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国民のための大東亜戦争正統抄史67~69帝国陸軍南進論者の正体

第三章、大 東 亜 戦 争 終 末 抄 史


【帝国陸軍南進論者の正体】


67、緒戦の快進撃

 日米開戦後、マレー上陸作戦とハワイ奇襲作戦を端緒として開始された我が軍の進撃は、まさに怒濤、破竹の如き勢いであった。

<日本軍の進撃>

昭和十六年(一九四一)

十二月八日、第二十五軍、マレー半島に上陸。十日、マレー沖海戦。陸軍南海支隊、海軍陸戦隊、グアム島を占領。第十四軍、フィリピンに上陸。十四日、第十五軍、ビルマに進攻。二十一日、日本タイ同盟条約成立。二十三日、海軍陸戦隊、ウェーキ島を占領。二十五日、第二十三軍、香港占領。

昭和十七年(一九四二)

一月十一日、日本、オランダに宣戦を布告(オランダの対日宣戦布告は前年十二月十日)。第十六軍、ボルネオ島に上陸。二十三日、陸軍南海支隊、海軍陸戦隊ビスマルク諸島ニューブリテン島ラバウル、ニューアイルランド島カビエンに上陸占領。

二月十五日、第二十五軍、シンガポール占領。二十七~二十八日、スラバヤ・バタビア沖海戦。

三月八日、陸軍南海支隊、海軍陸戦隊、東部ニューギニアのサラモサ、ラエを上陸占領。九日、第十六軍、蘭印を占領。二十三日、第十八師団、海軍陸戦隊、ベンガル湾アンダマン諸島を上陸占領。

四月五~九日、海軍機動部隊、セイロン島を空襲。

五月六日、第十四軍、フィリピンを占領。七~八日、珊瑚海海戦。陸海軍、東部ニューギニアのポートモレスビー攻略を延期。十八日、第十五軍、ビルマを占領。

 欧米白人勢力に寄生していた非合法ゲリラの抗日華人を除いて(1)、彼等の長きに亘る残酷な植民地支配に苦しめられていた東南アジアの現地住民は、我が軍の快進撃に驚愕昂奮歓喜し、「白人不敗神話」の迷妄から目覚めたのである。満洲事変時と同様に、現地住民の有形無形の支援協力を得ることに成功した我が軍は(2) 攻撃の目標と時期とを自由に選択し得る攻勢の利を最大限に活用してアジア太平洋地域の広範囲に分散していた連合軍を先制攻撃・各個撃破し、開戦後約五ヶ月の間に、約二十五万人の連合軍将兵を捕虜とし、敵艦百五隻を撃沈、九十一隻を大中破させ、海軍だけで敵航空機四百六十一機を撃墜、千七十六機を爆破炎上させた。

 我が軍の損害は、戦死者約七千人、戦傷者約一万四千人、喪失飛行機五百六十二機、損失艦船二十七隻、まさに圧倒的大勝利であり、国民は相次ぐ捷報に酔いしれ、我が国は朝野を挙げて戦勝気分に浸り、獄中に拘束され訊問調査を受けていた尾崎秀実でさえ、

 「日本の今日まで挙げ得た戦果は私の予想を絶して居ります。何よりも日本の軍部が努力して来た卓越した戦争準備に依る点が多いと思われますが、日本社会の持つ根強い結合力が考えられます。日本人が示した犠牲的精神、勇気等もまた驚くべきものがあり、言うまでもなくこれらの点は如何なる社会に於いても持ち継ぐべき美点でありましょう」

と感嘆の声を上げたのであった。

 斯くして我が国の勢力範囲は、満洲、北中南支、仏印、タイ、ビルマ、マレー、インドネシア、フィリピン、中部太平洋、ニューギニアの一部にまで拡大したのである。

(1)中島みち【日中戦争いまだ終らず マレー「虐殺」の謎】参照。
(2)名越二荒之助編【世界にから見た大東亜戦争】、アセアンセンター編【アジアに生きる大東亜戦争】をそれぞれ参照。


68、攻勢終末点

 南方作戦完了後、我が国には、軍事戦略として、インド(洋)攻略、重慶攻略、対ソ開戦、南東太平洋制圧、現状維持の五つの選択肢があったが、昭和十七年六月九日、参謀本部は対ソ作戦準備要綱を関東軍に訓令した。前年八月、参謀本部作戦部長の田中新一少将は、年内対ソ武力行使を中止した際、

 「全然やめてしまうのではない。今年のみのことである。来年早春にやる場合、まず南をやり、反転して北を討つ場合もあり得る。その準備は依然続ける」

と述べており、陸軍内では、南進一撃対ソ開戦戦略がくすぶっていたからである(1)。

 一方、ドイツ軍は、五月二十六日、北アフリカ戦線で「ベネチア」作戦を発動、六月二十一日にはリビア(イタリア領)の要衝トブルクをわずか一日で奪還し、イギリスの準支配下にあるエジプト領スエズに向かって進撃を開始し、続いて二十八日、第二次対ソ大攻勢「青」作戦を発動した。以後、ドイツ政府は再三に亘り我が国に、ドイツ軍の攻勢に呼応して、ソ連に対し開戦すると共に、日本海軍の有力な艦隊をインド洋に進出させ、イギリス本土とスエズ、中東石油地帯、インドを連結するアフリカ大陸南端喜望峰経由の連合国海上交通線を破壊し、エジプトを防衛するイギリス第八軍に対する補給を遮断するように要請してきた。

 日本海軍のインド洋制圧が一時的にせよ実現すれば、ビルマ方面の日本陸軍は、インド東北の門アッサム地方に侵攻し、イギリス本土からの補給を喪失したインド方面のイギリス軍を撃滅し、ベンガル湾のカルカッタとチッタゴンからアッサムを経て昆明と重慶に至る米英最後の援蒋ルートを遮断することができた。
 インド洋は、資源に恵まれている環インド洋諸国とそこから重要資源を輸入している東西洋諸国の大動脈であり、その戦略的価値は、アッツ、キスカ、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモン、ニューギニアとは比較にならないほど巨大である。

 だが六月四~六日のミッドウェー海戦後、海軍がガダルカナル島に「第一回、第二回、第三回と随分陸軍を引張り出したり。或時は誘い、或時は押し、或時は責任を負わす様仕向け来た」(連合艦隊参謀長、宇垣纏中将の「戦藻録」昭和十七年十二月七日)うえ、十二月、田中新一が参謀本部作戦部長を解任され、

 「北方情勢の変化に備えよ、南太平洋はその成否にかかわらず三月をもって打ち切れ。南太平洋のごときは、北方問題に比すれば、些々たる一小事に過ぎない」

と作戦課に言い残して南方軍に左遷された為、遂に我が国の対ソ攻撃は実行されなかった。拙速にミッドウェー作戦を強行し、アメリカ海軍に主力空母四隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)を撃沈されてから十日後、ラバウルから約千キロ東にあるガダルカナル島に設営隊と陸戦隊を派遣し、飛行場を建設し始めた海軍の戦略感覚は支離滅裂である。果たして、同島の我が海軍の航空基地は、完成と同時にアメリカ海兵一個師団によって奇襲占領された。
 海軍は極度に狼狽し、高松宮海軍大佐が石原莞爾を召されて意見を求められた。石原は、

 「戦争の勝敗は初めからわかっております。わが方の作戦はすべてに攻勢の終末点を越えています。戦力は根拠地と戦場との距離の二乗に反比例するのが原則です。日本本土では百の力が、ガ島まで行けば十から五の力しかない、ところが敵は根拠地に近いから我が軍より力の大きいのは当然です。持久戦争においては、攻勢の終末点をどこにするかが、最初から確立されていなければなりません。しかるに支那事変も今次戦争も、全くこれを考えていない。東條のやっている戦争は何をやっているのかデタラメで、まるで決戦戦争のやり方であります。攻勢の終末線を越えれば叩かれるのは当然であり、負けることが判っている所へ兵を送る馬鹿はありません」

と奉答した。更に石原は、東郷平八郎提督が日露戦争の日本海海戦において連合艦隊の根拠地を対馬海峡に置き、明治三十八年(一九〇五)五月二十七日、ロシアのバルチック艦隊を迎撃して之を撃滅し、海戦史上未曾有の大戦果を挙げた戦例を引用して、

 「近時の戦争では制空権のないところに制海権はあり得ません。制空権既に敵の手中に陥った以上は、即刻ガダルカナル島を撤退すべきです。陸軍も又同様であります。ソロモン、ビスマルク、ニューギニアの諸島を早急に放棄することです。そして我が補給線確保上、攻勢の終末線を西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラなどの戦略資源地帯を中心とし、この防衛線を堅固に構築して、中部は比島の線に退却せしめ、他方本土周辺のサイパン、テニアン、グアムの南洋諸島一切を難攻不落の要塞化することであります」

と力説した(2)。しかし海軍は前方決戦思想に固執し、戦線の後退緊縮による防衛戦略の推進を図ろうとはしなかった。戦藻録昭和十六年十二月十五~十六日欄の記述は、

 「ウェーキよりミッドウェイを衝く手ありと認められる。艦隊側も中央も考うる所は殆ど其の軌を一にし在り。ただ陸軍側も南方一段落せば対ソ開戦の腹相当に強しと云う。乞食根性百迄去らず」

と陸軍の対ソ開戦戦略を罵倒しており、海軍首脳は、ドイツの要請に呼応する陸軍の対ソ開戦を阻止する為に、ガダルカナル、ソロモン、ニューギニア方面に戦力の逐次投入を繰り返し、不毛な消耗戦を継続したようである。日ソ戦となれば、戦争の主役は陸軍となり、物資予算の「陸海軍同等」という海軍の基本方針が崩れるからである。

 ガダルカナル攻防戦(昭和十七年八月七日~昭和十八年二月八日)を含め約一年七ヶ月間に亘る南東太平洋作戦において、我が軍は、航空機約八千機(熟練操縦員約五千人)、艦船約七十隻、投入兵力三十万のうち約十三万人を喪失して敗北し、我が国はドイツ軍の東進攻勢に呼応して、ソ連、或いはインド、中東、北アフリカ方面のイギリス軍を挟撃し日独打通を図る戦略だけでなく日本本土防衛の要衝サイパンの確保を遂行する為の貴重な戦力と時間を喪失してしまい、サイパン陥落の責任を負って総理大臣を辞職した東條英機大将は、

 「海軍ノ実力ニ関スル判断ヲ誤レリ、而カモ海軍ニ引キヅラレタ。攻勢終末ヲ誤レリ、印度洋ニ方向ヲ採ルベキデアツタ」

と深く後悔したのであった(機密戦争日誌昭和二十年二月十六日の条)。

 その結果、ドイツ軍は、スターリングラード攻防戦(昭和十七年八月二十三日~昭和十八年二月二日、ガダルカナル攻防戦の期間とほぼ一致)、続いて北アフリカ攻防戦(昭和十五年九月十三日~昭和十八年五月十三日)で敗北を喫して戦力を大幅に衰退させてしまい、連合軍のシシリー島(イタリア、一九四三年九月八日連合国に降伏)、ノルマンディー(フランス)上陸作戦を阻止できなかった。

 国力の限界と戦力の集中発揮を図る攻勢の方向性とを無視する帝国海軍の余りに拙劣な戦略能力が、日独両国の敗北を早めたのである。日露戦争後、国益など眼中になく、総合的な戦争研究を怠り、ただただ組織を維持拡大する為、英米を仮想敵国として膨大な国力を食い潰し、陸軍から、

 「海軍は南方の為北をやらぬ思想なり『やらぬ』考えで修文し来る、(対ソ)開戦等の文字を入れれば動々もすれば陸軍の為北へ引づられる、抹殺するを可とすとて徹底的に陸軍不信なり、曲解不誠意不純真なること甚し、軍人精神ありやと云いたし。海軍鉄を呉れ予算を呉れの発言多く醜き極みなり」(機密戦争日誌)

と酷評された帝国海軍の真骨頂といったところであろう…。

(1)杉山参謀総長は、昭和十七年七月二十日、田中作戦部長に「伊よりインド進出、独より対ソ攻勢の要求あり、検討せよ」と命じ、八月一日、若松只一総務部長がソ連攻撃を主張したが、佐藤賢了軍務局長は、七月二十五日、熟柿主義を用いて対ソ開戦に反対し、さらに十一月十八日には「独ソ和平」を積極的に画策し、ソ連を日独による挟撃から救おうとしたのである。この時期、陸海軍内部では、対ソ開戦戦略を巡って、一年前と同様の対立の構図が生まれており、海軍の南進論に引っ張られて陸軍内の熟柿主義が再び勝利したのである。
(2)横山【秘録石原莞爾】三六七~三六八頁。


69、正体を現した陸軍統制派

 昭和十八年に入り、日独の攻勢作戦が限界に達して崩壊へ向かい始め、それに伴い東條内閣に対する国民の信頼感もまた減退し、一部識者の間では、東條首相の更迭の必要性が囁かれる中、三月十八日、近衛文麿は、突然に小林躋造海軍大将を「荻外荘」に招いた。
 開戦後、小林大将は、吉田茂と共に、まず日中間の講和実現により米英から対日戦遂行の大義名分を奪うことを画策し、外務省に、

 「日独両軍が攻勢を継続していることに乗して、蒋介石に、恃むに足らざるを恃み、戦争を継続するの愚を説き、要すれば我が方に於いて政治経済的に若干の譲歩をし我が襟度の寛容さを示して彼を講和に誘導してみてはどうか」

と提案するなど、如何にして急速に戦争を終息すべきかを研究しており、梅津美治郎と共に次期首班候補として名前を挙げられていたからである。近衛は、会談劈頭、

 「満洲事変発生以前より石原莞爾はソ連の復仇乃至共産主義の南下を恐れ早きに於いて之に痛撃を加えざるべからずと考えていた。之が為には我が国の軍需生産増加を必要とするのみならず国内体制も亦更新を要すとし、彼の影の人たる宮崎正義をして産業五カ年計画之に伴う国内革新案(註、中止された政治行政機構改造案)を作らしめた。この二案は池田成彬、結城豊太郎君も一読し両君共納得出来る議論だとして居た。

 石原は満洲事変には其の対ソ連観から大いに努めたけれ共、之を拡大し支那事変に導くが如き考え方には反対した。之が為に追われて晩年不振であったが、彼の作らしめた産業五カ年計画及び国内革新案は其の儘軍に保管されて居た。之を軍の新進気鋭の徒が読んで大いに之に共鳴し、世の所謂新人乃至革新派の連中に近付き之が実現の方策を練らしめた、所が此の『新人』の内に共産主義者が居り、彼等は軍を利用して其の理想を具現せんと決意し切りに軍の新進に取り入った。何しろ『新人』は頭がよく其の理論も一応条理整然として居るので軍の新進は何時の間にか之に魅せられ、国内革新を目標に、而して其の手段として長期戦争を企てるに至ったのである。
 この魅せられた連中は参謀本部よりも陸軍省内に多く、現に北支事変の起った時も、参謀本部は常に政府の局地解決に同意し、この方針で指令したのだが、陸軍省に蟠踞する革新派が出先の軍と通謀しドンドン事変を拡大した。之には立派な証拠がある。今、企画院に居る秋永少将の如きも支那事変を早く治められては困ると云って来た事もある。要するに陸軍の『新人』は作戦上の必要に藉口し、独断で戦争を拡大し、之に依って国家改造を余儀なくせしめんと計画したのである」

と陸軍中堅層が抱懐するという『国家革新の陰謀』に言及し、

 「陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にまで追い込んで仕舞った。しかも其の目的は戦争遂行上の必要に藉口し、我が国の国風、旧慣を破壊し、革新を具現せんとするのである。此の一派の率いる陸軍に庶政を牛耳られては国家の前途深憂に堪えない。
 翻って所謂革新派の中核となってる陸軍の連中を調べて見ると、所謂統制派に属する者が多く荒木、真崎等の皇道派の連中は手荒い所はあるが所謂皇道派で国体の破壊等は考えて居らず又其の云う所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為に手段を選ばず、しかも次々に後継者を養っている」

と警告を発し、小林大将に、後継首班を引き受け、この「赤に魅せられた」陸軍の革新派を速やかに粛清することを要請したのである。
 小林大将は、かねてより岡田啓介大将から陸軍内に斯くの如き恐るべき動きのある事を薄々聞いていたが、岡田自身も余りこれを信用しておらず、小林大将もまた「真逆」と思って重視していなかった。彼は、自分の微力は総理の任にあらざる旨を答えたが、近衛から改めて「陸軍統制派アカ論」を聞かされ、とにかく早く戦争を止めねばならないと痛感したのであった(1)。

 この近衛小林会談から一週間の後、陸軍中央は、近衛の警告を裏付けるが如く、彼等の正体を明らかにしたのである。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十八年三月二十五日木曜
ニ、独伊対米英間ノ和平工作ニ対シ帝国今後ノ戦争終末指導方策トシテノ施策ヲ課トシテ研究スルコトヲ発意シ其ノ内容ヲ概ネ左ノ如クスル様課長、種村中佐間ニ決定ス

1、独「ソ」和平工作トノ関係
2、和平工作ニ関スル英米ヘノ路線ノ設置
3、欧州局部和平ト東亜問題切離シ防止策
4、対重慶和平工作
5、和平条件(世界和平構想ニ基ク帝国ノ和平条件)
6、和平工作実施要領

昭和十八年三月二十八日日曜
三、日ソ及独ソ国交調整問題ヲ解決センカ為ニ対「ソ」問題ニ関連スル日独間ノ三国同盟締結以来ノ交渉事項ヲ慎重ニ検討シ之ヲ参考トシテ種村中佐起案ノ「帝国ヲ中心トスル世界戦争終末方策ニ就テ」ヲ研究ス
研究ノ結果ヲ田中中佐整理ヲ担任シ若干ノ修文ノ他
1、戦争終末ノ様相ニ関スル観察、2、世界新秩序ノ構想ヲ添加スルコトトナレリ

昭和十八年三月三十日火曜
一、帝国ヲ中心トスル世界戦争終末方策ニ就テ    
  昨日当課ニ於テ研究セル原案ヲ基礎トシ、軍務局長(註、佐藤賢了)、第一部長(註、綾部橘樹)、軍事(註、西浦進)、軍務(註、二宮義晴)、第二(註、真田穣一郎)、第十五課長(註、戦争指導、松谷誠)集イテ意見ノ交換アリ、本日ノ研究ノ結論左ノ如シ
1、速カニ世界戦争終末方策ニ関スル準備ヲナス、之カ為ニ情報網ノ拡充強化、政治工作ノ準備陣ノ構成ヲ図ルモノトス
2、次回研究会迄ニ研究準備シ置クヘキ事項
 イ、日支和平ノ具体的研究 
 ロ、独ソ和平ノ利害方法、条件、時機ノ研究 
 ハ、世界和平ノ構想
 ニ、武力戦ヲ主体トスル戦争指導要綱ニ準シ物的方面ヨリ数年間ヲ見透シ政略的戦争指導計画ヲ作成スルコト


帝国を中心とする世界戦争終末方策 昭和十八年三月二十五日(2)

一、世界和平成立に関する観察

 各国共に国防国家体制を整備しあること、和平を主宰し得るに足る強大なる中立国の存在せざること、日独の離間無き限り両陣営間の決戦を求め難しこと等に依り世界和平の成立特に講和会議の形式を以てする和平の成立は極めて困難にして長期戦の結果睨み合いたる儘局部的の部分和平(日蒋和平、独英、独ソ和平等)を見漸次数個の広域圏を形成し先ず事実上の和平状態に入る公算多かるべく時として日独英米和平の形式となること絶無ならざるべし。

二、和平問題に対する本質的観察に就て

 和平は謀略にあらず政略にあらず戦争の本質にして戦争指導の到達点なり帝国亦開戦前廟議に於て「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を定め爾来時に一張一弛ありしも概ね此の線に沿いて戦争を指導しつつあり。

 独伊英米も亦各々異なる自己的立場に於て自ら然るべき戦争終末の腹案を有し之が準備を行うは当然なるべし而して之が準備と実行とは別にして準備は即ち主に謀略分野に於て不断に存すべし唯之が実行の方法と時期に就ては日独伊三国共同戦争遂行上相互了解の下に律すべきは三国責任者の信義にして条約上の義務なり。

 而して日独伊戦争指導上最大の弱点は各々の抱懐する戦争終末に関する方策を其の責任者に於て之を吐露するの機会を有せざるに存す。

 若し将来三国間に相互の了解を得ることなく三国条約、三国協定、軍事協定の三大基本条約に抵触離反するが如き妥協和平等の事態生起することありとせんかそは即ち枢軸側の抱懐する世界新秩序建設企図の挫折を意味すべく其の原因は叙上の欠陥に由来すべし。

 今日最も信頼し合うべき日独伊三国就中独伊対日本が条約上の覊絆を唯一の頼にし揣摩憶測の間に三国共同の戦争を実行せざるべからざる状態にあるは最も憂るべき不幸なる因子なるを以て速に相互の直接連絡に努むることは三国の抱懐する戦争指導の真実を確め得て三国の結束を堅め世界戦争指導の主導権を把握する為現下喫緊の方策たるべし。

 尚現事態に処しては和平に関する突発的不幸なる事態の防止並我積極的方途の打開方策に関し余すところなきを要す。

三、独ソ和平工作と独英和平工作との関係

(イ)独伊対英米和平に就き其の成立の能否に関しては別問題とするも曩に独逸は三国条約を事実上一方的に破棄し独自体の為対ソ作戦を敢行せし例に鑑み之が突発的惹起を見ること絶無にあらざるべく然る時我の蒙るべき害たるや致命的のものあり。

 従って帝国は常に率直に独側責任者に対し世界戦争指導に関する帝国の真意を申入れ必勝の信念の下に協同して対英米戦争を完遂する如く施策し欧洲に於ける局部和平のみの成立は絶対に防止するに努むると共に予め其のあることを予期し準備するを要し少くとも大東亜戦争の処理を欧洲戦争処理より脱落せしめざる如く世界情勢の機微を洞察して施策尽さざるべからず。

 而して独ソ和平成立し三国の対英米絶対的優勢を確保し得たる場合三国共同して対英米和平工作を策し速かに戦争終末を図るを可とするは当然なりとす。

 即ち帝国は独伊をして独英和平を独ソ和平に先んじ行うは帝国との了解有無に拘らず三国共同の戦争完遂上絶対封止せしめざるべからず。

(ロ)独ソ和平は三国共同戦争完遂の根本義に一致しあり然も独をして従来の行懸りを清算せしめソをして対独迷夢より翻意せしめ得るものは世界に於て帝国を措いて他無く日独伊日ソ間に現存する諸条約は之が実行に何等の矛盾するものにあらず。

 帝国がソの絶対信用を獲得する工作は独ソ和平斡旋の前提条件なり。

四、和平工作に対する英米への路線の設置

 和平工作の準備は政略的に謀略的に大いに行い其の気運の醸成に努め機微の間に処して之が工作実施に着手せざるべからず。日米英外交官の交換船が日米英相闘う真只中に於て行われたるにあらずや正に国際障壁突破の方途は存すべし。中立国又大いに利用すべし、三国共同たるも可なり、三国個々に行うも可なり。

 右は和平気運の有無に関せず事前より最大限の努力を傾倒すべきなり。重慶和平工作を行わざる帝国が対重慶諜報路工作に専念するも尚至らざる苦衷を想察せば世界戦争指導の主動権を把握する為之が路線の速かなる設定に努力するは当然なり。「スペルマン」の訪伊「チアノ」の「バチカン」使節等々戦争指導上の奥義たるべく却て此等を一笑に附するものの愚を笑わざるべからず。事茲に至れば帝国遣欧使臣の低劣我外交使陣の貧弱を嘆くのみ。

 茲に於て独伊との連絡を更に緊密にするの他諜報網の拡充強化特に有力なる政治工作網の新展開は速かに実行すべき緊急事項とす。 

五、東亜問題切離し防止策

(イ)日独連絡飛行の完成

(ロ)右に伴う三国責任者の会同

(ハ)日ソ国交の調整

(ニ)右に伴う独ソ和平の促進

(ホ)対米英海上交通の破壊徹底による米英戦意の逓減

(ヘ)東亜に於ける帝国戦果の拡大

(ト)対重慶工作の具現

(チ)帝国を中心とする大東亜の結束

(リ)相互必需物資の交換促進。就中日ソ国交調整に伴い帝国の仲介による独ソ和平の実現は世界戦争指導の主導権を枢軸に於て把握するの端を発し和平に関し東亜問題切離し防止の最大因子たるべし之が為には日独連絡飛行の具現を以て速急の手段とす。

六、重慶との和平工作(省略)

七、戦後に於ける世界和平の構想

(1)世界新秩序の構想(省略)

(2)世界和平に処する帝国の和平条件

  戦争目的たる大東亜の新秩序建設を達成する為昭和十七年二月二十八日決定「帝国領導下に在らしむべき大東亜新秩序建設の範域」を認めしむるを本則とし和平工作時に於ける全般情勢に基き和平条件の細部を決定す。但帝国は大東亜圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の責任を負い同圏内居住民族は独立を維持せしめ又は独立せしむるか或は応能自治を許与するを原則とし独立国の主権及領土は徹底的に尊重し帝国を盟主とする大東亜共栄圏の一環に於て諸外国との外交交易を認むるを一般方針とす。

八、戦争終結の為機会補足要領

 帝国は独伊と提携を密にしつつ戦争終結の為積極的に左記の如き機会を捕捉するに努む

(イ)日独伊ソ国交調整成功の直後

(ロ)対重慶和平工作成功の直後

(ハ)対英上陸成功し若くは海上交通破壊戦の徹底により英を涸渇化せしめたる時機

(ニ)米英の国内動乱相互結束の弛緩時期 

(ホ) 独の単独の利害打算より行う局部和平の時機


大東亜戦争終末方策 昭和十八年九月十六日、参謀本部(3) 

第一 戦争目的

 帝国の戦争目的は自存自衛を全うし大東亜の新秩序を建設するに在り。

第二 戦争指導方針

一、帝国が昭和十九年夏秋の候を期し主敵米に対し必勝不敗の戦略態勢を確立し政戦両略の諸施策を統合して自主的に戦争終末の機を捕捉するに努む、已むを得ざるも昭和二十一年を目途とし米英の戦意を喪失せしむ。此の間為し得る限り速かに支那問題の解決を図ると共に世界情勢の急変に対処するの諸準備に遺憾なきを期す。

二、戦争間極力対ソ戦争の惹起を回避す之が為万已むを得ざるに至らば独伊との提携を犠牲とせざるべからざることあるを予期す。 

第三 要 領

 要 旨

一、戦争完遂の為の諸方策は戦争の終始を通じ戦略方策を根幹とし之に政謀略の諸施策を統合発揮するを以て本旨とす。

二、尊皇殉国の精神を中心とする国民の団結と強力且縦深ある戦争指導の一元的発揮は戦勝の要訣とす。

 其の一 戦略方策

一、万難を排して遅くも昭和十九年末迄に対米長期不敗の戦略態勢を確立す、之が為一時戦力の基盤に低下を見ることあるを与期す。

 帝国の戦争目的達成の為国運を賭して確保すべき要域は一般情勢大なる変化なき限り千島小笠原内南洋及西部ニューギニアの要域スンダ、ビルマを含む圏域とす(註、絶対国防圏)。

二、大東亜圏内主要交通線の安全を確保し戦力並国力の機動性発揮に遺憾なからしむ。

三、軍防空を強化し特に首都重要諸施設占領地の致命部等の防衛に遺憾なきを期す。

四、独伊と提携し海上交通破壊戦を徹底強化すると共に全世界に亘り米英戦力の威嚇眩惑分散を目標とする海空の奇襲、ゲリラ作戦を展開す。

五、ソに対しては極東ソ軍を牽制するを限度として極力我負担の減少を図る。情勢真に已むを得ず対ソ開戦に至りたる場合は対ソ長期戦を予期し戦争遂行上必要最少限の要域占拠を以て限度とす。

六、重慶に対しては当分の間現戦略態勢を保持しつつ支那大陸よりの我本土空襲を局限するを以て限度とし政謀略を統合して之が切崩し脱落を策するも対米英長期不敗の戦略態勢確立し且我戦力強化拡充するに伴い武力を行使して対支問題の根本的解決に努む。右の時期は早くも昭和二十年と予定す。

七、対米英決勝の為の戦略的方途の発動は遅くも昭和二十一年と予定し当時の情勢により之を定む。

 其の二 政略方策

一、日ソ戦回避方策

(イ)対米英必勝

 帝国の対米英戦必勝は対ソ戦回避並米ソの対日軍事提携阻止の最大方策たると共に対米戦略態勢の破綻は対ソ戦惹起の最大誘因たるべきに鑑み専ら対米英必勝に邁進す。

(ロ)日ソ国交の調整

 帝国は日ソ間の友好親善を促進し且ソの対米対独態度を偵知する為日ソ諸懸案の解決に努む。

(ハ)独ソ和平の斡旋

 独が昭和十九年春夏の候に予想せらるる米英の大規模第二戦線を撃摧若くはソの本冬季に於ける反抗を徹底的に頓挫せしめたる場合或は独の二正面戦争遂行の危機を予知したる場合に於ては帝国は進んで独ソの和平を斡旋し日独の綜合戦力を米英撃滅に集中発揮するに努む。之が為先ず誠意を披瀝して独を説得し次いでソの導入を図る。本施策遂行に当りては絶対に日ソの惹起、日独の離間を防止す。

 独ソ和平の斡旋は大局的見地に立ち独の譲歩下に成立せしむるを以て本旨とし其の条件別紙第一の如し。

(ニ)独ソ和平の突発に対する態度

 独ソ和平突発せる場合は表面ソをして厳正中立を再宣言せしむるを限度とし密に日独ソ間国交の恢復親善を図り進んで日独ソ提携世界平和への導入を策す。

(ホ)独の日ソ戦強要に対する態度

 欧洲に於ける独の戦勢不利に陥り独が帝国に対し対ソ参戦を要求せる場合に於ては既定方針に基き帝国の真に対ソ戦回避の已むを得ざる事情を明確且懇切に回を重ねて回答するものとし独の最後的態度如何に依りては日独提携を犠牲とするも尚且対ソ静謐を堅持するものとす。

(へ)対米英戦争間米が東部ソ領の基地を利用せるを確認せる場合は機を失せず先ずソ側の反省を促すものとし帝国は飽く迄日ソ戦の回避に努むるものとす。

(ト)対米英戦争間国境紛争を厳に防止し特に之に基く意図せざる対ソ戦の惹起を絶対に回避す。

(チ)対米英戦争間遂にソ側より全面的攻勢を受けたる場合は直ちに開戦す。

二、日独提携の促進並独の対英米単独講和防止策

 戦争相手の不一致に因る日独離間の虚隙存するに鑑み帝国は対ソ戦絶対回避の方針に反せざる限り周到に左記の諸施策を尽して日独の提携緊密化を図り併せて独の対英米単独講和突発防止に遺憾なきを期す

(イ)日独相互の連絡手段の確実

(ロ)独の戦争遂行能力の実相並政戦謀略企図の諜知

(ハ)大陸に於ける対ソ牽制

(ニ)太平洋を通ずる米の援ソ物資の入ソ制限

(ホ)大東亜経済建設に独側の参加協力容認

(ヘ)枢軸共同の戦後経営方策の確立並之が宣言

三、独の対英米単独講和突発に伴う対処方策

 帝国は日独の提携緊密化を図りつつ極力独の対英米単独講和を防止するに努むるも万一突発せる場合は其の動因が独若くは英米何れかの戦意喪失によるか或は独が対ソ戦徹底の為の偽装和平なるか或は英米がソの欧洲赤化防止の為の偽装和平なるか、何れの場合に於ても帝国は単独対英米戦を遂行せざるべからざるの悲運に到達すべきを以て機を失せず左の如く措置す。

(イ)帝国は独に対し三国協定に基き対米英和平に参加すべき旨を申入れ極力対英米和平の成立を図る。

(ロ)独側にして我申入れに応ぜざる場合は日ソ国交調整を促進しつつ独ソの和平を斡旋し進んでソを介して対米英和平に導入する如く努む。

(ハ)前諸項に関する帝国の努力も亦水泡に帰したる場合は帝国は三国同盟を破棄し敵を本土に迎うるも尚且米英に対し徹底抗戦す。

 此の間日ソ戦の回避に関し万般の措置を講じつつソ連、重慶、中立国「バチカン」等を介し或は直接米英本国に偵諜の手段を加えつつ極力戦争終末の機を捕捉するに努む。

四、日蒋和平方策

(イ)支那問題は大東亜戦争の動因たると共に之が根本的解決は対米英戦必勝を容易ならしむるの重大要素たるに鑑み東亜の戦局有利に進展するか欧洲に於て独が昭和十九年春夏の候に予想せらるる米英の第二戦線を撃摧する等米英側戦勢停頓の好機に乗じ対重慶政治工作を発動し一挙之が解決を図る。

(ロ)本施策は縦い之を失敗せる場合に於ても我対支既定方針に撞着を来さざる如く細心の留意を払うものとす。日蒋和平の為の条件別紙第四の如し。

(ハ)速かに対奥地経済停戦を行い逐次重慶側の切崩し及日蒋和平に進展する如く施策す。

五、大東亜諸国家諸民族処理方策

(イ)戦勢の帰趨如何を問わず既定方針を堅持しつつ皇軍威武の下諸国家諸民族の闘魂を喚起しつつ帝国に対する戦争協力を確保増進す。

 戦勢已むを得ず敵側の勢力下に帰せしめざるを得ざる国家及民族に対しても米英の桎梏より大東亜を解放する為戦う道義日本に対する精神的連鎖を保持せしむる如く努む。

(ロ)昭和十九年末を目標とし日満支に於ける国防自給の高度化を確立す。

(ハ)昭和二十年末を目標とし南方資源の現地生産及自給の高度化を促進す(中略)。

 其の五 世界終戦

一、世界終戦の様相は日独提携戦政略の手段を尽したる場合に於て米英の戦意喪失せしめ比較的有利なる条件を以て戦争終末を図り得るを以て限度とし之が為の帝国の条件は戦争目的に鑑み概ね別紙第二の如く定む。

二、独の対米英単独講和若くは「ヒ」政権の崩壊等により帝国が独力対米英戦争を遂行せざるべからざるが如き場合世界終戦の為の帝国の条件は概ね別紙第三の如く定む。

三、米英より概ね別紙第二の講和条件を提議し来りたる場合は速かに独を誘いて日独対米英終戦を図る若し独にして対米英和平に応ぜざる場合は戦争目的に鑑み米英に対し単独講和を行い世界終戦に導入することあり。

別紙第一

  独ソ和平斡旋条件

一、独を納得せしむる件

(イ)沿「バ」三国及東部「ポーランド」(独ソ開戦前のソ領地域)はソ領たるべきことを認めしむること

(ロ)独はソの必要とする機械類原料を供給すること

二、ソを納得せしむるを要する件

(イ)休戦後一年以内保障措置として沿「バ」三国「ウクライナ」及所要地点に独軍の駐屯を認めしむること

(ロ)沿「バ」三国及東部「ポーランド」及「ウクライナ」西部接壌地帯は之を非武装地帯とすること

(ハ)独の必需物資特に石油食料を供給すること

(ニ)日ソ中立条約確認方日ソ共同声明すること

三、独ソ和平斡旋に伴いソの要求により帝国の態度を明らかにするを要する件

(イ)北樺太利権の移譲

(ロ)日満ソ間交通の疎通

(ハ)満ソ国境非武装地帯の設定

(ニ)防共協定の廃棄

(ホ)外蒙古及新彊省の割譲斡旋

四、独ソ和平斡旋に伴い独の要求により帝国の態度を明らかにするを要する件

(イ)ソが斡旋に応ぜざる場合帝国は対ソ武力調停を行わざるものとす

(ロ)ソが調停に応じたる後偽装和平し独を攻撃せる場合帝国は対ソ武力協力は行わざるものとす

別紙第二

  世界終戦の為比較的有利に妥協を為し得る場合の条件

一、対米英

 左記条件の下に帝国指導下の大東亜新秩序の建設を認めしむ

    左 記

1、政治的条件

(イ)「ビルマ」、「フィリッピン」、支那、満洲、泰の完全独立を認む

(ロ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャバ」、「ボルネオ」、「セレベス」を含む地域を東部印度連邦とし高度の自治を容認す

(ハ)支那に関しては日支両国間の協議により決し香港を支那に返還す

(ニ)大東亜戦争間帝国と(1)の(イ)の各独立国との間に締結せられたる条約を認むること

2、経済的条件

(イ)大東亜諸地域に於ける帝国の必要とする重要国防資源の優先的取得を認む

(ロ)交通特に航空及通信の帝国の独占的掌握

(ハ)(イ)(ロ)以外の通商交易の機会均等          

3、

(イ)各独立国には其の国の防衛に必要最少限の治安軍(海軍は沿岸警備に必要なる程度)及警察を保有せしむ

(ロ)空軍は帝国之を掌握し一元的運営に任ず 二、対米英交渉に関し対ソ戦を回避する為対ソ譲歩を必要とする場合

 1、満ソ国境に非武装地帯を設置す

 2、防共協定を廃棄す

 3、北樺太利権の解消

 4、亜欧交通の打通 
                                 
別紙第三

  世界終戦の為不利なる妥協をせざるを得ざる場合の講和条件

一、対米英(註、国体の変革が含まれていない)

(イ)無併合、無賠償

(ロ)米の四原則の承認

(ハ)三国同盟の廃棄

(ニ)支那に関しては日支事変以前への復帰

(ホ)仏印以南の東亜細亜南太平洋地域の昭和十五年九月以前状態への復帰

(ヘ)内太平洋の非武装

(ト)日米通商関係の資金凍結前への復帰

二、対米英交渉に関連し対ソ開戦を回避する為対ソ譲歩を必要とする場合

(イ)満洲国の非武装

(ロ)北樺太利権及漁業権の返還

(ハ)亜欧連絡の打通       

別紙第四

  対重慶和平条件

一、南京、重慶の関係に就きては支那の国内問題として之を取扱い支那側自身に於て適宜処断するところに委するものとし要すれば蒋介石をして国民政府の首班たらしむることを認む

二、日華同盟条約を承認せしむ

三、速かに停戦を為し且経済封鎖を解く

四、支那に於て交戦国の軍隊の戦闘行為を認めず

五、当分の間支那側の対米英中立を認む

六、支那本土と南方華僑との政治的、経済的結合連鎖の承認

七、香港を返還す


 帝国を中心とする世界戦争終末方策および大東亜戦争終末方策において、陸軍中枢は我が国の戦争目的を「大東亜新秩序の建設」とし、「日ソ間の友好親善の促進」「独ソ和平の斡旋」を図り、日独の綜合戦力を米英撃滅に集中発揮し、次いで日独側に「ソ連の導入」を図るという。この陸軍中枢の戦争指導方針は、

 「戦争は飽くまで世界的な米英陣営対日独伊陣営の間に行われるのでありますから、欧州での英独対抗の結果というものがまた直接問題となるでありましょう。つまり東西いずれの一角でも崩壊するならば軈て全戦線に決定的な影響を及ぼすことになるからであります。この観点から見る場合、ドイツとイギリスとは同じ位の敗退の可能性を持つものと思われたのであります。私の立場から言えば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終わるのでは甚だ好ましくないのであります(註、日独の勢力圏が英米の支配下に入り資本主義化するからである)。

 (大体両陣営の抗戦は長期化するであろうとの見透しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝に終わらしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考えました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を東亜新秩序創建の絶対条件であるということをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを籠めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張と殆ど矛盾することなく主張される点であります。ところで、現実の戦争の進出過程に照らして以上の如き私の見解と予想は如何に喰い違って来たかと云う点について若干反省を加えて見たいと思います。先ず第一に私の予想の違った点は、昨年六月の独ソ開戦であります。私達はソ連があくまで帝国主義諸国の混戦に超然として実力を保存すべきものであると考えていました」

という尾崎秀実の構想(獄中手記)とほとんど変わらない。

 尾崎が、支那事変の勃発からゾルゲ事件の発生に至るまで、近衛文麿の最高政治幕僚として近衛に助言し或いは進歩的な支那問題の権威として多数の戦時論文を発表し、大衆世論を煽動し、我が国の国策を思うままに操り、「東亜新秩序」「東亜協同体」の実現を目指してきた。

 尾崎は、獄中手記と、彼が逮捕される直前に執筆した「改造昭和十六年十一月号大戦を最後まで戦い抜くために」の中で、彼が推進してきた「東亜新秩序」構想と第二次世界大戦の本質を、僅かではあるが粉飾なく告白しているのである(4)。尾崎は獄中手記の中で、

 「私は第二次世界戦争は必ずや、第一次世界大戦に続いて再び帝国主義諸国間の世界分割に終ることなくして、世界変革―世界共産主義革命が完全に成就しない迄も決定的な段階に達することを確信するものであります。今次の世界戦は資本主義社会の総決算たるべき運命を背負ったものであろうと確信致して居るのであります。」

と断言し、その理由として

一、世界帝国主義相互間の闘争は結局相互の極端なる破壊を惹起し、彼等自体の現存社会経済体制を崩壊させる。

 帝国主義陣営は型通り、正統派帝国主義国家群とファッショ派帝国主義国家群とに分裂しているが、此の場合戦争の結果は両者共倒れとなるか、又は一方が他方を制圧するかであり、敗戦国家に於ては第一次世界大戦の場合と同様プロレタリア革命に移行する可能性が最も多く、又仮令一方が勝残った場合でも戦勝国は内部的な疲弊と敵対国の社会変革の影響とに依って社会革命勃発の可能性がある。  

二、共産主義国家たる強大なソ連邦の存在。

三、植民地、半植民地がこの戦争の過程を通じて自己解放を遂げ、その間に或る民族に於ては共産主義的方向に進む。少なくとも支那に対しては斯る現実の期待がかけ得られる。

を挙げた。

 そして尾崎秀実ら共産主義者が目指す理想は「世界大同」であり、「国家的対立を解消して世界的共産主義社会の実現すること」である。なぜならば、レーニンを崇拝する尾崎によれば、帝国主義政策の限りなき悪循環すなわち戦争から世界の分割、更に新なる戦争から資源領土の再分割という悪循環を断ち切る道は、「国内に於ける搾取被搾取の関係、国外に於ても同様の関係を清算した新なる世界的な体制を確立すること以外にありません。即ち世界資本主義に代わる共産主義的世界新秩序が唯一の帰結として求められ、全世界に亘る完全な社会主義計画経済が成立して始めて完全な世界平和が成立すると思われる」からである。

 そして以上の如き予想に基いた現実の形態と更にこれに対処する方式として尾崎がしきりに心に描いたことは、

 「第一に、日本は独伊と提携するであろうこと。第二に、日本は結局英米と相戦うに至るであろうこと。第三に最後に我々はソ連の力を藉り、先ず支那の社会主義国家への転換を図り、これとの関連に於いて日本自体の社会主義国家へ転換を図る」

ことであり、第二次世界大戦における日本の進むべき道として次のように述べた。

 「日本は結局に於て英米との全面的衝突に立ち至ることは不可避であろうことを夙に予想し得たのであります。勿論日本はその際枢軸側の一員として立つことも既定の事実でありました。此の場合日本の勝敗は単に日本対英米の勝敗によって決するのではなく枢軸全体として決せられることとなるであろうと思います。日本は南方への進撃に於ては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るでありましょうがその後の持久戦により消耗が軈て致命的なものになって現れ来るであろうと想像したのであります。而も斯かる場合に於いて日本社会を破局から救って方向転換乃至原体制的再建を行う力は日本の支配階級には残されて居らないと確信しているのであります。結局に於て身を以て苦難に当たった大衆自体が自らの手によって民族国家の再建(註、敗戦革命のこと)を企図しなければならないであろうと思います。

 ここに於いて私の大雑把な対処方式を述べますと、日本はその破局によって不必要な犠牲を払わされることなく立ち直るためにも、又英米から一時的に圧倒せられないためにも行くべき唯一の方向はソ連と提携し、これが援助を受けて、日本社会経済の根本的立て直しを行い、社会主義国家としての日本を確乎として築き上げることでなければならないのであります。日本自体のプロレタリアートの政治的力量も経験も残念ながら浅く、而も充分な自らの党的組織を持たないことのためにソ連の力に待つ点は極めて多いと考えられるのであります。英米帝国主義との敵対関係の中で日本がかかる転換を遂げる為には、特にソ連の援助を必要とするでありましょうが、更に中国共産党が完全なヘゲモニーを握った上での支那と、資本主義機構を脱却した日本と、ソ連との三者が緊密な提携を遂げることが理想的な形と思われます。以上の三民族の緊密な結合を中核として先ず東亜諸民族の民族協同体の確立を目指すのであります。東亜には現在多くの植民地、半植民地を包括しているので、この立ち後れた諸国を直に社会主義国家として結合することを考えるのは実際的ではありませぬ。

 日ソ支三民族国家の緊密有効なる提携を中核として更に英米仏蘭等から解放された印度、ビルマ、タイ、蘭印、仏印、フィリッピン等の諸民族を各々一個の民族共同体として前述の三中核体と政治的、経済的、文化的に密接なる提携に入るのであります。この場合それぞれの民族共同体が最初から共産主義国家を形成することは必ずしも条件ではなく過渡的には夫々の民族の独立と、東亜的相互連環に最も都合良き政治形態を一応自ら択び得るのであります。尚此の東亜新秩序社会に於ては前記の東亜諸民族の他に蒙古民族共同体、回教民族共同体、朝鮮民族共同体、満洲民族共同体等が参加することが考えられるのであります。

 申すまでもなく東亜新秩序社会は当然世界新秩序の一環をなすべきものでありますから世界新秩序完成の方向と東亜新秩序の形態とが相矛盾するものであってはならないことは当然であります。

 世界的共産主義大同社会が出来た時に於ては国家及び民族は一つの地域的、或は政治的結合の一単位として存続することとなるのでありましょう、かくの如く私は将来の国家を考えているのであります。この場合所謂天皇制が制度として否定され解体されることは当然であります。しかしながら日本民族のうちに最も古き家としての天皇家が何等かの形をもって残ることを否定せんとするものではありません。」

 次に、尾崎の「大戦を最後まで戦い抜くために」を分析しよう。これは、まず緊迫する日米の和平交渉中にアメリカが和平に可成りの関心を抱いている理由として、

一、アメリカが対独宣戦を決行するためには太平洋の艦隊を大西洋に廻す必要があり、日本艦隊によってその間隙を衝かれることを恐れる。  

二、シンガポールが攻略せられる場合は大英帝国のアジア支配の紐帯が根底から断ち切られることとなり、やがては一定期間の後必ず英国の植民地支配がくつがえることとなる。これは直ちにアメリカにとっても味方の陣営崩壊を意味する。

三、アメリカは今日ドイツを抑えるためにソ連を極力援助する態勢を示している。しかしながらもしもかりにこれに成功した場合を考えるならばソ連の勢力は抑制し難く強大となる道理である。ソ連に対する勢力はかかる場合には日本以外に存在しない。

の三点を挙げ、「第三の論理は、現在よしそれがいわれなく見えるにしても遠謀ある世界旧秩序の指導部の考慮の外に置かれる筈はないのである」と述べ、アメリカ国内に、フーバー元大統領らによって提唱されたが、戦時中は政府に理解されず、戦後になって高い評価を受けた「反ソ親日の反戦論」が存在することを指摘していたのである。モスクワを通じたアメリカ共産主義者と連絡、情報交換が行われていたのであろう。

 だが尾崎は、アメリカに対日宥和政策を欲する理由があるにせよ、アメリカと「一瞬又一瞬切実の度を刻む」経済制裁を受ける日本との間には、甚だしい認識、要求の差違があることを指摘して、日米和平交渉の決裂を示唆した後、日本国民が直面する第二次世界大戦の本質を述べた。

 「我々はここに当面の問題をしばし離れて現在の世界が当面する事態を更に一層深く観察する必要を感じる。

 欧州に戦争が始まった時人々はこれを英独の決闘であると見た。しかしながらソ連をも捲きこんだ現在ではこれを第二次世界大戦と見ることに何人も意義を挿まないであろう。私見では、これを世界史的転換期の戦と見るのである。

 英米陣営では独ソ戦が起った時、ひそかに英米旧秩序陣営の勝利に導くものとしてほくそ笑んだのである。この種の見解はひとり英米陣営側のみならず中立的陣営乃至反対側にすら多少浸透しつつありと見られる理由がある。英米側は旧秩序の再建―修正的復元―を夢みつつある。しかしながらこれは全くいわれなきことであって、それは今次の大戦の勃発するにいたった根本の理由を見れば明かなことである。

 旧世界が完全に行詰って、英米的世界支配方式が力を失ったところから起った世界資本主義体制の不均衡の爆発に外ならないこの戦争が、英米的旧秩序に逆戻りし得る可能性は存在しないのである。戦争はやがて軍事的段階から社会、経済的段階に移行するであろう。

 この点についての詳細は論究は他日に譲るとして、以上のことと関連して我々は政治指導部に希望したいことがある。

 当局は日本国民を率いて第二次世界大戦を戦い切る。勝ち抜けるという大きな目標に沿うて動揺することなからんことである。日米外交折衝もまたかかる目的のための一経過として役立たしめた場合にのみ意味があるものといい得る。又今日日本には依然として支那問題を局部的にのみ取扱わんとする見解が存在している。これは世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない性質のものであると観念すべきものであろう。

 私見では、第二次世界戦争は『世界最終戦』であろうとひそかに信じている。

 この最終戦を戦い抜くために国民を領導することこそ今日以後の戦国政治家の任務であらねばならない。」

 尾崎秀実が、第二次世界大戦を「世界史的転換期の戦」と言ったのは、世界資本主義から共産主義的世界新秩序への転換の為の戦だという意味である。だから尾崎は「この戦争が英米的旧秩序(英米資本主義体制)に逆戻りする可能性はない」と言うのであり「戦争はやがて軍事的段階から社会、経済的段階に移行する」というのは、戦争がやがて敗戦、内乱、資本主義の自己崩壊から、共産主義革命(敗戦革命)へ移行するという意味であり、「支那問題は、世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない」というのは、中国共産党が支那大陸のヘゲモニー(覇権)を完全に握るまで支那事変は解決されないという意味であり、第二次世界大戦を「世界最終戦」と言ったのは、この戦争で世界資本主義が総決算となり共産主義的世界新秩序が必ず実現するので、レーニンが言った様に、戦争も消滅し、この戦争が人類の経験する最後の戦争となるという意味である。

 おそらく尾崎秀実は、彼を大喝した石原莞爾の姿を脳裡に浮かべながら、石原の「世界最終戦論」が想定する時期よりも早く、人類の理想である世界恒久平和を実現してみせるという尾崎自身の決意を込めて、この論文を執筆したのであろう…。

 そして尾崎が、石原と同様に「日本は南方への進撃に於いては必ず英米の軍事勢力を一応打破しうるでしょうがその後の持久戦により消耗が致命的なものとなって現れ来るであろう」と想像し、「而もかかる場合に於て日本社会を破局から救って方向転換乃至原体制的再建を行う力は日本の支配階級には残されて居らない」と確信しながら、「大戦を最後まで戦い抜くために」と題し、政治指導部に対して「当局は日本国民を率いて第二次世界大戦を戦い切る。勝ち抜けるという大きな目標に沿うて動揺するな」と希望したのは、日本の対米英戦が敗戦革命に移行し、日本が共産主義化するまで戦争をやめるな、完遂せよという意味である。
 東條英機は、近衛文麿に代わり、国民を領導して対米英戦を戦い抜き、我が国を敗戦革命に追いやるという戦国政治家の任務を背負わされたのである(4)。

 昭和十七年十二月二十一日我が国の御前会議は、「南京政府の対米英参戦を日支間局面打開の一大転機とし、治外法権租界の撤廃、北支内蒙の特殊地域化の放棄、日本の権益主義に満ちた日華基本条約の改訂を実行し、南京政府の政治力強化を図ると共に重慶抗日の根拠名目の覆滅を図り真に更生新支那と一体戦争完遂に邁進する」ことを定める「大東亜戦争完遂のための対支処理根本方針」を決定した。

 この対支処理根本方針の理念を大東亜地域に拡大し、米英の大西洋憲章に対抗して我が国の戦争目的を世界に向けて宣明するという重光葵の遠大な構想提言に基づき、東條内閣は、昭和十八年初頭から「大東亜戦争完遂に付ての協力に関する日華共同宣言」「租界還付及治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定」の調印を端緒として我が軍の占領下にあった東アジア各地域を順次独立させる大東亜外交を展開し、十一月五日には、東亜各国―日本、満洲国、中華民国(南京政府)、タイ、ビルマ(八月一日独立)、フィリピン(十月十四日独立)及び自由インド仮政府(十月二十三日日本政府承認)の首脳が大東亜会議を開催、大東亜共同宣言を発表し、戦争目的を国内外に向けて高らかに宣言した。

 各国代表の中で最も深く篤い信頼を日本に寄せるチャンドラ・ボースの演説は、格調高く、イギリスの桎梏からインドを解放しようとする熱い闘志と悲壮な決意に満ちており(5)、各国出席者の心を打ち、翌年一月七日、東條首相は、ボースの期待に応えるべく、かねてより参謀本部とビルマ方面軍が検討していたインパール作戦を認可した。

 だが同じ頃、陸軍省部を支配し近衛内閣および東條内閣の下で対米英開戦を強硬に主導し、ハル・ノートに対し「天佑とも云うべし」と喝采を送り、「吾人は孫子の代迄戦い抜かんのみ、真に世界歴史の大転換なり、百年戦争何ぞ辞せん」と叫んだ参謀本部戦争指導班を中心とする統制派革新幕僚は、彼等が尾崎秀実の「東亜新秩序」構想を共有していたことを明らかにしていたのである。

 本当に奇妙なことに、昭和十八年以降、近衛文麿が周囲の要人に「陸軍統制派の陰謀」を警告する毎に、陸軍中枢の革新幕僚は、尾崎秀実の謀略構想そのままに、政府軍部首脳を操り、「大東亜共栄圏」の理想を信じて戦う前線の将兵と内地の国民を欺きながら、東亜新秩序(東亜共産主義社会)の実現へ向けて、我が国を敗戦革命に追いやることを意図した「対米英戦完遂」、我が国の勢力圏にソ連を導入する事を意図した「対ソ徹底譲歩」、そして「日ソ支(中国共産党)提携結合」を執拗に主張してゆくのである。

(1)【終戦工作の記録上】六十七~七十二頁「小林躋造回顧録」
 重臣のなかで、東條内閣の打倒を目標に最も早い時期に動き出したのは岡田啓介であった。それは彼が高度の情報網を持ち得たことと無関係ではない。身近なところでは長男の貞外茂(海軍中佐)は軍令部作戦課の一員であり、また女婿の迫水久常は「物動」の中枢ともいえる企画院第一部第一課長であった。さらに義弟・松尾伝蔵(陸軍大佐、二・二六事件で身代わりとなって射殺される)の女婿であった瀬島龍三陸軍少佐は、参謀本部作戦課員であった。これらの情報網の質の高さは陸海軍首脳のそれをはるかにしのぐものであったという。
(2)【終戦工作の記録上】一二七~一三二頁。
 もし独ソ和平が実現し、日独の戦力が英米に集中指向する場合、尾崎の言う通り、ソ連は帝国主義諸国の混戦に超然として戦力を恢復し、ドイツの背後を襲い或いは対ドイツ戦に投入されていた巨大な戦力を極東に展開し得るのである。だから昭和十六年十一月六日から十八年四月八日まで参謀次長を務めた田辺盛武中将は、昭和十七年三月七日、「独ソ和平は日本の北辺に圧力を増し害多し」と判断したのである。
 同年九月六日、ドイツ政府は、大島浩駐独日本大使に「日本の独ソ和平の企図は迷惑である」と抗議し、さらに極東ソ連軍の西送を指摘して、「日本はソ連に過度の保障を与えているのではないか」との疑念を呈し、日本が対ソ開戦に踏み切らないことを非難した。
(3)【終戦工作の記録上】一三七~一四七頁。参謀本部第十五課(戦争指導)作成。
(4)三田村【戦争と共産主義】一九四、二一一~二三五頁。【尾崎秀実著作集3】二六七~二六八頁。
(5)伊藤【東條内閣総理大臣機密記録】三四〇頁参照。



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国民のための大東亜戦争正統抄史60~66東條内閣の和平努力

【東條内閣の和平努力】


60、組閣の大命、東條英機に下る

 近衛は辞表を捧呈した後、木戸内大臣と後継首班について相談し、

 「政治的にみれば、海相よりは陸相の方が適任と思う。且つ陸相は、表面は日米交渉の継続に反対したことになって居るが、両三日来の話によっても分かるように、海軍の意向がはっきりせぬ以上は、一度御破算にして案を練り直すということも言っている位だから、陸相が大命を拝したからと云って直ちに戦争に突入することもないと考える」 

という理由を挙げて東條陸相を推薦した。昭和天皇から近衛内閣総辞職に伴う善後処置に就き御下問を受けた木戸は、翌十七日、重臣会議で皇族内閣に反対し、

1、東條は海軍に確信がなければ対米戦はできぬと云っているのだから、東條が新内閣を組織してもそれは対米戦を意味することにはならない。組閣下命の際、陛下から東條に御言葉を賜るなら、それも一つの難局打開策であろう。

2、東條は海軍が開戦に反対なら戦争はできぬという思慮深い考え方になってきている。

3、東條は特に勅命を厳格に遵守する。彼が九月六日御前会議決定の実行を主張したのもこのためである。それ故、もし陛下が九月六日御前会議決定を反古とされ新たな見地での再検討を下命されるなら東條は勅命に従って方針を変更するに違いない。

4、もし主戦派と思われている陸軍が国政を担当し、死力を尽くして対米改善に努力したなら米国の疑惑も解消するであろう。

等の理由を挙げ後継首相として東條を天皇に奏薦した。昭和天皇は後継内閣組閣の大命を東條陸相に下され、木戸を通じて「九月六日の御前会議決定にとらわれることなく、内外の情勢を更に広く深く検討し慎重なる考究を加うることを要す」との御言葉を伝えられた(1)。これが所謂「白紙還元の御諚」である。大命を受けた東條は、予期していなかっただけに茫然自失の体であったという。

 近衛と木戸は八月二日より後継首班について話し合っており(木戸幸一日記昭和十六年八月二日の条)、二人の東條奏薦は熟慮の結果であろう。なぜ彼等は内閣総理大臣候補として東條によって推薦された和平論者の陸軍大将である東久邇宮稔彦王を奏薦せず、近衛の辞表とは正反対の理由を挙げて東條を昭和天皇に奏薦したのか?

