい歴史辞書として役に立つ程度だな、と思っていましたが、野間さんも、中村教授は木を見て森を見ていない、と批判されており、私は自分の書評に自信を持ちました。私が総合戦史を書くために資料を集めていることを話すと、野間さんから是非、月間日本に寄稿してくれるよう頼まれ、原稿を書いたのですが、結局自分の力量不足のためボツになってしまいました。しかしこれを契機に本格的に戦史を執筆し、石原莞爾のホームページ管理人の八橋さんに無理を言って石原莞爾メールマガジンに2001年5月から翌年7月まで連載していただきました。割と好評だったので調子に乗って単行本化に挑戦してみたのですが、ダメでした。しかし「祖国と青年」の編集部を通して、元陸軍軍人であり、かつて山陽電鉄取締役を務められ現在は山口県の自動車学校社長兼国民文化研究所委員の加藤善之さんに原稿を読んでいただいたところ、加藤さんは私の自宅にまで電話をくれて「読んで本当に仰天しました。生きてて本当に良かった。ぜひあなたのような方に日本を指導していただきたい」と(!?)こちらが恐縮するほど(笑)大絶賛し激励して下さいました。そこで私は再度加筆修正を行い出版社の方に指摘された「資料の過度の生引用」を改め、三分の一ほど書き改めて「新風舎」に原稿を審査していただいたところ、大絶賛されました。ようやく私の原稿は単行本化に相応しい水準に達したということでしょう。

 しかし深刻な出版不況の折、出版社が無名の人間の戦史を企画出版することは困難な様で、私は著者と会社が出版資金を折半する共同出版を提案されたのですが、残念ながら私は貧乏なもので、資金を工面できず単行本化を断念せざるを得ませんでした。

 しかしこれも八百万の神々のお導きでありましょう。石原莞爾に「こらっ!龍井榮侍よ、私利私欲に溺れることなく日本民族の魂と真姿を蘇らせよ!」と大喝されたものと自分を慰めています。

 学校が生徒に教える日本史とは全く違う「戦争の天才と謀略の天才の戦い 国民のための大東亜戦争抄史1928~56」を読み、身命に真実を求め祖国を護る志を宿した方、是非とも親類縁者、仲間友人同僚の方々に東亜連盟戦史研究所を宣伝して下さい。そして最低でも十人の知り合いに、この戦史を読ませて下さい。そうすれば日本は甦るでしょう(笑)。衰退著しい我が国を再興させる原動力は、国民一人一人の志です。

 この作品が少しでも読者の皆様の戦史に対する関心や興味を高め、勉強や研究に役立つことを祈念しつつ、私は筆を擱きたいと思います。

 読んでいただき有難うございました。



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

国民のための大東亜戦争正統抄史88~93近衛文麿の正体

【近衛文麿の正体】


88、密会

 昭和二十年六月二十五日、我が大本営は沖縄戦の終焉を公表した。沖縄に展開した我が軍は防衛隊員、鉄血勤皇隊員を含め、約十一万人が戦死し、沖縄県民約九万四千人も戦闘に巻き込まれ痛ましい死を遂げ、日本本土からは海軍機千六百三十七機、陸軍機九百三十四機合わせて二千五百七十一機もの特攻機が、沖縄を守らんとして沖縄海域の米英艦隊に突入し、散華した。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和二十年六月二十五日 月曜
沖縄終戦ニ関スル大本営発表アリ。襟ヲ正シテ自省自奮アルノミ、
右ニ伴フ明日行フヘキ総理談又ハ告諭ニ付内閣ニ於テ討議ノ結果告諭トシテ発表スルコトヽナレリ。
午後五時発小田原山荘ニ近衛公ヲ訪ル(種村)、途中国府津ニテ岡村憲兵ト奇遇スルアリ秘密行ス。政談ヲ一切抜キニシテ専ラ軍事情勢ニツキ公ニ本土決戦必勝ノ信念ヲ与フル如ク力説スルコト三時間公ヲシテ電燈ヲトリテ門前ニ予ヲ送ラシムルニ至ル。
惓モ死児ノ齢ヲ数フルカ如シト前提シテ公三国同盟ノ締結及独「ソ」開戦当時、大東亜戦争前等ヲ思ヒ感慨深ク語ル
食料問題ハ大政治問題化スヘシトテ陸戦隊化シタル海軍ノ整備ヲ論ス。
再会ヲ約シテ去ル、一重臣ヲシテ戦意ニ燃エシメタリトセハ千万人ト雖モ我往カン。
午後十一時三十分徒歩三十分ニシテ湯本吉池旅館ニ永井少将ヲ訪レ同宿御見舞ス。
箱根街道ハ三百年前ノ昔ノ如ク深夜人ナシ。感激深シ。
公曰ク「此ノ次ハ陸軍ノ時代ナリ宜シク御奮闘ヲ祈ル」ト


89、近衛特使案

 陸軍強硬派の主張する本土決戦が間近に迫る中、六月十九日、東郷外相は駐日ソ連大使マリクと会談した(六月三、四日)広田弘毅元首相に、マリクとの交渉目的にソ連の和平仲介斡旋を加えるよう要請した。かねてよりソ連に警戒不信感を抱いていた駐ソ日本大使の佐藤尚武は三月末、駐ソ公使の守島伍郎を帰国させ、政府軍部の指導者にソ連を活用して時局の好転を図ることは不可能であることを説いて回っていた。だが東郷外相は、

 「ソ連に対しあらゆる努力をしなければならない。手があるとかないと云って居る場合ではない。何とかしなければならない事態に立ち至っているのだ」

とソ連を仲介とする対米英和平に固執し、二十三日、広田に二十二日の御前会議における昭和天皇の御言葉「亦一面時局収拾につき考慮することも必要なるべし」を伝え、マリクとの交渉を急ぐよう督促した。翌二十四日、広田はマリクと会談、まずアジアの平和のため、日ソ両国の立場が相互に饗応するが如き関係の設定を説いたが、マリクは、広田の提案は抽象的であると述べ、条件の具体化を求めた。二十九日、広田は東アジアの平和維持に関する相互支持協定と不侵略協定を提案すると同時に、

(1)満洲国の中立化
(2)石油供給の代償として漁業権の解消
(3)その他の条件についても議論の余地あり

という条件を提示し、至急回答を要請した。マリクは本国政府への伝達を約束したが、以後、我が国側の督促にも拘わらず病気を理由に引き籠もってしまい、広田マリク会談は事実上中断されることになった。

 七月八日、焦慮の色を濃くした東郷外相は軽井沢に近衛文麿を訪ね、彼にソ連に対米英和平仲介を求める特使としてモスクワに赴くよう要請したところ、近衛は、陛下からそういう御命令があれば行ってもよい、と返答した。十一日、鈴木内閣から近衛特使案を内奏された昭和天皇は、その翌日に近衛を御召しになり、

 「ソ連に使いしてもらうことになるかも知れないから、その時はよろしく頼む」

との御言葉を述べられた。近衛は、

 「いかなる条件でソ連に仲介を頼むかこれから至急研究致しまして、改めて拝謁致したく存じます」

と奉答した後、富田健治を介して酒井鎬次と協議し、「和平交渉に関する要綱」をまとめあげた。十五日、松本俊一外務次官が近衛を来訪して交渉の訓令について相談しようとすると、近衛は「訓令などいらない」と拒絶し、語気鋭く彼の決意を語った。

 「この際は無条件降伏以外には戦争終結の途はない。まだ名誉ある講和、交渉による講和を考えている様だが、もう手遅れだ。自分はモスコーへ行ったら、スターリンの考えを直接陛下にお伝えする考えだ。」       

 東郷外相は佐藤大使宛に、近衛特使派遣をソ連政府に申し入れ、ソ連側の同意を取り付けるよう訓令した。十三日、佐藤大使はソ連外相モロトフに面会を求めたが、この日はモロトフとスターリンがベルリンに出発する日であった為、ソ連当局の要請により、佐藤大使はやむなくロゾフスキー次官に、近衛特使案に関するモロトフ宛の親書を渡し、早急なる回答を求めた。しかし十八日、ソ連側は近衛特使の使命が不明瞭なことを理由にして「確たる回答を為すことは不可能なり」との書簡を送ってきた。

 これに接した東郷外相は、佐藤大使に対し「近衛特使の使命はソ連政府の尽力により戦争を終結せしむる様斡旋を依頼し此に関する具体的意図を開陳すること」であることをソ連側に伝え特使派遣の同意を取り付けるよう再度訓電した。但し「ソ連側の望む具体的条件を示すことはこれ又対内関係上並びに対外関係上不可能且つ不利」であると付け加えた。 

 二十五日、佐藤大使はロゾフスキーと再度会見した。ロゾフスキーは、日本政府が戦争終結の為ソ連に斡旋を求める点は了解したものの、近衛はどのような具体的提議を為すのか、と迫ったが、佐藤大使は特使の使命の重要性を強調する以外に応じ得なかった。
 一方、東京では、ソ連側の回答が思わしくないにも拘わらず、「スターリンが二十五日頃帰るだろう。そうすれば急にソ連に行くことになるかもしれない」との予想の下に、近衛の随員の選定が行われていた。近衛は首席随員に酒井を望み、さらに「自分の気持ちの分かる者」として、富田、細川護貞、伊藤述史、松谷誠大佐、高木惣吉少将そして同盟通信の松本重治等を推した。


90、聖断

 だが二十六日、米英中よりポツダム宣言が発表され、ソ連の対日参戦が、ソ連に対米英和平の仲介を依頼するという鈴木内閣の既定方針を砕いた為、近衛特使案は中断された。我が国政府の終戦外交の重点はポツダム宣言受諾の是非に移行し、八月十、十四日の御前会議において鈴木首相より非常措置として聖断を仰がれた昭和天皇は、ポツダム宣言の受諾を御決断された。 御前会議の終了後、陸軍省軍務課の竹下正彦中佐が阿南惟幾陸軍大臣の元に駆けつけ、阿南陸相に「辞職して副署を拒んでは如何」と進言した。この進言に動揺した阿南陸相は、林三郎秘書官に辞職の用意を命じたものの、すぐに翻意して辞職を思いとどまり、同日午後七時二十分から始まった閣議において他の閣僚とともに詔書に署名した(大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌昭和二十年八月十四日の条)。

 かくして昭和天皇の御聖断は終戦の詔書として実施の効力を得(憲法第五十五条による)、我が国の国家意志として確定したのであった。我が国は辛うじて敗戦革命を免れ、「大戦を最後まで戦い抜くために」と政府を煽動した尾崎秀実の野望は、我が国においては達成されなかった。

終戦の詔書(昭和二十年八月十五日の玉音放送内容)

 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。
 朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。

 抑々帝国臣民の康寧を図り万邦共栄の楽を偕にするは皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々措かざる所先に米英二国に宣戦せる所以も亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て他国の主権を排し領土を侵すが如きは固より朕が志にあらず。

 然るに交戦既に四歳を閲し朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるに拘らず戦局必ずしも好転せず世界の大勢亦我に利あらず加之敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る、而も尚交戦を継続せんか終に我が民族の滅亡を招来するのみならず延て人類の文明をも破却すべし。斯の如くんば朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せんや。是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。

 朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず。 帝国臣民にして戦陣に死し職域に殉じ非命に斃れたる者及び其の遺族に想を致せば五内為に裂く。且戦傷を負い災禍を蒙り家業を失いたる者の厚生に至りては朕は深く軫念する所なり。

 惟うに今後帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず、爾臣民の衷情も朕善く之を知る。然れども朕は時運の赴く所堪え難きを堪え忍び難きを忍び以て万世の為に太平を開かんと欲す。

 朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り、若し夫れ情の激する所濫に事端を滋くし或いは同胞排擠互に時局を乱り為に大道を誤り信義を世界に失うが如きは朕最も之を戒む。宜しく挙国一家子孫相伝え確く神州の不滅を信じ任重くして道遠きを思い総力を将来の建設に傾け道義を篤くし志操を鞏くし誓つて国体の精華を発揚し世界の進運に遅れざらんことを期すべし。

 爾臣民其れ克く朕が意を体せよ。

  御名 御璽

   昭和二十年八月十四日

    内閣総理大臣他各国務大臣 副署


91、昭和という時代

 昭和時代―我が日本国がマルクス・レーニン主義に深く蝕まれてしまった思想的国難期―において、昭和天皇は、立憲君主という制約の中で三度、『悪魔とその祖母』とさえ妥協する共産主義者から我が国を救い出されたのであった。

 戦後、東京裁判裁判長を務めたウェッブは、戦史家の児島襄氏から昭和天皇に関する質問を受け、

 「神だ。あれだけの試練を受けても帝位を維持しているのは、神でなければできぬ。そうじゃないか」

と即答した(1)。
 神道のカミ即ち日本の神々は、キリスト教のゴッド(God、天主)ではなく、隠(クム)にして上(カミ)であり、隠(こも)れる生命の根源にして、見えざる畏れ多き聖霊(holly spirit)である。語源的にクム(隠れる)やクマ(見えない影)という古語が語形変化してカミとなった。従って日本のカミは何か隠れて目に見えないという語意を強く持った神秘的な存在をいう。しかもカミは、川下に対する川上、水上のカミにも通じて水源や本源を意味し、また古典に、国魂の神、生魂の神、足魂の神ともあるように、タマ=霊魂・ムスビ=産霊つまり物を生み成す生命霊という意味を併せ持っている。

 日本民族は、生活を支える豊かな自然風土に潜む不可視の霊性を指してカミと呼ぶ(2)。日本の神は、山、川、草、木、海、岩といった自然や柱、刀、厠、竃といった器物など森羅万象に宿り、また先祖や過去と現在の偉人の霊魂も神となり得る。だからこそ我が国は八百万(やおよろず)の神の国なのである。
 昭和十八年一月十五日発行の国民学校(尋常小学校の後身)初等科用修身教科書は児童に対して以下のように「日本は神の國」と教えた(3)。

 「穂を重そうにたれて、金色の波をうっていた稲の取り入れはもうすんで、十一月二十三日には新嘗祭の日がまいります。天皇陛下は、この日、今年の初穂を神々にお供えになって、御みづからも新穀をきこしめすのであります。新嘗祭の御儀は、毎年行われるものでありますが、天皇御即位のはじめの新嘗祭を、特に大嘗祭と申しております。

 大嘗祭は、わが國でいちばん尊い、いちばん大切な御祭りであります。御一代に御一度、神代そのままに、こうごうしいこの御祭りをあそばされるのは、実にわが大日本が、神の國であるからであります。

 皇祖天照大神は、高天原で五穀の種子を得られて、これを天の狭田、天の長田にお植えさせになり、やがてみのってから、大嘗殿できこしめされました。皇孫ニニギノミコトの御降臨の時、

『吾が高天原に御す斎庭の穂を以て、また吾が兒に御せまつる』

と仰せられ、この稲をもって御先祖をまつり、御みずからもきこしめし、万民にも与えるようにとおさとしになりました。このようなありがたい大御心にしたがって、御代御代の天皇は、この御祭をおごそかに行わせられたのであります。大嘗祭の御儀には、まず悠紀・主基の二地方に分けて、新穀をたてまつる斎田をお定めになります。そうして御祭は特に京都で行われるのであります。

 今上天皇陛下の大嘗祭は、昭和三年十一月十四日から十五日へかけて、行わせられました。御儀式は、厳粛をきわめてもので、夕方から始まりました。宵の御祭が行われることになると、古式による御質素な殿舎が、闇につつまれ、ときどく燃え上がる庭燎の火に、黒木の柱と庭の上の敷砂とが、ほのかに闇の中に浮かび出ました。陛下には、この時すでに、したしく祓い、みそぎ、鎮魂の御行事を終えさせられ、御祭服も、こうごうしく、神殿に玉歩をお進めになったのであります。

 まず、悠紀殿に渡御あらせられて、御みずから、天照大神やほかの神々を、おまつりになり、白酒、黒酒を始めとして、斎田の新穀をお供えになり、御自身もまたきこしめされました。この間稲舂歌(いねつきうた)・風俗歌などが、けだかく、ゆかしい調子でゆるやかに歌われ、こうごうしさは一段と加わりました。これこそ、実に大神と天皇とが御一体におなりあそばす御神事であって、わが大日本が神の國であることを明らかにするもの、と申さなければなりません(中略)。

 私たちは、この記念すべき日を思うて、神の國日本に生れた喜びと信念とを新しくするものであります。」

 日本共産党再組織評議会が開かれた直後に践祚され、昭和六十四年(一九八九)一月七日、ベルリンの壁とソ連の崩壊を直前にして崩御された昭和天皇は、我が国が共産主義者によってソ連の如き左翼全体主義国家―二十一世紀の今なお地球上に現存するこの世の地獄―に変えられることを阻止する為に、我が国を守護する八百万の神々から遣わされた現人神―現実に生きている人間でありながら崇高な霊魂を秘めた畏れ多き仁愛深き存在だったのであろう・・・。

(1)児島襄【天皇5】三七二頁。
(2)薗田稔、茂木栄監修【日本の神々の事典】一二二頁。
(3)【修身全資料集成】四五五~四五七頁。


92、近衛の和平条件

 ところで昭和十五年に八百万の神々のにくませ給うた孟子の一節を引用して昭和天皇に対する憎悪を露わにしていた近衛文麿は、如何なる条件でソ連に和平仲介を依頼しようとしていたのであろうか?

和平交渉に関する要綱、一九四五年(1)

 一、方 針

一、聖慮を奉戴し成し得る限り速に戦争を終結し以て我国民は勿論世界人類全般を迅速に戦禍より救出し御仁慈の精神を内外に徹底せしめることに全力を傾注す。

二、これが為め内外の切迫せる情勢を広く達観し交渉条件の如きは前項方針の達成に重点を置き、難きを求めず悠久なる我国体を護持するを主眼とし細部に就ては他日の再起大成に俟つの宏量を以て交渉に臨むものとす。

三、ソ連の仲介による交渉成立に極力努力するも万一失敗に帰したるときは直ちに英米との直接交渉を開始す。

 その交渉方針及条件に就ては概ね本要綱によるものとす。


 二、条 件

(一)国体及び国土

イ、国体の護持は絶対にして一歩も譲らざること。

ロ、国土に就ては成るべく他日の便なることに努むるも止むを得ざれば固有本土を以て満足す。

(二)行政司法

イ、我国古来の伝統たる天皇を戴く民本政治には我より進んで復帰するを約す。之が実行の為若干法規の改正教育の革新にも亦同意す。

ロ、行政は右の趣旨に基き帝国政府自らこれに当るに努むるも止むを得ざれば、若干期間監督を受くることに同意す。

ハ、司法は帝国司法権の自立に努むるも戦争に関係ある事項の処理につき止むを得ざれば一時監督を受くることに同意す。

ニ、戦争責任者たる臣下の処分は之を認む。之が実行に関し止むを得ざれば彼我協議の上一部の干渉を承諾す。

(三)陸海空軍々備  

イ、国内の治安確保に必要なる最少限度の兵力は之を保有することに努むるも、止むを得ざれば一時完全なる武装解除に同意す。   

ロ、海外にある軍隊は現地に於て復員し内地に帰還せしむることに努むるも止むを得ざれば当分その若干を現地に残留せしむることに同意す。

ハ、内地にある軍隊は(イ)項に関するものを除き他を悉く速に復員す。

ニ、兵器弾薬、軍用船舶、航空機は(イ)項に関するものを除き之を廃棄又は提出することに同意す。

(四)賠償及び其の他

イ、賠償として一部の労力を提供することには同意す。

ロ、条約実施保障の為めの軍事占領は成るべく之を行わざることに努むるも止むを得ざれば一時若干軍隊の駐屯を認む。

(五)国民生活

イ、窮迫せる刻下の国民生活保持の為め、食料の輸入、軽工業の再建等に関し必要なる援助を得るに努む。

ロ、国土に比し、人口の過剰なるに鑑み、之が是正の為必要なる条件の獲得に努む。   

 三、休戦と平和との関係

一、本要綱の諸条件は、成るべく之を休戦条約に包含せしむることに努むるも、まず速に休戦を成立せしめ国民を戦禍より救うの必要上、止むを得ざれば、その一部を平和会議に移すことに同意す。

二、右の場合、前諸項条件中、重要なるものに関しては少くも好意ある保障を取付くるに努む。


 要綱解説

 第一、目 的

 予(註、近衛文麿)は飽く迄も聖慮を奉じ本交渉を纏めんとする決意を以て出発せんとす。之を以て別紙要綱につき聖断を仰ぎ度所存なる所、余りに細部に亘り断を仰ぐは恐懼に堪えざるを以て別紙要綱の細部につき両人の解釈を一致せしめ所期の効果を発揮せんとす。

 第二、方針に就て

(一)の(二)につき。要綱は条件の下限を明かにしあり。勿論交渉に当りては成るべく有利なる条件を取り付くるに努むるも、最悪の場合には此線に踏み止らんとするものなり。然るに国内一部の方面に於ては、此等に関し反対の起ることなきを保し難し。然れども概ね六月の経験に徴するも、一度聖断下らば之を統一し得ることに確信を得たるを以てこの点特に木戸侯の力に期待するものなり。

(一)の(三)につき。ソ連の仲介による交渉失敗せば直接英米と交渉せんとする所以は由来予はソ連の仲介を必ずしも有利なりとは考えあらざるも国内の情勢上敢て異見を立てざりしものなり。さればソ連との交渉に失敗せば聖慮貫徹の必要上、直ちに英米との直接交渉に移らんことを強く主張せんとす。故に聖断を得ば、予め之が為め所要の準備を整えたる上、出発したし。而してその条件は概ね本要綱によるも情勢によりては若干条件の低下を要することあるべし。

 第三、条件に就て

(一)の(イ)国体の解釈に就ては皇統を確保し天皇政治を行うを主眼とす。但し最悪の場合には御譲位も亦止むを得ざるべし。此の場合に於ても飽く迄も自発の形式をとり、強要の形式を避くることに努む。之が為めの方法に就ては木戸侯に於て予め研究し置かれ度。

(一)の(ロ)固有の本土の解釈に就ては最下限沖縄、小笠原、樺太を捨て千島は南半部を保有する程度とすること。

(二)の(イ)若干法規の改正とは、止むを得ざれば憲法の改正、以下民本的法令に及ぶこと。

(二)の(ロ)彼我協議の上、一部の干渉とは恐らく先方には「リスト」あるべきも、我国内事情に通せざる為、誤りあるべきを以て脱漏を補足する等の口実により協議を求め、之に該当せざるものは誠意を以て説明し之を思い止まらしむる等のことをいう。 

(三)の(イ)治安確保に必要なる兵力とは戦后の国内状勢に鑑み、必要なる武装せる団体の意にしてその名称、所属官衙等に就ては敢て名目上の主張をなさざる考なり。

(三)の(ロ)若干を現地に残留とは、老年次兵は帰国せしめ、弱年次兵は一時労務に服せしむること等を含むものとす。

 第四、休戦と平和との関係に就て

(二)の好意ある保障とは例えば休戦条約の前文に、その意味を挿入するか或は別に非公式文書による言明を取り付くるか或は会議々事緑にその意味を記録する等、各種の方法あるべし。


 近衛は我が国の領土を固有の本土に限定し、我が国がソ連に米英との和平仲介を要請する代償として、スターリンのソ連に対して我が国から朝鮮、台湾、沖縄、小笠原、北千島、南樺太を割譲する準備を整えたのである。ソ連は日本本土を完全包囲して之を侵略し、東アジア全域を共産化することが出来るではないか!

 近衛の和平交渉に関する要綱は、ポツダム宣言、ヤルタ密約より我が国に過酷であり、種村佐孝大佐の対ソ施策に関する意見と変わりない。 

<ポツダム宣言>

一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席、及グレート・ブリテン国総理大臣は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し、今次の戦争を終結するの機会を与うることに意見一致せり。

二、合衆国、英帝国及中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及空軍に依る数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整えたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終始するに至る迄、同国に対し戦争を遂行するの一切の連合国の決意に依り支持せられ且鼓舞せられ居るものなり。

三、蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合に於て全ドイツ国人民の土地、産業及生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し測り知れざる程更に強大なるものなり。吾等の決意に支持せらるる吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。

四、無分別なる打算に依り日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言に依り日本国が引続き統御せられるべきか又は理性の経路を日本国が履むべきかを日本国が決定すべき時期は、到来せり。

五、吾等の条件は、左の如し。

 吾等は、右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。吾等は、遅延を認むるを得ず。

六、吾等は、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は、平和、安全及正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て、日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は、永久に除去せられざるべからず。

七、右の如き新秩序が建設せられ且つ日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るまでは、連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし。

八、カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。

九、日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を 得しめらるべし。

十、吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。日本国政府は、日本国国民の間に於けるデモクラシー的傾向の復活強化(註、原文はthe revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people)に対する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せらるべし。

十一、日本国は、其の経済を支持し、且公正なる実物賠償の取立を可能ならしむるが如き産業を維持することを許さるべし。但し、日本国をして戦争の為再軍備を為すことを得しむるが如き産業は、此の限に在らず。右目的の為、原料の入手(其の支配とは之を区別す)を許さるべし。

十二、前記諸目的が達成せられ且日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、連合国の占領軍は、直に日本国より撤収せらるべし。

十三、吾等は、日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、且右行動に於ける同政府の誠意に付適当且充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は、迅速且完全なる壊滅あるのみとす。

(1)【終戦工作の記録下】二三二~二四二頁。


93、正体

 昭和二十年六~七月にかけて近衛文麿が、「政談ヲ一切抜キニシテ専ラ軍事情勢ニツキ公ニ本土決戦必勝ノ信念ヲ与フル如ク力説スルコト三時間」に及んだ陸軍の親ソ狂信的革新幕僚たる種村佐孝大佐を、

 「此ノ次ハ陸軍ノ時代ナリ宜シク御奮闘ヲ祈ル」

と煽動し、種村と同じくソ連を全面的に利導しソ連に我が国を含む東亜を共産化する機会を与えようと画策したこと、そして近衛が尾崎秀実と共に支那事変を長期化させた松本重治、種村と共に大東亜戦争終末方策を作成し、昭和十九年七月一日「帝国トシテハ甚タ困難ナガラ政略攻勢ニ依リ戦争ノ決ヲ求メサルヲ得ス此ノ際ノ条件ハ唯国体護持アルノミ而シテ政略攻勢ノ対象ハ先ツ「ソ」ニ指向スルヲ可トス斯カル帝国ノ企図不成功ニ終リタル場合ニ於テハ最早一億玉砕アルノミ」と決定した松谷誠大佐を「自分の気持ちの分かる者」と述べてモスクワへの随員に選定したことは、昭和二十年二月の近衛上奏文が近衛の真意と正体を隠蔽するための演技であり、近衛がこの種の韜晦術を得意とする狡猾な政治家であったことを如実に示している。 

 近衛文麿は中学生の頃、自分が高貴な華族の家柄であるが故に貧困に喘ぐ下層階級を見て良心の呵責に苛まれ、弟の秀麿に「社会主義談義」を頻繁に行い、京大学生時代には貧困の問題を研究し、大正三年(一九一四)、近衛は新思潮五、六月号にオスカーワイルドの「社会主義下の人間の魂」を翻訳掲載し(発売禁止処分)、ワイルドの言葉を借りて次のように断言した(1)。

 「私有財産が諸悪の根源であり財産と貧困の害悪を断ち切るには社会主義を実現するしかない。」  

 近衛は後年に京大時代を語り、河上肇について次のように回顧している。

 「当時の河上氏は已にマルクスの研究をしていて、我々にマルクスが読めるようにならなければだめだと始終云っていたが、極端に左傾してはいなかったようだ。氏の宅を訪問すると、書斎に通され、火鉢を囲み刻煙草を吹かしながらもの静かな気持ちでいつまでも話相手になってくれた。この頃私は河上氏から二冊の本を貰った。一つはスパルゴーの『カール・マルクスの生涯と事業』であり、一つはイタリーのトリノ大学のロリア教授の『コンテンポラリーソシャル・プロブレムズ』であった。後者に就ては特に『とても面白い本で、やめることが出来ず徹夜して読んだ』と云って渡された。私も亦昂奮して、一気呵成にそれを読み了った事を今も記憶している。」

 もはや近衛文麿の正体は明白であろう。近衛は、日本随一の共産主義者であった恩師の河上肇(京都帝大教授、共産党員)の教えを忠実に守り「共産主義者はあらゆる詐術手練手管策略を用い真実をごまかし隠蔽しても差し支えない」というレーニンの教義を信奉するマルクス・レーニン主義者であり、ゾルゲ事件の調査において検察が察知した通り、ソ連を守り、中国共産党に漁夫の利を与え、東南アジア、インドを英米帝国主義より解放し、我が国を敗戦革命に追いやり、東亜新秩序を実現すべく、支那事変の解決を妨害し我が国を対米英戦に誘導し、八千万同胞に敗戦の惨苦をもたらし、三百万同胞を死に至らしめた尾崎秀実の同志―東亜協同体論者であり、

 「昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子」

とは近衛自身だったのだ。近衛文麿こそ陸軍中央を背後より巧みに操った政界の黒幕だったのである。

 昭和十八年一月、近衛は木戸に参考として送った書簡の中で「軍部内の或一団により考案せられたる所謂革新政策の全貌を最近見る機会を得たり。勿論未だ全貌を露呈するには至らずと雖、徐々に巧妙に小出しに着々実現の道程を進みつつあるが如し」と述べているが(2)、近衛自身がこれを承認し、種村ら陸軍の革新幕僚に実行させたのであろう。そして昭和十五年七月の陸軍中堅層による米内内閣の倒閣「上からの政権奪取」はもとより昭和二十年八月十四日の陸軍省軍務局軍務課軍事課による継戦宮城クーデターの首謀者も近衛であったに違いない。

 近衛が第三次内閣を投げ出す直前、色紙に「夢」と大書しながら「二千六百年、永い夢でした」と呟いたのは、我が国が対米英戦から敗戦革命に巻き込まれ、神武肇国以来二千六百年に亘る万世一系の皇統が一場の夢と化して儚く消滅する、と確信したからであろう。木戸幸一日記(昭和十九年一月六日の条)には、

 「我が国がアングロサクソンたる米英に対するに、大体東洋的なるソ支と提携し、臨機応変の態勢を整え、ひそかに内に実力を蓄えるを最も策の得たるものなりと信ず」

と記述されており、おそらく木戸も近衛と同様に、東亜新秩序構想を抱いていたのであろう…。

 敗戦後、矢部貞治は近衛文麿の評伝の中で次の近衛の遺言を紹介し、服毒自殺した近衛のことを「正義と法になんの根拠もない戦勝者の思い上がった裁き(東京裁判)を、身をもって拒否することにより、かれらの前に立ちはだかって、天皇をお護りするというのが彼の凛然たる心事であったようである」と解説している(3)。

 「自分が罪に問われている主たる理由は、日支事変にあると思うが、日支事変で責任の帰着点を追及してゆけば、政治家としての近衛の責任は軽くなり、結局、統帥権の問題になる。したがって窮極は陛下の責任ということになるので、自分は法廷に立って所信を述べるわけにはゆかない。」

 昭和天皇の御意向を幾度となく無視し、陸軍参謀本部の猛反対を恫喝してトラウトマン和平工作を打ち切り支那事変を拡大長期化させた張本人は、近衛文麿自身である(第一次近衛声明、東亜新秩序声明、汪兆銘工作、汪兆銘政権の正式承認)。従って占領軍あるいは日本国民自身が支那事変で責任の帰着点を追及していけば、昭和天皇は無論のこと陸軍首脳すら責任を免れ、三度内閣総理大臣を務めた政治家としての近衛の責任が最重大になることは必至である。

 なぜなら大日本帝国憲法は、天皇を、処罰と侮辱の対象にならない無答責(法的政治的無責任)の地位に置き(第三条、天皇の神聖不可侵)、天皇を輔弼する国務大臣に、君主に対する直接的責任と人民に対する間接的責任とを負わせている(第五十五条)。天皇が裁可し公布する法律勅令および国事に関する詔勅は、国務大臣の副署(同意のサインつまり承認)に依って始めて実施の効力を得、国務大臣の副署が大臣担当の権と責任の義を表示するからである(4)。

 「内閣総理大臣は機務を奏宣し、旨を承けて大政の方向を指示し、各部統督せざる所なし。職掌既に広く、責任従て重からざるを得ず。
 大臣の副署は二様の効果を生ず。一に、法律勅令及び其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の効力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく、外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。二に、大臣の副署は大臣担当の権と責任の義を表示する者なり。蓋し国務大臣は内外を貫流する王命の溝渠たり。而して副署に依て其の義を昭明にするなり。
 大臣政事の責任は独り法律を以て之を論ずべからず、又道義の関る所たらざるべからず。法律の限界は大臣を待つ為の単一なる範囲とするに足らざるなり。故に朝廷の失政は署名の大臣其の責を逃れざること固より論なきのみならず、議に預かるの大臣は署名せざるも亦其の過を負わざることを得ざるべし。」(大日本帝国憲法義解第五十五条解説)

 予算執行の手続きにおいて天皇の統帥大権は予算編成権を持つ内閣から独立できず、近衛内閣が支那事変を積極的に拡大するために必要な巨額の戦時予算を編成、閣議決定して(内閣官制第五条左ノ各件ハ閣議ヲ経ヘシ 一法律案及予算決算案)これを帝国議会に提出したにも拘わらず、近衛は「日支事変で責任の帰着点を追及してゆけば、政治家としての近衛の責任は軽くなり、結局、統帥権の問題になる。したがって窮極は陛下の責任ということになる」などと真赤な虚言を弄し、昭和天皇に責任を転嫁したのである。そしてもし近衛の言葉通り、昭和天皇に統帥権を行使し支那事変を拡大長期化させた責任があるならば、近衛が自殺し出廷を拒否しても、天皇を護ることはできない。それにも拘わらず矢部は「かれらの前に立ちはだかって、天皇をお護りするというのが彼の凛然たる心事であったようである」などと詭弁を弄したのである。
 虚言、詭弁、そして責任転嫁。これがレーニンを崇拝する共産主義者の政治信条だからである。

(1)矢部【近衛文麿上】六十八頁
(2)【木戸幸一関係文書】五九一~五九二頁。
(3)矢部【近衛文麿下】六〇四頁。
(4)伊藤【憲法義解】第五十五条解説。



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国民のための大東亜戦争正統抄史79~87近衛上奏文解説

【近衛上奏文解説】


79、近衛上奏文

 昭和二十年二月十四日の朝、木戸内大臣が侍従長室に姿を見せ、藤田尚徳侍従長に、

 「藤田さん、今日の近衛公の参内は、私に侍立させてほしい。近衛公は、あなたをよく存じあげていない。それで侍従長の侍立を気にして、話が十分にできないと困る。ひとつ御前で近衛公の思う通りに話をさせてみたい」

と要請した。藤田侍従長は快諾し、木戸と近衛の二人が昭和天皇に拝謁し、以下の近衛上奏文を捧呈したのである(1)。

 「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。

 敗戦は我が国体の瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日までの所国体の変革とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候。

 つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。

 ソ連は欧州に於て其周辺諸国にはソビエト的政権を爾余の諸国には少なくとも親ソ容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。

 ユーゴーのチトー政権は其の最典型的なる具体表現に御座候。ポーランドに対しては予めソ連内に準備せるポーランド出国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申候。

 ルーマニア、ブルガリア、フィンランドに対する休戦条件を見るに内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエト政権に非ざれば存在し得ざる如く致し候。

 イランに対しては石油利権の要求に応ぜざる故を以て、内閣総辞職を強要致し候。

 スイスがソ連との国交開始を提議せるに対しソ連はスイス政府を以て親枢軸的なりとして一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。

 英米占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、且之等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり、而して是等武装団を指揮しつつあるものは主として共産系に御座候。ドイツに対してはポーランドに於けると同じく巳に準備せる自由ドイツ委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存候。

 ソ連はかくの如く欧州諸国に対し表面は、内政不干渉の立場を取るも事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引ずらんと致し居候。ソ連の此意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野(註、野坂参三)を中心に日本解放連盟組織せられ朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。かくの如き形勢より押して考うるに、ソ連はやがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く共産主義者の入閣、治安維持法、及防共協定の廃止等々)翻て国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられゆく観有之候。即生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及之を背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座候。右の内特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有之候。

 少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候(註1)

 抑々満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存候(註2)。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も「事変永びくがよろしく事変解決せば国内革新が出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心的人物に御座候(註3)

 是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候※。

 此事は過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして此結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。

 不肖は此間二度まで組閣の大命を拝したるが国内の相克摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは(註4)、全く不明の致す所にして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候。

 昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。

 一方に於て徹底的に米英撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候(註5)。以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべき、あらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展致すべくと存候。

 戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。彼等はすでに戦争遂行の自信を失い居るも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。

 もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、此の一味と饗応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成し難き恐れ有之候。従て戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さえ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼左翼の民間分子も、影を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに他ならざるがゆえに、その本を絶てば、枝葉は自ら枯るるものなりと存候。 尚これは少々希望的観測かは知れず候えども、もしこれら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来米英及重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、其の政策が改らば、彼等としては戦争の継続につき、考慮するようになりはせずやと思われ候。それはともかくとして、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。以上」 

 昭和天皇は、上奏文の内容の特異さに驚かれ、次のように御下問された(1)。

天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」
天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
近衛「一つの思想がございます。これを目標と致します。」
天皇「人事の問題に、結局なるが、近衛はどう考えておるか。」
近衛「それは、陛下のお考え…。」
天皇「近衛にも判らないようでは、なかなか難しいと思う。」
近衛「従来、軍は永く一つの思想によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。考えようによっては何時かは摩擦を生ずるものならば、この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。先日、平沼、岡田氏らと会合した際にも、この話はありました。賀陽宮は軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」
天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」
近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

(1)【木戸幸一関係文書】四九五~四九八頁。


80、国体の衣を着けた共産主義者

※昭和十六年四月八日、和田博雄、稲葉秀三、勝間田清一、和田耕作等、尾崎秀実と密接不可分の関係にあった企画院革新官僚が治安維持法違反容疑で検挙されたのであるが(企画院事件)、大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌には、

 「午後一時ヨリ笠信太郎ヨリ経済機構ニ関スル事項ヲ第一応接室ニ於テ聴取ス」(昭和十五年七月八日)、

 「対米英戦争準備大綱案(註、種村佐孝起案)陸軍省ニ移ス 主任者大イニ同意シ企画院ニ移シ本案ニ基キ企画院ヲ表面ニ立テ之ガ促進ニ努力スベキヲ約ス」(昭和十六年二月二十日)、

 「経済新体制確立セラレ金融新体制確立セラルルト雖モ旧体依然トシテ結城カ日銀総裁タル限リ大蔵大臣ハ番頭ニスキス。任期満了ヲ期トシ合法的ニ交代方各方面ニ提議ス 第一部長之ニ同意シ企画院毛里方面ヘモ連絡ス」(昭和十七年七月二十一日)

 「佐野学氏ヨリ対中共観ヲ聴取ス」(昭和十九年三月十七日)、

 「班長(註、松谷誠)及橋本少佐、平野義太郎氏ヨリ大東亜宣言ノ具体的綱領ヲ聴取ス」(昭和十九年五月十二日)

とある。

 笠信太郎は、尾崎秀実の親友にして、尾崎と共に昭和研究会と朝飯会に所属した近衛文麿の最高政治幕僚の一人で、朝日新聞経済担当論説委員である。笠は昭和十四年十二月に「日本経済の再編成」を刊行、第三次近衛声明後の我が国の軍事行動は、「治安工作と並行して抗日勢力の徹底的破砕を目指して進められねばならぬ」と主張し、企業が利潤確保の為やむを得ず闇市場に物資を流し闇価格を高騰させ或いは商品の品質や労働者の待遇条件を落とすこと等、政府の物資統制や戦時インフレ抑止(低物価)政策が発生させる様々な弊害の除去に藉口して、物資のみならず企業の利潤および経営にまで統制の範囲を拡大させる必要性を説き、国家総動員法の発動と近衛新体制運動とを推進した。

 さらに笠は『中央公論』昭和十四年十一月号「事変処理と欧州大戦」という座談会(出席者は、笠信太郎、和田耕作、平貞蔵、牛場信彦、西園寺公一、聽濤克己、角田順、後藤勇)の中で次のように公言し、政党政治と言論の自由とを否定していたのである(1)。

笠「当面の問題はもっと大きく根本的に考えねばならんでしょう。これまで革新という言葉もいろいろに使われたけれども、浮いたような革新ではどうにもならない。日本の社会の中堅になる段階の人々が、先づ新しい目標に向かって、一つの結成をするといったことが火急な必要であろうと思う。そこから日本の政治体制そのものを作り上げて行く。はっきりした新しい国民組織―国難を乗り切ろうとする政治的な国民運動でありますが、そういうものの支持を受けて、始めて本当の仕事が出来る。そこの中に今までバラバラに割れ勝ちであるところの日本の政治上の意見というものを根本的に融和するようなそういう政党のような体制を考えたい。今までやって来た統制経済でも、現に非常に大きな変動を起して居る。今後は、今までやって来た統制経済の方向とはまた違った方向に、更により以上に進まねばならん。

 従来の自由経済の土台の上に立った古い政党…これと対立した意味での社会党なども同様であるが、これらのすべて古い地盤の上の政党は、物がいえない時代になって全く新しい姿、新しい経済的システムの上に、それぞれの新しい職能を代表するような政治的組織が必要となるのであるが、それは西洋の一国一党といったものではなく―私はそれを包摂する形態が万民輔翼といった日本人の根本的な団体意識であろうと思う。そこで、要するに、外にあっては支那事変処理問題、内にあっては経済的の新しい体制を堅めるという、この内外二つの目標の上に、旺んなる政治意識が樹てられなければならんという風に考える。」

西園寺「結局、事変処理の深刻さと、それと国内問題との深い関連性を、骨の髄から感得していない。」
笠 「何でもよいから一日も早く自由の経済組織に還したいという念願しかない。こいつは実は不可能だ。現に総動員法を発動させて、実際には一歩一歩そういう方面に近づいているに拘わらず、生れ出る新しい制度の構図が考えられていないので推測が区々で、いろいろと違うところが出て来る。寧ろはっきりと、勢として出て来る姿を描いて、それを最も合理的なよい姿にするということに勢力を集中することが必要である。」  

 笠信太郎の主張は、資本主義経済に対する統制が更なる統制強化を生み出し国家に社会主義計画経済の整備遂行を余儀なくさせるという、企画院事件によって明らかにされた昭和研究会所属革新官僚の「基本的観念」を端的に表現している。

 平野義太郎は、昭和十一年七月十日検挙され転向し、戦時中太平洋問題調査会に所属し、中央公論昭和十五年七月号「東洋の社会構成と日支の将来」にて尾崎秀実、細川嘉六と東亜協同体を論じ、右翼論客として「大アジア主義の歴史的基礎」を著して我が国の大東亜戦争遂行を正当化した講座派マルクス主義者(戦後共産党員、世界平和評議会委員)で、松谷誠陸軍大佐の政治幕僚の一人である(2)。
 大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌は、陸軍参謀本部戦争指導班と一部新官僚および民間有志ら国体の衣を着けた共産主義者との密接な関係を示唆している。

(1)三田村【戦争と共産主義】二六三頁。
(2)【尾崎秀実著作集5】二九五~三一二頁。松谷誠【大東亜戦争収拾の真相】一一七頁。谷沢永一、中川八洋【名著の解剖学】六十八~七十頁。


81、国体と共産主義の両立論

 傍線部(1)に該当する職業軍人を共産革命へひきずる軍部内革新論は、大東亜戦争終末方策(昭和十八年九月十六日)において「ソの導入を図る」と決定し、サイパン陥落後に「政略攻勢ノ対象ハ先ツ「ソ」ニ指向スルヲ可トス 斯カル帝国ノ企図不成功ニ終リタル場合ニ於テハ最早一億玉砕アルノミ」と断定した松谷誠(昭和十八年三月十一日~十九年七月三日まで参謀本部戦争指導班長、昭和二十年五月鈴木首相秘書官兼陸軍省軍務局御用掛)が、鈴木首相と阿南陸相を補佐する為に、企画院調査官の毛里英於菟、慶応大学教授の武村忠雄、東京大学教授の矢部貞治、平野義太郎を始め、政治、経済、思想、報道等の各方面の識者を集め極秘裡に作成したという国家再建方策に垣間見える(1)。この中で彼等は、

 「あえて本土決戦体制といわず、本土徹底継戦体制と称するゆえんは、沖縄決戦により、すでに本土決戦そのものは事実上終了せるが故なり。すなわち沖縄の喪失以後、米軍の本土上陸作戦の速度(七、八月頃)と本土防衛態勢完備の速度(十月頃)とには数ヶ月の時差あり、かつ六月以後近代戦の遂行は困難となるが故なり。したがって、いわゆる本土決戦は真の決戦にあらず、むしろ無気力、無組織、利己的なる国民を脱皮せしめ将来国家再建の精神的団結力の根を植える点に意義存す。まさに枯れ草に火を放ちてこそ春強靭なる芽を生ずるものなり。

 ここに本土徹底継戦体制の確立を要す。従来の国民組織運動の欠陥は左の点に存す。

 元来国民運動の強力なる推進力たるべき軍部自体が、右運動に対する明確なる政治意識を欠く。国民運動は下から盛り上がるべきものなるにもかかわらず従来は逆に上からの官製的存在にとどまる。国民組織運動自体に明確なる主体的意識を欠く。また国民組織の主要細胞たる職域団体(例、産業報国会、農業会、農業経済会等)も従来の経済母体より充分脱却せず、僅かに改良的にとどまる。

 よって新国民組織運動たる国民義勇隊の組織方針は、軍が強力なる支持をなし、内地が戦場化し国民義勇隊が義勇戦闘隊に移転する場合、必要なる軍事訓練は軍がこれを担任する」

と明確に大衆の武装化と敗戦革命の勃発とを画策し、さらに彼等は、我が国が「国体護持」を最後的和平条件として、七、八月の間、ソ連が日本に対して行うであろう和平勧告の機会を利用すべきである、と主張し、その理由として、

 「スターリンは独ソ戦後、左翼小児病的態度を揚棄し、人情の機微に即せる左翼運動の正道に立っており、したがって恐らくソ連はわれに対し国体を破壊し赤化せんとする如きは考えざらん。ソ連の民族政策は寛容のものなり。右は白黄色人種の中間的存在としてスラブ民族特有のものにして、スラブ民族は人種的偏見少なし。されば、その民族政策は民族の自決と固有文化とを尊重し、内容的にはこれを共産主義化せんとするにあり。よってソ連は、わが国体と赤とは絶対に相容れざるものとは考えざらん。

 ソ連は国防・地政学上、われを将来親ソ国家たらしむるを希望しあるならん。すなわちソ連は従来大陸国防国家なりしも、航空機の発達と将来米英に挟撃さるる危険とは、ソ連に大陸海洋国防国家たることを要請しつつあり。しかるが故に、西にありては、国防外核圏を拡張せんがためにフィンランド、ポーランド、ドイツ、バルカン方面に親ソ国家を建設せんとするとともに、バルト海地中海への出口を求めつつあり。南に対しては、ペルシャ湾への出口を求めつつあり。さらに東に対しては、東ソの自活自戦態勢の確立のために満洲、北支を必要とするとともに、さらに海洋への外核防衛圏として、日本を親ソ国家たらしめんと希望しあるならん。

 戦後、わが経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿るべく、この点より見るも対ソ接近可能ならん。米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方、将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん」

という左翼イデオロギーに基づく真赤な虚構のスターリン・ソ連擁護論を弄し、政府軍首脳に、

 「ただし上層部の考えるが如き形式的国体護持論では、スターリンの心を打たず、かつ将来危険なり。したがって国体護持が国民生活に深く根ざしあることを、対ソ外交の衝にあたる者がスターリンに話すとともに、国内的にもそれを確立する如き政治施策を行うを要す」

と勧告していたのである(1)。

 傍線部(2)は事実に反する。多田駿陸軍中将ら参謀本部の猛反対を恫喝してトラウトマン和平工作を打ち切り支那事変を拡大長期化させ我が国を対米英戦に追いやった最高責任者は近衛自身である(昭和十三年一月十六日、第一次近衛声明、爾後国民政府を対手とせず。昭和十六年九月六日御前会議、帝国国策遂行要領、十月上旬に至るも交渉成立の目途なき場合は直ちに対米英蘭開戦を決意す。昭和十六年十月十六日、海軍首脳より和戦の決を一任された近衛が、和平を決断せず、東條陸相に全責任を転嫁して総辞職し、十八日、日本を対米英戦に誘導するという任務を完遂しソ連に帰還しようとしていたゾルゲが逮捕された。)

 さらに傍線部(3)は傍線部(4)と明らかに矛盾している。近衛は、支那事変当時、秋永月三ら軍部内の革新論者が「事変解決せば国内革新ができなくなる」と公言するのを聞いていたのだから、近衛は、彼等によって画策された支那事変の拡大長期化が国内革新つまり日本の社会主義(共産主義)化を目的としていたことを看取していたのである。
 また傍線部(5)に該当する軍部の戦争指導方針は、おそらく陸軍省部主務者の昭和十九年八月八日「今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案」もしくは種村佐孝陸軍大佐の昭和二十年四月二十九日「今後の対ソ施策に対する意見」なのだろうが、なぜ近衛は軍部内の革新運動の詳細を知り、また木戸は「彼の一味」の具体名を挙げるように近衛を促さなかったのか?これらの虚偽と矛盾と疑問とについては後述する。以下は近衛が反省して到達した「一部新官僚および民間有志は右翼にして左翼であり、右翼は国体の衣を着けた共産主義者すなわち左翼である」という結論の解説である。

(1)松谷【大東亜戦争収拾の真相】一五八~一五九、二八四~三二八頁。矢部貞治日記昭和二十年八月十三日の条。


82、ヒトラーとスターリン

 第二次世界大戦後、我が国の革新(左翼)勢力は必ずと言っていいほど敵対する保守主義者に「日本のナチス」「ネオ・ナチ」というレッテルを張り、これを誹謗中傷する。三十二年テーゼに盲従する日本資本主義発達史講座(昭和七年五月二十日~八年八月二十六日、岩波書店。共産主義者の内、これに忠実的な者を講座派、三十二年テーゼに批判的な者を労農派という)の編纂刊行に参加し、支那事変において尾崎秀実、堀江邑一と共に、汪兆銘工作や近衛新体制運動を推進していた細川嘉六は、敗戦後、日本共産党員として左翼雑誌「世界評論」にて、

 「同党(共産党)はプロレタリアートの独裁及び暴力革命に関しても国外においてはドイツ、イタリーの軍国主義的独占資本主義の支配が打破せられ…云々」

と述べたが(1)、ナチスの正式名称である国家(国民)社会主義ドイツ労働者党(National.Sozialistische.Deutsche.Arbeiter-Partei)が示すように、ナチスとは、あくまで資本主義(共産主義者が使う自由主義市場経済の蔑称)と議会制デモクラシーの排撃を綱領とし、労働者階級(プロレタリアート)の救済を主眼とする社会主義独裁政党である。アドルフ・ヒトラーは「わが闘争」の中で次のように力説した(2)。

 「ドイツ労働者を誠実にその民族に取り戻し、国際主義的幻想から覚醒させようと望んでいる運動は、『民族共同体では賃金労働者は雇い主に対して抵抗することなく経済的降伏をすべきであり、賃金労働者が正当な経済的生存の為の利益を守るすべての企てすらも民族共同体への攻撃とみなされなければならない』という企業家階層内に支配的な意見に対して、もっとも激しく抵抗しなければならない。」

 コミンテルン三十五年テーゼは、国家社会主義ドイツ労働者党に対して最も反動的な「ファシズム」という非難を浴びせ、

 「これは、あつかましくも国民社会主義と自称しているが、社会主義とも、ドイツ国民の真の民族的利益の擁護とも、絶対になんのかかわりもなく、大ブルジョアジーの召使いの役割を果たすものにすぎない。それは、ブルジョア民族主義だというだけではなく、また野獣的な排外主義でもある。ファシズム・ドイツは、ファシズムが勝利した場合になにが人民大衆を待ち受けているかを、全世界の面前でまざまざと示している。凶暴なファシスト権力は、労働者階級の精華であるその指導者や組織者を牢獄や強制収容所で皆殺しにしている。ドイツ・ファシズムは、新帝国主義戦争の主要な放火者であり、国際反革命の突撃隊として立ち現れている」

と解説したが(3)、国家社会主義ドイツ労働者党の秘密警察ゲシュタポ、強制収容所、「嘘も百回言えば真実となる」というゲッベルスの大衆煽動術は、ソ連共産党の秘密警察チェーカ、強制収容所ラーゲリ、「共産主義者はあらゆる種類の詐術、手練手管、策略を用いて非合法方法を活用し真実をごまかし且つ隠蔽しても差し支えない」というレーニンの革命的道徳体系の模倣にすぎない。

 ワイマール・ドイツでは、国家社会主義ドイツ労働者党が、より多くの労働者階級の支持と政権を獲得し一党独裁を実現する為に、過激な反ソ的国家民族主義をまとい、マルクス主義の国際主義を排撃し、東方に生存圏を拡大して純血ゲルマン民族からなる共産社会「ドイツ千年王国」の実現を掲げ、彼等と競合するドイツ共産党(コミンテルンのドイツ支部)に対抗して議会第一党となった。そして一九三三年七月十四日、国家社会主義ドイツ労働者党は遂に一党独裁体制の樹立に成功し、八年後、ソ連との直接対決に突入したのである。

 ドイツ第三帝国とソビエト帝国の死闘は、国家社会主義ドイツ労働者党とドイツ共産党が労働者の支持と議会の議席数を奪い合ったことから開始された社会主義(共産主義)勢力間の壮絶な国際的「内ゲバ」であり、第二次世界大戦後の中ソ紛争や中越(ベトナム)戦争の先駆けであった。

 そしてロシアでは富農が、ドイツではユダヤ人がそれぞれ大衆の嫉妬と憎悪を被りやすい資本の象徴であったが故に、レーニンのロシア共産党は富農を大虐殺し、ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党はユダヤ人を迫害したのである(4)。すなわちドイツの国家社会主義ドイツ労働者党によるホロコースト(反ユダヤ主義)は戦争固有の産物ではなく、ソ連のレーニン・スターリンによる大粛清(一九一七~五三、犠牲者五千万以上)、中華人民共和国の毛沢東による文化大革命(一九六七~七六、犠牲者二千万以上)、カンボジア共産党(クメールルージュ、ポルポト派)による大虐殺(一九七五~七八、犠牲者百八十万以上)と同じく、社会主義イデオロギーによって引き起こされた大虐殺事件であり、「人道に対する犯罪」なのである。

 それにも拘わらず、マスメディアや学者知識人によって国家社会主義ドイツ労働者党がナチスと略された上で「極右」もしくは「ファシズム」に分類され、左翼と区別される現状は、ひとえに国家社会主義ドイツ労働者党と彼等の犯罪に対する非難糾弾から社会主義イデオロギーを救出しようとする革新勢力による悪質な情報操作であり、歴史改竄の成果であろう。

 個人独裁を維持する為に、顕在的潜在的政敵を殺戮し、殺戮された者の親類、友人、同志からの復讐を恐れ、また彼等を殺戮せざるを得なくなり(マルクス・レーニン主義の特徴であるテロ連鎖現象)、トロツキーに「塩水で渇きを癒す人」と形容された二十世紀史上最も残虐非道な共産主義者スターリンも、一九三一年から愛国心への訴えを開始しただけでなく、ロシア民族の英雄崇拝的映画「イワン雷帝」(三六年)の制作を許容するなど復古的民族主義者となり、四一年六月のドイツによる対ソ侵攻(バルバロッサ作戦)開始と同時に、「兄弟よ、姉妹よ、今や我が国は危機に瀕している」というロシア正教会の表現を使い、対独戦を大祖国防衛戦争と呼び、巧みな退却戦略を採ってナポレオンの侵攻軍を撃退したクトゥーゾフや十四世紀にタタールのくびきからロシアを解放したドミトリー・ドンスコイなどロシア民族の英雄を持ち出して戦意昂揚に努めた。

 「極右」のヒトラーと「極左」のスターリンは、いずれも敵対する社会主義勢力に対する権力闘争の為に、国家民族主義を戦術的に利用した社会主義者であり、両者の間に本質的差異は全く存在しない。故にドイツにおいてナチス、ファッショ運動に狂奔した者が、第二次世界大戦後に赤旗を担ぎ歩くという運動が顕著に現れたのである。

(1)三田村【戦争と共産主義】二六七頁、細川嘉六著改造昭和十五年九月号時局版「青年の興起と新政治体制運動」。石原【人類後史への出発】一五〇頁。
(2)アドルフ・ヒトラー【わが闘争上】四八四頁、「国家社会主義ドイツ労働者党の最初の発展時代」
(3)【コミンテルン資料集6】一六五~一六六頁。
(4)渡部昇一【ハイエク】一七六頁。ユダヤ人を自由主義の象徴として侮蔑した社会主義勢力はナチスだけではない。笠信太郎は、

 「新しき倫理が、その高い立場から階級対立の意識を克服すると同時に、これを生んだ個人主義乃至自由主義、その最も好ましからぬ属性であるところの俗にいわゆる猶太人根性を克服する方向をさしていることは、もはや云うまでもない」

と公言していたのである(笠信太郎【日本経済の再編成】一七六頁)。


83、戦争指導の変遷

 一九二九年の世界大恐慌以来、対外輸出の減少と井上準之助蔵相の緊縮財政を原因とする深刻なデフレ不況に陥った我が国では、昭和六年(一九三一)十二月十三日、若槻内閣に代わって誕生した犬養内閣の蔵相高橋是清が円レートを切り下げ輸出の振興を図ると共に、日銀引受による国債発行を財源として大幅な財政支出の増加に踏み切るなど、ケインズ理論を先取る模範的な総需要拡大政策を実施し、昭和恐慌を克服して経済を回復軌道に乗せることに成功し、社会主義政党が独裁政権を樹立することはなかった。 

 だがデフレ不況に直撃された貧しい農村出身者の多い帝国陸軍将校が、資本主義は財産を少数者に集積させ貧困失業を必ず生み出す(絶対窮乏化の原理)が故に失業貧困を無くすためには資本主義を倒さねばならない、と説くマルクス・レーニン主義に傾倒して政治経済の実態を見失い(マルクスは社会主義を実現すれば失業貧困が消滅するとは言っていない)、

 「抑国家を保護し国権を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」(明治天皇の軍人勅諭)

に反して、政治介入を開始したのである。彼等は国粋、民族主義的な言動を重ねながら盛んに国内政治経済の革新(共産主義)を叫んだように、表身に日本民族主義の衣を着け、内心をマルクス・レーニン主義に汚染された復古的革新将校であり、スターリンと本質的に変わらないのである。

 満洲事変から二・二六事件まで、陸軍中枢は、天皇革命すなわち「天皇を戴く社会主義的政権の樹立」を目論んで立憲自由主義議会制デモクラシーを排撃したが、日本の国益を重視する反ソ的な国家主義を維持していた。だが石原莞爾の衣鉢を継いで「東洋道義文化の再建」を掲げ支那事変の解決に尽力した堀場一雄(昭和十二年二月一日~十四年十一月二十七日参謀本部戦争指導班)が支那派遣軍参謀に転出し、堀場に「軍内権力覇道主義者」と非難痛罵された(1)種村佐孝(昭和十四年十二月十八日~二十年八月五日参謀本部戦争指導班。降伏時、第十七方面軍(朝鮮)参謀。戦後共産党員)が大本営陸軍部の戦争指導を担当することになった後、陸軍中枢はその性格を大きく変え、第二次近衛内閣が出現した昭和十五年(一九四〇)夏以降には、革新「右翼」として、日本と「左翼」のスターリン・ソ連との抱合を画策し、昭和二十年には日本共産党と同様に反国体(皇室)姿勢を露にしていた。

(1)堀場【支那事変戦争指導史】六九〇頁。
 石原莞爾によれば、「戦争指導」とは「戦争における国力の運営を指すものにして、戦争に方り、武力の行使即ち統帥と武力行使以外の事、即ち戦争における政治との両者を調和統一して、戦勝を獲得する」を言う。


84、石原莞爾の悲劇

 昭和十八年、参謀本部は「独の対米英単独講和若くはヒ政権の崩壊等より帝国が独力対米英戦争を遂行せざるべからざるが如き場合の世界終戦の為の帝国の対米英講和条件」は、(イ)無併合、無賠償(ロ)米の四原則の承認(ハ)三国同盟の廃棄(二)支那に関しては日支事変以前への復帰(ホ)仏印以南の東亜細亜南太平洋の昭和十五年九月以前状態への復帰(へ)内太平洋の非武装(ト)日米通商関係の資金凍結前への復帰、で済み、国体の変革は含まれないと考えていた(1)。

 それにも拘わらず、種村佐孝大佐が、実際に「日ソ中立条約破棄通告を受け且独崩壊し」我が国が独力対米英戦争を遂行せざるを得なくなった昭和二十年四月末以降、「対米終戦に関する外交交渉成功するも米は偽装停戦して我が戦意を喪失せしめたる後必ず国体の破壊を吹掛けて来る」と吹聴し、

 「ソ側の言いなり放題になって眼を潰る、日清戦争後に於ける遼東半島を還付した悲壮なる決心に立換ったならば今日日本が満洲や遼東半島や或は南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて日清戦争前の態勢に立還り、明治御維新を昭和の御維新によって再建するの覚悟を以て飽く迄日ソ戦を回避し対米英戦争完遂に邁進しなくてはならない」

 「日清戦争前の態勢にかえってもソと戦をしないか、真逆ソとしてはそんな無理は云うまいと思われるけれ共帝国としては此の肚を以て日ソ戦争を絶対に回避すべきであって其処迄肚を極めて対ソ交渉に移るべきである、移った以上ソ側の言い分を待って之に応ずると云う態度に出づるべきである」