 第二次世界大戦後の日本の歴史学者は敗戦後に出た元政府要人の回顧録や証言に惑わされ明確な解答を導き出せないが、実は戦時中すでに、近衛の最高政治幕僚たる尾崎秀実が、東條奏薦の理由を含め第二次世界大戦の真実を粉飾なく語っているのである。これについては後述する。

 大命降下後、東條は明治神宮、東郷神社、靖国神社を歴拝した。我が国の神々の御加護を得て白紙還元の御諚を実現し日米和平交渉を妥結しようと決意を固めたのであろう。彼は和平論者の東郷茂徳に外相として入閣するよう要請した。東郷は、

 「陸軍が支那駐兵について従来の様な強硬態度を続けるなら、外交交渉は不可能に決まっているから、外相は引き受けられぬ」

と断ると、東條は、

 「支那駐兵の問題を含め、日米交渉上の諸問題は再検討されるべきであり、陸軍も合理的基礎の上に協力する」

と確答し、東郷は外相就任を受諾した。さらに蔵相就任を要請された賀屋興宣は東條に個別会談を求めて、

 「貴下は日米開戦を決意しているのかどうか、内閣と統帥部との間に一致を欠くとの世評があるが、これでは日米和平交渉の成立も平和の維持も覚つかないが、貴見いかに」

と尋ねると、東條は、

 「日米開戦を決意しているようなことは全くない。反対に、日米交渉に努力して何とか成立を期したいと思っている。また政府と統帥部の協調一致について十分努力するつもりである」

と明答し、賀屋に蔵相就任を受諾せしめ、さらに東條自身が陸相と内相を兼務することを決意した。これは、東條内閣が「和平」と決定する場合に、陸軍内の統制を維持し国内の混乱に対処する為の措置であった(2)。十七日朝日新聞朝刊の有題無題欄は、

 「国民の覚悟は出来ている。ひじきの塩漬で国難に処せんとする決意はすでに立っている。待つところは『進め』の大号令のみ」

と一般国民はおろか政府に対しても日米開戦を煽動しており、東條首相は日米和平に反発する大衆暴動の発生を予想していたからである。

(1)【木戸幸一関係文書】四八一~四九一頁、矢部【近衛文麿下】三九七~四〇八頁。
(2)伊藤隆【東條内閣総理大臣機密記録】四七八頁。


61、東條内閣発足

 斯くして昭和十六年十月十八日、東條内閣は、国内の反米英世論を敵に回してABCD対日包囲陣下の日米和平交渉を妥結しなければならない重大かつ困難な使命を背負って発足した。この使命が彼らに加えた重圧は、尋常の人間をたちまち押し潰し悶絶昏倒させるほど苛酷であったに違いない。東條内閣の苦悩たるや想像を絶する。   

 十月二十三日から連日に亘って大本営政府連絡会議が開かれ、三十一日、東條首相が、

第一案 新提案による交渉不成立の場合にも戦争を回避して臥薪嘗胆につくこと。
第二案 ただちに開戦を決意し、政戦略の諸施策をこの方針に集中すること。
第三案 戦争決意の下に作戦準備の完整に進む一方、外交施策を続行してこれが妥結に努むること。

から成る国策方針を連絡会議の出席者に内示し、十分予備検討の上で翌日の連絡会議にて意見を述べることを求めたところ、十一月一日の連絡会議において午前九時から十七時間にも及ぶ大激論が交わされることになった(1)。 
 まず第一案が審議され、永野軍令部総長が第一案を「最下策」と断じ、

 「米国の戦備は日ごとに強化され、日本は日ごとにジリ貧になりつつある(註、海軍は一時間に四百トンの油を消費していた)。今日をおいては、日本がアメリカと戦う時機はなく、今日の機を逸すれば、開戦の機は米国の手に委ねられて、再び我に帰る日はない」

と主張すると、賀屋蔵相と東郷外相から質問を受けた。

賀屋「このまま戦争せずに推移し三年後に米艦隊が攻勢をとって来る場合海軍として戦争の勝算ありや否や。」
永野「それは不明なり。」
賀屋「米艦隊が進攻して来るか来ぬか。」
永野「不明だ。五分五分だと思っていただく。」
賀屋「私は来ないと思う。来た場合に海の上の戦争は勝つかどうか。」
永野「今戦争やらずに三年後にやるよりも今やって三年後の状態を考えると今やる方が戦争はやりやすいと言える、それは必要な地盤がとってあるからだ。」
賀屋「勝算が戦争第三年目にあるのなら戦争やるのも宜しいが、永野の説明によれば此の点不明瞭だ、しかも自分は米が戦争を仕掛けてくる公算は少ないと判断するから結論として今戦争するのが良いとは思わぬ。」
東郷「私も米艦隊が攻撃に来るとは思わない。いま戦争する必要はないと思う。」
永野「来らざるを恃む勿れ、ということもある。先は不明、安心できぬ。三年たてば、南の防備が強くなる。敵艦も増える。」
賀屋「それじゃ、いつ戦争したら勝てるのか。」
永野「いま!戦機はあとには来ぬ。」

 当時、戦艦、空母、巡洋艦など主力艦の保有数では、我が帝国海軍はアメリカ太平洋艦隊を上回っており、これが永野総長の自信となって表れたのである。だが我が海軍が、開戦後にアメリカ海軍を撃破しても、アメリカの根拠地は我が軍の攻撃圏外にある以上、我が国は武力によってアメリカを屈服させることはできず、当然三年以内に戦争が終結する保証は無く、またアメリカ海軍は優勢な日本海軍との決戦を回避して艦隊保全主義を採り、戦力の充実を待って反撃して来るかも知れない。だから東郷外相は、

 「戦争は、九十九回勝っても最後の一戦に負けた者が敗者だ」

と言い、賀屋蔵相は不安を表明したが、第一案は否決されてしまい、第二案の即時決意案の検討に移った。だが第二案も参謀本部を除く全員の反対によって否決され、結局、第三案が論議されることになり外交期限が検討された。まず伊藤(整一)軍令部次長が口火を切り、

 「海軍としては十一月二十日まで外交をやって宜しい」   

と言うと、

塚田「陸軍としては十一月十三日までだ。」
東郷「十一月十三日はあまりひどい。海軍は十一月二十日といっているではないですか。」
塚田「作戦準備が作戦行動そのものです。飛行機や水上、水中艦船などは衝突を起します。だから、外交打ち切りの時期は、この作戦準備の中で、ほとんど作戦行動とみなすべき、活発な準備の前日まででなければいけません。これが十一月十三日です。」
永野「小衝突は局部的衝突で、戦争ではない。」
東條及東郷「外交と作戦と平行してやるのだから、外交が成功したら戦争発起をやめることをうけあってくれねば困る。」
塚田「それはだめです。十一月十三日までならよろしいが、それ以後は統帥を乱します。」
嶋田「(伊藤次長に向かい)発起の二昼夜くらい前までは、よいだろう。」
塚田「黙っていて下さい。そんなことはだめです。一体、外相の必要とする期日とは、何日ですか。」

 ここで二十分の休憩となり、陸軍参謀本部と海軍軍令部は外交期限を検討し、再開された連絡会議にて参謀本部は政府側に譲歩し、外交期限十一月三十日迄、とした。

東條「十二月一日はならぬか。一日でもいいから、長く外交をやらせることはできぬか。」
塚田「絶対にいけません。十一月三十日以上は、絶対いかん、いかんです。」
嶋田「塚田君。十一月三十日は何時までだ。夜十二時までは、いいだろう。」
塚田「夜十二時までは、宜しい。」

 交渉期限が十一月三十日(十二月一日午前零時)と決定され後、東郷外相は交渉条件として甲乙案を提示した。

「甲案」

1、日本は、通商無差別原則が全世界にも適用さるる条件の下に於いて、支那に於いてもその適用を承諾する。
2、三国同盟の関係は、自衛権の範囲を極端に拡大せざることを期待するとともに、日本政府は条約の適用を自主的に決定する。
3、日本国軍隊は、北支、蒙疆の一定地域及び海南島に一部の兵力を所要期間(註、二十五年見当)駐屯せしむべく、他は日支和平成立後二ヶ年以内に撤兵を完了す。また支那事変が解決しまたは公正なる極東平和確立するに於いては、日本軍隊は直ちに仏印より全部の兵力を撤去す。   

「乙案(甲案不成立の場合の代替案)」

1、日米両国の東南アジア及び南太平洋地域に対する武力的不進出。
2、蘭印物資獲得のための日米両国間の協力。
3、日米通商を資産凍結令以前に復活することおよび米国の対日石油供給。
備考一、本取極成立せば南部仏印駐屯中の日本軍は北部仏印に移駐する。
  二、通商無差別待遇に関する規定及三国条約の解釈及履行に関する規定を追加挿入する。

 杉山参謀総長と塚田次長は、南方問題に関する暫定協定が成立し、当面の衝突が回避されても、根本の支那問題が解決されない限り日米戦惹起は必至であり、その時は我が国の戦力が相対的に著しく低下しもはや勝算はない、との理由を挙げて、乙案に反対した。だが東郷外相は、刻下外交の要は日米戦を回避するにあり、南方問題と石油問題とを解決し得れば、支那問題他は漸次解決されてゆくと主張し、参謀本部が乙案を認めなければ辞職することを示唆した。結局、東條首相と武藤軍務局長に説得された参謀本部は、乙案に「4、米国は日支両国の和平努力を妨げないこと」を加えることを条件に政府側に譲歩し、斯くして新「帝国国策遂行要領」が決定され、二日午前一時半、連絡会議は終了した。 

帝国国策遂行要領 

一、帝国は現下の危局を打開して自存自衛を全うし大東亜の新秩序を建設する為此の際対米英蘭戦争を決意し左記措置を採る。

1、武力発動の時機を十二月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す。
2、対米交渉は別紙要領(甲乙案)に依り之を行う。
3、独伊との提携強化を図る。
4、武力発動の直前泰との間に軍事的緊密関係を樹立する。

二、対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す。 

 二日午後五時、東條首相は、杉山、永野両総長と共に宮中に参内し、涙を流しながら昨日来の経過と国策遂行要領を内奏した。昭和天皇は、沈痛な面持で始終を聴き取られ、

 「事態が今日のようになれば、作戦準備をさらに進めることは已むを得ないとしても、なんとか極力日米交渉の打開を図ってもらいたい」

と仰せられた。
 四日陸相官邸にて、東條首相は、日本駐米大使の野村吉三郎を支援するため翌日渡米する特派大使の来栖三郎と懇談し、米国の両洋作戦準備未完成、世論未だ戦争を支持せず、ゴム・錫など軍需物資の不十分の三理由を挙げて、

 「今ならば、米国もみだりに戦争を望むまいと思われるから、成功三分、失敗七分と見てよかろう。困難は重々判っているが、くれぐれも妥結に努力を願いたい。ただ駐兵を譲ると、自分は靖国神社の方を向いて寝られないから、これだけは支那の実情を説いて承諾させてもらいたい」

と誠意を込めて激励した。
 翌五日、御前会議にて甲乙案と「帝国国策遂行要領」が最終決定され、東郷外相は詳細な外交経過を述べた後、

 「日米交渉は時間的にも著しく制約され、外交的施策の余地に乏しく、交渉妥結は焦眉の急を要しますので、極めて困難なる状況の下に折衝を致さねばならず、その円満成立を期待し得る程度の少なきは甚だ遺憾であります」

と悲観的予測を述べたが、東條首相は原枢密院議長に対して、

 「若干交渉成立の見込みはあると思う。米国にも多少の弱点はある。この案によって日本軍が展開位置につけば日本の決意も米国には判る。米国は元来日本が経済的に降伏するものと思っているのであろうが、いよいよ日本が決意したと認めれば、その時期こそ外交の手段を打つべき時と考えるものである」

と述べた。東條首相は、昭和天皇の聖慮に沿うべく和平交渉に一縷の希望を抱いていたのであった(2)。 

(1)【杉山メモ上】三七〇~三八〇頁「第六十六回連絡会議、国策遂行要領再検討の件」
(2)【杉山メモ上】四〇五~四一六頁「第七回御前会議質疑応答の概況」


62、激怒、安堵、絶望、喝采のハル・ノート

 七日アメリカでは、野村大使がコーデル・ハル国務長官と会見し、日本の国情が六ヶ月の交渉にしびれを切らし、事態重大である旨を告げて甲案を提出した。ハルは、甲案を熟読し、支那撤兵について撤兵と駐兵の割合を尋ねた。野村大使は、「大部分撤兵、駐兵は一部分」であることを説明したが、ハルはそれ以上甲案に大きな関心を示さず、甲案による交渉は不成立に終わった。
 東郷外相は十日、アメリカ駐日大使グルーに甲案の趣旨を説明し、交渉の急速な妥結を強く要請し、更に十二日イギリス駐日大使クレーギーに日米和平交渉妥結への協力を要請した。クレーギーは早速本国に報告したが、本国からは、原則問題が妥結するまで交渉はアメリカに委ねてある旨を伝える回答が帰って来たのみであった。

 二十日、野村・来栖両大使は、甲案不成立に鑑み、乙案を提示した。翌日、来栖大使は三国同盟に対するアメリカ政府の不信を解く為、ハルと単独会見し、三国同盟には何の秘密条約も存在しないこと、米国の対独参戦についての解釈は日本が自主的に行い、他の締結国の解釈に拘束されるものではないことを説明した無署名の書面を提示し、これによって日米和平交渉が促進すると認めるなら、即座に署名して手交することを申し出た。ハルはこの申し出に応じようとはしなかったが、フィリピンの軍備が整うまで日米開戦を引き延ばす意図を有しており、十七日にルーズベルトから手渡されたメモ、

 「日本がインドシナだけでなく満洲とソ連の国境や東南アジアにこれ以上、軍を派遣しないことを条件に石油禁輸の一部を解除する。もし米国がドイツに開戦することがあっても、日本は三国同盟を理由に参戦しない。代わりに米国は日本を支那に紹介する労をとる」

に基づき、九十日の停戦を骨子とした「ハル暫定案」を作成し、二十二日、英・蘭・豪・支の各代表に内示した。

 二十五日、ルーズベルト、ハル、そしてスチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク作戦部長は、大統領執務室で戦争評議会を開いた。彼等は、交渉妥結には悲観的な予想を持っていたが、日本に対する暫定案の提示では一致し、この日、ハルは、オーウェン・ラティモアの進言を受けて暫定案に反対する抗議文を大量に送りつけてきた中華民国(重慶政府)駐米大使の胡適を国務省に呼びつけ、

 「日本との対決回避の為に暫定案が必要という事実関係を全く理解できていない」

と厳しく警告したのであった。
 ところが二十六日朝、ルーズベルトは一転してハル暫定案を放棄し、十七日にヘンリー・モーゲンソー財務長官を通じて大統領に渡されていたホワイト原案から対日宥和条項を削除した十項目を最後通牒として日本に提示することを決定してしまったのである。国務省職員ランドレス・ハリソンのメモは次の如く記している。

 「長官はその日、突然、大統領に呼ばれてホワイトハウスの緊急会議に出かけた。その後、えらい剣幕で帰ってきたが、『あそこの連中は何もわかっていない。プライドが高く、力もある民族に、最後通牒を与えてはいけない。日本が攻撃してくるのは当然じゃないか』などと、繰り返しつぶやいた。」

 さらにハルは、親支那反日論者として知られる国務省顧問のスタンレー・ホーンベックから、「上からの指示による決定であっても、いずれそれでよかったと考えるようになる」と慰められた時、次の如きメモを書き残した(1)。

 「この緊急の時に、どうせ日本は(暫定案を)受け入れないだろうなどというのは正しくないし、望ましくない。(日本を宥和するため)私が支那を売ったと非難するのはそもそもおかしい話だし、そんな悪宣伝が罷り通るようでは、剣突き合わせて対立している国が妥協するなんて不可能だ。」

 この日の午後五時、ハル国務長官は、野村・来栖両大使にホワイト・モーゲンソー案の修正案を「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」として提示した。それは我が国の乙案を「法と正義に基づく平和確保に寄与せず」と峻拒し、第一項で所謂四原則を掲げ、第二項で次の十項目を掲げていた。

一、 米国政府及び日本国政府は英国、中国、日本、オランダ、ソ連、タイ国及び米国の間に多辺的不可侵条約の締結に努むべし。

二、 両国政府は米、英、中、日、蘭、タイ政府間において各国政府が仏領印度支那の領土主権を尊重し且つ印度支那の領土保全に対する脅威発生するが如き場合、かかる脅威に対処するに必要且つ適当なりと看なされるべき措置を講ずるの目的を以て即時協議する旨誓約すべき協定の締結に努むべし。かかる協定は又協定締結国たる各国政府が印度支那との貿易もしくは経済関係における特恵的待遇を求め、または之を受けることなく且つ各締結国の為仏領印度支那との貿易通商における平等待遇を確保するが為、尽力すべき旨規定すべきものとす。

三、 日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。

四、 米国政府及び日本国政府は、臨時に重慶に置ける中華民国国民政府以外の中国におけるいかなる政府もしくは政権をも軍事的政治的経済的に支持することなし。

五、 両国政府は外国租界及び居留地内およびこれに関連せる諸権益をも含む中国にある一切の治外法権を放棄するものとす。両国政府は外国政府租界地及び居留地における諸権利に、一九〇一年義和団事件議定書による諸権利を含む中国における治外法権放棄につき英国政府および其の他の政府の同意を取り付けるべく努力するものとす。

六、 米国政府及び日本国政府は、両国による互恵的最恵国待遇及び通商障壁引き下げを基本とする米日間通商協定締結のための交渉に入るものとす。右通商障壁引き下げには生糸を自由品目に据え置くべき米国による約束を含むものとす。

七、 米国政府及び日本国政府は、各々米国にある日本資産及び日本にある米国資産に対する凍結措置を撤廃するものとす。

八、 両国政府は円ドル為替安定計画に付協定し、右目的の為の所要資金の分担は日米折半とするに同意するものとす。

九、 両国政府は、その何れか一方が第三国と締結しあるいかなる協定も、本協定の根本目的即ち太平洋地域全般の平和樹立及び保持に矛盾するが如く解釈せざるべきに同意するものとす。

十、 両国政府は、他の諸政府をして本協定に定められある基本的な政治的及び経済的諸原則を遵守し且つ之を実際に適用せしむる為其の影響力を行使するものとす。

 ハリーデクスターホワイトが作成した対日通牒試案中の「日本政府が提案すべきこと」の第一項「すべての陸海空軍及び警察力を中国(一九三一年の境界で)印度支那及びタイから撤収する」および第二項「国民政府以外の中国における政府への支援-軍事的、政治的、経済的-を中止する」が殆どそのままハル・ノートの第三項および第四項になっていた。
 来栖大使は、陸海空軍と警察の支那全面撤退と重慶政府以外不支持の両項は実行できず、アメリカが重慶(蒋介石)政権を見殺しにできないのと同様、日本は南京(汪兆銘)政権を見殺しにはできないことを述べ、更に重慶に対する日本の謝罪を要求するに等しいノートをこのまま本国政府に伝達するのは交渉妥結を祈願する者として深い疑念がある旨を述べた。
 ホワイト・モーゲンソー案の採択を知ったハリーホワイトは、ホワイトから暫定案を阻止するためのロビー活動を懇請されていた太平洋問題調査会事務局長のエドーワード・カーターに、

 「もう大丈夫、満足できる結果になった」

と語ったという(2)。
 アメリカが解読したソ連暗号電文(Venona資料)では「Jurist」「Lawyer」「Richard」という隠名を持っていたホワイトは、モーゲンソー財務長官の特別補佐官という自分の地位を利用する就職斡旋活動を通じてフランク・コー(アメリカ財務省官僚、国際通貨基金IMFの事務局長、ホワイトとともにスパイ疑惑を否定した後、一九五八年に共産中国へ移住。シルバーマスターグループに属し、隠名はPeak)などソ連の工作員たちをアメリカ政府内の高い地位へ昇進させ、ソ連のスパイ活動を助長しており、おそらくソ連秘密警察KGB(当時はソ連人民委員部NKVD)の最も貴重な人材であった(3)。

 二十七日、ハル・ノートに接した我が国の政府軍部首脳は直ちに連絡会議を開いたが、出席者全員がアメリカ政府の強硬な態度に衝撃を受け、落胆し、和平交渉の前途に絶望した。極東国際軍事裁判(東京裁判)において東郷は、

 「ハル・ノートは日本に、支那・仏印からの撤兵を要求していた。さらに三国同盟を死文化する条項も含んでおり、日本が之を受諾すれば、三国同盟を日本から破棄する事になり、国際信義の問題となる。この問題を除外しても、日本がハル・ノートを受諾して撤兵し、警察官までも即時引揚げる事になれば、中・南支でも日本がそれまでした事はすべて水泡に帰し、日本の企業は全部遂行できない事になる。

 また、南京政府に対する日本の信義は地に墜ち、地方での排日・侮日感情は強くなり、日本人はこの地方から退去しなければならなくなる。

 さらにハル・ノートは満洲方面についても同じ事を要求しており、従って日本は満洲からも引揚げなければならなくなり、その政治的影響は自ずから朝鮮にも及び、日本は朝鮮からも引揚げなくてはならない事になる。換言すれば、日本の対外情勢は満洲事変前の状況よりも悪くなり、ハル・ノートは日本が日露戦争以前の状態になるような要求である。これがすなわち東亜における大国としての日本の自殺である。

 ハル・ノートは日本に対し全面的屈服か戦争か、を迫るものと解釈された。もしハル・ノートを受諾すれば、日本は東亜における大国の地位を保持できなくなるのみならず、三流国以下に転落してしまうのが、ハル・ノートを知る者全員の一致した意見であった。従って、日本は自衛上戦争する外ないとの意見に一致した」

と証言した。さらに東條は、キーナン検察官から「証人はハル・ノートを見た事があるか」と質問された際、「これはもう一生涯忘れません」と、ハル・ノートの内容を知った時の驚き、失望、怒りを一言の下に表した(4)。   
 だが陸軍中堅層の反応は、政府軍部首脳のハル・ノートに対する衝撃落胆と悲痛な決意とは、全く正反対であった。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十六年十一月二十七日木曜
二、果然米武官ヨリ来電
  米文書ヲ以テ回答ス全ク絶望的ナリト
  曰ク
   1、四原則ノ無条件承認
   2、支那及仏印ヨリノ全面撤兵
   3、国民政府ノ否認
   4、三国同盟ノ空文化
  米ノ回答全ク高圧的ナリ 而モ意図極メテ明確 九国条約ノ再確認是ナリ
  対極東政策ニ何等変更ヲ加フルノ誠意全クナシ
  交渉ハ勿論決裂ナリ
  之ニテ帝国ノ開戦決意ハ踏切リ容易トナレリ芽出度芽出度之レ天佑トモ云フベシ
  之ニ依リ国民ノ腹モ堅マルベシ 国論モ一致シ易カルベシ

昭和十六年十一月二十八日金曜
一、米ノ回答全文接受
  内容ハ満洲事変前ヘノ後退ヲ徹底的ニ要求シアリ 其ノ言辞誠ニ至レリ尽セリト云フヘシ
二、米ノ世界政策対極東政策何等変化ナシ現状維持世界観ニ依ル世界制覇ナリ
三、今ヤ戦争ノ一途アルノミ

昭和十六年十一月二十九日土曜 
  吾人ハ孫子ノ代迄戦ヒ抜カンノミ

昭和十六年十二月一日月曜
一、午後二時ヨリ四時ニ亘リ御前会議開催
  正ニ歴史的御前会議ナリ
  真ニ世界歴史ノ大転換ナリ 
  遂ニ対米英蘭開戦ノ御聖断下レリ
  皇国悠久ノ繁栄ハ茲ニ発足セントス
  百年戦争何ゾ辞セン  

(1)【ルーズベルト秘録下】一九〇頁。
(2)【ルーズベルト秘録下】二八六頁。
(3) 【Venona Decoding Soviet Espionage in America】一三八~一四五頁「Harry Dexter White:A Most Highly Placed Spy」、三六九頁。
(4)冨士【私の見た東京裁判下】八十二~八十四頁、一一三頁。


63、自衛のための自殺

 昭和十六年十二月一日、御前会議は「もはや開戦やむなし」という出席者全員の賛成によって我が国の対米英蘭開戦を決定した。翌二日午後二時四十分、杉山元参謀総長は、サイゴンの寺内寿一南方軍総司令官に「大陸命第五六九号(鷹)発令あらせらる、日の出はやまがたとす、御稜威の下切に御成功を祈る」と打電し、同日午後五時半、山本五十六連合艦隊司令長官は、ハワイ作戦のため択捉島の単冠湾を出撃し(十一月二十六日)、太平洋を東航中の我が海軍空母機動部隊に「新高山登れ一二〇八」を打電し、遂に日米和平交渉は終止符を打たれた。そして十日、大本営政府連絡会議は「今次の対米英戦争及今後情勢の推移に伴い生起することあるべき戦争は支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と決定した。

 連合軍最高司令官として無法な対日占領作戦を敢行したマッカーサーは、一九五一年五月一日アメリカ上院軍事外交委員会において次のような証言を行った(1)。

 「日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいているのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。

 潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいづれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時より、働き、生産している時の方がより幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでよいようなものを発見していたのです。

 これほど巨大な労働能力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。

 日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。

 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」

 マッカーサーが証言した如く東條内閣が対米英開戦を決断した目的は、確かに我が国の自存自衛であった。だが同時に、それは数学的合理主義と軍事的良識を一切欠いた民族的ハラキリ(自殺)であった。我が国は、最大最悪の思想的地理的軍事的脅威たるソ連を撃滅する好機をみすみす放棄し、北方の脅威を残したまま、支那事変の泥沼にはまり国力を消耗していたにも拘わらず、さらに強大な米英(陸軍は米英の総合国力を日本の約三十倍と見積もっていたという)に戦いを挑んだのである。最終的な勝敗は、戦前すでにほぼ決していたといってよい。

 奇しくも極東方面から増援を得たソ連軍と大寒波がモスクワに迫ったドイツ軍を撃退し始めた昭和十六年十二月八日、我が海軍空母機動部隊は真珠湾を空襲し、停泊中のアメリカ海軍戦艦五隻、巡洋艦一隻を撃沈(戦艦ネバダは自沈)、戦艦三隻、巡洋艦三隻を撃破するなど大戦果を挙げた。日米開戦の決定を病床で聞いた松岡洋右は涙を流して、

 「三国同盟は僕の一生の不覚だった。三国同盟はアメリカの参戦防止によって世界戦争の再起を予防し、世界の平和を回復し、国家を泰山の安きにおくことを目的としたのだが事ことごとく志と違い、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと、死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」

と語ったという。かねて松岡が警告し予言した如く、日米開戦から三日後、忍耐を重ね、アメリカの参戦防止に努めてきたドイツ政府は、苦悩の末、三国同盟の信義に基づきアメリカに宣戦を布告、一九四一年夏以降、頻繁にドイツに戦闘挑発を仕掛けていたルーズベルトが欲していたアメリカの対ヨーロッパ参戦が実現した。スターリンの率いるソ連は、極東ソ連軍とアメリカの軍事支援を最大限に利用し、ソ連領内に侵攻したドイツ軍を撃破し、余勢を駆って東欧を支配下に収めた。

 そして全精魂を傾注した支那事変解決の努力も空しく、支那派遣軍から内閣総力戦研究所に転出した堀場一雄中佐が、我が国に支那事変の覆轍を踏ませない為に、所長の飯村穣陸軍中将の統監の下、各省庁および民間企業から選抜されてきた優秀な所員と共に昭和十六年七月末から九月初旬に亘り南方作戦を仮想演習し、

 「南方戦争の本質は長期戦なり。而して国力は負担に堪えず。長期戦中ソ連必ず起つ。国家は之に対応するの方策なし」

と判定し政府に警告していた通り(2)、ソ連はドイツに勝利した後、極東に兵力約百六十万、航空機約六千五百機、戦車約四千五百台を揃えて、昭和二十年八月八日、日ソ中立条約を容赦なく蹂躙して対日宣戦を布告、日本国の継戦能力にとどめを刺し、同年九月二日、我が国はポツダム文書に調印し連合国に有条件降伏した。

 我が大本営は八月十六日、直隷各最高指揮官に対して「即時戦闘行動を停止すべし。但し停戦交渉成立に至る間、敵の来攻に方りては、止むを得ざる自衛の為の戦闘行動は之を妨げず」(大陸命第一三八二号)と命令した。この命令に従い、樋口季一郎陸軍中将の指揮する我が第五方面軍は、南樺太および千島列島最北端の占守島において日本領内の最後の地上戦を続行し、ソ連軍の侵攻速度を著しく遅らせ(南樺太攻防戦の正式な日ソ軍停戦協定は八月二十二日に成立)、スターリンに北海道上陸作戦の実施を断念させた(3)。また根本博陸軍中将の指揮する我が内蒙古駐留軍は、ソ連軍の追撃を阻止しながら、軍民の列車と物資を総動員し、八月二十日、張家口の在留邦人約四万人を北京と天津に脱出させた(4)。

 しかしソ連軍は、満洲樺太千島北朝鮮において、暴行強姦略奪破壊虐殺ありとあらゆる筆舌に尽くし難い大蛮行を犯し、日本人居留民約二百二十万人のうち約二十二万人を大虐殺し、軍民合わせて五十万を超える日本人をシベリアの凍土に強制連行し(ソ連崩壊後KGBが公表した数は約六十四万人、百万人を越えるという資料も出ている(5)。シベリアから帰還した日本人は約五十万…)、降伏した関東軍の武器弾薬物資を中国共産党に供給して彼等の支那大陸制覇を支援し、斯くしてソ連は極東アジアの大半を支配下に収めてしまい、東欧から東亜にまたがる恐るべき巨大な全体主義国家、悪魔の帝国(米国大統領レーガンの言葉)に成長したのである。

(1)小堀【東京裁判日本の弁明】五六四~五六五頁。
(2)堀場【支那事変戦争指導史】六四七頁。飯村穣の回想によると、東條英機陸相は熱心に連日のように南方作戦の机上演習を見学していたという。
(3)中山隆志【一九四五年夏最後の日ソ戦】参照。
(4)稲垣武【昭和20年8月20日-内蒙古・邦人四万奇跡の脱出】参照。
(5)アルハンゲリスキー【プリンス近衛殺人事件】一六二~一八六頁。著者が発掘したクレムリンの内部文書によれば、一九四六年十二月当時、確認されたソ連領内の日本人被抑留者は、百五万二千四百六十七人であるという。


64、平和と自由に対する罪

 第二次世界大戦後、多くのアメリカ人は、「アメリカは日独伊のファシズムから自由デモクラシーを守る為に第二次世界大戦に参戦し勝利した」という歴史観を崩さず、アメリカに留学した日本国民の中にもこの史観を盲信する者がいる。だが日米開戦前、アメリカ人の中には、アメリカの参戦が却ってソ連の膨張と自由デモクラシーの破壊とを招来する危険性を指摘した賢明なジャーナリストおよび政治指導者がいた。

 変転する支那大陸の情勢を克明に取材報道していた上海発行の月間英文雑誌「極東評論」The Far Eastern Revierの社長兼主筆のジョージ・ブロンソン・レーは、一九三五年ニューヨークおよびロンドンで出版した「満洲国出現の合理性」と題する彼の著書(原題はCase for Manchoukuo)の中で(1)、アメリカ政府のスチムソン・ドクトリン(不承認主義―支那の主権、独立、領土保全の原則、門戸開放政策に違反し、又アメリカ国民の条約上の権利を侵害する一切の事実上の状態の合法性を承認しないこと及び前記権利を侵害する日支両国の締結する一切の条約協定を承認しないこと、不戦条約に違反する手段により成立する一切の状態、条約協定を承認しないこと)によって、被圧迫民族は、奴隷の域から自らを解放する為、武力を用いて抵抗することも武力行使の結果として生ずる事態を利用することも許されず、

 「古来より人類を駆って圧迫に反抗せしめ又政府を転覆せしめた実際上の必要、政治上の考慮、民族自決の権利、正義、自由の諸原則は悉く蹂躙し去られた」

と嘆き、不承認主義を振りかざして満洲国の建国を認めないアメリカ政府の反日外交に「自由の先駆たる名声を世界に博したアメリカが、掠奪や大規模の虐殺を恣にする支那軍閥が再び満洲国三千万の住民を奴隷の鉄鎖に縛らんとする運動を援助し教唆し奨励するものである」という痛烈な批判を加えた。

 支那に在住すること三十二年の長きに及んだレーは、孫文や袁世凱の顧問を務め、支那の基幹鉄道建設の為に欧米の民間資本と借款の交渉を行い、政府系資本による独占を目論むアメリカ国務省に妨害されるなど類例のない豊富な経験と幅広い知識を有する人物であり、満洲国政府はブロンソン・レーを政府顧問として招聘し、さらに満洲国の正式代表としてジュネーブに派遣し国際連盟との交渉に当たらせたのである。一九三三年一月二十三日、レーは、満洲国のあらゆる団体および協会の責任ある役員が記名調印した満洲国独立に関する彼等の念願を証明する五百八十六通の文書を国際連盟事務総長に対し正式かつ直接に手交した。 それは昭和八年(一九三三)二月二日の大阪時事新報記事「満洲国民新政府を謳歌、ブロンソンリー氏の書翰を連盟事務局が発表」によって以下のように報道された。

 「連盟事務局は一日満洲国外交部庁内ブロンソンリー氏の書翰及びこれに添附した五百八十六通の満洲国民衆の宣言抗議訴願文書を公表した。リ氏の書翰は之等文書が満洲国内の各商工会政治教育市民等各団体により提出されたものなることを説き、更に満洲国政府に対する満洲国民側の意向を明かにして左の如く述べている。
 新政府の基礎催立し減税を行い通貨の安定を行い匪賊を剿滅して民衆の重圧となった苛税を除去した。今や全国民鼓腹して新政府を謳歌し、再び張学良の圧制下に帰り公然国政を論議するのみで拷問死に至らしめられるを欲しない。満洲国内各商工会政治教育市民各団体から提出された文書に徴するも満洲国民が自己の目的を支那本部の軍閥の下に委ねんとする一切の企図に反対せんとする決意を有することを示認して居る。」

 しかし国際連盟は満洲国の存在を承認していなかった為に、事務総長は満洲国建国の正当性を証明するそれらの文書を総会に移牒できず、二月十八日、満洲国外交部はブロンソン・レーに対し、「極東問題に就き予備知識欠陥せる故支那本部殊に我満洲国と仇敵関係にある北支東北軍閥の懐柔宣伝に甘んじて乗せられたる」リットン調査団の報告書を金科玉条となし満洲国国民の意向を無視して満洲国の独立を否認する国際連盟の不公正を非難する長文の声明書を各国代表及び関係方面に通告公表の上即時事務所を閉鎖しジュネーブを引き払うように訓電し、国際連盟との交渉を断念した(2)。そこでレーは自ら「満洲国出現の合理性」を刊行し、満洲国の真実と支那大陸の現実をアメリカとイギリスの国民に直接訴えたのであった。

 レーが支那大陸で目撃した現実は、統一の覇権を争う支那軍閥群による、ワシントン会議の軍縮精神を反映した九ヶ国条約付属第十号決議(支那の兵力および軍事費の削減)に違反する狂気の大軍拡(ワシントン会議開催時、支那の兵力は約百万と言われていたが、満洲事変前には、二百万を超え、不正規兵、武装匪賊等を含めれば、約五百万に達したのである)、これを遂行維持する為の吸血鬼の如き大虐政、そして数千万単位の民衆大虐殺であり、九ヶ国条約によって固定された支那大陸不分割主義は、本来独自の気候地理条件、言語、歴史、風俗、慣習を有する支那各省が適正な国家規模を持つ独立国となって地域に根ざした政治を行うことを阻害し、支那民衆を救い難い絶望の淵に沈めていることであった。

 以上の観察に基づいて、レーは満洲国出現の是非をあらゆる論点から詳細に検討し、

 「条約は国家の生命に危険となり、もしくは国家の独立と両立し難きに至るや否や無効となるのである。」(ホール)

 「国家の存立発展がその国家の条約上の義務と如何にしても衝突を免れない場合には後者が譲歩せねばならない。なぜなら国家の自存生長による発展ならびに国家の必需物は各国の第一義的義務だからである。」(オッペンハイム)

など国際法の権威が説く「国家の自存権right of self-preservation優位の原則」、満洲の歴史(3)、中華民国によって清帝退位協定を蹂躙され、迫害され、民国の代表を抱える国際連盟に見捨てられた満洲人の悲哀、アメリカの独立革命やキューバ干渉を始め様々な独立運動の先例を引き、

 「支那は国家に非ず、満洲国は支那の領土に非ず。日本が満洲国三千万民衆の独立権を承認し、日本自身の安全を保障し保護する強力なる自足の国家を建設するに援助を与え、満洲人にその正統の君主を復しその政府と同盟を結んで内外の敵に対することは侵略でもなければ侵入でもなく征服でもないことは国際社会において合法的と認められている他の先例と何等拓ぶ所はないのである。満洲国出現は幸福の出現であり、満洲国の光は広大にして戦乱に喘ぐ支那の群衆に対して煌々と輝いている」

と結論づけた。レーのアジア・レポートは満洲国建国の正当性を完全に立証し、アメリカで悪名高き絶対的排日移民法が成立した一九二四年以降、日本政府に移民の新天地を捜し求める義務を課した人口の増加、九ヶ国条約締結から除外されていたソ連の軍事的膨張や共産主義勢力の浸透など様々な困難に直面し苦悩している日本の立場を擁護したのである。

 さらにレーは、「支那の政治経済顧問や新聞記者の仮面を被った排日主義のアメリカ人による日米戦争を惹起させようとする運動は、ソビエト・ロシアの巧妙なる宣伝によって更に勢いを増している」と警鐘を鳴らし、アメリカにとっての日本が対支輸出品の生産および在支日本企業の経済活動の為にアメリカ産の原材料、工作機械、部品等を購入する最大の顧客であり、且つそれらの原材料と部品を加工して支那に輸出する最良の協力者であって、アメリカの門戸開放政策の障害ではなく、むしろアメリカの対支貿易の赤字は日米貿易がアメリカにもたらす利益によって補填されていること等を貿易統計から説明し、「日本は米国の友人、米国商品の良き顧客にして販売人であり、真に日本を指導する者、健全にして保守的な実業家、銀行家、自由主義者、並びに大衆の大部分は依然として米国の理解と同情を求めている」と述べ、アメリカの排日主義者が宣伝する「日本脅威論」を完膚無きまでに論破したのである(4)。

 東京裁判において被告弁護団副団長の清瀬一郎弁護人は、九ヶ国条約が成立した一九二二年から支那事変が勃発した一九三七年までの十五年間に、ワシントン会議が想定していなかった次の五つの異常な変化が起きたことを挙げ、国際法上の事情変更の原則を援用して、九ヶ国条約の失効を主張した(5)。

一、九ヶ国条約以後、中国は、国家の政策として抗日侮日政策を採用し、不法に日貨排斥を年中行事として続行するに至り、また反日感情が広く青年層に伝播するようにと公立学校の排日教科書を編纂したこと。
二、第三インターナショナル(コミンテルン)がこの時代に日本に対する新方略を定めて、中国共産党がかの指示に従い、かつ蒋介石政権もこれを容認したこと。
三、ワシントン会議で成立した中国軍隊削減に関する決議が、ひとり実行せられざるのみならず、かえって中国軍閥は以前に何倍する大兵を擁し、新武器を購入し、抗日戦の準備に汲々たる有様であったこと。
四、九ヶ国条約に参加しなかったソ連の国力が爾来非常に増進し、ソ連が三千マイルにわたるソ中両国の国境を通じて異常なる力を発揮してこれに迫ってきたこと。
五、九ヶ国条約の締結以来、世界の経済が経済的国際主義より国内保護主義への転換を示して来たこと。

 ワシントン会議で成立した中国軍隊削減に関する決議が九ヶ国条約付属第十号決議である。事情変更の原則とは「ある条約成立の根拠となった根本的事情が本質的に変化した場合には、その条約は拘束力を失う」というものである。

 被告弁護側の主張は、終了期限を規定していない九ヶ国条約は「現状の持続する限り」という黙契条件によって結ばれた条約と了解すべきであり、事態がすべて変化した以上、九ヶ国条約上の日本国の義務は終了したというものであった。東京裁判判事の中で唯一の国際法の専門家であったインド代表判事ラダビノッド・パル博士は、「これらの主張は甚だ有力なものであって、もしこの条約義務によって左右される問題が生じた場合には、これは明らかに慎重な考慮を必要とするものである」という見解を判決書に記している(5)。
 被告弁護側は、ワシントン体制の崩壊と満洲の分離独立が九ヶ国条約付属第十号決議違反や清帝退位協定違反など度重なる中華民国自身の条約違反行為によって引き起こされたことを証明する証拠資料として「禁苑の黎明」の摘要と「満洲国出現の合理性」の摘要を用意していたが、裁判所は前者を却下し後者を未提出に終わらせてしまった。 

 もしジョージ・ブロンソン・レーの著書が法廷に提出され、証拠資料として受理されていれば、僅か一人の親日的なアメリカ人によって東京裁判の事実上の実施者である連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の企みが覆されただけでなく、支那通ジャーナリストの足元にも及ばないアメリカ政府の低劣な予見能力が世界中に暴露されていたであろう。なぜならレーの洞察力は驚くべき予言を彼の著書に記していたからである。それは、もし強大なアメリカが平和主義者や国際主義者によって国際連盟や係累となる同盟に引きずり込まれ、門戸開放主義などアメリカが宣伝係を引き受けた本来ヨーロッパ発の様々な主義主張を支持させられれば、アメリカは、早晩、米英露対日本という西洋と東洋との世界戦争の渦中に巻き込まれるであろう、そして仮に日本が敗北し、東部アジア大陸から駆逐され、第一次世界大戦に敗れたドイツ同様に軍備の撤廃を強要される場合、アメリカは太平洋の主人となるが、ロシアはアジアの支配者となり、支那を経済的に植民地として艦隊を建造し必ず太平洋におけるアメリカの覇権に挑戦するに至り、現在アメリカの有する少なくとも二倍から三倍の艦隊を極東に常駐させる必要性が起こる、而して日米戦争が済んでから初めてアメリカは詭計に罹りその犠牲になったことを知るに至る、というアメリカに対する警告であった。
 
 日本の偉大なる予言者が石原莞爾ならば、アメリカの偉大なる予言者は、支那事変勃発前に第二次大戦後の世界情勢をほぼ完璧に見透したジョージ・ブロンソー・レーであろう。

 レーが支那の事情に精通するジャーナリストとしてアメリカとイギリスの読者に伝えたかった深刻な国際情勢は、現在まさにアメリカ人が賢明にも現実を見据えて日本が差し延べている友好の手を握り日本と協力し通商上ならびに東洋に対する共同の目的の為に日本と結ぶか、それとも相変わらず日本を冷遇し、世界の世論を動かして日本に反対し、現在の方針を固執し日本と握手することを拒み、日本固有の地域内における日本の生存権に飽くまで干渉し、日本を自殺に追い込むか、という二者択一を迫られ、アメリカ文明が太平洋における平和と戦争の岐路に立っているということであった。

 そしてレーは、もしアメリカの政策が後者であるならば、かかる主義原則に固執する感傷的非現実的な外交がもたらす結果―日米戦そして日本敗北後に訪れる米ロ対決―に直面する用意として、アメリカの執るべき唯一の安全保障は「軍備の充実」以外にない、と喝破し、「軍備を充実せよ、而して徒らに口舌を弄するなかれ」とアメリカ国民をたしなめ、現実を無視して徒らに主義原則を叫んだところでアメリカの国益にも平和にも何ら寄与しないことを訴えたのであった。

 もしアメリカ政府がレーの勧告に従い、外交方針を反日から親日に転換し満洲国を承認していれば、日本国の国際連盟脱退以後、国際的孤立感に苛まれていた日本国民の親米感情は沸騰し、大衆世論に後押しされる日本の帝国議会は、帝国海軍がアメリカを仮想敵国として主導する国防計画(南進北守戦略、陸海軍予算対等主義)を許さず、政府の対米親善外交を促進していたであろう。結果として支那事変の勃発前に、海軍に猛反発された石原莞爾の国防国策大綱(昭和十一年六月三十日)第三項目が具体化され、日米同盟による強力な対ソ封じ込め戦略が実現する可能性は存在していたのである。昭和十六年十二月八日の日米開戦は、決して日米間の不可避な「経済の戦争」や「文明の衝突」ではなかった。

 又ドイツがソ連に開戦した直後の一九四一年六月二十九日、フーバー元大統領は、

 「スターリン支配下のロシアは、人類史上作られた最も血に飢えた独裁恐怖政治であるから、ソビエト・ロシアの参戦は、干渉主義者達の『合衆国はデモクラシーの原理と理念を守るために参戦すべきだ』という主張を崩すものである」

というロシアの実情と第二次ヨーロッパ大戦の現実を指摘し、アメリカは独ソ両国を互いに戦わせるべきであり、

 「アメリカのソ連援助は共産主義を世界中にまき広げることになるだろう。だから、アメリカがヨーロッパ戦争に介入しなければ、アメリカの手で恒久的な世界平和がもたらされるときが訪れるであろう」

と予言し、デモクラシーの防衛を大義名分とするアメリカの参戦に反対したのである。だが「帝国主義国家相互間の戦争激発によるソ連および共産主義勢力の防衛と拡大」を画策する親ソ政府高官の助言者達に囲まれ、スターリンとソ連の虚像とを吹聴されていたルーズベルトは、「スターリンは共産主義者などでは全くなく、ただロシアの愛国者である」と公言し、フーバーらの主張に一切耳を貸さなかった(6)。

 「我々の外交政策の第一の目的は、米国を戦争に参加させないことである。あなたがたの子供たちは、海外のいかなる戦争に送り込まれることもない。」

 これは、一九四〇年十一月、三期目の大統領選挙に臨んだルーズベルトの国民に対する選挙公約である。当時、アメリカ国民の約八十五%がアメリカの参戦に反対しており、彼等は、公然たる和平の約束と保証を信じ、拍手喝采を浴びせて、ルーズベルトを大統領に選出した。だがその後、彼が採用した外交方針は、公約を無視する、欺瞞に満ちた「戦争介入政策」であった。

 ルーズベルトは、十二月二十九日、炉辺談話でアメリカを「デモクラシーの大兵器廠」にすることを宣言、戦時国際法の中立義務を無視して、武器貸与法(一九四一年三月十一日成立)に基づき、イギリスに対する軍需物資の無償供与を開始したのである。さらにABCD対日包囲陣が完成した直後、一九四一年八月九日から十四日にかけて行われた大西洋会談では、ルーズベルトはイギリスのチャーチル首相と共に共同のメッセージをスターリンに送って対ソ軍事援助に関する米英ソの三国モスクワ会談開催(註、十月一日開催)を提議し、ソ連側は欣然としてこれを受諾したのである。ルーズベルトは、チャーチルに、

 「余は宣戦しないかもしれないが、戦争はするかもしれない。もし、議会に宣戦するようにと要請すれば、彼らはそれについて三ヶ月も議論するかもしれない」

と打ち明け、八月二十五日、アメリカ大西洋艦隊に対し「独伊の敵性軍を攻撃撃破せよ」との秘密命令を発し、九月四日、大西洋上において、アメリカ海軍駆逐艦「グーリア」がドイツ潜水艦を先制攻撃したのである。

 もしヒトラーが、アメリカの戦争挑発行為に乗ぜられないように、忍耐を重ねていなければ、アメリカは、日本の真珠湾攻撃の三ヶ月前に、公然と戦争に介入していたことは間違いない。米独日間の戦端を開いた張本人は、アドルフ・ヒトラーでもなければ東條英機でもない、フランクリン・ルーズベルトであり、日独両国は、一九四一年十二月に及んで、ハル・ノートを契機に、アメリカに対して反撃を開始したのである。

 真珠湾攻撃の直後、エール大学の地政学の泰斗ニコラス・スパイクマン教授は、「世界政治におけるアメリカの戦略=アメリカと勢力均衡」と題する著書を出版し、「ドイツと日本を抹殺することは、ヨーロッパ大陸をソ連の支配にまかすことになるだろう」と日独の完全破壊に反対し、「ウラル山脈から北海までのソ連は、北海からウラルにひろがるドイツにくらべて、大きな改善とはなりえない」と警告し、日米間の早期講和の必要性を説き、さらにアメリカが日英仏独と連携し、膨張するソ連に対する包囲同盟を結成することを提唱したのである。

 だがルーズベルトは、これをも無視し、ソ連に対して、百十億ドルの借款の他、一九四一年十一月から武器貸与法に基づき、約二万機の飛行機、四十万台のトラックを始め、膨大な軍事物資を提供しただけでなく、一九四三年九月三日、ヨーロッパ、アフリカ、南米を廻る六ヶ月の旅行を終えたフランシス・スペルマン司教に対して、

 「スターリンは、フィンランド、バルト海諸国、ポーランドの東半分、そしてベッサラビアを確かに受け取るだろう。さらに東ポーランドの住民は、ロシア人となることを欲している。

 我々は、ロシアの驚くべき経済的成果を見落とすべきではない。財政は健全である。もちろんヨーロッパの国々が、ロシアに適応するためには大がかりな変容を経なければならないのは自然の成り行きである。ヨーロッパの人々(フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウェー、ドイツ、イタリアを含む)は、十年、二十年先に、ロシア人とうまくやっていけるようになるという希望を持って、ロシアの支配をただ甘受しなければならない」

と述べ、驚くべきことにソ連にヨーロッパを提供することをすら計画していたという(7)。

 我が国の敗戦後、昭和二十二年五月二日、石原莞爾は、極東国際軍事裁判酒田臨時法廷に証人として喚問された。冒頭に裁判長から「訊問の前に何かいうことはないか」と質問された石原は、

 「ある。不思議にたえないことがある。満洲事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦州爆撃にしても、軍の満洲建国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を戦犯として連行しないのは腑に落ちない」

と堂々発言し裁判の矛盾を鋭く指摘するなど、終始、判事検事を翻弄圧倒し、傍聴者に「天才的戦略家石原莞爾未だ衰えず」という深い感銘を与えたのであった(8)。その夜、石原は、法廷での彼の態度に感激したUP記者カリシャーとAP記者ホワイトとの会見に応じた。石原は、

 「ルーズベルトは、ソ連人と手を結べば世界平和が来ると思っていたのであろう、ソ連の真意を全然理解せずに闇雲にヤルタ会談秘密協定を結んだものだから、東欧、西欧、中共、国府、南北朝鮮のような不幸な対立となり、全世界の至る所で、共産主義者との間に民族的国家的なトラブルが起きているではないか」

と彼を皮肉り、連合軍によるドイツの完全破壊は米ソの直接対決を招来するというヒトラーの予言や、関東軍の消滅した満洲がソ連の南下を阻止できない現実を指摘し、世界赤化の防波堤とすべき日独を完全破壊し、ソ連を膨張させたルーズベルトとトルーマンを目先の利かない「政治家の落第生」と批判し、日本全軍を解体し、日本人の精神までも侮辱するマッカーサーらGHQの対日占領作戦を糾弾した。

 だが同時に、石原は、支那事変を解決しないまま米英に対し開戦した日本の戦争指導を擁護せず、「日本の敗戦は神意である」と述べた(9)。石原は、最終戦争が東亜と欧米の両国家群の間に行われるであろうと予想した彼の見解は甚だしい自惚れであり、事実上明らかに誤りであったことを認めた上で、

 「大東亜戦争の敗北によって夢を破られた我等は、ここに翻然として目覚め、最終戦争に対する必勝態勢の整備は武力によるべきにあらずして、最高文化の建設にあることを悟ったのである」

と断言した。石原によれば、日本の敗戦は、狭小なる国土に圧縮された日本国に、「民族の総力を傾注して内容一変せる新国土を建設し、土地資源の侵略を必要としない国家を実現し、世界に先駆けて、戦争を必要とせざる文化を創造する」という聖業を課す「神意」であり、石原莞爾は、

 「かかる新日本の建設のみが、よく日本当面の諸問題を解決するのみならず、人類文化の最大転換期に際し、最も輝かしき貢献を為す所以である」

と述べ、都市解体、農工一体、そして「自然を征服し人類を衰亡へ導く近代の文化生活を改め、大自然に抱かれつつ最高の科学文明を駆使して自然と人為を完全に調和し、真に人類の生命を永遠ならしめる」簡素生活を三本柱とする日本再建策を著した。

 地上の距離を極度に短縮する通信交通技術の飛躍的発展を利用して都市を解体し人口を完全に田園に分散することによって、都市の弊害(資源の浪費、環境の悪化、慢性病の蔓延、道義の退廃、文化の偏在、農村の荒廃)を解消し、国民皆農(国民がみな兼業農家となる)を実現して、農工業を融合発展させ、簡素生活を実現し、大自然の中で培われる直感と剛健な肉体―人頭獅身の生活―を蘇生し、科学・政治(五感)と信仰・宗教(直感)を一致させ、人類の新時代を切り開こうというのである。

 第二次世界大戦後、多くの植民地が宗主国より独立し、ソ連崩壊後も新興独立国が続々と誕生し、世界は無数の主権国家に細分化してゆく傾向が強まっており、最終戦争による世界統一恒久平和を予言した石原の世界最終戦論の大半は既に死んだ理論である。
 しかし敗戦後に石原が提唱した日本再建策は、現代日本の抱える諸問題の処方箋となり得る、また人類次世代文明の模範となり得る、先見の明に満ち溢れた日本文明論であり、戦後半世紀以上の歳月を経ても色褪せるどころか、暗中の模索を繰り返す二十一世紀の日本の国民に救いの手を差し伸べるかのように、増々美しく慈悲深く光り輝き、我が国の進むべき路を照らし示してくれている。

 石原をして戦争の天才たらしめた彼の偉大な軍事的才能は、我が国の敗戦によって戦争から解き放たれ、神武天皇が橿原奠都に当たり勅せられた「上は則ち乾霊の国を授けたまう徳に答え、下は則ち皇孫の正を養いたまうの心を弘めむ。然して後に六合を兼ねて以て都を開き八紘を掩いて宇と為むこと亦可ならずや」という我が国肇国の理想たる八紘一宇―道義に基づく世界一家恒久平和―を実現する新文明の創造に傾注されて、敗残日本を照らす希望の燈明となったのである。

 石原莞爾は病身を押して各地で講演を重ね、敗戦に打ちひしがれ悲嘆にくれる国民を激励した後、昭和二十四年(一九四九)八月十五日、生き仏と見まがう程に高貴な彼の最期の姿を見守る多くの同志によって唱えられた「南無妙法蓮華教」の声の中で、従容として波乱に満ちた生涯を閉じた(10)。

 それから約十ヶ月後の一九五〇年六月二十五日、スターリンの支持を受け、満を持して韓国に対する侵攻を開始した北朝鮮軍の急進撃と、満洲から鴨緑江を越えて北朝鮮軍を支援する中共軍の大兵力とに直面するに及んで、ようやく連合軍最高司令官マッカーサーは、「日本永久弱体化」を図った自分自身の対日占領作戦を含めたアメリカの戦争指導全般の失敗を悟り、一九五一年五月三日の上院軍事外交委員会でラッセル委員長に対して、

 「太平洋においてアメリカが過去百年間に犯した最大の政治的あやまちは共産主義者を中国において強大にさせたことである」

と懺悔したのである(11)。
 また、アメリカ陸軍大将アルバート・ウェデマイヤーは、一九五三年に出版した回顧録の中で、もしアメリカが第二次世界大戦に参戦していなかったならば、また少なくとも独ソ両国が疲れ果てるまで参戦を見合わせていたならば、ソ連が地球の半分近くの広大な地域に君臨するような事態にはならなかったであろう、と述べ、

 「エルバ川から鴨緑江にまたがる、巨大な恐るべき共産国家は、アメリカが建国以来、経験したこともないはるかに強大で、さし迫った危険をアメリカに与えている。ソビエト帝国の出現は、主としてアメリカ自身がつくりだしたという事実は、まったく皮肉である。 まず第一に、アメリカは一九三三年にソ連を承認し、これと外交関係を樹立することによって、この無法国家の成長を促した。ソ連の約束、紳士協約、外交交渉など、どれ一つとしてこれまで約束どおり実行されたことはない。
 ソ連は一九三三年以来、約束や条約に違反し続けてきたのであった。J・エドガー・フーバーがその著書『詐欺師』で述べているように、ソ連の犯したもっとも極悪な違背事項は、アメリカ建国の父祖たちがアメリカ国民に遵守するように警告した、あらゆる思想や理想に違反する破壊的な宣伝で、ソ連に比べてより純真な、アメリカ政府内、労働組合、教育界に、その赤化勢力を浸透させてきたことである。