 「今後に於ける帝国の対ソ態度は絶対対ソ戦回避に存するを以て今更ら対ソ戦生起を前提として行うところの作戦準備は厳に反省を要すべし」

 「ソの仲介若くは恫喝に依り世界終戦への導入を余儀なくせらるることである、帝国としては対ソ施策に発足した以上否応なしに其の仲介若くは恫喝に従わざるを得ない」

と主張した(昭和二十年四月二十九日、今後の対ソ施策に対する意見)真の目的は、我が国が米英に降伏することによって自由主義へ後退することを断固として排し、「独の屈伏に依る場合は三国同盟、防共協定を廃棄し日ソ提携に関しソを全面的に利導して世界和平導入に努め已むを得ざる場合帝国は独力戦争完遂に邁進」(昭和十九年八月八日、今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案三2イA)し、日ソ提携によるソ連の援助を受けて(ソ連は我が国の国体破壊を考えておらず、国体と共産主義は両立するという虚言を弄して、ソの導入を図り)日本社会経済の根本的立て直しを行いを親ソ社会主義国家としての日本国を確乎として築き上げ、日ソ支(延安政権)の結合を強化し、大東亜の新秩序を建設することであり(昭和十八年九月十六日、大東亜戦争終末方策、第一戦争目的)、国体護持のスローガンは、彼らの正体と企図を隠蔽し我が国の政府将兵国民を欺く詭弁であり虚言であった。だから種村等陸軍の革新幕僚は、

 「国家が大規模かつ長期に亘り戦争を行い敗北すれば、大衆は彼らに戦争の惨苦をもたらした君主、政府、体制に激しい怨恨憎悪を抱くようになり、暴力革命勃発の温床が生まれる」

というレーニンの敗戦革命論そのものにして国民壊滅、国家敗滅、国体消滅を意味する「一億玉砕」を叫び、立憲君主制を容認する米英に対して徹底抗戦を唱え、それを認めないソ連の「言いなり放題になって眼を潰れ」とまで極言し、ポツダム宣言の受諾を決断された昭和天皇にクーデター未遂事件を起こし、敗戦後には共産党に入党したのである。すなわち彼等は国体の衣を着け(天皇尊重の偽装)、国体を利用して(国体護持の為の対米英本土決戦一億玉砕)、国体を破壊せんと画策し(敗戦革命)、敗戦後、国体の衣を脱ぎ捨て正体を暴露した(共産党への入党)のである(2)。松谷誠の言葉を借りれば、敗戦後日独両国において「極右より極左に転向」し赤旗を振る運動が顕著に現れたのであった(3)。

 英米支に対する我が国の不毛な長期戦、陸軍将校の共産化、統制派に牛耳られた革新陸軍中枢に対する尾崎秀実らゾルゲ機関の諜報謀略工作の浸透、戦争遂行阻害分子の徹底的絶滅化(昭和二十年四月五日、陸軍新内閣施政方針)および敗戦革命を阻止するために早期講和を模索していた吉田茂の検挙、対米英徹底抗戦本土決戦一億玉砕、ポツダム宣言受諾時の陸軍総兵力を百七十三個師団(五百四十七万人)にまで膨れ上がらせた根こそぎ動員、昭和二十年八月十四日深夜から翌日未明にかけて陸軍省軍務局軍務課軍事課の少壮幕僚が近衛師団長の森赴中将を殺害し、偽命令を発して近衛師団を動かし、玉音放送録音盤を奪取、昭和天皇を宮中に軟禁しようとした継戦「宮城クーデター」(八月革命未遂事件というべきであろう)等は、すべてコミンテルン二十八年テーゼの具現化であった。尾崎秀実ら我が国の共産主義者はコミンテルンの「ブルジョア国家機関を破壊する目的でこれらの機関を利用する」という革命戦術(4)と三十五年テーゼを忠実かつ徹底的に実践したのである。

一九二八年コミンテルン第六回大会決議「帝国主義戦争に反対する闘争と共産主義者の任務に関するテーゼ抜粋要約」(5)

 「最近帝国主義諸国家の政策は、反ソ政策と中国革命圧迫の方向に一歩前進して来たが、同時にまた帝国主義諸列国相互間の反目抗争甚だしくなり、反ソ戦に先立ちて帝国主義国家間に第二次世界戦争勃発の可能性高まりつつある。かかる客観情報は、第一次大戦に於いてソ連のプロレタリア革命を成功せしめたと同様に来るべき世界大戦は、国際プロレタリアートの強力なる革命闘争を誘発し前進せしめるに違いない。したがって各国共産党の主要任務は、この新なる世界戦を通じてブルジョア政府を転覆し、プロレタリア独裁政権を樹立する方向に大衆を指導し組織することにある。」    

 「資本主義の存続する限り戦争は避けがたい。だから戦争を無くするためには資本主義そのものを無くしなければならないが、資本主義の打倒はレーニンの実証した如く革命によらなければ不可能である。したがって世界革命闘争を任務とするプロレタリアートは全ての戦争に、無差別に反対すべきではない。即ち各々の戦争の歴史的、政治的乃至社会的意義を解剖し、特に各参戦国支配階級の性格を世界共産主義革命の見地に立って詳細に検討しなければならぬ。」

 「現代の戦争は、帝国主義諸国相互間の戦争、プロレタリア革命あるいは社会主義を建設中の国家に対する帝国主義国家の反革命戦争、プロレタリア革命軍、社会主義国の帝国主義国家に対する革命戦争の三つに分類し得るが、各々の戦争の実質をマルクス主義的に解剖することはプロレタリアートのその戦争に対する程度決定に重要なことである。

 帝国主義諸国のプロレタリアートは、第一の帝国主義国家相互間の戦争の場合は、自国政府の敗北と、この戦争を反ブルジョア的内乱戦に転化することを活動の主要目的としなければならない。第二の反革命戦争の場合は、自国政府の敗北を助長し、プロレタリア革命軍を勝利させなければならない。また第三の革命戦争は世界革命の一環としてその正当性を支持し、プロレタリア革命国家を防衛しなければならない。」

 「プロレタリアートは、政治権力を獲得し、生産手段を搾取者の手からもぎとるまでは、祖国を持たない。広く用いられている「祖国防衛」という表現は、戦争の正当化を意味する通俗的な表現である。プロレタリアートは、プロレタリア革命国家が帝国主義国家に対して行う革命戦争では、自分達の社会主義的祖国(註、当時はソ連を指していた)を防衛しなければならない。

 プロレタリア革命国家では、祖国擁護は必須の革命的義務であるが、帝国主義諸国では祖国擁護は許されない。」

 「共産主義者の帝国主義戦争反対は、一般平和主義者の戦争反対運動とその根底を異にしている。我々はこの反戦闘争をブルジョア支配階級覆滅を目的とした階級戦と不可分のものとしなければならない。蓋しブルジョアの支配が存続する限り帝国主義戦争は避け難いからである。

 帝国主義戦争時に於ける共産主義者の政治綱領は、ボルシェビキ党がレーニンの指導下に、第一次帝国主義大戦に反対する英雄的闘争の中で作成し、適用したものと同じ綱領である。

(1)自国政府の敗北を助成すること。

(2)後方における大衆の革命的行動と前線における交歓とを手段として、帝国主義諸国家の戦争をブルジョアジーに反対し、プロレタリアートの独裁をめざし、社会主義をめざすプロレタリアートの内乱に転化すること。

(3)帝国主義戦争の条件の下では、民主的方法による正義の平和は、主要な交戦諸国のブルジョア打倒とプロレタリアートによる権力の奪取なしには、不可能なるが故に、中心スローガンは平和ではなく、プロレタリア革命でなければならない。共産主義者は、平和に関するあらゆる空文句に対して精力的に戦わなければならない。

 ブルジョアは、戦争の内乱への転化を阻止する為に、重要な思想的武器として「平和の空文句」に訴えるからである。

 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争との闘争手段」の適用を一切断固として拒否しなければならない。また大衆の革命的前進と関係なく又はその発展を妨害するような個人的行動を拒否し、プチ・ブルの提唱する「戦争反対の処方箋」の宣伝と戦わなければならない。共産主義者は国際ブルジョアジー覆滅の為にする革命のみが戦争防止の唯一の手段であることを大衆に知らしめねばならない。」

 「多くの共産主義者が犯している主要な誤謬は、戦争問題を頗る抽象的に観察し、あらゆる戦争に於いて決定的な意義を有する軍隊に充分の注意を払わないことである。共産主義者は、その国の軍隊が如何なる階級又は政策の武器であるかを充分に検討して、その態度を決めなければならないが、その場合決定的な意義を有するものは、当該国家の軍事組織の如何にあるのではなく、その軍隊の性格が帝国主義的であるか又はプロレタリア的であるかにある。」 

 「現在の帝国主義国家の軍隊はブルジョア国家機関の一部ではあるが、最近の傾向は第二次大戦の危機を前にして各国共に、人民の全部を軍隊化する傾向が増大して来ている。この現象は搾取者と被搾取者の関係を軍隊内部に発生せしめるものであって、大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従えばブルジョアの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。」 

 「プロレタリアの帝国主義軍隊に対する関係は、帝国主義戦争に対する関係と密接な関係を持っており、自国政府の失敗を助長し、帝国主義戦争を駆って自己崩壊の内乱戦に誘導する方策は国防及軍隊の組織問題に対する態度に方向を与える。
 労働者を軍国主義化する帝国主義は、内乱戦に際しプロレタリアの勝利を導く素地を作るものなるが故に、一般平和主義者の主張する反軍国主義的立場とはその立場を異にする。われわれの立場は、労働者が武器を取ることに反対せず、ブルジョアの利益の為にする帝国主義的軍国化をプロレタリアートの武装に置き換えるのである。」

 満洲事変がソ連の対日諜報謀略戦を発動させ、満洲国の民族協和という理念から発展した東亜連盟という政治構想が軍人間の政見の対立―東亜連盟論者と東亜協同体論者の対立―を生み陸軍内の統一を破壊し、尾崎秀実ら東亜赤化の野心を秘めた共産主義者の陸軍内部に対する浸透攪乱工作を助長し、満洲国協和会による一国一党の実験および政治行政機構改造案が、戦争を利用する国内革新すなわち近衛新体制運動を引き起こす一因となり、そして石原莞爾が対ソ持久戦争を想定し陸軍の俊英を集め参謀本部内に創設した戦争指導課は、幾多の変遷を経て、ソ連の勢力拡大に奉仕し、「一億玉砕」を唱え、東亜全域のソビエト化を画策する革新将校の巣窟に変貌してしまったのである。

 純粋に日本民族を愛した石原莞爾の憂国の至誠から発せられた行動は、全て石原の意志に反して、西洋覇道の最先端にあった共産主義を信奉する尾崎秀実ら反日の革新勢力に国政を壟断されるという日本国の悲劇を生み落としてしまい、石原自身の諸構想と共に我が国を敗北へ導いたのであった。

 帝国陸海軍将兵と一般国民合わせて約三百万の我が国国民を死に至らしめた我が国の対支米英戦争とは、マルクス・レーニン主義の特徴である「共産主義者による共産革命の為の自国民大殺戮」だったのである。

(1)【終戦工作の記録上】一三三~一四六頁「昭和十八年九月十六日、大東亜戦争終末方策、其の五世界終戦二、別紙第三」
(2)中川八洋【近衛文麿とルーズベルト】二六六~二七六頁参照。
(3)松谷【大東亜戦争収拾の真相】二七〇頁。
(4)【コミンテルン資料集1】二二四頁「共産主義、プロレタリアートの執権のため、ブルジョア議会の利用のための闘争」
(5)【コミンテルン資料集4】三七五~四一三頁。三田村【戦争と共産主義】三十七~四十頁。
 本来帝国とは複数民族によって構成される国家を指し、帝国主義とは植民地を獲得して帝国を指向する政治思想である。共産中国が、満洲、内蒙古、ウイグル、チベットを植民地とし、台湾の征服を狙っている帝国主義国家であるように、帝国主義は資本主義固有の産物ではない。また十九世紀末、ほとんど植民地を有していなかったドイツの工業力が世界中の至る所に植民地を有していたイギリスの工業力を追い抜いたように、すでに帝国主義政策は国家に利益ではなく財政的負担をもたらすだけの愚策に転落しており、国家が資源や市場を獲得して経済発展を遂げる為には、自由貿易を行えばよく、軍事力を発動し他国と戦争を行い植民地を獲得拡大する必要は全くない。

 だがレーニンは、イギリスの領土拡大と海外投資の間には密接な因果関係があると錯誤した英国ジャーナリスト、ホブソンの誤謬に基づき、帝国主義を資本主義の最終段階の金融資本、独占資本であり、世界の領土分割が終わっている段階の資本主義と定義し、戦争の本質を帝国主義化した資本主義国家間の植民地再分割争奪戦と錯覚し、戦争を消滅させる為には資本主義を消滅させなければならない、と断定したのである。


85、思想侵略

 フランス暴力革命の嫡流たるロシア暴力革命の勃発前後から国境を越えて日本国内に流入し始めたマルクス主義は、昭和時代の幕開け(一九二六年十二月二十五日)と共に、華族官僚軍人知識人学生を中心として、若い世代の精神を征服する勢いを示し、国家中枢を深く汚染していたのである。出版界は左翼関係書の洪水に襲われ、書店には、マルクスの資本論全巻、マルクス・エンゲルス全集、レーニン選集、スターリン、ブハーリン全集が必ず置かれ、内務省警保局がいくら発禁押収しても、暴力革命を煽動する共産党関係の非合法書籍が次から次へと出版され、マルクス主義の研究は全盛期を迎えたのであった。

 華族は、汗と埃にまみれる労働者を見て、何不自由なく暮らす自分達の存在に懐疑の念を抱き、人間の不平等の起源に苦悩してマルクスに救いを求め、マルクスに洗脳された学生は資本主義を憎悪し、失業貧困差別のない理想郷として共産主義社会を憧憬し、やがて彼等は政府軍部の要職に就き、対支米英戦争に東亜を資本主義より解放し社会主義から共産主義へ導く進歩的意義を見出して、これを遂行したのである(1)。

 昭和三年の三・一五事件以来、日本共産党が警察の厳重な取締を受け組織を破壊されていったのに反比例して、右翼(急進国家主義)団体が急速に台頭し、昭和六年三月九日には、右翼各団体が全日本愛国者共同闘争協議会を結成し、

一、我等は亡国政治(註、議会政治)を覆滅し、天皇親政の実現を期す。
一、 我等は産業大権の確立により資本主義の打倒を期す。
一、 我等は国内の階級対立を克服し、国威の世界的発揚を期す。

を綱領として、「錦旗革命断行」の旗を押し立てて街頭デモ行進を行い、この日協の「前衛隊」が血盟団事件や神兵隊事件などに関係するテロリストを輩出したのであるが、彼等は天皇尊重を偽装(転向)して治安維持法から逃れた共産主義者で構成されており、立憲自由主義議会制デモクラシーを英米の害毒として憎悪していた。
 故に彼等右翼勢力は、自由主義経済の象徴である財閥や、彼等から献金を受けていた自由主義政党を排撃し、対支米英戦争では、自由主義国たる米英を「鬼畜米英」、彼等の支援を受けた蒋介石の国民政府を「中国の自主独立を棄てて米英に隷従しアジアの復興に叛逆する米英資本主義の買弁政府」と罵倒し、「東亜を解放せよ」と絶叫して(2)、国民世論がソ連や中国共産党攻撃に傾くことを阻止し、ソ連の政策たる「帝国主義国家相互間の戦争激発」に貢献し(3)、レーニンの敗戦革命論に基づき、いかなる犠牲を払っても平和を求める戦争反対論者を「非国民」と罵倒し、「贅沢は敵だ」というスローガンを掲げたのである。

 小川平吉は日記昭和十三年九月十七日欄に、

 「宇垣外相曰く、各種の事件に関連し近来真に不可解なる事少なからず、共産主義者が意外の方面に喰い込み仮面を被りて撹乱するに非る乎、本件失言問題の捏造も亦戦局収拾を阻止する者に非る乎と疑えり。予は共産党が一昨年来右翼に入りて撹乱を図るの方針なる事より其の実例の少なからざるを述べ、互に警戒を約す」

と記し、田村秀吉代議士は昭和十六年二月十二日の衆議院治安維持法改正法律案委員会において、

 「我が国に左翼思想、共産主義を以て国体変革を企図するというようなことを考えて運動する者に対しては私共は惧れを抱いて居ない、そう云うことで日本国民に対して国体の変革を表面から謳って来た場合に、これに感染する者は凡そ日本国民の中には殆どないと私は確信している。そこで国体変革を企図する所の表面に現われて来る運動よりも、その仮面を被って裏面に国体変革の思想を蔵してやって来る運動が一番怖いのであります」

と危惧し、この点に対する内務大臣の観測と方針を尋ねたところ、平沼騏一郎内務大臣は次のように答弁した(4)。

 「ただ今御質問の趣意は所謂国体擁護もしくは皇道主義の仮面を被って共産主義の運動をする、こう云う傾向が今日ある。これは非常に危険なものであろうと云うことを御述べになった。私もその通りであると考えます。元来これまで、先年検挙を致しました所謂共産主義運動、『コミンテルン』の運動は表面やはり国体破壊等を標榜いたして居ったのであります。

 今日は御話の通り運動が非常に巧みになって参りまして、全部そうでもありませぬが、共産主義を標榜いたしまして、その標榜する所は所謂共産主義に止まって居りまして、その実は革命、その極端に参りまするのは国体破壊の思想、これは最も怪しからぬ運動でありますから、これに対しましては厳重なる取締をしなければならぬことであります。したがって今回の治安維持法の改正に付きましても二つに分けましたから、一方の共産主義運動いわゆる私有財産否認と云う条項にしか表面は当らぬことになりますが、しかしこれはよく取調を進行致しますれば、自らこれは一つの『カモフラージュ』であるか、あるいはその考えて居る所は国体の変革までに至らぬのであるか、そこはよく調べますればこれは明瞭になってまいるであろう、その取調の方法は自ら当局におきまして、これは多年研究も致しております。その真相は必ずこれを明らかにすることが出来るのであろうと考えております。

 御話の通り今回条文を二つに分けました結果、その標榜する所は私有財産否認に止まると云う理由で或いはなる場合もございましょう。しかし本当の思想、これをよく探求いたしますれば、たとい表面は私有財産の否定に止まっておりましても、本当に、国体変革までの考えを持って運動を起こしているということを、明確にすべき手段はあろうと思います。もしその方に属しまするものでありますれば、やはり国体の変革の条文に依ってこれを処断することが出来るに至るであろうと思います。そこはこれを取調べる官憲の働きにあることであろうと考えます。
 しかしながら本当に私有財産の否定だけでありますれば、国体の変更を腹に持っている者に比すれば軽いのでありますが、今条文を別けましたことは理由のあることと思います。実際の取調の結果どちらに参りますか、これは実際を見ないと分らないのであります。」

 しかしこの内務大臣の取締方針は右翼勢力の跳梁跋扈を全く防止できず、平沼の答弁から半年後には、平沼自身が神兵隊事件の首謀者である天野辰夫らによって結成された右翼団体「勤皇まことむすび」の銃撃を受け重傷を負った。岩村通世司法大臣は昭和十七年七月八日に我が国の右翼運動について、

 「組織右翼は国内的には国家社会主義を、対外的には南方武力進出と英米打倒とを主張し来れり。直接実力行使に傾く。平沼男爵を襲いたる『まことむすび』の会は之に属す。今や対外的に其の主張実現したるを以て鎮静なるが如きも、南方経営に資本主義を以てするには反対なりと称し居りて、情勢進展の模様によりては決起せんとす」

と枢密院に報告した。岩村司法大臣の報告に対して原嘉道枢密院議長は、右翼運動に対する取締の寛に過ぎること又は見当違いであることを力説して、右翼と赤とは必ずしも区別すべきではないことを強調した(5)。さらに昭和十九年六月、「荻外荘」に招かれた警視庁特高第一課長の秦重徳は、我が国の共産主義運動について、

 「今日のわが国には共産党はなく、従って、共産主義運動は統一性を欠いている。けれども、共産主義者は職場と時とに即応して運動を行っており、戦争による国民生活水準の低下は、これら運動の温床になっている。その運動は正面から共産主義を標榜せず、敗戦の場合にそなえて共産主義者を養成するという目的でなされているものが多い。要するに、現在の情勢は『枯草を積みたる有様』であるから、これにマッチで火をつければ、直ちに燃え上がる。警視庁では国体を否認するものを左翼、そうでないものを右翼として扱っているものの、この右翼の中には実は左翼の多いことは、明かである。最近の産業奉還論のごときは、その良い例である。またいわゆる転向者の大部分は真に転向しているのではない」

と近衛に説明し(6)、近衛自身も日記(昭和十九年七月二、十四日)に、

 「当局の言明によれば皇室に対する不敬事件は年々加速度的に増加しており、又第三インター(註、コミンテルン)は解散し、我国共産党も未だ結成せられざるも、左翼分子はあらゆる方面に潜在し、いずれも来るべき敗戦を機会に革命を煽動しつつあり。これに加うるにいわゆる右翼にして最強硬に戦争完遂、英米撃滅を唱う者は大部分左翼よりの転向者にして、その真意測り知るべからず。かかる輩が大混乱に乗じて如何なる策動にいづるや想像に難からず」

 「此において予は、敗戦恐るべし。然も、敗戦に伴う左翼的革命さらに怖るべし。現段階は、まさに此の方向に歩一歩、接近しつつあるものの如し。革命を思う者は何れも、その実現に、もっとも有力なる実行者たるべき軍部を狙わざるなし。故に陸軍首脳たる者は、最も識見卓抜にして皇国精神に徹底せる者たるを要するは言を俟たず。軍部中のいわゆる皇道派こそ、此の資格を具備すというを得べし。外に対しては支那事変を拡大し、さらに大東亜戦争にまで拡大して、長期にわたり、政戦両局のヘゲモニーを掌握せる立場を悪用し、内においては、しきりに左翼的革新を強行し、遂に今日の内外ともに逼迫せる皇国未曾有の一大難局を作為せし者は、実に、これ等彼の軍部中の、いわゆる統制派にあらずして誰ぞや。

 予は此の事を憂慮する余り、陛下に上奏せる外、木戸内府に対しても縷々説明せるも、二・二六以来、真崎、荒木両大将等をその責任者として糾弾する念先入観となりて、事態の真相を把握し得ず。皇国精神に徹せるこれ等、皇道派を起用するに傾くこと能わざるは真に遺憾なり。寺内元帥なども、いわゆる皇道派を抹殺すれば粛軍終れりとなせるも何ぞ知らん。皇道派に代りて軍部の中心となれる、いわゆる統制派は戦争を起して国内を赤化せんとしつつあり」

と書いている。 

 戦前右翼の首魁として有名な北一輝と大川周明も、前者が「純正社会主義者」と自称し、後者が「日本社会主義研究所」を設立したように、天皇尊重を偽装したマルクス・レーニン主義者であった。だから北が上海で執筆し、大川が日本に持ち帰った「日本改造法案大綱」と日本社会主義研究所の暫定綱領は、皇室の存在を認めている点を除いて、日本共産党の主張と異なる処はなく、徹底的に資本主義経済組織を打倒し、私有財産制度を否認するに等しいのである。

<日本改造法案大綱>

一、天皇を奉じて速に国家改造(註、革新の同義語)の根基を完うするために、三年間憲法を停止し両院を停止し、両院を解散し全国に戒厳令を布く、そのためにはクーデターを断行する。
一、戒厳令の施行中、普通選挙による国家改造議会を招集、この国家改造議会は天皇の宣布したる国家改造の根本方針を討議することを得ず。
一、国民一般の所有すべき私有財産は百万円を超えることを得ず。
一、私有財産限度の超過額は無償を以て国家に納付せしむ。
一、資本家の財産徴収に当たっては二、三十人の死刑を見れば天下ことごとく服せん。
一、日本国民一家の所有し得べき私有土地限度は時価十万円とす。
一、私人生産制度の限度を資本一千万円とす。
一、労働省を設け、労働賃金は自由契約、労働時間は八時間とし、日曜、祭日は公休、賃金を支給すること、ストライキは別に法律の定めるところにより労働省これを裁決す。
一、婦人の労働は男子と共に自由にして平等なり。
一、国民教育の機関を満六歳より満十六歳迄の十ヶ年とし、男女を同一に教育し、エスペラントを課し第二国語とす。

<日本社会主義研究所暫定綱領>

一、我等は日本伝来の天皇制を以て日本国民最適の国家形態と信じ、一切の経綸を此の前提の下に行わんとす。
一、我等は生産手段の私有を基礎とする資本主義の無政府経済制を以て我国民の生活を圧殺するものと認め、出来得る丈け急速にこれが撤廃を期す。
一、我等は現日本国民大多数者生活の窮乏を救済するは生産手段の国有並びに国家による集中的計画経済の施行の外に途なきものと信じ、あらゆる手段を尽くして之が実現を期す。 
一、我等は、日本国民は凡て平等の権利及び義務を有し、且つ何人も公益に反して私益を追う能わざることを要求し、これに反したる者を「非国民」と認め徹底的な排撃を期す。

 故に日本改造法案大綱は、河上肇ら左翼に称賛され、彼等の牙城であり、日本共産革命を使命としていた改造社から出版され(一九二三年五月)、マルクス・レーニン主義に汚染された青年革新将校の聖書となり、三月事件(昭和六年三月二十日、橋本欣五郎、武藤章、影佐禎昭、今井武夫、真田穣一郎ら陸軍省部の少壮将校によって結成された桜会と大川周明らによるクーデタ計画)、十月事件(昭和六年十月十七日、桜会急進派と大川周明らによるクーデタ未遂、錦旗革命事件)、五・一五事件(昭和七年五月十五日、海軍革新将校と大川周明らによるクーデタ事件)、二・二六事件(昭和十一年二月二十六日、陸軍皇道派革新将校と北一輝らによるクーデタ事件)等を引き起こしていった。

 警視庁が桜会を「錦旗共産党」と呼んでいたことや、皇道派の大岸頼好中尉が日本改造法案大綱を参考にして執筆した「皇政維新法案大綱」(昭和六年九月一日)にある、

 「一切を挙げて上御一人へ、一切を挙げて国家総動員へ。天皇は国民に対し原則として一切の私有を禁止す」

という一節が示す通り(7)、大川、北および彼等に煽動された陸海軍の革新将校の狙いは、明治天皇の憲法発布勅語と昭和天皇の大日本帝国憲法遵守の御意志とを無視し、無理やり昭和天皇を私有財産制度を否定する共産主義者すなわち日本のレーニンに仕立て上げ、共産党独裁(実際は共産党党首による個人独裁であり国家独占私物化)ならぬ天皇親政(専制、独裁)による国内革新すなわち帝国憲法によって定められた立憲自由主義(私有財産制、市場経済)議会制デモクラシーを破壊し、計画(統制)経済を導入することであった。

 故に彼等は天皇を補弼する国務各大臣や立憲自由主義議会制デモクラシー君主制を維持せんとする牧野伸顕、西園寺公望ら重臣を「君側の奸」として排除しようとする一方で、皇室廃絶を画策するコミンテルンに忠誠を誓わない反ソ的な国家民族主義をまとい(特にサーベルを日本刀に替え、軍隊を皇軍、国土を皇土と呼んだ荒木貞夫の陸軍皇道派)、二・二六事件の際、皇道派革新将校は、首相官邸や国会議事堂など国政の中枢を押さえながら、決して宮城を占拠しようとはしなかったのである。

 日本社会主義研究所の赤松克麿は、

 「私は敢てマルクスの言説を以て悉く虚なりとするものではない。問題は共産党に行くか、我々の行動に行くか、二つしかない。それだから、共産党で行けば、成功し得るという見通しが付いて、僕等の方で行けば、成功しないということの見通しが付けば、それは問題だと思う。僕等は今日の所、共産党の行き方が見通しが付いて、それ以外のものは見通しが付かんとは思わない。それは、今僕等がこういう戦術ですれば、必ず成功するというような大きいことは言いませんが、比較的にコミンテルンの指令下に居るよりか、我々の下に居た方が可能性が多いのじゃないかということですな」

と述べ、彼らが共産主義を全くかなぐり捨てたのではなく、プロレタリア革命への段階として戦術的に右翼に転向したに過ぎないことを告白しており、彼らの国家社会主義は、マルクス主義における国際主義を国家主義に置き換えたものに過ぎないのである(8)。だから明治の自由民権派の生き残りであった福岡日日主筆の菊竹六鼓は、五・一五事件事件の際、

 「何人も知る如く、近来右傾運動の勃発に乗じ、左翼運動者輩が、国家民族の仮面をかむり、ファッショという流行語を借り来たりて、ややもすれば国民を煽動せんとするあり、或いは政治的野心家がその政権欲を遂げんが為に、陛下の軍隊と軍人に誘惑の手を延ばさんとするあり」

と指摘し(9)、彼等右翼が国家民族主義をまとった左翼であることを見抜いていた。二・二六事件の首謀者の栗原安秀中尉は獄中において、

 「今日本を誤りつつあるは、軍閥と官僚だ、その二者を殲滅せば依拠を失える財閥は、自ら崩壊せざるを得ざるべく、財閥の背景なくして売国的政党の存立するなし。昭和維新も、兵卒と農民と労働者との力を以て軍閥、官僚、政党を粉砕せざる間は招来し得ざるものと覚悟せざるべからず。機関説的天皇より国民の自主的天皇へ、これ昭和維新の一大目標ならざるべからず」

と述べ、同じく新井勲元中尉は、

 「国家改造を夢見ながらも、青年将校と幕僚の間には、十月事件以来溝が出来た。続いて起こった血盟団や昭和七年の五・一五事件は、いずれも青年将校の流れをくむものであったが、幕僚を主体とする軍はこの機会を巧みにつかんで、ついに政党政治に終止符を打った。政権把握の軍の野望達成には、最早国内テロの必要はなくなった。戦争が開始されれば、必然的に軍の権力は拡大する。望むのは戦争だけである。国際的進出―対外侵略―と並行し、その企画統制の下に国家改造を断行する。これが永田鉄山を首領とする統制派幕僚の政策であった。

 政党政治が崩壊しても、それだけで青年将校の国家改造運動は、到底おさまる筈がなかった。昭和三年来全国を襲った深刻な不景気、特に中小商工業者や、農、山、漁村の困窮を最も敏感に感じとったのは、兵と直接接触する青年将校である。腐敗した政党と貪欲な財閥を打倒し、悩む下層階級を救おうというのが、かれらを貫く思想であった。陛下の赤子と言われるのに、一面では栄耀栄華に暮らすものがあるかと思えば、一面では働けど、働けどその日の生活に喘ぐ者があった。中でも東北地方の冷害で、満洲に出征した兵の家庭では、姉妹が娼妓に売られる悲劇さえ起きていた。この社会矛盾の解決なしには、青年将校の間に広まった国家改造の機運はおさまる道理がなかった」

と述べており(10)、彼ら青年将校が、金を湯水のごとく使いドブに捨ててもビクともしない財閥資本家富豪成金の貪欲な華美贅沢や酔狂な国内投資が、富を社会に還元、再配分し、景気を回復させ、新たな産業を育て、雇用を生み、中小商工業者や農山漁村を潤し(景気=国内生産=有効需要=民間消費+民間投資+政府支出+輸出-輸入)、下層階級を救うことを理解しておらず、貧困失業の原因を資本家の「搾取」に求め「平等」に至高の価値を認めて資本家に対する浅薄な嫉妬憎悪を煽動正当化し、労働者農民の救済を叫ぶマルクス・レーニン主義に汚染されていたことを吐露している。

 昭和十年二月の貴族院議員の菊池武夫による糾弾に端を発して、陸軍(皇道派)や右翼団体は、議会と政党を基盤とする立憲主義政治体制の土台となる美濃部達吉の「天皇機関説」を排撃し、帝国憲法を徹底的に歪曲解釈して天皇は無制限絶対権力を持つと吹聴した上杉慎吉の「天皇主権説」を賞揚したが、これも天皇親政による国内革新を狙った真赤な虚偽学説であり、上杉も、北一輝同様、天皇尊重を偽装し社会主義の実現を目指した暴力革命家であった(11)。
 一九一一年の「国民教育帝国憲法講義」において既に上杉は「無用有害なる中間の分子」の排除、天皇と人民の直結を説き、さらに一九二三年には「総動員」の中で、彼は資本家を非愛国的なる非日本人と非難し、農民の子であり労働者の子である大多数の軍人の政治化と全国民の兵士化を提唱し、次のように述べて、「起てよ無産の愛国者」と檄を飛ばし、北一輝の腹心である岩田登美夫の大文化会を通じて緊密な間柄となった社会主義者の高畠素之と経綸学盟を結んだのである。

 「政党は打破しなければならぬ、官僚は逐い払わねばならぬ、一切の現存の勢力を綺麗にかたづけてしまって、初めての君民合一の真の日本が復興せらるるのである、政党と官僚の背後には資本家と貴族が居る、これも取り除かなければ、国体そのままの真の日本は建設せられぬ」(全国軍人諸君に告ぐ)

 新聞に報道された上杉と高畠の提携は、右翼と左翼の国家主義における提携として世間に大きな衝撃を与えた。まさに上杉慎吉とは北一輝の先駆者であり同類であった(12)。

 一九三四年に来日した仏人ジャーナリストのモーリス・ラシャンは、当時のこれら一連の右翼革新運動を、天皇と勤労大衆を直結してその中間にある資本家階級を排除しようとする「ナショナル・コミュニズム」であると指摘した(13)。計画経済の本質が政府の恣意的な判断決定に依存する非計算経済であることを論証、これを完全否定し、小川平吉と共に近衛新体制に反対した山本勝市博士は、

 「結局自由経済に優るものなし、今日日本では右翼も左翼も皆マルキシズム思想を根底とする如し」

と述べ(鳩山一郎日記昭和十五年四月二十九日の条)、いずれも右翼の正体が共産主義者であることを見抜いていた。

 さらに国民精神文化研究所所員の山本勝市博士は、近衛内閣の経済新体制の理論的支柱になっていた日本経済の再編成および笠信太郎を徹底的に糾弾する「日本経済の再編成批判」を発表(一九四〇年六月~九月)、笠信太郎の言動を分析して、「頻りにイデオロギーからの出発を否認する」笠が愛国者に擬装している共産主義者であること、笠の経済理論がマルクス主義に全面依拠する珍説愚論の類であり時局を救う提案としては一顧の価値もないこと、笠の推進する経済新体制は需給関係を示す市場価格の変動と利潤の計算(販売価格-仕入価格)に基づく自然かつ自由で合理的な人的物的資源配分と価格設定を不可能とし必ず「経済計算の困難」という不可避の暗礁に乗り上げ日本経済を崩壊させることを指摘し、マルクス主義の根本的誤謬とマルクス主義に囚われた国の経済が崩壊する根本的原因とを理論的かつ実証的に解き明かしたのである。そして山本博士は、日本経済を再興するためには、政府が国家総動員法の施行から僅か二年で「もう手を挙げるより外ない」(一九四〇年八月二十二日、商工次官の岸信介の発言)という状況に陥った戦時統制経済政策を潔く放棄し、アダム・スミスが神の手と名付けた無数の人間の意識を超えた自動調整機能を持つ自由主義的市場経済の復元を図らなければならないことを説き、国民に向かって次のように訴えたのである(14)。

 「殊に政策の行詰まりから、当局自身が手を挙げる外ないという如き場合こそ最も危険な時期である今日『新体制』等の掛声に乗じて、猛烈な左翼の暗躍の存することは疑うべくもないが、吾々は断じて、我が政治の当路をして左翼の敷施せる軌道に乗せる様な失態あらしめてはならない。
 政府当局も『新体制はどうなるか』という如き傍観的態度ではなく『どうするか』という態度を持つべしと国民に要求して居る。私は日本国民の一人として、殊に久しく経済体制の問題の研究を職として来た一人として、臣道実践の自覚のもとに敢えてこの小冊子を世に送るのである。

 なお一言付記して置きたい。最近地方の某県が笠氏を招いて講演せしめた際、あとで聴講者の一訓導は『貴下の思想は共産主義だとの批判があるが如何』と質問したところが、氏はそれに答えて『それは国民精神文化研究所のものであろう。彼は自由主義者である、自由主義は清算さるべきものだ、また彼は批判するが対案がないではないか』という意味のことを云ったそうである。
 読者よ注意されたい。共産主義者は常に自由主義を排撃するのだという事を(中略)。

 別に対案を出せという非難も、私に対しては当たらぬのである。私はそれを出して居るからである。神ながらの自らなる道(註、自由主義的市場経済のこと)に帰れというのがそれである。もっと具体的に明治の経済および経済政策の道に帰れと主張して居るのである。
 神ながらの道を、自由経済だの資本主義だのと勝手に非難して外に道を求めるという態度こそ今日、本道を逸脱して行詰を来した所以なのであるから、政治も倫理も、新しい道、新しい原理を編み出そうというすべての小ざかしき企てを捨てることこそ肝要なのである。
 甲案が行きつまったからと云って、乙案を求め、乙案が行き詰まったといっては、丙案を求めるという風に、あくまで新しい人智の改造案を古来の道の外に求めるという態度がいけないのである。昔ながらの倫理により、昔ながらの経済と経済政治の道を行くということになれば、道は、皇祖皇宗の御遺訓として、また祖先の遺風として、何人にも明に與えられて居ることを発見するであろう。

 物価を公定したり、物資を一元的に配分することを以て、戦争遂行のために必然不可避と考える人々は、明治時代の政治家は誰一人としてそのようなことを、必然不可避とは考えずに、却ってそのような思想を社会主義として弾圧しつつ、軍備も整え、戦争もやったという事実を反省すべきである。
 而して自分たちがそのような政策を必然不可避と考えるに至ったのは、何時頃からのことか、また如何なる思想の影響によるか、ということを静に反省して見るがよいのである。 
 社会主義による『自由経済否認、資本主義反対』という思想的前提なくして、そのような必然不可避論があり得るのであろうか。」

 だが反乱軍に対する昭和天皇の断固たる御意志(朕自らが近衛師団を率いて鎮定に当たらん)によって失敗に終わった二・二六事件は、昭和天皇が帝国憲法で定められた立憲議会制デモクラシーを尊重される自由主義者であり、国内革新にとって最大の障壁であることを証明した為に、大川周明によって作成された支那事変対策(昭和十三年一月十一日近衛文書)が、

一、国民政府否認。
一、封鎖の完成と駐兵の合理化―広東、漢口の占領。
一、蒋政権を打倒し新政権を援助す。
一、第三国の容喙を一切排除―ドイツ講和斡旋打ち切り。
一、日独伊防共の強化。
一、将来英国をして支那より全く退却の余儀なからしむ。
一、臨時政府を充実、強化し中央政府に迄発展せしむ―南京政府系のものの参加を認む。

等を掲げたように(15)、天皇を戴く一君万民の社会主義国家を夢想していた右翼も多数の革新将校も、社会主義放棄ではなく皇室廃絶に傾斜してしまい、それに伴いソ連の勢力拡大に奉仕するようになり、尾崎秀実の東亜新秩序構想に同調したのである。  

(1)【小川平吉関係文書1】六一七~六二三頁「緊急勅令発布ならびに関係記事」、三田村【戦争と共産主義】七十九~八十六頁をそれぞれ参照。
 例えば、大正十五年一月、最初の治安維持法違反者三十七名を出して社会に大きな衝撃を与えた「京大学連事件」に連座し検挙起訴された男爵の石田英一郎は、皇室の藩屏として特別待遇を受けていた華族の当主であったにも拘わらず、治安維持法違反の外、不敬罪を問われ、親戚一同に改悔転向を懇請されたが、頑として聞く耳を持たなかった。また一九一一年に生まれ、極貧の幼少期を過ごした朝枝繁春は、陸軍士官学校入学前、労働者として社会主義運動に挺身しようと決意しており、徳田球一の共産党が健在であれば堂々入党していたほど極左思想に汚染されており、朝枝は、陸士入学後も、国体論、皇国史観を疑問視し、神田の古本屋でマルクス本を買い漁り、日曜下宿で貪り読んでいたという(三根生【参謀本部の暴れ者陸軍参謀朝枝繁春】十、三十四~三十五、九十~九十五、一〇九頁)。また戦後日本の保守派知識人の重鎮となった元東大総長の林健太郎は教授であった戦時中の自分の思想について「しかし幸いなことに資本主義国家というものは社会主義に敵対するだけではなく、資本主義国家同士の間でも激しく対立する。だからその矛先をソビエトではなく他の資本主義国家に向けさせなければならない。これがスターリン、ゾルゲ、尾崎秀実らの考えであり、マルクス主義者の眇たる一分子であった私(林)もまたそれと同じ考えであった」と告白した(林健太郎【昭和史と私】一〇八頁)。
 戦前の日本国では、共産党だけではなく、華族や将校や教授にも、国体破壊の共産革命を画策する秘かな赤い精神が蠢動していたのである。
(2)平野義太郎【大アジア主義の歴史的基礎】二~四頁。この著書の中で平野は、「一九四一年五月からアメリカはオーウェンラティモアら太平洋問題調査会の東洋専門家を集め、日本支那の研究、情報収集に着手したが、彼らは、反日意識を燃やしている割合に東洋の基礎知識に乏しく、アメリカが我ら東洋の郷土を侵略する為の戦争に東洋学者を動員しようとしたところで、役には立たない。」とラティモアらを罵倒し、大衆の反米感情を煽りながら、敗戦後、平野は一転してアメリカの対日賠償委員として訪日したラティモアと一九四六年三月号世界評論「新しきアジアの構想」で対談を行い、一九五〇年に岩波文庫から刊行された【中国】(ラティモア著/平野監修)の中で、「ラティモア氏は現在生きて動いて発展しつつあるアジアを最もよく知っているアメリカ人のうちの数少ない一人である」と礼賛したのである。
 平野は一九三五年に訪日したラティモアと中国史の根本問題を談じ合っており、戦前から敗戦後にかけての平野の言動は、日米共産主義者の共同謀議による日米間の作為戦争謀略の存在を窺わせると共に、目的を達成するために平然と自己の主張を百八十度転回できる共産主義者の本質を示している。
(3)【現代史資料ゾルゲ事件1】四十四頁。
(4)衆議院治安維持法改正法律案委員会議録第二回昭和十六年二月十二日。
(5)深井英五【枢密院重要議事覚書】二二八頁。
(6)岡義武【近衛文麿】二〇二頁。
(7)秦【軍ファシズム運動史】二三、二八四~二八九頁。
(8)【現代史資料ゾルゲ事件4】三三一頁。
(9)稲垣武【朝日新聞血風録】二三四頁。
(10)三田村【戦争と共産主義】一二二~一二六頁。
(11)中川八洋【正統の哲学異端の思想】二四七~二五六頁。
 コミンテルン執行委員会の招集によって一九二二年一月二十一日から二月二日まで、モスクワ次いでペトログラードで開かれた第一回極東諸民族大会は、「日本における共産主義者の任務」(日本代表団によって採択された綱領)の中で、次のような帝国憲法に関する真赤な虚偽説を発表した(【コミンテルン資料集2】五〇三頁)。
 「日本は、その住民のほとんど全員が読み書きでき、五〇〇〇万人の住民のうち、プロレタリアが六五〇万人、零細小作農=半作男が五〇〇万人を数える、きわめて急速な発展をとげた資本主義国であるにもかかわらず、大土地所有およびその中から出てきた軍閥と元老が、えせ立憲的な形態(財産資格にもとづく、きわめて制限された選挙法、ミカドの無制限権力と、軍事的・財閥的元老寡頭制の独裁のもとでの二院制度)でつつまれた君主制度と、軍閥の独自の地位とに依拠して、国の政治生活において今なお指導的な役割を演じている。」
(12)長尾龍一【日本憲法思想史】六〇~一四一頁「上杉慎吉伝」
(13)曽村保信【地政学入門】一三二頁。
(14)山本勝市【日本経済の再編成批判】前書き。
(15)【現代史資料日中戦争2】一〇六頁。


86、統制派とコミンテルン

 満洲国の建国後、ソ連が我が国に不可侵条約締結を求めてきた際、皇道派の荒木貞夫を陸軍大臣、真崎甚三郎を参謀次長、小畑敏四郎を作戦課長とする陸軍は、ソ連との不可侵条約締結を拒絶した。その理由は、ソ連の東漸政策は三百年の伝統を持ち、一片の条約に信頼を寄せることは危険であること、不可侵条約を締結すれば、対ソ国防力の建設という陸軍の推進目標が失われ、海軍の南進政策が促進されること、ソ連の常套戦略は、自ら進んで戦争に訴えることはなく、まず敵を内部崩壊に至らしめた後、最後の瞬間の決定打として武力を使うものであり、不可侵条約の締結はかかるソ連の思想謀略に対する警戒態勢を弱化させることになる、であったという。

 国家戦略として反ソ連・親英米支主義を掲げていた陸軍皇道派は、ソ連の意図を正確に看破していたが、昭和九年一月、荒木に代わって陸相に就任した林銑十郎大将、林の下で陸軍省軍務局長に起用された永田鉄山少将以下、反英米支主義の統制派(十月事件後に成立)が皇道派の弾圧を開始し、皇道派と統制派の相剋は陰惨を極め、昭和十一年二月二十六日、焦燥に駆られた皇道派青年革新将校が二・二六事件を起こしたものの失敗し、皇道派は陸軍中央より追放されてしまい、統制派の皇道派に対する弾圧は結果的に日本軍の鉾先を英米支に向け、ソ連を利することになった。

 さらに統制派は、昭和九年(一九三四)十月十日、陸軍省新聞班から、「国防の本義と其強化の提唱」というパンフレットを公刊した。主たる執筆者は東大でマルクス主義に汚染され熱狂的な計画経済論者となり、影佐禎昭、武藤章等と共に、永田鉄山(昭和十年八月十二日、皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される)の麾下に所属していた池田純久(当時少佐、陸軍省軍事課員)であった。

 このパンフレットは「戦いは創造の父、文化の母である。試練の個人に於ける、競争の国家に於ける、斉しく夫々の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である」と戦争を賛美した上で、広義国防を提唱し、国防国家を、

 「国際主義自由主義個人主義思想を芟除し、これらに立脚した、排他的階級的にして、富の偏在、大衆の貧困失業を招来する経済機構を改廃し、国防目的のため、皇国の精神的物質的潜勢力を組織統制して一元的に運営する国家」

と定義したのである(1)。池田はパンフレットを作成した動機として次のように語っている(2)。

 「われわれ統制派の最初に作成した国家革新案は、やはり一種の暴力革命的色彩があった。警視庁を占領するとか、議会を占領するとか、著名政治家を監禁するとかの暴力沙汰であった。しかしそれは飽くまで軍の統率のもとに一糸乱れぬ指揮をもって行動しようというのである。

 しかしわれわれの研究が逐次進むにつれて、暴力革命的方式を廃して、合法的手段、つまり現行憲法に抵触せずして国家革新を行うことに頭をひねった。陸軍大臣は軍人であるとともに政治家でもある。陸軍大臣を通じて、政治上の要望を政府に提案してこれを推進するならば、必ずしも暴力革命の手段によらずとも、国家革新は可能である、という結論に達した。統制派は、かくして暴力革命を排し陸軍大臣を通じ行う方式を採用することに、その態度を一変したのである。こうなると破壊工作などは、統制派にとっては無用の長物である。建設工作だけで事は足りるということになる。しかし建設計画ということになると、軍人だけでは到底できない。それには専門的知識を必要とする。着実、実際的な立案を打ち出すことが望ましくなる。かくしてわれわれは、優秀な官僚と手を結ぶ必要に迫られた。そこにいわゆる新官僚が生まれてきたわけである。」

 池田は、手を結んだ新官僚として、後藤文夫、唐沢俊樹、和田博雄などを挙げている。コミンテルンを支持する進歩的新官僚の巣窟であった企画院が昭和十六年十一月に発行した「国防国家の綱領」も、

 「今日叫ばれている国防国家というのは、近代社会の自由主義国家観とは違った新しい国家観に基く国家である。自由主義国家観は国家の基礎を個人に置いて、個人の集り、その結合関係に国家の本質を求めている。すなわち個人の価値は国家または民族の価値に優先するという思想がその根底を貫いているのである。随って国家の任務は個人の自由に奉仕するにあって、個人の生命、財産、営業の安定、自由を保証し得る限りにおいて国家存立の理由がある。これが自由主義国家観の特質である。しかるに国防国家においては、かような国家観は根本的に否定され、個人の生命も財産も営業も、すべて国家は国家として個人のあらゆる生活部面も指導し干渉しうるとする全体主義国家観に基いている」

と言い、人類歴史の流れにおいて進歩と発展があるとすれば、自由主義、個人主義、営利主義、唯物主義の世界が没落して、全体主義、公益優先主義のより高い人類文化が、これに代わらんとしている、現代の世界戦争の渦中にある世界史の転換期において、

 「今こそこの自由主義、個人主義を清算し廃棄することこそ、歴史必然の運命であって、古き政治、古き経済、古き文化の一切が、この歴史転回の過程で批判し、検討されねばならぬ。

 聖戦已に丸四年を閲するもなおわが国民的政治地盤なくつねに各勢力の妥協と均衡の上に立って強力政治を断行し得ず、頻々と交迭した。また経済は依然として営利主義を以て指導精神とし、すでに統制経済から計画経済の段階に入っているが、かかる経済は一時的、臨時的のものであるとの皮相なる観案が全体を蔽い、文化も教育も、いまなお明治以来の自由主義を脱せずにいる。かかる非国防国家的な自由主義体制を根本的に変革し、東亜共栄圏の確立と国防国家の建設に邁進することが現下最大の要請である」

と述べ、明白に自由主義と現在から未来へ継承されるべき過去の伝統的遺産とを否定するマルクス主義の政治経済観、進歩的歴史観に基づく国防国家の建設を説いている(3)。

 「国防の本義と其強化の提唱」に対して、石原莞爾は、

 「単に国防といっても簡単ではなく、狭義国防の戦略戦術等はもちろん軍人の任務であるが、広義国防ともなって、産業、経済、交通、運輸等となると当然政治と密接に関連する分野である。政治行動をする大臣の輔翼(註、軍人の輔弼)のための意見開陳ならともかく、一般国民へ向かって軍が一々産業経済を口にするのは越権である。本来政治というものは、必ず人によってその意見を異にする。反対あり、摩擦あり、賛成ありである。今回の国防強化の提唱は、正に一個の政見だ。すべからくひっこめるべきで今陸軍がこんなものを出すべき時期では断じてないのだ。これこそ軍の政治干与であり、ここから軍は乱れる。軍閥が生まれる。軍人にして徒党を組み政治行動に出る者を軍閥というのだ」

と、その危険性を喝破し厳しい批判を浴びせたが(4)、社会大衆党の麻生久は、

 「今回の軍部の改革的態度は五・一五事件当時の如き軍の一部と所謂愛国団体の一部との通謀による陰部的非合理性のものでなくして飽くまで合法的なものである。前回の改革意見が非科学的であって等しく資本主義に反対するも、その根拠は単なる道義的精神的批判の上に立脚せるものに過ぎなかったのに対し、今日のそれは科学的態度に発展し、率直に資本主義的機構を変革して社会国家的ならしむることを主張していることである。日本の国情に於いては資本主義打倒の社会改革に於いて軍隊と無産階級の合理的結合を、必然ならしめている。目的を達するには、此の必然を激成して行く以外に道はない。而して今回のパンフレットは、公然としてその道を開いた。

 党員諸君は、その開かれた道を正認しこのパンフレットを仲介として研究会を開き、勇敢に在郷軍人会、青年団、産業組合の陣営に進出し、このパンフレットの内容に沿って反資本主義勢力の拡大強化に努力して党の拡大強化を図るべし。その必然に開かれた道に対して勇敢に突進し得ざるものは、社会改革運動の落伍者である」

と最大の礼賛を与えた(5)。
 さらに池田純久が執筆したといわれる「陸軍当面の非常時政策」(昭和十年九月十八日)は、

 「軍部の動員が暴力革命の動員たることは近世史の明示するところ改革日本の政治過程を健全に前進せしめんと称せば軍部の上下一糸乱れざる結束の下に断固たる改造の決意を透徹遍備するを要す。三月事件、十月事件、五・一五事件の経験が示したる所謂白足袋革命論の誤謬は、社会主義運動十余年の歴史が示す大衆革命論の無駄骨と共に実践に価値なく且危険なる卓上戦術なること既に自明たるべし、過誤は反復すべからず。

 我が軍部は、東西の近代に其の比を見ざる独特の構成形態を以て、新世界史的意義を持つ『変革日本』の現段階に重大なるレーゾンデートルを強化強大しつつある所以を深刻大胆に自己認識し、目捷の間に急進せる『日本改造』の指導的中心たる大方針を断定して以て左記諸案の断行を急ぐべし。」

一、ブレーントラストの構成
一、在郷軍人会の統制
一、陸軍労働組合の組織
一、公益労働者組織の獲得
一、民間改造団体に対する軍部の加護統制
一、ジャーナリズムの利用

 「近代国家に於ける最大最強のオルガナイザーにして且つアジテーターはレーニンが力説し全世界の共産党員が実践して効果を煽動したるジャーナリズムなり、軍部はこのジャーナリズムの宣伝煽動の機能を計画的に効果的に利用すべし」

と述べ、共産党の戦術を採用してまで陸軍主導による国家の改造を煽動したのである(6)。

 海軍大将の山本英輔は、斉藤実内府に送るの書(昭和十年十二月二十九日)の中で、政府が一向に荒木、真崎の陸軍皇道派の要望に応えない為に、革新将校が「意気地がなく手緩い、最早上官頼むに足らず、統制派の方がマシだ」といい、我が国体に鑑み皇軍の本質と名誉を傷つけることなきを立て前とし、大元帥陛下の御命令にあらざれば動かないと主張する皇道派を見限り、統制派の勢力が拡大しつつあることを指摘し、 

 「始めは将官級の力を藉りて其目的を達せんと試みしも容易に解決されず、終に最後の手段に訴えて迄もと考える方の系統が「ファッショ」気分となり、之に民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔手、赤化運動が之に乗じて利用せんとする策動となり、之が所謂統制派となりしものにて、表面は大変美化され居るも、其終局の目的は社会主義にして、昨年陸軍の「パンフレット」は其の真意を露わすものなり。林前陸相、永田軍務局長等は之を知りてなせしか知らずして乗ぜられて居りしか知らざれども、其最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、凡てを国家的に統制せんとするものにて、ソ連邦の如き結果となるものなり」

と近衛上奏文から遡ること約九年前に統制派の正体を見抜き、警告を発していた(7)。中国共産党の毛沢東は、一九三八年五月の「持久戦について」と題する講演の中で、支那事変の本質が日中両国を改造する正義の革命的な戦争であることを訴え、尾崎秀実は改造昭和十三年五月号「長期抗戦の行方」の中で、

 「日本に本質的な根本的な改造をもたらすことを伴わないでは、この日支事変は解決し得る性質のものでないであろう」

と述べ、同時期に両者ともに戦争を利用する「国家改造謀略」の存在を示唆しており(8)、まさにそれを実践した統制派と新官僚は、「国防国家の建設」の名の下に、将校の赤化を図り「革新」軍閥を形成し、戦争を利用する「上からの合法的変革(共産主義革命)」を狙うコミンテルンの謀略を秘めていたことが窺われる(9)。

 「国防の本義と其強化の提唱」「国防国家の建設綱領」等の論理魔術に心酔し或いは洗脳されて、軍人の建設すべき国防国家とは自由主義を否定し政府が個人のあらゆる生活部面も指導し干渉しうる全体主義国家(即ち社会主義、共産主義国家)であると確信し、二・二六事件の失敗と大政翼賛会の挫折を目撃した統制派の革新幕僚が陸軍省部の主導権を掌握した昭和十五年末以降、陸軍中枢は共産化し尾崎秀実の同伴者と化したのである。

 以下の機密戦争日誌は、参謀本部戦争指導班の革新幕僚が自由主義(資本主義)を激しく憎悪していたことを後世に伝えている。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十六年四月十九日土曜
一、日米全面協調(註、日米諒解案)電文ノ翻訳完了
1、日本ハ武力南進セズ米ハ対独武力参戦セズノ根本条件ニテ日米ノ全面協調ヲ策セントスルニ在リ
2、米ハ日支直接交渉ニ依ル全面和平ヲ蒋ニ勧告ス
3、日米相携ヘテ世界ノ平和ヲ招来セントス
四、国内問題ガ重大ナリ
  解決ノ道ハ強力政治ニ在リ
  自由主義ヘノ後退ハ之ヲ断乎トシテ排セザルベカラズ

昭和十六年八月十五日金曜 
四、英米共同宣言ヲ発ス
  英米ノ戦争目的和平条件ヲ宣言シタルモノナリヤ否ヤ
  結局ハ英米ノ世界制覇、自由主義現状維持ニ依ル世界制覇ニ他ナラズ
  何ガ自由何ガ平和ナリヤ

昭和十七年八月二十七日木曜
一、陸軍省戦備課富塚少佐ヨリ鉄、アルミノ生産状況85%ニ振ハサル件聴取ス
 彼恰モ資本主義擁護者ノ如シ賃銀、就業時間ノ制限ヲ解ケハ生産向上スヘシトノ見解ニハ同意シ得ス
 陸軍省ニ此ノ醜態アリ恐ルヘシ

(1)秦【軍ファシズム運動史】三二一~三三八頁。
(2)池田純久【日本の曲がり角】二十四頁。
(3)三田村【戦争と共産主義】二七七~二八三頁、【共産党宣言】四十五~五十、六十五~六十九頁。
 山本勝市は明治以来の自由主義について次のように解説している(山本【日本経済の再編成批判】四十四~四十五頁)。
 「明治維新は、欧羅巴諸国においてすでに社会主義が猖獗を極めつつある時代に行われたにかかわらず、政府は市場の自由なる取引機構の上に富国強兵のための経済政策をかなり強力に遂行して行った。社会という言葉の使用さえも許さぬほどの峻厳さを以て社会主義を弾圧し、それから国民経済を衛った。このような意味において私は今日の困難なる諸問題を解決打開せんがために、敢えて明治の経済体制に帰れと主張したいのである。
 明治維新をブルジョア革命と考えるところの社会主義者やその亜流は『明治の経済体制への復古』を以て『資本主義経済体制への復帰』を意味するものとして反対するであろう。而してすでに社会主義思想に汚染せられ、社会主義の造語『資本主義』を口にし、資本主義を以てあたかも悪のシノニムの如くに信ずるに至っている所謂知識人たちには、『明治の経済体制への復帰』をば、単なる反論として受け取るであろう。
 けれども度々述べたように、価格が市場における具体的現実的取引によって定まり、その価格を経済計算の基礎として生産の方向が決せられるという市場機構は、明治維新によって意識的に蘇生確立せらるるに至ったというものの、実は古今に通じ、中外にあやまることなきものなのである。
 徳川時代の末期にはそれが著しく妨げられて居たのであるが、維新とともに其の拘束のきづなが断ち切られ、そこに再び経済は自然の組織軌道にのることとなって、僅々数十年の間に驚異に値する生産力の発展をそのもとに可能ならしめたものである。」
(4)藤本治毅【石原莞爾】一四六~一四七頁。
(5)秦【軍ファシズム運動史】三三九頁。
(6)秦【軍ファシズム運動史】三五四~三五九頁。
 一九二一年八月十三日のコミンテルン決議「われわれの新聞について」は、「われわれの扇動では、新聞が最大の役割を演じる。われわれの党が一紙ないし数種の日刊新聞を持っている国では、とくにそうである」と述べている(【コミンテルン資料集2】二十三頁)。
(7)【木戸幸一関係文書】二五七~二五八頁。
(8)中国人民解放軍総政治部編【全訳毛沢東語録】三十九頁。【尾崎秀実著作集2】九十六頁。
(9) 広西元信著「資本論の誤訳」によれば、日本で、マルクス主義の国有化計画経済方式を剽窃した先例は、統制派の経済政策であり、統制派の周辺には、常にマルクス主義者が出入りし、彼等の「太平洋五十年戦略方針」は、細川嘉六、中西功、平野義太郎ら、歴然たる共産主義者の積極的参加によって出来上がったものであったという。

 細川嘉六が編集し昭和十七年五月に刊行した「新世界の構想と現実」は、尾崎秀実の論文「大戦を最後まで戦い抜くために」に酷似した第二次世界大戦史観を論じ、「日本は対米英戦争の最も果敢な遂行によって現に世界新秩序建設の原動力たるべき積極的使命を帯びた東亜新秩序の建設の達成に邁進しつつあるのである」と我が国の戦争遂行を正当化し、日本の新秩序は、「英米の金融帝国主義的支配を廃絶し、すでに歴史的使命を終わった古き国際主義、古き民主主義、古き自由主義に処刑の宣告を下すことである」と説明したのである。更にこの本は統制派のパンフレットと同様に「国防国家は国家の総力が国防目的に統一集中されている国家」という定義を述べ、「生産される富の大部分が必然に少数者の手に帰し、人民の大部分が必然に窮乏を強いられる社会構造の中で、自由主義はますます少数者にとっての自由、多数者にとっての不自由の原則となっている」と言い、彼等が推進する国防国家の建設に必要とされる革新の原理としてまず「自由主義の否定」を挙げ、「国防国家では、国民の政治経済行為、思想が厳重に統制され、国家目的に背反する私的目標の追求は許されない」と断言していた。

 これからも戦時下の我が国の共産主義者達が尾崎の謀略構想を共有し尚且つ統制派革新幕僚と密接な関係を持ち、彼等の企図する日本の社会主義化(左翼全体主義化)を「国防国家の建設」という文言に置き換えて官憲と大衆とを欺き、戦争遂行に藉口して国内革新を推進していたことが判るのである。


87、戦争と平和

 朝日新聞社が戦時中に暴支應懲や鬼畜米英を叫び、斎藤隆夫代議士をはじめ戦争反対早期講和論者に言論暴力を振いながら、戦後一転して、日本国憲法第九条を悪用し反戦反軍平和主義を唱え、再軍備、日米同盟強化論者に軍国主義者(タカ派)あるいは復古主義者(戦前回帰派)というレッテルを張ってこれらに言論暴力を振い、祖国に対する国民の忠誠や愛情を否定排撃する「地球市民主義」を打ち出していることについて、時流に迎合した朝日の転向と批判する識者が時々現れる。

 朝日新聞社は、近衛文麿の最高政治幕僚組織である昭和研究会と朝飯会に尾崎秀実、佐々弘雄、笠信太郎らを派遣し、近衛の革新国策を支持推進援護し、尾崎の「大戦を最後まで戦い抜くために」とほとんど変わらない日米開戦社説(昭和十六年十二月九日)を発表し、本土決戦の遂行を煽動し、朝鮮戦争の勃発を契機に容共政策を改めたGHQのレッドパージ(一九五〇年七月十八日からすべての共産主義者および共産主義的傾向の出版物は無期限に発行禁止となった。共産党の赤旗は一九五二年五月一日より再発行)によって、社内から一〇四人もの共産分子を追放された(1)。以上の事実が示すように朝日は、戦前戦中戦後を通じて終始一貫、日本の国益を害する反日反米反中(中華民国)のマルクス・レーニン主義者の巣窟なのである。ただ彼等は政府の取締や国民の反発を避けるために、あるいは政府の政策や国民の世論を操作するために、時流に応じて変装し、共産革命戦術を変更しているだけなのである。