 次に、もしもルーズベルト大統領が戦争の主目的として、敵の無条件降伏を主張していなかったならば、アメリカは共産ロシアに無条件的な援助を与えるにはおよばなかった。我々は大戦中、スターリンがドイツと単独講和を結びはしないかとおそれていた。
 スターリンがヒトラーに対し、ソ連と単独講和をするように勧誘することは、決してできない相談だった事実を、われわれはいま、実際に承知しており、また、この事実を第二次大戦中にも知っておくべきだった」

と後悔し、アメリカの対ソ外交の失敗を認めた(12)。
 
 だが全ては余りにも遅い悔悟であった。すでに時代は米ソ冷戦へ突入し、世界各地で天文学的数字に上る多くの人々が、共産主義勢力の独裁体制によって、自由は無論、人間であれば誰もが持っているはずの最低限度生命財産を維持する権利(人権)すらも奪われ、虐殺されていったのだから…。
 現実を見失った第二次世界大戦におけるアメリカ政府の戦争指導は、「戦争への不介入主義」を望んでいたアメリカの国民世論と、「自由デモクラシーの擁護」というアメリカの国是とを裏切り、取り返しのつかない人類史上もっとも悲惨な戦争の結末を生み出してしまったのである。

(1)ジョージ・ブロンソン・レー【満洲国出現の合理性】参照。第六章「門戸開放は無稽の談」第七章「支那の門戸を閉鎖するものは米国」は、アメリカ政府の門戸開放・機会均等主義と之に基づく反日外交が荒唐無稽で支離滅裂であったことを暴露している。

 一九〇九年、アメリカ国務省は、官製の対支銀行団による独占融資を目論み、アメリカ独立を資金面から支援したハイム・サロモンの末裔「ウィリアム・サロモン」商会の対支投資計画を妨害し失敗に終わらせた。これは官の民間に対する陰湿な不当圧力である。以後、アメリカ政府の法に依らざる行政指導によって、支那市場がアメリカの独立系金融業者に対して閉鎖され、彼等の融資を受けて支那統一事業に必要不可欠な運河鉄道建設等を進めようとした支那政府の経済政策が何度も妨害され、結果的に漁夫の利を得たアメリカ以外の国の資本が支那に参入し、融資を行い担保として諸権益を獲得していった。

 一九二一年から翌年にかけて開催されたワシントン会議上、アメリカ政府が我が国を始め(支那を除く)七ヶ国に、

一、支那の主権、独立、並びに其の領土的および行政的保全を尊重すること。
二、支那が自ら有力安固なる政府を確立維持する為最完全にして最障碍なき機会を之に供与すること。
三、支那の領土を通して一切の国民の商業および工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持する為各尽力すること。
四、友好国国民の権利を減殺すべき特別の権利又は特権を求むる為支那における情勢を利用すること及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控えること。(九ヶ国条約第一条、アメリカ全権ルートの四原則)

を押し付けた裏面の狙いは、辛亥革命勃発前後から約十年に亘り、アメリカ政府自身が支那の独立主権を侵害し、支那政府の安定強化、支那の自由発展と統一とを妨げ、支那人が銀盆に載せてアメリカに捧げてきた機会をアメリカ資本から奪い、外国資本の支那に対する参入と権益確保とを促進しアメリカ経済に損害を与えた事実を隠蔽し、その失敗の責任を外国に転嫁することにあったのである。そして「高尚なる理念外交」を好むアメリカ国民を欺いて彼等の追及を回避する為に、アメリカ政府が国際舞台で公演した一世一代の大詐術によって、以後、アメリカ外交は自縄自縛状態に陥り「自由な手」を失い、アメリカの進路を日本との対決へ誘導する大きな役割を果たしてしまった。

 一例を挙げれば、一九二八年秋、日本が、満洲を視察した米国モルガン商会代表ラモントを通じて南満洲鉄道会社(満鉄)の社債三千万ドルをニューヨーク市場に発行しようとしたところ、上海在住の排日アメリカ人がアメリカ国務省宛てに「日本の社債発行による南満開発は支那の主権を侵害するものである」という偽電を発し、電報内容を支那の各新聞に曝露し、これにより煽動された支那の抗日世論の圧迫を受けた支那政府は「社債の発行は支那の主権に対する侵害でありその主権を尊重保持する厳粛なる条約、神聖なる約束に違反するものである」と日米に抗議することを余儀なくされ、アメリカの新聞社は支那の抗議を援護し、アメリカ政府は大いに困惑し、結局のところ、アメリカ国民に日本の在満権益に参入する機会を与え且つ満洲を「かすがい」とする協調関係に日米両国を導く萌芽となる、この社債発行を承認できなかったのである。
 在支の(キリスト教系もしくは共産系)排日アメリカ人と在米の反日マスコミ、そしてアメリカ政府の「平和に対する罪」は重い。
(2)大阪時事新報一九三三年二月十九日記事「アジアに干渉すな連盟、欧洲に還れ リ顧問引揚げ訓電に託した満洲国の痛烈声明」
(3) 万里の長城が示すように、支那の漢民族は満蒙を化外の地(野蛮人の住む土地)と蔑視しており、辛亥革命前、日本に留学中の康有為、梁啓超ら保皇党と孫文らの革命党が横浜で論争していた際、我が国の国民新聞が「革命党は清朝政府を倒すというが清朝政府は支那人ではないか、支那人にして自分の国の政府を倒すのはおかしい」と批判したところ、革命党の胡漢民は激怒し、数万語を費やして満洲は支那と異なり、満洲人による支那の漢民族支配が不当であることを力説したのである(【萱野長知孫文関係資料集】二〇三頁)。

 さらに一九二五年十月末、唐紹儀は、「満洲人の征服者は、支那満洲連合のおみやげとして満洲を持ってきた。漢人は清朝を倒したが、満洲は依然満洲人の正当なる相続物たるもので、宣統前帝は満洲に王権を回復することができる筈である。」とまで公言していたのである(ジョンストン【禁苑の黎明】六三四頁)。
(4)戦前、帝国主義政策の不利益を説明し小日本主義を唱えた東洋経済新報社社長の石橋湛山は、被告弁護側の為に東京裁判に提出した宣誓供述書「日本の工業化、侵略戦争の準備に非ず」の中で、一九三一~四一年にかけての諸外国の対日経済圧迫の実態を数字を挙げて説明し、「日本の産業と国民生活は根底から脅かされたが、日本の産業界は尚日米関係の好転を信じて居た」と証言した。

 アメリカの対日経済圧迫の一例を挙げれば、一九三五年日本綿布の対米輸出の増勢は、アメリカ綿業者の反発を惹起した為、日本は同年十二月に紳士協定にて輸出自制を実行した。しかしアメリカ業者はこれに満足せず、数量制限の実施を要求して止まず、アメリカ政府は一九三六年六月、平均四十二パーセントの関税引き上げを行った。一九三七年、アメリカ綿業使節団が来日し綿業協定を求め、日本はこれに応じ同年六月対米輸出綿布の数量制限を行ったが、アメリカに対して報復的防衛的方策を採り得なかった。
 なぜなら戦前の日米経済構造は今日のそれとは反対であって、レーが指摘したように、日本は生産事業に必要不可欠な生産財をアメリカから輸入していたからであり、日本の産業界が利益を上げる為には、否が応でも日米関係の好転に期待せざるを得なかったのである(小堀【東京裁判日本の弁明】四三九~四五八頁)。
(5)小堀【東京裁判日本の弁明】一〇六~一〇八頁。【パル判決書上】六八八~六九〇頁。【パル判決書下】二九九~三〇二頁。
(6)フィッシュ【日米開戦の悲劇】八十七、一一一頁。
(7)フィッシュ【日米開戦の悲劇】一六九~一七四頁。
(8)冨士【私の見た東京裁判上】三六〇~三六一頁。
(9)横山【秘録石原莞爾】四十二~五十八頁。
(10)石原莞爾平和思想研究会【石原莞爾戦後著作集、人類後史への出発】参照。
(11)小堀【東京裁判日本の弁明】五六二頁。
(12)ウェデマイヤー【第二次大戦に勝者なし上】一九一~一九二頁。


65、慟哭

 一九三八年五月二十日、ソ連のスターリンはコミンテルン執行委員会に次のメッセージを送ったという(1)。

 「大規模の直接的革命行動を再開することは、われわれが資本主義諸国家間の対立を激化させて、これを武力闘争に追い込むことに成功しないかぎり、不可能である。マルクス・エンゲルス・レーニンの教訓は、革命がこれら諸国間の全面戦争から自動的に産まれてくるものであることを教えている。我々の兄弟的諸共産党の主要な任務は、このような紛争が起こりやすいように仕向けることでなければならない」

 日米開戦直後、あたかも尾崎謀略グループの意志を代表する形において書かれた蝋山政道の「世界大戦への米国の責任」と題する論文が『改造』昭和十七年一月号に掲載された。それは、アメリカ政府の対日強硬方針が日米、米独開戦を勃発させ、第二次世界大戦後のアメリカをも苦めることになる「帝国主義国家相互間の戦争激発によるソ連および共産主義勢力の防衛と拡大」を目的とするソ連共産党の世界戦略を遂に完全発動させるに至ったことを嘲笑しているようで真に興味深い。蝋山は言う、

 「元来無自覚な国家より恐ろしいものはない。而も単に無自覚ではなくて、ひたすら自国の優越を見て相手の実状をかえりみない驕慢に陥れる無自覚においてをや。そは真に人類の歴史に於いて比類なきものである。過去八月に亘る日米外交交渉に於ける米国の態度こそは、徹頭徹尾この無自覚な世界政策に災いせられ遂に日米の国交を破局に逢着させたものであるのみならず、而も最後まで日本の屈服を夢想していた形跡あるに至っては、我々はその評すべき言葉を知らない。然し乍らその反面に於いて我が国が最後まで外交手段によって解決すべく真摯なる努力を続けるに遺憾のなかったことは、既に大東亜戦争の大転換をみたる今日に於いても特筆大書に値いするものである。

 米国は数次の交渉に於ける日本の真摯なる態度を通じて当然認識し得べかりし答の限度を悟らず驕慢にも日本の譲歩屈従を期待したのである。その結果として運命的なる愚かなる選択をしたのである」と…(2)。

 東條首相は、日米和平交渉妥結に失敗し対米英開戦を決定した後、昭和十六年十二月六日深夜から七日未明にかけて総理官邸の自室で皇居に向かい正座したまま嗚咽し果ては涙を流しながら慟哭したと家族によって伝えられている・・・(3)。

 第二次世界大戦後、アメリカ政府の反日外交を批判し、対ソ封じ込め政策を提唱したジョージ・ケナンは、膨張するソ連と対峙せざるを得なくなったアメリカの苦しみを次のように表現した(4)。

 「アジアにおける我々の過去の目標は、今日表面的にはほとんど達成されたということは皮肉な事実である。ついに日本は中国本土からも、満洲および朝鮮からもまた駆逐された。これらの地域から日本を駆逐した結果は、まさに賢明にして現実的な人びとが終始われわれに警告した通りのこととなった。
 今日我々は、ほとんど半世紀にわたって朝鮮および満洲方面で日本が直面しかつ担ってきた問題と責任とを引き継いだのある。他国がそれを引き受けていた時には、我々が大いに軽侮した重荷を、今自ら負う羽目になり苦しんでいるのは、たしかに意地悪い天の配剤である。」

 一九三二年一月七日、スチムソン・ドクトリンを発表し、満洲事変を厳しく批判したアメリカ政府は、事変を強行し満洲国を建国した石原莞爾の意図を理解するのに、約二十年の歳月を要したのである。  

(1)【防衛庁戦史叢書支那事変陸軍作戦3】一八五頁、「ジョアン・ファブリー仏陸相論文」
(2)三田村【戦争と共産主義】一九二~一九三頁。
(3)岩浪由布子【祖父東條英機一切語るなかれ】二一四頁。
(4)ジョージ・ケナン【アメリカ外交五十年】七十七頁。
 

66、レーニンと明石元二郎

 「共産主義者は、いかなる犠牲を辞さない覚悟がなければならない。あらゆる種類の詐術、手練手管及び策略を用いて非合法的方法を活用し、真実をごまかし且つ隠蔽しても差し支えない。

 共産党の戦略戦術は、できるだけ屈伸自在でなければならない。党は武装蜂起から最も反動的な労働組合及び議会への浸透にいたるまであらゆる闘争方法の利用を学ばねばならない。

 共産主義者は、大胆に恐れなく攻撃する一方、整然と退却すること、『悪魔とその祖母』とさえ妥協することをよくしなければならない。

 党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって不意に急速に闘争形態を変えることができなければならない。

 共産主義者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関を至る所に作らねばならない。我々は即時二重の性格をもつ措置を講ずる必要がある。党は合法的活動と非合法的活動を結びつけねばならない。」

 「ロシアの労働者階級ならびに勤労大衆の見地から言えば、ツアー君主制の敗北が望ましいことは一点の疑いも容れない。

 われわれ革命的マルクス主義者にとってはどちらが勝とうが大した違いはないのだ。いたる所で帝国主義戦争を内乱に転化するよう努力することが、われわれの仕事なのだ。 

 戦争は資本主義の不可避的な一部である。それは資本主義の正当な形態である。良心的な反戦論者のストライキや同じ種類の戦争反対は、あわれむべき、卑怯な、下らぬ夢にすぎない。闘争なくして武装したブルジョアを倒せると信ずるのは馬鹿の骨頂だ。『いかなる犠牲を払っても平和を』という感傷的な、偽善的なスローガンを倒せ。 
 戦争は資本主義のもとでも廃止できるという僧侶的な、小ブルジョア的な平和主義論ほど有害なものはない。資本主義のもとでは戦争は不可避である。資本主義が転覆され社会主義が世界で勝利を得た場合にのみ戦争の廃止が可能となる。」

 「全世界における社会主義の終局的勝利に至るまでの間、長期間にわたって我々の基本的原則となるべき規則がある。その規則とは、資本主義国家間の矛盾対立を利用して、これらの諸国を互いに噛み合わすことである。我々が全世界を征服せず、かつ資本主義諸国よりも劣勢である間は、帝国主義国家間の矛盾対立を巧妙に利用するという規則を厳守しなければならぬ。現在我々は敵国に包囲されている。もし敵国を打倒することができないとすれば、敵国が相互に噛み合うよう自分の力を巧妙に配置しなければならない。そして我々が資本主義諸国を打倒し得る程強固となり次第、直ちにその襟首をつかまねばならない。」

 以上は、一九一九年三月、世界各国の無産階級運動や多数の労働者農民を糾合し、革命手段により資本主義社会機構を打倒し世界共産主義革命を実現する為の参謀本部として、コミンテルンを創設したレーニンが唱えた革命的道徳体系である(1)。

 レーニンおよび彼によって建国されたソ連が、病的なほど諜報謀略戦に力を注いだ原因は、明石工作の衝撃であろう。
 日露戦争において、明石元二郎陸軍大佐はスウェーデンのストックホルムに拠点を置き、レーニンを始めロシア内部の革命勢力、ロシア帝国からの独立を目指していたポーランドやフィンランドの民族勢力、ロシア政府に迫害されていたユダヤ人等に接触、巨大な諜報謀略網を組織することに成功した。明石大佐は、我が国に貴重な軍事情報を通報しただけでなく、英独政府と緊密に提携しヨーロッパ世論を親日に転換させ、ロシア各地において、革命勢力の武装蜂起、黒海反乱の促進、バルト沿岸諸州の独立を煽動し、当時世界最大最強のロシア陸軍約十個軍団をロシア本国に拘束するなど大活躍しレーニンを感嘆させ、東洋の一小国に過ぎなかった我が国がロシア帝国に勝利することによって有色人種が白人に劣っていないことを証明し、完成間近に迫っていた白人による世界支配を阻止するという世界史に刻まれた奇蹟の原動力となった。

 レーニンが日露戦争の戦訓としてコミンテルンを創設し世界各国にその支部を張り巡らせ、レーニンの後継者であるスターリンがロシア帝国を打ち負かした日本を激しく憎悪怨恨し―その発露が日本の歴史を全否定するコミンテルン三十二年テーゼ(日本における情勢と日本共産党の任務についてのテーゼ)である(2)―尾崎やゾルゲを操り、日本を敗北へ導いたとすれば、

 「明石元二郎よく国を守り、また国を滅ぼす。これが日露戦争からポツダム宣言まで四十年間の日本史であった」

と言えるかもしれない。
 また共産主義運動は、武装蜂起による権力奪取を主要な革命戦術としている為、熱心に軍事学を研究しており、我が国でも昭和初年、多数の軍事書がマルクス主義者によって左翼系出版社から刊行されたという(3)。
 レーニンの革命的道徳体系は、孫子の兵法「始形篇、兵は詭道なり」「九地篇、始めは処女の如くのちには脱兎の如し」「謀攻篇、上兵は謀を伐ち、その次は交を伐ち、次いで兵を伐つ」「用間篇」そのものである。従って第二次世界大戦におけるソ連の勝利は、孫子の勝利と言えよう。

(1)三田村【戦争と共産主義】四十三~四十四頁。
(2) コミンテルン三十二年テーゼは、日本を「半封建的封建的絶対主義的前資本主義的独占資本主義的軍事的強盗的帝国主義」と規定し、日本は帝国主義的強盗戦争を行っている、と断罪したのである。国際法上の侵略の定義は未確立であるにもかかわらず、我が国の革新勢力は、今尚この三十二年テーゼを盲信するが故に、ひたすら祖国の歴史に罵詈雑言を浴びせ、日本の戦争を帝国主義的侵略戦争と断罪する(彼等は時々「強盗」という用語をそのまま使う)のである(谷沢永一【悪魔の思想】参照)。
(3)長谷川慶太郎【情報戦の敗北】一五〇頁。



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国民のための大東亜戦争正統抄史57~59石原莞爾と尾崎秀実

【石原莞爾と尾崎秀実】


57、不拡大早期和平論の敗北

 昭和十二年(一九三七)七月八日、廬溝橋における日中両軍衝突の報告を受けた陸軍参謀本部作戦部長の石原莞爾少将は次の理由を挙げて、支那と交戦状態に入る危険な軍事行動に猛反対した(1)。

 「日本は、今後支那と相携えてソ連に備えるという正しい認識の下に、昨年十一月の北京会談で国民政府の意向を知った。直接話し合えば即時和平解決ができる。

 もし戦争状態に入れば、長期戦となり、短期間に蒋政権が崩壊するなどという判断は誤りである。満洲事変後、蒋政府は抗日スローガンの下に鋭意新政権運動に力を用い、その兵備はドイツのゼークト参謀総長以下五十名の将校を軍事顧問として招き、ドイツ式戦力の向上に努力している。

 支那は土地広大、かつ交通状態は近代装備をもってする行動には適せず、また各地方が自給自足可能であり、持久戦に有利である。特に警戒を要するのは、ソ連の極東兵備の充実である。支那人の抗日戦意は日ソ兵備の主客転倒が最大原因である。

 それ故に今日こそ日満産業五ヶ年計画を遂行し、国防力の充実を図り、ソ満国境にソ連を圧倒するだけの兵力を集中し得るようになれば、漢民族は必ず日本を信頼してくる。それまでは隠忍自重して支那とは即時和平し、来るべき欧米特にソ連との戦争に備えるべきである。

 支那がもしも徹底抗戦を続ければ、戦線は支那全土に拡大して、全面戦争になること必至である。」

 だが廊坊事件(二十五日)に続いて広安門(二十六日)事件が勃発した。北平(北京)の邦人居留民を保護する為に北平城内の日本兵営に向かった日本軍が中国軍の同意を得て北平外城広安門を通過し始めたところ、中国軍が突如として城門を閉鎖し、日本軍部隊を城門の内と外に分断し、日本軍に手榴弾と機関銃の猛射による不意打ち攻撃を加えてきたのである。

 広安門事件勃発の報を聞くや、病欠の参謀次長(今井清中将)を代行する石原作戦部長は「もう内地師団を動員する外ない、遷延は一切の破滅だ」という悲痛な叫び声を上げ、

 「万一北支在留邦人二十万の保護に欠くるところあり、シベリア出兵当時の尼港の惨劇をくりかえしては、軍の面目に関する重大問題である。三個師団の動員、これが最大限だ。これで一応喰い止め、南京政府と早期和平を期すべきである」

と述べて不拡大方針の撤回と北支への援軍派遣を決定し、二十八日、支那駐屯軍司令官の香月清司中将が中華民国第二十九軍に開戦を通告、我が軍は北平を占領したものの、北平を追われた第二十九軍長の宋哲元から蜂起指令を受けた冀東自治政府保安隊が、翌日、通州に居留する邦人三百八十五人のうち幼児を含む二百二十三名を惨殺したのである(通州事件)。
 筆舌に尽くし難い余りに猟奇的な支那人の虐殺行為が我が国の世論を激昂させる渦中にあって、石原作戦部長は、無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に、

 「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」

と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶されてしまった(2)。九月末、石原莞爾少将は「今のままでは日本は四つの島だけになるだろう」という予言を残し、杉山元陸相によって関東軍参謀副長に左遷された。だが石原は早期和平と日支提携をあきらめず、昭和十三年六月、戦争計画要綱(戦争指導方針)を作成し、以下のように主張した(3)。

 「北支の軍権我に帰し進んで漢口を攻略し得たりとするも、蒋政権の覆滅は尚望み難く又、仮りに蒋政権倒壊するも全土抗日気運は断じて解消することなかるべく、辺彊尺寸の国土存する限り国民党を中心に長期に亘り我に抵抗すべきは疑を容れざる処たるべし。蓋し斯る場合に於ける漢民族の抵抗の意外に強靱なるは歴史の教うる処なり。

 従って武力の絶対を盲信し即戦即決主義に依て之を屈せしめんとするは四億の民と近代的装備を持つ支那を土民国エチオピアと同視せんとするの誤謬を犯すものたり。対支戦に於ては戦局は必ずや長期化し単に武力のみならず政治経済の綜合的持久戦となるべし。

 而して彼を徹底的に屈服せしめんとせば数十ヶ師団の兵力を数十ヶ年に亘って異境に須うるの難事を遂行し得るの自信なかるべからず。若しこの覚悟なくんば仮令一時の戦勝を得たりとするも彼は十年ならずして国力を恢復し再び事を構うるに至るべきは大戦後の独乙の先例にみるも明かなるべし。

 今日政論家徒に積極的作戦を強調し武力の優越を過信するものは支那事変が持久戦の覚悟を要請するの根本義を解せざるものと云うべく為政者兵を絶域に須いて局地の捷報に国民を悦しめんとするものはその政治的弱体の曝露を覆わんとして無名の師に国力を蕩尽せんとするものと云わざるべからず。斯の如きは独り国家百年の計を過るのみならず東洋の二大民族を駆って永遠の憎悪抗争に陥らしめ平和の招来を絶望ならしむるのみ。真に日支の提携を齎らさんとせば卅年来の対支国策に於てビスマルク的転回を敢行し恩威並び行って相侶に協力すべきなり。

 ソ連の向背は未だ遽に逆賭し難しと雖もその参戦信ずべしとせば須らく速に支那と和を講じて之に当たらざるべからず。幸に両三年彼起たずと推せば今日過剰の兵器弾薬を生産して之に備えるを姑く己め国防産業生産力自体の拡充に全力を傾注すべし。一方に対支戦局を拡大しつつ他方又対支戦備に貧弱なる生産力の過半を奪われるる如きは前後の狼虎に餌を与えて庫中空しきに到るもの、斯の如くんば国防産業の確立も十全の軍力整備も到底之を期待し得ざるものと云わざるべからざるなり。」

 石原の戦争指導方針は、支那事変の本質と、日本がこれを解決し対支和平を実現するための「処方箋」を説き明かす卓見であったが、同じ頃、尾崎秀実は、中央公論昭和十三年六月号「長期戦下の諸問題」において次のように主張していた(4)。

 「同じく東洋民族の立場から、又人道的立場から支那との提携が絶対に必要だとする主張は正しいかもれない。しかしながら現在の瞬間に於てこれを考え、これを説くことは意味をなさないのである。敵対勢力として立ち向うものの存在する限り、これを完全に打倒し了せて後、始めてかかる方式を考うべきであろう。ことは深刻な民族戦争の問題なのである。虫のいい考えは捨て去って日本の踏みこんだ大陸政策の道が頗る困難なものであることを充分認識すべきである。敵対勢力を圧伏することによって「民族感情」の問題がはたして解決するものであるかどうか、それは容易に云い難いことである。しかしともかくもあまい考えや、虫のいい考えが許さるべき余地の無いのは疑うべくもないのである。

 今後日本の進むべき道は結局勝つためにまっしぐらに進む以外はないであろう。戦に勝つ上に於いて日本が絶対に自信を持つところは、その軍事行動をすすめるということだけである。軍事行動そのものの遂行が幾多重大なる国民的負担の犠牲を要するとか、軍事行動の遂行には相当の時間を要するとか、軍事行動によってもたらされる成功には限度があるとか、種々の条件がともなうことは確かであるが、ともかくも、軍事的成果がかなりの政治的効果を生むべきことは確かであり、かつこの軍事的力量だけは絶対に支那に優越するという意味に於て結局この軍事的行動が極限まで推し進められ、これの結果が政治的効果に変ることに期待がかけられることとなるのであろう。

 中支政権の経済的地盤を培養するために山東を列ねて陸続きに北支と結ぶことが考えられているが、上海の経済的基礎が長江の水運にある点から見ても漢口への進軍が次の段取りとして具体的考慮の対象となることも考えられるのである。漢口を失うことはまた軍事的にも政治的にも支那にとって大打撃でなければなるまい。

 日本は支那側の出方に応ずべく自らまた長期抗戦の姿勢をとらざるを得ないことはまさに当然であるが、それと同時にあくまで力を集中して急速に敵対勢力を粉砕するの必要があるのである。」

 石原の戦争指導方針は、日支提携の可否、政治と武力の関係、漢口攻略の効果等に亘り、まるで石原の主張に逐一反論を加えこれを完全否定するが如き対支強硬論を唱えて大衆を煽動する尾崎を最高政治幕僚としていた近衛内閣には届かず、十二月、石原莞爾は失意のまま舞鶴要塞司令官という閑職に左遷されてしまった。

 国民が論理もしくは合理より周囲の「空気」を重んじる我が国においては、一般大衆を煽動し世論を醸成する支那問題の権威の「支那撃滅論」が、陸軍首脳に提出された関東軍参謀副長の「日支提携論」を打ち破り、結果的に国策の決定に圧倒的な影響力を及ぼしたのである。

(1)横山【秘録石原莞爾】二八七~二八八頁。
(2)【石原莞爾資料国防論策編】四四一頁。横山【秘録石原莞爾】二九三頁。
(3)【石原莞爾資料国防論策編】二二四頁。
(4)【尾崎秀実著作集2】一〇三~一一〇頁、中央公論昭和十三年六月号「長期戦下の諸問題」


58、名将の運命

 同年末、第二、三次近衛声明(東亜新秩序声明)が発表され、汪兆銘工作が具体化した後、尾崎が東亜新秩序の意義、東亜協同体論、聖戦を強調する論文を次々と発表し、支那事変の拡大長期化を正当化し煽動し続けた。
 舞鶴時代の石原莞爾の資料や日記では、昭和十四年二月、石原は、軍の政治関与に関する意見として、

 「軍は国家の触角なり。満洲事変以後に於ても国家が依然自由主義の夢より醒めざるに当たり敢然警鐘を乱打して広義国防を提唱せり。

 広義国防は天皇親裁の下に国家全体を挙げてその完璧を期すべきものにして、軍自らその全面的指導にあたるべきにあらざること勿論なるも、満洲事変以来自由主義政党が政治指導体たる機能を失い而もその後継者を欠きし為、軍は止むなく所謂政治の推進力となり国防国家体制の整備に力を用いつつあり」

と述べている。石原は、二・二六事件以後も日本が依然として自由主義政治によって支配され、驚異的な速度で進行するソ連の軍備拡張の脅威に直面しても、なお積極的建設計画を樹立する熱意を欠いた為、彼が設立した日満財政経済研究会および宮崎正義が諸国策を立案し軍を通して間接的に国策の方向を指導したことに一定の評価を下しつつも、かかる軍の政治参与の継続は、軍人間の政見の相違を生み軍の統一を破壊し、「野心家により軍内部を攪乱せらるる危険大なり」と指摘し、軍は国防上の要求を国家に明示し国策の確立に伴い機を失することなく政治の参与より退却する必要がある、と主張していたのである(1)。
 そして石原は、昭和十三年末の東亜新秩序声明により、欧米の圧迫を排し、国体の本義に基づく公正なる「東亜大同」の実現すなわち、

一、国防の共同
二、経済の一体化
三、政治の独立

を結成の基礎条件、「王道」を結成の指導原理とし、日本、満洲国、支那の三国を中核、その他の東亜地域を経済的相互依存関係の靱帯により日満支と結合した外郭として構成される「東亜連盟」の結成が国家の大方針として確定された、と断言し、この際、軍が広義国防唱導に付き任務を終了し、機を失することなく政治の参与を撤回し、大作戦における必勝の準備を完成させるという軍本来の任務に集中しなければ、軍の統一が破壊される危険が刻々増大する、と警告を発した。次いで石原は、陸軍内部に浸透しつつあった尾崎秀実ら共産主義者が盛んに提唱していた「東亜協同体論」を問題視したのである(1)。

石原日記

六月二十九日(昭和十四年) 

 輿論指導要領中「東亜協同体論につき」なる馬鹿気た一項あり。

七月六日

 町尻より返信更に手紙をかく。「東亜協同体論」問題なり。 

 昭和十四年八月三十日、板垣陸相の輔弼により京都第十六師団長に親補された石原莞爾中将は、隷下団隊長を集めて、「昭和維新の必然性を確認し、軍はその本然の任務に邁進することにより維新の先駆たるべし」と訓示し、師団に「新戦術を正確に把握し訓練方法を革新して速に最新鋭の軍隊たるべきこと」を厳命した。張鼓峰ノモンハン両事件の戦訓を検討し、さらに日露戦争の沙河会戦の戦訓を採用した石原は、火力において日本軍よりはるかに優勢なソ連軍に対抗する為の新戦術の要領は分散して行動し適時所望の地点に分散せる戦力を統合的に発揮するにあり、と判断して正式の歩兵操典に基づく戦闘訓練を中止し、兵にソ連軍の中隊長に匹敵する能力を習得させ、「戦闘間敵火の下に於ける躍進に於いては絶えず少数(各個人)が徹底的に偽装し巧みに地形を利用して水の如く流れ作業の如く前進し敵に好機を与えることなく敵陣地に接近潜入する」というソ連軍に対する滲透戦術の練成および諸兵器の改善に着手した。歩兵学校は教育総監部を通じて第十六師団に「独断に過ぎる」と抗議したが、石原は「戦術は千変万化である」と全く意に介せず、斯くして師団演習場では、将兵が姿と声とを消し去り粛然として戦野に溶け込む無音無形の異様な訓練風景が出現したのであった。

 「国家に身命を捧げる兵は神である」という信念に基づき下士官兵を心より愛し、形式主義にとらわれない石原師団長の創造性豊かな統率に触発され、新戦術の猛訓練に励む第十六師団は翌年早々に、満洲北部チチハル付近への移駐を内命された。宿縁の地満洲へ三度復帰し宿敵ソ連と対決し武人の本懐を遂げる機会を与えられた石原は感激して大いに奮い立ち、四月二十四日、師団司令部にて部下に向かい、満洲国建国の意義を力説し、現地に適した新しい戦術および生活様式の創造、子弟教育の為の学校の開設、スポーツ音楽映画芝居ラジオ放送の振興、栄養食糧の自給自足の為の開墾園芸牧畜狩猟事業の実施など万般に亘る壮大な建設計画を提示し、師団全将兵とその家族とが一体となって、東亜連盟の国防第一線たる重責を全うすると共に、建国の理想たる民族協和を実践して満洲全域に活模範を与える決意の下に計画を完遂するように、第十六師団将兵の身命に沁みる清冽な闘志を全身にみなぎらせて訓示したのであった(2)。

 およそ名将と呼ばれる古今東西の武人は、才気に溢れ、自分の見識直感哲学を根拠とする自身の判断に確固不動の自信を持つ為に、彼等の目から見れば愚鈍極まりない上司の意向や既存の法律規則秩序等を傲然と無視し、自己の信念や構想を実行に移すのである。故に名将は必ず組織の破壊者となり、上司から嫌悪され、悲劇的な末路をたどることが多い。同期の横山臣平から才幹抜群、卓見奇偉、気節豪邁、機略縦横という言葉があてはまる不世出の名将と評された石原莞爾は、「悲劇」を演ずる条件を充分すぎるほど具備した武人であった…。

 石原は率先して軍本然の任務に邁進集中しようと努力したものの、彼は一流の兵学者であると同時に、膨大な読書に裏付けられた幅広い見識、政治的難題を解決する具体的方策を生み出す優れた政治家の資質、大衆を惹きつける宗教家の魅力を有していた為に、師団長でありながら各界の支持者や大学から求められて東亜連盟運動普及の講演活動を継続し、結果として、石原とは政見を異にし東亜連盟構想を懐疑する東條英機と武藤章の一派と激しく対立し、石原自身が軍の統一を破壊してしまったのである。のみならず石原は、自己の保身など全く眼中に無きが故に国際情勢に対する曇り無き鋭敏な観察眼を備えており、我が国の軍事戦略と外交政略に対する苦言や、上官に対する直言と批判を繰り返し、支那事変を解決できぬまま三国同盟を締結し欧米を敵に回し始めた我が国の行く末を非常に憂慮し、昭和十五年十一月、陸軍中央を訪れ、東條陸相の率いる陸軍統制派の戦争指導を次のように激しく糾弾した(3)。

 「東條軍閥は石油がほしいので、南方諸島を取ろうとしている。石油のないことは始めからわかりきったことだ。何がない、かにがない。だから他国の領土に手をつける、これは泥棒ではないか。石油がなくて戦争ができないなら、支那事変は即時やめるがよろしい。ヤツらのやることは皆これだ。

 北支に手を出したヤツらは北支は豊庫だと考えていた。北支などは月経の干からびたお婆さんと同様だ。何があるものか。それ南支、それどこだ、とやたらに手をつける。そして国民に向っては、今次事変は『聖戦』だといっている。これを他民族は何と思うか。聖戦とは泥棒の戦いとしか思わない。またしきりに『皇道宣布』と声を大にして叫んでいる。これでは皇道とは侵略主義と誤解されるではないか。

 支那事変が始まって以来、日本のやっていることは大家の亡びる時とそっくりである。大家の亡びる時は、あれに手を出して失敗し、これにも手をつけて損をし、といったように自信も信念もなく、やたらに手ばかり広げ、ついに倒産してしまう。

 ヤツらは今南方に手を出そうとしているが、日本海軍には日本本土防衛計画はあるが、南方地域防衛の作戦計画はない、南だ、北だ、支那海だといって諸方面の防衛に当れば、本土はガラ空きだ。オレの言う事を聞かぬと、今に船がなくなるぞ。そして日本の都市は丸焼けになるぞ。必ず負けるぞ。」

 しかしながら、たとえ日蓮信者の石原が国難を予告するとき日蓮聖人を彷彿とさせ、石原の警告が「偉大なる予言者」という彼の称号にふさわしい神通の洞察であったとしても、石原は自己の信念を貫いて政府と陸軍中央の不拡大方針を無視し満洲の広野に戦闘を拡大した張本人である。その石原が東亜連盟とは異なる内容の東亜新秩序を構想し国防国家の建設という目標に向かって支那事変を拡大する統制派革新幕僚に対して戦争の不拡大を提唱したことは、やはり撞着を拭えず説得力を持ち得なかった。彼等を折伏できなかった石原は、遂に昭和十六年三月一日、陸軍内の統制秩序の回復を標榜する東條陸相によって予備役に編入されてしまった。

 そして石原自ら関東軍参謀部第四課と日系官僚と戦い、彼等に政治の実権を掌握された満洲国に(4)建国の精神と理想とを甦らせなければならないという石原の使命感が立案した第十六師団北満移駐建設計画もまた水泡に帰してしまい、石原莞爾は、張学良軍閥の打倒に協力してくれた在満三千万民衆と石原が交わした堅い約束―彼等民衆の政治能力を信頼し日中提携の見本となる民族協和王道楽土を理想とする新たな独立国家を建設すること―を果たせずに終わったのである…。

(1)【石原莞爾資料国防論策編】二七六~二七七、二八四頁。
(2)【石原莞爾資料国防論策編】四〇四~四二三頁「昭和十五年四月二十四日師団長訓示」
(3)横山【秘録石原莞爾】三五六~三五八頁。
(4)満洲国総理の張景恵は、日本人の内面指導に愚痴をこぼす満洲国役人に「日本人ほど便利な民族はいないではないか。権威さえ与えておけば、安月給で夜中までよく働く」と諫めたという。老獪不敵と形容された張総理は、日本のかいらいを装いながら、実は、巧みに日本人を操り牛馬の如く働かせ、満洲国を発展させていたのである(深田【黎明の世紀】七十四頁)。


59、対決

 石原莞爾は、対ソ戦備の拡充を主張し、日支提携と東亜連盟を唱え、支那事変聖戦論、東亜協同体論、資源獲得を目的とする南進戦略を非難した。尾崎秀実は、ソ連防衛を主任務として遂行し、支那事変の解決を妨害し我が国を南進させ、東亜協同体論者として、

 「東亜連盟論者宮崎正義氏の主張の特徴の一つは連盟の政治組織、並びに経済機構、特に後者について詳細なる案を示していることである。しかしながらこれらの諸計画は、いずれも現在における事情を基礎としてこれの発展拡充を目指したものであって、連盟構成の過程において構造的変化を齎す如き方法は準備されていないのである」

との批判を東亜連盟論に加え、「東亜協同体の理念は最もその理想主義的方面において特徴的であり、東亜新秩序の言葉の提示者である近衛公の胸中における考え方に最も近いものではなかったかと思われるのである」と述べ、近衛文麿の胸中には尾崎と同じ構想が潜んでいることを仄めかしたのである(1)。さらに尾崎は石原の東亜連盟構想に対して、

 「東亜連盟論を東亜協同体論に比較する時は、いちじるしくその匂い、感触において異なるものあるを感ぜしめる。東亜連盟論もまた直接には日支事変を契機として展開されたものではあるが、この場合は後者がこの大異変によって新たに生まれたのに対して、始めから用意されていた大陸政策の一プランが発動したという感じである。

 いずれの主張も今日未だ東亜の新秩序の内容として公認されたものでないことは明らかであって、これらの主張は東亜に生起しつつある現実状態の急テンポなる変化にともなって推移するであろう。いずれの主張が最も正しきかは東亜全局における今後の事態が最後の審判者となるであろう」

という挑戦的な見解を示し(1)、獄中では、

 「最後の頃には東亜連盟論者とも接近しました。但しこれはその未熟な理論主張に期待したのではなく、石原莞爾将軍の『世界最終戦争論』の主張に興味を感じたからでありました。即ちアメリカと日本は世界的決戦を行い日本は勝利すべきであるが、それは二、三十年先のことで、それ迄に遂行すべき手順がある。現在はたとえ踏まれても蹴られても戦争をしてはならぬ、という堅い信念でありました。私は秘かにこれに敬意を表したのでありました」(獄中手記)

と嘯いたのである(2)。
 石原莞爾が日蓮聖人の予言「前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし」とヨーロッパ戦史研究から構想し、昭和十五年三月立命館の講演において発表し世人を驚かせた「世界最終戦論」を要約して説明すれば、まず戦争の性質は二つの傾向に分かれるという。

 武力が絶対的価値を持ち敵国を迅速に屈伏させることができる場合、戦争は通常短期戦争となる。これが決戦戦争である。

 武力が様々な要因により絶対的価値を失い敵国を迅速に屈伏させることができない場合、戦争は通常長期戦争となり、長期戦を遂行する為の経済や、戦争目的を限定し戦争を終了させる為の外交、敵国の継戦能力意思を低減させる謀略といった武力以外の戦争遂行手段の価値を相対的に高める。これが持久戦争である。

 戦争の性質を持久戦争とする要因は次の三つである。

一、軍隊価値の低下

 文芸復興以来の傭兵は全く職業軍人である。生命を的とする職業は少々無理があるために、如何に訓練した軍隊でも、徹底的にその武力を運用することは困難であった。これがフランス革命まで持久戦争となっていた根本原因である。フランス革命の軍事的意義は職業軍人から国民的軍隊に帰ったことである。近代人はその愛国の至誠によってのみ、真に生命を犠牲に供し得るのである。

二、防御威力の強大

 戦争に於ける強者は常に敵を攻撃して行き、敵に決戦戦争を強制しようとするのである。ところが、そのときの戦争手段が甚だしく防御に有利な場合には、敵の防御陣地を突破することができないので、攻者の武力が敵の中枢部に達し得ず、やむなく持久戦争となる。

三、国土の広大

 攻者の威力が敵の防御線を突破し得るほど十分であっても、攻者国軍の行動半径が敵国の心臓部に及ばないときは、敵国の抗戦が継続され、自然に持久戦争となる。

 四年に亘る持久戦争となった第一次欧州大戦の後、五十年内外に、科学技術の飛躍的な大進歩なかでも原子核エネルギーによる産業大革命が起き、敵国の主要都市を一夜にして廃墟にする破壊兵器とこれを運搬する無着陸地球周回航空機が開発され、あらゆる防御手段を無力化し、戦争の性質を政治が武力に優越する持久戦争から武力が政治に優越する決戦戦争へ変貌させる。

 一方、政治史の大勢を予想すれば、国家連合の時代はヨーロッパ、ソ連、アメリカ州、東アジアの四集団から、英独仏各国の内紛によるヨーロッパの崩壊とスターリンの死によるソ連の崩壊を経て、アメリカの大統領を指導者とし西洋覇道(抑圧政治)文明を代表するアメリカ州と、日本の天皇を盟主とし東洋王道(道治政治)文明を代表する東アジア(東亜連盟)の対決に収斂される。そして両者の間で前述の決戦兵器を使用する決戦戦争が行われた後、世界は統一され、これが人類の経験する最後の戦争となる。

 なぜなら世界の一地方を根拠とする武力が、全世界の至るところに対し迅速にその威力を発揮し、抵抗するものを屈伏し得るようになれば、世界は自然に統一することになるからである。   
 斯くして国家的対立と共に戦争は消滅し、瞬間に敵国の中心地を潰滅させる大威力による戦争の極端なる惨害に直面した人類は、心から国家の対立と戦争の愚とを悟り、人類の闘争心は戦争を必要としない新文明の創造へ向かい、世界の政治的思想的統一と産業大革命が人類にもたらす物資の充足とによって、戦争に明け暮れた人類の前史が終焉し、世界恒久平和が実現するというのである(3)。

 五百旗頭真教授は、石原の最終戦争論に「戦争術の極度の発展が戦争を不可能とするという根本認識は、きわめて正確な洞察であり、近代史におけるもっとも独創的にして刺激的な史論の一つであることは疑い得ないのである」との評価を与えているが(3)、これは国際法史に対する無知から生じた誤解である。石原の根本認識は独創的とは言い難い。なぜなら第二次世界大戦の前、これに酷似する国際法思想が流行していたからである。世界最終戦論の核心部分は、航空機の出現と実戦参加を目撃した複数の国際法学者によって、一九一一年の前後から盛んに提唱されていた楽観的な空戦平和主義思想と同一である(4)。

 「空戦の結果の恐るべきを見て、遂に諸国家はかかる結果を避けんが為に、戦争自身を廃止せんとするに至るであろう。戦争を廃止する最良の方法は、結局戦争をして益々恐るべきものとすることに在るのではないか。」(ポール・フォーシーユ)

 「飛行機が我々にもたらすものは平和の将来である。その及ぼす惨害の大なるには何人も辟易して、これに敢えて刃向かおうとする程の人間離れをした無謀な国家はなくなるであろう。」(シャルル・リシエ)

 我が国においても同様の意見が当時の学者によって提唱された。末広重雄博士が京都法学会雑誌に掲載した「飛空機関と将来の戦争」と題する論説は、明治四十四年(一九一一)年すなわちイタリア・トルコ戦争開始の数ヶ月前に書かれたものであるが、その爆撃に関する法理論は、この時代のものとしては極めて進歩的であり、軍事目標主義、予告不要主義を採る点において、第一次世界大戦後の空戦法学説とその趣旨を等しくする。しかしこの論説の最後も、上記に紹介した学者と同一傾向の楽観説によって結ばれているのである。

 「空中戦闘力すなわち飛行機関の使用により、戦争は益々破壊的となり非人道的となるべし。然れども其の甚だしきに伴いて国家間の紛議を最後の手段に訴うることを慎むこと一層切なるべく、たとえ一旦やむを得ず干戈に訴うるも、戦争の災害の及ぶ所大なるだけ戦敗国人心の動揺甚だしく、戦争は将来益々短期となり比較的少なき費用と人命とを失うて平和を回復することを得べく、戦争の非人道的となるは反って人道的となる所以なり。軍事上飛行機関の使用は結局人類社会の為に喜ぶべし。」(末広重雄)

 これらの学者の希望的観測は、第一次欧州大戦の経験によって破られたにもかかわらず、大戦後においても、航空機の発達によって人類にもたらされるであろう将来戦の惨禍が、世人によって正しく認識されるならば、戦争は廃止され得ると信じる人は跡を絶たたなかったのである(4)。

 だが石原莞爾は、東亜諸民族の全能力を綜合運用して対米最終戦争に必勝の態勢を整える「昭和維新」の断行を力説しながらも、一九四一年時点での日米開戦には猛反対した。なぜなら我が国は開戦劈頭に西太平洋の制海権を掌握すれば、アメリカ本土からの補給を喪失したフィリピンを容易に占領し得るが、広大なアメリカ本土の東海岸にあるアメリカの政治経済の心臓部を攻撃破壊することはできず、必然的に持久戦に陥り国力の消耗を余儀なくされる。そしてアメリカ本土の巨大な人的物的資源および経済力の支援を受けるアメリカ軍が、日本の国力の消耗に伴い弱体化する日本軍に反撃し日本本土周辺の島嶼群を占領すれば、日本の本土は狭い為に、日本の政治経済の心臓部はアメリカ軍の作戦半径から逃れられず、空襲を受けて徹底的に破壊され、日本は継戦能力を喪失しアメリカに屈服せざるを得ない。
 
 つまり空軍の大発達とくに決戦兵器が実現し、日本軍が容易にワシントンやニューヨークを空襲し得る兵器を保有しない限り、日米戦において、アメリカは自国の滅亡を危惧することなく日本に決戦戦争を強制し得るが、逆に日本は重要資源と戦略縦深を欠く経済小国でありながら国家の存亡を賭け国家の総力を挙げて持久戦争を戦わねばならず、我が国は自国の地理条件によって極めて困難な戦争指導の遂行を宿命づけられていたからである。

 石原の「今に船がなくなるぞ、日本の都市は丸焼けになるぞ、必ず負けるぞ」という予言と「現在はたとえ踏まれても蹴られても戦争をしてはならぬ」という固い信念は、世界最終戦論から導き出された合理的な結論であり、石原莞爾は理想主義者であると同時に日米間に厳然として存在する国防地理条件の非対称性を直視する現実主義者だったのである。

 石原と尾崎は、まさに不倶戴天の仇敵関係にあり、満洲事変以降の我が国の戦争は、日本史上屈指の世界構想、哲学、洞察力を備えていた両天才の対決であったといっても過言ではない。そしてこれを象徴するように、歴史の神は、日米開戦から遡ること二ヶ月前の一夜、この二人を直接対決の舞台へと導いたのであった。

 尾崎秀実に情報を提供した朝日新聞社政治経済部長の田中慎次郎が、昭和十六年十月八日、赤煉瓦の三菱丸の内何号館かにあった後藤隆之助事務所で夕方六時に開かれた「石原莞爾中将の話をきく会」に、後藤から案内があって出席すると、偶然に尾崎も居合わせたのであった。出席者は十四、五名であった。

 出席者一同は、日米関係の破局を避け、米国の仲介によって、行き詰まった支那事変を終結し、太平洋に平和をもたらすことを狙いとする日米交渉が実を結ぶとは誰も確信しておらず、しかも日本は交渉を長期化させることはできず、日本の石油保有量が戦争遂行を不可能とする期限までに交渉がまとまらねば、対米開戦を免れ難いことを推知していた。会合が重苦しい空気に支配される中、この事態を憂慮し、陸軍首脳にドイツの実力を過信する危険性を訴えて対米英開戦を阻止する為に上京していた石原莞爾は、「自分は既に予備役に編入されている身であり、軍の中枢部に何の関係も持たぬから具体的な話はできないが、私見を述べる」と前置きして、

 「日米開戦となれば、日本は必然的に南方に進出して、南方資源に頼らねばならぬが、このように長い補給線を、長期にわたって維持することは困難であり、輸送船舶は逐次撃沈されて、日本の資源は枯渇する。従って勝敗のおもむく所は、おのずから明らかである」

と結論づけ、我が国の南進戦略には勝算がないことを説明し、たとえ屈辱的であっても一切戦争は不可であると主張した。すると尾崎は「いや、日本はビルマ・マレー作戦を断行すべきだ」と反論し、石原は激怒して「何を根拠にそんな馬鹿なことを言うかっ!」と大喝を浴びせたのであった(5)。

 日米開戦時、我が国は約六百五十万トンの船舶を保有し、敗戦までに約三百五十万トンを建造したが、我が帝国海軍は海上護衛戦の重要性を全く理解せず、海上輸送路護衛戦力を殆ど保有しておらず、開戦後の昭和十七年四月十日に陸軍の要請を受けて漸く第一、第二海上護衛艦隊(旧式駆逐艦十隻、武装徴用民間船九隻、水雷艇二隻)を創設し、翌年の十一月十五日に海上護衛総司令部を発足させた。しかし我が国の生命線である海上輸送路の護衛に貧弱な戦力しか割かなかった帝国海軍がアメリカ軍の海上交通破壊作戦を阻止できるはずもなく、我が国は約八百四十万トンの船舶を連合軍によって撃沈され、国力を消失した。

 石原莞爾は、士官学校時代から、日露戦争において東郷平八郎大将を補佐した天才参謀の秋山真之と並び称される海軍の国防論の大家、佐藤鉄太郎(中将、海軍大学校長)に私淑し、海軍戦略にも精通しており、だからこそ石原は、正確に日本の敗北原因を予言し、また尾崎秀実の強硬論に潜んでいた、我が国を敗戦へ導こうとする尾崎の意図を直感的に察知して激怒したのであろう…。

 「石原莞爾中将の話をきく会」では、石原が必ず質問者にその主張の根拠を求めたために議論が成り立たず、きく会はすぐに解散となった。散会後、田中慎次郎は尾崎秀実と日比谷交差点まで歩き、近くの喫茶店で紅茶を飲みながらしばらく雑談をして別れた。田中によれば、石原と対面した尾崎は少し疲れているようで、いつもとは違い雑談に活気がなかったという(5)。
 謀略の天才として政府軍部内に暗躍し或いは大衆を煽動し、任務を遂行してきたマルクス・レーニン教徒も、戦争の天才として戦局を見透す仏法者の慧眼と大喝に、悪魔と妥協した邪悪なる内心を射抜かれ、さすがに魔力の減衰を余儀なくされたのかも知れない…。

 この夜から一週間後の十五日、尾崎は検挙され、翌日、近衛内閣は総辞職したのであった。

(1)【尾崎秀実著作集2】三五〇~三五二頁、東亜問題昭和十四年四月創刊号「東亜新秩序論の現在及び将来―東亜協同体論を中心に」
(2)【現代史資料ゾルゲ事件2】三十三頁。
(3)石原莞爾【最終戦争論戦争史大観】参照。
(4)田岡良一【空襲と国際法】三十三~三十五頁。
(5)【尾崎秀実著作集2付録月報】七頁「開戦前の一夜」、矢部貞治日記昭和十六年十月八日の条。酒井三郎【昭和研究会】二三三~二三四頁、倉前盛通【悪の論理】六十八~七十一頁。
 倉前氏によれば、百年戦争論、東亜協同体などを軍部に吹き込んだ者は、尾崎秀実らにつながる仮装マルキストの論客が大半であったという。



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国民のための大東亜戦争正統抄史43~56独ソ開戦と日本の南進

第二章、日 米 開 戦 抄 史


【独ソ開戦と日本の南進】


43、検察の苦悩

 我が国の敗戦直後に近衛文麿が自己保身のために公刊した宣伝書「平和への努力」を信用した中村粲教授の大東亜戦争史観は、汪兆銘政権樹立工作は第一次近衛声明を修正した和平工作であり、第二次近衛内閣(昭和十五年七月二十二日発足)が日独伊三国同盟を締結した(昭和十五年九月二十七日。のちハンガリー、スロバキア、ルーマニア、ブルガリアが加盟)目的は、日本の国際的立場を強化して、アメリカの武力行使を抑止し日米和平交渉をまとめ、支那事変の解決を促進することだった、である(1)。

 だが汪兆銘工作は第一次近衛声明と連動しており、支那事変を決定的に長期化させてしまった。近衛首相の行動は一貫して支那事変の拡大長期化を画策しており、近衛文麿の意図は日中和平の実現とは正反対の方向に向いていた。それらのことは、日支条約案と支那事変処理要綱を可決した第四回御前会議(昭和十五年十一月十三日)冒頭における以下の近衛自身の挨拶によって説明されていた(2)。

 「政府より提出致しましたる案件に就きまして御説明申し上げます、帝国は昭和十三年一月十一日御前会議決定の支那事変処理根本方針ならび昭和十三年十一月三十日御前会議決定の日支新関係調整方針に基き、従来重慶政権に対し其の反省を促し、急速に支那の全面的屈伏を強要する共に、新なる政治勢力の育成を企図し、これを実行し来ったのであります。 
 然るに現下の情勢においては、短期間に之が屈伏至難なるやに察せらるる一方、南京に樹立せられたる新政府は逐次其の政治力を増大し来りつつあるのみならず、該政府と帝国使臣との間に行われたる条約交渉は今や政府において之が採否を決すべき時機に到達したのであります。
 帝国はこの際、新政府を承認し、其の政治力を強化培養して之を我が方の事変遂行に協力せしめ以て飽くまで事変の完遂を期するの方途に出づることが必要と認められるのであります。
 依て政府は別紙条約案に対し調印締結の手続を執らんとするものであります、もっとも条約調印後、重慶政権の屈伏を見る場合においては更に新なる処断に出づべきこと勿論であります。」

 加藤高明内閣の司法大臣として治安維持法の制定を主唱した小川平吉はかねてより「昭和塾講師および組織者に赤化の徒が多く、累を近公に及ぼす」と懸念し、知人と秘かに善後策を協議していたが(小川平吉日記昭和十三年十月二十一日の条)、不幸にも近衛の赤い人脈に対する小川の危惧は的中していたのである。

 昭和三年(一九二八)六月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締に従事しながら国際共産主義運動の調査研究に没頭した後、衆議院議員となり中野正剛と共に東條内閣倒閣運動に加わった三田村武夫によれば、昭和十六年(一九四一)十月十五日に検挙された尾崎秀実と特別の関係にあった陸軍軍務局関係者は、尾崎の検挙に反対であり、特にドイツ大使館員としてドイツ駐日大使オットーの信頼を得ることに成功していたリヒャルト・ゾルゲとの関係において、陸軍は捜査打ち切りを要求したが、十六日、近衛内閣が総辞職し、東條内閣の出現となり、尾崎秀実の取り調べによって尾崎と近衛文麿との密接なる関係が浮かび出てきたことを知った東條首相は、この事件によって一挙に近衛を抹殺することを考え、逆に徹底的な調査を命じたのである。

 しかしながら時は日米開戦直後であり、日本政治最上層部の責任者として重要な立場にあった近衛及びその周辺の人物をこの事件によって葬り去ることが如何に巨大な影響を国政に与えるかを考慮した検察当局は、その捜査の範囲を国防保安法の線のみに限定せざるを得ず、彼等の謀略活動をできる限り回避すべく苦心したという(3)。

 国際共産党諜報機関検挙報告には、「要路高官の信任を博したる尾崎は、単に政治中枢の秘密を探知するに止まらず秘かに抱懐するコミュニストとしての新体制理論を協同体論に偽装して政府の方針を歪曲せんとの謀略策動をも併せ行うに至れるも失敗せり」と記述されているが、尾崎の謀略策動の中核たる、東亜協同体論によって装飾された支那事変の拡大長期化工作に対する言及は無く、犬養健が検事に「尾崎秀実、西園寺公一が雑誌等に論文を執筆して汪兆銘工作が日本の執るべき唯一の道であることを強調していた」と証言しているのに、検察は、共産主義者の尾崎が反共和平を掲げる汪工作を推進したその謀略的意図や、尾崎と影佐禎昭ら陸軍の革新幕僚との関係を追及しておらず(4)、ゾルゲ事件の被逮捕者は僅か三十五名に過ぎない。

 昭和十六年十月十日に特高警察に逮捕された元アメリカ共産党員の宮城与徳は、刑事の取り調べ中に築地警察署の二階から飛び降りたものの灌木の上に落ちて自殺に失敗した。宮城は心の鍵を自損して放心状態になったのか、訊問再開後、別人に生まれ変わったように心中に秘めていたゾルゲ機関の全容を延々と自白した。その規模の大きさ、その主要メンバーの社会的地位、その国際関係を知った刑事たちは肝を潰し、東京刑事地方裁判所検事局の吉河光貞検事に指示を仰いだ。尾崎秀実を近衛文麿側近の輝ける星の一人と認めていた吉河検事は、元アメリカ共産党工作員の自白だけでは尾崎を逮捕できないと判断し、警察に裏付け調査の開始を指示し、警察はすぐに多数の証拠を発見した。しかし宮城の自白を裏付ける証拠を入手した検事と刑事たちは、証拠が告げる事態の深刻さに恐怖する余り、却って尾崎の正体と事件の真相を受け容れられなくなり、彼等は尾崎の無実を信じ込もうとして代わる代わる宮城に嘆願するように「これは本当か?」と尋ねたのである。宮城与徳は飽き飽きしながらもきっぱりと「本当です」と答え、検事刑事たちを観念させた(5)。さらに宮城は検事訊問(昭和十七年三月十七日)に対して、