<朝日新聞開戦社説昭和十六年十二月九日>

 帝国の対米英宣戦

 宣戦の大詔ここに渙発され、一億国民の向うところは厳として定まったのである。わが陸海の精鋭はすでに勇躍して起ち、太平洋は一瞬にして相貌を変えたのである。

 帝国は、日米和協の道を探求すべく、最後まで条理を尽して米国の反省を求めたにも拘らず、米国は常に謬れる原則論を堅守して、わが公正なる主張に耳をそむけ、却て、わが陸海軍の支那よりの全面的撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄というが如き、全く現実に適用し得べくもない諸条項を強要するのみならず、英、蘭、重慶等一連の衛星国家を駆って、対日包囲攻勢の戦備を強化し、かくてわが平和達成への願望は、遂に水泡に帰したのである。すなわち、帝国不動の国策たる支那事変の完遂と東亜共栄圏確立の大業は、もはや米国を主軸とする一連の反日敵性勢力を、東亜の全域から駆逐するにあらざれば、到底その達成を望み得ざる最後の段階に到達し、東條首相の言の如く『もし帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し、支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となる』が如き重大なる事態に到達したのである。

 事ここに到って、帝国の自存を全うするため、ここに決然として起たざるを得ず、一億を打って一丸とした総力を挙げて勝利のための戦いを戦い抜かねばならないのである。

 いま宣戦の大詔を拝し、恐懼感激に堪えざるとともに、肅然として満身の血のふるえるを禁じ得ないのである。一億同胞、戦線に立つものも、銃後を守るものも、一身一命を捧げて決死報国の大義に殉じ、もって宸襟を安んじ奉るとともに、光輝ある歴史の前に恥じることなきを期せねばならないのである。

 敵は豊富なる物資を擁し、しかも依って立つところの理念は不逞なる世界制覇の恣意である。従って、これを撃砕して帝国の自存を確立し、東亜の新秩序を建設するためには、戦争は如何に長期に亙ろうとも、国民はあらゆる困苦に堪えてこの「天の試煉」を突破し、ここに揺ぐところなき東亜恒久の礎石を打ち樹てねばならぬのである。

 宣戦とともに、早くも刻々として捷報を聞く。まことに快心の極みである。御稜威のもと、尽忠報国の鉄の信念をもって戦うとき、天佑は常に皇国を守るのである。

 いまや皇国の隆替を決するの秋、一億国民が一切を国家の難に捧ぐべき日は来たのである。


 暴支應懲、鬼畜米英など戦争を煽動した戦時朝日の報道、ソ連軍、中共軍、北朝鮮軍の侵攻行為を支持弁護し、彼等に対峙する我が国の自衛隊と日米同盟を排撃する戦後朝日の反戦平和報道、共産主義国家の軍備拡張や偏狭なナショナリズムを看過容認しながら、日本の愛国心教育、国防体制の再建運動、国益を擁護重視する政治家を排撃する戦後朝日の反ナショナリズム報道はそれぞれ、

 「資本主義国家群を噛み合わせて消耗崩壊させ敗戦革命へ誘導せよ、これを阻止する『戦争反対の処方箋』の宣伝を拒否せよ、『いかなる犠牲を払っても平和を』という感傷的な偽善的なスローガンを倒せ。

 共産主義者はプロレタリア革命軍の資本主義国家に対する革命戦争を支持し、社会主義的祖国を防衛せよ。プロレタリア革命国家では祖国擁護は必須の革命的義務であるが、帝国主義諸国では祖国擁護は許されない」

に沿う共産革命スローガンであり、朝日新聞社に巣くう共産主義者の群れはレーニンの敗戦革命論、二十八年テーゼ、日本の歴史を全否定するスターリンの独善的反日史観である三十二年テーゼ、そして合法場面の利用をうたった三十五年テーゼに沿って「ソ連および国際共産主義勢力の防衛と拡大」を支援してきたのである。風見章、勝間田清一、細川嘉六、堀江邑一、平野義太郎、鈴木安蔵ら戦時中の好戦的右翼にして敗戦後の反戦的左翼も全く同様である。

 我が日本国は、第二次世界大戦中に蒋介石の国民党および英米と卍巴に戦い、ソ連と中国共産党に漁夫の利を与えてしまった。そして第二次世界大戦後において我が国が自衛隊を撤廃し日米同盟を廃棄すれば、ソ連と中共および北朝鮮に、日本、台湾、韓国に武力侵攻する絶好機を与え、東アジアの共産化は完全成就していた。彼等共産主義者の戦時中の好戦的言動と戦後の反戦的言動は、一見すると百八十度違うようでも実はいずれも国際共産主義勢力の拡大に奉仕していたのである。

 例えば、昭和研究会の教育問題研究会委員を務めていた宗像誠也(東大教育学科卒)は、改造昭和十六年十一月号に「臨戦態勢は教育を圧迫するか」と題して徴兵検査による兵隊の選抜を否定する次の強制兵役論を発表した。

 「ところでこのいわゆる圧迫とは何なのであるか、何処からそんな圧迫が出るのであるか、果たして圧迫なのか。

 結論は国防も産業も教育と密接な有機的関係に置かねばならないということである。国防も産業も教育と歩調を揃え、或いは教育的任務を分担しなければならぬ。例えば兵役制度である。従来兵制と学制とが寸分隙のない連繋の下に置かれていたとはいえない。

 我々は次のような試案を考えてみた。心身が異常でない限り、少し位からだが弱くても凡て兵役に取つてはどうか。実践的な国民的信念、国民的教養を作り上げる精神教育をすることは勿論だ。身分も職業も学歴も問わず、全部が共同の営舎生活を一定期間するということは国民性格を練成するのに必要な、また極めて有効な手段だと考えられる」

 そして宗像は、昭和十八年七月には「楽善抄」なる文集を刊行し、

 「父は大東亜戦争を知らなかった。しかしこの聖戦の目標なり、この戦争下の国民の思想なり生活の倫理なりは、父が予感し、又主張して来た方向にあるといえるように思う。あさおがみ趣旨なり、家々に神棚を設けることの主張なり、隣組の精神なり、質素倹約、間にあわせなり、尚武の精神なり、練成の理念なり、皇謨翼賛、臣道実践、滅私奉公の根本精神はいうまでもない」

と述べ、「吾人日本人としては皇道が神の道なり。道徳に一致する事は神に一致することなり」と書き残して逝去した厳父の逸郎に対して「ちちのみの父のみことばを胸には彫りて我が生きむとす」と誓約した。

 然るに我が国の敗戦後、東大教育学部教授になった宗像誠也は、「教師は労働者である」という規定を持つ有名な日教組の教師倫理綱領を起草したばかりか、自分の父親に対する自身の誓約を踏み躙り、日教組を理論的に指導する平和教育委員会委員として反米、反天皇、反文部省、反軍備、反戦論を展開し始め、教育昭和二十七年七月号に「歴史的認識と人権の感覚」と題して、

 「わたしは、平和教育の一面は、いわば人権教育だと信じているのである。戦争が人権に対する最大の挑戦者であり破壊者であることはいうまでもない。だからして『教え子をふたたび戦場に送るな』という日教組のスローガンには、うちかち難い強さがある。わたしは、教師がこの良心の声を純粋に叫び続けることが大切だと思う。

 教師がときとすると、いわば一種の責任感から『国論の統一』に役立たねばならぬという意識に支配され、教師としての良心に背いて、現実政治に足並みをそろえようとすることがあるのは反省されねばならぬ」

と教師に説教したのである(2)。
 
 しかし日教組が支持した社会党の左派(社会主義協会)の理論的指導者であった九州大学教授の向坂逸郎は、諸君昭和五十二年七月号「マルクスよりマルクス」の中で「プロレタリア独裁の下では政府に反対する言論・表現の自由は絶対にない」と断言し、日本に社会主義政権が誕生し日米安保が破棄されアメリカの軍事力が重大な脅威となる時は、社会党の非武装中立政策を考え直すと公言し、社会党はこの発言を否認しなかった。また東大マルクス憲法解釈学者の小林直樹は、国際法上あり得ない社会党の非武装中立論(中立国は中立侵害排除義務を履行するために武装せざるを得ない)を礼賛し、日本の非武装化の後に訪れるソ連軍による日本占領を「ソ連が公費で日本に留学生を送ってきたのと同じ結果になります」と肯定し、世間の大ひんしゅくを被り、憲法学者の信用を失墜させた。

 社会党系左翼学者の発言が暴露した真相は、左翼勢力の護憲平和主義と非武装中立論と「子供を二度と戦場に送るな!」という反戦スローガンが、日本国が社会主義化するまでの方便であり、ソ連および共産主義勢力の防衛と拡大を支援し、日本周辺の共産主義国家の軍事力を導入して我が国を共産化する為の詭弁であったということである(3)。

(1)【世紀末から見た大東亜戦争】二〇八頁。
(2) 【進歩的文化人学者先生戦前戦後言質集】一六一~一六六頁。この言質集に挙がっている風見章、平野義太郎、堀江邑一、鈴木安蔵、高倉テル、三枝博員をはじめ四十四人の進歩的な文化人学者政治家すなわち戦後日本における左翼勢力の幹部としてマルクス・レーニン主義に基づく反戦反核反米反日親ソ親中親朝的言動を繰り返した共産主義者たちは、戦時中は右翼として尾崎秀実と同じく仰々しい美辞麗句を連ねて大東亜戦争の遂行を美化煽動正当化し、あるいは大政翼賛の近衛新体制運動を推進していたのである。
(3)稲垣武【悪魔祓いの戦後史】参照。


 

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国民のための大東亜戦争正統抄史78鈴木内閣の失策

【鈴木内閣の失策】


78、狂気の戦争指導班参謀

 昭和二十年三月二十七日の硫黄島陥落は、我が日本国から完全に継戦能力を奪い去ったと言っても過言ではない。アメリカ軍は、硫黄島に長距離制空戦闘機P―51を配備し、サイパンから発進するB―29の援護に当たらせた為、我が国はアメリカ軍による日本本土無差別爆撃に対抗する手段を失い、全都市は灰燼と化していった。

 四月一日、アメリカ軍は、第五十八機動部隊(空母十五隻基幹)、イギリス機動部隊(空母四隻基幹)、アメリカ第十軍(歩兵四個師団、海兵三個師団)十八万三千人を揃えて、日本列島と南方地域、マリアナ諸島と朝鮮半島支那大陸を繋ぐ東亜の戦略要衝である沖縄への上陸作戦を開始し、六日には戦艦大和を旗艦とする我が帝国海軍残存艦艇十隻が沖縄を救援すべく出撃したものの、翌日、アメリカ軍の艦載機によって大和以下六隻が撃沈され失敗、もはや我が国の完全敗北は誰の目にも明らかであった。それにも拘わらず陸軍中枢は強硬であった。

 小磯内閣が総辞職した四月五日、陸軍省軍務課(昭和二十年四月二十三日、陸軍省と参謀本部のニ位一体制により参謀本部戦争指導班と合併)は、重臣会議終了後、鈴木貫太郎海軍大将が宮中に残ったという情報を得て、鈴木大将への大命降下を必至とみなし、次期内閣に対する要求として、大東亜戦争の完遂、陸海軍の統合、本土決戦の準備、対ソ施策の促進、戦争遂行妨害分子の絶滅を挙げ、鈴木新首相にこれ等を受諾せしめ、十五日には、陸軍憲兵隊が、昭和天皇に捧呈された(昭和二十年二月十四日)近衛上奏文を基本綱領として敗戦革命を阻止し我が国を破滅から救出する為に米英との早期直接和平の実現を模索していた吉田茂、岩淵辰雄、殖田俊吉らを検挙した(日本バドリオ事件)。

 陸軍省軍務課が政府に要求した「対ソ施策」の具体案は、二十九日、軍務課高級課員の種村佐孝大佐によって作成され、翌日に参謀総長次長および陸軍大臣次官に具申されたのであるが、これは「一億玉砕」の提唱者の一人である種村ばかりか、二・二六事件以降、陸軍省部の主導権を把握していった統制派革新幕僚の正体および我が国の対支米英戦争の本質を赤裸々に示す貴重かつ深刻な戦争指導史料である。以下はその全文である。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和二十年四月二十八日土曜
一、対支政謀略ニ関シ曩ニ西浦大佐出張ノ節内示セルニ全然同意ニシテ万難ヲ排シ実行スル旨来電アリ、直チニ大陸指ヲ発動セラルルト共ニ次長次官ヨリ激励電ヲ発セラル。

昭和二十年四月二十九日日曜
一、天長佳節
  祝意ハ敵撃滅ノ戦意トナリテ表ハル
一、独崩壊ノ報来る。宿命カ。
  之ガ処理ニ関シ
   大詔喚発
   第三十一条ノ取扱
   対ソ施策ノ方法
  等ニツキ書記官長軍務局長ヲ中心ニシテ協議スルトコロアリ

昭和二十年四月三十日月曜
一、「今後採ルベキ対ソ施策ニ関スル意見」並ニ之ニ基ク対ソ施策要綱ヲ起案 種村ヨリ大臣総長次長次官ニ意見ヲ具申ス。

今後の対ソ施策に対する意見 昭和二十年四月二十九日、種村佐孝大佐(1)

一、要 旨

 今更ら申すべきに非ざるもソ連の対日動向は帝国の大東亜戦争遂行に致命的影響を及ぼしていることは大東亜戦争開始前以来の戦争指導上の最大関心事であった。而して此のソの対日動向を大東亜戦争の終末迄中立的態度を維持せしめ得れば戦争指導上満点で在る。今日迄日ソ中立条約に依存して帝国は日ソ間の関係を危げ乍も維持してきたのであるけれども今や日ソ中立条約破棄通告を受け且独崩壊したる現状に於ては遺憾乍ら日本独力に依りソの中立態度を維持せしめ得べき何等の根拠をも持っていない。此に帝国としては戦争指導上最大の不安焦慮に襲われ来った次第である。然し之は本質的に見れば既に開戦当時以来内在して居た問題で見様によっては如何ともし難い問題とも考えられる、其処で現下に於ける対ソ施策は恰も剣ケ峰に押された相撲取が打つ棄りに成功するか或いは押し切らるるか、大体九対一、全く捨身の戦法にあらざれば成功し難い本質的なものであることを深く期して九死に一生を得る積りで本施策実行に邁進しなくてはならない。若し成功しなかった場合は何とかなると考えても何ともならず其の時は押し切らるる許りで在る、今日に於ては其の様な幅はない。成功しなかった場合とは何ぞや、ソが日本と同調せず米と同調した場合で在る。ソが米と同調するとは何ぞや、日ソ交渉即対米交渉となり且帝国が求めて無条件降伏なるが如き事態に放り込まれた場合である。其処で今後の対ソ交渉に当っては其の目的と限度と方法とを確立して掛らなければ火遊びとなる危険極めて大である。況や対ソ交渉即世界終戦(対米屈伏)として自己の戦意を「カモフラージュ」して本交渉を行わんとする徒輩なきにしもあらず。故に厳に警戒を要する点である。

二、世界終戦より見たる所の対ソ施策      

 大凡今次戦争の終末を如何なる規模と様相に於て求めんとするやは戦争指導者の特に留意し念頭から去ってはならない点で在る。然らば戦史的に見て此の大戦争の終末はうやむやな形で持っていけるかどうか、最後迄頑張るだろうと考えた独逸は今日あの形で終末を見んとしつつある所を考えると帝国の今後の戦争指導には前途に極めて多難なるもの存することを予期せらる。飽く迄戦うと強く強調すればする程如何にして勝つべきやと云う方法論に於て戦争指導者は勿論国民上下を挙げて疑念を招来すべきは蓋し止むを得ない事情である。作戦必勝の道なき所に戦勝の光明などが存在しよう筈がない、況や作戦の必勝なきとき外交に依り情勢の展開を計らんとするが如きは屈伏への努力か然らずんば作戦必勝への補助手段かの何れかに存する。屈伏への努力であったなら相手が如何に強かろうと即座に出来る、然し条件は許されない、作戦必勝への補助手段であったならば其の成功の公算は作戦の難易に正比例する、其処でどうしても作戦必勝の道なしとすれば之が補助手段ある外交の道も存在しないと見るも過言ではあるまいか。

 其処でつらつら帝国現下の作戦の推移を考察するとき今後の対ソ施策に殆ど期待を懸け得られない様な気がする、若し期待を懸けるとしたならば終戦方策としての対ソ交渉に転移すべきではないかとの考えが起って来るのも無理からぬ点である。戦争指導者としても一応此の点に就いて考えて見る必要が有るのでは無いか、只作戦の推移如何に不拘今後の対ソ施策に成功の公算ありとすればソ米の対日及対支問題に関する離隔を求め得るや否やに存する。此の一点が九死に一生を得る所の対米英戦争完遂の為の対ソ施策なりと云うべきで在る。  

 然しあっさり考えて米英との戦争を中止して国体を護持し帝国本土を守って此の辺で戦争を終ろうと云う軽い考えを以て対ソ施策に臨んだら何うかと云う考えも起るであろうが、相手のある戦争で在る、そうは易々問屋は卸して呉れない、仮令一時対米終戦に関する外交交渉成功するも米は偽装停戦して我が戦意を喪失せしめたる後必ず大問題を吹掛けて来るに違いない。其の大問題とは国体の破壊以外の何物もあるまい、日本民族の根を止めるのは皇室を抹殺する以外に無いことは彼等も充分知って居る、其処で世界終戦の見地から見ても帝国の対ソ施策は深刻なる場面に追い込まるることは当然覚悟しなくてはならぬ。

 作戦も外交も戦争も之れ悉く最後の紙一重の所で勝敗を決する、今や帝国の戦争必勝への道は外交でもなく経済でもない、本土に於ける天皇に奉仕し奉る一億特攻の団結と之に依る作戦必勝への努力以外に何物も無い、対ソ施策に依って帝国の運命を打開しようなぞと思って之に多くの期待を仕様としたならば之が成功しなかった場合に於ける反作用を考うるとき其の危険極めて大である。

三、対ソ施策の目的

 以上の見地に基いて対ソ施策は飽く迄対米英戦争完遂の為の対ソ施策でなければならない、即ち対米英戦争完遂上日ソ戦絶対回避の為の施策でなければならない、此の点を明かにして対ソ施策に進むべきである、何処迄も米英の戦意を喪失せしむる迄戦うのである、戦わんが為に必要なる対ソ施策を行うのである、万一飽く迄戦うと云う決心の無き対ソ外交であったならば危険此上もないことは既に述べた通りで在る。

 而して本目的達成の為ソ側に確約せしむべき条件は日ソ同盟なりや、日ソ支同盟なりや、ソの対米厳正中立なりやの何れかに存す。

 然るに日ソ中立条約の破棄せられたる今日此中の何れをも確約せしむることは余程の神業であり余程の「チャンス」を掴まない限り困難なることと云わねばならぬ。

 此処に於て本目的達成の為如何なる形式にてソの対日態度を確約せしむべきやは本施策成否の鍵とも云うべきで在る、下手をするとソ連よりも背負投を食わされ取らるる物は皆取られて何にも得る処なく日ソ戦争に導入せらるる虞なきにしもあらずで在る。

四、対ソ施策実施上我方の譲歩すべき条件

 前項目的達成の為必要なる条件は悉く之を停止し譲歩し開放し断念するに吝であってはいけない、換言すればソ側の言いなり放題になって眼を潰る、日清戦争後に於ける遼東半島を還付した悲壮なる決心に立換ったならば今日日本が満洲や遼東半島や或いは南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて日清戦争以前の態勢に立還り、明治御維新を昭和御維新によって再建するの覚悟を以て飽く迄日ソ戦を回避し対米英戦争完遂に邁進しなくてはならない、三千年悠久の歴史から考えて見たならば過去五十年の変化の如きは民族興亡の一波瀾として考えればよいではないかとあっさり考えられないでもない。然し要は帝国に対するソ側の要求程度如何に存する。若しソ側が以上の如き要求を提示し来つた場合はどうするか、其の時は既にもうソが米英と完全に手を繋いだ時で在る。日清戦争前の態勢にかえってもソと戦をしないか、真逆ソとしてはそんな無理は云うまいと思われるけれ共帝国としては此の肚を以て日ソ戦争を絶対に回避すべきであって其処迄肚を極めて対ソ交渉に移るべきである、移った以上ソ側の言い分を待って之に応ずると云う態度に出づるべきで在る、我より進んで以上の諸条件を展開することの適当ならざるは外交掛引上から云っても当然考慮せらるべき点である。

 次は支那に対してソ連が如何なる要求を出すであろうか、之は人の褌で相撲を取る様なものでソ側としては余り乗って来ない問題であると思う。

 一時支那の大陸を米英の勢力下に置くも現下に於てソ連の戦争指導としては止むを得ないであろうと考えられる、今度の戦争で支那問題の為にソ連が米英と戦をするだろうと考えることは先ず先ず無いと云うも過言ではあるまい、従て仮令帝国が延安の本質を確むることなく其の共産色なるを以て之を餌にしてソ連を支那方面に誘導し様と思っても中々難かしい問題ではあるまいか、只現下帝国が帝国軍の勢力下にある支那の占領地域を直ちに延安とソ連に引き渡し得たとしても苟くも民族意識の旺盛なる支那民衆が直ちに日本軍に代るにソ連を以てして満足するであろうかどうか、斯る場合結局延安はソ連にあらずして支那民衆本来の姿に返るのではないか、然らずんば表面飽く迄ソ連との関係は断切って進むのではあるまいか、何れでも宜しい、支那に於ける帝国軍の犠牲と支那民衆の犠牲とに於てソ連を此の方面に誘導し支那大陸に於て米ソを確執せしめ得れば帝国の為幸甚此の上もないことであろう。

 然る場合重慶の態度は固より延安と同調すべく、重慶と雖も支那民族あっての重慶であり抗日せんが為に米英に依存したのである。日本が支那大陸より撤退したる上は何を好んで米英と提携すべきであろうか、重慶亦支那民族本来の姿に還って延安と対外的には相提携するであろう。

 国内問題として彼等が対立すべきことあるべきは支那民族五千年の歴史から考えて見ても永久に絶えないであろう。

 若し斯くの如き情勢に於て米英が支那大陸に上陸し若くは支那大陸に盤踞するが如きことあらんか、其の不幸は支那事変以上支那民族の不幸であることは彼等が一番良く知って居る筈である、即ちソ連が乗って呉れさえすれば支那問題を中心とする日ソ支の結合提携は誠に面白い問題である、成否を超越して心掛くべき施策ではあるまいか。

 然し其の成功の公算たるや九対一以上困難であることを覚悟しなければならない。但し嘗て己の力の及ばざるにソ連を西亜に向わしめ或は印度に向わしめんとして日ソの提携を計らんとしたことと比較すれば情勢の推移とは申せ数歩を進めた現実的なる命題である。 

 又南方地域に於ても帝国軍の現存する限り戦争終末の形態に於てソ連に能う限りの発言権を与うべく協力するに吝かであってはならない。

五、対ソ施策実施要領

 以上を考察すると帝国の採るべき対ソ施策は誠に至難を極むると云うも過言ではない。従て之に当るべき人は天下の至宝を以てしなくてはならぬ、現在其の所の人を得ずとせば其の所を得た人を以て之に当てなくてはならない。

 何れにしろ帝国の決心次第である、帝国の決心なくして人を探さんとするも人来らず、又帝国の決心さえあればどんな者でも誠意さえあれば先方に通ずるとも言える、決心と人選両者併立し得た時に満点である。

 必要とあらば三顧の礼を以て之を迎えるに躊躇してはならない。

六、対ソ施策と対支施策との関係

 以上の見地に基いて今後採るべき帝国の対ソ施策と対支施策とは一貫性がなくてはならない。

 右の見地よりすれば対支政謀略の重点は白紙的に考うれば延安に施行せらるべきが当然であろう、然るに此度採られたる対支政謀略の重点は重慶に指向せられ延安は補助若くは牽制として定められて居る。

 然し重慶も延安も同じく支那民族である、然も重慶とは糸が続いて居り又続け得る目途がある、然し延安に対しては昨年七月延安政権と呼称することを定めたる当時に於てさえ何彼と言を左右にして之を実行する意志がなかったのが現地の空気である。

 従て現在迄に何等昨年発せられたる大陸指示(註、大本営陸軍部指示)に基く具体的措置をも掴んでいない。

 こんな海の者とも山の者とも判らないものに手を差し伸べても其の成功への見透しが全くつかない。

 然も重慶も延安も抗日と云う見地に於ては同一歩調であることは支那事変以来国共抗日合作の経緯によるも明かである。

 従て重慶との間に手が握れたならば延安との間にも手が握れる筈である。

 其処で先ず公算のある重慶に向って重点を指向せられ之との間に停戦を企図せられたのは当然のことである、此処に尚注意すべきことは対重慶交渉即対米交渉になる虞のあることは対ソ交渉即対米交渉となる虞と同然と云うことである。

 右の見地から此の度の大陸指示に於ても対重慶全面和平とすることなく「重慶との停戦に努む」とし支那民族の覚醒を促さんとした所以である、之を要するに今後採らんとする対ソ施策と此度発動せられたる対支施策との間に何等間然する処なしと云うべきである。

七、対ソ施策と今後の作戦準備との関連

 今後に於ける帝国の対ソ態度は絶対対ソ戦回避に存するを以て今更ら対ソ戦生起を前提として行うところの作戦準備は厳に反省を要すべし。即ち大陸全般に於ける作戦準備及兵力運用の方針は飽く迄対米英戦完遂を目標とし堅実不敗の地歩を確立するを主眼として施策せらるべく一方ソに対しては対日態度の悪化を防止し且今後採るべき対ソ施策の後拠支援たらしむべきものとす。

八、対ソ施策の転換

 以上の考慮に基きて捨身で発足した対ソ施策も途中に於て其の目的及対象を転換せざるを得なくなる場合のある事を認識する必要がある。其は即ちソの仲介若くは恫喝に依り世界終戦への導入を余儀なくせらるることである帝国としては対ソ施策に発足した以上否応なしに其の仲介若くは恫喝に従わざるを得ない。然らずんば日ソ戦を賭するより外はない。其では対ソ施策の目的を抹殺してしまう事になる。即ち間接的とは云え我が最も好まざる対米和平交渉に転換せざるを得ないのである。若し之を恐れるならば対ソ施策は行わざるに不如。対ソ施策を行わんとせば当然本事態の到ることを覚悟の上で発足しなければならない。此処に対ソ施策の困難性があり微妙なる因子が内存しある所以である。今や此の危険性に躊躇して居る時ではない。大東亜戦争完遂を目標に一途に対ソ施策に前進すべきであって若し本情況の如きが発生したならば大東亜戦争の宿命と覚悟するより外はあるまい。

 以上捨身の対ソ施策を発足せんとするに当り戦争指導の見地に於て政戦両略に亘り忌憚なき小官の信ずる所を述べ上司御決断の御参考に資す 。天長の佳節記す、独屈伏の報を聞きつつ。


対ソ外交交渉要綱 昭和二十年四月二十九日、種村佐孝大佐

方 針

 帝国は飽迄対米英戦争を完遂する為日ソ戦回避を絶対の条件とし東亜問題に関し日ソ支の結合を強化し止むを得ざる場合も大東亜戦争間ソの対日厳正中立を目標とし徹底せる施策の下速かに対ソ交渉を行う。此の間情勢の推移に依り戦争終末に導入することあるを予期す。 

要 領 

一、本施策は飽く迄対米戦を完遂するを本旨とし之が為帝国竝満支の犠牲に於てソを我が方に誘引し為し得る限り支那大陸に於ける米英ソの確執を激成するを主眼とす。

二、対ソ交渉に当り我が方の提案すべき腹案要旨左の如し。

 米英の世界侵略就中東亜に於ける野望に対し日ソ支は善隣友好互助提携相互不侵略の原則の下に強固に結合し以て相互の繁栄を図るを目的とし帝国はソ連邦に対し左記を確約す。

1、満洲国に於ける居住営業の自由。
2、支那に於けるソ連勢力特に延安政権の拡大強化要すれば其の希望する地域より日本軍の撤退。
3、南方占拠地域に於ける戦後所望する権益の譲渡。
4、満洲国及外蒙共和国は本施策に同調すること。
支那に於ける交渉の対象は延安政権とするも差支なきこと。之が為要すれば国民政府を解消せしむ。

三、ソにして前項交渉に当り強硬に要求するに於ては左記を容認することあり。

1、北鉄の譲渡
2、漁業条約の破棄
3、満洲国、満鉄、遼東半島、南樺太朝鮮等につきては解消若くは譲渡することあるも当時の情勢に依り之を定む。

四、対ソ交渉に当り其の仲介若くは恫喝に依り世界終戦への導入を強要せられたる場合に於ては之に応ずることあるを予期す、其の場合に於ける条件は別に定むるも概ね前諸項に準じ極力帝国の地位を有利ならしむるに努む。

五、世界情勢の転換就中独崩壊後に於ける欧州処理を中心とする米英ソの確執激化せるの機に投じ対ソ施策の急速なる進展を図るものとす。
 註、本施策は外務大臣自ら赴ソし若くは特派使節を派遣して乾坤一擲の断を下さんとするに在り(1)。


 五月七日、遂にドイツが連合軍に無条件降伏し、ソ連がヤルタ密約(昭和二十年二月)に基づき対日参戦を果たすべく、ヨーロッパから満ソ国境付近に続々と大軍を集結させていたにも拘わらず、陸軍中枢の親ソ反米方針に押し切られた鈴木内閣は、十四日、対米英戦を継続しながらソ連に対し、我が国の譲歩と引き替えに、対日参戦防止、好意的中立、米英との和平仲介を要請することを決定してしまった。それが以下の六巨頭会談の決定である(2)。 

 昭和二十年五月十一日、十二日及十四日に亘り最高戦争指導会議構成員(註、鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、及川軍令部総長)のみを以てせる会議に於て意見一致せる所左の如し。

 日ソ両国間の話合は戦局の進展に依り多大の影響を受くるのみならず、其の成否如何も之に由る所大なるべきも、現下日本が英米との間に国力を賭して戦いつつある間に於てソ連の参戦を見るが如きことあるに於ては帝国は其の死命を制せらるべきを以て、対英米戦争が如何なる様相を呈するにせよ帝国としては極力其の参戦防止に努むる必要あり。尚我方としては右参戦防止のみならず、進んでは其の好意的中立を獲得し、延いては戦争の終結に関し我が方に有利なる仲介を為さしむるを有利とするを以て、此等の目的を以て速に日ソ両国間に話合を開始するものとす。

 我方としてはソ連が今次対独戦争に戦捷を得たるは帝国が中立を維持せるに依るものなることを了得せしむると共に、将来ソ連が米国と対抗するに至るべき関係上日本に相当の国際的地位を保たしむるの有利なるを説き、且又日ソ支三国団結して英米に当たるの必要あるを説示し、以てソ連を前期諸目的に誘導するに努むべきもなるも、ソ連が対独戦争終了後其の国際的地位向上せりとの自覚並に近来帝国の国力著しく低下せりとの判断を有し居ること想像に難からざるを以て、其の要求大なるを覚悟する必要あり。