 「近衛首相は防共連盟の顧問であるから反ソ的な人だと思って居たところ、支那問題解決の為寧ろソ連と手を握ってもよいと考える程ソ連的であることが判りました」

とまで証言した(6)。昭和十七年十一月十八日、近衛は中村光三予審判事から僅かな形式的訊問を受け、「記憶しません」を連発し尾崎との親密な関係を隠蔽した(7)。国家総動員法や大政翼賛会による立憲自由主義議会制デモクラシー破壊に猛反対した鳩山一郎(政友会)が日記(昭和十五年十一月一日の条)に、

 「近衛時代に於ける政府の施設凡てコミンテルンのテーゼに基く。寔に怖るべし。一身を犠牲にして御奉公すべき時期の近づくを痛感す」

と書いたことは正しかったのである。

 昭和十六年二月三日、第七十六回帝国議会衆議院の国防保安法案委員会において三田村武夫代議士が指摘した我が国の防諜体制の深刻な欠陥は、いくら政府と議会が軍機保護法を改正し要塞地帯法を作り、防諜の規定を強化しても、従来日本の外交上、国防上、経済上、政治上重要なる機密が一般の国民の間からではなく常に上層から洩れて居ることはロンドン会議以来国民の知る所になっているにもかかわらず、第一次近衛内閣の馬場鍈一内務大臣が「私も従来しばしば日本の重要なる国家機密が上層部から洩れることを聞いて知って居るが、洵に残念だと思うが、斯う云う人に対しては法律を以て直ちに臨むことは困難だ、各人の自省を俟って何とか善処したいと思います」と答弁したことであった。三田村代議士は、

 「是は由々しき問題だと思います、或いは此の立法を以てしても、馬場内務大臣の御意見通り、斯う云う人に対しては直ちに法律を以て臨むことが不可能かも知れませぬ、其の問題をどうするかと云うことを、此の日本歴史始まって以来未だかつてない国家興亡の岐路に直面しながら、重大なる時局を担当する政府の責任者に私はしっかり申上げて置きたいのです、近衛さんは去る二十七日の予算総会で、一死を以て奉公の誠を竭すと云う決意を、涙を浮かべて披瀝されました、吾々は大いに其の決意を諒とし心を汲む次第でありますが、其の決意は予算総会の席上に於ての決意だけでは困る、唯一人の息子を戦地に送った人が、其の息子が戦死しても、溢れる涙をぐっと呑込んで、倅は御国の御役に立ちまして洵に喜ばしい次第でありますと国民は言って居ります、泣いて居る時じゃないのだ、しっかり肚を決めてやって貰わなければ、此の法律を作ってみてもいかぬと思う、馬場内務大臣の言葉通り、抜穴があって、大きなものがドンドン逃げて行ったら何にもならぬ」

と警鐘を鳴らして近衛を叱咤し、たとえ世間から危険視されても国家の為に徹底的に、第三国の思想謀略、経済謀略、外交謀略、政治謀略、中でも最も恐ろしい、無意識中に乃至は第三者の謀略の線に踊らされた意識せざる諜報行為に対する警戒と取締を強化するように政府(第二次近衛内閣)に要求した(8)。しかし当然この要求は実現することなく、またしても日本の政治最上層部から国家機密がソ連に漏洩してしまった。近衛文麿の「一死を以て奉公の誠をつくす」という涙ながらの決意表明は、帝国議会議員と有権者を欺く狡猾な演技にすぎなかったのである。

 そして革新的青年学生を育成する為に昭和十三年九月に昭和研究会幹部によって設立された昭和塾の幹事を尾崎秀実と共に務めていた角田順(昭和研究会委員、太平洋協会所属)が漏らしたように、近衛首相が日独伊三国同盟を締結し、野村吉三郎海軍大将を説得して駐米日本大使就任を受諾させ、井川忠雄(大蔵省出身の元駐米財務官、産業組合中央金庫理事)をアメリカに派遣し(昭和十六年二月十三日)、日米和平交渉に着手した真の目的は、支那事変を日蒋間の対立から、ソ連を包囲する位置にある日独伊と英米蒋の世界戦争(9)―近衛の最高政治幕僚であった尾崎秀実が獄中手記で述べた、ファッショ派帝国主義国家群と正統派帝国主義国家群の相互闘争―に発展させ、ソ連の防衛と拡大とを図り、地球規模でソ連に漁夫の利を与えようとしたのであろう。 
 なぜなら昭和十五年十一月三十日、アメリカ駐支大使ネルソン・ジョンソンが、

 「汪兆銘のかいらい政権の承認は、日本が国民政府と蒋介石の破壊を決意したことを意味する。そうなれば、米国と日本の直接対決は不可避となるだろう」

と政府に警告した通り(10)、近衛内閣の汪兆銘政権承認によって支那事変が「永久抗争」化した以上、事変解決を議題とする日米和平交渉は完全妥結する可能性を有さず、最終的には、支那事変を、日蒋間の対立から、汪を支持する日本と、日華基本条約締結直後に之を否認し、蒋介石の懇請に応じて一億ドルの対支借款供与を発表、蒋政権支持を明示したアメリカとの衝突へ発展させる導火線の役割を果たす以外に選択肢を持たないからである。
 「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」(昭和十五年七月二十七日)において「対米開戦の準備」を決定した近衛文麿は、次に日米和平交渉に着手することによって、日米関係を破裂させるための時限爆弾の導火線に点火したのである。

(1)中村【大東亜戦争への道】五五八頁。
(2)参謀本部編【杉山メモ上】一四三頁「第四回御前会議内閣総理大臣挨拶」
(3)三田村【戦争と共産主義】一三七~一三八頁。
(4)【現代史資料ゾルゲ事件4】四、五一五~五二一頁、犬養健に対する第三回検事訊問調書昭和十七年四月二十一日。
(5)プランゲ【ゾルゲ東京を狙え下】一六一~一六九頁「彼は死線を越えた」
(6)【現代史資料ゾルゲ事件3】二六三頁。
(7)【現代史資料ゾルゲ事件2】四〇二頁。
(8)衆議院国防保安法案委員会議録第三回昭和十六年二月三日。
(9)後藤【昭和研究会】一三三頁、角田順【太平洋に於ける英帝国の衰亡】一一五頁、【石原莞爾資料国防論策編】五五二頁。
 角田順の「政治と軍事―明治・大正・昭和初期の日本」(光風社出版、一九八七)一〇八~一一〇頁は、石原莞爾と堀場一雄の戦争指導を評価しながら、堀場が反対した西義顕、伊藤芳男、董道寧、高宗武、松本重治らの汪兆銘政権樹立工作を、

 「日中両国を横断して全面和平達成を企図する構想であり、この構想の背後に日中の国籍をこえたアジアの未来像が潜み、共にこの高貴な理想を仰ぐ感激と信頼とが互いにかわされたことも、疑いない事実であった。この事実から生れた汪派の要人・李聖五が今日なお『東京のある席上で、彼らの行動の正しかったこと、のみならず汪政権に対する日本有志の態度はあれでも世界史上、類例のない誠実にして公平なものであったことを、満足と自信をもって語った』ことをここに粛然と付記しよう」

と大仰に礼賛するという矛盾を犯している。角田の史論は汪工作の謀略的意義を隠蔽しようとする余り、これを和平工作として推進宣伝した尾崎秀実ら共産主義者の戦時論文に酷似してしまい、却って角田自身の正体を曝露している。
(10)【ルーズベルト秘録下】八十四頁。


44、日独伊ソ四ヶ国協商構想の背景

 第二次近衛内閣において、外務大臣を務めた松岡洋右は次の如き遠大な構想?を抱いていたという(1)。

 「まず三国同盟の成立をはかる。次にこの同盟の威力をかりて日独伊ソ四国協商の実現を図る。その際、とくにドイツのもつ対ソ影響力(註、一九三九年八月二十三日独ソ不可侵条約成立、同年九月一日ドイツ軍が、十七日ソ連軍がポーランドに侵攻、第二次欧州大戦勃発)を活用して、日ソ国交調整の斡旋の役割を担当させる。さらに四国協商が成立すれば、この提携の威圧を利用して対米交渉に乗り出し、諸懸案の妥結を図ると同時に、アメリカをしてアジアおよびヨーロッパでの干渉政策から手を引かせ、同時にこれらの地域での平和回復に共同協力することを約束させる。尚この間三国同盟および四国協商の力で英米を牽制して、日本の南進政策を推進する。こうしてヨーロッパ、アジア、アフリカで四国間に生活圏を分割し、世界新秩序を樹立する。」

 日独伊ソ四国協商によりアメリカを牽制し日米和平交渉をまとめて支那事変を解決し、フランスの無力化とイギリスの弱体化に乗じて日本が南進するという戦略が、松岡構想であった。しかし昭和十五年(一九四〇)十一月二十六日、ソ連が四国協商を承認する条件として、

1、ドイツ軍のフィンランドからの撤退。
2、ソ連とブルガリアの相互援助条約締結と、ボスフォラス及びダーダネルス圏内のソ連陸海軍の基地設置。
3、バツーム及びバクーの南から大体ペルシャ湾に至る地域がソ連の領土的希望の中心たることの確認。
4、日本の北樺太における石炭、石油採決権の放棄。

をドイツに提示したものの、アドルフ・ヒトラーが之を拒絶し、十二月十八日、対ソ開戦準備命令を発した時点で、松岡構想は破綻しており、翌年三月末ベルリンにおいて、ドイツ首脳は、口を極めてソ連の不信を攻撃し「一度ソ連に打撃を加えなければ欧州の禍根は到底除かれない」と語り、独ソ関係の険悪化を松岡に示唆したにも拘わらず、松岡はベルリンからの帰途モスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を締結し(昭和十六年四月十三日)、我が国からドイツに呼応する北進戦略を少なくとも条約上奪ってしまったのである。

 モスクワからの帰途、松岡外相の胸中に、帰国後の松岡が次は重慶へ赴き蒋介石と会談し一緒に米国へ飛んでルーズベルトを交えて三人で支那事変の解決を話し合うという壮大な和平構想が描かれていた時、米海軍省は次のような情報を国務省に伝えていた(2)。

 「アンカラ(トルコ)駐在武官によれば、同地駐在ソ連海軍武官は、日ソ中立条約について、以下の説明を行った。『ソ連の政策は明確である。それは、ソ連人は戦わずにすべての他国民を戦わすことである。』と」

 ゾルゲ機関員のマックス・クラウゼンは、

 「日ソ間に中立不可侵条約の如き親善関係が出来ましたが私はソ連は真面目に斯様な問題を取り上げて居るものではないと信じて居ります。ソ連が資本主義国と真面目に斯様な親善関係を結ぶという事は所謂階級闘争の共産主義理論と全く矛盾するからであります。要するにソ連は、一面に於てはソ連防衛の手段として条約を利用し、他方に於てはソ連は戦争を欲せずと見せかけておいて資本主義国の監視警戒の緩和を図り、之に依って益々容易に且活発にスパイ活動其の他共産主義運動を展開しようとして居るものに相違ないと考えて居りました」

と日ソ中立条約がソ連の常套手段「偽装和平」であることを証言した(3)。筆者が推測するに、おそらく松岡洋右も汪兆銘と同様に、自らの構想に陶酔する余り現実を見失い、松岡の外相就任と同時に外務省政務嘱託となり三国同盟と日ソ中立条約の締結に加わった西園寺公一(戦後共産党員)、そして尾崎秀実、平貞蔵を始め、ソ連の政策を支持する近衛の革新幕僚等に操られていたのであろう。

 本来、同盟は自国の欠陥を補う為に締結され、国家間の利害関係の一致する所に存在する。日本の莫大な対満投資が満洲国を順調に発展させていたとはいえ(4)、日本の満支開発は一朝一夕に実現されることではなく、依然として我が国は大陸から必要な資源を充分には輸入できずにいた。だから信義を基礎とする条約によって阻止されないソ連の軍事的脅威と東亜赤化の野望とに直面していた我が国の採るべき最良の選択肢は、日露戦争時の如く米英と可能な限り親善友好関係を維持し、後背の安全を確保しつつ、戦争政策に比べて圧倒的に費用対効果の優れた資源獲得手段である貿易によって、輸出市場を欲していた彼等の持つ豊富な資源を輸入し、ソ連に対する我が国の軍備を強化することだったであろう。

 だが平貞蔵は、中央公論昭和十五年九月号「新体制と外交」で、日独伊が、大英帝国の崩壊なくしては必要な進出を阻止される点、ソ連及び北米の強大な勢力に対抗するには本国の資源のみでは足らざる点において、「あきらかに共通の運命、共通の利害関係を有する」と詭弁を弄し、既得権益を維持するために共同戦線を張る米英ソに対抗する為には、

 「日独伊もまた目的達成には協力せざるを得ない。世界史的方向に沿う発展を遂げんとする三国が提携すべきであると言われるのはかかる理由に基く」

と強調して、無資源国家(持たざるもの)日独伊の三国同盟の必然性を説き、さらに平は、

 「ソ連、イギリスと共に日本に圧力を加えつつある北米は大なる経済力と軍備を擁して戦争の圏外にある。北米が日本との経済関係を絶てば、依存関係が深いだけに北米の期待を裏切り、日本は敢然起つであろう。だが日本も北米を牽制する手段を有しないわけではない。日米貿易の断絶は、北米にとっても打撃であり、日独伊枢軸を強化し日本が南洋に進出すれば北米は原料において困窮する。

 次にイギリスに対しては、対米、対ソ以上に用うべき途がある。事変解決、日ソ国交の調整によるソ連の中亜、近東進出、実力を伴う南進政策、日独伊枢軸の強化を以てあたり得る。この中の一部が有効に実行されるのみでも、イギリスはアジアより全面的退却を余儀なくされる」

と述べ、ソ連を利する日ソ中立条約および我が国の南進政策の有効性を説いて松岡外交を推進援護しており(5)、松岡構想に支那事変の拡大長期化を画策してきた近衛の革新幕僚たちの作為戦争謀略(make war)活動が重なっていたのである。

(1)【太平洋戦争への道5】二六一頁。
(2)児島襄【ヒトラーの戦い3】四九五頁。
(3)【現代史資料ゾルゲ事件3】九十七頁。
(4)黄文雄【満州国の遺産】参照。
(5)三田村【戦争と共産主義】二六九~二七〇頁。
 昭和研究会の主要会員であった笠信太郎と佐々弘雄の合作と推定される昭和十五年九月二十七日朝日新聞解説記事「同盟の世界史的意義」は、三国同盟締結の意義として、日本が日独伊ソの大陸国家群の一員として、自由通商主義、デモクラシー、個人主義を基底とする海洋国家群の英米が建設し維持してきた世界秩序を根本的に改造する歴史的使命を帯びていることを強調し、さらに日本の南進の必要と英米との衝突を予想し、欧州におけるドイツの軍事的優位と西太平洋における日本の海軍力の優位との結合により、英米の敗勢は必至であり支那事変の解決も容易となる、と解説していた(稲垣武【日本的組織原理の功罪】二〇三~二〇四頁)。


45、独ソ戦勃発

 日ソ中立条約成立後も独ソ戦の風雲急を告げる情報が、在外武官などから頻繁に入電してきたにも拘わらず、松岡は独ソ戦の可能性を信じようとしなかった。だがバトルオブブリテン(一九四〇年七月~翌年五月に行われた英独空軍の熾烈な航空戦)に敗れドーバー海峡を越えられなかったドイツは軍の鉾先をソ連へ向け、昭和十六年六月二十二日、ドイツ軍は、リープ将軍の北部軍集団、ボック将軍の中央軍集団、ルントシュテット将軍の南部軍集団、合計百四十九個師団三百十三万七千人を揃えてバルバロッサ(赤髭と東方への進出で知られた神聖ローマ皇帝)作戦を遂に発動し、三方よりソ連に対する侵攻を開始、独ソ国境付近に集結していたソ連軍を次々と撃破し、ドイツ政府は六週間でソ連を征服すると発表した。だが奇しくも六月二十二日は、一八一二年にナポレオンがニーメン河を越え、ロシアへ侵攻した日であり、二正面戦争の遂行を選択したヒトラーはナポレオンと同じ運命を辿ることになる…。ドイツ駐日大使オットーから、

 「ドイツは一九三九年の独ソ協定に期待したが、その後それが根本的に誤りなることが判明した。コミンテルンは直ちに対独破壊工作を開始し、ソ連の公式の代表機関がこれを補佐した。大規模にサボタージュ、テロ、戦争が準備せられ、スパイは政治上、軍事上、経済上活動した。ドイツ近隣諸国及びドイツ占領下では、対独使嗾工作がなされ欧州に秩序を樹立せんとするドイツの企図に、反対の工作が行われた。ベルグラードで押収した文書は、ソ連参謀本部が反独のため武器を供与したことを示している。
 かく見れば独ソ条約は、ソ連の欺瞞隠蔽工作に過ぎぬ。条約締結の際明確にされた利益範囲の国家を、ボルシェビキ化又は併合しないとの約束に反し、ソ連は軍事的に可能なる軍事力を西方に及ぼし、ボルシェビキ化を欧州にまで押進めている。バルカン、フィンランド、ブゴビナ、ルーマニア等皆然り。モロトフをベルリンに招いた時、ソ連は、ブルガリア海峡地帯におけるソ連軍事基地の設定、フィンランドの完全な支配等、容認すべからざる野望を示したが、現にドイツのブルガリア占領の妨害、トルコへの背後からの援助、ユーゴーでの策動等、反独政策を実行している。かかる政策のためソ連は、東海から黒海に至る赤軍を増強しつつあり、更にクリップス大使を通じ、英国と軍事協力を交渉しつつあり、脅威益々増大するに対し、ドイツは対抗手段を取らざるを得ぬ。
 
 要するにソ連は、受諾せる諸義務に反して、対独対欧州破壊の企てを継続強化し、益々反独的外交政策をとり、その全軍事力を以て、ドイツ国境に待機の姿勢を取り、かくて生存のための闘争を続けつつあるドイツに、背後より襲いかからんとしている。故にドイツは、この脅威をあらゆる権力手段を尽くして反撃する」

というドイツの対ソ開戦理由(1)を通告された松岡外相は、「日本は三国同盟の目的と精神に基づいて行動する」とオットーに言明し、宮中に参内して、

 「独ソ開戦した今日、日本もドイツと協力してソ連を討つべきである。この為には南方は一時手控える方がよい」

と上奏した。松岡の無節操な豹変に驚かれた昭和天皇は、

 「即刻総理の許へ参り相談せよ」

と命じられたが、これは「松岡が近衛を差し置いてシベリア出兵を唱える」と先読みした木戸幸一が、松岡より一歩先に昭和天皇に拝謁して、

 「今回の事件は極めて重大なれば充分首相と協議すべしとの意味を仰せ戴きたく、首相中心の御心構えを御示し願いたし」

と上奏してあったからである。松岡の上奏騒ぎは、その夜に松岡と近衛の会談があり、翌日、近衛首相が、

 「外相は彼個人の最悪の事態に対する見通しを申し上げた」

と上奏して一応の収拾をみた。だがその後も松岡外相は対ソ主戦論を主張し続けた為、我が国政府は、南進すべきか或いは北進すべきか、を巡って紛糾し、昭和十六年四月十八日、野村大使がアメリカ国務長官コーデル・ハルの賛意を得たとして「日米諒解案」(井川忠雄、野村大使の要請を受けて渡米した岩畔豪雄陸軍大佐、昭和十五年十一月にアメリカから来日し日米国交調整の可能性を探り帰国したウォルシュ司教、ドラウト神父が作成した日米和平案)を打電してきたことから開始された日米和平交渉を顧みる余裕を失ってしまった。  

「日米諒解案(一部抜粋)」

支那事変に対する両国政府の関係

 米国大統領が左記条件を容認し且日本国政府が之を保障したるときは米国大統領は之に依り蒋政権に対し和平の勧告を為すべし。

1、 支那の独立。
2、日支間に成立すべき協定に基く日本国軍隊の支那領土撤退。
3、支那領土の非併合。
4、非賠償。
5、門戸開放方針の復活但し之が解釈及適用に関しては将来適当の時期に日米両国間に於て協議せらるべきものとす。
6、蒋政権と汪政府との合流。
7、支那領土への日本の大量的又は集団的移民の自制。
8、満洲国の承認。

 蒋政権に於て米国大統領の勧告に応じたるときは日本国政府は新たに統一樹立せらるべき支那政府又は該政府を構成すべき分子をして直に直接和平交渉を開始するものとす。日本国政府は前記条件の範囲内に於て且善隣友好防共共同防衛及経済提携の原則に基き具体的和平条件を直接支那側に提示すべし。

(1)矢部【近衛文麿下】二九六~二九七頁。


46、南進論と北進論

 一方、長年に亘りソ連(ロシア)を仮想敵国とし対ソ戦の主力となるはずの陸軍内部では、意外な事に、独ソ戦勃発に伴い松岡外相の主張とは正反対の戦略転換が行われようとしていた。   

 昭和十六年一月十八日から約二ヶ月をかけて、陸軍省戦備課は我が国の物的国力から対南方武力行使の成否を検討し、

 「帝国の物的国力は、対米英長期戦の遂行に対し、不安あるを免れない。すなわち第二年終期ころまでは、敵の進撃を撃滅するにおおむね十分になる弾撥力を有すべきも、そのころ一時液体燃料に懸念を生ずる懼れあるとともに、戦局持久するに随い、経済抗堪力が動揺することがあるであろう」

との結論を得た。陸軍屈指の合理主義者であった戦備課長の岡田菊三郎大佐は、この検討結果を三月十八、二十二日に陸軍省部の主務者、二十五、二十六日に参謀本部首脳に説明し、昭和十五年夏以来、電撃作戦により瞬く間に欧州を席巻したドイツに呼応する南進戦略に傾斜していた陸軍中枢に再考を促したのである。この影響は甚大であった。二十四日に行われた参謀本部第二十班(戦争指導班)の検討会は、

 「戦備課ノ物的国力判断資料ニ基キ第二十班トシテ対南方武力行使ニ関スル判決ヲ決ス 好機ニ投スル対南方武力行使ナシ 紆余曲折ヲ経テ今日ニ至ル 感慨無量ナルモノアリ第二十班トシテ右判決不動ナリ」 

との結論に達し、二十七日には参謀本部作戦課と陸軍省軍事課の西浦進中佐、服部卓四郎中佐も戦争指導班に同意したのである。即ち昭和十六年春に至り、陸軍省部は前年七月二十七日に大本営政府連絡会議で決定された「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」の対南方武力行使に関する準拠を修正し、

 「好機ニ投スル武力行使ナシ 支那事変処理ト対「ソ」戦備ニ専念セントス」(大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌昭和十六年三月二十七日の条)

と決定し、四月十七日までに「帝国は外交的施策に依り、帝国と仏印、泰、蘭印間の政治経済に亙り緊密なる関係を確立す。欧州戦争に於て英本国の崩壊確実と予察されるに至らば、対蘭印外交措置を更に強化し目的達成に努む」という対南方施策要綱をまとめ、「日米諒解案」に原則的に同意したのである。我が国の陸軍中枢には、まだ数学的合理主義と軍事的良識が残っていた。ところがそれらは「独ソ開戦確実」という情報の入電によって吹き飛ばされてしまった。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十六年六月六日金曜
一、大島大使ヨリ「ヒ」及「リ」ト会談セル結果独「ソ」開戦概ネ確実ナリノ電アリシヲ以テ先ヅ情報ノ交換ノ為連絡懇談会開催 至急独「ソ」開戦ニ伴フ帝国国策ヲ決定スルニ意見一致ス
二、軍務課長及軍事課長ヨリ第二課長第八課長、第二十班長ニ会談ヲ申込ミ断乎南方ニ武力進出スヘキヲ強調ス
 (軍務課長ハ第一案断乎南方武力行使、第二案対米協調シツツ北方解決、第三案現状通リノ三案ヲ携行シ第一案ヲ主張ス)第二課長第八課長同意ス   
 第二十班長(註、有末次)不同意
 今頃何事ゾヤ当班半年ノ結晶ノ結果カ南方施策要綱ナリ
 変ヘル事ガ出来ルナラ海軍ヲ動カシ得ルナラ動カシテ見ヨト云ヒ度シ
 明確ナ空気決定的国策ヲ採リ得ヌガ帝国ノ現状悩ミナリ
 此ノ悩ミヲ軍務課長知レルヤ否ヤ


47、佐藤賢了と尾崎秀実

 六月八日、芝の料亭「つかさ」において、軍務課長の佐藤賢了大佐と軍事課長の真田穣一郎大佐は、軍務局長の武藤章少将、軍務課高級課員の石井秋穂中佐、軍事課高級課員の西浦進中佐とともに「情勢の推移に伴う国防国策要綱」を策定した。要綱の主旨は次の如くである。

1、独ソ戦に対しては介入することなく形勢を観望し、戦争の推移が我が国の為に極めて有利に展開したならば武力を行使して一挙に北方問題を解決する。
2、欧州戦争に於いて枢軸陣営の勝利が確定的となるに至らば、南方要域に進出して之を我が勢力圏内におさめる。
3、米国が参戦した場合は、三国同盟条約の精神に基き態度を決するが、武力行使の次期及び方法は別に定む。

 1項の「戦争の推移が我が国の為に極めて有利に展開したならば」とは、ソ連が敗北してから国際情勢を見極めて北進する(熟柿主義)、換言すればソ連が敗北しない限り北進しないという意味である。

 十日午後、陸海軍部局長会議は、蘭印において小林一三に替わり資源獲得交渉を行っていた芳沢謙吉代表の引揚を決定すると共に、佐藤賢了ら陸軍省軍務局幹部がまとめた国策要綱を協議し、ドイツ軍がソ連領内に殺到した翌日、二十三日午後、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」と名題を変えて決定した。その内容は国防国策要綱にほぼ一致していたが、陸軍が南方より手を引くことを大いに恐れた海軍省軍務局長、岡敬純少将ら海軍側の主張により、より南進戦略に傾斜していた。
 この帝国国策要綱が大本営政府連絡会議に提議されるや、松岡外相は次の理由を挙げて対ソ攻撃を主張した(1)。

1、独ソ戦が始まった以上、米英はソ連を支持し、米国は参戦態勢を強化する。 
2、時間がたてばソ連の抵抗力は増し、日本は「米英ソに包囲される」ことになる。
3、ソ連をたたきドイツに勝たせておいて南方に進出すれば、米英を押さえ得るだろうが、先に南方に出れば、米英との衝突になり、同時に米国の欧州参戦を招いてドイツは不利になる。その結果は、ソ連は生き延び、ドイツと日本はともに敗北しかねない。

 独ソ戦の勃発が松岡外相を覚醒させたのか、松岡の主張は卓見である。だが松岡の対ソ即時開戦論は受け容れられず、二十八日、大本営政府連絡会議は、大本営案に松岡外相の外交に関する意見を加え、要綱案に対ソ武力行使の条件として規定されていた「独ソ戦争の推移が我が国に極めて有利に進展せば」の文言のうち「極めて」を削除するなど若干の修正を行い、帝国国策要綱を正式決定した。佐藤大佐はそれを聞いて衝撃を受け、ますます対ソ非戦論を唱え始め、陸軍内(特に参謀本部)でも松岡外相に同調する北進論が高まる中、陸軍大臣室に駆け込み、東條英機陸相と木村兵太郎次官を詰問した。

佐藤「いったい対ソ戦はやるつもりですか。それともやらないつもりですか。大臣のハラを承っておきたいと思います。御前会議案の『極めて』の三文字が削られた為、ずいぶん議論が起こっています。この削除によって熟柿主義が変わったのではありますまいね。この点しかと大臣のお気持ちを承りたいのです。」
木村「熟柿主義に変わりはないさ。しかし、その言葉は俗な言い方で意味も曖昧だ。御前会議の文句通り『独ソ戦の推移が帝国の為、有利に進展せば』武力を行使するんだ。大臣だって誰だって、この御決定に違反してはならないじゃないか。」
佐藤「作文の議論をしているのではありません。ハラの問題です。熟柿主義といっても人によって解釈が違います。あわて者はちょっと柿が赤くなれば、ソレ熟したといって竿をもってきて叩き落とすでしょう。木をゆさぶって落ちるのを熟柿という者もありましょう。しかし私は、前々からひとりでに落ちてきたら拾うのが熟柿主義で、竿で叩いたり、木をゆさぶったりするのではないと信じております。このハラが、大臣、次官と違うならば今はっきり言っていただきたい。そこに意見の食い違いがあっては、部内のまとめができません。」
木村「それじゃ、一発も撃たないで、シベリアがとれるときでなければ出ないと言うのか。」
佐藤「その通りですよ。シベリアなんか欲しくありません。欧露で負けたソ連軍がシベリアになだれこんできて治安が乱れるとき、治安維持のために出るだけと考えております。」
木村「それは詭弁というものだ。御前会議の決定前ならとにかく、決定された字句をそんなふうに曲解してはいけない。」

 佐藤大佐は木村次官と言い争った後、東條陸相が終始無言で聞いていることにしびれを切らし、

 「大臣、次官が北に行こうたって、私は足にしがみついてもやらせませんぞっ!」

と大喝し、大臣室を退出していった(2)。同じ頃、佐藤賢了と密接な関係を持っていた尾崎秀実もまた、日本軍の北進を阻止すべく狂奔していた(3)。朝飯会(近衛の最高政治幕僚会議)において尾崎は、

1、元来シベリアは独立して立ち得る地域ではなく、欧露によってのみ支配されるべきもので、従って日本がシベリアを領有してみても欧露に強い政権ができれば、シベリアもその政権に支配されるにいたる。

2、資源の関係からみても、日本が現在必要とする石油、ゴムの如きはシベリアにはなく、この点からすれば日本にとってはむしろ南方進出こそ意味がある。

3、現在の日本としては、ソ連の内部崩壊が到来すれば極東ソ連は武力を用いずして支配下に収め得るので、ことさら武力を用うるの必要を認めない。

と主張し、日本が北進しドイツと共にソ連を挟撃することに猛反対したのであった(4)。

 三十日、ドイツ政府がドイツ駐日大使オットーを介して我が国に南進を延期して対ソ軍事行動を発動するよう要請してきた。連絡会議はドイツに対する通告を審議したが、すると果然、松岡外相は、

 「我が輩は数年先の予言をして的中せぬことはない。南に手をつければ大事に至ることを我が輩は予言する。それを総長はないと保障できるか。南部仏印に進駐すれば石油、ゴム、錫、米等皆入手困難となる。英雄は頭を転向する、我が輩は先般南進論を述べたが、今度は北方に転向する次第である」

と述べ(5)、南進を六ヶ月延期して北進すべきことを再度主張したが、大本営政府連絡会議は之を拒否し、斯くして昭和十六年(一九四一)年七月二日、御前会議が開かれ、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を最終決定した。

(1)児島襄【天皇4】二二三~二二四頁。
(2)佐藤【大東亜戦争回顧録】一三七~一四〇頁。
(3)尾崎秀実は、八月七日、丸の内の料亭「常磐」にて佐藤賢了、後藤隆之助、矢部貞治らと外交問題を協議した(【現代史資料ゾルゲ事件2】一八四頁)。
(4)三田村【戦争と共産主義】一九一頁。
(5)【杉山メモ上】二四九頁。


48、昭和十六年七月二日御前会議

 政府側からは近衛首相と松岡外相、統帥部からは杉山・永野両総長が提案趣旨と内容の説明を行い、そのあと原嘉道枢密院議長と政府・統帥部との質疑応答があった。昭和天皇は発言されず、最後に原議長が、アメリカへの刺激を避ける為、南部仏印進駐に際しては武力不行使を求め、

 「独ソ開戦が、日本の為真に千載一遇の好機なるべきことは、皆様も異論ないことと思う。ソ連は共産主義を世界に振り撒きつつある故何時かはこれを打たねばならぬ。日本は現在支那事変遂行中である故ソ連を打つのも思うように行かぬと考えるが、機を見てソ連は打つべきものなりと思う。日ソ中立条約の為に、日本がソ連を打てば背信なりと云うものもあろうが、ソ連は背信行為の常習者である。日本がソ連を打って不信呼ばわりするものはない。私はソ連を打つの好機到来を念願して已みませぬ」

と述べて、会議は終了した。    

 「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」は、その方針の中で、自存自衛の基礎を確立する為「南方進出の歩を進め、又情勢の推移に応じ北方問題を解決す」と述べ、その「要領二」で、既定の諸方策に従って「南方進出の態勢を強化す」として南部仏印進駐を決め、その為には「対英米戦を辞せず」とされた。独ソ戦に関しては「要領三」で次のように記されている。

 「独ソ戦に対しては三国枢軸の精神を基調とするも、暫くこれに介入することなく、密かに対ソ武力的準備を整え、自主的に対処す。この間もとより周密なる用意を以て外交交渉を行う、独ソ戦の推移帝国のため有利に進展せば、武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す。」     

 独ソ戦勃発から僅か十日後のことである。近衛首相は、

 「七月二日の御前会議は、松岡外相が非常に積極論を唱え、また陸軍も満洲に兵力を集中しており、いつでも対ソ戦に乗り出すという情勢であったので、これを抑えるのが主目的であった。その結果多少代償的な意味で仏印進駐を認めた。」

と言っており(1)、近衛、尾崎、佐藤賢了ら陸軍省軍務局関係者の意志および海軍の南進戦略の一致が、七月二日の御前会議の決定となったのである。 

(1)マックス・クラウゼンはソ連に「近衛は常に日ソ戦を回避せんと試みつつあり」と打電したという(【現代史資料ゾルゲ事件1】四十二頁)。


49、第三次近衛内閣発足

 昭和十六年七月十六日、近衛内閣は総辞職した。これは対ソ開戦を唱える松岡外相の更迭を狙ったもので組閣の大命は再度近衛に下り、十八日に第三次近衛内閣が成立し、外相には南進を主張する海軍の豊田貞次郎大将が就任した。帝国憲法下では、天皇が国務大臣を任命し、国務各大臣がおのおの天皇を輔弼しその責に任ずるものであり、首相は国務大臣を罷免する権限を有せず、内閣改造を行うには、国務大臣から辞任の同意を取り付けるか、総辞職して再組閣するしかなかったからである。

 二十一日、我が国は北部仏印進駐(前年九月二十三日)に続いて、フランス(ドイツ支配下のビシー政権)に、日本軍の駐屯が一時的なものであり、日本がフランスの主権を尊重すること等を条件として、

1、仏印の共同防衛を目的とする軍事協力。
2、必要な日本陸海軍部隊の南部仏印への派遣。
3、サイゴン以下八カ所の空軍基地の使用。
4、サイゴン、カムラン湾の海軍基地としての使用。

等の要求を受諾させ(日仏共同防衛協定)、二十八日、我が軍は南部仏印に進駐した(昭和二十年三月、明号作戦を発動しフランスからベトナム、カンボジア、ラオスを独立させた)。

 南部仏印は、マレー半島(英領)、インド(英領)洋への出口であるマラッカ海峡、ボルネオ、スマトラ島(蘭領)、フィリピン(米領)を制し得る東南アジアの戦略要衝であり、日米開戦後、サイゴンから発進した我が海軍航空部隊が、戦艦プリンスオブウェールズを旗艦とするイギリス極東艦隊を撃沈し(マレー沖海戦、昭和十六年十二月十日)、山下奉文中将の率いる我が第二十五軍のマレー半島上陸作戦を成功させた事が示すように(昭和十七年二月十五日シンガポール陥落)、我が国の南部仏印進駐とは、まさに対米英開戦の準備であった。


50、ABCD包囲網

 我が国の南部仏印進駐に対して、七月二十三日、アメリカ大統領ルーズベルトは、支那問題特別補佐官のロクリン・カリーによって提唱された五百機の中国空軍を編成し、アメリカ軍の爆撃機が十一月までに支那大陸から日本本土を直接爆撃し日本の戦争能力を事前に挫くという「JB(米陸海軍統合参謀本部)355」作戦を認可し、中国軍に参加する義勇兵に偽装したアメリカ航空部隊「フライングタイガース(AVG)」をビルマ経由で支那戦線に派遣した(1)。九月十三日にはアメリカによって中華民国に提供される大量の兵器の適切な使用について蒋介石政権に助言を与えるアメリカ軍事使節団の第一陣が重慶に到着した。

 経済問題担当の大統領補佐官であったロクリン・カリーは、蒋介石の要請を受けたルーズベルトの特別代理人として一九四一年一月二十八日から三月十一日まで中華民国を訪問し、帰米後はアメリカの対中支援の責任者として、対中武器貸与計画に専念し、特に中国空軍を十月末までに再建する作業に打ち込んだ人物であるが、ルーズベルトの厚い信頼を得ていたカリーの正体はソ連のスパイであった。アメリカ共産党本部のあったニューヨークとモスクワとの間のソ連暗号解読作戦Venona資料によると、ロクリン・カリーの隠名はPageであり、カリーは、アメリカ共産党がエリザベス・ベントレーを介してアメリカ政府内に構築したスパイ網(シルバーマスターグループ、後にKGB直轄となる)に属していたのである(2)。

 続いて七月二十五日、アメリカ政府は在米日本資産凍結を声明し、二十六日、イギリスも在英日本資産凍結を発表した他、日英通商航海条約、日印通商条約、日緬(ビルマ)通商条約の廃棄を通告してきた。二十七日、ニュージーランドが対日通商関係の廃案を通告、二十八日、蘭印(オランダ)が日本の資産凍結令、日本との金融協定、日蘭石油民間協定の停止を公表した。そして八月一日、ルーズベルトは石油禁輸強化を発令、日本を対象として発動機燃料、航空機用潤滑油の輸出禁止を発令し、これ等の経済制裁によって我が国は完全に石油の供給を絶たれることになった。所謂ABCD対日包囲陣の完成である。

 戦後日本の通説では、アメリカの対日経済制裁は我が国の南部仏印進駐に対する報復制裁措置とされてきたが、東京裁判却下未提出弁護側資料によると、アメリカ国務省は七月二日に「米国に於ける日本資産の凍結は近き将来に予期され得る」との結論に到達していた(3)。

 奇しくも昭和十六年七月二日、日米両国政府において日本を南進に誘導する政策決定が為されていたといえよう。なぜならアメリカの対日経済制裁は近代国家の生存に必要不可欠な資源(特に石油)を欧米に依存する無資源国日本から物理的に北進能力を奪い、陸軍内の北進論者をも南進戦略に転換させたからである。

 参謀本部作戦部長の田中新一少将は、御前会議決定中の「独ソ戦の推移帝国の為有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」を根拠にして強硬に北進を主張し、陸軍省を代表して対ソ開戦に反対する軍事課長の真田穣一郎大佐と激論を繰り返していた。

 七月四日夜、あくまで北進に反対する真田に業を煮やした田中少将は、東條陸相に直接談判し、関東軍特別演習実施に同意させ、「国策要綱」で採択された対ソ武力的準備を発動させたのである。だがアメリカの対日石油禁輸措置が発表されるや否や田中少将は、

 「もはや、北は純国防上の見地において処理されるべきであり、南は国防上の窮迫に先だち、進んで資源獲得の見地から処理しなければならない。南進政策の強行をもって不動の国策とすべきである」

と「頭を転向」し、八月九日、遂に参謀本部と陸軍省は、年内対ソ武力行使の企図を中止し、「十一月末を目標として対英米作戦準備を促進」方針を定め、海軍の意思表示を待った。田中少将を始め北進派の雄大な企図の下に行われた関特演も、動員だけは実施されたが、その作戦発動は消え失せてしまった。ここに我が国の国策は南進戦略(対米英戦)に統一されたのである。

(1)【ルーズベルト秘録下】九十四~九十六頁、小堀【東京裁判日本の弁明】五三八~五三九頁、吉田一彦【アメリカ義勇航空隊出撃】一〇〇~一一四頁。爆撃機はイギリスに優先供与され、結局AVGには戦闘機しか送られず、真珠湾攻撃前の日本本土爆撃は実行されなかった。AVGの初陣は、一九四一年一二月二十日昆明上空における日本軍爆撃隊に対する迎撃である。
(2)John Earl Haynes、Harvey Klehr【Venona Decoding Soviet Espionage in America】一四五~一五〇頁「Lauchlin Currie:White House Aide as Soviet Spy」、三四六、四四九頁。
(3) 小堀【東京裁判日本の弁明】五二八頁「ウィリアム・ローガン弁護人最終弁論・自衛戦論」


51、昭和十六年九月六日御前会議、明治天皇の御製

 十四日、海軍は「十月十五日迄に対米英開戦戦備を完了する」という計画を陸軍側に提示してきた。参謀本部は、九月下旬又は十月上旬に開戦決意、十一月初旬に開戦し、ソ連が対日戦を行い難い冬期十二~五月に南方要地を攻略することを構想しており、陸海軍の協議と修正が繰り返された後、九月三日、大本営政府連絡会議は新国策『帝国国策遂行要領』という重大な国策を遂に決定した。尾崎秀実が、満鉄大連本社での「新情勢の日本政治経済に及ぼす影響の調査」会議に出席する為、東京から満洲に出張した翌日である。それは次の如き内容であった。

1、帝国は自存自衛を全うする為、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途として戦争準備を完整す。

2、帝国は右に併行して、米英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む。対米(英)交渉に於て、帝国の達成すべき最小限度の要求事項、並に之に関連し、帝国の約諾し得る限度は別紙の如し。

3、前号外交交渉により、十月初旬に至るも尚我が要求を貫徹する目途無き場合に於いては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す。対南方以外の施策は、既定国策に基き、之を行い、特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む。

(別紙)

 対米(英)交渉に於て、帝国の達成すべき最小限度の要求事項、並に之に関連し、帝国の約諾し得る限度。

第一、対米(英)交渉に於て、帝国の達成すべき最小限度の要求事項。

一、支那事変に関する事項

米英は帝国の支那事変処理に容喙し、又は之を妨害せざること。

(イ) 帝国の日支基本条約及日満支三国共同宣言に準拠し、事変を解決せんとする企図を妨害せざること。

(ロ) 「ビルマ」行路を閉鎖し、且蒋政権に対し、軍事的並経済的援助をなさざること。

二、帝国国防上の安全を確保すべき事項(省略)

三、帝国の所要物資獲得に関する事項(省略)

第二、帝国の約諾し得る限度。

第一に示す帝国の要求の応諾せらるるに於ては、

一、 帝国は、仏印を基地として、支那を除く其の近接地域に武力進出をなさざること。

二、 帝国は、公正なる極東平和確立後、仏領印度支那より撤兵する用意あること。

三、 帝国は、比島の中立を保障する用意あること。

 (注)(イ)三国同盟に対する帝国の態度に関し、質疑し来る場合は、三国条約に関する帝国の義務遂行は、何等変更すべきものにあらざる旨、確言するものとし、我より進んで帝国の三国条約に対する態度、及米国の欧州戦争に関する態度に付いては、論議せざるものとす。

 (ロ)ソ連に対する帝国の態度に関し、質疑し来る場合、ソ側に於て、日ソ中立条約を遵守し、且日満に対し脅威を与える等、同条約の精神に反するが如き行動無き限り、我より進んで武力行動に出づることなき旨、応酬す。

 五日、昭和天皇は、近衛首相から同案を内奏されると目を見張って不安な表情を示され、

 「之を見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける。この点に明日の会議で統帥部の両総長に質問したい」

と仰せられた。近衛は「政府は外交を主とし、その遂にまとまらぬ場合に戦争の準備を始める趣旨である」と奉答し、「統帥部総長への御質問は、御前会議では場所柄いかがかと存じますので、今すぐに御呼び出しになられては」と奉答すると、昭和天皇は「直ちに呼べ、総理も陪席せよ」と述べ、拝謁した杉山参謀総長、永野軍令部総長に、次々と鋭い御質問を下された。

天皇「本国策要領の趣旨はできるだけ外交の推進にあり。従って本文の一、二は置き換えられてよかるべきものと考うるが如何。」
両総長「その通りでございます。」
天皇「南方作戦は直ぐすむように考えるか。また予定通り行くと考えているか。」
杉山「まず南方要域攻略作戦は冬季に予定しあるをもって、その間は北の方面は大した考慮なく南方作戦に専念し得ます。北方は三月以降にならなければ大作戦はないと判断しておりますので、この間南方要域攻略作戦を終了し、来春になれば北方に対する作戦の自由を保有することができます。海軍との協同研究の結果によれば、南方要域攻略作戦すなわち緒戦は大体五ヶ月で終了し得るものと考えております。すなわち比島一ヶ月半、マレー約百日、それに蘭印攻略をいれて約五ヶ月とみております。すなわち、これらの地域の要点占領に五ヶ月、尚なし得る限りこの時日の短縮に務めたいと存じております。」
天皇「その通りいかぬこともあろう。」
杉山「さようでございます。作戦ならば予定通り行かぬこともあります。但し只今奉答の案は幾回にもわたり陸海軍協同研究の結果得た結論であります。」
天皇「支那事変の初め、陸軍大臣として閑院宮と一緒に報告し、速戦即決を主張したが、果たして如何。今に至るも事変は長く続いているではないか。考え違いか。」
杉山「一挙に事変を解決するよう申し上げ、まことに恐縮のほかありません。」
永野「じり貧論を申し述べ、時機を逸して数年の後に自滅するか、それとも今の内に国運を引き戻すか、手術を例に御説明を申し上げた。まだ七、八分の見込みがあるうちに最後の決心をしなければなりませぬ。相当の心配はありますが、この大病を癒すには大決心をもって国難排除に決意するほかはありません。将来の活路を開くための決意が必要であります。ドイツ軍のノルウェー上陸の例もありますが、思い切る時には思い切らねばならぬと存じます。」
天皇「勝つか、絶対に勝つと言えるか。」
永野「絶対とは申されません。事は単に人の力だけではなく、天の力もあり、算があればやらなければなりません。必ず勝つかと仰せられれば必ず勝つと奉答しかねますが全力を尽くして邁進するほかはございません。外交で対米妥結といっても、一年や二年限りの平和ではものになりません。少なくとも十年、二十年なればともかく、一年や二年の平和では第一に国民が失望落胆いたします。」
天皇「わかった。」
両総長「戦争を好むというのではありません。本要領案は避くべからざる場合に対処するためのみのものでございます。」
近衛「両総長の言の如く、まず第一は外交交渉にあります。」
天皇「わかった承認しよう。」

 翌日、宮中東の間において、御前会議が開かれた。出席者は近衛文麿首相、田辺治通内相、豊田貞次郎外相、東條英機陸相、及川古志郎海相、小倉正恒蔵相、鈴木貞一企画院総裁、杉山元参謀総長、塚田攻参謀次長、永野修身軍令部総長、伊藤整一軍令部次長、武藤章陸軍省軍務局長、岡敬純海軍省軍務局長、原嘉道枢密院議長、富田健治内閣書記官長であった。近衛首相は単に開会の辞を簡単に述べただけで、杉山・永野両総長が統帥部の見解を詳細に説明した。原枢密議長が質問に起ち、

 「本案は一見戦争を主として外交を従とするやに見えるが、真意はあくまで外交による打開に努むるものと解して宜しいか」

と述べると、及川海相が起って之を肯定した。するとその時である。昭和天皇は、慣例を破り突如発言され、

 「原議長の質問に対して統帥部が何等答えないのは甚だ遺憾である」

と仰せになり、懐中から紙片を取り出されて、明治天皇の御製「四方の海」を二度詠まれ、さらに言葉を継がれて厳粛に宣された。

 四方の海みな同胞と思う世に

      など波風の立ちさわぐらむ 

 「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せんと努めているものである、どうか。」

 昭和天皇は、内閣の補弼と副署に依り宣戦講和大権を行使しなければならない立憲君主(憲法第四条、第十三条、第五十五条による)として、一同に「帝国国策遂行要領」を再考し、和平努力を尽くすようにとの御自身の平和希望を示唆されたのである。満座は水を打った如く肅然とし、暫くは一言も発する者は無かった。だが帝国国策遂行要領は覆されることなく、御前会議は未曾有の緊張裡に散会した。宮中から陸相官邸に引き上げてきた東條陸相と武藤軍務局長は、待機していた陸軍省部の主な部課長に向かって、

 「聖慮は平和にあらせられるぞっ!」

 「おい、戦争なんぞは駄目だ。陛下はとてもお許しになりっこない!」

と大声で叫んだが、もはや日本国政府に残された外交交渉の猶予期間は、僅か一ヶ月間でしかなかった…。


52、窮地

 十九日、満洲旅行から帰京した尾崎はゾルゲに対し、関東軍の動向や満鉄の輸送状況を報告した。ゾルゲは、尾崎の報告や日本政府統帥部の国策決定を分析し、十月四日、モスクワに次の報告を打電した。それは彼等の最後の諜報活動となった。

 「我々とクレッチマー、ヴェネッカー及びオットー大使の判断によれば、日本がソ連を攻撃する可能性は少なく、少なくとも、来るべき冬季の終わりまでは確実にないと思われる。これは絶対に疑いを入れない。日本が攻撃を開始するのは、ソ連の大部隊の兵力がシベリアから撤退し、或いは、シベリア内乱が起きた時であろう。日本の陸軍部内では、余りにも早急に大動員を行ったことに対する責任問題が起きている。余りにも大部隊の関東軍を維持することは、経済的、政治的に種々の困難を引き起こすからである。」

 ゾルゲ機関をはじめ世界中に張り巡らされたソ連の諜報機関からの報告を受諾し、後背の安全を確信したスターリンは、一九四一年末迄に、シベリアで関東軍と対峙する極東ソ連軍から約半数の兵力(歩兵十五個師団、騎兵三個師団、航空機千五百機、戦車千七百両)を抽出し、対ドイツ戦に投入した。この戦力転用はソ連の勝利に大いに貢献し、一九六四年にソ連共産党は、ゾルゲの最後の通信を次のように賞賛した(1)。

 「我が国の危機に際して、リヒャルト・ゾルゲと恐れを知らぬ彼の同志らは、ソ連国民に対して計り知れない貢献を再びしたのであった。彼等は、ヒトラーが赤軍に対処し得ると確信した日本の軍国主義者が太平洋で戦争を始めるべく兵力を集結中である、と報告してきた。関東軍の存在がソ連の大兵力を東部国境に留めることをまだ必要としていたが、この情報によって、極東からソ連の師団を移動させることが可能になった。」 

 ソ連がゾルゲ機関の諜報活動によって対独抗戦力を増し窮地を脱しつつあった時、彼等の謀略活動によって支那事変の解決を妨害され対米英戦へ誘導された我が国は、逆に窮地に追い込まれ、和戦の決断を迫られていた。

(1)プランゲ【ゾルゲ東京を狙え下】一五一頁。


53、日米首脳会談

 我が軍の南部仏印進駐直後の八月四日、近衛首相は陸海軍大臣を招き、

 「このままずるずると、戦争に這入ると云う事は、世界の平和特に日米の国交を最も御軫念遊ばさるる陛下に対し奉ても又国民に対しても為政者として申訳ない事と考える。つくす丈の事はつくして遂に戦争となると云うならば、之は致し方なし。その場合には吾々も腹も据り国民の覚悟もきまる。

 此の際は全く危機一髪の時であって、野村大使等を通しての交渉では時機を失するおそれあり、むしろ総理自ら大統領と会見の上、帝国の真意を率直大胆に、披瀝すべし。

 其の際、彼にして了解せざれば、席を蹴て帰るの覚悟を要するは固よりなり。従て対米戦の覚悟をきめてかかる事柄で、大統領と直接会て遂に了解を得られなかったと云う事であれば、国民に対しても、真に日米戦止むを得ずとの覚悟を促す事になり、又一般世界に対しても侵略を事とするのではなくして太平洋平和維持の為には此れ丈け誠意を披瀝したのである事がはっきりして、世界輿論の悪化を幾分にても緩和し得る利益あり」

と語り、我が国政府は「日米諒解案」に含まれていた日米首脳会談の実現をアメリカ政府に申し込んでいた。だが蒋介石政権を支持し日本と対立する米英がドイツを打倒する為、対ソ支援を強め、ABCD対日包囲網がソ連を加えたABCDS包囲網に発展する様相を呈し、我が国の国力が低下していく中、統帥部は対米交渉が遅々として進展しない情勢に焦燥し、九月二十五日の連絡会議にて、杉山参謀総長を代表として政府に対し、

 「帝国国策遂行要領に伴う帝国の対米開戦決意の時機に関しては作戦上の要請を重視すべく、之が為日本外交交渉に一日も速かに其の成否を判定し、遅くも十月十五日迄に政戦の転機を決するを要す」

と通告した。だが二十七日、近衛首相は病気を理由に鎌倉山の別荘に引籠もってしまい、首相に代わって豊田外相がアメリカ駐日大使グルーを招き、

 「当方としては総理一行を輸送すべき船舶は勿論、陸海軍大将を含む諸随員もそれぞれ内定し、何時にても出発しうる態勢にあり」

と改めて首脳会談の実現を申し込んだ。だが十月二日、ハル国務長官は野村大使に、

 「米国政府としては予め諒解が成立しなければ、両国首脳の会見は危険であると思考する」

と従来の主張を繰り返し、長文の覚書を手渡した。それは、日本は支那に「不確定期間駐兵」を目論んでいると非難し、日本にハル四原則(1、あらゆる国家の領土保全と主権尊重、2、内政不干渉、3、機会均等、4、平和的手段によらぬ限り太平洋の現状不変更)の承認を求め、日本軍の支那仏印からの撤退、三国同盟の死文化を迫る内容であった。

 近衛文麿が五十歳の誕生日を迎えた十月十二日、近衛首相は、東條、及川、豊田、鈴木を「荻外荘」に招いて五相会議を開いた。午後二時から始まったこの会議は、開戦期日が迫る中で外交交渉の見透しを研究すると共に和戦の方向を論議する重大な会合であった。


54、近衛文麿・東條英機会談

 会議ではまず近衛が、外交的打開の途無きに非ず一層これに努めたいという意見を述べた(1)。

豊田「日米交渉妥結の余地あり、それは駐兵問題に多少のあやをつけると見込みがあると思う、北仏の兵力増加は妥結の妨害をしている、これを止めれば妥結の余地はある。」
近衛「九月六日の日本側提案と九月二十日の提案との間には相当の開きがある、米側が誤解しているにあらずやと思わる、これを検討すれば妥結の道はある」
東條「判断は妥結の見込みなしと思う、凡そ交渉は互譲の精神がなければ成立するものでない、日本は今日まで譲歩に譲歩し、四原則も主義としてはこれを認めたり、しかるに米の現在の態度は自ら妥協する意志なし、先般の回答は九月六日九月二十日の我が方の書類に対する回答と存ず。」
及川「外交で進むか戦争の手段によるかの岐路に立つ、期日は切迫して居る、その決は総理が判断してなすべきものなり、もし外交でやり戦争をやめるならば、それでもよろし」
東條「問題はそう簡単にはゆかない、現に陸軍は兵を動かしつつあり、御前会議決定により兵を動かしつつあるものにして今の外交は普通の外交と違う、やって見ると言う外交では困る。
 日本の条件の線にそって統帥部の要望する期日内に解決する確信がもてるなれば、戦争準備を打ち切り外交をやるもよろしい、その確信はあやふやな事が基礎ではいかぬ、この様なことでこの大問題は決せられぬ、日本では統帥は国務の圏外に在る、総理が決心しても統帥部との意見が合わなければ不可なり、政府統帥部の意見が合い御裁断を要す。
 総理が決心しても陸軍大臣としては之に盲従するは出来ない、我輩が納得する確信でなければならない、納得できる確信があるなら戦争準備は止める、確信をもたなければ総理が決断をしても同意はできぬ、現に作戦準備をやって居るのでこれをやめて外交だけやることは大問題だ、少なくとも陸軍としては大問題だ、充分なる確信なければ困る。
 外相に確信がありますか、北部仏印のことは瑣末の問題だ、外交が延びるからあのような問題が起きるのだ、陸軍がやるから外交困るといわれるのは迷惑だ、軍のやっとる基準は御前会議決定によっておるのだ。」
豊田「遠慮ない話を許されるなれば、御前会議御決定は軽率だった、前々日に書類をもらってやった。」
東條「そんなことは困る、重大の責任でやったのだ。」
近衛「戦争は一年二年の見込みはあるが三、四年となると自信はない、不安がある。」
東條「そんな問題はこの前の御前会議の時に決まっている。七月二日の御決定に南方に地歩を進め北方は解決すと練りにねって決められたのだ。各角度から責任者が研究し、その責任の上に立ったものでそんな無責任なものではない。」
近衛「今どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ず、戦争に私は自信ない、自信ある人にやって貰わねばならぬ。」
東條「これは意外だ、戦争に自信がないとは何ですか、それは国策遂行要領を決定する時に論すべき問題でしょう、外交に見透しありと言う態度ではいけない、確信がなければいけない。」

 結局、荻外荘での五相会議はまとまらず、今日和戦の決を下すことは時期尚早として散会した。十三日夜、近衛首相は、豊田外相から、全面撤兵を約すれば妥結の見込みあり、これを拒めば絶望という外交予想を聴取し、翌朝、首相官邸において閣議前に東條陸相と会談した。