 而して右ソ連の慾求は「ポーツマス」条約の廃棄を主眼とすべき処、帝国としては極力其の軽減に努むべきは勿論なるも、該交渉を成立せしむる為には「ポーツマス」条約及日ソ基本条約を廃棄することとし結局の所、

(イ)南樺太の返還、
(ロ)漁業権の解消、
(ハ)津軽海峡の開放、
(ニ)北満に於ける諸鉄道の譲渡、
(ホ)内蒙に於けるソ連の勢力範囲、且
(ヘ)旅順、大連の租借を覚悟する必要あるべく場合に依りては千島北半を譲渡するも止むを得ざるべし。

 但し朝鮮は之を我方に留保することとし、南満洲に於ては之を中立地帯となす等出来得る限り満洲帝国の独立を維持することとし、尚支那に就ては日ソ支の共同体制を樹立すること最も望ましき所なり。

 この六巨頭会談の決定は、東アジアを共産化に導く愚劣な外交方針であったばかりか、我が国の政府がローマ法王庁に日米和平の仲介を依頼するための好機を潰してしまった。

 昭和十六年十一月二日、国策再検討終了後の東條首相上奏の際に、昭和天皇は、我が国とローマ法王庁との間に連絡のある事が戦争の終結時期において好都合なるべき事、又世界の情報蒐集の上にも便宜あることならびに、法王庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考えて、東條首相に「時局収拾にローマ法王を考えてみては如何かと思う」と提案され、バチカン市国への公使派遣を要望された(3)。東條内閣はこれに同意し、東郷外相はバチカン特派公使としてフランス大使館参事官の原田健を起用することに決め、この人事を昭和十七年(一九四二)二月二十四日の閣議に附議決定、上奏御裁可を経て二十六日に発令し、外務省は次の談話を発表した(4)。

 「今般政府はローマ法王庁との友好関係を一層緊密ならしむ目的をもって原田公使をヴァチカン市へ特派するに決定した。現下世界の情勢に鑑み、かつ大東亜圏内に多数のカトリック教徒を包含する実情等より見て帝国と法王庁との親善関係が増進せられ連絡が一層緊密化せらるることの有意義なるはあえて贅言を要せざるところである。」

 同年三月十四日、ローマ法王庁は対ソ並びに対日関係に関し次のような発表を行いその立場を明らかにした(5)。すなわち法王庁としては現在の世界大戦に対して飽くまで中立的立場をとるが、カトリック教会は依然反ソ的態度をとるであろうとし、これに反して日本に対しては左のごとき四ヶ条の理由から全然別個の関係であるものと認めたのである。

一、日本は信仰の自由を認めている。
一、カトリック教は日本国内で公認されている四つの宗教の一つになっている。
一、従来多年にわたりローマ法王庁と日本との間には親善関係が結ばれている。
一、現在日本には法王庁よりの使節が駐在しており、従って日本よりの外交使臣が法王庁に対し派遣せられるのは別に事新しいことではなく従来から存していた友好関係を具体化したに過ぎない。

 ローマ法王庁は一九三四年四月二十日に満洲国を布教上支那から分離し個別独立の教区とすることに決定し、法王代理ガッテ司教に外交大臣の謝介石を公式訪問させ敬意を表し満洲国と法王庁の親善関係促進を希望するなど親日的であり、第二次世界大戦に対して中立を標榜しながら我が国との親善関係を維持する一方で、イタリアが連合軍に降伏しローマがアメリカ軍の保護下に置かれた後は、アメリカとの関係を深めていた。

 アメリカの戦略事務局(OSS、CIAの前身)のバチカン担当者エール・ブレナンは、戦略事務局長官ウイリアム・ドノバンの命令を受け、一九四四年末より情報活動を展開していたが、ドイツの降伏後には法王庁の対米問題担当者ヴァニョッチを通じて日本政府に対する接触を試みた。

 一九四五年五月二十七日、ヴァニョッチは日本公使館の教会関係顧問を務めていた富沢孝彦司祭を訪ね、「数ヶ月来ローマに在る一米人より和平問題に関し日本側と接触したきに付き橋渡しを依頼したし」と申し出、日本側の回答を督促した。日本の駐バチカン特命全権公使の原田健は、この申し出の目的と信憑性を疑いつつ、六月三日にバチカンから東京の東郷茂徳外相に宛てて次のように打電した(六月五日本省着)。

 「二十七日、前駐米法王使節館参事官にして目下国務省に在るヴァニョッチ司教は当館嘱託富沢司祭を来訪の上、実は数ヶ月来ローマに在る一米人より和平問題に関し日本側と接触したきに付、橋渡しを依頼したしとの申出あり。

 先方の身分氏名等は申上げ得ざるが其の父親は社会的に相当有力なる人士なり。本人がカトリック教徒にして真面目なる人物なるが公の地位を有するものに非ず。

 もっとも先方はいよいよ交渉の段取りとならば公の人間を以て之に当たらしむる用意ある旨述べ居たりと為し、本件申出の事由としては欧州戦争終結せるも其の後のソ連の態度により政局ますます悪化の徴あり、翻て極東においてはソ連は恐らく戦争の最後の段階に参戦し満洲を手中に入れ中国共産政府を使嗾して其の地盤を確保せんとすべしと察せられ、他方従来の戦績を顧みるも米側において今後必ずや多大の犠牲を要すべく、また日本側に取りては既に戦勝の見込無しと断じ得べしと為すにあり、また米側休戦条件として差当り忖度し得るものは占領地の還附、陸海軍の武装解除、朝鮮の占領等にして国体問題には触れず又日本本土の占領を考慮し居らずと思考せらるると為し居たりと説明し、ただ事件は対ソ関係上極めて機微なるを以て此の点注意の要ありと附言したる趣なり(以下省略)。」

 富沢とヴァニョッチから「無条件降伏の慫慂に過ぎざるものならば真っ平なり」との原田公使の回答に接した一米人ことブレナンは、自分の企図がアメリカ側の公の地位に在る者と日本とを非公式且つ極秘裡に会談せしめ両者の接近を図らんとするものであり、将来日本側より米側に伝達方希望あれば自分は何時にても連絡の労を執る用意があり、米側の主張する無条件降伏の建前は今更変更することは仲々困難であるが如何様にも解釈し得べきことを原田公使に伝え、原田はこの旨を東郷外相に宛てて六月十二日に打電した。
 
 しかし東京からは何の返電もなく(6)、我が国の外務省は天の恩恵に等しいローマ法王庁の好意を無視し、見事に的中した昭和天皇の深慮遠謀を台無しにしてしまったのである。

(1)参謀本部編【敗戦の記録】三四三~三五二頁。
 戦時中の我が国の大本営は、敵味方を欺こうとして虚偽発表を繰り返したが、日米両軍の戦果損害の実数および戦況の実態を知るアメリカ軍情報部は、当然、日本の大本営が如何なる事実を伏せ、如何なるウソを発表しているかを容易に把握することができ、発表された事実およびウソと、隠蔽された事実を比較分析してますます的確に日本の大本営の企図を見抜いていた。
 我が国の陸海軍将校達は、情報の内実と総量を知る相手に対して虚(重要な事実を故意に欠落させること)偽(事実と異なることを捏造すること)報道を行うと、逆に虚偽報道を分析されて、相手に自分の意図、目的、正体、実情、能力、希望的観測、潜在的希望などを察知されてしまうことに気付かなかった。

 だから元中佐陸軍省兵務課員の幸村健一郎が執筆した防衛庁戦史叢書大本営陸軍部〈10〉一九四頁は、軍務局課員の種村大佐が総長大臣以下に具申した今後の対ソ施策に対する意見について、わざわざ「この細部は省略するが、ソ連に対して大譲歩をして対ソ戦を絶対に回避し更にソを我が方に誘引せんとするものであった」と記し、種村の狂気の戦争指導方針を糾弾せず、陸軍中央が、支那および東南アジアを英米帝国主義および彼等に支援される蒋介石政権より解放し、これらの地域を日本と共にソ連に提供して東亜共産主義社会を実現する所謂「砕氷船テーゼ」を遂行していたことを隠蔽しているばかりか、「憲兵隊が吉田茂を検挙した理由は、上層部の和平工作に一撃を加え、不退転の覚悟で本土決戦に臨もうとする陸軍の決意を表明する狙いがあったと思われる。また陸軍に対する中傷を黙過するに忍びなかったものであろう」と吉田検挙を正当化しているのである。

 日本の戦後、防衛庁自衛隊には、種村佐孝と同類の元陸軍革新将校が潜入していた。彼らは戦史の編纂出版講義における「大本営発表」を継続しただけでなく、国内外の共産主義勢力に内通し、東亜新秩序の実現を再画策していたであろうことは想像するに難くない。
 大日本帝国は、立憲自由主義議会制デモクラシーを開花させ、精強な陸海軍力を保有していたにも拘わらず、尾崎秀実を幕僚とする近衛内閣が出現するや忽ち破滅への道を歩み始め、わずか八年で明治維新以来蓄積してきた国富を失い焦土と化したのである。国家権力および報道に浸透する共産主義勢力の諜報謀略活動は、国家の死命を制する恐ろしい魔力を秘めている。GHQによって破壊されたスパイ防止法を始めとする防諜能力の再生強化を怠った戦後の日本国の経済繁栄は、いつ消えてもおかしくない風前の灯火、砂上の楼閣にすぎず、我が国の生命は累卵の危うきに瀕しているのである。
(2)【終戦工作の記録下】八十~八十二頁。
(3)参謀本部編【杉山メモ上】三八七頁。【昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記】八十二頁。
(4)大阪朝日新聞一九四二年三月二十日記事。
(5)大阪朝日新聞一九四二年三月十六日記事。
 宗教団体法(昭和十四年法律第七十七号)第一条 本法に於て宗教団体とは神道教派、仏教宗派及基督教其の他の宗教の教団(以下単に教派、宗派、教団と称す)並に寺院及教会を謂う。
(6)【終戦工作の記録下】三一三~三一七頁。



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国民のための大東亜戦争正統抄史73~77繆斌工作

【繆斌工作】

 
73、対重慶和平工作再燃

 昭和十九年十月十六日、我が国の大本営海軍部は、台湾沖航空戦(十月十二~十五日)の戦果累計を「轟沈空母十、戦艦二、巡洋艦三、駆逐艦一、撃破空母二、戦艦一、巡洋艦四、艦種不明十一隻」と発表した。国民は久々の大戦果に歓喜してZ旗を掲げて戦勝を祝い、同日、小磯首相は、特別談話を発表し、

 「予期せる決戦はいよいよ開始せられた。官民一体勝って兜の緒を締めんことを誓いたい」

と獅子吼した。だが大本営海軍部の発表は、ガダルカナル戦以来、海軍が幾度となく繰り返してきた未熟な操縦員による戦果誤認であり、台湾南部を空襲したアメリカ第三十八機動部隊(空母十八隻基幹)が受けた実際の損害は、航空機八十九機、巡洋艦二隻大破に過ぎず、我が軍は、決戦戦力としてフィリピン、台湾、九州に配備していた航空部隊千二百五十一機の内、約八百機を撃破されてしまった。海軍は組織防衛を図り、大戦果が幻だったことに気付きながら、これを陸軍に知らせず、九州鹿野海軍飛行場に赴いた参謀本部情報部の堀栄三少佐が海軍の戦果誤認に気付き、

 「この成果は信用できない。いかに多くても二、三隻、それも空母かどうかも疑問」

と陸軍参謀本部に打電したにも拘わらず作戦課がこれを握りつぶしていまい、大本営陸海軍部は準備していたフィリピン決戦の戦場をルソン島からレイテ島に切り替えたのである(1)。

 我が海軍は残存戦力(水上艦艇六十三隻、潜水艦十三隻)を結集し、二十日、マニラの約六百キロ東南にあるレイテ島に上陸を開始したアメリカ軍の輸送船団と上陸支援艦隊を撃滅しようと捷一号作戦を発動したものの、フィリピン沖海戦(十月二十三~二十七日)で大敗北を喫し、空母四、戦艦三、重巡六、軽巡三、駆逐艦八、潜水艦六隻を撃沈され、残存艦艇の大半も損傷し、ここに我が連合艦隊は事実上潰滅した。
 山下奉文大将の率いる我が第十四方面軍は、大本営から制空海権なく補給なく準備なき無謀なレイテ島決戦を強要され、約二ヶ月の間に主力を喪失してしまい、十二月二十六日、アメリカ政府は、フィリピン・レイテ作戦が成功裡に終了したと発表し、翌年一月九日、アメリカ軍は、第十四方面軍の残存部隊が立て籠もるルソン島に上陸した。

 斯くしてフィリピン決戦による一撃和平実現の悲願を砕かれた小磯首相は、対重慶政府和平を端緒とする対米英和平の腹案実現に傾注していった。小磯の陸士以来の親友にして側近であった山県初男元大佐は、日支全面和平を模索する為、昭和十九年八月末から支那を旅して十月十二日帰京し、小磯首相に、

 「日本の施策が当を得ず治安は日に悪化し、賄賂横行して、人心はすでに日本と南京政府を離れ、延安、重慶に向いている。重慶和平は一日を争うが、それができないのは、在支那の日本の文武官の強硬派の為である。速に一大粛正を行うと共に南京政府の大改革を実行しなければならない」

と報告した。十六日、山県の帰国に続いて宇垣一成大将の一行が、一ヶ月余の支那戦線視察を終わり帰国した。一行は緒方竹虎国務相の腹心である三土路昌一(朝日新聞副社長)を含み、繆斌(石原莞爾の東亜連盟構想に共感し昭和十五年五月中国東亜連盟協会設立、南京政府立法院副院長のち考試院副院長)を始め、相当多数の人物と面談して日中和平を模索したが、山県同様これといった和平路線を開拓することはできず、帰国した宇垣大将は小磯首相に、

 「南京政府の存在は却って重慶政府に対する和平工作の妨害になっている」

と進言した(2)。小磯首相が緒方に探知させた重慶側の和平条件の輪郭は、

1、満洲処理問題は別個に協定す。
2、日本は支那から完全に撤兵す。
3、重慶政府は取り敢えず南京に留守府を設置し三ヶ月以内に南京に遷都す。
4、留守府は重慶系の人物を以て組織す。
5、現南京政府の要人は日本政府において収容す。
6、日本は米英と和を講ず。

という内容であった。だが南京政府の解消と要人の処遇は、「大東亜戦争完遂のための対支処理根本方針」(昭和十七年十二月二十一日)に基づく対支新方策が支那国民一般に感銘を与え、重慶政権の抗戦意識を減殺し支那事変を解決へ導くと確信(錯覚)していた重光葵外相と、支那派遣軍の強い反対が予想され、小磯首相も決しかねていた。だが十二月上旬になり、山県によって和平路線の探索を依頼されていた上海の相内重太郎(元満鉄社員)から「蒋介石に確実に繋がっている線が見つかった」との連絡が入った。

 「全面和平の内工作はすでに出来ている。一日も早く上海においでの上、実行に移されたい。時機が遅れては最早、成功の見込みがなくなる。」

 山県より連絡を受けた小磯首相は漸く決心し、十二月二十八日、山県を総理官邸に呼び、和平工作のための総理代表として上海に行くことを命じ、二通の紹介状を手渡した。一通は、昭和十九年十二月八日に陸軍省軍務局長から支那派遣軍参謀副長に転出した佐藤賢了少将宛、もう一通は、宇垣帰国と同時期に江亢虎(南京政府考試院院長)を日本に派遣し、日支全面和平につき我が国政府首脳と会談させた繆斌宛であった。

 昭和二十年一月四日、山県は、陸軍次官の柴山兼四郎中将を訪ね飛行機便乗の許可を得て、十八日朝、羽田より飛び立ち、同日夕方に上海郊外の江湾飛行場に到着し、相内の出迎えの受けた。当時延安に派遣されていたアメリカ顧問団デキシーミッションに所属していたジョン・エマーソン二等書記官によれば、奇妙なことに中国共産党は、山県の行動を彼が上海に到着する前に知っていた(3)。

(1)堀栄三【大本営参謀の情報戦記】一五九~一九〇頁。保坂正康【瀬島龍三】一三〇~一五三頁。
(2)【終戦工作の記録上】三六七頁、畑俊六日誌昭和十九年十一月五日の条。
(3)横山銕三【繆斌工作成らず】八十三頁。


74、蒋介石と東亜連盟運動

 山県は上海に三週間滞在し、その間南京の派遣軍司令部を訪ね、佐藤少将に面会を求めた。だが現れた駐支大使館付武官兼参謀副長の今井武夫少将に面会を拒絶され、憤慨した山県は、南京から直ぐ上海に引き返し、一月下旬から、相内や、繆斌と最も親しかった田村真作(元朝日新聞北京支局員、東亜連盟運動に従事)の協力を得、支那側の東亜連盟運動の拠点となっていた旧フランス租界エマニュア路の繆斌邸にて、重慶側の承認を得た繆斌と密議し、日支和平の仮協定に到達したのであった。

 二月二日、上海市政府顧問の船津辰一郎が、昵懇の間柄であった支那派遣軍総司令官の岡村寧次大将を訪ね、上海在住の遠良(元北京市長)の所に岡村大将宛の蒋介石総統の伝言が来ているので是非近日上海に来てほしい、と要請した。十四日、岡村大将が上海に赴き、船津立会の下、遠良と面談したところ、重慶から帰還した彼の連絡者に託された次の蒋介石の言葉を伝えられた(1)。

 「中国はアメリカと離れることは不可能だが、予は、中日両国の提携が大東亜の為に緊要無二なことを認めている。故に適時日本の為に発言する用意がある。日本を救う者は予あるのみ、然るに日本人は予の真意を誤っているのは遺憾である。お互い行き過ぎないように致したし。」

 蒋介石は、昭和十二年七月十七日廬山会議における「最後の関頭」演説以来、我が国の軍事外交政策、政府声明を非難する演説を度々行った。だが満洲事変以来の石原莞爾の盟友、板垣征四郎総参謀長や堀場一雄、辻政信参謀ら支那派遣軍総司令部が石原構想を容れて「派遣軍将兵に告ぐ」(昭和十五年四月二十九日)を発表、支那事変解決の目標を「満洲建国の精神を想起し道義東亜連盟の結成にあり」と主張し(2)、支那における東亜連盟運動を勃興させた際、重慶政権は「石原莞爾の東亜連盟の思想と辻参謀の日本将士に告ぐの二つには太刀打ち出来ぬ」と沈黙を守ったのである(3)。

 蒋介石は、満洲国建国後、一貫して東亜連盟構想に基づく日満支の提携を主張し、日蒋間の早期講和を訴えて続けていた石原莞爾と東亜連盟運動の民間志士を信頼しており、蒋介石自身、彼等に応えて日支、日米和平の実現を推進する意思のあることを岡村大将に示唆し、繆斌工作への協力を暗に求めてきたのであった。だが岡村大将は、永く戦地に居て落ち目になっている内地の実情を知らず、「蒋介石は生意気なことを言ってきた」と感じただけで返答も出さず、敗戦直後に敗軍の将として蒋介石以下中華民国首脳と面談するに及んで漸く蒋介石の伝言が彼の本音であったことを知ったのである…。

(1)【岡村寧次大将資料】二一八頁。
(2)【現代史資料日中戦争2】六九三頁。
(3)【木戸幸一関係文書】六〇五頁、昭和十八年十二月六日木戸幸一宛加納久朗「重慶情報」
 この中で、加納は木戸に「蒋と共産党とは仲が悪い。廬溝橋事件も共産軍が停戦中の日支両国兵の中間に夜間這入り込んで双方に発砲したから起こったということは最早重慶でもよく知れ渡って居る。いくら蒋が日本と戦争を避けんとしても共産軍の若い士官はどうしても承知しなかった。共産軍は日本に負けても構わぬ、これを打たねばならんと云う考えでやったのである」と報告した。


75、繆斌の来日

 二月二十日、山県は帰京し、小磯首相に、繆斌の和平交渉期限は三月末迄であること、繆斌機関一行は無電機を持参すること等、和平工作実行案を説明し、夕食を共にしながら夜遅くまで協議した。ここに至り小磯首相は、遂に繆斌招請を決意し、柴山次官に「繆斌にその無電機及び通信手、暗号翻訳並びに重慶からの使者を帯同して上京せしめること」を命じたのであった。

 三月十六日、蒋介石の密命を帯びた繆斌は、相内重太郎と共に、アメリカ軍B―29の無差別爆撃を受けて焦土と化した羽田に降り立ち、十八日、まず防衛総司令官の東久邇宮稔彦王と会談し、日支全面和平実現に向けて協力を求めた。

東久邇宮「三つのことを最初に聞いておきたい。」
繆斌「どういうことですか。」
東久邇宮「第一に重慶では、日本の天皇を認めるか、どうか」
繆斌「認めます。」
東久邇宮「第二に何故に日本と和平するのか。」
繆斌「中国は日本がこのまま亡び去ることを決して望んでいない。中国の自衛のためにも、日本の存在を必要とする。日本は亡びる前に米国と和平してもらいたい。日本は中国の防波堤であり、いま和平が出来れば、ソ連の進出を未然に防ぐことが出来る。」
東久邇宮「小磯総理の招請で来たのに、何故に最初に私に会うことを欲したか。」
繆斌「日本では誰も信用できない。頼りになるのはただ天皇御一人である。しかし直接お会い出来ないから、殿下によって雑音なしに自分の考えを取りついでもらいたいと考えた。」

 また戦局について繆斌は、「米軍は支那大陸などに上陸することなく、フィリピン占領後、必ず沖縄に上陸するから、警戒しなければならない」と透徹した警告を発した。東久邇宮稔彦王は、「率直に胸襟を開いて話し合える人物」であると繆斌を信頼し、

 「日中全面和平はひとり日中両国の平和を確立するだけでなく、これを基にして蒋介石が音頭をとって、現在の世界大戦をやめさせ、世界平和までもって行きたい」

と提案して彼を感激させ、即日小磯首相に、繆斌工作に全幅の努力を傾けるよう要請し、繆斌は、十八日夜に小磯首相と緒方竹虎国務相、十九日夜には柴山次官と会談した。しかし繆斌の後を追って谷正之駐支大使と共に上京した今井少将が、帝国ホテルに陣取り繆斌工作の妨害に狂奔し、陸軍中枢も極めて冷淡であった。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和二十年三月二十日火曜
一、本日突然内閣ヨリ重慶工作ニ関し、明日最高会議ヲ開催致度トノ提案アリ
  目下「繆斌」来京中ナルヲ以テ、総理カ「繆斌」ノ意見ヲ聴取シタル結果思ヒ付キタルモノト判断セラル
  繆斌ノ和平思想左ノ如シ
  (イ)国民政府抹殺 
  (ロ)即時無条件撤兵
  (ハ)最近ハ重慶ヲ仲介トスル日米和平ヘ変化シアリ
  陸軍トシテハ斯カル工作ハ相手ニセサル方針ナリ


76、死せる尾崎秀実、生ける日本政府を欺く

 翌二十一日、小磯首相は、繆斌によってもたらされた和平条件に基づく中日全面和平実行案を最高戦争指導会議に提案した(1)。

中日全面和平実行案

 中日全面和平の打開は、現状の政治対立、軍事対立、経済対立を解消するを原則とする。実行案次の如し。

第一、 南京政府を即時解消すること。南京政府側に於て自発的に解消声明を行うこと。

第二、南京政府解消と同時に重慶側の意志に基く者及び重慶側に於て承認する民間有力者を以て民意に依る「留守府」(中華民国国民政府南京留守府)政権を組織す。南京政府の解消発表と同時に、各地方政府、各軍隊、各民衆団体より××氏擁護の通電を一斉に発し「直ちに××氏が南京に留守して主政され民意を代表して全面和平を達せられたき」旨の懇請をなす。留守府成立と同時に留守府は重慶中央政府に対し「留守府に於て暫時の間地方秩序を維持しているから、中央政府は速かに南京に還都され度き」旨の通電を発す。留守府は同時にまた日本に対し「全面和平のため速かに停戦撤兵されんことを希望する」旨の通電を発す。

第三、日本政府及び重慶政府は、南京留守府政権成立と同時に同政権を通じ相互に停戦撤兵の交渉を開始す。留守府政権成立後、直ちに停戦及び撤兵に関し日華双方より軍事代表を出し紳士協定を秘密裡に結約す。停戦に関する正式発表は、重慶中央政府の南京還都と同時に行う。

右、南京解消と停戦撤兵の二眼点を認め得べしとの結論に到達せば、総理の委任状を所持する専使を重慶に特派するか又は双方の専使粤門等適当なる地点に会合することとし、蒋介石の真意を直接確めるの要あるべし。重慶側の誠意を危んで躊躇すべきにあらざると共に、事の重要性に鑑み直接蒋介石の真意を確めることなくして交渉に入り得ざること勿論なり。

小磯「重慶工作を積極的に進めるために緒方国務相と相談の上繆斌を東京に招くことにした。外相、陸海両相の意見を聞き何れも気乗りではなかったが、繆斌は、以前この会議において意見があった如く重慶の廻し者と思われる彼を利用して重慶工作を進めることは一案と思い、とにかく東京に招致することに決し、繆斌は相内を同伴して着京した。

 彼は予期に反し無電機及び無電技術家を随伴しておらず、よって彼をして東京より直接重慶と通信せしめ重慶の意向を知る手段がない。もしこれがため繆斌を帰せば彼を取り逃がすやも知れずむしろ便宜を供与して上海より無電機及び無電技術家を呼び寄せる必要がある。繆斌の相手は重慶の戴笠ということで、重慶との間に予備工作が進捗するにおいては重慶及び我が方の代表者と或いは粤門等に会合し話を纏めることも一案である。緒方国務相は直接重慶に乗り込みて差し支えなしという。同相は繆斌とすでに既に会見を終了したが、繆斌の意見は、南京政府の取消、日本側の一方的撤兵着手を希望し、これによって重慶側との話合を進め得る旨を述べており、これが果たして重慶の意志なりや確かめ得るにおいては交渉を進め得べしと考える。よって今日配布の中日全面和平実行案について審議を進めたい。」
杉山「元来重慶の廻し者と考えられる者が如何なる資格で来たか、確かめたのか。」
重光「戦局今日の段階において何等か外交的に打開の道なきやについては外務当局として日夜苦慮している。特に支那問題については重慶工作の如きは当然慎重に考究すべきである。今日の議題に関しては事余りに重大であり自分は外相の立場を明確にしておきたい。

 元来繆斌はむしろ重慶の廻し者と看られていることは既に本会議に於いても一致した意見であり、自分は繆斌を東京に招くことに反対であり、約一ヶ月前首相より繆斌招致の意向を承知して、これは考えものと思うが陸海両相の意見をも徴してみられたらよかろう自分も考究し置く、と答えた。

 爾来今日の会合に至るまで本件に付何等の協議にも与り居らず従って繆斌承知の問題は自分は何等の関係を有せざることを明にしたい。のみならず右は今日の重大なる戦局にも鑑み輔弼の責任上よりも明瞭にして置くことを要すると信ずる。

 元来重慶工作は御承知の通り首相が外相と協議し、国民政府軍事顧問を活用し南京政府を通じ行うことに最高会議にて決定していた。このことは既に内奏せられたものと心得ている。」  
小磯「繆斌招致の目的は重慶に関して情報をとる為であり、情報蒐集に付いては最高会議においてこれを図り別に異論は無かったはずだ。」 
米内「相手の何人なるやを十分突き止めずに仮令情報蒐集にせよ一国の首相が重要なる会談をなすは如何なものか、会談の結果先方は有力な情報を得て、我が方にとっては危険この上もない。」 

 重光外相は更に、

 「元来繆斌は、重慶側と密接なる連絡を有しながら北支においては新民会を操り、後中央においては立法院副院長となり日本側一部の諒解を得て重慶側と連絡していた。汪精衛はこれを知り彼及び彼の一派を捕縛処刑せんとしたが、後日本側の要請により彼を許し考試院副院長に左遷し体裁を繕った。繆斌及びその系統の者は南京政府にとっては異分子にして南京政府の倒壊を目的とし、上海辺りにおいてしきりにその運動を行った。上海における日本人が彼らの情報に惑わされ反南京気分となっている」

と述べて、谷大使の電文を読み上げ、繆斌を「和平ブローカー」と非難し、我が国によって正式に承認された南京政府の解消に強く反対した為、会議は纏まらず、小磯首相は次回続行を決めて退席した。しかし会議終了後、外相、陸相、海相は、

 「本件は余りに無謀の挙にして会議続行の要なし」

と決定してしまった。

 嗚呼、近衛文麿首相が国民政府(蒋介石)を対手とせず抹殺すると宣言し汪兆銘を首班とする南京政府を承認したこと自体が中華民国に対する信義にもとる行為であるにも拘わらず、これを取り消さずに南京政府に対する信義を重んじる倒錯を犯してハル・ノートを拒絶し、対米英開戦を決断した東條内閣に続いて、小磯内閣の外相、陸相、海相もまた、尾崎秀実、西園寺公一、犬養健、松本重治等によって樹立された南京政府の正体―日支全面和平を遮断する障害物―に気づかず、名誉ある講和の機会を逃し、我が国を敗北へ導いたのであった。
 自分の言葉を実践し(信)、自分の持てる力を尽くすこと(義)は、人間の美徳であることには違いない。しかしながら、

 「信義を尽さむと思はは始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし、朧気なる事仮初に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし、始に能々事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷いて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠なからぬものを深く警めてやはあるへき」(明治天皇の軍人勅諭)

という警句の真髄は、我が国の政府軍部首脳には正しく理解されていなかったのである…。

 昭和十九年十一月七日、スターリンが「日本が真珠湾、マレーを攻撃したのは、侵略国としての日本が平和愛好政策を堅持せる米英両国よりも、戦争に対し完全な準備を整えていたことを示すものだ」という厚顔無恥な非難を日本に浴びせた第二十七回革命記念日に、スターリンの命令に従い支那事変を拡大長期化させ我が国を対米英戦へ誘導した尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲは死刑に処された。
 だが尾崎が死んでも、「日本には依然として支那問題を局部的にのみ取扱わんとする見解が存在している。これは世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない性質のものであると観念すべきものであろう」という呪いの言葉を我が国に吐いた尾崎の謀略工作は生き続け、戦争末期においてもなお重光ら政府関係者を欺き、東亜連盟運動者の前に立ち塞がり、日中間の和平実現を妨害したのであった・・・。

(1)【終戦工作の記録上】四〇五~四一七頁。


77、桜散る

 二十四日午前九時、繆斌は東久邇宮稔彦王を訪ね、「小磯首相と柴山次官と会談したが政府も軍も全く煮え切らない」と深い失望を訴えたが、この日の午後、小磯首相は、内閣改造を行い和平工作を促進する為、重光を更迭し後任に元駐英大使の吉田茂を起用すべく、木戸内大臣と会談した。

小磯「内閣の進退について先日お話したが、このままでは中々持って行けないので、大改造が必要と思う。改造となると、必ずしも進退を必要としない人に考えて貰わねばならないので、奏請の責任上、自分も辞表をださねばならないと思う。勿論大命再降下等を考えている意味ではないが…。」
木戸「改造は困難でしょう。その理由は例えば閣僚中に大達内相の如き、必ずしも好意的しな態度を持たないものもあり、これに失敗するときは野垂れ死することとなるので、よほど注意を要するでしょう。」
小磯「後任を色々考えてみるに、忠誠心において真に信頼し得る人を物色することは頗る難しいと思う。」
木戸「これは中々の難題なるが、要するに次に来るものがバドリオ的なものにては困ると云うことでしょう。この点は東條大将も退任に当り心配せられたるところですが、それは吾々も及ばずながら考えています。内閣の進退については、今暫く二人だけで、他に話さず、熟慮するように。」