近衛「この際、一時屈して撤兵の形式を彼(米国)に与え、日米戦争を回避するとともに、支那事変に結末をつけることが、国力、国民思想の上から考えて必要だ。」
東條「駐兵以外にも問題は残っている。駐兵が中心となるというのは当方の想像だ。譲るも成功するかどうか疑問だ。」
近衛「戦争は心配だ。」
東條「首相は国内の弱点を知り過ぎて悲観に陥っているが、米国にも弱点はあるのだ。人間、時には清水の舞台から飛び降りる勇気を必要とする。」

 近衛は「そうなれば見解の相違で致し方ない。閣議で今の説を述べてもらいたい」と言い捨てると、東條は「見解の相違というよりも性格の相違です」と言い返し、二人の会談は終了した。その後の閣議において、東條陸相が「外交交渉が必ず成功する確信があるなら戦争準備は止めてもよい」と言えば、豊田外相は「交渉の中心は支那仏印の撤兵問題だ」と答え、全面撤兵による外交妥結工作を主張したところ、東條陸相は語気を強めて次のように反論した(1)。

 「撤兵問題は心臓だ、撤兵を何と考えるか、陸軍としては之を重大視して居るものだ、米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満洲国をも危うくする、更に朝鮮統治をも危うくなる。帝国は聖戦目的に鑑み非併合、無賠償としておる。支那事変は数十万の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷兵、数百万の軍隊と一億国民の戦場及び内地で辛苦をつまして居り、尚数百億の国幣を費やしておるものであり、普通世界列国なれば領土割譲の要求をやるのは寧ろ当然なのである。

 然るに帝国は寛容な態度をもって臨んで居るのである。駐兵により事変の成果を結果づけることは当然であって世界に対し何等遠慮する必要はない。巧妙なる米の圧迫に服する必要はないのである。北支蒙疆に不動の態勢をとることを遠慮せば如何なりますか、満洲建設の基礎は如何なりますか、将来子孫に対し責任の禍根を貽すこととなり、これを回復する為に又々戦争となるのであるります。

 満洲事変前の小日本に還元するなら又何をか言わんやであります。撤兵は退却です。帝国は駐兵を明瞭にする必要があります。所要の駐兵をして其の他の不要なものは時が来れば撤兵するのは当然です。撤兵を看板とせば軍は志気を失う、士気を失った軍は無いも等しいのです。撤兵の問題で少策を弄し彼に逐次我が主張を変更せしめられることは不可であります。

 駐兵は心臓である。主張すべきは主張すべきで譲歩譲歩譲歩を加え其の上にこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか、これまで譲りそれが外交とは何か、降伏です。益々彼をして図に乗らせるので何処までゆくか、わからぬ。

 青史の上に汚点を貽すこととなる、国策の大切な処は譲らず、たとえ他は譲っても之は譲れぬ。この様なやり方でなく三国同盟を堅めて彼を衝くも宜し。作戦準備で脅威するならこれもよし、独ソの和平を米は気にしているからこの弱点をつきこれを成功せしめて米の軍備拡張を脅威して我が主張を通すもよろしい。

 彼の弱点をつき、これをもって外交上自信ありと言わるのなればわかるが、譲ることのみをもって自信ありと言われても私はこれを承け容れるることは出来ぬ。」

 斯くして閣議が一致しないまま解散した後、武藤陸軍省軍務局長は富田書記官長に、

 「海軍は和戦について『総理一任』と言っているが、総理の裁断だけでは陸軍部内は抑えられない。しかし海軍が『戦争を欲せず』と公式に陸軍に言ってくれるならば陸軍としては部内を抑え易い。何とか海軍の方から『戦争を欲せず』と言ってくれるように仕向けて貰えまいか」

と依頼してきたので、書記官長が岡海軍省軍務局長に話したところ、岡は、

 「海軍としては戦争を欲しないということは正式には言えない。『首相の裁断に一任』というのが精一杯だ」

と答えた。

 海軍側さえ「戦争欲せず」と言明すれば、陸軍が如何なる強硬論を唱えようとも、我が国の対米英開戦は不可能になる為、東條陸相は対米英開戦の準備を放棄する決意を固めていた。しかし海軍が「対米英戦欲せず」と公式に言明すれば、彼等がただ組織維持の為に米英を仮想敵国として膨大な国力を消耗してきたことが朝野(政府と民間)に知れ渡る為、及川海相と岡軍務局長は「和戦総理一任」などという無責任な言辞を弄したのである。

(1)【杉山メモ上】三四五~三五〇頁。


55、近衛内閣総辞職

 午後六時、近衛首相は平然とした表情で元鉄道大臣の内田信也邸を訪問し、

 「いやー、もうあなたに入閣をお願いする話は必要がなくなりました。内閣はもうお終いですよ」

と述べた。「それはまたどうしたことか」と内田が反問すると、近衛は、

 「もう一度閣議を開くことにはなっているが、東條陸相から今日、日米交渉打ち切りの発言があった。それで及川海相に、海軍は戦争に対する自信があるかと尋ねたんだが、首相一任という答弁だ。いや海軍として戦争可能か不可能かを聞いているので、政治上の裁決を問うているのではない、と重ねて意見を叩いたんだが、しかし依然として曖昧を極め、首相一任を繰り返すだけだ。海軍さえ戦争不可能を明言してくれれば、話は早いのだが、海軍がこんな態度じゃ陸軍を抑えることも出来ません。いずれ次の閣議でまた蒸し返すことになろうが、所詮まとまる見込みはない。そんなわけで今日はただ御馳走になるだけです」

と寂しく微笑み、内田と食事を共にした後、ふと筆をとり色紙に「夢」と大書し、

 「二千六百年、永い夢でした」

と呟いた(1)。近衛と内田が談話を交わしていると十時頃、東條陸相が鈴木貞一企画院総裁を通じて近衛に、

 「海軍大臣は戦争を欲しないようであるが、それなら何故海軍大臣は自分にそれをはっきり云ってくれないのか。海軍大臣からはっきり話があれば自分としても考えなければならない。然るに海軍大臣は全責任を総理に負わせているが、これはまことに遺憾である。海軍の肚が決まらなければ、九月六日御前会議は根本的に覆るのだから、この際総辞職してもう一度案を練り直す以外にない」 

と述べ、更に「陸軍を抑える力のある者は臣下には居ないので、後継内閣首班は宮様しかない」と述べ、後継首班として、かねて非戦論者であり、熱心に日米和平交渉の成立を期待して来られた東久邇宮殿下を奏薦することに協力して欲しいと要請してきた。
 すると近衛首相は、海軍首脳より和戦の決を一任されていたにも拘わらず、十六日、昭和天皇に「臣文麿」に始まる次の辞表を捧呈し、第一次近衛内閣の終末と同様の厚顔無恥この上なき総辞職を敢行したのである。

 「曩に図らずも三度大命を辱うして内閣を組織するや、現下の国際政局に処して国家将来の伸長を期せんが為には、速に米国との友好関係を調整し、依て以て支那事変の急速解決を図らざるべからずと確信し、米国政府に対し全力を挙げて屡次の交渉往復を重ね大統領に対しては親しく両者会談の機を与えられんことを要望し以て今日に及べり。

 然るに内閣最近に至り、東條陸軍大臣は、右交渉はその所望時期(概ね一九四一年十月中、下旬)までには、到底成立の望み無しと判断し、即ち本年九月六日御前会議の議を経て勅裁を仰ぎたる『帝国国策要領』中、三の『我が要求を貫徹しうる目途なき』場合と認め、今や対米開戦を用意すべき時期に到達せり、となすに至れり。  

 つらつら惟みるに、対米交渉は、籍すに時日を以てすれば、尚其の成立の望みなしと断ずべからざると共に、最も難関なりと思考せらるる撤兵問題も、名を棄て実を取るの主旨により、形式は彼(米国)に譲るの態度を採らば、今尚妥結の望みありと信ぜらるるを以て、支那事変の未だ解決せざる現在に於て、さらに前途の見透すべからざる大戦争に突入するが如きは、支那事変勃発以来、重大なる責任を痛感しつつある臣文麿の到底忍び難き所なり。因て此の際は、政府軍部協力一致其の最善を尽して、あくまで対米交渉を成立せしめ、以て一応支那事変を解決せんとするは、国力培養の点より言うも、将又民心安定の上より見るも、現下喫緊の要事にして、国運の発展を望まば寧ろ今日こそ大いに伸びんが為に善く屈し、国民をして臥薪嘗胆益々君国の為に邁進せしむるを以て、最も時宜を得たるものなりと信じ、臣は衷情を披瀝して東條陸軍大臣を説得すべく努力したり。之に対し陸軍大臣は、総理大臣の苦心と衷情とは深く諒とする所なるも、撤兵は軍の士気維持の上より到底同意し難く、又一度米国に屈する時、彼は益々驕横の措置に出で、殆ど停止する処を知らざるべく、仮令一応支那事変の解決を見たりとするも、日支の関係は両三年を出ずして、再び破綻するに至ることも亦予想せられ、且国内の弱点は彼我(日米)共に存するを以て、時期を失せず、此の際開戦に同意すべきことを主張して已まず、懇談四度に及びたるも遂に(東條に撤兵を)同意せしむるに至らず、是に於て臣は遂に、所信を貫徹して、補弼の重責を完うすること能わざるに至れり、是偏へに臣が菲才の致す所にして、洵に恐懼の至りに堪えず、仰ぎ願くば聖慮を垂れ給い、臣が重職を解き給わむことを。」     

(1)内田信也【風雪五十年】二八九頁。


56、任務完遂

 二日後の十八日、リヒャルト・ゾルゲが特高警察外事課ソ連担当の刑事によって逮捕された。十五日、ゾルゲは部下のマックス・クラウゼンに何枚かの通信文を手渡しモスクワに発信するよう命じたが、その中には「日本における任務は終わったから帰国しようと思うが如何」との通信文があったという(1)。

 ゾルゲ事件の訊問調査書は、国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法に違反するゾルゲ機関の諜報活動に焦点を当て、「帝国主義国家相互間の戦争激発」や「東亜新秩序構想」など彼等の謀略活動について、ほんの僅かしか言及していない。だが獄中手記の中で、ゾルゲは「若い青年将校の動向がどの程度まで共産主義的即ち革命的色彩を帯びて居るかと云う事を研究することが私の義務であった」と述べている(2)。また尾崎は、「私は所謂軍部嫌いではありませんでした。個人的には軍人の友人も多く、軍部の立場からはその政策の遂行が当然だと理解して居りました」と述べ(3)、また帝国大学新聞昭和十四年六月二十六日「東亜協同体論」の中で、

 「現在、協同体論者の主張は次の人々によって代表されている。満洲建国イデオロギー派ともいうべき杉原正巳氏、毛利英於菟氏らの一派がある。蝋山政道氏を中心とする昭和研究会派。三木清、三枝博音氏等の哲学者グループ、船山信一氏もしばしば注目すべき論文を発表している。山崎経済研究所に拠る山崎靖純氏は、『評論』誌によって最も活発なる協同体論の主張を続けつつある。その他学者、軍人等の中にも協同体論の支持者のあることは、少しくこれに注意しているものの容易に気付くところと思われる」

とも言っており(4)、ゾルゲ機関の任務が単純な諜報活動ではなく革新思想に汚染された政府および軍内部に対する浸透工作を含んでいたことを示唆している。

(1)【現代史資料ゾルゲ事件4】一七八頁。三田村【戦争と共産主義】一九一頁。
(2)【現代史資料ゾルゲ事件1】一一九頁。
(3)【現代史資料ゾルゲ事件2】三十三頁。
(4)【尾崎秀実著作集5】一七二~一七三頁。



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国民のための大東亜戦争正統抄史38~42ソ連の対日米支諜報謀略網

【ソ連の対日米支諜報謀略網】


38、太平洋問題調査会

 尾崎秀実と西園寺公一が出席した学術団体「太平洋問題調査会Institute of Pacific Relations」の第六回太平洋会議(一九三六年八月十五~二十九日、カリフォルニア州ヨセミテ国立公園)の議事抄録「オクスフォード大学刊一九三六年の太平洋の諸問題、太平洋諸国の社会及経済政策の目的と結果、中共紅軍の活動と反帝救国統一戦線の結成」が東京裁判却下未提出弁護側資料(昭和二十二年四月二十五日、第二〇四回公判に提出予定)に存在する(1)。
 この議事抄録が詳述する支那大陸の情勢は、日支提携論者の石原莞爾が参謀本部作戦課長に起用された昭和十年(一九三五)八月一日、中国共産党が八・一抗日救国宣言を発表し、以後、北京と上海において、中国共産党の指揮煽動の下に学生を中心として、蒋介石に内戦中止と容共抗日という統一戦線の結成を強要する多数の抗日救国団体が出現し、中華民国の排外主義の矢を日本に向け、日本と蒋介石を噛み合わせて漁夫の利を得んとする中国共産党の新戦略-コミンテルン三十五年テーゼに依拠する人民戦線戦術が功を奏しつつある、というもので、この中には、

 「領土の一部にソビエト政権が存在する支那の如き国家の条件下に於いて反帝国主義的人民戦線の戦術の正しい適用は、ソビエト革命の向後の勝利のためプロレタリアートのヘゲモニー強化のための闘争における共産党の地位と力を弱めず、却って強めているということを強く確信するを要する」

という、コミンテルン第七回大会に出席した中国共産党員中最高指導者の一人たる王明(陳紹禹)の言葉が引用されている。このIPR第六回ヨセミテ会議から四ヶ月後、西安事件が発生したのである。

(1)小堀桂一郎【東京裁判日本の弁明】三五六~三六四頁。尾崎は会議に「最近の段階における日支関係」という論文を提出した(【尾崎秀実著作集1】三六九頁。【尾崎秀実著作集5】三九九、四二七頁)。


39、西安事件

 一九三五年十一月一日、国民政府は、彼等の第五次掃共戦(一九三三年十月五日~三十四年十一月十日)を受け壊滅的大損害を被り、瑞金を放棄し外蒙古に近い延安に根拠地を移した中国共産党軍(大西遷、一九三四年十月十五日~三五年十月二十日)を掃討する為、陜西省の西安に西北剿匪総司令部を設置、日本軍によって満洲を追われた張学良を副司令に任命し、東北軍に掃共戦を行わせていた。

 だが満洲事変以降、東三省を失い、奉天から錦州へ、錦州から北京へ追われ、東北の故郷を想い、失地回復を夢見ていた東北軍将兵は、「中国人は中国人を打たず」「一致抗日」「我等と連合し、日本と闘って満洲へ帰ろう」など人民戦線戦術に基づく中国共産党の巧妙なスローガンに動揺して掃共戦を停止してしまい、張学良は三六年四月から中国共産党と秘かに接触、共同抗日について協議していた。

 そこで西北剿匪総司令官たる蒋介石は、張学良に掃共戦を督促するため西安に赴いた。だが四年前の満洲独立に刺激された蒙古族の徳王の率いる内蒙古独立軍が関東軍の後援を得て綏遠省に侵入したものの(綏遠事件、三六年十一月十四日)、同省主席の傅作儀軍に大敗北を喫したという報に接した東北軍は、俄然抗日気運を高め、一九三六年十二月十二日、蒋介石を逮捕監禁し、一切の内戦の中止、愛国的領袖(抗日運動指導者)の即時釈放、集会結社の自由、救国会議の即時開催など、中国共産党の主張に沿った八項目の受諾を要求し、南京政府に次の通電を発したのである。

 「当軍はここ数年来中央の命に従い辺疆に赴いて専ら剿匪事業に従事し中国の安寧、人民の福祉増進のため努力し来ったが、この間蒋介石の南京政府は批政百出し、まず対外的には華北を失い冀東、冀察の独立を見、更に綏遠もこれに倣わんとす、国民政府は須らく対日宣言を布告し以て外侮を一掃すべきものなるに軟弱屈折し外交交渉に終始し、国家国民は今や危殆に瀕せんとし見るに忍びざるものあり、我等はこの機に於いて蒋介石の現国民政府を否認し国家の改造を断行し、外敵を駆逐して東北四省その他失地を回復し国家国民の幸福の為、第一線に立たんとするものである。」

 西安事件の報に接した中国共産党は、モスクワに指示を仰いだところ、スターリンによって「連蒋抗日」と蒋介石の釈放を命じられた為、周恩来ら中共幹部が西安に飛び、張学良と協議した上で、十二月二十五日、蒋介石を釈放した。
 蒋介石、周恩来、張学良の間にいかなる密約が交わされたのかは不明だが、三七年一月六日、西北剿匪総司令部が廃止された。二七年四月の蒋介石の反共クーデターにより第一次国共合作が破綻してから約十年間に及ぶ国共内戦は停止し、滅亡寸前に追い込まれていた中国共産党は蘇生する機会を得たのである。

 昭和十一年六月五日、参謀本部に新設された戦争指導課の初代課長に就任し、国防国策を鋭意構築していた石原莞爾大佐は、西安事件の報に接するや直ちに「対支実行策改正意見」、「帝国外交方針及対支実行策改正に関する理由竝支那観察の一端」(昭和十二年一月六日)を起案した。
 参謀本部戦争指導課は、漢民族伝統の精神を復活させ彼等の悩める所を正確に認識しその病根を我が国力により救済し、石原の「世界最終戦論」から導き出された国防国策大綱(註1)が想定する対外戦争遂行に必要不可欠な「東亜連盟構想に基づく日満支の提携」を実現する為には、我が国が、純正大和民族の誠心を以て、支那に対する帝国主義的侵攻政策、侵略的独占的優位的態度を放棄是正する必要性を強調し、具体的な対支方策として以下の六項目を掲げた。

1. 帝国の対支強圧的又は優位的態度を更改し真に友情的対等的たらしむ。

2. 北支特殊地域なる観念を精算し之を五省独立の気運に誘致するが如き方策を是正し現冀察政権の管掌する地域は当然中華民国の領土にして主権亦其中央政府に在る所以を明確にす。

3. 冀東地区は満支経済提携の梃子とし該地域内の経済開発を急速に実現せしむる為暫く現状を維持せしむると共に支那が軍閥誅求の苛烈なる圧迫下にある現状に対する模範的楽土たるの一試験場として帝国並満洲国によりて支援し後述新支那建設と相俟ち適時支那に復帰すべきものとす。冀東政権に対する誘導は右に準拠す。

4. 施策の対象は軍、政、党に偏することなし。特に列強角逐の複雑混迷を正確に認識し大義名分に立脚せる行蔵に終始し具体的問題を捕捉して日支従来の尖鋭関係を正道に入らしむるを要す。

5. 抗日人民戦線は其発生関係を不問に附するに於ては支那現代の苦悩の一表現なり。之を正当なる民衆運動に転向せしめて以て支那統一新支那建設の指導層たらしむるを要す。

6. 綏東問題は内蒙軍政府が蒙古民族復興を方針として対外侵寇を中止し終始蒙古国建設に傾注することにより支那側との確執を解消せしむ。支那側に対しても亦対蒙圧政政策の非を悟り民族善隣の誼に則るが如く逐次和解指導するに至らしむ。

 さらに石原は北支における日支間の無益の紛争を回避する為、豊台の兵力を通州に移転し通州天津を確保して冀東防衛の態勢を明かにする一方、満洲とは異なる北支に駐屯し天津に司令部を置く我が支那駐屯軍(一九〇一年の義和団事件議定書に基づき駐留)の政治経済指導権を廃止し、北京(北平)に外交機関を置き、融和諒解を主として冀察政権との交渉に当らせ、我が国の権益を獲得せんとする行動を避けることを主張したのである(1)。

(註1)国防国策大綱(昭和十一年六月三十日)

一、皇国の国策は先ず東亜の保護指導者たる地位を確立するにあり之が為東亜に加わるべき白人の圧迫を排除する実力を要す。

二、蘇国及英米の圧迫に対抗する為には所要の兵備特に航空兵力を充実すると共に日満及北支を範囲とし戦争を持久し得る万般の準備を完了すること肝要なり。

三、先ず蘇国の屈伏に全力を傾注す。而して戦争持久の準備に就て欠くる所多き今日英米少くも米国との親善関係を保持するに非ざれば対蘇戦争の実行は至難なり。

 又我兵備充実に当りては外交的手段に依り蘇国の対抗手段の緩和に努む。(独乙の利用〔石原註記〕)

四、兵備充実成り且戦争持久の準備概ね完了せば蘇国の極東攻勢政策を断念せしむる為積極的工作を開始し迅速に其目的の達成を期す。而して戦争に至らずして我目的を達成することは最も希望する所なり。

(一、対支我行動を妨げざること。二、対英戦争に少くも中立を厳守すること〔石原註記〕)

五、蘇国屈伏せば適時之と親善関係を結び進で英国の東亜に於る勢力を駆逐す。

 好機を捉え実力を以て東亜に於る其根拠地を奪取し一挙被圧迫東亜諸民族を独立せしめ且「ニューギニア」豪洲及「ニュージーランド」を我領土とす。此際米国の参戦を覚悟すと雖も成し得る限り其中立を維持せしむることに努力す。

六、日支親善は東亜経営の核心にして支那の新建設は我国の天職なり。然れども白人の圧迫に対し十分なる実力無くして其実現は至難なり。

 対蘇戦争の為現下の対支政治的工作は南洋方面の諸工作と共に英米殊に米国との親善関係を保持し得る範囲に制限するを要す。此間新支那建設の根本的準備に力を払う。(一、英米と妥協する為めの条件、其能否。二、右方針に出でたる場合我対支経済の受くる影響〔石原註記〕)

 日満北支を範囲とする戦争持久の準備成り蘇国を屈伏せば堂々積極的工作を開始す。

七、蘇英屈せば日支親善の基礎始めて堅し、即ち東亜諸国を指導し之と協同して実力の飛躍的進展を策し次で来るべき米国との大決勝戦に備う。


 昭和十一年十一月、石原莞爾は約一ヶ月間の予定で北支および満洲の視察に出張した際、支那側から駐米大使の胡適との会談を要請された。石原は承諾したが、胡大使が便船の都合により帰国が遅れた為、北支大学教授の鮑明鈴と会談した。石原は鮑に対し、東洋の平和を保つ為には今後東亜連盟の線に沿って日支の国交調整を図りたいと述べ、連盟の内容と具体的問題について説明し、

 「満洲国の独立は貴国にとっては遺憾でありましょうが、この意味で認めていただきたい」

と話した。鮑は石原の支那人に対する謙譲な、誠意ある態度、高邁な識見、大胆な方略に、「日本の軍人からこんな話を聞かされようとは思わなかった」と驚愕し、直ちに蒋介石に電話で会談の内容を伝え、之に対する回答を仰いだところ、「石原大佐の意見には国民党幹部は全面的に賛成である」という回答を得ており(2)、石原は、

 「南京にある国民党との間に尚国交調整の途が十分あると信ぜられる、その条件としては国民党は満洲国の独立を承認し日本は支那の独立を極力援助し差し当り豊台の兵を通州にやって冀東防衛に任じ冀東は支那が満洲国独立を承認すれば直ちに還すと云うこと、即ち満洲独立を両国和平成立の条件としてその間冀東の政治だけは思う存分合理的な事をやり一面天津軍の冀察政権の政治的指導を停止せしめ、政治的経済的要求を避けたならば時局が緩和でき逐次東亜連盟の方向に進み得る」

との確信を深めていたからであった(3)。

(1)【石原莞爾資料国防論策編】一八三、一九八、二〇二頁。
(2)横山【秘録石原莞爾】二五七頁。
(3)【石原莞爾資料国防論策編】四三六頁。


40、廬溝橋事件

 だが半年後の昭和十二年(一九三七)七月七日―日ソ間の軍事的均衡破綻を克服しようとする参謀本部作戦部長の石原莞爾少将(昭和十二年三月一日就任)や戦争指導課員の堀場一雄大尉らによって推進された我が国の対ソ戦備拡充を目的とする重要産業五カ年計画が陸軍省に採択され、第一次近衛内閣が発足してから約一ヶ月後―「日蒋提携」を阻止し「連蒋抗日」を実現すべく、中華民国軍第二十九軍内部に浸透していた中国共産党(第二十九軍副参謀長の張克侠は中共北方局主任の劉少奇書記から指令を受けていた秘密共産党員)は、北京の西郊十数キロに位置し永定河をまたぐ廬溝橋から約一キロ北方にある竜王廟前面地区において夜間演習を行っていた日本軍(支那駐屯軍歩兵第一連隊第三大隊第八中隊)に銃撃を浴びせ、宋哲元と第二十九軍将兵の抗日を積極的に推進し、盧溝橋事件で奮起させ抗戦八年の序幕を開いたのである (1)。

 「七・七事変は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が、決死的行動を以て党中央の指令を実行したものである。これによって、わが党を滅亡させようとして第六次反共戦を準備していた蒋介石南京反動政府は、世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった。その結果滅亡したのは中国共産党ではなく、蒋介石南京政府と日本帝国主義であった。」

 興亜院政務部によれば、廬溝橋事件から一週間内にコミンテルンが中国共産党に発した指令の骨子は以下の通りである(2)。

1、あくまで局地解決を避け、日支全面的衝突に導かねばならない。
2、右目的の貫徹のため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺してよい。
3、下層民衆階級に工作し、彼等に行動を起こさせ、国民政府として戦争開始のやむなきにたち至らしめねばならない。
4、党は対日ボイコットを全支那に拡大し、日本を援助する第三国に対してはボイコットをもって威嚇せよ。
5、党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならない。(興亜院政務部/コミンテルンの対支政策)

 七月八日、中国共産党中央委員会が、全国の各新聞社、団体、軍隊、中国国民党、国民政府、軍事委員会ならびに全国同胞に対し「日軍廬溝橋進攻に関する通電」を発し、宋哲元将軍の率いる第二十九軍および南京中央政府が全軍を即時動員し日本軍に応戦し、中国に潜伏する漢奸売国賊分子、一切の日寇スパイを即時粛清すべきことを要求すると共に、

日本帝国主義に寸土たりとも中国を侵略させるな!
国土保衛のため最後の一滴の血を流せ!
全国中国同胞、政府と軍隊団結して、民族統一戦線の鞏固長城を建立し、日寇の侵略に抵抗せよ!
国共両党親密に合作して日寇の新進攻に抵抗せよ!
日寇を中国から駆逐せよ!

と檄を飛ばせば(3)、十一日東京において近衛内閣が、

 「相踵ぐ支那側の侮日行為に対し支那駐屯軍は隠忍静観中の処、従来我と提携して北支の治安に任じありし第二十九軍の、七月七日夜半廬溝橋付近に於ける不法射撃に端を発し、該軍と衝突の已むなきに至れり。為に平津方面の情勢逼迫し、我在留民は正に危殆に瀕するに至りしも、我方は和平解決の望を棄てず事件不拡大の方針に基き局地的解決に努力し、一旦第二十九軍側に於て和平的解決を承諾したるに拘わらず、突如七月十日夜に至り、彼は不法にも更に我を攻撃し再び我軍に相当の死傷を生ずるに至らしめ、而も頻に第一線の兵力を増加し更に西苑の部隊を南進せしめ、中央軍に出動を命ずる等武力的準備を進むると共に平和的交渉に応ずるの誠意なく遂に北平に於ける交渉を全面的に拒否するに至れり。 

 以上の事実に鑑み今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし、思うに北支治安の維持が帝国及び満洲国にとり緊急の事たるは茲に贅言要せざる処にして支那側が不法行為は勿論排日侮日行為に対する謝罪を為し再び今後斯かる行為なからしむる為の適当なる保障等をなすことは東亜の平和維持上極めて緊要なり、仍て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり」

と北支派兵を発表した(4)。さらに同日午後八時、現地の日中両軍委員が次の停戦協定の調印を終了するに至るや(5)、

1、第二十九軍代表は日本軍に対し遺憾の意を表し且つ責任者を処分して将来責任を以て再び斯の如き事件の惹起を防止することを声明す。

2、中国軍は豊台駐屯日本軍と接近し過ぎ事件を惹起し易きを以て廬溝橋城廓及竜王廟に軍を駐めず保安隊を以て其の治安を維持す。

3、本事件は所謂藍衣社共産党其他抗日系各種団体の指導に胚胎すること多きに鑑み将来之が対策をなし且つ取締を徹底す。

 その直後に近衛内閣は報道界政界財界の代表を集め、改めて「武力の顕示によって支那側に謝罪と将来の保障を為さしめる為に北支派兵を行う」との政府の決意に対する諒解と支援を求め(6)、尾崎秀実が、

 「恐らくは今日両国人の多くはこの事件の持ち来すであろう重大なる結果につき、さまで深刻に考えていないであろうが、必ずやそれは世界史的意義を持つ事件としてやがて我々の前に展開され来るであろう」

と予言した通り(改造昭和十二年八月号「北支問題の新段階」)、中国共産党の謀略によって着火された日中両軍の戦火は、北支において我が軍が中華民国軍から不意討ちを受けた廊坊、広安門事件(二十五、二十六日)、事変以前から第二十九軍に内通していた冀東自治政府保安隊によって約二百名の邦人居留民が惨殺された通州虐殺事件(二十九日)、上海において和平工作に従事していた大山勇夫海軍中尉が中国軍に惨殺された大山事件(八月九日)、中国軍が租界の居留民を保護する我が海軍上海陸戦隊を攻撃し国際共同租界を無差別爆撃した第二次上海事変(十三日)など、相次ぐ中国側の排日侮日抗日事件によって油を注がれ、北支から上海に拡大し、八月十五日、近衛内閣は、

 「此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは帝国として最早穏忍其の限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり」(廬溝橋事件に関する政府声明)

と上海派兵と不拡大方針の放棄を発表、日中関係は遂に全面戦争へ突入し、二十一日、中ソ不可侵条約が締結され、翌日、中華民国の国民政府軍事委員会は、共産軍主力を国民革命軍第八路軍として政府軍の編成下に入れ、九月二十二日、第二次国共合作が成立した。

 四日後、朱徳が第八路軍を率いて陜西省北部から前線に出動するにあたって、毛沢東は第八路軍の幹部を集めて、

 「中日の戦いは本党の発展の絶好の機会であり、われわれ共産党の基本政策は、全力の七分を自己の勢力の拡張に、二分を国民政府との対応に、残りの一分を抗日にあてる」

と講演し、国民政府に対する政策として、一、妥協、二、競争、三、反攻の三段階を示し、段階を追って国民党の領導権を奪い取る陰謀を明らかにした(7)。この毛沢東の戦争指導は見事に成功し、中国共産党の勢力は、支那事変勃発直前、党員兵力それぞれ約四万人だったが、昭和二十年六月には党員約百二十万、兵力約九十一万人にまで膨張したのであった…。

〔満洲事変から支那事変までの日支関係年表〕

昭和六年(一九三一)

七月一日、万宝山事件。満洲長春郊外で朝鮮農民が支那農民と衝突、支那官憲に弾圧される。

九月十八日、石原莞爾、板垣征四郎、花谷正、今田新太郎ら関東軍一部将校が満鉄線路を爆破、日中両軍衝突を作為し、満洲事変勃発。

十一月二十七日、中華ソビエト共和国臨時政府樹立(瑞金政府、主席毛沢東)。

昭和七年(一九三二)

一月七日、アメリカスチムソン国務長官スチムソン、満洲における新事態不承認の政策を日支両国に通達。二十八日、帝国海軍陸戦隊が支那第十九路軍と交戦、第一次上海事変勃発。

四月二十六日、瑞金政府が対日宣戦を布告。

五月五日、上海停戦協定調印。

昭和八年(一九三三)

三月二十七日、日本、国際連盟を脱退。

五月三十一日、塘沽停戦協定成立。長城以南に非武装地帯を設定し、日中両軍は撤兵。

昭和九年(一九三四)

四月十七日、日本外務省天羽情報部長、東亜の秩序維持は日本の単独責任とし、列国の対中華民国援助非難声明。二十五日、ゼークト大将を団長とするドイツ軍事顧問団中華民国国着任。

昭和十年(一九三五)

六月十日、梅津・何応欽協定。河北省から中華民国中央直系軍と国民党機関の撤退を決定。二十七日、土肥原・秦徳純協定。察哈爾(チャハル)省から宋哲元の第二十九軍撤退。

十一月二十五日、長城以南の非武装地帯に冀東防共自治委員会成立、国民政府から離脱独立を宣言。

十二月十八日、北京に河北、察哈爾両省を管轄する冀察政務委員会が成立。委員長に宋哲元が就任。

昭和十一年(一九三六)

十一月十四日、綏遠事件。関東軍の支援を受けた内蒙古独立軍が綏遠省に侵入し、同省主席傅作儀軍に敗北。

十二月十二日、西安事件。張学良が蒋介石を監禁。

昭和十二年(一九三七)

七月七日、中国共産党が廬溝橋事件を起こし日中両軍衝突。

八月十三日、第二次上海事変勃発。

九月二日、近衛内閣、北支事変を支那事変と改称。五日、近衛首相が「断固暴支膺懲」の施政方針を演説。

十二月十三日、南京陥落。

(1)葛西純一【新資料廬溝橋事件】五頁「中国人民解放軍総政治部発行/戦士政治読本」、中村粲【大東亜戦争への道】三九四~三九五頁「劉少奇同志の第二十九軍に対する統一戦線工作に関する史実の検討」(新華書店北京発行所)
 神尾茂が喬輔三から聞き得た談話によると、孔祥煕院長は元来日支合作論者で、一九三七年欧州に行った帰りには日本に立ち寄り対日政策を具体化する計画を抱いており、その準備として秘書の喬輔三を先に帰して日本に先発させるつもりであったが、喬が六月シベリア経由で北平に辿り着くと忽ち廬溝橋事件が勃発し、すべてが画餅に帰したという。
 喬輔三は「過去両三年の事を回顧すれば共産党の策動は非常なものだ。人民戦線派の抗日救国運動実は皆今回の事変を誘発させるための工作である。廬溝橋は孔祥煕氏の日支合作計画を嗅ぎつけた共産党の先手を打った陰謀ではないかと自分は思っている。共産党が如何に丹念に手を廻しているかを思うと、そう断ぜざるを得ないのである」と述べた(神尾【香港日記】昭和十三年七月二十三日「喬君より聞き得た談話の要領」)。
(2)中国共産党はこの指令に基づき代表の周恩来をして蒋介石と会見せしめ、国共合作と共産軍の改編を主題として申し入れを為さしめたという(波多野乾一【赤色支那の究明】一四四頁)。
(3)【東京裁判却下未提出弁護側資料5】五一七~五一八頁「外務省情報部、中国共産党一九三七年史」、深堀道義【中国の対日政戦略】一七〇頁「解放軍出版社抗日戦争紀事」
(4)【日本外交年表並主要文書下】三六六頁「昭和十二年七月十一日夕刻発表、華北派兵に関する声明」
(5)【現代史資料太平洋戦争4】五五四頁「北平陸軍機関業務日誌昭和十二年七月十一日」
(6)近衛内閣が開催したこの北支派兵声明パーティに参加した石射猪太郎によると、総理官邸はお祭りのように賑わい、政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配を示しており、石射は、「事件がある毎に、政府はいつも後手にまわり、軍部に引きずられるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出るほうが、かえって軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近の考えからまず大風呂敷を広げて気勢を示したのだ」といわれたという(石射猪太郎【外交官の一生】二七二~二七三頁)。北支派兵声明パーティを主唱した首相側近とは風見章内閣書記官長である。
(7)【蒋介石秘録12】一二〇頁、アルバート・ウェデマイヤー【第二次大戦に勝者なし下】一二〇~一二八頁。


41、ソ連の諜報謀略網

 小堀教授は「ヨセミテでの会議がどの様な性格のものであったか、日本からの参加者があったのか否かを編者はつまびらかにしない。この資料が提出されずに終わった理由がよくわからない」と述べている。
 尾崎秀実は、昭和十一年(一九三六)十月二十六日から十一月二日にかけて「アメリカ西海岸を歩く」と題する紀行文を帝国大学新聞に寄稿し、その中で、

 「今夏ヨセミテで開かれた太平洋会議には太平洋に関係ある各国の知名の学者、政治家、評論家など多数参集し、この人里離れた国立公園に時ならぬ賑いを呈せしめた。注目に値すると思われたのは会議の指導機関である太平洋問題調査会事務局の空気であった。ここにはいかにも秀才といった感じの若手の学者や評論家がいてその傾向は頗る進歩的であった」 

と述べている(1)。筆者が推測するに、IPR第六回ヨセミテ会議の裏面の性格は、

 「資本主義国である日本の外交、政治、経済、軍事等一切の情報や資料を探知蒐集して之をソ連に通報漏泄し日本の経済力外交政策の軍事に関する作戦、軍事力等を事前に知らせて置き日ソ戦が勃発した場合ソ連が有利な地位に立って日本の弱点につけ込んで日本を敗戦に導き或は疲弊せしめ、更にソ連が米英と結託して之等の国をして日本を牽制動肘せしめ、或は又支那満洲国等に働きかけ殊に中国共産党や中国の共産軍等を使嗾して対日長期抗戦をやらせる事に依り一面に於いては共産主義の国ソ連を防衛し他面に於いて日本を敗戦又は疲弊せしめて革命へ導く」

ソ連独自の世界革命という世界政策(2)を推進援助する日米共産共同謀議だったのではないか。

 IPRは、太平洋に接する国々の協議会で構成され、各国の政治社会経済技術についての情報を交換、議論する学術団体としてニューヨークに本部を置き、「太平洋会議」という名を冠せられた、太平洋諸国の抱える問題を協議する国際会合を開催していたが、昭和研究会や企画院と同様、「コミンテルン第七回大会」において採択された「合法場面を極度に利用して活動すべし」という反ファッショ人民戦線戦術を信奉する共産主義者に潜入された組織であり、第二次世界大戦において、盛んに反日論を展開しアメリカ政府(国務省)の反日外交を主導し、日本の敗戦後には、トーマス・ビッソンやアンドリュー・グラジャンツェフといった左翼分子をGHQ民政局に送り込み、GHQの対日占領作戦にまで大きな影響力を及ぼし、治安と防諜を担当するGHQ情報参謀部(G2)の調査対象になった。

 情報参謀部長のチャールズ・ウィロビー少将に提出された調査報告書は、太平洋問題調査会の支配的位置にいる八人の幹部のうち最も活動的で強い発言力を持つ四人-エドワード・C・カーター、フレデリック・V・フィールズ、オーウェン・ラティモア夫妻-は共産党員とそのシンパであると分析し、彼らの人物像を次のように解説している(3)。

 「エドワード・C・カーター(一九二五年の創立以来の所員)は、これらの支配的連中のうちでも、もっとも影響力がある。その公然たる共産主義的傾向にもかかわらず、彼はIPRの基金を集めることにかけては稀なる才能を発揮し、またオルグとしても腕のさえを見せている。カーターはアメリカにある親ソ的、ならびに共産党のフロント組織にすべて加入している。これには『今日のソビエト・ロシア』、『アメリカ・ソ連協会』をはじめ、二十にものぼるソ連戦争救済団体などが含まれる。彼はオリエント地方を広範に旅行し、ロシアにも何度か行っている。彼は自分でもシンパであると公然といっており、アメリカ共産党と緊密な関係にあるものと推測される。カーターは優秀な左翼的著者を見つけ出すことに尽力し、これを教育し、将来、政府部内の極東専門家やライターとして戦略的地位を世話する。このような教育や就職斡旋は、IPR所員に対する研究員としての立場から行われる。

 オーウェン・ラチモア-これら四人のうちで疑いなくもっとも有名な人物である。アメリカ政府の高度の政策決定レベルの部門に、共産主義者が浸透しているもっとも著しい例である。ラチモアとその妻のエレアノール・ラチモアの考え方や論文は、一貫して親ソ的・親共産主義的なのである。」

 尾崎と同じく支那問題の権威でありコミンテルン影響下の共産主義者であったラティモアは、一九三四年よりIPR機関誌「パシフィック・アフェアーズ」編集長となり同誌に親ソ親支那の政治的立場を十字軍的に唱道する論文と反日プロパガンダを満載し、一九五〇年、ジョセフ・マッカーシー上院議員から「ソ連スパイ網のトップエージェント」だとして告発されたが、何とラティモアが一九三六~三九年まで編集助手として使っていた陳翰笙なる支那人は、かつてゾルゲ機関に所属していたのである(4)。

 一九二五年に党籍をドイツ共産党からソ連共産党に移し、ソ連市民権を得てコミンテルン諜報員となりヨーロッパを舞台に活動していたリヒャルト・ゾルゲは、四年後、ソ連赤軍第四部(情報部)の長であり実質的な創設者であったイワン・アントーノヴィチ・ベルジン将軍に見出され、混沌渦巻く東洋の魔都上海に確固たる情報網を構築する任務を与えられた。三〇年一月、上海に到着したゾルゲは、アメリカ人女性ジャーナリストのアグネス・スメドレーを訪ね、支那人協力者を選ぶ為の援助を求めた。当時彼女は「中国共産党こそが貧しい農民を助けられる」と考え、多くの左翼系知識人と接触しており、ゾルゲが支那で唯一頼りにしていた人物であった。

 スメドレーはゾルゲに対し、中国共産党と密接な関係を有していた在上海日本人左翼運動の指導的地位にあった朝日新聞上海特派員の尾崎秀実と陳翰笙を紹介した。陳は二六年北京大学農業経済教授を務めていた時にコミンテルン工作員となり、それ以降は中国共産党員であるとともにソ連の為に情報活動を行い、二八年から上海に滞在しスメドレーの知遇を得た。陳は尾崎以上にスメドレーやゾルゲと親しく、三三年九月にドイツ人ジャーナリストとして来日したゾルゲを補佐し尾崎との連絡を受け持った。だが三五年にモスクワから来日した連絡員が逮捕され、身の危険を感じた陳は東京からモスクワへ脱出し、ソ連共産党の指示を受け、次はラティモアの補佐としてニューヨークに派遣され、太平洋問題調査会の常任書記を務め、ヨセミテ会議で尾崎と会合したのであった。ソ連の諜報謀略網は、日米支の国家中枢に対して、太平洋をまたぎ、根深く有機的に浸透していたのである(5)。

 独ソ戦が勃発する直前の一九四一年五月末、ソ連からアメリカに潜入したビタリーパブロフ(GPUの後身、ソ連人民委員部所属)はアメリカ非公然組織長のイクサ・アフメーロフ(ソ連人民委員部所属、ホワイトの名にちなんだ対日謀略「雪作戦」の提唱者)と相談した上で、アメリカ財務次官補(財務省特別補佐官)ハリーデクスターホワイトに接触、「日本のソ連侵攻を困難にすること」を依頼し(6)、ホワイトは、六月六日、彼自身がまとめた対日通牒試案「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」を財務長官モーゲンソーに手渡した。そして七月八日、ラティモアは、彼やホワイトと親しい関係にあった大統領補佐官ロクリン・カリー(ソ連のスパイ)の推薦を受けた大統領フランクリン・ルーズベルトによって重慶に派遣され、蒋介石の政治顧問に就任した。尾崎秀実は、大陸新報昭和十六年八月一~二日「東亜外交の新段階」の中で、

 「この程蒋介石政府の顧問として、オーウェン・ラチモアが重慶に赴いたという報道は生真面目でいかにも学究的な同氏を知る我々には一種奇異にさえ感じられたのである。アメリカ政府とどれだけの直接関係において行ったのであるか判らないが、現下の重慶に立つ国際情勢下において多分に政治的な使命を帯びるものでなくてはならない」

と観測したが(7)、特に注目すべきことは、ラティモアが、三八年から中国共産党の勢力拡大に伴い相剋を深めていた国共両党の調整に乗り出しただけでなく、四一年十一月二十五日、重慶からカリーに対して、日本にとって過酷なホワイト・モーゲンソー案をルーズベルトに採択させるように打電し、カリーと共に、日米和平交渉をまとめる可能性を秘めたハル暫定案(九十日の停戦を骨子とし、日本は南部仏印より撤退する一方、アメリカは日本に民間用の石油、食糧、医薬や月額六十万ドルまでの綿花を輸出し、且つ日支和平交渉を斡旋することを内容とする、ハル国務長官によって作成された日米妥協案)の採択阻止に狂奔していたことである(8)。即ち我が国の外交史上、永久の痛恨事たる汪兆銘政権樹立工作による支那事変長期化とハル・ノートによる対日挑発にはソ連の謀略活動があり、いずれもソ連の指揮下にあった日米の共産主義者によって推進されたのである。

(1)【尾崎秀実著作集5】五十四~五十五頁。
(2)【現代史資料ゾルゲ事件3】九十八頁、昭和十七年三月二十三日ゾルゲ機関員マックス・クラウゼン証言。
(3) チャールズ・ウィロビー【知られざる日本占領】二〇〇頁。
(4)【現代史資料ゾルゲ事件2】一〇〇頁、プランゲ【ゾルゲ東京を狙え上】一九一頁、産経新聞社【ルーズベルト秘録下】五十三~五十七、六十三~六十七頁。
(5)【ルーズベルト秘録下】参照。
(6)須藤真志【ハルノートを書いた男】一三六頁。
(7)【尾崎秀実著作集3】一九〇頁。
(8)ハミルトンフィッシュ【日米開戦の悲劇】四十頁。


42、歴史に対する罪

 ポツダム宣言の正式調印後、占領軍の情報参謀部は我が国の司法省刑事局の『ゾルゲ事件資料』を押収し、直ちに事件の調査を開始、ワシントンに「ゾルゲ諜報団-極東における国際諜報の実例研究」を送付した。情報参謀部長のチャールズ・ウィロビー少将は、ソ連および国際共産主義勢力の諜報謀略網が占領軍総司令部(GHQ)にも及んでいることを察知し、占領軍最高司令官と参謀長に「総司令部への左翼主義者の浸透状況」(一九四七年四月二十三日付)を提出、「共産主義に対するアジアの防壁としての日本の育成はいまや危機に瀕している」と警告し、民政局長のホイットニー准将を激怒させた。日本国憲法案を起草した民政局(GS)と経済科学局(ESS)はニューディーラー(アメリカの容共主義者)の巣窟であり、明らかに左翼思想に基づく日本の「民主化」を遂行しようとしていたからである。

 米ソ関係は連合国共通の敵である日本国の降伏を契機に冷たい対立へ移行し、支那大陸では蒋介石の国民党と毛沢東の共産党との間に激烈な内戦が勃発し、GHQ内部では反共派が親ソ容共勢力を排除し始めたのである。それらの情勢変化は直ちにアメリカの政治を大きく揺り動かした。

 一九四八年二月号の「カソリック・ダイジェスト」に「アメリカを蝕むもの、モスクワの指令下に米国上層部に喰入るソ連秘密警察」と題する記事が掲載された。執筆者は一九三三~三五年まで農業金融局に、三五~四〇年まで財務省に勤務したエドナ・ロニガンであり、彼女は次のように述べている(1)。

 「国会は今、ソ連の秘密警察のアメリカに於ける目的と活動は何か?という実際問題を検討している。ソ連の秘密警察は、米国の政策をして自ら墓穴を掘らしめるため、その手先の者をアメリカの重要な地位につける仕事にたずさわらせているのだ。

 ソ連秘密警察は一九三三年以来、連邦政府に浸透しようと努力して来た。その最初の細胞は明らかに農務省に設立されたのである。要員は大学の細胞から出た。スターリンは、一九二九年という遙か以前から、即ち不景気が危篤期に入ったと気づいたとき、彼は党員に命じてアメリカの大学にもぐりこませたのである。このことはニューヨーク州議会のラブ・コーダート委員会報告書に証明されている。各々の細胞は分裂して、他の細胞を生み出した。ソ連秘密警察の指導者達は、連邦政府内部の『機構図表』を持って居り、党員を次から次と重要な地位に移したのである。網状組織によって地位につけられた人々のうち、ある者は『純真』な人々であり、ある者は、夢想的な革命論者であった。しかし、大抵は、網状組織に好意を持たれれば速やかに昇進出来ることに気づいている小利口な、悪がしこい人々であった。

 有能なソビエトの手先がなすべき事は、スパイではなく、政治指導者の信頼を博することであった。彼等の仕事は、高官や、その夫人達と親しくなることであり、友好的に、魅力的に、敏捷に、理知的に、同情的になることであり、昼夜にわたって、一層大きな責任を引きうける用意をすることであったのだ。そして、やがて、そのような責任ある地位が彼等に与えられたのである。

 斯くの如くして、網状組織は毎年仲間達をだんだんと高い地位に移して行った。戦争が始まったとき、八年間陰謀で鍛えた古強者達は、最高政策をあやつる地位に到達していたのである。この網状組織によって選ばれた人々は、意見が分かれているあらゆる問題においてアメリカの政策を指導し始めた。ファーレィ(民主党領袖)が落伍した後、彼等は重要産業地方の投票を得る仕事を引き継ぎ、その報酬として戦争の指導権をにぎったのである。連戦連勝の米軍は、スターリンの希望通りの処で停止した。彼等は満洲と北朝鮮を共産党に与えた。」

 同年夏アメリカ下院非米活動委員会において、エリザベス・ベントレーとホイテカー・チェンバース(いずれも元アメリカ共産党員)は、アメリカ共産党やイクサ・アフメーロフ、ボリス・バイコフ大佐(ソ連赤軍第四部)らが、アメリカ政府内部に構築したソ連諜報網の全容を告発した。続いて一九四九年二月十日にはアメリカ陸軍省がゾルゲ事件を新聞に公表し爆発的な反響を呼び起こした。
 その結果として、下院非米活動委員会に喚問されたハリー・ホワイトはスパイ疑惑を否定した後ジギタリスを大量服用して不可解な死を遂げ、ロクリン・カリーはコロンビアへ逃亡、新聞にゾルゲ機関への関与を報道されたスメドレーはロンドンに亡命し、下院非米活動委員会に召還された日の夕方に急逝した。そしてアメリカ国務省を代表してヤルタ会談に出席し、重病のルーズベルト(一九四五年四月十二日死亡)を補佐してソ連に日支の主権を譲渡したヤルタ秘密協定(註2)に深く関与したアルジャー・ヒス(一九九五年にアメリカ議会によって公開されたソ連暗号電文解読作戦Venona資料ではAlesという隠名を持っていた赤軍第四部のスパイ)は投獄され、アメリカ国内に反共のマッカーシズムの嵐が吹き荒れた(2)。

 これに対してアメリカの容共的な歴史学者は、ベントレーやチェンバースの証言に信憑性を認めず、またアグネス・スメドレーの猛烈な抗議に恐れをなした陸軍長官ケネス・ローマルの素早い謝罪談話(一九四九年二月二十七日)等を挙げてマッカーサーおよびウィロビーを非難し、スメドレーを擁護してきた。第二次世界大戦後の歴史学会は米ソ冷戦の縮図であり、反共派の研究者と容共派の学者が数十年に亘り不毛な論争を続けてきたが、遂に歴史の神は反共派の研究者に軍配を上げた。ソ連の崩壊後にロシアによって公開された次のコミンテルン機密文書が暴露したアグネス・スメドレーの正体は、やはりコミンテルンの工作員であった(3)。

 「親愛なる同志ディミトロフ

 われわれは同志岡野(註、日本共産党の野坂参三)、東洋書記局、プロフィンテルン(註、赤色労働組合インターナショナル、コミンテルンの労働組合部門)とともに、日本共産党への支援計画とも連動させつつ汎太平洋労働組合書記局の計画を練ってきた。全員がその計画に賛同し、同志ブラッドフォード(現在、プロフィンテルンの仕事でヨーロッパ滞在中)をアメリカに送りその計画を指揮させるという重要なポイントも含めて同意した。もし貴兄がこの計画に同意するなら、残る問題は形式上の決定と資金の手配だけである。

 目下、上海にいるアグネス・スメドレーが現地で反帝国主義の英字紙を発行するのを援助するという提案は、最終決定されるべきである。情勢はますます好転しており、そのような新聞が出れば大きな影響力を発揮するだろうと、彼女は手紙に書いている。アメリカ合衆国共産党は政治的にも技術的にも優れた助手を彼女に提供することができる。中国人同志たちも同意している。ただしこれら上海の同志たちがもし中国共産党と接触した場合には、その活動が危険に晒されるから、それを避けるために彼らには中国共産党と接触させないという条件つきである。このプロジェクトの価値は明白だ。承認の形式的手続きと必要な資金の準備が待たれる。

 最後に、今大会とその成果について私の深い満足と、この大会がアメリカ合衆国共産党および全世界の党を新しい高次の体験に導くだろうという私の見解とを表明しておきたい。アメリカ共産党がこの目的のために貢献し得るどんなことであれ、貴兄からの要請を私は喜んで受け入れる。

 友愛の熱い挨拶をもって アール・プラウダー モスクワ、1935年9月2日」

 一九三五年にスメドレーは、アール・プラウダーが書記長を務めるアメリカ共産党の人的支援と、コミンテルン第七回大会において反ファッショ人民戦線戦術を発表したゲオルギー・ディミトロフ(ブルガリア人の共産主義者)が議長を務めるコミンテルンの資金援助を得て「中国の声」を創刊していたのである。

 アメリカ共産党党首のアール・ブラウダーは、共産主義者に対するソ連秘密警察の監視役を務め、いわば日本共産党の指導者である野坂参三と同じ役回りを演じていた人物である。アメリカ共産党は党本部のあるニューヨークからNKVDを経由してモスクワに多くの暗号電文を発していた。ソ連に忠誠を誓ったアメリカ共産党のモスクワへの活発な報告がアメリカ陸軍保安局(国家保安局NSAの前身)に、それらの暗号電文を傍受し解読する作戦(コードネームVenona)を実施する機会を与えたのである。

 コミンテルンが解散した一九四三年(実際の機能停止は一九四五年)、モスクワから七百五十マイル東のウーファという町の近くにある外国人共産主義者のためのコミンテルンの学校に入っていたドイツ人青年ウルフガング・レオンハルトは特殊な任務を与えられた。コミンテルンの文書保管所は、ドイツ軍がモスクワに迫った時にウーファに移されており、レオンハルトは混乱した資料を整理し直す学生の一人だった。彼に与えられた任務とは、アメリカ共産党の記録の整理であった。

 ソ連はこの種の資料の存在自体を認めていなかったが、ソ連の崩壊後、ロシア現代史文書保存・研究センターは膨大なコミンテルンの機密文書を公開した。H・クレア、J・H・ヘインズ、F・I・フィルソフは一九九一年から、センターの文書係が作成した検索手段を使って有力候補を絞り込み、数千ページの文書を収録したコミンテルンとアメリカ合衆国共産党のファイルを千点以上調査し、重要な機密文書九十二点を「アメリカ共産党とコミンテルン-地下活動の記録」に掲載した。

 読者の反論を許さない生々しい機密資料が暴露した歴史の真実は、アメリカ共産党の秘密組織がアメリカの情報活動および秘密諜報活動を統括していた戦略事務局(OSS、CIAの前身)をはじめアメリカ政府内部に深く浸透し、コミンテルン、ソ連秘密警察NKVD(KGBの前身)、ソ連軍参謀本部情報部(GRU)と密接に連携しながら、ソ連の諜報活動に奉仕していたことである。それと渾然一体となったアメリカ共産党の地下活動は、労働運動への浸透から、ゾルゲ機関の結成(宮城与徳の日本への帰国)、アグネス・スメドレーへの支援、日本共産党の再建への協力、在米邦人協力者の獲得、スペイン内戦に参戦したコミンテルン国際旅団のアメリカ人義勇軍三千三百人(約八十パーセントが共産主義者)の移送、トロツキーの殺害、独ソ戦勃発後におけるアメリカ合衆国のソ連への援助とヨーロッパ戦線へ軍事介入、原爆情報の盗取にまで及んでいた。しかも以上はソ連の対米諜報謀略活動のほんの氷山の一角に過ぎない。依然としてソ連秘密警察とソ連軍参謀本部情報部の保管していた膨大な機密記録文書がロシア政府によって封印されているからである。

 もしIPR第六回太平洋会議議事抄録が東京裁判で徹底的に審議されたならば、西園寺やラティモアが喚問され、日米支に張り巡らされたソ連の諜報謀略網の実態がもっと早期により詳細に判明し、大東亜戦争の真実が白日の下に曝され、東京裁判は国際連盟によって侵略国と認定され連盟より除名されたソ連を責め裁く裁判となり、ソ連の勢力拡大に奉仕したアメリカ合衆国は面目を失ったに違いない。

 以上の事態を阻止する為に、極東国際軍事裁判所は第六回太平洋会議議事抄録の法廷への提出を許さず、東京裁判昭和二十二年(一九四七)六月六日第二三二回公判に提出された「ソルゲ、スパイ事件の詳細発表/ニッポン・タイムス一九四五年十二月二十四日」、「ゾルゲ、スパイ事件/オットー・D・トリスチヤス東京報告一九四三年レイノルーヒッチコック出版」を却下したのであろう(4)。

 東京裁判インド代表判事のラダビノッド・パルは、法廷によって却下された被告弁護側の証拠資料について次のように評価した(5)。

 「一般に第三者の意見または信念はぜんぜん証拠とはなり得ないものであって、したがって受理され得ないものである。証人等は事実だけすなわち、かれら自身が見聞したことだけを陳述すべきことになっている。述べられた事実にもとづいて自己の結論または意見に達することは判事および陪審員の職務である(中略)。
 
 しかしながら法廷が正確な判断を下す立場にないという種々の場合がある。すなわち審理に関係のある問題が、普通の経験または普通の知識の範囲外である場合、あるいはある科目の特別の研究、またはこれに関する特別な経験を必要とする場合がこれである。このような場合には、特別な研究、訓練、又は経験を必要とする事項について、専門家の助力が必要となってくるのである。こういう場合には法廷して適当な決定に達せしめるため、専門家の証拠を受理するのである(中略)。

 まえに述べた原則に準拠して、法廷は本件の審理中に提出を試みられた数多くの証拠を却下したのであるが、これらの証拠というものは、裁判官の意見では、たんに、その作者たちの抱いていた意見を証言しようとしたものであった。たとえばこの理由をもとに本法廷は前駐日アメリカ大使グルー氏が、関係ある時期中に、中華民国また日本に起っていた諸事件の同氏自身の判断を示している陳述を却下したのである。法廷は同様に、ロバート・クレーギー卿、レジナルド・ジョンストン卿、ジョン・パウエル氏およびその他の人々の意見をも却下したのである。法廷はまた当時の日本の政治家たちの意見、太平洋問題調査会による当時の事情、事件の評論、その他それに類似したものを証拠として受理することを拒絶した。

 本官の意見としては、本件の状況に鑑みて、この原則をまえに述べた事件に無差別に適用したことは不正当であったと信ずる。本官は、日本によるある特定の行動が侵略的であったかどうかを決定するうえにおいて、法廷が必ず当面することとなる難点をすでに指摘しておいた。もしこの目的のため裁判官の求められているところが、ある特定の状況が実在していたか又はある特定の事件が実際に起ったかというのではなく、自身の仮定のもとづいて行動していた人々が『善意をもって』その状況の存在、または事件の惹起を信じ、その所信にもとづいて妥当に行動したかという点を調べることであるとしたならば、日本を含む国の政治家、外交官、記者、および類似の人々のその当時における見解、意見、および信念の持つ証明力は大であると本官は判断する。

 このような見解、信念、意見は、ある状況の実在または係争中のある事件の発生を証明するというのではなく、当時一般に抱かれていた意見を確証し、ひいては本件に関係のある人々の見解ならびに信念の『善意』を確証する目的にたいしては、本件に関して極めて価値があり、また肯綮にあたった証拠的事実であるというのが、本官の意見である。」

 一九四八年十一月二十九日、デイビッド・スミス弁護人、ジョン・ブラナン弁護人ら被告弁護団がアメリカ連邦最高裁判所に東京裁判の違法性を訴え、被告への人身保護令の適用を申し立てた。人身保護令とは米英の法制度で、違法な拘束に対する人身の自由の最高の法的救済措置である。申し立ては一旦受理されたものの、しかし十二月二十日になって連邦最高裁は、連合国の軍事法廷について審理する権限をアメリカの法廷は持たないという理由から「訴願受理の管轄権なし」として被告弁護団の訴願を却下し(6)、同年十二月二十三日、東條英機元首相ら七人のA級戦犯が絞首刑に処されてしまった。この却下理由について同裁判所のウイリアム・ダグラス判事は、

 「極東国際軍事裁判所は、裁判所の設立者から法を与えられたのであり、申立人の権利を国際法に基づいて審査できる自由かつ独立の裁判所ではなかった。それ故に、パル判事が述べたように、同裁判所は司法的な法廷ではなかった。それは政治権力の道具に過ぎなかった」

と述べた(7)。つまり東京裁判は正式な裁判ではない以上、被告の再審請求は成立しないという意味である。驚くべきことに、連合軍最高司令官マッカーサー元帥の命令によって開廷された東京裁判の合法性は、その閉廷直後に、日本国と未だ講和条約を締結していなかったアメリカ合衆国の連邦最高裁判所によって完全否定されたのである。

 GHQの対日占領作戦とは、ポツダム宣言、戦時国際法、大日本帝国憲法、マッカーサー占領軍憲法(日本国憲法)、自由デモクラシーを蹂躙した明白な戦争犯罪であるばかりでなく、有史以来最悪の途方もない大錯誤であり、全く無実の日本人を公職から追放し或いは処刑し、第二次世界大戦の真実を闇の世界に埋葬した「歴史に対する犯罪」である。

(註2)ヤルタ秘密協定(一九四五年二月十一日)

 三大国即ち「ソビエト」連邦、アメリカ合衆国及英国の指導者はドイツ国が降伏し且ヨーロッパに於ける戦争が終結したる後二月又は三月を経てソビエト連邦が左の条件に依り連合国に与して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定せり。

一、外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持せらるべし。

二、千九百四年の日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたるロシア国の旧権利は左の如く回復せらるべし。

(甲)樺太の南部及之に隣接する一切の島嶼はソビエト連邦に返還せらるべし。

(乙)大連商港に於けるソビエト連邦の優先的利益は之を擁護し該港は国際化せらるべく又ソビエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口の租借権は回復せらるべし。

(丙)東清鉄道及大連に出口を供与する南満州鉄道は中ソ合弁会社の設立に依り共同に運営せらるべし但しソビエト連邦の優先的利益は保障せられ又中華民国は満洲に於ける完全なる主権を保有するものとす。

三、千島列島はソビエト連邦に引渡さるべし。

 前記の外蒙古竝に港湾及鉄道に関する協定は蒋介石総帥の同意を要するものとす大統領はスターリン元帥よりの通知に依り右同意を得る為措置を執るものとす。

 三大国の首班はソビエト連邦の右要求が日本国の敗北したる後に於て確実に満足せしめらるべきことを協定せり。

 ソビエト連邦は中華民国を日本国の覊絆より解放する目的を以て自己の軍隊に依り之に援助を与うる為ソビエト社会主義共和国連邦中華民国間友好同盟条約を中華民国国民政府と締結する用意あることを表明す。(J・スターリン、フランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・S・チャーチル)

(1)三田村【戦争と共産主義】五十二~五十四頁。
(2)【ルーズベルト秘録下】参照。
(3) H・クレア、J・H・ヘインズ、F・I・フィルソフ【アメリカ共産党とコミンテルン-地下活動の記録】一〇四~一〇八頁、「アグネス・スメドレー、コミンテルンの工作員」
(4)【東京裁判却下未提出弁護側資料3】七五二~七五四頁。
(5)【パル判決書上】五六二~五六四頁。
(6)富士信夫【私の見た東京裁判下】五二〇~五三一頁、「米大審院への訴願」
(7)佐藤和男【憲法九条・侵略戦争・東京裁判】九十四頁。



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国民のための大東亜戦争正統抄史25~37近衛新体制

【近衛新体制】


25、テロリスト

 昭和十二年十二月十五日、各新聞夕刊は一斉に「全国民に告ぐ」と題する公爵一条実孝、頭山満、海軍大将山本英輔三名の連名の檄文を掲載した。この檄文は「万世一系の天皇儼然として国家組織の中心を為した給い、億兆心を一つにして天壌無窮の皇運を扶翼し奉り、君子一体、忠孝一致」の我が国体の本義が現状において顕現されていない事を指摘し、世界は秩序壊乱、禍機鬱勃、正に歴史的転換の潮頭に立っている今日、「内、国力を統合して一体となし、外、世界未曾有の変局に処すること」が我が使命であり、その使命達成のためには「西洋の余毒たる憲法政治を以て、政党対立の政治と解するが如き」考え方を排し「全国民の一致せる精神に即して一体となる」「皇国の政党」の理義の徹底が今日の急務であるから「現在一切の諸政党は宜しく覚醒する所あり、彼我相対の境地を超越し、渾然一体となって、強力政党の新組織を遂げよ」と呼びかけ、「苟も之を怠らば、現存諸政党は歴史的鉄則の下に粉砕せらるるの日、必ずや遠きにあらざるべし」との警告を発した。

 重信嵩雄の中央公論昭和十三年二月号「一国一党の全貌」という記事によると、「全国民に告ぐ」は、近衛文麿と密接な関係を持っていた政界の黒幕、秋山定輔が近衛の了解の下に、右翼と共に「挙国一党結成促進研究会」を組織していた宮崎龍介等を使い、一条等の名前を装って発した警告だという。

 昭和十三年一月、一条らの声明に呼応して中溝多摩吉らが防共護国団を結成し、「国内相剋排除、一国一党」をスローガンとして既成政党の解消を目指して動き始めた。中溝等は東京に二ヶ所の駐屯所を作り、そこに団員を常駐させ、彼等に各政党代議士を訪問させ、政友・民政両党の解消を勧告させた。ところがこの運動が十分に成果を収めぬ為、中溝らは実力を行使し、政友・民政両党本部に「推参」して党議によって解消を断行させようとする計画を立てたのである。

 二月十七日、カーキ色の服に戦闘帽を被った防共護国団員六百名がトラックに分乗して両党本部に押し掛け、党の解消、挙国的態勢による新党樹立を要求した。十時間後には全員が検挙され、逃走していた中溝も三月十八日に自首し「政党本部推参事件」は落着したが、政党関係者を震撼させたこの事件の首謀者は、信じ難いことに近衛首相自身なのである。中溝の部下であった青木保三は戦後の回想の中で、中溝、青木ら護国団幹部が計画を作ったと告白し、

 「それは十六ヵ条よりなり、先生(中溝)自ら筆をとって書き上げ、私に『君がつきっきりで、誰にも見せず、大至急タイプに三通を取って来てくれ』と依頼された。私は直系の配下で能書家を呼び、四通複写して、翌日三通と元書を先生に手渡した。先生は秋山氏と荻窪の近衛邸に持参して、説明した。先生が帰っての報告では、

 『最後の項の、大日本党部の組織に賛成をしない国会議員一人につき、防共護国団員二名、警察官一名、憲兵一名をつけ、芝浦埠頭に待機の姿勢でおる橘丸に、一時監禁をし、伊豆大島へ流島の刑に処するという項については、「これは少し行き過ぎではないかと言って」自ら消したが、あとのことについては「中溝君、なかなか面白い計画ですね」と言われて、自分としては、非常に面目を、ほどこした』

と言ったことは、今でも目に見えるようである。

 従ってこの内容については、近衛公はもちろんのこと、秋山氏、秋田氏、当時の内閣書記官長風見章氏、内務大臣末次信正、麻生、亀井の各氏と、ほかに近衛側近では後藤隆之助氏ら、極少数の人々は、あらかじめ承知して居ったと、私は今でも思っておる。

 中溝先生が近衛公に提出した、建策書のうちには両党本部を占拠した暁には、都合によっては、開催中の議会に押しよせ、その実力で議会を休会に追い込ませる場合もあり得る、という事項もあったが、これは実行できなかった」

と述べた(1)。さらに麻生久(社会大衆党書記長)自身が、彼の晩年を近衛新体制の確立とこれを通ずる日本の革新に捧げ尽くした心境について、河野密に次のように告白したのである(2)。 

 「昭和十三年二月、第七十三議会の開会中、防共護国団による政友、民政両党の本部占拠があった。これをやったのは中溝多摩吉であるが、彼を背後から踊らしてやったのは近衛であった。国会開会中にその離れ業をやらして口を拭ってしゃあしゃあとしている度胸。これは革新をやるに足る人物だと思って自分は近衛に接近する気になった。日本の革新は、明治維新の革新でもそうだが、下から丈けでは出来ないので、上と下を結びつかなければ駄目である。それには近衛の門地と家柄はあつらえ向きである。」

 昭和十二年六月、組閣の大命を受けた近衛は、総理としてまず「政治の貧困から引き起こされた国内の相剋摩擦の所産たる種々の事件の受刑者に、大赦を施すべきだ」と主張し、政治生命を賭けて投獄された二・二六事件、五・一五事件、血盟団事件の関係者、さらには共産党の受刑者をも無罪放免しようと狂奔したのである(近衛クーデター事件)。

 これは国家の法秩序を破壊する大暴挙であり、昭和天皇、元老重臣、陸海軍首脳が挙って猛反対した為、近衛は大赦を断念したのであるが、翌年二月には近衛自身がテロを指揮したのである。参謀本部の早期和平方針を粉砕した第一次近衛声明の発表から一ヶ月後のことである。昭和十三年に近衛がテロを用いてまで画策した大日本党による一国一党計画は、第一次近衛内閣の総辞職によって流産したのであるが、更に近衛は、団琢磨や井上準之助を殺害し、無期懲役刑を受けたものの皇紀二千六百年祝典の恩赦によって仮出所した血盟団事件の首魁であった井上日召を、昭和十五年末から彼の私邸「荻外荘」に同居させたのである(3)。我が国の憲政史上、非合法暴力主義者を擁護し且つ自分の懐刀として召し抱え、政党にテロを仕掛けた総理大臣など近衛文麿以外にはいない。

 第二次世界大戦後の我が国では、過去の反省として軍部や東條英機を非難すれば事足れりとする風潮が一般的であり、東條を日本のヒトラーになぞらえる史家もいるが、蒋介石政権との和平交渉継続を求める陸軍参謀本部を恫喝し、政党にテロを仕掛けた近衛こそ日本のヒトラーでありスターリンであろう。

 日本憲政史上稀に見る狡猾にして強力な近衛の政治指導力は第二次近衛内閣においても遺憾なく発揮されていった。

(1)伊藤【近衛新体制】六十九~七十六頁。頭山満は政党意見書を迷惑がったという(小川平吉日記昭和十三年二月十八日の条)。
(2)河上丈太郎編【麻生久伝】四七八頁。
(3)勝田龍夫【重臣たちの昭和史下】二一五頁。尾崎、今井【開戦前夜の近衛内閣】二七五頁。


26、革新華族

 風見章から「何れにしても既成政治勢力を叩き壊すに非ざれば新しき政治体制の出発は不可能なるを以て、何よりも先ず既成政党爆破工作を第一の目標として、諸方に斡旋するの急務」なることを進言された近衛文麿は、昭和十五年(一九四〇)五月二十六日、彼の親友、木戸幸一、そして日本革新農村協議会を背景としていた有馬頼寧と会合し、「新党樹立に関する覚書」を作成した。それは次のような内容であった。

一、大命を拝する以前に於ては新党樹立は積極的にやらぬこと。

 但し政党側の自発的行動によって新党樹立の機運生じたる時は考慮すること。

一、大命降下ありたる場合考慮すべき事項

(イ)陸海軍両総長、内閣総理大臣、陸海軍大臣を以て最高国防会議を設置すること。
(ロ)陸海軍の国防、外交、財政に関する要望を聴取すること。
(ハ)新党樹立の決意を表明し各政党に対し解党を要求すること。

一、総理と陸海軍大臣だけにて組閣し他は兼任とすること。

 但し情勢により二、三の閣僚(例えば外務省等)を選任すること。

一、新党成立の暁党員中より人材を抜擢して全閣僚を任命すること。新党結成前に選任したる閣僚は必ず新党に加入すること。

 昭和九年(一九三四)十月、近衛は革新官僚の富田健治に、

 「今の政党はなっていませんよ、議会はどうにもなりませんよ、これは衆議院だけじゃない、貴族院だって同じことだ。不勉強と無感覚だといって、若い軍人が怒るのも無理はないと思う。私はそこで、今の日本を救うには、この議会主義では駄目じゃないかとさえ思う。この議会主義をたたきつけなければならない。この議会政治の守り本尊は元老西園寺(公望)公です。これが牙城ですよ」

と語っており(1)、近衛文麿は政党と議会制デモクラシーを破壊しようと執念を燃やしていたのである。

(1)富田健治【敗戦日本の内側】一一一頁。


27、上からの政権奪取

 そして風見と並ぶ近衛の最高政治幕僚の尾崎秀実は、昭和十五年六月号満鉄内部極秘刊行物「時事資料月報」の中で、現在の所謂新党工作は内容的には第一には新政党の樹立、第二には内閣の更迭、第三には国民再組織の問題という三つの要素から成っていると解説し、

 「近衛運動(新党運動)は実際問題としては先ず上からの政権奪取が成功し(之は成功率は突変的支障なき限り一〇〇パーセントである。其の時期は遅くも来月迄には実現するであろう)、ついで新党樹立が行われるであろう。勿論新党樹立が先行することもあり得る(後者の場合は内部的な混乱が生ずる危険が一層大きい)。其の後に於て国民再組織運動に着手せられるのであろう」

と予言し、

 「近衛自らも要望する新味ある結果を期待するが為には、単なる内閣閣僚の顔振れに新味を出すと謂うが如きことに止まることは出来ないのであって、党の性格の中に新味を求めなくてはならない。党の組織の中に、又其の直後に於て活溌に行わるべき粛党工作の中に求められねばならない」

と力説し、新党樹立後これに加わった既成の非革新勢力が排除されることを示唆した(1)。

 尾崎の予言した近衛の「上からの政権奪取」と「新党樹立」は、ヨーロッパの戦況が激変する渦中で、彼と密接な関係を有していた陸軍統制派の主導によって実行されていったのである。

(1)【尾崎秀実著作集3】一六二~一六四頁。


28、具眼の戦争指導班参謀

 昭和十五年(一九四〇)三月三十日、畑俊六陸相と閑院宮参謀総長は、沢田茂参謀次長、富永恭次第一部長、神田正種総務部長、阿南惟幾次官、武藤章軍務局長ら省部首脳を集めて会議を開き、「重点主義と節用主義の徹底的励行」という予算編成方針(昭和十四年七月四日閣議決定)に準拠する大蔵省によって削減された陸軍予算から軍備拡充費用を捻出するために、十五年中には政戦謀略のあらゆる手段を講じて支那事変の和平処理に邁進し、年末に至ってその見込みが立たない時は、十六年初頭から自発的に撤兵を開始し、十八年中には、上海付近および蒙疆の一角を残して全部を撤兵する方針を申し合わせたのである。この申し合わせは、陸軍省部の一部と支那派遣軍の反対によって修正されたものの、五月十八日、陸軍省部決定「昭和十五、六年を目途とする対支処理方策」としてまとめられ、斯くして陸軍の方針は、昭和十五年中に終戦外交が成功しない場合は、自主的に態勢の収縮を図ることで一致したのである。

 歴史とは真に皮肉である。一年前の昭和十四年五月、小野寺機関から、

 「蒋介石は表向きは国共合作を採用しながら、支那事変長期化による中国共産党の勢力拡大を憂い、内実は容共抗日団体を弾圧しており、日本が中国侵略を思いとどまるならば、いつでも戦争を終息させる用意をしている」

ことを報告され(1)、小野寺工作を強く支持していた参謀本部作戦課戦争指導班長の堀場一雄中佐は、六月、上海から汪兆銘の来日を告げに来た今井武夫大佐を「時機尚早」と激しく非難した(2)。汪兆銘は、六月十日、我が国政府首脳と会談し、次の三ヶ条を打診した。

1、日本側は重慶を相手として事変解決を図るや。この場合予は居仲斡旋すべし。
2、日本側は国民党以外の有志と和平方策を講ずるや。この場合予は野に在りて協力すべし。
3、日本側は和平政権を樹立して事変解決を図るや。この場合予は政権を樹立すべし。

 しかし堀場中佐は、

 「第三案政府樹立案は、対立政権に堕し長期大持久戦に陥るの公算大にして、斯くの如き事態に政府及国民を決意せしむることは容易の業に非ず。汪政権を以て解決政府たらしめんとするの希望は、ハノイにおける期待外れ以来汪兆銘の真意乃至真価に数段の変化あり。之を直視せずして当初の夢を持続するは情勢認識の錯誤なり」

と判断、汪兆銘に対して、

 「卿今回微行の真意は共感諒承せり。願くは直ちに重慶に至り、日本の真意を伝えたる上改めて公然全権として再来せられんことを。飛行機は直ちに準備し日本側亦同行すべし」

と直言し、中島鉄蔵参謀次長に対しては、第一案を進言すると共に、汪に停戦使節としての機能を発揮せしむべきであると具申した。続いて七月五日、参謀本部戦争指導班は事変解決秘策(案)を策定した。この中で戦争指導班は、

 「汪と重慶との合流を策しつつ対重慶停戦を指導し次で汪及重慶を包括する新中央政府を樹立する。重慶を包括せざれば、新中央政権に武力及財力の基礎なし。汪は停戦を令すと称するも、実力なき新政府の威令行わるるの筈なし。停戦は日本と重慶との問題なり。百万の軍を汪個人に依存すべからず。新政府を樹立して後重慶を切崩し乃至獲得せんとするは両政府の対立を前提とするものにして持久方略なり已むを得ざる場合の策なり」

と述べ、汪兆銘の新中央政権を樹立した場合、蒋汪両政権の対立により「永久抗争」の事態を招きかねないと危惧し、停戦の実行は蒋を相手として直接停戦条件の折衝を行い、停戦問題について重慶側が応諾して汪兆銘が承知しない時は「汪を排除」すべきであり、

 「新中央政府の樹立決定は事前合流か事後合流か或いは両政府対立永久抗争かの予見と之に応ずるの対内外決意とを確立し一大決心を以て之を行う。是今事変の運命を決すべき最大の決心なり。今や国民政府相手にせずの自らの声明に束縛せられ軽率なる新中央政府樹立乃至態度決定は百年の悔を遺すものなり」

と警告を発し、戦雲が色濃さを増すヨーロッパを前にして、

 「欧州情勢鎮静せば、列国の極東共同干与の時期あるべく、又欧州大戦に移行せば、其推移に応じ東亜新秩序に関し我指導的発言権を確保するの要あり。乃ち速かなる事変の解決を以て当面の急務となす。現態勢を以て今次戦争目的の達成は可能なり。今後漫然たる戦争継続は徒労なり。今次事変を以て一挙支那問題の全面解決を望むは無理あり。野に既に疲労の色あり。長陣は乱を生ず。故に断乎たる決意を以て事変の解決を策す」

べきだと主張したのである(3)。

(1)香港から帰国した小川平吉も、「蒋介石は多数要人と同じく心中和平を希望して其の時期を窺うと共に、講和の場合を慮り共産軍に対する中央軍の配置を完うし、又中央軍に対する共産党の侵入を杜絶し、其の宣伝を禁じ、学生青年等の赤化防止に力を尽くせるは顕著なる事実なり。彼は長期戦争の結果、両国倶に傷つきて共産党の乗ずる所となるを深憂し、其の体面を損ぜざる範囲と時期とに於いて講和を締結せんことを今尚熱望し居ること毫も疑なし」と政府要人に報告しており、小川は、もし不幸にも汪蒋両政権の勢力が拮抗して互いに相下らなければ、日支親善の実は挙がらず、共産党はこの間に乗じて益々地方に勢力を扶植し、東亜の平和は永く攪乱せらるる虞がある、と危惧していた(【小川平吉関係文書1】六五九頁「赴香始末」)。
(2)参謀本部第八課は、汪兆銘一行と共に来日した高宗武を特別に扱い、向島の大谷米次郎別邸に高一人を宿泊させ、犬養健が連絡に当たっていた。小川平吉は汪兆銘と会談した近衛から得た情報として日記昭和十四年六月二十日欄に「汪は去に臨みて高宗武は彼是噂あるも、予は絶対信用すといえり(影佐は之を疑い、東京に止めて軟禁せし由)」と記述している。松本重治の回想によれば、だが陸軍の一部が高宗武の不審な行動を怪しみ、高を「ぶった切ろう」とした為、六月末、松本等は急いで高を離日させたという(松本【上海時代下】三二七頁)。

 高宗武は、昭和十五年一月三日に汪兆銘の下を出奔、上海から香港に脱出し、汪一派にとって極めて苛酷な和平条件を列挙した「日支新関係調整要綱」(日華基本条約の草案)の内容を香港大公報に曝露し、「国に対する汪の反逆の万悪が、遂にここまで達したとは痛苦に耐えない」と蒋介石を激怒させ、その後、アメリカに逃亡した(【蒋介石秘録12】二一四頁)。

 神尾茂は香港日記昭和十五年一月十一日欄に「梅華堂に至り影佐少将と少時語る。高宗武、陶希聖は汪兆銘に書を寄せ、一時の興奮から同志を騒がしたことを謝し、決して他意ある訳ではないから、事を共にした同志の機密を売るようなことはしないから、放心して貰いたいといって来たそうで、一先ず安心すべき状態になったと」と記述している。
(3)堀場【支那事変戦争指導史】二六四~二六五、二六九~二七二頁。


29、ノモンハン事件と第二次ヨーロッパ大戦

 約三千四百万人もの人命が失われた第一次欧州大戦の惨劇の再発を危惧する英仏両国の対独宥和政策を利用し、一九三九年三月にチェコを併合、スロバキアを保護国にしたドイツは、八月二十三日、ソ連と不可侵条約を締結、ポーランドにダンチヒ回廊の割譲を要求していた。だがポーランドが頑なに之を拒絶した為、九月一日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻を開始し、三日、英仏両国は遂にドイツに宣戦を布告、第二次ヨーロッパ大戦が勃発した。ゾルゲ機関から、

 「日本政府はノモンハン事件を局地で解決する方針であり、それを拡大するつもりはない。日本政府はソ連と全面的に戦争をする意図はまったく持っていない。一般国民もまたソ連との戦争を望んでいない」

という報告を受諾し、後背の安全を確信したスターリンは、ノモンハン事件の停戦協定成立から二日後の十七日、ドイツ軍に続いてソ連軍をポーランドへ侵攻させ(1)、二十八日、ポーランドは独ソによって分割され消滅してしまった。さらにソ連は、ドイツとの秘密協定に基づき、バルト三国に相互援助条約と軍事基地提供を要求、これ等を受諾させ、ソ連軍を進駐させ(一九四〇年八月、バルト三国を併合)、次いでフィンランドに侵攻し(冬戦争、一九三九年十一月~一九四〇年三月)、国際連盟によって侵略国と認定され連盟から追放された。

 ノモンハン事件(昭和十四年五~九月、満蒙国境で日満軍とソ蒙軍が衝突した紛争事件)に遭遇した平沼内閣は、ドイツとの防共協定(昭和十一年十一月二十五日締結、翌年十一月六日イタリア加盟)をソ連或いはソ英仏等を対象とする軍事同盟に発展させる是非を審議し、ドイツと交渉を重ねていた。
 だがドイツ政府は国家意志の定まらない日本に失望しソ連と不可侵条約を締結した為、日独関係の温度は一挙に氷点に達し、我が国政府はドイツに防共協定違反を抗議して交渉を打ち切った。昭和十四年(一九三九)八月二十八日、困惑した平沼首相は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」云々との迷言を残し総辞職し、阿部信行内閣が誕生したが、貿易省問題、統制経済とくに米価問題に失態を重ね、翌年一月十四日には倒壊してしまい、十六日、米内光政内閣が成立した。

(1)土門周平【参謀の戦争】三十四頁。


30、桐工作

 ソ連は故意に国境紛争を惹起しこれを口実に外蒙古に大軍を派遣して頻発する反ソ暴動を制圧し、進んで外蒙古から満洲に侵攻する企図を有しており、昭和十四年(一九三九)五月十一日、スターリンの指示を受けた外蒙軍が、外蒙古と満洲国の国境のハルハ河を越え、満洲国軍とノモンハン付近で衝突した。六月十七日以降には、ソ連軍がソ連の唱える国境線から二十キロ東にある満洲国領内の将軍廟にまで侵入したが、関東軍の頑強な抵抗に遭遇し苦戦した為、八月二十日、ソ連軍は約二十三万以上の大兵力を動員し日本軍に大攻勢を仕掛けた。関東軍(最弱師団の第二十三師団)は、政府軍中央の不拡大方針に掣肘を加えられながらも砲兵に援護された精強なる我が下士官兵の挺身戦闘によってソ連軍に大打撃を与えよく満洲国防衛の任務を全うし、スターリンは止むを得ず東亜侵攻を一時中断しソ連軍の矛先を東欧と北欧へ向けたのであった。

 ノモンハン事件の日ソ両軍の損害数は、日本軍の戦死傷者が一万七千四百五名で、ソ連軍の戦死傷者は二万五千六百五十五名以上に及んだ。ソ連は余りにも拙速に大軍拡を行った為に、ソ連軍の諸兵器は多数の粗製濫造品を抱えており、一九三七年五月二十七日のトハチェフスキー元帥の逮捕に端を発したスターリンの大粛清によって有能な幹部を喪失していたソ連軍将兵の練度は士気と共に極めて低く、最大で約一対十一の日ソ軍の兵力比を勘案すれば、ノモンハン事件は我が軍の大善戦であった。当時の極東ソ連軍司令官ジューコフは、第二次世界大戦後、米国ミシガン大学のハケット教授や新聞記者らと会談した際、「どの戦いが一番苦しかったか」と質問されて「ハルハ河」と即答し、モスクワ攻防戦やスターリングランド攻防戦を予想した者を驚愕させ、彼等は改めて日本軍将兵の桁違いの精強を認識したのであった。とはいえノモンハン事件の後半戦には、関東軍将兵は日露戦争以来の日本陸軍の通弊である弾薬の不足に苦しみ著しく損害を拡大しており、我が陸軍が現代戦に対応するための補給能力とこれを支える輸送力を欠いていることを露呈したのである(1)。

 従って陸軍首脳は、汪兆銘政権樹立の危険性を看破した具眼の堀場一雄中佐の警告を受け容れ、梅機関と汪一派の日支内約交渉(昭和十四年十一月一日~十二月三十日、「日支新関係調整要綱」を調印)を巡って難航していた汪兆銘政権樹立工作を中止し、昭和十四年十二月二十七日、香港大学教授の張治平の斡旋により鈴木卓爾中佐(参謀本部支那課)が宋子良(蒋介石の妻宋美麗の弟)を名乗る男(重慶特務機関「藍衣社」工作員の曽広)に接触したことを端緒として開始された、蒋介石の重慶政権に対して和平を図る「桐工作」に集中して支那事変を解決し、支那戦線に投入されていた膨大な資金資材人員を対ソ戦備の再建更新と、欧米列強に比べて格段に劣っていた我が国の生産力や技術力の向上に充当すべきであった。

 だが汪一派に苛酷な和平条件を列挙した日支新関係調整要綱に難色を示し、東亜新秩序や東亜協同体を批判して新政権樹立を断念しようとした汪兆銘に対し、あくまで愛国者として初志貫徹を貫くよう呼びかけた西園寺公一を筆頭に(2)、我が国の各雑誌や朝日新聞社が、汪兆銘工作を「東亜の新秩序を実現する、理想に満ちた日支和平工作、支那再建運動」として礼賛し、これを執拗に宣伝推進していた。

 公論昭和十四年十一月号に掲載された以下の尾崎秀実の評論「汪精衛政権の基礎」(一九三九年十月十日脱稿)が示す汪政権樹立のための宣伝工作の狙いは、まさに蒋汪両政権を参謀本部戦争指導班の危惧した「対立永久抗争」という最悪の事態へ誘うことにあった(3)。

 「人々が汪精衛運動の発展に期待することは、この運動がやがて東洋の天地を被う陰惨深刻なる日支抗争の現状を打開する結果を齎すであろうということだと思われる。それはまさに日本政府の立場から見れば、事変処理方策の内容決定を意味するものであるわけである。しかしながら我々は汪精衛運動の期待を決してそのような手近な方便の上に置かんとするものではないのである。それはこの運動の発展自体が支那の再建過程を通じて将来本極りの日支関係をつくり上げ、かくて東亜の新秩序の誕生を待つ段取りとなるであろうと信ずるがためである(中略)。

 日本の当局者の責任は与うかぎり速かに汪運動の全貌を国民の前に明らかにし、国民をしてこれを理解せしむるべきである。汪精衛運動が支那再建の唯一の方策であり日本としては全力を挙げてこれを守る以外に良策なきこと、しかもこれは日本が後日大陸に雄飛し得べき具体的な足がかりを提供するものであることを明らかにすべきである。

 日本人はまず心を虚しうして汪運動の前進をはかるべきである。戦勝者の威容をつくることも悪くはあるまい、特殊の要求を持ちこむことも技術的に不可能ではあるまい。後日の保障を求めて置くことも無意味ではないかもしれない。しかしながらあらゆる問題の中で何が一番大切かといえばともかくも多くの困難なる条件によって発展の可能性を縮小されている汪精衛政権の誕生と発展とをはからなければならないということである。

 すべての条件が一応ことごとく汪精衛運動によく作用し民族資産家階級を根幹とする政権が出来たとしてもそれで問題が終わったのではない。汪政権がほぼ事変前の蒋介石政権の水準に近づくというだけのことである。その後には民族問題を根本的に解決する難問が待ちかまえているのである。
 宋美齢夫人が支那はこの戦争によって始めて国家意識をはっきりと持ち始めたというのはあながち誇張ではない。従来の支那の民族運動は未だ国家意識によって裏づけられるところまで到達してはいなかったのである。
 汪精衛運動が民族運動のヘゲモニーを重慶政権との間に争うべき最後の段階はやがてその後に到達するであろう。」

 それにもかかわらず合理主義より周囲の空気に付和雷同する日本人の習性から脱却できない凡庸な陸軍首脳は、弱体な汪政権の樹立が果たして支那事変の解決として結実するのかと疑問視しながら之を中断できず、昭和十五年三月十五日、阿南次官、武藤軍務局長、沢田参謀次長は、陸軍省軍務局高級課員の西浦進と石井秋穂の両中佐が起案した「当面の対支処理要領」を受諾し、汪工作の続行を決定してしまったのである。

 この「対支処理要領」は、「新中央政権樹立工作と桐工作とは別個に促進する」ことを方針として掲げ、第三項で「停戦の条件として、新中央政府の樹立を中止又は延期せしむることなし。随って桐工作が不成功に終わることを予期す」と述べ、文字通り汪兆銘政権の樹立が桐工作の障害となることを認識しながら、

 「政府樹立と停戦協定調印の先後関係に拘らず汪蒋合作を内面的に促進し、之が実現を見たる上正式和平交渉を開始するものとす。桐工作の成功を促進し且之を国内的に秘匿する為、汪を中心とする新中央政府の樹立竝に之に対する挙国支援態度を具体化するものとす。之が為新中央政府樹立せば之に対し、臨時特命全権大使を派遣し、指導協力竝に政府正式承認の前提として、日支関係条約締結の交渉に当たらしむる建前を以て其の準備に着手するものとす。
 但し現地に於ける政戦両略の一致を害するが如き結果を来さしめざる様、万全の措置を講ずるものとす。全権出発後桐工作速急に具現せる場合に於ける全権の任務は、汪蒋合作後の国民政府に対する日支新関係条約の締結交渉に在りとす」

と定めるなど矛盾を抱えていた。堀場中佐は、戦争の本質と国力に関する認識究明を欠き支那事変の解決を省みない陸軍省部の首脳陣に深く失望し、前年十二月初旬、

 「権益思想は玄界灘以東に止めよ。予は南京に到り大乗国策を以て事変を現地解決すべし」

と一縷の希望を抱いて支那派遣軍参謀に進んで転出し、南京で香港機関(桐工作)からの電報をもとに停戦会談から和平成立までの日程を組みながら、ひたすら重慶側の回答を待望していたが、この「当面の対支処理要領」の内容を知り「汪政権を主とする並行放任策」と評して嘆息したのであった…(4)。

 そして堀場中佐の赤誠溢れる意見具申から遅延すること約九ヶ月後、陸軍首脳がようやく戦略転換を申し合わせた三月三十日、汪兆銘が中華民国臨時政府および中華民国維新政府と合同して南京に新政権を樹立してしまい、支那事変は「永久抗争化」してしまったのである。

 実際、六月マカオで行われた日中和平会談において、宋子良ら重慶側代表は「汪ありて蒋なし。汪ありては和平なし」と汪兆銘が日中和平の障害であることを強調し、せめて汪兆銘を亡命あるいは隠退させてほしいと要求したが、今井武夫ら日本側代表は当然これを拒否し(5)、以後の和平交渉は進展せず、九月十九日、支那派遣軍は桐工作を中止した。

(1)小田、田畑【ノモンハン事件の真相と戦果ソ連軍撃破の記録】参照。
(2)上坂冬子【汪兆銘の真実上】二五三~二五九頁、中央公論昭和十四年十二月号「汪兆銘への公開状」
(3)【尾崎秀実著作集2】三七五~三七八頁、公論昭和十四年十一月号「汪精衛政権の基礎」
 なお同書三六八~三七四頁にある中央公論昭和十四年五月号「汪兆銘問題の新展開」の中で、尾崎は、「汪兆銘の奥地脱出以後、汪派の行動と蒋介石との間に何等かの脈略があるのではないかという観測が存在するが、これは明らかに穿ちすぎた観測であって、具体的には何等の連絡なきことは事実である」と断言している。
(4)堀場【支那事変戦争指導史】三二〇、三七六頁。
(5)今井【支那事変の回想】一三八頁。


31、倒閣

 一九四〇年四月八日、イギリスはノルウェーの鉄鉱石がドイツに輸入されることを阻止する為、ノルウェーの中立を侵害してナルビック港を封鎖した。翌日、ドイツ政府は、デンマークとノルウェー両国政府に対し「英仏の不法行為に対する自衛手段として両国の中立を保護する為に之を占領する」と通告、ドイツ軍は四十八時間以内に両国を制圧し、続いて五月十日からオランダ・ベルギー・ルクセンブルク三国に同時侵攻し、僅か一日で三国の首都を占領した。急降下爆撃機と機甲部隊を巧妙に併用するドイツ軍の電撃作戦は凄まじく、ベルギーに進出してこれを阻止しようとした英仏軍を押し返し、五月二十四日にはマジノ戦を突破したドイツ軍が北フランスのカレーを占領した。カレーの北方ダンケルクでドイツ軍に包囲されたイギリス軍は武器を捨てイギリスへ退却し、六月十四日、ドイツ軍はパリへ入城、そして三日後、フランスは降伏した。

 瞬く間にヨーロッパを席巻した一九四〇年四~六月のドイツ軍の快進撃により、英仏の対支援助の減少に伴う抗日戦力の減衰を余儀なくされた中華民国の国民政府内部では、蒋介石一派と孔祥煕一派が和平工作の主導権争いを起こす程、彼らは対日和平を欣求していた。

 上海で和平工作に従事していた和知鷹二大佐と松本蔵次が、七月七日に重慶、香港両方面より到着した王子恵の密使から得た情報によれば、蒋介石と孔祥煕等は必ず和平を決行する決心を固めており、対内対外関係に細心の注意を払い、アメリカに対して無理な抗戦援助を要求し、これに応じなければ対日和平の外なき由を提議し、和平後の経済問題を好転させる準備を取りつつあり、日支戦争を促進する為に中華民国へすでに約三億ドルもの軍事借款を提供していたソ連に対しても応諾不可能な抗戦援助と中共への支援の中止を申し込んで、ソ連と訣別する外交方針を決定しており、蒋介石は、対日和平を外部に発表する際は六時間以内に大占領を断行、講和反対派を弾圧する覚悟を固め、もし日本が和平に応じ国民政府を援助する覚悟を有するならば、孔祥煕が指定の場所に来て日本側と会談し、孔から交渉成立の電報を受ければ、蒋介石は、抗日戦以来蒋に次ぐ実力を獲得し、一九四〇年初頭から反共言説を繰り返していた陳誠(軍事委員会政治部長)に命令を発し一挙に和平を決せんと決意していたという。

 だが支那戦線では、我が陸海軍航空部隊が五月十五日から第四次奥地進攻作戦(百一号作戦)を発動し、九月二十三日の我が軍による北部仏印進駐の頃まで中華民国軍民の反日抗日気運をみすみす煽り立てる重慶爆撃を連続反復し、影佐禎昭や今井武夫ら汪兆銘政権樹立派が板垣征四郎支那派遣軍総参謀長を操り、「上海に在る重慶方面の輩は皆新政府の攪乱者」であるとして重慶側要人の捕縛を繰り返し、日蒋直接和平工作を執拗に妨害していた(1)。我が国では、「バスに乗り遅れるな」と親独世論が沸騰し、陸軍内部でも、ドイツに呼応して南進し英仏蘭の植民地を我が国の勢力圏に収めると共に仏印(ラオス、ベトナム、カンボジア)、ビルマにおける米英の援蒋ルートを遮断して蒋介石を屈服させるべきであるとの強硬論が勢いを増した。

 斯くして三ヶ月前の「支那事変の和平処理」「態勢の自主的収縮」方針とは反対に、陸軍省と参謀本部の課長会議は、昭和十五年六月二十一~二十五日まで僅か五日間の討議によって、仏印進駐を中核とし(我が軍は、昭和十五年九月二十三日北部仏印、翌年七月二十八日南部仏印に進駐)、米国が参戦せず英国の屈服が見込まれる「好機」を捕捉してマレー半島、香港(英領)、蘭印(オランダ領インドネシア)の攻略を予定する「対南方戦争」案を策定した。

 この案は、七月三日「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」として決定され、翌日、海軍の合意を得た陸軍の中堅幹部は、米英友好を強調し南進の障害となる米内内閣を倒す為、沢田次長、阿南次官を通じて閑院宮参謀総長を動かし、畑陸相に次の参謀総長覚書を提示した。

 「帝国としては一日も速に支那事変の解決を得策とす。而して之が為には国内体制の強化を前提とするのみならず、又変転極まりなき国際諸情勢に対しても積極機敏に処理すること急務なり。

 然るに、現内閣の施策する所を視るに、消極退嬰にして到底現下の時局を切抜け得るとも思われず、進で国軍の志気団結に悪影響を及ぼすの惧なしとせざるを以て、此際挙国強力なる内閣を組織して、右顧左眄することなく断固諸政策を実行せしむること肝要なり。右に関し此際陸軍大臣の善処を切望す。」

 「陸軍大臣の善処」とは米内首相に総辞職を勧告し、承知されなければ陸相が辞表を提出して内閣を崩壊させよ、という意味である。南進を論外の論と考えていた畑陸相は、沢田次長から提示された覚書を読んで絶句したが、陸軍最長老であり皇族である閑院宮参謀総長の指示には逆らえず、十六日、畑陸相は辞表を提出し、陸軍から後任陸相(現役の大、中将)を出せない旨が伝えられると、米内首相はそれを理由に内閣総辞職を決意した(2)。

 これは、昭和十一年五月十六日に陸軍統制派が二・二六事件を契機に陸軍中央より追放された皇道派の復活を阻止する為に、広田弘毅首相に圧力をかけて復活させた軍部大臣現役武官制(勅令第六十三号「大臣及次官に任ぜらるる者は現役将官とす」)の威嚇効果である…(3)。

(1)【小川平吉関係文書2】六七八~六八〇頁「昭和十五年七月、六、九日萱野長知(在東京)宛松本蔵次(在上海)書簡」
 書簡の中で、松本は萱野に「茲に困った事は又々板垣が今井等の煽動に乗せられ、上海に在る重慶方面の輩は皆新政府の攪乱者なれば、皆捕縛せよと云うにあれば一般に恐慌を来し居候。」「今井臼井等が宋子良を使い重慶工作をなさしめたるも皆失敗に終りたれば、其の非を覆う為め、蒋介石に宋子良が直接逢うて其の意向聴きたるに、蒋介石に於いては断じて和平の意志なきと。斯くの如き報告を聴きたる板垣は心機一転弾圧と決心したるものにて、租界にある重慶要人は皆陰謀攪乱者なれば皆捕縛せよと命令したる次第なり。和知も非常に残念がり居ると雖も目下の場合致し方なき次第。」と報告した。
 堀場中佐は、日本側代表が重慶に乗り込めば、話は必ず解決すると信じ、鈴木中佐に直接その旨を含め折衝を行わせたが、今井大佐は必ずしも賛成しなかったという(堀場【支那事変戦争指導史】三八九頁)。
(2)【畑俊六日誌】昭和十五年七月十六日の条。
(3)但し陸軍が後任陸相として現役将官を出さない場合、内閣総理大臣は内閣官制第九条「各省大臣故障アルトキハ他ノ大臣臨時摂任シ又ハ命ヲ承ケ其ノ事務ヲ管理スヘシ」に依り臨時に陸軍大臣事務管理を兼任できたので、法令上軍部大臣現役武官制は軍部に内閣の生殺与奪権を与えるものではなかった(筒井清忠【昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像】参照)。


32、第二次近衛内閣発足

 七月十七日、木戸幸一(昭和十五年六月一日内大臣就任)を司会とする重臣会議は、陸軍次官の阿南惟幾中将を通じて陸軍から出馬を要請されていた近衛文麿を次期首班に奏薦することに決定し、昭和天皇は近衛に後継内閣組閣の大命を下された。木戸は近衛の親友であり、

 「元来今の陛下は科学者であって、非常に自由主義的な方であると同時に、また平和主義の方でもある。そこで、この陛下のお考えになり方を多少変えて戴かなければ、将来陛下と右翼との間に非常な隔りが出来ることになると、ちょうど孝明天皇が晩年に側近をすっかり幕府に取替えられてしまったような具合に、どうされるか判らない。で、陸軍に引きずられるような恰好でいながら、結局はこっちが陸軍を引張って行くということにするには、もう少し陸軍に理解をもったような形をとらなければならん」(原田日記昭和十四年四月二十日)

とまで昭和天皇を批判し、

 「別席にて近衛公と懇談す。新党々首云々について、大体左の如き事情なることを知り得た。漢口攻略後の時局の転回に当りては、或いは蒋を対手とするの事態を生ずるやも知れず、又失業其他国内の状勢は相当憂慮すべきものあり、是等に対処するには政党を打って一丸とし、所謂一国一党的態勢を整うるの要ありとの見地より、秋山、秋田、久原、麻生等が参加し居り、前田も最近秋田の仲介にて秋山と会見したりとのことなり、右の如き意味にて政党合同運動の進展する場合には、近衛公としても之が党首を断ることも如何かと考え、曖昧なる返事を為し居るとのことであった。

 尚、近衛公は、自分が組閣以来支那事変の勃発に逢い、種々苦心を続け来りたるが、南京攻略後の見透し、一月十六日の声明の結果、新政府樹立の効果、成績等に顧るに、常に事志と違う処少からず、此上いよいよ蒋を対手とすると云うことにならば、其責任も重大なるを以て桂冠するの外なしと心中を語らる。尚、最近宇垣方面より、首相の方針等につき悪声の伝えらるるは、結局此の内閣を倒さんとの意図の下に行わるるやにも推せらるとの述懐ありたるを以て、余は此の際蒋を対手とすると云うことを以て首相が退き、其新政局を宇垣外相の方針にて処理せむとするが如きは、到底思もよらざることにて、其の結果は国内に恐らく一擾乱を起し、結果より見て我国の負となるの虞十分あり、絶対に如斯ことは考えず、今一応勇気を起して邁進するの必要を力説し、其の為めには必要とあらば新党々首を引受けらるるも不得止べし」(木戸幸一日記昭和十三年九月七日の条)

と対支強硬策を力説し、昭和十五年五月二十七日、風見章に新党運動に関する「白紙委任状」を渡した一国一党論者であり(1)、この二人の「革新」華族が我が国を敗滅へ引きずっていったのである…。

 七月十九日、近衛は、入閣予定の東條英機(陸相)、吉田善吾(海相)、松岡洋右(外相)を「荻外荘」に招き、世界政策として次の四項目を決定した。

1、世界情勢の急変に対応し、且つ速かに東亜新秩序を建設するため、日独伊枢軸強化を図り東西互いに策応して諸般の重要政策を行う。しかし、枢軸強化の方法や時機については、情勢に応じて機宜を失わないことを期する。

2、対ソ関係は、国境の不可侵協定(期間五~十年)を結び、且つ懸案の急速解決を図ると共に、右の期間内に対ソ不敗の軍備を充実する。

3、東亜にある英仏蘭葡(ポルトガル)の植民地を新秩序に包含せしめるため、積極的な処理をする。但しこれに関する列国会議はなるべく排除する。    

4、米国とは無用な衝突を避けるが、東亜新秩序の建設に対する米国の実力干渉は、これを排除する堅い決意を持つ。

 二十二日、近衛内閣は朝日新聞社から「米内有田外交の総決算」(十七日)、「明察を鉄の意思で貫け」(十八日)など声援を受け発足し、二十六日には陸軍省軍務局と秋永月三(陸軍大佐)、迫水久常、毛利英於菟ら企画院革新官僚が作成した「綜合国策十年計画」を台本として起草された「東亜新秩序建設」「自由経済を基調とする現存経済機構を計画経済の運営に適応させる公益優先主義」等を強調する「基本国策要綱」を発表し、松岡外相は、その新秩序とは仏印、蘭印を含む「大東亜共栄圏」の確立をめざすものだ、と声明した。

 そして翌二十七日、大本営政府連絡会議は、陸海軍主務者が検討、修文を加え合意した「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。事実上、我が国の進路(破滅への道)を決したといえるこの要綱は「帝国は世界情勢の変局に対処し、内外の情勢を改善し、速に支那事変の解決を促進すると共に、好機を捕捉し、対南方問題を解決す」を基本方針とし、軍事戦略、外交政略として「好機を捕捉する南方武力進出」「重慶政権の屈服による支那事変の解決」「独伊との政治的結束」「対ソ国交の飛躍的調整」「対米開戦の準備」「蘭印に対する暫定的資源獲得外交交渉」を定め、内政施策として「強力政治の実行」「総動員法の広汎なる発動」「戦時経済体制の確立」「国内世論の統一」等を掲げ、新世界情勢に基づく国防国家の完成をめざして強力に推進すると定めており、陸海軍統帥部は南方武力行使および対米英戦の具体的な検討と準備とを開始し、八月三十日、小林一三使節団が東京を出発、蘭印へ向かった。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

昭和十五年六月一日土曜
本日ヨリ第一班業務日誌ヲ記載スルコトニ定メ主トシテ種村之ヲ担任ス

昭和十五年八月十六日金曜
一、南方綜合作戦計画ニ関スル陸海軍打合セヲ水交社ニテ行フ 瀬島案ノ再検討ヲ行フ

昭和十五年八月十九日月曜
一、南方綜合作戦研究アリ 蘭ヨリスヘキヤ馬来(マレー)ヨリスヘキヤニ関シ要ハ対英戦ノ決意ナキモノハ駄目
一、午後南方戦争指導要綱並ニ時局処理要綱ノ再検討ニ関シ種村案ヲ基礎ニ研究アリ
一、 沢田大使ヨリ仏側カ軍隊通過ノミヲ認メタル旨ノ通電アリ 南方ニ関スル限リ海主陸従ナルモ陸軍統帥担当者ガ無研究ノマヽ海軍案ヲ賛美スル傾向アルハ適当ナラス   

昭和十五年八月二十二日木曜
イ、対南方戦争指導ニ関シ第三次案ヲ基礎トシテ省部関係者ノ協議アリ
 軍事課長ヨリ武力戦内容(英蘭カ蘭カ英カ)不明ニシテ同意シ難シトテ更ニ明日附議スルコトトナレリ
ロ、「大東亜新秩序建設目標」ノ検討アリ

(1)尾崎、今井【開戦前夜の近衛内閣】五十七頁。


33、近衛新体制 

 第二次近衛内閣の誕生から間もない昭和十五年八月一日、東京市内に千五百本もの「贅沢は敵だ」という看板が国民精神総動員本部によって立てられ、食堂・料理店での米食が禁止された。十月三十一日には、東京のダンスホールが閉鎖され、戦時下の我が国の世相は暗く貧しくなっていった。鳩山一郎は日記昭和十五年十月十六日欄に、

 「布施氏が、贅沢は敵だ、というスローガンは曾てレーニンが使用したる句なり。レーニンは先ず此のスローガンを宣伝して、次に、贅沢と貴族は敵だ、と云うスローガンを播かし、其の次に、贅沢と貴族とクレムリンは敵だ、と宣伝した。現時の日本の状態は全くレーニンの初期時代に髣髴とすと述べて居たと」

と記している…。
 近衛内閣によって我が国の政治経済が戦時統制一色に塗りつぶされていく中で、八月二十三日の新聞に新体制準備委員の陣容が発表された。近衛の枢密院議長辞任と新体制参加表明(六月二十四日)に呼応して、赤松克麿一派の日本革新党が解党し(七月二日)、社会大衆党、政友会が次々とこれに追随し、そして最後に民政党が解党し(八月十五日)、遂に我が国から政党が消滅してから八日後のことである。

 「広く会議を興し万機公論に決すべし、上下心を一にして盛に経綸を行うべし」の五カ条の御誓文を履行した明治天皇によって明治二十三年(一八九〇)に開会され、半世紀に亘り我が国の政治を担ってきた帝国議会の衆議院は、ここに全く権威を喪失し、代議士の集団は大政翼賛会の議員部的存在に転落してしまったのである。
 政党を棄てた彼ら衆議院代議士たちは昭和十二年(一九三七)四月三十日の第二十回衆議院総選挙で当選を果たした政治家である。この選挙では、民政党と政友会が宇垣一成内閣を流産させた帝国陸軍中央部の傀儡政権であった林銑十郎内閣との対決姿勢を鮮明にして大勝利を収め、無産階級の革新政党である社会大衆党(戦後の日本社会党の前身)が衆議院の第三党に上り、政府与党の立場を採る昭和会と国民同盟は惨敗した。

<第二十回衆議院議員総選挙の党派別獲得議席数>

立憲民政党 百七十九議席
立憲政友会 百七十五議席
社会大衆党 三十六議席
昭和会 十八議席
国民同盟 十一議席
東方会 十一議席
諸派 七議席
中立 二十九議席

 立法承認権と予算承認権を有する帝国議会衆議院の刷新を狙い予算の食い逃げ解散を強行した総理大臣の林銑十郎陸軍大将(予備役)は、この選挙結果に因り政権を維持できなくなり、同年五月三十一日に林内閣は総辞職した。政友会と民政党と社会大衆党そして有権者は自由な普通選挙を通じて合法的に陸軍中央の傀儡政権を倒したのである(1)。ところが支那事変勃発の直前に復活した我が国の政党政治は、衆議院代議士の任期満了を待たずに衰亡してしまった。

 昭和十五年八月二十八日首相官邸で行われた第一回新体制準備会で松岡外相は、「一人を刺殺せずプリンス近衛の出馬に依り政党が解消したのは二十世紀の、否人類史上の最大の奇蹟」と感嘆した(2)。これは昭和十二年末から近衛文麿が行ってきた政党粉砕工作の成果であり、昭和研究会の宣伝工作の結実であった。

 昭和研究会に結集した近衛の革新(左翼)政治幕僚たちは、汪兆銘工作と同様に、中央公論や改造を通じて近衛新体制を推進する論文を次々と発表し国民世論を操作した。特に尾崎秀実の同志であろう平貞蔵(労農派過激社会主義者)の二つの論文(中央公論昭和十五年七月号「事変処理の視角から」、改造昭和十五年八月号「新体制に関連して」)は、彼等が秘めていた「戦争を利用する国内革新」謀略思想を余す所なく示唆している。

 平は、まず「日本は屡次の声明に於て、支那の基本的要求を認めると言明したのであるから、この絶好の機会に更に一歩を進め、抗日支那存立の地盤が消失する途を選ぶべきである。」と蒋介石政権に対する徹底的武力掃蕩戦を煽動し、さらに「支那事変が東亜解放の聖戦たる基礎は、戦争の結果が日本の進出および支那の発展、東洋植民地区域瓦解の一歩となり世界資本主義の従来の均衡を破壊することに存するが故に、聖戦の遂行は従来のままの性格、従ってまた世界資本主義との本質的結び着きを放棄しない限り不可能である」と断言した。
 さらに平は、列強の運命と東洋の運命とが定まる数百年に一度しか来ない現在の歴史的転換期に処して、日本が生き、戦い抜き、国家的使命である東亜新秩序建設の指導的役割を果さんとすれば、「我々は英米との経済政治関係を新しく考え直し、これら世界の旧秩序に結び付く国内旧秩序への執着を日本において一挙に払拭しなければならない」と言葉巧みに日本の対英米協調時代の国内旧秩序すなわち自由主義的市場経済と立憲自由主義議会制デモクラシーを否定し、国内革新の必要性を説き、

 「所謂非常時がそのまま常態化した事実の認識の上に立って、一切の国民が国家の発展のために協力する体制を、今や躊躇するところなく樹立せねばならぬのである」

と国民に近衛新体制運動への協力を迫っていたのであった(3)。

(1)一九三七年当時は天皇の名代として司法権を行使する独立不羈の裁判所に一般人が参与する日本版の陪審制(一九二八~一九四三年、戦局悪化により一時中断したまま二十一世紀に至る)があった。昭和天皇は陪審法(大正十二年法律第五十号)の施行を非常に喜ばれたという。
(2)伊藤【近衛新体制】一四三頁。
(3)三田村【戦争と共産主義】二六四、二六六~二六七頁。


34、帝国憲法改正に関する意見書

 八月二十七日、近衛は側近の矢部貞治によって起草された「新体制に関する声明文案」を内奏し、木戸幸一に「憲法の運用」「外交方策」「財政経済」の三節からなる意見書を渡して昭和天皇の内覧に供するように依頼し、三十日、木戸はこれを昭和天皇の内覧に供した。近衛の意見書は次のように述べている(1)。

1、憲法の運用について、

 「憲法に妄りに改変紛更を試みるは、断じて許されざるところであるが、法も亦進化発展の理法を免れざるところである。帝国憲法は、建国の精神を基礎として制定せられたるものであるが、国体法に属する部分にはその時代の欧州諸国の政体法より摂取せられたるものも存在する。この部分こそが時代の進展に伴ってその運用を考慮せらるべき部分である。起草当時の欧州諸国の憲法は、所謂自由主義的立憲国家の憲法であり、その社会的経済的に意味するところは勃興期に在りし資本主義の担い手たるいわゆる第三階級の要求を表現したものという点にあり、有産階級のための『夜警国家』にほかならない。ところが資本主義はその発展とともに所謂独占化の段階に到達し、自由貿易は止んで、資本主義国家間に所謂帝国主義的対立と闘争を激化し、国内にも共存共栄の時代は去りて、凡ゆる領域に階級的対立と闘争を尖鋭化するに至った。そしてまた議会政治、選挙、政党等の諸政治原理が著しく階級的なる道具と変じ、立憲政治は金権政治と同一視せらるるに至った。

 そこで十九世紀の終わりから世界的傾向として国家は益々政治経済生活の凡ゆる領域に干渉せざるを得なくなり、また自由放任の経済に全体的公益の立場より統制を行わざるを得ざるに至り、そしてそのために権力分立、牽制均衡を棄てて、寧ろ強力なる国家権力の集中を図り、その集中的政治機関として執行権を強化し、為に議会は政治の中枢より後退するの已むなきに至って居る。この傾向は近代戦の特色として致しましての国家総力戦の要請による所謂国防国家体制の必要から今日ますます強められている。この半世紀間、欧州各国は憲法改正ないし運用によってこうした傾向に順応しており、これが一番はっきりしているのが所謂全体主義国家である。