 次いで二十七日、今度は近衛文麿が木戸を訪ね、小磯が近衛に内閣改造について協力を依頼してきたことや、繆斌が「東久邇宮稔彦王が内閣を組閣すれば重慶政府が直接和平の手を差し出す」と話しており、今度は支那事変の解決は東久邇宮稔彦王の他なしとして王自身強く決意していると伝わっていること、そして近衛の政治幕僚の佐々弘雄が「仮に東久邇宮内閣が出来れば、重慶に対する工作が不成功に終るとも、粛軍は出来るだろう」と観測していること等を告げた。

 木戸は驚き、「これは寸刻を争う重大事」と、急遽東久邇宮邸に伺候し、東久邇宮稔彦王に自重を求め、繆斌工作に反対したのであった。だが繆斌は日支和平をあきらめず、三十日、駐日南京政府大使館から南京、上海を経て重慶政府に交渉期限延長を打電し、二日延長の許可を得、さらに東亜連盟運動の指導者である石原莞爾に助力を懇請した。

 一方、小磯の命を受けた緒方国務相は、三十一日米内海相、四月一日柴山次官にそれぞれ繆斌工作に協力を求めたが、両者に冷たく拒否されてしまった。緒方国務相は小磯首相に、

 「事ここに至っては事情を聖聴に達して善処さるべきではないか」

と進言、小磯首相は「一切を申し上げて、もしお許しにならなければ、やめるほかはない」と意を決し、二日、昭和天皇に繆斌工作を単独上奏した。だが昭和天皇は、すでに他の大臣から反対意見を内奏されていた為、小磯首相に、「深入りしない様にせよ」と仰り、小磯は「如何にも惜しい」と言葉を返して宮中を退出し、緒方に落胆した声で語った。

 「もう毒がまわっていて駄目だった」

 陸軍から追われ山形県鶴岡市に隠棲していた石原莞爾は、四月一日夜、繆斌から助力要請の書簡を受け取るや、翌二日汽車で東京に向かい、三日から四日にかけて、繆斌と感激の初対面を果たし、彼と枕を並べて日中の運命と世界の大勢とを夜の白むまで語り明かし、次いで阿南航空総監、東久邇宮稔彦王と会談し、繆斌工作に最後の努力を傾けた。

 だが五日、小磯内閣は閣内不一致を理由に総辞職してしまい、繆斌は政府と軍より即時退京を命じられた。繆斌は「使命は失敗に終わってもせめて日本の桜の花盛りを見て帰りたい」と希望し、東久邇宮稔彦王の庇護により日本を象徴する桜散る四月末まで滞京を許され、上海に帰還した。彼は、

 「昨年秋朝日美土路氏緒方総裁等の関係より小磯首相の代理として山県大佐態々来滬し重慶打診の依頼ありたるに付蒋介石(直接連絡先は何応欽の如し)と連絡の上其諒解を得て三月十六日より四月二十六日迄四十日同東京に滞在重慶側の条件として(一)南京政府の解消(二)停戦撤兵(三)英米との和平斡旋を申出種々折衝せるも陸軍側及重光外相の反対に遭い不成功に終れり。然し自分は東久邇宮殿下に拝謁し御下問に奉答せる処本件工作に関する御嘉賞の御言葉を頂き蒋介石は世界平和領導者の一人なりと迄言われたる程にて恐懼し居る次第にて斯の如き御英邁なる殿下あらせらるる以上本件工作に関しては未だ失望し居らず。」

と重慶特務機関の上海地区責任者である陳長風中将に日本の要人との会談を委細報告し、なお和平実現の希望を捨てなかったものの、その後日本からの新たな連絡はなく、アメリカ軍統合参謀本部が陸海空軍の各参謀本部に対して日本本土上陸作戦開始の第一号指令を発令した五月二十五日、重慶政権は陳長風中将に「所謂和平撤兵の交渉を止めよ」と打電、東亜連盟の理想に燃えた日中両国人の最後の和平努力も空しく、繆斌工作は終止符を打たれたのであった。

 昭和二十年二月、瀬見温泉で開かれた同志の東北地区青年大会に出席した後の帰途、石原莞爾は、駅から出征兵士を送るバンザイの声と、勝って来るぞと勇ましく、という軍歌を聞き、

 「ああ、泣いている、泣いている、軍歌が泣いている」

と静かに呟いたという…(1)。

 日本の敗戦を予見していた石原には、あたかも軍歌が、必ず死に逝く自身の運命に気づかないまま勝利を信じて戦地に向かう兵士の哀れな姿を悲しみ、泣いているように聞こえたのであろう…。そして満洲国建国後、世界の大勢と全戦局の帰趨とを正確に見透しながら、彼が強行した満洲事変を導火線として勃発した戦乱から日中両国を救い出せず、誰よりも激しい苦悶と焦燥とに心身を苛まれ、眠れぬ夜はわずかに読経にその心を静める日々を過ごしていた石原自身、昭和二十年八月十五日、昭和天皇の玉音放送に接して、ただただ恐懼断腸の思いから暗涙にむせび泣き、暗然として長嘆したのであった(2)。

 「信ずべからざるを信じ、信ずべきを信ぜず、遂に国を亡ぼした。何という愚かな事か。蒋総統に米英との和平仲介を頼むのが筋であり、総統は繆斌を密使として渡日させていたのに・・・。外務と軍が繆斌工作に反対して潰してしまった。これほど残念なことは無い。あれが最後の機会であったが・・・」

(1)青江舜二郎【石原莞爾】四五七頁。
(2)横山【繆斌工作成らず】一二八頁。



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国民のための大東亜戦争正統抄史70~72陸軍統制派の陰謀

【陸軍統制派の陰謀】


70、連合軍の大反攻

 一九四二年十一月八日、米英軍は、エジプトのエル・アラメインで東進するドイツ・ロンメル機甲軍団と死闘を繰り返していたイギリス第八軍の反攻作戦に呼応し、モロッコ(スペイン領)のカサブランカとアルジェリア(フランス領)のオランに上陸、独伊のアフリカ方面軍を挟撃することに成功し、翌四十三年五月十三日、チュニスに追いつめられた独伊両軍約二十五万人が連合軍に降伏し、北アフリカ戦線は連合軍の勝利に終わった。

 イギリスを窮地から救い出したアメリカ軍は北アフリカ戦線から太平洋方面に戦力を抽出し、六月三十日、「カートホイール」作戦を発動、ソロモン諸島レンドバ、東部ニューギニア島ナッソウ湾より本格的反攻作戦を開始し、慢性的な補給不足に苦しんでいたラバウルに司令部を置く我が第八方面軍(ソロモン諸島の第十七軍、東部ニューギニアの第十八軍)を各所で撃破した。

 勢いに乗るアメリカ軍は、十一月二十四日、中部太平洋における日本軍の最東端基地があるギルバート諸島タラワ・マキンを占領、翌四十四年二月四日にはマーシャル諸島を制圧、続いて十七日、日本海軍の根拠地カロリン諸島のトラック島を空襲して無力化し、そして二十九日、東部ニューギニアの北方に位置するアドミラルティ群島を占領したのである。これは、連合軍による北部ニューギニア、ダンピール海峡の制圧と、日本本土とラバウル、ニューブリテン島と東部ニューギニアの遮断を意味した。

 第八方面軍は、完全に補給線を遮断され、約十六万七千人の日本軍将兵がラバウル、ソロモンに孤立して死兵と化し、ブーゲンビル島の我が第十七軍が、兵力約一万人を動員して「決死全員玉砕」の決意の下にトロキナ反攻作戦を敢行し、南東太平洋作戦は終わりを告げたのであった。 

 御前会議(昭和十八年九月三十日)が絶対国防圏を設定した後も、我が軍はこれを第一線ではなく後方支援線と考える海軍の主導により、攻勢終末点を越えた南東太平洋島嶼群に分散配置されていた為に、自由に攻撃の目標と時期とを選択し戦力を集中するアメリカ軍に各個撃破され、総崩れとなってしまったのである。

 これに対し我が国では、東條首相が戦局の挽回を図るべく、陸相だけでなく参謀総長をも兼務し、さらに嶋田海相に軍令部総長を兼務させ、陸海軍戦略の一致および国務と統帥の一致を図ると共に、昭和十九年二月二十五日、ようやく中部太平洋方面防備に責任を持つ第三十一軍を編成し、十月の完成を目標として中部太平洋島嶼の要塞化に着手し、続いて三月二十二日、南西諸島方面の防衛強化の為に第三十二軍を創設した。
 この防衛戦略は石原莞爾の警告から約一年六ヶ月後の余りにも遅い措置であったが、五月二日、宮中で開かれた「当面の作戦指導方針に関する陸海軍統帥部御前研究」では、両統帥部を代表して、嶋田軍令部総長は、

 「敵がマリアナ、小笠原を攻略するには相当の犠牲を覚悟する必要があるのみならず、これが確保は容易ならず、我が基地航空兵力を減殺し、これが弱化を図った後、企図する算大なり」

と述べ、続いて後宮参謀(高級)次長は、海軍側の質問に対して、トラック、西部ニューギニアの防備には自信がないが、

 「小笠原、マリアナ地区においては、すでに相当の守備兵力を配置しあり、特に五月中旬以降輸送予定の第四十三師団を上陸せしめ得たる場合においては、敵の攻略企図に対し自信を有す」

と明答し、東條参謀総長も「サイパンは難攻不落である」と海軍側に豪語した。

 ところがアメリカ軍の進撃速度は我が陸海軍首脳の予想をはるかに越えていた。マーシャル攻略、トラック、マリアナ空襲によって日本軍基地航空隊戦力の予想外の弱体化を知ったアメリカ軍統合参謀本部は、三月十一日、米英中首脳および幕僚陣によるカイロ会談(一九四三年十一月二十二~二十六日)が決定した「日本総合打倒計画」の日程表を約四ヶ月繰り上げて、六月にマリアナ諸島、九月にパラオ諸島を攻略することを決定していたのである。

 そして連合軍がノルマンディーに上陸し、アイゼンハワー総司令官が第二戦線の形成を声明した一九四四年六月六日、第五十八機動部隊と第五水陸両用軍団(海兵二個師団、歩兵一個師団、砲兵部隊その他約六万七千人)から成るアメリカ軍マリアナ攻略部隊がマーシャル諸島のメジュロ、エニウェクト環礁から出撃し、十五日、サイパンへの上陸作戦を開始したのである。

 我が連合艦隊司令長官の豊田副武大将は、フィリピン・ギマラス島を出撃した小沢治三郎中将の率いる第一機動部隊に「連合艦隊はマリアナ方面来攻の敵機動部隊撃滅次いで攻略部隊を殲滅せんとす」と打電し、あ号作戦決戦発動を命令した。

 連合艦隊が空母搭載機までラバウルに揚げて「イ号」航空撃滅戦を発動し失敗した前年四月以来、約一年をかけて再建された我が海軍機動部隊は、空母九、戦艦七、重巡十一、軽巡三、駆逐艦三十二、補助艦艇十一、合計七十三隻を有していたが、肝心の艦載機四百三十九機の操縦員は、発着艦もままならないほど未熟で、小沢機動部隊の戦力は形骸をとどめているだけであり、質量共に、空母十五、戦艦七、重巡三、軽巡六、防空巡四、駆逐艦五十八、合計九十三隻、艦載機九百三機を揃え、高性能対空レーダーとVT近接信管付の対空砲弾を装備するアメリカ海軍第五十八機動部隊の相手ではなかった。   

 果たして十九日、小沢機動部隊は、敵機動部隊を捕捉、先制航空攻撃を行ったが、艦載機三百九十五機を失い、さらに空母三隻を敵の潜水艦と艦載機によって撃沈され、大敗北を喫したのである。我が国に残された稼働可能な第一線空母はわずか四隻、第一線航空機は陸海軍合わせて約二千五百機(稼働機千五百機)に過ぎず、マリアナ諸島付近の制空海権を敵に奪われた我が軍がサイパンに増援部隊を派遣することは不可能であり、二十四日、我が陸海軍は協議の上、あ号作戦の中止とサイパンの放棄を決定した。

 前日、参謀本部戦争指導班(参謀次長直轄の大本営陸軍部第二十班)は、あ号作戦の失敗について、次のように総括していた。

 「去ル二月トラック来攻ニ依リ我カ統帥部ハ愕然トセリ。第二十班ハ此ノ前後亜欧全般ノ情勢ヲ洞察シ、昨年九月御決定ノ戦争指導大綱ニ根本的検討ヲ加ヘ昭和十九年末ヲ目途トスル戦争指導方策ヲ策定中ノ処三月十五日第三案ヲ得、本案ヲ以テ上司ニ意見ヲ具申スヘク、先ツ松谷大佐ヨリ第一部長(註、真田穣一郎)、第二課長(註、服部卓四郎)、橋本少佐ヨリ第二課瀬島少佐ノ意見ヲ夫々求ム、大体異存ナシ、但シ第一部長ハ趣旨同意ナルモ、之ヲ印刷ニ附シテ残スハ不可ナリトノ意見ナリ、此処ニ於テ松谷大佐ハ秦次長ニ本案ヲ説明ス、次長ハ内容ノ重大性ニ鑑ミ、今本案ヲ高級次長、総長ニ提出スルモ其ノ飛躍ノ困難性ヲ見透シ暫ク時期ヲ待ツヘク、絶対ニ外部ニ出ササル如ク命セリ、斯クシテ陸海軍首脳ノ中部太平洋方面ノ重要性ニ関スル根本的施策ノ思想統一ハ不十分ナル儘ニテ両作戦課間ニあ号作戦計画ヲ樹立セラレタリ、あ号失敗ノ原因ハ此処ニ存ス、即チ皇国ノ浮沈ヲ決スヘキ重大作戦ヲ何等戦争指導的ニ検討セラレサリシ点ニ存ス
結果的ニ見テ陸軍ノあ号作戦ニ関スル援助ハ既ニ実施セル以上ニハ困難ナリシナランモ、其ノ思想ニ於テ協力一致ノ真情ヲ得タランニハ斯クノ如キ悲惨ナル結果ニ陥ラサルヘシ」(大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌昭和十九年六月二十三日の条)

 我が第十五軍と捕虜となった英軍インド兵から編成されたチャンドラボースの率いるインド国民軍が、ビルマ・インド国境付近にまたがるチンドウィン川とアラカン山系を越え、インパールとコヒマに向かって進撃を開始した昭和十九年三月十五日、参謀本部戦争指導班は、従来の研究をまとめ、「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察(第三案)」という戦争指導方針を策定した(1)。この中で戦争指導班は、

 「帝国が大内戦作戦の妙味を発揮しつつ長期戦を完遂せんが為には敵主力の来攻に先だち絶対国防圏を確立すると共に圏内に於ける海、空、陸の機動を自由ならしむべき準備を完整し置くを必要としたるも、今や是等作戦準備の未完に乗じ、我が国防圏中致命的要衝にして而も最も弱点とする中部太平洋方面に対し敵の真面目なる決戦的反攻を予期し得るに至れり。

 而して中部太平洋方面の弱点は地勢学上孤島の連鎖にして最早地域的縦深性無く、且敵の絶対優勢なる海空軍力の集中発揮最も容易なると共にこの思想を以てしては之が確保を期し難く、更に又国力との調節を保持するの限度に於ける手当の程度を以てする確保希望は敵との相対的実力に於て過望と称すべく、茲に帝国は好むと好まざるとに拘らず逐次戦力を投入して之が増強を期するか或は徹底的の戦力を結集して一挙に敵と雌雄を決するの已むなき事態に立ち至るものと観察せらる」

と判定し、

1.中部太平洋方面に於ける敵の早期決戦企図に対し現在の手当のみを以てしては持久作戦遂行の準備と確算なし。
2.中部太平洋方面の国防要衝を放棄して帝国の組織ある戦争完遂を望み得ず。
3.国力、戦力は本年七、八月の候以降如何に努力するも逐次低下の大勢を防止するを得ず、国力、「ヂリ」貧に陥るは時機の問題なり。
4.中部太平洋の国防圏を突破せられたる場合国民の士気及戦意を昂揚するは至難なり殊に威令下諸邦の戦争協力確保の自信なし。
5.独の様相も亦概ね帝国に同じく六―七月の候を予期せらるる第二戦線の撃摧に成功せざれば逐次「ヂリ」貧に陥るべし。
6.ソの対日中立維持への期待度は日独の戦勢好転せざる限り長くも概ね本年末を限度とすべし。  
7.世界各国共概ね戦争終末期の様相を呈せんとしつつありて、一方面に於ける戦勢の均衡破綻は世界戦政局の一大転機たるの公算大なり。

という理由を挙げて、

 「帝国は独と策応して今年内に戦局の大勢を決するを目途とし、主敵米に対し概ね夏秋の候を期して決戦を企図するを要す」

と判断し、「武力決勝の戦争全局に及ぼす効果」として、

(イ)有利なる場合は本年夏秋の候日独共に敵の反攻に決勝を博し、以てソを日独側に抱込み、次で英米側より妥協和平を申込むが如き事態の進展を期す、斯かる場合には敵海空軍(独にありては米、英陸軍の主力をも含む)を撃滅することとなり、敵国民の戦意喪失の公算は極めて大にして、世界和平成立を望み得、而して此の際、日独何れか一方が快勝を博する場合に於ても尚且和平生起の公算あり。

(ロ)次は日独共に快勝を博するに至らざるも、各々国防圏確保の程度となりたる場合に於ては、敵の反攻に「間合い」を取り、態勢を立て直しの余裕と敵側短期終戦企図に疑義を生ぜしむることとなり、状況に依りてはソをして日独に対し中立化せしめ此の際敵国民の動揺等に依り若干年月を経過して敵側より妥協和平を申込ましむることも可能なり。

(ハ)次は決戦の結果日独共に不幸にして国防圏に破綻を生ずる場合に於ても、少くも敵戦力には相当の消耗を与え得べく爾後後図を策する余裕と国民戦力結集の動機たらしめ得べし。

 「而して斯くの如き努力を尽すも尚中部太平洋の防衛圏を突破せられたる場合には最早天、皇運を見放したるものと謂うべく帝国は大東亜各地に割拠籠城し随所敵を阻止して其の戦意放棄を俟つの已む無きに至るものとす。然れども斯かる事態に於て帝国が組織ある近代的科学戦争指導を望むは過望と称すべきなり」

と判定していたのである。

 「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察(第三案)」は、我が国の陸海軍首脳の認識とは正反対に、敵味方の戦力国力比の実態、米ソの意図など万般に亘り驚くほど正確に戦況を分析していた。それにも拘わらず、これは東條英機参謀総長と後宮淳参謀次長に提出されなかった。この戦争指導方針の中で、戦争指導班は、武力決戦を補助する外交方針として、

1.対ソ対独施策は既定方針の実行を強化す。対ソ外交は戦略方策の成否と共に国運決定の最大要素たるべきを以て概ね本夏秋の候機を見て独ソ斡旋を策し之が為特使の派遣を断行するを要す。

2.対中立国施策は成るべく敵側に廻すことを避け、宣伝、諜報、謀略の温床として活用すると共に今次戦争をして人種闘争に陥らざるの著意を必要とす。

を挙げ、さらに独が帝国に拘わることなく単独行動に出でたる場合の措置として、

(イ)独、英米和平の場合

 機を失せず独ソ和平斡旋を図り之が代償としてソの仲介に依り帝国と米英との和平を斡旋せしむ。

 独は此の際恐らく帝国の為め仲介の能力及誠意なく、ソを活用すること肝要なり(これとても虫の良き話なるも他に処置なし)但しソ英米の連絡緊密にして此の三者脈絡を保ち帝国に圧力を加重することも予期しあらざるべからず。

 之が為独ソとは絶えず緊密なる連絡保持を必要とし、在ソ、在独帝国使臣の活眼に俟つ所多し。

(ロ)独ソ和平の場合

 帝国も速にソとの脈絡を強化するを要す即ち日ソ不可侵条約、出来れば日ソ同盟へ進展せしめ此の際ソを利して中共延ては重慶切り崩しに波及せしむる如くするを要す。 尚此の場合に於ても、ソをして世界和平に導入せしむる如く着意すること必要なり。

を挙げ、日ソ同盟の実現とソ連に対する利益提供を画策しており(1)、秦参謀(次級)次長以下の幕僚は、前年二月十三日、大本営に「欧州の戦局に伴い、近時安価なる対米英講和案を或いは日独ソ同盟案等に付き、上層階級等に於いて話題を作り居る模様なる所、此の如きは最も危険なるを以て厳に指導取締りする方針なること」を付言していた東條首相(2)の逆鱗に触れることを忌避したのであろう。すなわち彼らは自己の正体と意図を隠蔽する為に、陸海軍首脳に正確な戦況分析を伝えることなく、我が軍を敗北へ導いたのである。そして参謀本部戦争指導班は、昭和十九年七月一日、次のように判決した。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十九年七月一日土曜
三、午后ヨリ市ヶ谷分室ニ於テ班長以下(註、松谷誠、種村佐孝、橋本正勝)昭和二十年春ヲ目途トスル戦争指導ニ関スル第一案ヲ研究ス、判決トシテハ今後帝国ハ作戦的ニ大勢輓回ノ目途ナク而カモ独ノ様相モ概ネ帝国ト同シク、今後逐次「ジリ」貧ニ陥ルヘキヲ以テ速ニ戦争終末ヲ企図ストノ結論ニ意見一致セリ
 即チ帝国トシテハ甚タ困難ナカラ政略攻勢ニ依リ戦争ノ決ヲ求メサルヲ得ス 此ノ際ノ条件ハ唯国体護持アルノミ 
 而シテ政略攻勢ノ対象ハ先ツ「ソ」ニ指向スルヲ可トス
 斯カル帝国ノ企図不成功ニ終リタル場合ニ於テハ最早一億玉砕アルノミ、帝国トシテハ飽迄モ冷静ナル見透ニ依リ皇統連綿タル三千年ノ歴史ヲ保存シ、後図ヲ策スヘキナリ

 続いて七月四日、我が陸軍はインパール作戦を中止した。インド独立の使命感に燃える我が第十五軍は、制空権と補給能力の欠如を克服すべく可能な限り軽装備で急進撃を図り、緒戦においては目覚ましい戦果を挙げ、イギリス軍を狼狽させたが、敵の機械化部隊が守備するインパールには容易に近づけなかった。
 第十五軍司令官の牟田口廉也中将は、膠着した戦況を打開すべく、コヒマを占領した第三十一師団によるコヒマ北西四十五キロに位置するディマプール(イギリス軍の一大補給基地)の攻略を企図したが、ビルマ方面軍司令官の河辺正三大将の許可を得られなかった。その結果、我が軍は、勝機を逃してしまっただけでなく、食糧と弾薬の枯渇を招いた上、例年より早く雨期が訪れた為、作戦の終末は悲惨を極めた。インパール作戦に投入された第十五軍約八万人の将兵の内、約三万人が戦死、約四万二千人が戦傷病に倒れ、インドからビルマに至る我が軍の退路は、絶対的に不利な条件下でイギリス軍を土俵際にまで追い詰めた超人的な勇戦奮闘の末、ついに力尽きた将兵の白骨で埋め尽くされた。大幅に戦力を衰退させた我がビルマ方面軍は、アキャブ方面からイギリス軍、雲南方面から中華民国遠征軍に圧迫包囲され、苦闘の持久戦を余儀なくされ、翌年三月二十七日には、ビルマ国軍が、敗戦を回避してビルマ独立を維持する為に敢えて日本軍に反乱を起こし、四月、イギリス軍がビルマを再占領した。

 さらにインパール作戦中止から五日後には、サイパンが陥落し、アメリカ軍に占領された。サイパン防衛の主力である我が帝国陸軍第四十三師団は、その最後の部隊をサイパンに迎えてから一週間後にアメリカ軍の上陸を迎えた上に、築城資材を積んだ輸送船を撃沈された為に、約三万人の我が守備隊は、ほとんど裸陣地で戦うことを余儀なくされ、アメリカ軍の猛烈な空爆と艦砲射撃(弾量約二万トン)を浴びて、さしたる抵抗もできぬままに壊滅してしまった。

 アメリカは、同時期に太平洋と大西洋を越えて、日独本土に向かって大攻勢を敢行するという圧倒的な戦力国力を世界に誇示し、日独両軍による英ソ挟撃という枢軸陣営の唯一の勝機ともいうべき昭和十七年の戦機を逃した日独両国は、二年の歳月を経て、連合軍によって絶対国防圏を突破され、包囲挟撃されるに至ったのである。

 アメリカ軍は、陸海空軍の総合戦力を投入して太平洋島嶼を制圧拠点化し、制海空圏を逐次拡大させながら、日本と南方間の連絡を遮断しつつ日本本土に迫る戦略と、巨大な火力(鉄量)を投入して敵軍を圧倒、粉砕する戦術を採用した。
 これに対して、パラオ諸島のペリリュー戦(昭和十九年九月十五日~十一月二十四日)、硫黄島戦(昭和二十年二月二十九日~三月二十七日)では、友軍の艦船と航空機による火力支援を期待できない日本軍守備隊は、水際撃滅戦術を放棄し、強固な地下陣地を構築して大地を自軍の鎧に変え、敵軍の爆砲撃に耐えた後、上陸してきた数倍の敵部隊に大打撃を与えた末に玉砕し、アメリカ軍の心胆を寒からしめ、世界の軍事関係者から絶賛された。だが大戦を通して、我が軍は、海上護衛戦と通商基地機能破壊戦の意義たる「戦勝の要諦は味方の兵站を防衛し敵の兵站を破壊するにあり」という平凡な戦理を全く理解しない帝国海軍の拙劣な前方展開戦略と、時流の航空優先観念から増長した、彼我航空戦力の優劣を無視する航空絶対思想に災いされて、守勢の利を最大限に活用し補給と築城を充分に確保した上で味方の陸海空軍の戦力を統合集中し、地上に姿を晒して居る敵軍の上陸部隊を、海中、地下、海上、空中から立体的に迎撃、包囲殲滅するという「陸海空軍三位一体・全方位立体包囲」戦術を一度も採ることができなかった。

 昭和十九年六月十五日、サイパン上陸作戦に呼応して支那大陸の成都より発進し九州の八幡製鉄所を爆撃したアメリカ軍の「空飛ぶ要塞」高々度長距離爆撃機B-29(航続距離五千六百キロ)は、サイパンに進出、日本本土を作戦半径内に収め、我が日本軍が戦争遂行に必要不可欠な南方資源地帯の確保と日本本土の兵站機能の防衛を維持することは、いずれも困難になり、我が日本国は参謀本部戦争指導班が予想した通りの苦しい戦況に陥ったのである。

(1)【終戦工作の記録上】一七九~一九三頁。戦争指導班は「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察(第三案)」でも、独との戦争終末に気脈を通じ予め提携連絡を要する内容、時機、手段として、

(イ)戦争目的 自存、自衛各新秩序を建設し世界平和に寄与す。
(ロ)戦争目標 主敵は飽迄米、英に指向し、ソを避く。(対ソに関しては極力独の気持転向を図る) 
(ハ)決戦の時機 日独共本夏秋
(ニ)独が西欧第二戦線を撃摧せる場合には帝国としては独ソ和平斡旋の企図ある旨を提示す。
(ホ)英、米が本夏秋の候第二戦線を決行せず、ソは依然西進し英、米は空爆及独威令下諸邦の切崩しを主とするが如き情勢に於ける独の施策を聴取す。(此の際に於ても帝国の対米、英、戦勢有利なる場合は機を見て独ソ和平の斡旋を企図す、応ぜざる公算大)

を挙げ、独ソ和平を執拗に画策していたのである。
(2)【東條内閣総理大臣機密記録】一五八頁。


71、小磯内閣発足

 連合軍が着実に日本本土へ迫りつつあることを知った一般国民は深刻な不安に襲われ、国民の不安は東條内閣に対する不満と不信に変わり、海軍だけでなく政府与党の翼賛政治会(昭和十七年四月三十日第二十一回衆議院選挙を経て五月二十日に発足)の代議士からも、国民世論に反応して公然と東條首相を糾弾する声が上がり始めた。

 昭和十九年七月六日、翼賛政治会定例代議士会が阿部信行総裁以下所属代議士約二百五十名の出席を得て開会されたが、松田竹千代ら十八名の議員から東條内閣の戦争指導に対する痛烈な批判が次々と発せられ、代議士会はさながら東條内閣糾弾集会と化し、「政府は真に国民の信頼をつなぐべき挙国一致の体制を速に整うべし」という決議を採択した(1)。

松田竹千代「私は現下国内の欠陥を赤裸々に開陳して以て東條総理の猛省を促さんと欲する、誠に遺憾千万なことながら現在の国内情勢は如何であるか、海軍部内に於ける不和不一致のみならず、陸海軍間の統制も完全ではないと聴く、私は此の際大本営に於て陸海軍が真に一体になれと主張する。其の為には弱体なる内閣では到底この目的を達成することは不可能だ。東條総理を否定するものではないが、先ず以て強力なる内閣の結成を要望する。而して又此の際臨時議会を開いて政府の所信を承りたい。

 戦争の遂行の責任は戦時予算に協賛を与えた議会にもある、我々は皇城前に割腹して申訳を致さねばならぬ重い責任を痛感するものである。全く我々は今命も要らぬ、名誉も欲しない、ただ神の如き心境あるのみである。東條総理は希くば我等の此の声に聴かれよ。

 此の時に当り閣僚重臣は何をしているのか、又総理が一人にして、重職を兼ぬることは人為の不可能をあえてせんとするものだ。此の危急の場合参謀総長は参謀本部に立篭もり、専ら作戦の衝にあたるべきであって屡(しばしば)街頭に立って民情視察の如き呑気なことをしている時ではない。阿部総裁は東條大将に対して好意ある忠告をなすべしと思う。」

 七月十日、阿部総裁は東條首相を訪問し、六日の定例代議士会の決議を申し入れると共に、専任軍需大臣・専任参謀総長及軍令部総長を置くこと、重臣の入閣による内閣強化、の二点を首相に進言した。十三日、そこで東條首相は参内して内閣強化につき木戸内大臣に相談したところ、木戸から天皇の内意として、

一、陸海総長と大臣を切り離して統帥を確立すること
二、海軍大臣を更迭すること。
三、重臣を入閣させて挙国一致内閣をつくること。

という三条件を提示されたのである。

 昭和天皇に拝謁して木戸内大臣の言葉に間違いないことを確認した東條首相は、三条件の実現を図る為、まず参謀総長に関東軍司令官の梅津美治郎大将、新海相に佐世保鎮守府司令長官の野村直邦大将を起用、嶋田海相を軍令部総長専任とし、翼賛政治会総裁の阿部信行(貴族院議員)、海軍長老の米内光政の二人の重臣に無任所国務大臣として入閣するよう求めたが、拒絶されてしまった。東條内閣の退陣を画策していた重臣たちは、木戸を通じて、

 「この難局を切り抜くるには人心を新たにすることが必要でございます。国民全部が相和し、相協力し一路邁進する強力なる挙国一致内閣を作らねばなりませぬ。内閣の一部改造の如きは何の役にも立たないのであります」

と昭和天皇に上奏し、これを知った東條首相は、内閣改造の挫折を悟り、十八日午前十時、閣僚全員の辞表を取りまとめて捧呈した。

 近衛文麿から対米英開戦の責任を負わされた東條内閣は、発足から約二年九ヶ月後、開戦者が負うべき終戦を果たせぬまま総辞職したのであった。昭和天皇から木戸内大臣に後継内閣に就き御下問があり、その日の午後四時から重臣会議が開催され、木戸、原嘉道枢密院議長と若槻、広田、近衛、平沼、岡田、米内、阿部の七人の重臣が参集し、後継総理を選考することになった。近衛文麿が、

 「現実の問題として今日の政治は一切軍と関連しないものはない。従って軍人でないと判らない点もある訳だ。今日は軍人が内閣をつくるより仕方がない」

と述べたところ、一同の賛成を得た。近衛は試みに「鈴木貫太郎海軍大将(枢密院副議長)は如何」と発案したが、木戸が、

 「何百万の大兵を大陸、その他に動かしているのだから、その始末だけでも大変だ、やはり陸軍がよい」

と述べ、陸軍将官から後継総理を奏薦することに意見が一致した。近衛が、

 「陸軍なら注文が二つある。第一は、東條内閣は何の為に倒れたか、東條個人の不評判もあるが、陸軍は海軍に比し政治、経済あらゆる事に口を出し、国民の不評判を買った。よって従来のやり方を変える。即ち、常道に還る事であり、第二は、我が国の今日は極端にいえば、左翼革命に進んでいるようだ。あらゆる情勢がそういう風に見える。

 敗戦はもちろん恐ろしいが、敗戦と同様もしくは、それ以上に怖ろしいのが左翼革命だ。敗戦は一時的で取り返すことも出来るが、左翼革命に至っては、国体も何も吹っ飛ぶ。だから左翼革命に就ては、最も深甚なる注意を要する。表面に起って運動している者ばかりが左翼ではない。右翼のような顔をしている軍人や官吏にも実は多いのだ。本人はそういう積りではなくともすることは全く赤だ、というのが非常に多い。これに向って大斧鉞を振う人が絶対に必要だということだ」

と説くと、平沼は、「全然御同感だ」と語気を強めて叫んだ。平沼は、梅津美治郎の周囲には赤い将校が盤踞しており、梅津が陸相あるいは総長に起用されれば、左翼的革新派が軍部の中心になる、と警戒していたからである(近衛日記昭和十九年七月十四日の条)。

 結局、重臣会議は、第一候補に寺内寿一南方派遣軍軍総司令官、第二候補に小磯国昭朝鮮総督、第三候補に畑俊六支那派遣軍総司令官を挙げたが、木戸は、東條陸相に相談したところ、「寺内は作戦上困る」と返答された為、昭和天皇に小磯を奏薦した。

 斯くして二十日、小磯国昭陸軍大将(予備役)に組閣の大命が下ったのであるが、陸軍大臣には陸軍から杉山元大将が推薦され、内閣強化の為、近衛から強引に出馬を要請された米内光政が現役に復帰し海相として入閣したのである。
 杉山は、支那事変の勃発から幾度となく戦局の見通しを誤り、部下の強硬論に必ず押し切られるところから「ボケ元」、「ドア」とあだ名され、米内は、杉山と近衛とともにトラウトマン和平工作を打ち切り支那事変を長期化させた張本人である。二人の入閣は、我が国の政府軍部が完全に信賞必罰の精神を喪失していた象徴といえ、無能な陸海軍大臣を抱えた小磯内閣は、発足当初から既に政戦両略における失敗を運命づけられていた。

(1)【終戦工作の記録上】二二一~二二八頁。


72、かいらい

 七月二十二日、陸軍中央は、「今後の国政運営に対する陸軍としての対策」として、「陸軍は依然自ら戦争完遂の中核たるの確信の下に海軍を誘導し政府を鞭撻して戦勝の一途に邁進し」、内閣、議会(翼政会)、重臣を戦争完遂に追い込み、彼らの和平的気運を厳重監視すると共に、「戦争終末に関する研究を極少数限定者により極秘裡に実施する」ことを決定した。そして参謀本部戦争指導班と陸軍省軍務課の主務者が、「対ソ政略攻勢」を行い戦争終末を企図する為に、東亜全体のソ連化(共産主義化)を図る異様な戦争指導方針を策定したのである。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十九年七月二十六日水曜
三、対支作戦ニ伴フ宣伝要領ニ関シ現地側ノ意見ヲ田中中佐ヨリ省部主務者ニ報告アリ、現地、殊ニ北支ニ於テハ延安政権ナル呼称ニ対シテスラモ「容共」ヲ意味シ不可トスル強硬ナル意見ニシテ、中央ノ意見ヲ実行スル為ニハ大陸命ニ依リ任務ヲ変更スヘシトノ見解ナリ、本件ハ世界政策的大乗的見地ニ於テ決定セラレタルモノナルヲ以テ飽迄中央ノ見解ヲ貫徹スルヲ要ス

昭和十九年八月八日火曜
二、今後採ルヘキ政略指導要領ニ関シ省部主務者間ニ研究ヲ行ヒ一案ヲ得タリ、
 出席者 班長(註、種村佐孝大佐) 田中中佐 橋本少佐
 軍務課 大西大佐 加藤中佐   

今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領(案)昭和十九年八月八日、省部主務者案(1)

 「註」本案により省部の思想を調整し上司の外部指導に資するものとす

一、対ソ、支積極方策      

1、概ね本秋頃を其の結実の目途としソをして帝国と重慶(延安を含む)との終戦を、已むを得ざるも延安政権との停戦妥協を斡旋せしめ且独ソに対し独ソ間の国交恢復を勧奨す。

2、速かに有力なる帝国使節を先ずソに派遣す。其の出発の時期は遅くも八月下旬と予定す。之が為日ソ経済提携等を提議し其の折衝の間帝国の新企図達成の為の機を作為するものとす、但し帝国の弱体を暴露しソの対日態度を悪化するが如きこと無からしむ。

3、日ソ関係の好転を図り且為し得れば帝国と重慶との終戦を仲介せしむる為特派使節を派遣すべき旨を独に通告す。

4、特派使節赴ソ後に於ける日ソ交渉の進展に応じ適時独に対し独ソ国交恢復を勧奨すべき帝国の真意を通達し独の意向を聴取す。独が帝国の斡旋に容易に応ぜざる場合と雖もソにして独ソ和平の意志あるに於ては帝国は独を強力に指導し同調するに至らしむ。

5、日蒋和平条件、独ソ和平斡旋の為独をしてソに譲歩せしむべき条件並に帝国の対ソ譲歩条件別紙第一、第二、第三の如し。

6、此の間重慶に対して其の抗戦態勢の破摧衰亡に努むると共に其の動向偵諜に努めつつ対ソ交渉の成果に即応し対重慶直接交渉を行う場合あるを予期し所要の準備を整う。

7、ソを介して行う対中共工作を促進する如く「昭一九・七・三連絡会議決定対支作戦に伴う宣伝要領」の趣旨を拡充する等所要の措置を講ず。

8、本項工作の準備並に実行は帝国政府之を行い大本営は密に協力す。

二、大東亜戦争協力態勢の強化(省略)

三、世界政局急変に対処する措置

1、世界政局の変転に対処する為日ソ国交の好転敦睦を図ると共に隠密裡に先ず英に対し政治的接触を獲得する如く努む之が為対英措置に関しては差し当たり在西班牙、在瑞西帝国使臣を活用し要すれば其の陣容を整備す。

2、独が帝国の意図に拘わることなく単独行動に出たる場合の措置を概定すること左の如し。

(イ)独と英米との和平の場合

A、独側より提議する妥協和平の場合

 機を失せず独の真意を確むると共に独の屈伏に依る場合は三国同盟、防共協定を廃棄し日ソ提携に関しソを全面的に利導して世界和平導入に努め已むを得ざる場合帝国は独力戦争完遂に邁進す、但しソ英米相通じ先ず欧洲和平を図り帝国を孤立に陥らしむることあるを予期し独ソの動向を厳に警戒す。

B、英米側より提議する妥協和平の場合

 機を失せず独ソ和平斡旋を図ると共に独ソの仲介に依り世界和平導入に努む。

(ロ)、独ソ和平の場合

A、独より提議する和平の場合

 独の屈伏に依り欧洲和平へ転移拡大するの算大なるを以て速かにソをして世界和平に導入せしめる如く着意す。

B、ソ側より提議する和平の場合

 速かにソとの脈絡を図り独と協議の上要すれば防共協定を廃棄しソの利導に努む。

別紙第一

   日蒋和平条件

一、日華同盟条約を廃棄し新に日華永遠の平和を律すべき日華友好条約を締結す。
二、南京、重慶の合作を認む。
 其の方法に関しては支那の内政問題として取扱い帝国は之に干渉せず。
三、大東亜戦争間支那は対米英厳正中立を保持せしむ。
四、帝国は支那に於て対米英戦争行為の必要なきに至らば支那事変前の状態に撤兵復帰す。

別紙第二

   独ソ和平の為独に譲歩せしむべき条件

一、沿バ三国及「ポーランド」はソの絶対勢力下たることを認む(要すればソ領)。
二、北欧「バルカン」「トルコ」伊太利に於けるソの優先的勢力を認む。
但し独の対米英戦に必要なる最小限の資源を独に供給することを約せしむ。

別紙第三

   対ソ交渉の為帝国の譲歩すべき条件

 日蒋和平の仲介若くは独ソ和平斡旋の為左記条件を以て日ソ国交を調整す。
 (本密約は独ソ不調に終る場合に於ても日ソ国交保全の保証たらしむ)

    左   記

一、防共協定廃棄の用意あることを確約す。
二、南樺太をソに譲渡す。
三、満洲をソに対して非武装地帯とするか満洲北半部(概ね賓綏、賓洲線以北)をソに譲渡す。
四、重慶地区は全面的にソの勢力圏とし爾他の支那に於ける我が占領地域(現国民政府治下の地域)は日ソ勢力の混淆地帯とす。
 此の際汪、蒋、共合作促進に努め蒋応ぜざる場合に於ては中共を支援して重慶に代位せしむることを認む。
五、戦争間及戦後を通し日ソ間特恵的経済交易提携を促進す。           


 陸軍中枢は、四条件でソ連の力を藉りて支那の社会主義国家への転換を図り、之との関連において四、一、二、三、五条件で日ソ提携を実現し次いでソ連の援助を受けて(ソの導入を図り)日本の社会主義化を図り、ソ連に日本と延安政権との停戦妥協を斡旋させ、日ソ支(中国共産党)の提携すなわち大東亜新秩序の建設を実現しようというのであろう。だがアメリカの軍事支援を受けてドイツと死闘を繰り広げているソ連が日本と握手してアメリカを敵に回すはずはなく、彼等の計画は失敗に終わった。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十九年九月十八日月曜
五、本日「ソ」ヨリ我カ特使ノ派遣ヲ拒絶シ来レリ、「ソ」ノ真ノ腹ハ何処ニアリヤ不明ナルモ国家ノ為遺憾千万ナリ、帝国ハ飽迄執拗ニ対「ソ」交渉ヲ継続スルヲ要シ、夜別館ニ於テ、班長、加藤中佐、橋本ニテ今後ノ交渉要領一案ヲ研究セリ
更ニ日「ソ」支東亜共同宣言(案)ヲ研究ス

 八月三日にはテニアン、十一日にはグアムが陥落し、海軍空母機動部隊の主力と中部太平洋の戦略要衝マリアナ諸島を失い、連合軍に絶対国防圏を突破された我が国では、最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議)が、十六日「今後採るべき戦争指導の大綱」を、続いて九月五日「対重慶政治工作実施に関する件」を決定した。

 今後採るべき戦争指導の大綱は、依然として「帝国は現有戦力及本年末頃迄に戦力化し得る国力を徹底的に結集して敵を撃破し以て其の継戦企図を破摧す」を方針とし、軍事戦略、外交政略として「太平洋方面に来攻する米軍主力の撃滅」「南方重要地域の確保と圏内海上交通の保全」「ソ連との中立関係維持と国交の好転」「独ソ間の和平実現」「重慶政府に対する統制ある政治工作発動による支那問題の解決、之が為のソ連の利用」を掲げていた。

 対重慶政治工作実施に関する件は、「対重慶政治工作は大東亜戦争完遂の為速かに重慶政権の対日抗戦を終止せしむるを主眼とす。之が為先ず彼我の間に直接会談の機を作るを以て第一目標とす。当面工作の目標として、国民政府(註、南京)をして彼我の間に直接会談の機を作る如く工作せしむ。之が為成し得れば国民政府をして適当なる人物を重慶に派遣せしむ」を方針とし、対支和平条件として

1、支那の好意的中立を以て満足す。尚支那側をして在支米英軍を自発的に撤退せしむ。
2、蒋介石の南京帰還、統一政府の樹立を認む。但し両者間の調整は支那の国内問題として両者の直接交渉に委す。
3、日華同盟条約を廃棄し新に全面和平後日支永遠の平和を律すべき友好条約を締結す。此際支那内政問題には一切干渉せざるものとす。延安政権及共産軍の取扱も右に準ず。
4、在支米英軍撤兵せば帝国も完全に撤兵す。その実行方法に関しては停戦協定に拠る。
5、満洲国に関しては現状を変更せざるものとす。
6、蒙疆の取扱は支那の内政問題として取扱わしむ。
7、香港は支那に譲渡す。

等を掲げ、「速かなる日ソ国交の好転に依る政治的迫力を活用し本工作の促進を図る。日ソ交渉の進展に伴い要すればソをして本工作の仲介を為さしむることあり」と定めていた。敗戦後、小磯国昭は次のように述懐した(2)。

 「私の組閣したのは一九四四年の七月二十二日です。その翌月の八月十六日に、今後採るべき戦争指導の方針と云うものが戦争指導会議で決定されました。その戦争指導会議で決定をしたのは、陛下御臨席の下に戦争指導会議のメンバーだけが集まって決議されたのです。その時の陸海両統帥部の、今後起るべき戦場判断はフィリピンでした。私の考えは、サイパン陥落失陥後は、負け戦だ、負け戦が続くのならば、早く和平を講ずるのでなければ大変だ、サイパン失陥と同時に和平を講ずるのも一つの考えであったと思いますが今は既にサイパン失陥後一ヶ月を経ている。

 それからこんなことを言っては相済みませんが、今でこそ国民は新聞紙上其の他で戦争の実相を承知していますけれども、国民はまだ戦さに負けたとは思って居なかったのです。朝鮮にいた私等もたいして負けているとは知らなかったのです。どうもおかしい負けているなと云うことを思ったのはサイパン失陥後でした。これはもう負け戦だ、負け戦と云うことを承知している政府がここで直ぐ講和をすれば苛酷な条件に屈伏せねばならず、勝っているとのみ信じている国民は之に憤激して国内混乱のもとを為すであろうことは日露戦争末期に於ける日比谷の焼打事件なんて言う物をあなた方御存知でしょうが、ああ言うことも起るであろう、それに今やサイパン失陥後一ヶ月も経過しているから時期を失しているじゃないか、そこで七転び八起きと云うこともありますから、今度会戦が起りましたならばそこに一切の力を傾倒して一ぺん丈でもいいから勝とうじゃないか。勝ったところで手を打とう。勝った余勢を駆って講和すれば条件は必ず幾らか軽く有利になる訳だと思ったのです。」

 だが「一撃和平論」について戦争指導大綱に明記することはフィリピン決戦の必勝の信念を損ねることになり、陸海軍の首脳を交えた最高戦争指導会議で討論することもできなかった為、小磯首相は、苦肉の策としてソ連に特使を派遣することによってソ連にいる英米の要人と接触し一撃後の和平の端緒を捕捉すべく、「今後採るべき戦争指導の大綱」「対重慶政治工作実施に関する件」に「ソ連の利用」を認めたという。

 この両方針に基づき、「対外政略指導要領案」を主張する陸軍中枢と、日ソ中立条約の延長に主眼を置く「対ソ施策要綱」を主張する外務省の間で、対ソ特使の任務や目的、交渉条件を巡る紛糾が続いていたが、前述のようにソ連は日本の特使派遣を拒絶してきた為に、小磯内閣は、九月二十一日、特使派遣を一時打ち切らざるを得なかった。

 だが十一月十日、汪兆銘が名古屋帝国大付属病院において病死した。尾崎秀実等に操られ無自覚のまま日蒋間の和平交渉を遮断する「楔」(障害物)を演じていた汪兆銘の死は、我が国が日中戦争を終結させる為の絶好の機会であった。これを契機にして小磯首相は、汪を喪い形骸化した南京政府の解消と日本軍の撤退等を条件とする対重慶政権和平工作(繆斌工作)に傾いたのだが、我が国にとって不運なことに、支那派遣軍総司令部では、これとは反対に武力によって重慶政権を屈服させる戦略構想が浮上してしまったのである。

 二十二日、支那派遣軍総司令官に起用された岡村寧次大将は、昭和十二年以来の日支の相剋についてその政戦両略に亘る方策なかでも現戦局に如何に対処するかについては幾多の抱負を持っていた。昭和十九年十二月初、南京に着任し部課長等から一通り関係業務の説明を受けた岡村大将は、総司令官としてまず第一に、

 「南方軍が至る処で苦戦を重ねているその前途は明るくない。内地の実情は少しも知らされていないのでよく解らないが、台所は相当苦しいのに違いない。しかし南方軍は総兵力七十五万ぐらいだろうに、わが派遣軍は百五万の大兵を擁している。戦争の重点は南方に在るが兵力だけで云えば此方が主力である。この大兵を持って現状を維持しているだけでは、相済まない心地もする、何か南方軍の苦戦に、遠く協力する方法はないか」

と全戦局を考察し、この際重慶に一撃を与えておけば全戦局に有利であると判断したのである。支那派遣軍は連戦連勝であり、岡村大将は、第十一軍司令官時代から支那軍に対する強固な必勝の信念を有し、又もしアメリカ軍が手薄となる支那大陸東沿岸部に上陸するとしても、それは「もっけの幸い」であり、岡村大将は、

 「戦争いよいよ苛烈となり、黙思すればたちまち戦争前途のことが胸に浮び来る。我派遣軍に関しては心配なし。何となればわが派遣軍が苦戦すればするほど、それだけ多くの米軍を大陸に吸引し、皇本土の負担を軽減し得るという快感あればなり。憂ふるのは唯帝国全局の前途のみ」(岡村日記昭和二十年七月二十五日の条)

と意気軒昂として、派遣軍を犠牲にして本土防衛を図る自信と闘志とを敗戦に至るまで維持していたのである。

 岡村大将の作戦構想は、我が支那派遣軍が四川に進攻し重慶の中華民国軍を撃破することによって、米支一体を破砕し、昭和二十年夏に予期を要する米支連合の総反攻を撃砕すると共に、支那方面を処理し事変解決の端緒を把握する一方、アメリカ軍を支那大陸に吸引し、日本本土の負担を軽減しようというものであるが、戦後の岡村大将の回想によれば、

 「この四川進攻作戦の構想は十二月十五日参謀部に示したところ、参謀全員同意起案し、松井総参謀長、宮崎以下三主任参謀の一行が二十年一月二日出発上京して大本営に意見を具申した。それに対し参謀総長、陸軍大臣共に大体同意されたが、下僚間に反対多く、案の一部が採用されたに過ぎなかった」

という。

 十二月二十八日、岡村大将は、総参謀長の上京の有無を打診してきた大本営に「松井太久郎総参謀長が関係参謀を帯同して上京し、総司令官の意見具申を行う」ことを報告し、三十、三十一日、支那派遣軍総司令部に参謀全員を集め、宮崎舜市参謀が起案した四川作戦計画大綱及び東南支那作戦計画大綱を決定した。四川作戦計画大綱は、作戦目的を「四川省の要域を攻略して重慶軍の総反攻を未然に封殺するとともに重慶政権を崩壊せしめ以て帝国の戦争指導に寄与するに在り」とし、

 「本作戦開始とともに政謀略を活溌に展開し、作戦の進展に伴い根本的に改組を予期する重慶政権又は反蒋派の結合による全面和平を策し、本工作不成立の際に於ても少くも重慶政権の分裂崩壊による地方政権との提携或は灰色化工作の促進を図る」

と定めていた。

 昭和二十年一月一日、参謀本部戦争指導班長の種村佐孝大佐は、「戦争指導上より観たる支那方面作戦に関する観察」を起草し、参謀総長の梅津美治郎大将と次長の秦彦三郎中将に「近く上京すべき支那派遣軍総参謀長の意見を全面的に支持すべきである」と具申し、五日、参謀本部作戦室において、参謀総長、次長、各部長及び真田穣一郎軍務局長、二神力軍事課長は、松井総参謀長以下派遣軍参謀から四川進攻作戦の構想を報告された。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和二十年一月五日金曜
三、支那方面今後ノ作戦指導ニ関スル、松井総参謀長ノ報告要旨左ノ如シ
1、全般ノ構想
  米軍ノ東南支那沿岸上陸ノ時機ヲ本年中期以降ト判断シ其ノ来攻ニ先タチ四川ニ進攻シ重慶ヲ覆滅スルニアリ、
2、右構想ヲ採用スル理由、
 イ、重慶ノ企図ヲ事前ニ覆滅ス
 ロ、本年中期以降ニ於ケル二正面作戦ノ困難ヲ予メ克服ス
 ハ、敵航空基地ヲ覆滅ス
 ニ、支那問題ヲ解決ス
 ホ、四川進攻作戦ノ可能性、二ヶ師団ノ南方転用中止ヲ前提トス、後方的ニハ戦略挺進ノ思想トス
   重慶政権トノ全面和平ハ成立セス、従ツテ重慶ノ分裂崩壊ニ依ル延安政権ノ中央化ヲ企図ス

昭和二十年一月六日土曜
一、支那派遣軍総参謀長ノ作戦連絡ニ対シ作戦課トシテ研究セル結果左ノ如シ
 総長ヨリ総司令官ニ対スル回答腹案

 四川進攻作戦ニ関スル司令官ノ構想ハ可ナルモ帝国全般ノ戦略態勢並ニ国力ノ現状ニ鑑ミ主敵米ニ対処スル関係上両作戦ヲ同時ニ実施スルコトハ不可能ナリ、従ツテ派遣軍ハ取リ敢ヘス対米作戦ニ専念スル為東南支那方面ノ戦備ヲ強化セラレ度、

 岡村寧次大将は、「汪精衛を中心とする和平中国政府の樹立を以て対重慶和平妥協を計るが如きは、至難にして寧ろ逆効果になる」と汪兆銘工作に反対し、北支那方面軍司令官(昭和十六年七月~十九年八月)として「滅共愛民」「三戒(焼くな、犯すな、殺すな)」を掲げ、治安維持の掃共戦を指揮し(3)、

 「中共は之を反重慶地方政権として取扱う趣旨に於て中共本拠は之を延安政権と呼称し又之に属する軍隊にして、我が討伐を要するものは之を匪賊呼称を以て取扱い、且反共、剿共、滅共等の名称の使用は真にやむを得ざる場合の外之を避くるものとす」(対支作戦に伴う宣伝要領)

という陸軍中央の反共戦停止指令(昭和十九年七~八月)に対し、「反共政策をいささかなりとも枉げることはできない」と強硬に反対し、敗戦後、延安の中国共産党によって戦犯第一号に指定された「反共」将軍である(4)。また昭和二十年八月十八日東京から南京に帰任した支那派遣軍の西浦進と野尻徳雄の両参謀から作戦課の朝枝繁春中佐が起案した、

 「この際むしろ赤色勢力を支那本土に導入し、これと米側勢力とを衝突せしめて東亜に混乱を招来し、以て日本が漁夫の利を図らんとする」

という趣旨の指令を報告された際、岡村大将は之を即時に拒絶し国民政府と密着一体となり断乎中共に対する方針を明示し、

 「対支支援の強化に関しては、真に支那民族の心を把握するを主眼とするも先ず重慶中央政権の統一を容易ならしめ、中国の復興建設に協力するものとす。重慶延安の関係は固より支那側自身にて処理すべきものなるも、延安側にして抗日侮日の態度を持する場合においては断固之を膺懲す。支那に交付すべき兵器、弾薬、軍需品等は統帥命令に基づき指示する時期および場所において、完全円滑に支那側に交付し、以て進んで中央政権の武力の充実に寄与す」

と定めた対支処理要綱を起案し、戦後、西浦をして、

 「小生在任期間総司令官は概ね幕僚の案を承認せられることが多かったが、このときの自主的な御決定は小生にとって極めて印象的であり、事後の総軍の進路を極めて明確ならしめたとの感想を持っている」

と言わしめている(5)。

 岡村寧次総司令官の構想と松井太久郎総参謀長の報告内容は相異なるが、松井総参謀長が、我が軍が四川に進攻し重慶を覆滅すべき理由として、「重慶政権との和平は成立せず、従って重慶を分裂崩壊させ(反共を掲げる南京親日政権ではなく)延安政権の中央化を企図」し、参謀本部戦争指導班長が参謀総長と次長にこれを全面的に支持するよう具申したことは、陸軍中央が敗戦まで支那戦線において大軍を動かし続けた真の目的や、南京政権(昭和二十年八月十六日解消)の正体を示唆していよう。

 一九四二年から四五年にかけ、タス通信特派員として延安に駐在したコミンテルン代表ピョートル・ウラジミロフの著書【延安日記】一九四五年八月十八、二十一日欄に次のような記述がある。

 「たまたま新四軍の司令部からの電報をみた。この電報をみても、中共党指導部と在華日本軍総司令部とが、絶えず接触していたことは明らかだ。日本軍総司令部との接触についての報告が、定期的に延安に送られていることは、この電報から明らかで、私は中共軍と日本軍の軍司令部の接触が長い間、行われたことをあとで確かめた。この接触の両端は延安と南京である。

 葉剣英は毛沢東に、私が新四軍からの電報の内容を知っていると話した。そのため、主席は私に、党指導部が侵略日本軍司令部と接触を持つことに決めた理由を長々と説明した。恥ずべき行為である。だからこそ、毛沢東は躍起になって私を納得させようとしたと云える。

 日本軍司令部との関係はすでにずっと以前に、極秘のうちにつけられた。中共党指導部でこれを知っているのはほんの数人だ。毛沢東のエージェントが、南京の岡村将軍の司令部に出入りしていたのだ。必要な際は、日本の防諜機関がこの男を用心深く護衛し、自由に南京と新四軍司令部の間を往来していたのである。新四軍にはこの男(日本人)宛の主席からしかるべき情報が届いており、この男が南京から持ってくる情報は、新四軍を通じて直ちに暗号で延安に打電される仕組みになっていたのだ。」

 アメリカ軍を支那大陸に吸引して日本本土の負担を軽減しようとする岡村大将の戦略は、支那大陸をアメリカの支配下におき資本主義化してしまう為、昭和十九年八月八日「今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案」の別紙第三「対ソ交渉の為帝国の譲歩すべき条件」が示すように、ソ連の力を藉りて支那の社会主義国家への転換を図り日ソ支(中国共産党)の提携を実現しようとする陸軍中堅層にとって、絶対に許し難い構想であった。だから種村佐孝大佐は、下剋上思想を露わにして機密戦争日誌昭和二十年五月十三日欄に、

 「支那方面作戦ヲ大本営ノ意図スル如ク指導スル為ニハ岡村大将ヲ更迭スルヲ要ス。面従腹背ニ陥ルノオソレナシトセズ。全般ニ対米大陸決戦思想ナシ持久後退ヲノミ事トス。支那満州朝鮮悉ク然リ、オソルベシ」

と記述したのであろう。
 また朝枝繁春中佐は、ソ連軍の満洲侵攻と同時に、大本営から関東軍に「満洲の鉄道は一切これを破壊するな」と打電し、朝枝自身、八月十九日、満洲の新京に在る関東軍司令部に出張して、ソ連軍の捕虜になった(6)。
 ソ連軍の政治将校フェデンコ中将によれば、二十六日、朝枝はフェデンコに、「ソ連軍は米軍が上陸する前に朝鮮半島を全面占領し、対馬海峡を封鎖すべきだ」と提言し、彼が東京に帰る必要性と梅津率いる参謀本部と日本軍を支配する雰囲気と政策について個人的に説明したいと申し出て、次のように述べたという(7)。

 「ソ連軍が大陸、対馬、済州島を押さえ対馬海峡の艦船の出入りを封鎖すれば、日本を占領した米軍との関係でより有利な立場を得る。それだけでなくソ連軍がこの通りに展開すれば米軍の大陸進出を阻み、国際社会でのソ連の重みを増すことになる。このため参謀本部、軍中枢部は上記の地域について連合国が最終決定を下す前に、連合国抜きにソ連の利益となる決定に持ち込むべきだと考えている。秦はワシレフスキーとの会談でソ連軍の南下作戦の加速の必要性について述べた(註、八月十九日、極東ソ連軍司令部で、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は瀬島龍三中佐と共に、極東軍総司令官ワシレフスキー元帥を首班とするソ連軍首脳と停戦交渉を行った)。日本軍の判断では十分に迅速だとは考えられなかったからだ。

 私の来訪の目的は、ソ連軍南下の軍事的、政治的条件を整えることにある。この参謀本部と軍中枢の意見は国防大臣、外務省、天皇側近には秘密にされている。」

 大東亜戦争終末の戦争指導資料は、陸軍中枢を支配していた革新幕僚が、総理大臣や支那派遣軍総司令官、陸軍大臣を操りながら、東亜のソ連化(共産主義化)を画策していたことを粉飾なく示唆している。

(1)参謀本部所蔵【敗戦の記録】三十五~三十八頁。【終戦工作の記録上】三一一~三一八頁。中山隆志【一九四五年夏最後の日ソ戦】二十四頁。
(2)【終戦工作の記録上】三〇一~三一〇頁。
(3)稲葉一夫【岡村寧次大将資料】二六二、三三九頁。
(4)次長、次官より対支作戦に伴う宣伝要領を伝達された支那派遣軍総司令官の畑俊六元帥は、「以上の対共態度は実に百八十度の転回にして北支軍の掃共方針、対国民政府の指導にも影響する処頗る大なり。甚だ諒解に苦しむ処にして之が我が政府の政策か或いは単に宣伝か軍としては其辺の意義を明了にしておく必要あり。恐らく中央に於けるソ連に対する御機嫌とり政策の結果とみるべく色々情報を聞くもソ連に特権を附与しあるが如く独も内心頗る不平なるべし」と推測し不満をもらした(畑日誌昭和十九年七月八日)。中央がソ連に附与しようとした「特権」の具体案が今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案中の対ソ譲歩条件であろう。だが対支作戦に伴う宣伝要領の主務者の戦争指導班員、田中敬二中佐は、七月十五日、畑元帥に「今回の延安政権の名を用ゆる宣伝工作は重慶軍の灰色化を覘い、又一には国共の離間を策する処に覘いあり。」と虚偽の説明を行い、戦後、「戦争終末指導の一環として、対米交渉のためにはまずソ連のモロトフと手を握る必要があり、モロトフとの交渉の手段として毛沢東の懐柔を考えた。これと同時に対重慶政治工作を推進する構想であった」と回想した。
(5)【岡村寧次大将資料】二十一、三十六頁。
(6)三根生久大【参謀本部の暴れ者陸軍参謀朝枝繁春】三一五~三一七頁。
(7)【沈黙のファイル瀬島龍三とは何だったのか】一七二~一七五頁。



テーマ : 歴史
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龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究に於いて最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

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