 帝国憲法の場合においても政体法の組織及び運用におきましては、著しく分立主義、均衡主義の要素が存在し、日本もまた前述のような政治体制の強化をどこの国よりも必要とする今日、憲法改正のことを申しまするは憚りがありまするが、少なくとも時代の進展に応じて、憲法の運用につき考慮せらるることは、切望に堪えざるところであり、必要ならば、八(註、議会閉会の場合の緊急勅令による法律の改定)、十四(註、戒厳)、三十一(註、戦時又は国家事変に於ける国民の権利財産の制限)、七十(註、議会召集不能の場合の緊急勅令による財政上必要の処分)条等を適宜に活用すべきものとも考えられる。」

2、外交方策について

 「現代の如き動乱の時代におきましては、かかる受動的態度を以ては、東亜の安定勢力たる帝国の任務は、到底之を有効に遂行致し得ず、寧ろ進んで帝国の世界政策を確立し、来るべき世界秩序の建設に指導的役割を演ずべきことが、必要である。日本が今日追及している東亜新秩序の理念は、現に進行中の欧州戦争と相俟ちまして、現行世界秩序たるベルサイユ体制乃至ワシントン体制に代り世界新秩序の模型たる世界史的意義を有するのである。ブロック化の傾向はモンロー主義のアメリカ、ソ連、統一に向かいつつあるヨーロッパを形成しつつあるが、日本も東洋を解放し一つのブロックつまり東亜自主圏を形成しなければならない。日本の自主外交への要求と経済的基礎の英米依存というジレンマを解決すべく一度血路を開くには、世界全体に亙る一大転換期たる現在を措いて、再び来るべしとも思われない。そのためには、ドイツ・イタリアとの緊密なる提携が必要であり、それによってソ連の脅威は減少に至るであろう。」

3、財政経済について

 「政治体制強化と統制経済体制の整備は補完関係にあり、統制経済の確立の傾向は、現代の戦時体制乃至高度国防国家体制におきましては、絶対的な要請にまで高められているのであります。」

(1)伊藤【近衛新体制】九~十三頁。


35、満洲国協和会と大政翼賛会

 近衛および彼の最高政治幕僚は、「近衛幕府、新体制はアカだ」という批判を回避する為に、運動体、中核等の様々な煙幕の言辞を発したが、コミンテルンの左翼史観(註1)に沿い資本主義と議会政治を排撃する近衛の意見書に、近衛新体制運動の正体が色鮮やかに映し出されている。それは究極的に東亜新秩序をめざした国内革新運動であった。理論的実践的に優れた党が、全ての国家機関を支配下に置き、国家目標に向かって、職業、居住地域、年齢、性別等によって組織された国民組織を指導し、党の指導者が天皇に対する唯一の輔弼(助言と承認)者となるのである。  
 近衛新体制運動とは、ソ連共産党、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)、伊ファシスト党、そして満洲国の協和会を模倣した一国一党独裁運動であった(1)。

 「日本もナチス張りよりスターリン張りと相成申候。統制と分配は産組を基礎として弥々隣組みの細胞組織に入り申候。ソビエトの経過と同様の道を踏み出し申候。組織図解は其の直訳と存候。欧洲の形勢より打算すれば一日も早く事変処理を為さざるべからず。然るに之を棚に上げて国家は何れの方向に行きつつあるか、ああ寒心に堪えざる也。」(昭和十五年九月十三日小川平吉宛萱野長知書簡)

 新体制運動を異常なほど積極的に推進した尾崎秀実は、中央公論昭和十五年十二月号「満洲国と協和会」で次のように述べた(2)。

 「第一次近衛内閣の末期に国民再組織の問題が論ぜられ始めた時から、新政治体制の具体的な提案のうちに満洲における協和会の組織や経験が多分に取入れられているのが見られた。本格的な段階に達した日本の新体制の中核組織たる大政翼賛会の構造、特に協力会議には少なからざる類似点が見られる。ともかくも満洲協和会の十年に近い民衆組織の実践は充分いかさるべきであろう。もとより日本政治の現段階は満洲のそれよりはるかに複雑であり、高度のものではあるが、日本民族が、政治的未開墾地に試みた貴重なる実験の結果は高く評価されなくてはならない筈である。」

 満洲事変を強行した石原莞爾は、辛亥革命以降の支那大陸における軍閥の群雄割拠、絶え間ない抗争内乱を見て、支那人の政治能力を疑い、満蒙問題解決の唯一の方策として満蒙領有論を唱え、「漢民族は自身政治能力を有せざるが故に日本の満蒙領有は日本の存立上の必要のみならず支那人自身の幸福である」とまで主張していたが、この満蒙領有論は実際に事変が起こり、また満蒙の統治が現実の問題となってきてから、却って反対に満蒙の独立論に変わっていった。石原は満洲建国前夜の心境として次のように語っている(3)。

 「その第一の理由は、支那人の政治能力に対する従来の懐疑が再び支那人にも政治の能力ありとする見方への変り方であった。当時支那は蒋介石を中心とする国内の統一運動が国民党の組織をその基盤として非常な勢で延びて行った。生活の根本的な改善からはじまって国民の生活と国家の政治、経済等の直接的な結びつきに依る革新運動は、従来の軍閥のやり方と全然違って新しい息吹きを支那に与える様に思われたのである。

 支那人自身に依る革新政治は可能であると言う従来の懐疑からの再出発の気持は、更に満洲事変の最中に於ける満洲人の有力者である人々の日本軍に対する積極的な協力と軍閥打倒の激しい気持、そしてその気持から出た献身的な努力更に政治的な才幹の発揮を眼のあたり見て一層違って来たのである。

 在満三千万民衆の共同の敵である軍閥官僚を打倒することは日本に与えられた使命であった。此の使命を正当に理解し此の為に日本軍と真に協力する在満漢民族其の他を見、更にその政治能力を見るに於て、私共は満蒙占領論から独立建国論に転じたのである。何故ならば支那問題、満蒙問題は単に対支問題ではなく、実に軍閥官僚を操り亜細亜を塗炭の苦に呻吟せしめて居るものは欧米の覇道主義であり、対支問題は対米英問題である以上、此の敵を撃砕する覚悟がなくて此の問題を解決することは木に拠り魚を求むるの類いであると思って居たが為に他ならない。

 斯くて私共は満蒙に新生命を与え、満洲人の衷心からの要望である新国家の建設によって、先ず満洲の地に日本人、支那人の提携の見本、民族協和に依る本当の王道楽土の建設の可能性を信じ、従来の占領論を放擲して新国家の独立を主張するまでの転向となったのであった。」

 南京の国民政府は、北伐完成直後の昭和三年(一九二八)七月七日、日支間不平等条約の効力を一方的に否定する「革命外交」を我が国に通告、彼らに帰順した張学良の奉天軍閥は、満鉄に対する併行線の敷設やテロ破壊活動、在満邦人に対する土地商祖の禁止、朝鮮人開拓地の没収など、戦争に代わる抗敵手段として外国民および外国貨排斥運動を執拗に繰り返し、日露戦争のポーツマス条約の締結以後、我が国が正当かつ合法的に獲得した在満権益を侵害した。「支那が如何に術策を弄するとも、以上の如き不信不義の堆積を弁護すべき理由は断じてない。この正義と、満蒙生命線確守に対する熱烈なる日本の国民的要求の前に、世界列強がいかに認識不足たりと雖も到底これを否認し得ないことを確信する」と結論づけ中華民国を痛烈に非難する大阪朝日新聞記事「満洲は支那でない立派な独立国-歴史が語る満蒙を見よ」(一九三二年四月十八日)の内容は、リットン報告書が柳条湖事件を関東軍の自衛措置とは認めず、事変以前の満洲独立運動の実在を無視したものの、中華民国の不法な排日運動に苦しめられていた日本国に同情と理解を示し、以下のように満洲事変が抱える「問題の複雑性」を認めた(4)歴史的背景そのものである。

「本紛争は一国が国際連盟規約の提供する調停の機会を予め十分に利用し尽くすことなくして他の一国に宣戦を布告せるが如き事件にあらず。又一国の国境が隣接国の武装軍隊に依り侵略せられたるが如き簡単なる事件にもあらず、何となれば満洲に於ては世界の他の部分に於て正確なる類例の存せざる幾多の特殊事態あるを以てなり。」(リットン報告書)

 そればかりか奉天軍閥は不換紙幣を濫発して農民から農産物を収奪し、民衆には出産税や木植税まで重課し、一九三〇年度の歳入の八割八分を軍事費に当て紙幣価値を百分の一以下に暴落させるなどリットン調査団に「言語道断なる政府の強奪であり、憐れむべき多数民衆に対する最も憎むべき犯罪に外ならない」と非難された程の虐政を重ねていた。

 その為に邦人を含む在満住民の怨嗟は頂点に達しており、満洲を国民政府支配から切り離して、北伐完成以後も続いていた支那本土の戦乱と張学良の虐政から住民を守ろうとした満洲文治派の保境安民運動、満洲に混在する諸民族の共存共栄を目指す満洲青年連盟の民族協和運動などの満洲分離独立運動が存在した他、清帝退位協定(一九一二年十二月二十六日公布)によって保障された諸権利を中華民国に蹂躙された満洲族や蒙古族が、一九一九年以降も在満地方各軍閥諸将や日本政界の一部と連絡しながら、清朝最後の皇帝である溥儀を推戴する清朝復辟(廃帝が再び帝位に就くこと)運動を執拗に行っており、張学良政権の崩壊を「天賦の福音」と歓迎した彼等の建国に対する熱意、悲願、政治能力が石原莞爾をして強硬な占領論者から、民族協和への確信、漢民族に対する信頼を基礎とする確固たる独立論者に転向させ、日満漢鮮蒙の東亜諸民族から絶大な支持を受けた東亜連盟構想へ飛躍させたのであった。

 清帝退位協定とは、辛亥革命後、朝廷と革命政府間の対立の継続が内乱から無限の民族戦争に発展し、無辜の大衆が戦乱に巻き込まれ、国民相互の大虐殺が行われることを深く憂慮した隆裕皇太后が六歳の宣統帝溥儀を潔く退位させた際、清帝国朝廷と中華民国政府(現実には革命に協力する交換条件として孫文から大総統の地位を譲り受けた袁世凱が代表した)との間に結ばれた国家承継(相続)協定である。これは、清室優待条件、皇族待遇条件、満蒙回蔵各族待遇条件から成り、清皇室、満蒙王族の特権(年金支給、兵役免除、称号維持等)および満蒙回蔵各民族の私有財産の完全保護、通商居住信教の完全自由、漢民族に対する完全同等の地位等を保障するもので、中華民国政府はこれをハーグ国際法廷に登録し諸外国に通達し国際法として遵守することを誓約した。

 清朝は張作霖に革命軍の前進阻止を命じ満洲の防衛に成功しており、蕭親王善耆と恭親王専偉は、袁世凱によって提示されたこの妥協案の受諾を非難排撃し、皇帝の退位の無用を主張したが、彼ら二人を除く清朝の皇室王族以下満洲人は、袁の巧言に幻惑され、満洲に撤退して清朝を存続させる実力を有していたにも拘わらず、この「国譲りの契約」を信頼して静かに武器を置き、国家の統治権を革命政府に譲渡したのである。

 だが中華民国は協定を無視し、彼等諸民族の権利を剥奪し財産を没収してしまい、欺かれた満蒙人は迫害から逃れる為に、憤怒の情を胸中に秘めつつ地下に潜伏し、再起する機会を窺っており、これが満洲事変と綏遠事件の伏線となったのである。
 さらに中華民国政府(黄郛内閣)は一九二四年十一月六日、溥儀と日英蘭の公使の反対を無視して、清帝退位協定清室優待条件改定に関する大総統令を布告し、溥儀から外国君主としての待遇と皇帝の尊号を剥奪し、二八年七月には、大総統令第四条「清室の宗廟寝陵は永遠に奉祀し民国により衛兵を附して之を保護す」が蒋介石の北伐軍によって蹂躙されてしまったのである。だからこそ侮辱、嘲笑、反清主義者による死の脅迫、宝物の没収、協定の不履行等に耐え忍んできた溥儀は、遂に堪忍袋の緒を切り、満洲独立運動への合流と復辟とを決意したのであった(5)。
 中華民国政府は、自ら全条項に亘り清帝退位協定を蹂躙した代償として、清帝国の版図を継承し満洲蒙古の領有を主張する権利を喪失しており、充分な資金や武器を持たない溥儀および満洲族が関東軍の作戦行動に便乗し、彼らの故郷を南京政府に帰順したアヘン中毒の暴君の張学良から奪還したのである。

 斯くして昭和七年(一九三二)二月十八日、復辟派の張景恵ら諸将と斉王凌陞および趙欣伯(奉天市長、日本国の明治大学を卒業した法学博士)らによって組織された東北行政委員会は満洲の独立を宣言、全会一致の決議によって、満洲女真族の太祖ヌルハチから数えて十二代目の子孫にあたる溥儀が新国家の元首に選ばれ、三月九日、満洲国執政に就任したのであった(昭和九年三月一日帝政実施)。
 翌日の大阪朝日新聞は「満蒙栄光に映え溥儀執政、厳かに就任、三千万民衆の待望報いられ万歳轟く新国都長春」と題して以下のようにその模様を報道し、新満洲国と新元首と三千万民衆に熱烈な声援を送った。

 「これ時大同元年三月九日栄光燦然として輝く新興満洲国が若き新元首溥儀氏を迎え新国都長春において盛大なる建国の大典を挙げ、新元首執政就任の晴の大儀の行われるその日は来た、この日無風快晴、茫漠涯なき満蒙の夜は朗らかに明け、瑞雲靉靆して三千万民生の『新国都万歳』『新元首万歳』の歓呼の声は満蒙の天地に百雷の如く轟く、新国家、新首都、森羅万象はすべてこれ新にして生気溌剌、すべてこれ清新すべてこれ祝福、ことにめでたきは御齢正に二十七歳、清朝の末裔たる若き新元首溥儀氏が帝制と民本政治とその国体は異なれども再び一国の元首に就任され、しかも二百八十八年の昔清朝の祖愛新覚羅氏が創建せる清朝発祥の地たるこの満蒙の天地において世界の歴史を飾り極東史を画する執政就任の大儀が行われることである三千万民衆、殊に忍苦と受難に恵まれざりし宣統帝の同族満洲人三百万のその喜びと感激よ!

 専制悪業、秕政、百悪の代名詞たる軍閥政治は根こそぎ打倒されてその廃墟の上に元首も国もともに若々しき王道国家『満洲国』は彗星のように極東の一角に打建てられた、晴の御儀はいよいよこの日午後三時新装なれる国務院内において金モール燦爛たる執政服を召された新元首溥儀氏臨場の下に厳かに挙行され、ここに新理想国満洲国の国基は名実ともに定まるのである、新満洲国と新元首と、三千万民衆の上に栄光あれ!」

  また昭和九年(一九三四)三月十三日の報知新聞は「満洲帝国の独立は日本の所業に非ず」と題して溥儀の家庭教師の著書を紹介し、以下のように満洲独立運動の秘史を報道していた。

 「ロンドン十一日発連合=満洲国新帝がその昔清朝の皇位より逐われて紫禁城に居られた時代、家庭教師として近侍し前後五ヶ年間にわたり御教育の任に当ったサー・レヂナルド・ジョンストン氏は目下ロンドンにあって新帝の登極を慶賀し奉って居るが、この喜びを永久に記念するために『禁苑の黎明』と題する著書を上梓しいよいよ十二日出版されることとなった。右の著書中には光緒皇太后、新帝の御性格より袁世凱その他の人物及び北京城内における多くの劇的事件、秘められた陰謀がことごとくジョンストン氏の見聞、体験に基づいて如実に描き出されているが、特に氏は満洲国の独立運動が日本の発議に成るものでなく満洲人自身の発意によるものであることを強調し左の如く述べて居る。

 満洲国の独立運動は着々奏功してついに新帝の登極を見るに至ったが、右運動は決して日本の創意に成るものでなく少くとも一九二三年張作霖氏が満洲に復辟を企てた時以来の支那人及び満洲人の創意に成るものである。余は張作霖氏自身の口から聞いたのであるが一九一二年の宣統帝の退位の際は満洲人はこれを拒否しようと思えば拒否し得たのであり、そのまま帝位を満洲に移し得たのだとの事である。」

 溥儀は、辛亥革命によって退位することを余儀なくされ、第二次奉直戦争(一九二四年九月、袁世凱の死後、彼の北洋軍閥から派生した、張作霖の奉天軍閥と呉佩孚の直隷軍閥の戦争)に巻き込まれ、北京の紫禁城を追われ天津の日本租界に隠棲していた。しかし蒋介石の率いる国民革命軍兵士が北京の清朝歴代皇帝の陵墓を爆破、宝物を掠奪し、溥儀の先祖の遺骸を切り刻むという大蛮行(一九二八年七月三~十一日)を犯すに及んで、溥儀は彼らに許し難き憤りを覚え、自分自身の自由意志に基づいて、天津を去って満洲へ向かい、溥儀に対し何の謝罪も遺憾の意も表明しなかった国民政府に対する全ての忠誠を放棄し、また皇帝の主権に関する中華民国側の全要求を一蹴して満洲国皇帝に即位し、父祖の地である満洲に清朝後継国家を再建し復辟するという宿望を成就したのである(5)。

 だが溥儀と石原莞爾の関係は同床異夢であった。石原は、昭和三年に陸軍大学校教官として二年学生の為にマルクス十二講を引用して欧州古戦史を講義していたように、尾崎秀実ほどではないにせよ、少なからずマルクス思想に汚染されており、昭和七年六月二十五日、満洲国の採るべき政治組織について、

 「然れども永久に軍司令官を満洲国の主権者たらしむるべきにはあらざるを以て為し得る限り速にその後継者を養成せざるべからず。而してその後継者は専制君主たる溥儀か、然らず、自由主義による民衆の代表立法議会か、然らず、吾人は統制主義(註、専制と自由を止揚させた石原独特の概念で、個々の自由創意を最高度に発揚する為に必要最小限度の専制を加えることをいう。石原は日本の一九四〇年戦時体制を自由から統制への進歩ではなく専制への後退であると批判していた)による民衆の代表機関たる一の政治的団体たるべしと断ぜざるを得ず。満洲国協和会は実に此の目的の為に設立せられたるものなり。(中略)

 満洲事変直後設けられる自治指導部は総督政治を予想しある時代に於て民衆の蒙を啓き、之を指導して新政治の意義を解せしむる為に軍司令官直属として設けたるものなるが、新国家成立と共に更に此事業の精神を拡大して一国一党の理想の下に協和会は成立せるものなり」

と主張したのである(6)。
 昭和六年十月に満洲を視察して帰国した外務省の守島伍郎によれば、

 「彼ら関東軍の参謀たちは、酒を飲めば必ず『この計画は前からちゃんと企ててあった。これに成功したのだから、次には内地に帰ったらクーデターをやって政党政治をぶっ壊して天皇を中心とするいわゆる国家社会主義の国を建てて、資本家三井、三菱のごときをぶっ倒して富の再配分を行おう。必ずやってみせる』と放言していた」

という(7)。酒を飲めない石原莞爾が参謀達の放言に加担していたか定かではないが、石原自身、三月事件(後述)の失敗後の昭和六年五月に、

 「戦争は必ず景気を好転せしむべく爾後戦争長期に亘り経済上の困難甚だしきに至らんとする時は、戒厳令下に於いて各種の改革を行うべく平時に於ける所謂内部改造に比し遙かに自然的に之を実行するを得べし。我が国情は国内の改造を第一とするよりも寧ろ国家を駆って対外発展に突進せしめ途中状況により国内の改造を断行するを適当とす」

と述べ、確かに満洲事変後の国内改造を想定していた(8)。そして石原は、参謀本部作戦課長就任後、宮崎正義(満鉄社員、モスクワ大学卒の統制経済学者)を起用し、参謀本部の外郭機関として日満財政経済研究会を設け、これに昭和十一年秋頃、対ソ戦備の基礎となる総合工業生産力の拡充計画と共に、「政治行政機構改造案」を立案させたのである(9)。この案は検討段階で中止となったが、日本国権社会党による一国一党政治、少数内閣制、銀行、重要産業、商業の国公営化などを目標として想定しており、マルクス主義の影響を色濃く受けた危険な国内革新計画であった。これを見た岩淵辰雄(元毎日新聞記者)や殖田俊吉(田中義一内閣の首相秘書官)は、

 「立派な本当のコミュニズム計画です。しかし感心なことに共産の共の字も書いていない」

と評して陸軍内部の革新思想に戦慄し、日米開戦後に統制派アカ論を展開して早期和平運動に参加し、昭和二十年の日本バドリオ事件を引き起こしたのである。

 満洲国の建国は「ソ連による極東攻略の阻止」という目的と同時に、一九二九年十月のウォール街の株価暴落と、三〇年六月のホーリー・スムート法(アメリカに輸出される商品に超高率の関税をかける関税障壁法)による世界自由貿易の破壊に始まる世界大恐慌に対応できなかった満洲事変勃発直前時の日本国内の政治経済制度(立憲自由主義議会制デモクラシーと自由主義的市場経済)の行詰まりを打開する「満洲国協和会による一国一党(革新政治)の実験」という性格を帯びており、満洲事変は「ゾルゲ機関の日本潜入」を招来しただけでなく近衛新体制運動を引き起こす一因ともなったのであった。

 だが近衛の意見書が述べるように、伊藤博文や井上毅らがアメリカ、イギリス、プロイセン、ベルギー、オランダ、スウェーデン、デンマークなど立憲自由主義的な欧米諸国の憲法を比較研究しつつ日本史を徹底調査して起草した帝国憲法(10)の下では、天皇は国の元首として国土臣民を統治する権限を総攬(すべて掌握)しながらも(憲法第四条)、統治権を構成する立法権、行政権、司法権において、憲法に遵い(帝国憲法発布勅語および憲法第四条)それぞれ議会(衆議院と貴族院)の協賛(憲法第五条および第三十七条)、内閣を組織する国務各大臣の輔弼と副署(憲法第五十五条)、裁判所への委任(裁判所の代行、憲法第五十七条、司法権の独立)に依って大権を行使しなければならない立憲君主であり、近衛新体制は、天皇直属の国家機関が天皇を補佐するための権能を分有して並立し互いに均衡を保つという権力分立均衡主義を採る帝国憲法に違反する独裁体制であった。

 そこで近衛文麿は、合法的に近衛新体制を実現し、これによって統制(計画)経済を更に強化し、国防国家すなわち政府が政治経済および国民生活のあらゆる領域に干渉する全体主義国家を確立し東亜新秩序を実現する為に、帝国憲法の改正ないし運用の変更による執行権力の強化すなわち天皇輔弼者の一元化を、憲法改正発議権を専有する昭和天皇(帝国憲法勅語と憲法第七十三条および第七十五条による)に求めたのである。

(註1)共産党と議会主義についてのコミンテルンのテーゼ(一九二〇年八月二日)

(一)国家制度としての議会主義は、ブルジョアジーの「民主的な」支配形態となった。ブルジョアジーは、一定の発展段階においては人民代表機関という擬制を必要とする。それは、外面的には超階級的な「民意」の組織として現れるが、本質上は支配的な資本家の手ににぎられた弾圧と抑圧の用具である。

(二)議会主義は、国家制度の特定の形態である。したがって、それは、階級をも、階級闘争をも、いかなる国家権力をも知らない、共産主義社会の形態とはけっしてなりえない。

(三)議会主義は、ブルジョアジーの執権からプロレタリアートの執権への過渡期におけるプロレタリア的国家統治の形態でもありえない。内乱へと移行しつつある激化した階級闘争の時期には、プロレタリアートは、自己の国家組織を、不可避的に、以前の支配階級の代表を参加させない戦闘組織として建設しなければならない。およそ「人民の総意」という擬制は、プロレタリアートにとって直接に有害である。議会的な権力分立は、プロレタリアートには不必要で、有害である。プロレタリア執権の形態はソビエト共和制である。

(四)プロレタリアートは、ブルジョア国家機構の重要な装置の一つであるブルジョア議会そのものを長期にわたって獲得することはできない。それは、プロレタリアートがブルジョア国家一般を獲得することができないのと同様である。プロレタリアートの任務は、ブルジョアジーの国家機構を爆破し、それとともに、共和制のそれと、立憲君主制のそれとを問わず、議会施設を破壊することにある(11)。 

(1)伊藤【近衛新体制】二一九頁。
(2)【尾崎秀実著作集3】一八五頁。
(3)【石原莞爾資料国防論策編】九〇~九一頁。
(4)国際聯盟支那調査委員会編【リットン報告書全文】二三二頁。
(5) レジナルドジョンストン【禁苑の黎明】一一七~一二一、三二四~三五二、五三一~五九四、六四四~六四七、六五六~六五九頁。【東京裁判却下未提出弁護側資料2】一四三~一四七頁「大正十五年九月十四日有田八郎天津総領事発幣原喜重郎外相宛報告、有田、康有為会談―復辟運動と日本側不同意」、「昭和四年十二月二十六日岡本武三天津総領事発幣原外相宛報告、満蒙帝国建設と側近の運動」、【小川平吉関係文書1】九十八頁「昭和三年六月二日小川平吉宛恭親王書簡」、白土菊江【将軍石原莞爾】一七九~一九七頁。
(6)【石原莞爾資料国防論策編】五十八、一〇一頁。
(7)矢部【近衛文麿上】一九九頁、岡崎久彦【幣原喜重郎とその時代】三四九~三五〇頁。
(8)【石原莞爾資料国防論策編】七十六~七十八頁「満蒙問題私見」
 満洲事変時におけるこの石原の構想が、近衛内閣と陸軍統制派に悪用され、支那事変拡大長期化による国内革新謀略を引き起こしたのである。
(9)秦郁彦【軍ファシズム運動史】二四六~二四七頁。伊藤【近衛新体制】五十九~六十頁。
(10)清水伸【帝国憲法制定会議】参照。伊藤博文が枢密院帝国憲法制定会議に提出した大日本帝国憲法原案付属文書の「注解」と「参照」によると、帝国憲法原案起草のための参考資料となった諸外国の憲法は、プロイセン憲法、スウェーデン憲法、ベルギー憲法、フランス憲法(1814)、オーストリア憲法、イタリア憲法、オランダ憲法、デンマーク憲法、バイエルン憲法、ヒュルデンブルグ憲法、ザクソン憲法、スペイン憲法、イギリス憲法、フランス憲法(1815)、ポルトガル憲法、フランス憲法(1848)、ドイツ憲法、フランス憲法(1791)、ルクセンブルグ憲法、スイス憲法、フランス憲法(1875)、フランス憲法(1793)、フランス憲法(1795)、アメリカ憲法、フランス憲法(1830)、フランス憲法(1852)、バーデン憲法、ブラウンシュバイヒ憲法、オルデンブルヒ憲法、アルテンブルヒ憲法、ハノーフル憲法、サクソン・マイニンゲン憲法、である。
 自由民権運動の研究者であった鈴木安蔵は、「注解」と「参照」を読み次のように力説した。

「以上の二条文(註、帝国憲法第七十条および七十一条)だけについて見ても、如何に起草当事者とくに井上毅が苦心し、全世界の憲法について如何に綿密熱心な調査研究を行ったかが極めて明瞭に看取されるのである。

 それにしても、ひとしく全世界の各憲法を参照しながら、かの明治九年以来十一年、十三年に及ぶ元老院の国憲取調員たちの作成した草案、十五年井上毅がプロシア憲法を範として作成せる私案等とグナイスト、スタイン、モッセ、特にロエスレルの助言の下に愈々公的に作成された諸草案との間に生じた相違、またこの公的諸原案自体の間における相違の意義こそは、我々の見逃してならないところである。しかもなお井上毅などが、我が国体の独自性を余すところなく憲法上に条文化しつつも、幾多の条文について参照し典例とせる諸外国と共通の立憲主義的原則ないし法理によって条文の理論的基礎づけを全からしめんと努力せる事実は、けだし近代国家の根本法としての普遍性の存在を一方において一定程度において認めたがために外ならぬものと思われる。

 この事実は特に今日において再認識するを必要とする。もちろん帝国憲法の本質を認識するに当たって、我が国にのみ独自的に存在する諸契機、諸範疇の識別は根本的に重要であり、いたづらに諸外国憲法の普遍的帰納の成果たる諸概念、諸基準をもって解釈するは誤りであるが、しかしながら如何なる国家といえども、それがひとしく近代的立憲国家たるかぎり、近代的国家統治の根本法たる憲法を有する国家体制たるかぎり、それは一定の近代的普遍性を共通に有するものであり、共通的原理を根柢に有するものであって、一国の独自性は実にかかる普遍性と共通性に立っての、もしくは貫かれての、あるいは背景づけられての独自性に外ならないのである。この近代的契機を有することが帝国憲法たるゆえんの一つであって、これなくしては憲法発布前の統治形態と発布後の統治形態とは同一のものとならざるを得ない。 
 帝国独自の史的特性、国体、仁愛と忠愛との原理が近代的諸要素・諸規定のうちに生かされ顕現せるもの、すなわち帝国憲法である。

 明治天皇が伊藤博文を遠くドイツに派遣し給いしも、かかる近代的諸要素、諸規定の調査に万遺憾なからしめんとされし大御心によるものであり、井上毅が終始あらゆる国家の憲法を研究し、絶えずロエスレル等に質疑し教示を乞うたのも、一面より言えば、帝国憲法をして近代的国家統治の根本法として間然するところなからしめんがためであった。しかもこの近代的契機と我が国独自の伝統、国体、特殊性とは二つの分離・対立せる因子ではなくして、渾然と融合・統一されて比類なき独特の憲法をなしているのである。
 帝国憲法の本質の研究にあたって、ひろく諸国の憲法、憲法史、憲法学説の研究の必須不可欠なるを、この際なお繰り返して力説しておきたい。」(鈴木【憲法制定とロエスレル日本憲法諸原案の起草経緯と其の根本精神】三一八~三二〇頁。)
(11) 【コミンテルン資料集1】二二四頁。


36、延命

 だが帝国憲法の定める立憲自由主義議会制デモクラシーを尊重された昭和天皇は、近衛の意見書を読み終えた後、直ちに木戸を呼び、

 「憲法改正を必要とするのであれば、正規の手続により改正するに異存はないが、近衛はとかく議会を重んぜないように思われる。我が国の歴史を見るに、蘇我、物部の対立抗争以来、源平その他常に二つの勢力が対立している。この対立を議会に於て為さしむるのは一つの行き方で、我が国では中々一つに統一ということは困難な様に思われる」

と近衛をたしなめられた為に(木戸幸一日記昭和十五年八月三十一日の条)、近衛は憲法改正による合法革新を断念し、彼の誕生日である十月十二日首相官邸大ホールで挙行された大政翼賛会の発会式において、近衛総裁は挨拶の最後に、 

 「本運動の綱領は大政翼賛の臣道実践ということに尽きると信ぜられるのでありまして、このことをお誓い申し上げるものであります。これ以外には綱領も宣言もなしといい得るのであります。かく考えて来て、本日は綱領、宣言を発表致さざることに私は決心致しました」

と宣言せざるを得なかった。

 さらに翌十六年一月二十一日から再開された第七十六回帝国議会では、尾崎咢堂や鳩山一郎をはじめ、政党を喪失した各議員が大政翼賛会に激しい非難を浴びせた。
 一月二十五日の衆議院予算委員会にて鳩山派の川崎克代議士は、伊藤博文の憲法義解と明治二十六年二月十日に明治天皇が在廷の臣僚と議員に賜うた勅語を援用し、近衛首相に大政翼賛会の法律上の根拠を問い質した(1)。

川崎「私はそれは総理から承りたいのでありますが、総理から御答弁を願う前に其の意義をはっきり申し上げます、しばしば申上げますように、大政翼賛と云うことは理義明確でありまして、立憲国においては大政を翼賛する機関は制限せられている。臣民の翼賛に俟つと仰ったが、臣民の翼賛に俟つ為には帝国議会がある。帝国議会は、即ち衆議院にありては、千五百万人に近い所の有権者に参政の権を与え、この参政の権を行使せしめて、其の代表者が議会に集まって、即ち臣民の代表として翼賛し奉る。貴族院は特殊の階級を代表して翼賛し奉る。この両院の組織に依ってあらゆる階級層の代表機関が憲法的に、立憲的に、整然として備わって、責任の所在は明確である。

 私が先程責任の所在を総理に質したのは是にあった。大臣輔弼の責任と云うものを果すならば、上意下達は完全に行われる、上意下達が完全に行われないならば、輔弼の責任を尽くしたとは申されませぬ。他の機関の力を藉るの必要は断じてない。私は立憲国において他の機関を要すると云うことは何処にあるかと云うことを法律上の根拠を承ったが、法律上の根拠は法制局長官は示していない、法律上の根拠はありませぬ、只今の答弁は法律上の根拠ではありませぬ。

 臣民の代表と仰るならば、臣民の代表は帝国議会がある、合理的なる帝国議会がある。もし其の議会が間違っているならば、解散して新しく国民の意思に問うて代表を出して宜しい。参政権の行使は全く政治に翼賛し奉る行為それ自体なのである。法律的にはそれ以外には途はありませぬ。憲法義解の著者は明かに其の軌道を外してはいかぬと云うことを只今も申し上げたように書いてある。軌道の外に出てはいかぬ、それでは責任の紛淆を免れぬ、責任を糺すと云うことは其の機関において責任を糺す以外にはない。所謂道義的観念において翼賛と云うことは、是は万民翼賛で宜しい。大政翼賛と云うことになって問題が起る。

 而して又総理の説明せられた上意下達、下意上達は如何なることを指すのかと云うことを私が御尋ねしたらば、内閣の立てた政策を国民に徹底せしむるにあると仰せられるが、国民に徹底せしむるならば、議会を通じ、又内閣諸官制を通じて、只今申上げた新体制の組織の上において十分徹底し得るのである。命令権が行き届けば必ずやれる。又国民の不平或いは希望があるならば、調査して国政の上に参考に供しい、これは議会が当然行い得る権限であります。議会には上奏権もある、請願権もある、建議権もある。昔のように之を上奏する場合が起れば差し止められると云うようなものでなしに、真に民の心を御採りになる機関と云うものは完全に備わって居る。又帝国議会の職責の上においてせなければならぬ、建議をしなければならぬ、上奏をしなければならぬ、請願をしなければならぬのは、帝国議会の職務権限の上において行われなければならぬ。なぜ其の当然の機関を御通しにならないか。当然の機関だけで十分行い得る。他の機関があることに依って紛淆を免れない、権限の争いを免れない、命令が二途に出る、政府の外に政府を作ったことになると云うことは争い得ないことでありまして、憲法の精神に反することは明らかである。

 余り問い詰めるようでありますが、是は正しくしなければならぬ問題でありますから私は申すのでありますが、私の考えが間違って居るならば、お前の考えは精神において間違って居ると云うことをはっきり正して戴きたい、どうぞ其の点を御答弁願います。」

近衛「大政翼賛会、或いは大政翼賛運動は、憲法上において認められたる上意下達、下意上達の機関である所のこの帝国議会の権限に対して、少しも之を侵すものではないのでありまして、上意下達、下意上達と云うことの帝国議会の行いまする作用を補充すると云う意味において行われるのであります。」

川崎「それは益々不可解なことを仰せになります。今の補充をなさると云うことは、是は補充をすると云う法律上の根拠はありませぬ。これは何処にも其の規定がない。憲法義解の一番劈頭を御覧になれば斯う云うことが書いてある。即ち『大臣の輔弼と議会の翼賛とに依り機関各々其の所を得て而して臣民の権利及義務を明にし益々其の幸福を進むることを期せむとす此れ皆祖宗の偉業に依り其の源を疏して其の流を通ずる者なり』とあって、此の機関以外には無いことをはっきり明確にせられて居る。それから私は前に申上げたように、此の明治二十六年の詔書の中にもはっきりと此のことが仰せられて居ります。機関の紛淆と云うことを飽くまでも御避けになって居る。此の精神と云うものは『万機公論に決すべし』と云う五箇条の御誓文を御出しになって後、憲法政治を実施せられるまで二十三箇年の間、朝野のあらゆる意見を通じてここに到られて居る。

 木戸孝允、大久保利通、或は元田永孚と云うような人々の憲法に対する建白書を読んで見ますと真に日本の此の君主立憲政体の有難きことを掲げると同時に、其の責任の紛淆を避けなければならぬ、立憲政治の上には斯う云う風にして行かなければならぬと云うことも述べてある、憲法を制定するまでに於ける所の道行と云うものは、二十三箇年の長い間、朝野の歴史ある研鑽の結果から生れて、そうして畏多いことでありまするけれども、明治大帝の大御心に依ってこの憲法政治が確立せられたのであります。

 世間動ともすると不祥の言をなし、憲法は改正すれば宜しいではないかと云うことを言う者がある、不都合至極の言議である。『ナチス』は一九三三年に『ヒトラー』が憲法改正を行うた、斯様な『ドイツ』あたりで憲法の改正を行うたようなことが日本で行われるものではありませぬ。申すまでもなく憲法の上諭書にも『将来若此の憲法の或る條章を改定するの必要なる時宜を見るに至らば朕及朕が継統の子孫は発議の権を執り』と仰せられて居る。陛下以外には此の憲法改正の御発議は出来ない。日本の憲法は欽定憲法として、明かに陛下の御言葉に依るにあらざれば改正の出来ないことだけは明確である。それを何すれぞ憲法改正、何事を言うか、そう云う不逞の輩があって、憲法は時に改正をすることが出来るかのような間違った考えを持って居る者がある。

 なるほど日本の憲法も実施して居る間においては危険な時期もあった。伊藤内閣の時分に遼東還附、屈辱講和をしたと云うので囂然として物議が起って、議会は之に対して非常な決議をしたと云うことに対して、在廷の閣僚は憲法の中止を御願い申上げた所が、是は御聴入れがなかった、是は宮中に二十年も居りました渡邊幾治朗君の著書の中にも此のことが書かれてある、如何に明治天皇が憲法を重んぜられ給うたかと云うことは、畏多いことである。この憲法の條章以外に出て機関を作ると云うことであれば、責任の紛淆は免れませぬ。

 私は総理大臣に最初官界の気風を一新する上において、先ず第一に責任政治を行われるかと云うことを御尋ねした趣旨は茲に在った、責任政治を行うのであれば、即ち上意下達、政策の徹底、政府の政務の徹底、国務の徹底は内閣において十分行われる、そうして議会において民意を暢達することにあって、議会と政府と一体になって、憲政を運用することが十分になし得る、何ぞ外の機関を借らなければならぬのか、外の機関を借ることになれば憲法の大義を紊ると云うことは、どうしても是は避けられませぬ(以下略)。」

 さらに川崎代議士は、大政翼賛会が日本一贅沢な建物である東京会館に陣取り、政府予算に三千七百万円もの経費を要求しながら、国民に向かって盛んに「贅沢は敵だ」(2)と叫んでいる矛盾に疑問を呈した後、

 「大体に於て其の大政翼賛会の機構を細かに見て参りますとドイツのナチスの機構に倣った所もあり又共産ロシヤの機構に倣った所もあり、其の混血児的出現であるかのような感じがされるのであります、そう云う機構の上に打立てられて居るかの如き感を持つことは、政府の外に政府があって、そうして其の政府の外にある政府に指令権を持つかの如き機構になって居りますことは全体の条文なり、主張なりを御覧になったならば明らかに分かるのである。或は之に対して決してそうではないのだ、強制力を持たして居るのではないと御説明にはなって居りますが、先程指摘致しましたように国策の樹立遂行に協力すると云うことは、一種の政治的の力を以て政府に迫り、立法府に迫らんとする所の意味が其処に現れて居る。

 それが即ち政治力でありまして、吾々の如何にしても承服し難い点であるのであります、機構既に然り、其の内容に盛られたものは如何であるかと申せば、大政翼賛会に対して批評を加えてならない、批評を加えれば厳罰に附すると云うようなことを言って、恰も治外法権、幕府的存在を明かに致した、此の幕府的存在を明かに致したるが為に、それが温床となって、過激なる思想の養成所となりし感あることは免れない。

 私は大政翼賛会の中にありまする人の中には尊敬すべき紳士あることは認める、併しながら中には何人が認めても相当に危険なる思想の所有者なりと認めらるる人もなきにあらずと言わなければならぬ。是は改組をなさる機会には此の点に付て十分な御考慮になって思想上の宣伝を企つるが如き、赤き思想の宣伝を企つる如き者の翼賛会内より根絶することを政府に於て期せられたいのであります」

と翼賛会の左翼全体主義的な方向性を激しく批判して議員から拍手を浴びた(1)。そして貴族院では岩田宙造議員(弁護士として、宮内省、日本銀行、日本郵船、東京海上火災、三菱銀行、日本勧業銀行各顧問を歴任後、一九三一年に貴族院議員に勅任)は次のように質問した。

 「実質上国家に大変革を与えようという大運動が、何等法律に根拠することなく、単純な民間の事実行為として行われんとすることは、どうしても私どもの常識からいって許されないことと考える。況や、現在行われている憲法政治の根本は、決してかくの如き行為を容認するものではないと確信する。

 統治を行う機関いわゆる政治を行う権限もその行使の方法も、すべて憲法の規定によってのみ行うことが憲法政治の根本原則であると信ずる。憲法の認めない統治の機関や政治の運営は絶対に憲法の容認せざるところである。憲法第四条に『天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う』と明示されているのは即ちこの意味に外ならないと考える。大政翼賛会は、何等法令に基づくところがない。しかも、国民の組織を根底から覆してこれを新にするような仕事を目標として起こった大組織が、憲法や法令に全然無関係のものであるとして許されるものであるということは、どうしても私どもの了解できないところである。」

 これに対して近衛文麿首相は、

 「私はどこまでも政府が主であって翼賛会は従である。政策を樹てる者はすなわち政府であり、翼賛会はこれに協力してゆく従的なものであると考える。実は翼賛会成立当時、一つの強力なる政治力を結合してこれが一つの政策を樹て、これが政府を指導して引張ってゆくといったような、ドイツやイタリーに見るが如き考えをしている人もあったようである。しかし私ははじめからその考え方に逆なのである。この点、最初の新体制準備委員会における声明においても、そういうことになれば一国一党となる。これは我が国体に照し、憲法政治の本当の正しい運用から申しても、ゆゆしいことであると特に申し述べている」

と答弁せざるを得ず(一九四一年二月六日貴族院予算委員会)、さらに岩田議員の「現在の機構組織で之に相当の資力が加われば総裁の意見に反して一国一党になる危険があるのではないか」との追及質問に対して、近衛首相は「適当な組織の改革を行って其の目的使命に沿うよう努力すること」を約束したのであった(3)。

 斯くして大政翼賛会は大幅に予算を削減された上で、数次の改組を経て企画、政策、議会の三局を廃止され、政府の補助組織に転落し、昭和十六年四月八日、大政翼賛会組織局九州班長の勝間田清一(戦後社会党)、稲葉秀三、和田耕作ら昭和研究会に所属していた企画院革新官僚が治安維持法違反容疑で検挙された。これが企画院事件である。

 昭和十年五月、陸軍統制派の陸軍省軍務局長、永田鉄山少将の進言を受けた岡田啓介内閣によって設立された内閣調査局が企画庁に発展し、昭和十二年十月、陸軍省資源局と合併し、企画院となったのである。この企画院事件の訊問調査によって判明した恐るべき事実は、国家総動員法発動と近衛新体制運動を推進した、企画院および「一、現行憲法の範囲内で国内改革をする。二、既成政党を排撃する。三、ファシズムに反対する」ことを根本方針として設立され、転向左翼と革新官僚の巣窟であった昭和研究会の正体が、コミンテルン三十五年テーゼに基づき合法的に政府部内に流入した共産党正統派系、労農派系、社会民主主義左派系統の共産主義者のフラクションであり、彼ら企画院の革新官僚はそれぞれ相異なる系統に属しながらもマルクス主義とコミンテルンを支持し、尾崎秀実の理論指導を受けており、彼等は、

 「戦時下に在りては戦争目的達成の為には国家自体従来の資本主義経済に対して急激に統制改編を加えることを必要とし然もこれが資本主義を根本的に変革せずしてその基礎の上に実施せられるものたる限り資本主義の矛盾を激化せしめ更に此の矛盾を克服する為に一層統制を強化せざるを得ず。斯の如くして国家はその目的の如何に拘わらず客観的必然的要請として綜合的なる社会主義計画経済体制を整備せざるを得ざると共に其過程に於て益々資本主義の本質的矛盾を深刻化せしめ以て社会主義社会実現の主観的客観的条件を成熟せしむるものなり」

という基本的観念において一致し、かかる思想的共通性を基礎として、日本共産党を中軸とする下からの革命運動との関連において当面の国家要請である「戦争遂行体制の確立」を利用する「上からの変革」即ち彼等の目的とする社会主義社会体制の基礎を確立すべき諸方策を国策の上に実現させ、国家の自己崩壊を促進すべく企図していたことであった…(4)。

 昭和十六年五月六日、矢部貞治は、「近衛自身は軍部に追随するだけでも、既成政党が相互の間に障子と襖とを取り払うと云うだけでも意味を成さぬと云い、両者を打って一丸として、既成四分、革新六分の勢力を以て行こう」と考え、翼賛会は出発に当って既にその性格について意見の対立が見られ、出来上がった翼賛会は互に呉越同舟的な妥協となっていたが、

 「その主力は、之を親軍的一国一党運動として支持し、米内内閣打倒、三国同盟の原動力たりし、ソ連邦との抱合を企図する革新右翼であった」

と述べ、暗に近衛新体制運動推進者と、米内内閣を倒した陸軍中堅層の正体を示唆した。矢部の分析によれば、「諸種の新体制運動の荷い手となった革新右翼」は、

1、利潤統制、公益優先、資本と経営の分離、指導者原理等に不安を感じた財閥、就中大阪財閥。
2、赤の排撃ソ連の警戒を根本的主張とし、支那事変の急速処理、南方進出の危険性、英米との開戦の不可を説いて、財閥勢力との提携し、その思想の無内容さからして、自己の排斥する個人主義、自由主義と手を握るに至った観念右翼(皇道派や日本主義派)。
3、独の上陸作戦の遅延、伊の敗戦を主張する親英米派(枢軸外交反対派)。
4、自由主義的既成政党の一部。

の四勢力から反撃され、「大政翼賛会は政治力を失い、精神総動員運動に堕し去った」のである。矢部はそのことを嘆きつつも、

 「革新は既に失われたのか。否。個人主義的、自由主義の再支配は考えることの出来ぬことである。国防国家建設が現実の問題である以上、その実現の地盤たる新体制は必ずや遂行しなければならない。新体制と国防国家とは切り離すことの出来ぬものである。

 唯、右の日本政治の動向を辿る時、吾々の反省すべき問題がある。それはドイツ方式を直ちに以て日本に輸入したことに対する反省である。種々国情の差を無視してドイツ方式を輸入したことが、右の如き失敗の一因となったのである。(十二月二十一日の平沼内相、陸軍皇道派の柳川法相の入閣に続く)最近の小倉氏(註、住友財閥)の入閣も大阪財閥の反撃の一表現であった。それは新体制、低物価政策に対する産業資本主義的反動を意味する」

と総括した(5)。そして力を取り戻した帝国議会では、昭和十六年九月二日、三百二十九名の議員によって結成された翼賛議員同盟が政府与党となった。

 帝国議会は、近衛の詭弁にだまされ国家総動員法を可決してしまったが、大政翼賛会に対しては違憲論を掲げて譲らず、辛うじて我が国の立憲自由主義的議会制デモクラシーを死滅から救い出したのである。これを換言すれば、帝国憲法と昭和天皇が近衛文麿や尾崎秀実ら昭和研究会の野望を粉砕し、我が国が最悪のソ連ドイツ型全体主義体制に陥っていくことを阻止したのである。
 明治天皇の詔命を奉じて帝国憲法原案を起草した伊藤博文公を始め明治維新の功労者の叡智は、日清日露戦争を我が国の勝利へ導いただけでなく時空を超えて昭和日本の立憲君主制議会制デモクラシーを「内なる敵」から守り抜いた偉大なものであった。

(1)衆議院予算委員会議録第四回昭和十六年一月二十五日。川崎克【欽定憲法の真髄と大政翼賛会】七十九~八十二頁。
(2)清水留三郎代議士は「翼賛会の標語に贅沢は敵だと言うのもソ連共産党から来たものでよく調べると尾崎氏だとの事だ」と述べた(【現代史資料ゾルゲ事件4】五三四頁、昭和十七年官情報八五九号「国際諜報団事件に対する意向」)。
(3)貴族院予算委員会議事速記録第五号昭和十六年二月六日。伊藤【近衛新体制】一九二、二一三頁。 
(4)三田村【戦争と共産主義】二八四~三〇二頁「警視総監報告書抜粋、昭和十七年二月十二日、特高一秘第一三八号」
 これによると、稲葉秀三は人民戦線戦術に基づき日本共産党再建運動を展開していたマルクス主義法学者の風早八十二に協力し、風早を昭和研究会労働問題研究員に推薦参加させていた。また勝間田は、戦時体制について「日支事変が東亜民族をして英、米、仏等の民族的搾取から解放せんことを重要目的として居た戦争に進歩的意義を発見し、又前述の如き高度の体制を採ることは同時に次期の共産主義社会機構の基礎的体制を整備するものであって社会発展の歴史的方向に向かって居ること、戦時体制の強行は生産力の発展を阻害しつつあった半封建的生産関係を除去する過程を履まざるを得ないこと等の進歩的性格に魅力を持って居りました」と証言し、マルクス主義的に良心的であり、進歩的な彼等の活動はマルクス主義社会革命の前衛たる日本共産党が目的を達成する上に将来において何等かの寄与をするものである、と思っていたという。  
 大政翼賛会は、尾崎秀実のいう「粛党工作」を経て、最終的には「日本共産党」そのものに変貌することを目指していたのであろう。
(5)【現代史資料国家総動員2】四八四~四八八頁。


37、憎悪

 ところで議会を叩き潰すことに執念を燃やしていた近衛文麿は、「近衛新体制」の実現を御許しにならなかった昭和天皇に如何なる感情を抱いていただろうか?この頃の近衛の心中を窺うに足る興味深い語句が近衛のポケット日記の巻末(昭和十五年)に書き記されている(1)。  

 君君たらずんば臣臣たらず(論語顔淵篇)
 君の臣を視ること土芥の如くなれば、即ち臣の君を視ること寇讎(註、仇敵)の如し(孟子離婁章句下)
 君臣を択べば臣亦君を択ばん(後漢書馬援伝)   
 君命受けざる所あり(孫子九変篇)

 孟子は支那の易姓革命を正当化した思想家であり、

 「『周の創、武王一たび怒りて天下の民を安くす。臣として君を弑すといふべからず。仁を賊み義を賊む、一夫の紂を誅するなり 』といふ事、孟子といふ書にありと人の伝へに聞侍る。されば漢土の書は経典史策詩文にいたるまで渡さゞるはなきに、かの孟子の書ばかりいまだ日本に来らず。此書を積て来たる船は、必しも暴風にあひて沈没よしをいへり。それをいかなる故ぞととふに、我国は天照すおほん神の開闢しろしめしゝより、日嗣の大王絶る事なきを、かく口賢しきをしへを伝へなば、末の世に神孫を奪うて罪なしといふ敵も出べしと、八百よろづの神の悪ませ給うて、神風を起して船を覆し給ふと聞。されば他国の聖の教も、こゝの国土にふさはしからぬことすくなからず」(雨月物語)

という伝説が存在したほど、我が国の伝統とは絶対に相容れないとされてきた。近衛家は大織冠藤原鎌足の嫡流であり、遠く遡れば、その祖は天孫降臨の際に供奉した最上首神たる天児屋根命である。まさに二千年にも及ぶ皇恩を辱うしてきた摂関家筆頭たる近衛家の棟梁が孟子の一節を引用して昭和天皇への憎悪を露わにしていたのである。

 近衛文麿が遂行せんとした立憲自由主義議会制デモクラシーの破壊、統制経済と一国一党独裁の導入、暴力主義(テロリズム)の肯定、そして革命…。これらから連想される政治経済思想は何であるか。それは言うまでもなくマルクス・レーニン主義である…。

(1)勝田【重臣たちの昭和史下】一九三頁


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国民のための大東亜戦争正統抄史21~24汪兆銘工作の謀略的意義

【汪兆銘工作の謀略的意義】
 

21、主謀者

 昭和十三年十二月二十二日発出の近衛声明は、

 「近衛声明原案を尾崎は牛場首相秘書官と共に執筆したり。この時執筆はせざりしも同室に在りて意見を述べつつありし者に西園寺公一と岸秘書官有り。この声明案は文章等に付陸軍方面に異論有り。異論の有する事を影佐軍務課長より風見書記官長に対して述べたる結果、更に一の試案を中山優氏が書き、首相の意見を加え、最後に之を基として陸海立会の上にて清書したるもの」(犬養健手記)

である(1)。そして汪兆銘工作の主謀者は、近衛の最高政治幕僚、尾崎秀実であった。尾崎は汪兆銘工作について次のように供述した(2)。 

 「昭和十三年春頃より当時同盟通信上海支局長であった松本重治と南京政府亜州司長高宗武との間に日支間の平和回復に関する努力が払われていました。当時高宗武の肚は蒋介石を引出す意図であった様に察せられましたが其処へ周仏海等が合流したことに依り汪兆銘派の運動に変形し奥地に居る汪兆銘との密接な連絡が生じて行きました。此の運動には上海に於ける日本の特務機関も関連を持ち影佐少将も参加するに至ったものであります。

 昭和十三年春には高宗武が秘かに渡日し下相談が進められ松本重治等の斡旋に依り近衛内閣も直接工作に携り松本の友人である犬養健、西園寺公一等も直接交渉の常事者として之に参加するに至りました。

 私(註、尾崎秀実)は此の工作には直接参加しなかったのですが犬養、西園寺等と友人関係にあることや近衛内閣の嘱託であったことから此の間の情況を屡々耳にし又同人等より此の工作に付き意見を求められて居りました。日支関係は全面的和平の望がなく長期戦の形を取って来るので近衛内閣としては一面蒋介石に対する未練がありながらも汪兆銘工作に力を注ぐこととなり、汪兆銘は日本側と連絡を取りつつ重慶より昆明雲南を経てハノイに脱出し、昭和十三年十二月二十三日の近衛首相の更生新支那との国交調整に関する声明に呼応して、三十日重慶に対し通電を発するに至りました。

 近衛内閣は翌十四年一月総辞職し平沼内閣となりましたが汪兆銘工作は其のまま平沼内閣に引継がれ、現地の軍部、外務省、興亜院の参加の下に前述の諸氏により交渉が継続され昭和十四年春には汪兆銘の上海乗込みとなり次で汪兆銘は秘に上京し、近衛公、平沼首相等と会見して上海に帰り、真正国民党の大会を開き、秋には青島会議が開かれ、次いで翌十五年三月三十日南京に於て国民政府の還都式が挙行され、阿部全権大使の渡支となり、同大使と汪兆銘政府との間に正式交渉が行われ、遂に同年十一月三十日汪兆銘の新国民政府に対し日本の正式承諾となり、日華の間に条約の成立を見たのであります。併し乍ら此の間に於ても蒋介石との直接交渉及地方軍閥工作等が、汪兆銘工作の進展と並行して依然として行われて来て居りました。

 日本と蒋介石との直接和平交渉は早くより香港を中心として小川平吉氏、萱野長知氏、頭山満氏の子息、軍関係者、外務省関係者等その他に依り、夫々別々な路線を通して工作が行われていたことは新聞記者仲間の話、現地での聴込み、反対の立場に立つ汪兆銘運動関係者の話等から聞いて居りました。」

 西園寺公一(西園寺公望の孫)と犬養健(犬養毅の長男)は、近衛の最側近にして尾崎秀実の大親友で、ゾルゲ機関に深く関与し(いずれもゾルゲ事件に連座)、とくに西園寺は生涯中国共産党を崇拝し続けた狂信的共産主義者であった。同じく近衛の最側近であり尾崎と親交していた松本重治も第二次世界大戦後、共産中国に操を立て台湾訪問を拒絶した人物であり、松本が高宗武と共に萱野老人の和平工作を妨害し、我が陸軍に漢口作戦を強行させた張本人の一人であった。

 犬養健によれば、昭和十三年七月に高宗武が来日した際、軍人以外で高に面会した者は、松本、西園寺、犬養、そして尾崎秀実であったが(西義顕、伊藤芳男の両名は案内者)、尾崎は影佐禎昭に迷惑をかけることを恐れ、西園寺の友人であると述べて列席したという(3)。

 昭和十四年三月末、香港に赴いて萱野長知と合流した小川平吉が、「このままでは第三国を利するのみ」と危惧し蒋介石の幕僚に日支和平の必要性を説いていた杜石山(広西軍閥の李済深の参謀長、日本の陸軍士官学校卒業)や張季鸞らと和平会談を行っていた頃、汪兆銘一派がハノイで重慶暗殺団の襲撃を受け曽仲鳴を暗殺された為、四月初旬、影佐禎昭大佐は犬養と共に、山下汽船「北光丸」に乗り込み、汪兆銘一派を救援し、五月五日、彼等を乗せた北洋丸は上海に入港した。ここで梅思平と共に汪兆銘に合流した高宗武は、五月七日にまたしても不可解な行動を取り、「和議は到底日本軍部の容るる所とならざるべし」と重慶に打電したのである。これに接した蒋介石は、

 「小川翁の港に到るは何の為なりや。日本軍人亦極めて明瞭たらん。何を以て便法を商定せざる以前に在りて、継続して重慶を爆撃するや。是を以て日本軍政二界の不協調を知るに足る。即ち小川翁有心以て和平を促起するも、深く恐る、中途少壮軍人の阻害する所となるを。是れ慮るべきなり。万一和議の交渉中途に挫折し、蒋自己の失敗に因て政権紅軍の手に落ちば、国に前途、苦悩更に多し。委曲全きを求むる所以にして徹底の所に想到するに非るなきなり。小心ならざらんと欲するも、自ら亦為し難き処あり」

と小川を詰問して和平交渉の前途に対する深い疑念を示し、また同時に昭和十三年十二月から重慶や蘭州など支那大陸奥地に在る国民政府の政戦両略の要地および航空基地に対する戦略爆撃を開始した日本軍部への強い不信感を示したのである。小川は、この蒋介石の疑念と不信を解く為、六月二日、杜石山を介して蒋に、

 「日本政府も対外案件を決定せる以上は、少壮軍人に覆されるが如きことなし、予らは政府の代表者に非ざれども、代表以上の人を以て自任するものなり、蒋氏の苦衷は諒解せり」

という覚書を送付し、蒋を擁護するに吝かならざることを申し入れたところ、蒋介石は、

 「実は小川先生の来函あるや、之を端緒として要人派遣の意を決し、陳部長をして現地二、三の軍人に打合わせをなさしめたる後、先生の函を直系幹部会に提出し、代表派遣交渉着手を議したるに、共産党員等多数が軍事委員会会場に押しかけて蒋に面会を求め、主和者の逮捕厳罰、統一戦線反対者の駆逐、西安への遷都を要求し、形勢頗る宜しからず、就いては新たに措置を講じ、時機を見て和平を実現せんとす。此の旨諒解を乞う」

と回答せざるを得なかった(4)。つまり小川平吉と萱野長知の和平工作は汪政権樹立派と中国共産党の双方によって妨害されたのである。渡日した汪兆銘による政権樹立の阻止を重慶政権から要請された小川は、十一日、萱野長知を香港に残して帰国の途に就いた。

 小川や萱野の和平工作と時期を同じくして、上海では、ソ連の動向を警戒する参謀本部ロシア課から派遣された小野寺信中佐がアスターホテルに事務所を設け対ソ諜報活動を行っていた。五月上旬、小野寺中佐は影佐機関による汪政権樹立工作胎動の徴候を察知し、このまま之を放置すれば日本の運命ひいては東亜の将来に一大事をもたらすおそれがあり、支那事変の処理は対重慶直接交渉を措いて他ないと判断し、早速に南京の中支派遣軍総司令部を訪ねた。小野寺中佐は、派遣軍総参謀長の河辺正三中将と膝をつき合わせて談判し、中佐自身が陸軍中央に赴き派遣軍首脳部の名において参謀本部および陸軍省を動かす一方、支那大陸の事情に精通している小野寺機関員の吉田東祐と、吉田に接触してきた重慶特務機関CC団員の朱泰耀と姜豪(国民党上海市党部委員)を香港に派遣して、国民党組織部副部長の呉開先やマフィアの杜月笙等を通じて、重慶政権と交渉し、近衛または板垣を蒋介石またはその代理者と会見させ、一挙に支那事変の解決を図ることを力説した。すると河辺総参謀長は、この案に全幅の信頼を寄せ、「必要の経費は総軍司令部から支出するから後顧の患のない様に」と述べ、小野寺中佐に全権を委任し、速やかに上京して、中央の首脳部に諮って善処する様に命じたのであった。

 小野寺中佐は留守中の手配を吉田に委せ東京に赴き、陸軍士官学校の同期であり時期を同じくして欧州に勤務した親友の臼井茂樹大佐に相談した。参謀本部第八課長の臼井大佐は、影佐大佐らと共に汪政権樹立派の中心として動いており、上京中であった周仏海と密かに謀議を進めている最中であったが、内心は対重慶工作の必要性を考慮しており、小野寺中佐の説に耳を傾け、

 「よし、板垣陸軍大臣、中島参謀次長と一晩会って話してみようじゃないか、俺が斡旋の労を取る」

と賛意を示したのである。間もなく陸相官邸で臼井大佐と共に大臣、次長と会見した小野寺中佐は、直接交渉説を力説し、板垣の決意を促したところ、板垣陸相は、

 「日本は目下親米疏英政策によって、英米を離間する政策が着々進んでいる。又約十億ドルの借款の話も進んでいる。何も今更重慶に秋波を送る必要もあるまいが、君の言うことも一理ある。それができれば勿論結構だ。香港での直接交渉をやってみてもよい」

と小野寺工作を許可したのである。

 ところが上海に潜伏する重慶特務工作組織を掃討する為に、土肥原機関と影佐禎昭大佐によって上海ゼスフィールド路七十六番地に設立された汪派特務機関の丁黙存と李士群(元CC団員)の一隊が、香港に出発しようとした姜豪一派を逮捕し、日本軍憲兵隊に引き渡したという電報が吉田より参謀本部に着信した為、小野寺中佐が臼井大佐に相談したところ、参謀本部は直ちに釈放命令を発した。参謀本部では、「汪兆銘工作が日蒋直接和平の障害となること」を警告し「日本は満洲を除く全支那大陸から撤兵して蒋介石と講和しソ連に備えるべきである」と力説する小野寺中佐と意見を交換した作戦課の中枢である秩父宮雍仁親王中佐と堀場一雄少佐が汪兆銘の擁立に疑念を抱き、小野寺工作を暗黙内に鞭撻していたからであった。

 小野寺中佐は、改めて和平工作の準備を進める為に上海に帰還する途中に福岡雁巣飛行場で、小野寺機関の和平活動を知り上海から急いで帰日した影佐大佐と鉢合わせとなり、両者は、支那事変の処理方策を巡って大激論を戦わせたのであった(5)。

 小野寺中佐の上海帰還と入れ違いに上京した影佐大佐は、対重慶和平工作の中止と汪政権の樹立とを陸軍首脳に具申しただけでなく、

 「小野寺を何としても東京へ戻せ、さもなければ小野寺の命は保証しない」

とまで主張して、小野寺中佐を激烈に排撃し、彼を陸大教官に左遷させてしまい(6)、斯くして六月六日、五相会議は従来の新政権樹立工作と対重慶工作の混淆というべき「汪、呉、既成政権、翻意改善の重慶政府等を以て構成分子とする」中国新中央政府樹立方針を決定したのであった。

 この後、影佐大佐は犬養や松本重治を始め多数の新聞人が参加した政府直轄の「梅」機関を指揮して、汪兆銘政権樹立を強引に主導したのであるが、石射猪太郎に「陸軍の知能犯」と形容された影佐禎昭(後、中将、南京政府軍事顧問)は、池田純久と同じく東京帝大に派遣され(池田は昭和四年四月~昭和七年三月、影佐は大正十四年四月~昭和三年三月)、マルクス主義に汚染された統制派の革新幕僚であった。影佐は池田、今井武夫、柴山兼四郎と共に昭和同人会(昭和研究会の外郭団体。昭和十三年四月十五日発足)に名を連ねており、尾崎秀実や犬養、風見章(元信濃毎日主筆。近衛の最側近で尾崎の大親友。第一次近衛内閣の内閣書記長、第二次近衛内閣発足時の法相。戦後社会党左派に所属しソ連のフロント組織、世界平和評議会の委員や日ソ協会の副会長を務めた狂信的共産主義者)と親睦を深めていた(7)。

 つまり驚くべきことに、汪兆銘工作は表面上「反共和平」を謳いながら、尾崎と彼に連絡していた共産主義者によって準備実行され、彼等は汪兆銘工作と同時並行していた我が国の対重慶和平工作を妨害していたのである。

 内閣嘱託として近衛文麿に支那事変処理に関する意見と汪兆銘工作に付いての意見を具申していたのは尾崎秀実であり、尾崎はソ連のスパイとしてソ連を包囲する資本主義国家群を噛み合わせて消耗崩壊させ、敗戦革命へ誘導せよというレーニンの敗戦革命論およびコミンテルン二十八テーゼ(コミンテルン第六回大会決議、帝国主義戦争と各国共産党の任務に関するテーゼ、一九二八年八月二十九日)に沿い、明らかに支那事変の拡大長期化を画策していた。そして尾崎の獄中手記(8)が述べているように、尾崎秀実が遂行していた任務は、狭義には日本帝国主義からソ連を防衛すること、広義には世界資本主義体制に替わる共産主義的世界新秩序と、その一環としての東亜新秩序を創建することであった・・・。

 そうだとすれば、多田駿参謀次長以下陸軍参謀本部の早期和平方針を粉砕した第一次近衛声明に連動して尾崎等一連の共産主義者によって樹立された汪兆銘を首班とする新興親日政権の正体は何であるか。それは、二十八年テーゼ(ブルジョアは、戦争の内乱への転化を阻止する為に、重要な思想的武器として「平和」に訴えるが故に、共産主義者は、平和に関するあらゆる空文句に対して精力的に戦わなければならない)に従い、最も有効な「戦争との闘争手段」「戦争反対の処方箋」である日蒋間の和平講和交渉を遮断し支那事変を長期化させる為に、尾崎等共産主義者によって打ち込まれた「楔」(障害物)であり(9)、日蒋双方を消耗させ(国民政府を徹底的に武力掃討し抹殺する)ソ連および中国共産党の防衛と強大化を図り、東亜新秩序を実現することを目的とするソ連の作為戦争謀略(make war)の成果であったと言わざるを得ない。

(1)尾崎秀実、今井清一【開戦前夜の近衛内閣】三十一頁。
(2)三田村【戦争と共産主義】二二一~二二二頁「尾崎秀実獄中手記」
(3)【現代史資料ゾルゲ事件4】五一〇頁。尾崎、今井【開戦前夜の近衛内閣】二十八頁。
(4)【小川平吉関係文書1】四八二~四八六頁「小川平吉日記昭和十四年五月二十六日~六月五日」、六五五~六五八頁「赴香始末」
 この小川の記録によれば、汪工作に猛反対した香港総領事の田尻愛義は、昭和十四年五月二十六日、「高の香より上海に赴くに際し(五月初か)、日本某武官と某外交官と二人同船にて高に対し日本は決して蒋を相手として講和をなすものに非る旨を詳説し、且つ曰く、蒋は早く謝罪するか共産党討伐でもやるが宜し云々と語りたるに、高は悟る処ありて之を蒋に打電して可なるやと問いしに付き、二人は可なりと答えたり、彼は直ちに之を打電せしならん」と小川に報告した。
(5)吉田東祐【二つの祖国にかける橋】一一四~一一八頁「小野寺信中佐覚書」
 吉田は自分の生活可愛さに、昭和八年、本当に左翼運動から離れた元非常時共産党員であり、「祖国敗戦主義の理論の上では帝国主義日本が中国の固い壁に頭をぶつけて崩壊することは喜ぶべきことなのかも知れない」と考えていたが、これにより数百、数千万人の人間が死んで逝くことには耐えられず、参謀本部ロシア課の嘱託を引き受け、支那大陸に赴き和平工作に従事したのである。吉田の言動は、革命の実現に執念を燃やして人間の良心を喪失した共産主義者が、支那事変に如何なる態度で臨んだか、を示唆していよう。
 
 また吉田によれば、小野寺機関に出入りしていた近衛文隆(文麿の長男、東亜同文書院理事)は、上京する小野寺中佐に、蒋介石に対する直接和平交渉の必要性を説く、父親宛の親書を手渡し、蒋介石の側近戴笠少将率いる重慶特務機関「藍衣社」に自ら接触するなど、熱心に対重慶直接和平工作を行った為、汪工作推進者から睨まれ、昭和十五年二月、召集令状一本で満洲に送られたという。
 文隆は、敗戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留され、昭和三十一年(一九五六)十月二十九日、イワノバ州レジニェヴォ地区チェルンツィ村内務省第四十八号ラーゲリで謎の死を遂げた。ソ連の謀略に立ち向かい、獄中におけるソ連の洗脳に屈しなかった彼が、もしソ連より生還を果たし日本に帰国していれば、ソ連の表裏を知り尽くした強靱な反共の首相として、ソ連を礼賛する革新勢力の跳梁跋扈を許さず、日本再建に尽力する可能性を秘めていただけに、彼の死は我が国にとって痛恨の損失であった。
(6)小野寺百合子【バルト海のほとりにて武官の妻の大東亜戦争】六十五~八十二頁、今井武夫【支那事変の回想】一五四頁。
(7)後藤隆之助【昭和研究会】一〇五頁「昭和十四年一月作成昭和同人会規約及名簿」
 第一次近衛内閣成立にあたり、風見章を書記官長に推したのは、当時の陸軍次官梅津美治郎の意を呈した柴山軍務課長であるという(三田村【戦争と共産主義】一三四頁)。
(8)三田村【戦争と共産主義】二一一~二三五頁。
(9)三田村【戦争と共産主義】一六七頁。


22、永久抗争

 近衛内閣が汪兆銘政権を公式承認し、国際法上において我が国の交戦相手である蒋介石の重慶政権を完全に否認した昭和十五年(一九四〇)十一月三十日、昭和天皇が参謀総長の杉山元大将に対して、次のように下問されていた。

天皇「我が国もいよいよ汪政権を承認した以上、いわゆる全面和平は当分難しいと思うが、そうすれば、政治的に見れば持久戦ということになるのであるが、この際徹底的に蒋介石を撃破する方策があるか」
杉山「それは難しい」
天皇「それならば、我が国の財政物資等の見透しからしても、この際、戦線を整理して国力相応に調整する必要はないか」
杉山「急に兵をひくと敗北したと宣伝されるおそれがある、漢口は維持する必要があります」
天皇「それはそうかも知れぬが、この際思い切った案を立てないといけないのではないのか」

 昭和天皇は重ねて下問されたが、杉山総長は「充分研究致します、財政物資等の問題は充分考慮致します」と答えただけであった(木戸幸一日記昭和十五年十二月二日の条)。昭和天皇は杉山総長との問答を木戸内大臣に伝え、さらに海相の及川古志郎大将にも「支那戦線を縮小すべきではないか」と下問されたが、天皇の御懸念とは反対に及川大将は「現状にては押すを可とす。三ヵ月位後に重慶に重大なる変化あるべし」と強硬論を唱える始末であった。それから二日後の昭和十五年(一九四〇)十二月二日、国民党中央党部の拡大総理紀念週に出席した蒋介石は、

 「敵軍閥が一昨日、汪逆賊のニセ組織を承認し、同時に、敵とニセ組織がニセ条約を発表した。和平のデマ攻勢に失敗した敵が採った、道理に反する荒唐無稽な行動である。この種のホゴ同然のニセ条約は、ニセ組織が、自由意志を完全に封じられて、甘んじて日本の奴隷となることを承認したものであり、根本的には一顧だの価値もない。しかし、中日両国の仇恨史上、将来ひとつの重要な資料となるであろう。しかも、この一枚のニセ条約は、中日両国の戦禍を無窮に延長し、中日両民族間に、百世にわたっても解けない仇恨をもたらすものである。これは、近衛内閣(第二次)最大の罪悪である」

と近衛内閣を非難し、この日の日記に次のように書き記した(1)。

 「近衛は、無知無能にも、汪政権を承認したことで、中日両国間に解くことのできない仇敵関係をつくりだした。これは敵国(日本)のためにもまことに残念なことであるばかりでなく、さらに東亜のためにも危機感を深めるものだ。」

 我が国では昭和十五年十一月十三日の第四回御前会議が、日満華共同宣言案並びに日支基本条約案(政府提出)と支那事変処理要綱(大本営提出)を可決し、それまで政府軍部民間が各個に同時並行していた多数の和平工作(当時の噂では十七本、資料では十三本)を政府の一筋にまとめ、汪兆銘政権の承認が完了する十一月末まで汪蒋合作を建前として実効的な最後の対重慶和平工作を行い、和平不成立の場合は「情勢の如何にかかわらず長期戦方略への転移を敢行し飽く迄も重慶政権の屈服を期す」と決定した。御前会議では近衛文麿首相が原案可決と認める旨を述べて宣言案条約案と支那事変処理要綱を最終決定に持ち込み、会議の終了を昭和天皇に言上したのであるが、この処理要綱提案理由には汪政権承認の危険性が次のように明記されていた。

 「然れども新中央政府承認迄に重慶側を新中央政府に屈服合流せしめ以て新中央政府をして真に新支那に於ける新中央政府たるの実を備うるに至らしむべきは帝国として最も希求する所にして殊に新中央政府承認後に於ける対重慶諸工作の困難性を予想せらるるに於いて然りとす」

 それにもかかわらず十一月二十八日首相官邸で行われた連絡懇談会(出席者は首相、外相、陸相、海相、参謀本部次長、軍令部次長、興亜院の鈴木貞一政務部長)は、汪政権承認十一月三十日を議決し、「十一月三十日までに停戦申込ありたる場合においても承認期日を変更することなし」と決定してしまった(2)。

 そして浙江財閥の有力者にして蒋介石と親交を結ぶ銭永銘(交通銀行総経理)に日中和平の仲介を依頼する対重慶工作を担当していた外務省の田尻愛義参事官が香港から東京に「泣いて廟議の再考を乞う」旨を繰り返し打電したにもかかわらず、近衛首相が銭永銘工作を打ち切り汪政権を公式承認した後、日中和平工作の路線は、昭和十九年末に繆斌(ミョウヒン)工作が浮上するまで約四年ものあいだ完全に閉塞状態に陥ったのである。これが外交的にも軍事的にも我が国の致命傷となった。

 汪政権の樹立後、我が国政府は、汪らを見捨てた上で重慶政権を相手として和平交渉を行えず(見捨てるべきであったが)、苦肉の策として、蒋汪両政権合流による国民政府の統一と日中和平提携の実現という二段階の和平案を採った。しかし斎藤隆夫代議士が議会演説(昭和十五年二月二日)の中で指摘した通り、中国共産党に容共抗日を強要された蒋介石の重慶政府と、反共親日を標榜する汪兆銘の新政府は氷炭相容れざる「讐敵」の関係にあり(3)、たとえ第二次国共合作が決裂したとしても、面子を重んじ、汪兆銘を裏切り者、逆賊として激しく憎悪する蒋介石ら重慶政権が、汪政権との合流や汪を通ずる対日講和を受諾することは「夢物語」に等しく、汪を経由しなければ蒋と和議を開始しないという主張と蒋汪合流の要求は、講和そのものを絶対に否認するという「第一次近衛声明」と同一の結果を招き、思慮ある政治家の執るべき態度ではなかった。それにもかかわらず蒋汪合流に固執した我が国の政府は、遂に支那事変を解決できないまま国家を日米開戦から敗北へと導き、我が国の敗戦後に勃発した国共内戦において、中国共産党は、支那事変により消耗した国民党を台湾へ追い落として支那大陸を制覇し、一九四九年に中華人民共和国を樹立したのである。

 昭和十八年十一月二十日と二十三日、チャンドラボースは汪兆銘と共に、

 「私は、過去に於いて中国が日本に抱いた不満はよく知っているし、中国が日本と戦うに至った経緯も知っている。しかし五年前の日本はもはや存在しない。西欧との決裂以来、一大変革が日本全土を風靡した。私は東亜に帰ってインド独立連盟の任務に入って以来、日本と密接な協力のもとに活動しているが、もし日本の誠意に疑わしい節があるなら、私のような民族主義者、革命家にとって日本との協力は絶対不可能であった筈である。 

 十一月五、六日の大東亜会議は日本の誠意と信実を確信させたものである。しからば重慶の諸君は、今日、何者と戦っているのか、敵と手を組み、味方と戦っているのではないか。諸君はしばらく休息し、熟慮し、而して決意する用意はないか」

と重慶政府に日中全面和平の実現を呼びかけた(4)。だが蒋介石は頑として之に応じようとはせず、さらに蒋は連合軍中国方面最高司令官として、スチルウェル米軍中将の指揮する米軍式装備の支那軍精鋭二個師団をビルマ最北部のフーコン峡谷に侵入させ、米英軍の過酷な徴発により大飢饉(餓死者百五十~三百万人)に瀕していたインドに独立をもたらすための日印両軍のインパール作戦(昭和十九年一月七日~七月四日)を米英軍と共に妨害し、ボースを激怒させた。

 昭和十九年(一九四四)秋、日中全面和平を模索して支那戦線を視察した宇垣一成大将が小磯国昭首相に「南京政府の存在は却って重慶政府に対する和平工作の妨害になっている」と報告した。チャンドラボースの要請すらも拒絶し抗日戦を選択した蒋介石が、汪兆銘の死後(昭和十九年十一月十日、名古屋帝国大病院にて汪は病死)、対日態度を軟化させ、南京政府の解消を条件にして我が国に和平を求めてきた繆斌工作は、斎藤代議士の演説と宇垣大将の観察が正しかった証拠であろう。今井武夫が、

 「近衛第三次声明は軟弱外交であると非難する者も少なくなかったが、この頃、あたかも東亜協同体論を提唱し、東亜各国の解放を主張する運動が行われたため、大衆を啓蒙し、世論を本声明是認の方向に誘導するに大いに力となり、続いて発表された汪兆銘の艶電が、昭和十四年元旦の新聞やラジオで一斉に報道され、国民の不満を解消し納得せしむることが出来たので、日本国民は希望に輝きながら、新年の屠蘇を祝った」

と回顧したように(5)、我が国の帝国陸海軍将兵および一般国民のほとんどは、近衛文麿の東亜新秩序声明と、之に呼応した近衛のブレーントラスト昭和研究会が執拗に宣伝した「東亜協同体論」とに幻惑されてしまい、汪兆銘政権樹立工作の正体―反共和平の衣を着けた東亜共産化工作―を見抜けなかったのである。この汪兆銘工作の主謀者が尾崎秀実であったことを示す証拠の一つが以下の中央公論昭和十四年五月号「第二次世界大戦と極東(座談会-出席者は細川嘉六、堀江邑一、城戸又一、丸山政男、尾崎秀実、平貞蔵、一九三九年四月五日)」である(6)。    

尾崎「大雑把に言えば、こういう非常に大きな問題の中でですねぇ、日本は将来のそういう重大な時局に備えて、大きな広い観点から準備しなければならん、或は政策上の間違いがあったら修正しなければならんという状態に在ると思うのですが…。」
平「欧州大戦前の状況と今日の状態とは似通ったことになっている。で、もしこれ以上国家の発展が阻止される、国家の面目が潰されることになれば国内的、国際的にも世界大戦に訴える外ないという情勢に近付きつつあるが、そこでそいつを最後に決定し得る力は、日本とアメリカだろうが、その点で日本の立場はデリケートであり重要でもあると思うのです。
 欧州大戦が始まった場合の日本の立場は色々なことから考えて考慮の余地 もあると思うが、現実の日本は、矢張り独伊と提携強化して行く外なくなった。それで我々が茲でどうすべきかという議論をしても、それは議論の限界を一寸越えて来たという気がするんですがなあ。」
尾崎「城戸さん、さっきから何遍もお尋ねするのですが欧州大戦の危機はですねえ、ヨーロッパにお出になって御覧になると殊に駸々として進んで行くように見えるでしょうが、その場合極東はどういう形でその中に捲込まれるか、捲込まれない場合があり得るか、というようなことに就いて、その見透しですがねえ。」
城戸「そうですね、それは私の考えでは日本が全く捲込まれないでいようと思えば、捲込まれないで済むという気がするんですがねぇ。」
尾崎「さっきの平氏の話と結論が違う訳ですね。」
平「大戦になる場合は決定的に世界が二つの陣営に分れた時だ。だから日本が大戦が起こった場合に捲込まれずに居られようかというようなことは、単なる仮説じゃないかということなんだ。」
堀江「現在支那問題を控えておって、そこへ大戦の危機が迫っておるのだから、逆に大戦の勃発を待つという気分が相当多いですなあ。」
城戸「結局に於てですね。欧州に大戦が始まれば日本もきっと始めるでしょう。結果から見ればヨーロッパの戦争というものは、結局世界全体の戦争になる。これは間違いないと思いますが。」
細川「始まれば日本は無論参加するでしょう。その参加する場合にですね、国力はまだ戦争準備に費やされる余裕はあるが、今度のやつは更に大きいですからねえ。だから矢張り満を持した戦略ということが必要だろうと思うんだ。」
平「英仏にしろ、ロシアにしろ自分が戦争をしながら支那を助けるということはないので、そうすると日本が有利な地点に立籠もって、反撃して来る勢力を抑えるには却って非常に有利になる一面もあるのじゃないか、素人論だが…。」
細川「此方も素人論だが、ソ連、イギリス、アメリカ等の世界的な勢力の連中がジワジワ動いた日には、ヨーロッパ戦争が起れば支那が武器なんかの援助を受けられんと、そう甘く見られんと思うがね。」
尾崎「まあ平氏の言われる状態になるにはもっと先のことと思うのですが、支那の奥地の抗日政権と対抗し得る新政権が、本当に確立強化されるということになれば、あなた(平氏に)の言われる条件が出てくる。」
細川「それはその通りだ。」
尾崎「それは細川氏の言うような条件で、武器なんかを売って貰えないということは問題にならぬような反日的勢力が盛返して来るということになるだろうと思う。そのためにはどうしても、それに対抗するものを造って置かなければならん。」
平「その時に抗日政権に対抗するだけの政権、○○○工作などよりもう一段と突込んだ工作をする以外にはないと考えるのですが。」

記者「ここで一寸ヨーロッパに戦争が始った場合、アメリカは中立を守れるか、民主主義国に荷担するかという問題を願います。」
平「殆ど参加は決定的じゃありませんか。」
記者「アメリカにしてもソ連にしても最初は財政的、物資の援助という形で、そいつが長引けば途中から参戦するという形になるのでしょうね。」
堀江「そうなって来ると思いますね。」
記者「結局戦争無しに新しい秩序と言うが、そっちの方に行ける可能性はないんじゃないか、これは宿命的なものですね。」
堀江「そうじゃないかと思う。」
(中略)
堀江「最後に尾崎君に締括りをやって貰いたいが。」
尾崎「無い方がいいのじゃないか。」
細川「それは容易じゃないからね。」
平「それでは(尾崎氏に)東亜協同体の理論家として相済まんじゃないか。(笑声)」
尾崎「東亜協同体と云っても、その中にいろいろなものが入っているからね。僕の考えでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権に対抗し得る政権を造り上げること、それが一朝一夕に仲々むづかしいとするならば日本がそれを助ける方策、有効な方策を採って行く。そういう風な一種の対峙状態というものを現地に造り上げて、日本自身がそれに依って消耗する面を少なくして行く…曽って或る時代の日本が考えたような形で征服なり、解決したりするというのではなくて、そういう風な条件の中から新しい…それこそ僕らの考えてる東亜協同体―本当の意味での新秩序をその中から纏めて行くということ以外にないのじゃないか。」

 中国共産党の毛沢東は、延安の抗日戦争研究会において「持久戦について」(一九三八年五月)と題して以下のように講演し、共産党員に対して支那事変の本質が日中両国を改造する正義の革命的な戦争であることを訴え、抗日戦争は持久戦でなければならないことを強調していた(7)。

 「革命戦争は一種の抗毒素であって、それはたんに敵の毒素を排除するばかりでなく、自己の汚れをも洗い清めるであろう。およそ、正義の革命的な戦争というものは、その力がきわめて大きく、それはひじょうに多くの事物を改造したり、事物を改造するための道をきりひらくことができる。
 中日戦争は中日両国を改造するであろう。中国が抗戦を堅持し、統一戦線を堅持しさえすれば、かならず、古い日本を新しい日本にかえ 、古い中国を新しい中国にかえ、中日両国の人も物もことごとく、今回の戦争のなかで、また戦争のあとで改造されるであろう。」

 尾崎秀実はその獄中手記の中で「対ソ連攻撃の危険性の最も多い日本及びドイツが前者は日支戦争により、後者は欧州戦争により、現実の攻撃可能性を失ったと見られた時、ソ連の地位が強大化していく」「少なくとも支那は共産主義的方向に進むであろう」と述べ、又尾崎は改造昭和十二年十一月号「敗北支那の進路」において「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく可能性が特に発生する根拠があることを看過してはならないのである」と結論づけている(8)。
 尾崎等共産主義者にとって、汪兆銘政権樹立工作により決定的に長期化することになった支那事変とは、ソ連及び中国共産党に漁夫の利を与え、東アジアを資本主義より解放し共産化する「聖戦」であった。

 中国共産党の謀略たる廬溝橋事件(昭和十二年七月七日)を発端として開始された支那事変八年間において、支那大陸で戦死した日中両軍将兵は二百万を超えると言われている(内我が軍将兵は約四十万人)・・・。尾崎秀実は自分の謀略構想を胸中深く秘め一部少数の同志の他は妻にすらこれを語っておらず、戦死した日本軍将兵は誰一人として近衛内閣が支那大陸出兵の目的として掲げた東亜新秩序の謀略的意義を知らなかったに違いない。それにも拘わらず中央公論昭和十四年一月号「東亜協同体の理念とその成立の客観的基礎」の中で、

 「我々は静かに『聖戦』の意味について三思する必要がある。今日一部に於て、もしも日本がその大陸に対する要求を具体的に明瞭に形の上に現わすのでなければ尊い血を流した勇士たちは瞑することが出来ない、又艱難辛苦しつつある出征兵士たちがおさまらないであろうとの説をなすものがある。絶対に正しからざる説である。恐らくは心事高潔ならざる輩が自己の心事をもって推しはかったものであるに違いない。一身を抛って国家の犠牲となった人々は絶対に何等かの代償を要求して尊い血を流したのではないと我々は確信するのである。東亜に終局的な平和を齎すべき『東亜における新秩序』の人柱となることは、この人々の望むところであるに違いないのである―。」

と断言した尾崎秀実(9)は、レーニンの革命的道徳体系(後述)を忠実に実践した凶悪非道な共産主義者であった。

 昭和十五年(一九四〇)二月二日第七十五回帝国議会において衆議院の斎藤隆夫代議士は、汪兆銘が日華協議記録に沿った発言を繰り返していることや、「何時ぞや或る有名な老政治家が演説会場に於て聴衆に向って今度の戦争の目的は分からない、諸君は分って居るか、分って居るならば聴かして呉れと言う所が、満場の聴衆一人として答える者がなかったと云う」話を紹介して、次のように質問した。

 「新政権を相手に和平工作を為すに当りましては、支那の占領区域から日本軍を撤退する、北支の一角、内蒙附近を取除きたる其の他の全占領地域より日本軍全部を撤退する。過去二年有半の長きに亙って、内には全国民の後援の下に外に於て我皇軍が悪戦苦闘して進軍しました所の占領地域より日本軍全部を撤退すると云うことである。是が近衛声明の趣旨でありますか、政府は此の趣旨を其のまま実行する積りでありますか」

 「次に事変処理に付ては東亜の新秩序建設と云うことが繰り返されて居ります。此の言葉は昨日以来此の議場に於てもどれだけ繰返されて居るか分らない。元来此の言葉は事変の初めにはなかったのでありますが、事変後約一年半の後、即ち一昨年十一月三日近衛内閣の声明に依って初めて現れた所の言葉であるのであります。

 東亜の新秩序建設と云うことはどう云うことであるか、昨日外務大臣の御言葉にもあったように思いますが、近頃新秩序建設と云うことは此の東洋に於てばかりではない、欧羅巴に於ても数年来此の言葉が現れて居るのであります。併しながら欧羅巴に於ける新秩序の建設と云うものは、詰り持たざる国が持てる国に向って領土の分割を要求する、即ち一種の国際的共産主義の如きものでありますが、其の後の実情を見ますると全然反対である。随分持てる所の大国が持たざる所の小弱国を圧迫する、迫害する、併呑する、一種の弱肉強食である。茲に至って欧羅巴に於ける新秩序建設の意味は全く支離滅裂、実に乱暴極まるものであります。併し欧羅巴のことはどうでも宜しい、欧羅巴に於ける新秩序の建設などは、吾々に於て顧る必要はない。

 此の東亜に於ける新秩序建設の内容は如何なるものがあるか、是も近衛声明及び之に呼応したる所の汪兆銘氏の声明を対照して見ますると、新秩序建設には確に三つの事柄が含んで居るそれは何であるか、第一は善隣友好と云うことである、第二は共同防共である、第三は経済提携であります、是が是までの公文書に現れて居る所の新秩序建設の内容でありまするが、政府の見る所も之に相違ないのであるが、新秩序建設と云うことが朝野の間に於て屡々謳われて居るのでありまするが、其の新秩序建設の実体は以上述べたる三つのことに過ぎないのであるが、尚この外に何ものかがあるのであるか、なければ宜しい、あるならばそれを聴きたい、あっても言えないと言わるるならばそれも宜しい。

 兎に角是ほど広く、是ほど強く高調せられて居る所の戦争目的であり、犠牲の目的である所の東亜新秩序建設の実体は、政府の見る所は何であるか、之を承って置けば宜しいのであります」

 「国家競争は道理の競争ではない、正邪曲直の競争でもない、徹頭徹尾力の競争である世にそうでないと言う者があるならばそれは偽りであります、偽善であります、吾々は偽善を排斥する、飽くまでも偽善を排斥して、以て国家競争の真髄を掴まねばならぬ、国家競争の真髄は何であるか、曰く生存競争である、優勝劣敗である、適者生存である、適者即ち強者の生存であります、強者が興って弱者が亡びる、過去数千年の歴史はそれである、未来永遠の歴史も亦それでなくてはならないのであります。

 此の歴史上の事実を基礎として、吾々が国家競争に向うに当りましては、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ、自国の力を養成し自国の力を強化する、是より外に国家の向うべき途はないのであります。

 彼の欧米の基督教国、之を見ようではありませぬか、彼等は内にあっては十字架の前に頭を下げて居りますけれども、一度国際問題に直面致しますと、基督の慈善博愛は蹴散らされてしまって、弱肉強食の修羅道に向って猛進する、是が即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります、此の現実を無視して唯徒に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯の如き雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない、私は此の考を以て近衛声明を静に検討して居るのであります、即ち之を過去数千年の歴史に照し、又之を国家競争の現実に照らして彼の近衛声明なるものが果たして事変を処理するに付て最善を尽くしたるものであるかないか、振古未曾有の犠牲を払いたる此の事変を処理するに適当なるものであるかないか、東亜に於ける日本帝国の大基礎を確立し、日支両国間の禍根を一掃し、以て将来の安全を保持するに付て適当なるものであるかないか、之を疑う者は決して私一人ではない、苟も国家の将来を憂うる者は必ずや私と感を同じくして居るであろうと思うそれ故に近衛声明を以て確乎不動の方針なりと声明し、之を以て事変処理に向わんとする現在の政府は私が以上述べたる論旨に対し、逐一説明を加えて、以て国民の疑惑を一掃する責任があるのであります」

 そして質問を終えた斎藤隆夫代議士は、最後の一言として政府に対して、

 「吾々は遡って先輩政治家の跡を追想して見る必要がある、日清戦争はどうであるか、日清戦争は伊藤内閣に於て始めて伊藤内閣に於て解決した、日露戦争は桂内閣に於て始められ桂内閣が解決した、当時日比谷の焼討事件まで起りましたけれど、桂公は一身に国家の責任を背負って、此の事変を解決して然る後に身を退かれたのであります、伊藤公と云い、桂公と云い、国に尽す所の先輩政治家は斯の如きものである。

 然るに事変以来内閣は何であるか、外に於ては十万の将兵が殪れて居るに拘らず、内に於て此の事変の始末を付けなければならぬ所の内閣、出る内閣も、出る内閣も、輔弼の重責を誤って辞職をする、内閣は辞職すれば責任は済むかは知れませぬが事変は解決しない、護国の英霊は蘇らないのであります、私は現内閣が歴代内閣の失政を繰返すこと勿れと要求をしたのであります。

 事変以来我が国民は実に従順であります、言論の圧迫に遇って国民的意思、国民的感情をも披瀝することが出来ない、殊に近年中央地方を通じて、全国に瀰漫して居ります所の彼の官僚政治の弊害には悲憤の涙を流しながらも、黙々として政府の命令に服従する政治の統制に服従するのは何が為であるか、一つは国を愛する為であります、又一つは政府が適当に事変を解決して呉れるであろう、之を期待して居るが為である、然るに若し一朝此の期待が裏切らるることがあったならばどうであるか、国民の心理に及ぼす影響は実に容易ならざるものがある、而も此の事が国民が選挙し、国民を代表し、国民的勢力を中心として解決せらるるならば尚お忍ぶべしと雖も、事実全く反対の場合が起ったとしたならば、国民は実に失望のどん底に蹴落されるのであります、国を率いる所の政治家は茲に目を着けなければならぬ」

と要望したのである。これに対して米内光政総理大臣は次のように答弁した(3)。

 「支那事変処理に関する帝国の方針は確乎不動のものであります。政府はこの方針に向かって邁進せんとするものであります。戦争と平和に関するご意見は能く拝聴致しました。以下具体問題についてお答を致します。

 支那側の新中央政府に関する帝国の態度は如何、こういうご質問であります。汪精衛氏を中心とする新中央政府は、東亜新秩序建設につきまして、帝国政府と同じ考えを持っておりますから、帝国と致しましては、新政府が真に実力あり、かつ国交調整の能力あるものであるということを期待致しまして、その成立を極力援助せんとするものであります。

 その次に新政府樹立後、これと重慶政権との関係は如何というご質問でありまするが、新政府が出来上がりまして、差し当たり重慶政府と対立関係となるということは、やむを得ないものと考えておりまするが、重慶政府が翻意解体致しまして新政府の傘下に入ることを期待するものであります(以下略)。」

 帝国議会が審議し議決する政府提出の予算および税法は、直接的間接的に支那事変と関係する以上、政府の歳入と歳出を監督する帝国議会とくに予算の先議権を有する衆議院(憲法第六十五条)において、斎藤隆夫が東亜新秩序構想の具体的な内容と「日本の支那に求めるものが、区々たる領土にあらず、又戦費の賠償に非ざる」ことを宣言した近衛三原則の当否を政府に問い質し、莫大な血税と国力を浪費し国民の生活を脅かす支那事変の急速解決を政府に要求したことは、衆民の公選により成立する代議士の最も緊切な職任の履行であった。しかるに東京朝日新聞は、

 「既に廟議決定し、確乎不動の策として確立した近衛三原則に対する苛烈なる批判と聖戦目的の追求を今頃持ち出すのは、時期も時期、場所も場所だけに不謹慎のそしりを免れない」

と斎藤隆夫を非難したのである(10)。
 元朝日新聞副社長の美土路昌一が香港日記(神尾茂著/自家蔵版一九五七年)の冒頭に次のような紹介文を書いている。

 「争いの嫌いな神尾君は、日華事変の結んで解けないのを、どれほど悩んでいたか知れない。言論弾圧が厳しく、新聞紙上に公然和平問題を論議することが出来なかったので、朝日新聞社は特に神尾君を煩わして、ひそかに和平の溝渠を拓開させる努力をした。」

 「軍部の言論弾圧が厳しく」と書かなかったところが美土路の良心である。日露戦争時の明治政府が開戦直後にセオドア・ルーズベルト大統領の知友である金子堅太郎をアメリカに派遣したように、上海派遣軍司令官の松井石根大将は出征と同時に和平工作を開始した。支那事変の前半の我が陸軍参謀本部は懸命に日中和平の実現を目指した。神尾茂は参謀次長の多田駿陸軍中将の密使となった。戦時中の朝日新聞人の中には神尾のように和平工作に従事した人物がいた。美土路もそのうちの一人である。しかし朝日新聞人の和平工作は個人的努力に止まり、朝日新聞紙面の論調にはならなかった。

 なぜなら満洲事変当時、急伸した新しいメディアであるラジオに対抗するために、新聞各紙が莫大な費用をかけて戦場報道にのめりこみ、大衆感情に迎合する論調をもって部数拡張に努めた結果、読者の間に盲目的愛国主義と戦争熱が根付いてしまい、読者を失う覚悟がなければ、紙面の編集方針の転換が不可能な状態に朝日新聞社は陥っていた。これはまさに新聞社が自ら造りだした世論なるものに、新聞社自身が金縛りにされる自縄自縛現象である。そして昭和研究会に参加した尾崎秀実、佐々弘雄、笠信太郎といった朝日新聞社の革新勢力は朝日首脳の営利優先主義によって硬直化させられた朝日新聞社の編集方針につけこんで戦争を煽動したのである。かくして昭和十三年九月には朝日新聞編集顧問の神尾茂が多田参謀次長の伝言を携えて香港で和平工作に従事している時に日本国内では朝日新聞社は尾崎秀実とともに戦争の拡大を煽り、挙句の果てに近衛内閣の強硬方針を擁護したのである。

 近衛声明を支持し斎藤演説を非難した朝日新聞社とは、紙面において近衛内閣の暴走と尾崎秀実の謀略構想を援護し続けた言論暴力団であった。

(1)【蒋介石秘録12】二二一頁。
(2)参謀本部編【杉山メモ上】一三九~一五五頁。
(3)斎藤隆夫【回顧七十年】二八一~三〇三頁「支那事変処理に関する質問演説の官報速記録より削除せられたる部分」
(4)深田祐介【黎明の世紀】一九一頁。
(5)今井武夫【支那事変の回想】九〇頁。
(6)三田村【戦争と共産主義】二五三~二五五頁、中央公論昭和十四年五月号「第二次世界大戦と極東」(座談会)抜粋。
(7)中国人民解放軍総政治部編【全訳毛沢東語録】三十九頁。
(8)【尾崎秀実著作集2】八十七頁。
(9)【尾崎秀実著作集2】三一三頁、中央公論昭和十四年一月号「東亜協同体の理念とその成立の客観的基礎」
(10)土門周平【参謀の戦争】九十五頁。


23、浸透

 昭和十四年から翌年にかけて尾崎ら昭和研究会幹部の諸論文が示唆した様に、第二次近衛内閣において彼等共産主義者は「東亜新秩序建設の聖戦貫徹」を口実として、ソ連共産党を模倣する上からの国内革新運動であった近衛新体制運動(大政翼賛会)を推進し一党独裁の実現を画策した。これに加えてゾルゲ機関と昭和研究会の謀略活動の全貌を示唆する重大な事実は、尾崎が中央公論昭和十三年六月号「長期戦下の諸問題」の中で、外務省とは別の対支機関(興亜院)設置の必要性を強調し(1)、更に日本外事協会発行の英字誌ContemporaryJapan昭和十四年四月号「呉佩孚と汪精衛の活動」の中で、汪呉合流工作を予告し(2)、のみならず参謀本部付の土肥原賢二中将が中央公論昭和十四年六月号「新時代を戦う日本」で、陸軍省報道部長の佐藤賢了大佐が日本評論昭和十三年十二月号「東亜協同体の結成」で、それぞれ尾崎等共産主義者と同じく公然と東亜新秩序の意義を強調し、東亜協同体(協同体とは私有のない無階級社会)論を展開していたことである(3)。

 土肥原は満洲国建国に参加し、土肥原機関を指揮して唐紹儀、靳雲鵬、呉佩孚を引き出す工作(いずれも日蒋間の和平交渉を遮断する「楔」の頭目にする意図だったのか)を行い、昭和十四年五月十七日、板垣陸相を説得し「汪呉合作」を採択させ(翌日、参謀本部第八課が汪呉工作指導腹案を起草したが、同年末、呉佩孚は病死)、東京裁判ではA級戦犯として処刑された。佐藤は、陸軍省軍務課員として蒋介石政権の否認や国家総動員法案の成立を強硬に主張し、南支派遣軍参謀副長として、昭和十四年七月広東において、影佐禎昭と共に汪兆銘一派と会談し、

 「新秩序を叫ぶのはごく一部のインテリにすぎず、日本の大部は今なお営利本位の自由経済体制にあります。そこから中国へ出てくる利権屋が、昔ながらの侵略搾取の気分が抜けないのも当然です。日本は革新されなければならない。同様に、蒋介石の中国は、赤い悪魔とドルの旦那との間をうろついて、真に日本と握手する孫文の大アジア主義を忘れているところに今日の不幸があるのです。孫文の真義に立ち返って中国は再革命されねばなりません。汪先生の和平運動は、単に事変解決のための和平工作だけでなく、日華提携して植民地秩序を打ち破り共栄の新秩序を打ち立てるものでなければなりません」

と強調して彼等を感激させ、汪兆銘政権の樹立を推進した統制派革新幕僚であった(4)。大東亜戦争研究において著名な土肥原賢二、佐藤賢了、影佐禎昭、今井武夫が、支那事変前半すでに尾崎秀実の同伴者と化していたという事実は、尾崎らゾルゲ機関の謀略網が早くから深く陸軍中枢に浸透していたことを示唆している。

 尾崎秀実は、常に露見逮捕という場合の結果を自分一個の死と結びつけ「要するに死ねばいいのだろう」という一点に覚悟の基礎を置いていたという。ある一人の人間がこの世で最も残酷非道な犯罪を行ったところで、彼自身に与えられる最高の刑罰は死刑である。従って刑罰に縁座制が無い場合、人間は死への恐怖を克服し、自分の命を捨てる覚悟を持てば、自己の目的を達成する為に、数百万数千万の無辜の民を死に至らしめる凶悪な非常手段を選択し得るのである。

 尾崎とは、共産革命の為に自分の生命と人間の良心とを生け贄に捧げ「悪魔とその祖母」(レーニンの言葉)から異常な諜報謀略能力を獲得した、世界史上稀に見る天才スパイであった。

(1)【尾崎秀実著作集2】一一〇頁。
(2)【尾崎秀実著作集5】十四~十五頁。小川平吉は日記昭和十四年三月二十三日欄に、影佐大佐の意見として「蒋との交渉は絶対反対なり。汪を中心として、白、李を連衡し南北政府、呉佩孚等を含みて新政府を作らんと欲する在り」と記述している(【小川平吉関係文書1】四五八頁)。
(3)三田村【戦争と共産主義】一六九、一七二~一七三、二四三~二四四、二五五~二六六頁。
(4)佐藤賢了【大東亜戦争回顧録】一一〇頁。


24、愚人

 昭和史研究所所長の中村粲教授はその大著「大東亜戦争への道」四七六頁において「汪は中国民衆にとって漢奸だったのか。それとも救国の士だったのか。かつて日本の戦友たりし汪について、日本人としても改めて評価を下すべき時期に来ているのではなかろうか。」と述べられている。筆者はそのどちらでもないと断言する。

 汪は反共和平を掲げ支那事変の早期解決を望みながら、支那事変を長期化させソ連及び中国共産党の勢力拡大に奉仕するという大失策を犯したのである。また汪と中華民国南京政府の存在が、昭和天皇の聖慮に沿って懸命に日米和平交渉をまとめようとした東條内閣をして、我が国に支那仏印からの陸海空軍兵力および警察(憲兵)力の撤収、重慶政府以外の政権の否認等を要求したアメリカ政府の対日最後通牒ハル・ノート(ソ連の対米諜報謀略組織バイコフ機関次いでNKVDに所属していたソ連のスパイ、アメリカ財務次官補ハリーデクスターホワイトによって作成されたホワイト・モーゲンソー案、ソ連側コードネーム、雪作戦)を拒絶し対米英開戦を決意せしめたことを考慮すれば、汪兆銘とは、いかに尾崎秀実や西園寺公一等に騙されたとはいえ、日中両国を含め東亜全域に限り無き大厄災をもたらした、二十世紀史上もっとも愚劣な政治家であった、と言わざるを得ない。



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国民のための大東亜戦争正統抄史16~20汪兆銘工作

【汪兆銘工作】


16、泥沼

 昭和十三年(一九三八)八月二十二日、大別山脈と揚子江に沿って漢口に向かい分進合撃を開始した兵力三十万を越える我が中支那派遣軍は、大陸の炎熱とコレラに苦しめられながらも敵軍の抵抗を排除し、十月二十六日、武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)を陥落させ、支那事変中最大の激戦となった漢口作戦は終了した。

 我が軍の損害は戦死者七千十一人、戦傷者は二万四千八百七人である。これに対し中華民国軍の損害は戦死者だけで約二十万、新規徴募兵百万人の補充を必要とする程であった。戦場における日中両軍の損害を比較すれば、漢口戦は我が軍の大勝利であるが、萱野長知が警告した通り、国民政府は我が軍の占領可能半径外にある支那大陸奥地の重慶に根拠地を移し、第二期持久戦態勢に入った。我が国は蒋介石政権の屈伏という作戦目的を達成できなかったのである。

 「其後の状態は遅々として進展なく、抗日長期戦の準備は現在の四期綫に敗れれば五六期と画策されつつある次第なれば何れの時下火に相成るべきかは見当つき不申、実に杞憂寒心の外無之候。但し我が使命の方は依然として努力致し居候間御安心被下度候。」(昭和十三年十一月十八日小川平吉宛萱野長知(在香港)書簡)

 我が軍は、天津、北京、青島、上海、南京、徐州、広東、漢口など支那大陸の主要大都市を占領したものの、支那戦線に二十四個師団以上もの兵力を吸引され、満洲には八個師団(極東ソ連軍は二十四個師団)、内地、朝鮮にはそれぞれ一個師団、台湾には軍司令部を残すのみとなり、予備の動員可能師団にいたっては皆無という惨状に陥ってしまったのである。

 しかも我が軍の漢口作戦準備中に、極東ソ連軍が、満鮮ソ国境付近を流れて日本海に水を注ぐ豆満江の河口より二十キロ上流にある満洲国領内の張鼓峰に不法侵入し、我が朝鮮軍(第十九師団)と衝突するという張鼓峰事件(昭和十三年七月十一日~八月十日)が発生した。朝鮮軍は、陸軍中央よりソ連領内への越境攻撃を禁じられる(専守防衛)という不利を克服して辛うじてソ連軍を撃退したものの、極東ソ連軍の侵入が威力偵察と本格的対日侵攻の準備を兼ねていたことは明白であった(1)。

 支那事変は武力によって解決される目途を喪失して泥沼化し、我が国に戦力国力の枯渇とかねてより参謀本部が危惧していた対支ソ二正面戦争という危機をもたらそうとしていた。一九三八年二月「抗戦必勝の条件と要素」として、

 「広大な土地と多数の人民―この二つの条件が、われわれの抗戦必勝の最大の武器である。われわれには四千万平方里の国土がある。このような遼遠な山河、このように果てしなく続く広大さは、一日本が総力を傾けても、すべてを侵略、占領することはできない。いやたとえ二つ、三つの日本が、現在の二倍、三倍の総力を集めても、まだわが全国の土地を占領はできない。この一点から言っても、日本がいかに凶暴であろうと、わが国家を亡ぼすことができないことは証明できる。広大な土地こそ、われわれが敵人との戦いに勝つ第一の最大の条件なのである。

 つぎに、われわれは五千年の悠久の歴史をもつ民族であり、全地球人類の四分の一、つまり四億五千万人の同胞がいる。このように歴史の古い、人口の多い偉大な国家は、小さな一日本が併合し、消滅しようとしても、決してできるものではない。四億五千万人の人口をたのみに、倒れてもあとに続き、死をかけて抵抗すれば、どのような力が生まれるだろうか。ただ、この事実を見るだけで、日本は絶対にわが中国を滅亡できないことが証明できる。多数の人口、これがわれわれの抗戦必勝の第二の最大の条件である。

 われわれはいま敵人と戦いを交えているが、これは時間を争っているのである。われわれは長い時間によって広大な空間を守り、広大な空間によって抗戦の時間の延長をはかっている。それによって敵人の戦力の消耗をはかり、最後の勝利を戦い取るのである!」

と演説した蒋介石の「空間を以て時間に換え、敵前を変じて敵後となす」持久戦略が功を奏したといえよう(2)。

(1) 一九三〇年以降、外蒙古ではソ連の虐政に対する反乱が頻発しており、一九三七年にゲンデン前首相やマルヂー参謀総長を始め政府軍部要人とラマ僧約二千人を含む約二万六千人がソ連軍によって反乱分子とみなされ処刑された。当時の外蒙古の総人口は約八十万人であるから約三十人に一人が殺害されたのである(小田洋太郎、田畑元【ノモンハン事件の真相と戦果ソ連軍撃破の記録】二十三頁)。
(2)【蒋介石秘録12】一五六~一五八頁。


17、松本重治と高宗武

 以上の様に戦場における我が軍の勝利とは裏腹に、我が国にとって戦況が著しく悪化してゆく中、渡日を終え上海に帰還した高宗武と松本重治等によって秘かに継続協議されていた和平裏面工作、すなわち汪兆銘(号は精衛)を中心とする新政権樹立工作の準備が進行していた。

 八月二十七日、高宗武の要請を受けて上海から香港に赴いた松本重治は、体調を崩した高から国民政府中央宣伝部長、周仏海の部下の梅思平(中央宣伝部香港特派員)と交渉するよう依頼された。翌日、松本は、神尾茂(朝日新聞社編集局顧問)と会談し、神尾は中村総領事と喬輔三の交渉内容や、張季鸞が「日本が相手とすべきは絶対に蒋介石である」と主張していること等を話した。松本は、

 「喬輔三はよい人物だが大任を果たせる力量は疑わしく、おそらく孔のメッセンジャーだけだろう。中村総領事はまじめな能吏ではあるが、外交官の通弊で中国との接触を独占的に考える傾向がある。喬輔三相手なら、機略ある外交交渉はおぼつかないのではないか」

と疑問を呈した(1)。松本が進めている高宗武との交渉について、神尾茂は、日記(昭和十三年八月二十八日)に次のように記している(2)。

 「松本君の話すところによると、彼は高宗武を伴れて日本に渡り(高は六月廿九日上海を立つ)一週間日本に滞在し、多田、板垣、岩永同盟社長(近衛公に代り)に面談した。板垣陸相は高に対し、

 『日本は従来の因縁によって、どうしても蒋介石と両立せぬ、若し蒋に代って汪兆銘が出るならば、条件を寛大にし、十分面子を立てるようにして、決して漢奸に終らしめることをしない。』

ということを汪兆銘に伝えさせた。高らのグループは四十代の新官僚四十二名より成る秘密結社である。抗日の結果の寒心すべきものであることに目醒め、蒋介石を犠牲にするにしても国家の大事には代えられぬと決心し、蒋の下野を、内面的圧迫によって成し遂げようとしている一派である。高宗武は日本から帰って来て漢口へ行けなくなった。蒋介石一派の不興を買ったので危ういとて、周仏海等から漢口行を止めて来た。

 それで高は乾児をやって、私(わたくし)に汪兆銘に板垣の意向を伝えさせた。そこで秘密にこれを受けて研究中であって、蒋介石一派に内密になっている。最近、陳伯生が漢口から出て来たが、これも汪兆銘の傘下にあり、日本との接近を策している。」

 九月五日には、神尾茂が松本重治を訪ねて時局を語り、松本から多くの重要な情報を得た。神尾は「松本君のやっている筋が将来メーン・コースとなりて、実現するに非ずや」と思い、松本との談話の要領を次のように日記に書き留めた(3)。

 「今度香港滞在中に、高宗武ら一派と前後七回会見した。今朝の如きは、六時半から八時半まで高と話し、八時半から十時過ぎまで周作民が来て加わったので、三人鼎座で語った。結局支那の第一案は見込みなく、第二案に依る外あるまいというので、今度の会見でその手順を研究打合わせをしたようなものだ。即ち漢口が陥落し長沙が取れて、日本の軍事行動が一段落した時を移さず、日本は新たに声明書を発表し、対支戦争の目的を述べて、蒋介石の下野を迫る。蒋にして素直に下野するなれば、日本は必ずしも条件を強要して、支那を圧迫せず、頗る寛大に善後策を樹ててやろうと思う。

 自衛的停戦の宣言を発表する。これを機会に汪兆銘の一派が内部から策応して、蒋介石の下野を余儀なくせしめ、国民政府の改造を断行して、日本の声明に順応する。

 今度の会見に於いて、日本の声明に織り込むべき支那の希望、日本側に予め諒解して貰いたき箇条について意見を交換したのである。支那では五色旗でなく、是非とも晴天白日旗を維持さしてほしいと言っているが、肝腎の下野とその後の国民政府の改組は、何でもなく出来るように信じているようだ。この計画は極めて秘密に進められており、蒋介石の幕僚(張群一派は除外さる)と汪兆銘の一派とが、一致してやっていることが特色と言える。張群の手のものを除外したのは、蒋介石に知れたら如何なる弾圧の手が及ぶかも知れないからである。

 高宗武らの一派は、張群の筋から日本に対して、第一案の達成を運動しているとの説を耳にしているが、それは物になるまいと見ている。即ち蒋のために命乞いは駄目だと見ている。今度初めて最後の会見の時になって打ち明けたところによると、西南各省の軍人に働きかけて、大規模の組織になりつつある。何鍵、龍雲、陳齊棠、張発奎が主なるもので、師長級には相当手広く渡りをつけている。

 日本軍が漢口、長沙を取り西安もやるそうだから、一二回重慶の空襲を試み、恐怖のドン底に陥れた後なら相当成功の見込みがあるだろう。自分(松本君)は近く日本に帰り、このラインに添うた運動を試みるつもりである。」

 松本重治と梅思平は和平条件を協議し、日本軍がバイアス湾奇襲上陸作戦を敢行し広東を陥落させた十月二十一日、高宗武に代わり梅思平が、重慶に赴き上司である周仏海と協議した上で、汪兆銘にこれまでの経緯を報告し、決起を促した。汪は初めて聞く話であり即答を避けたが、漢口が陥落するに及んで、汪の和平心は強化され、梅思平に改めて対日交渉を命じたのであった。

(1)松本重治【上海時代下】三〇六頁。
(2)神尾【香港日記】七十二~七十三頁。
 昭和十三年十一月十八日陸軍省部決定「十三年秋以降戦争指導方針」には「高宗武一派を利用する新官僚及民衆獲得工作を取る」とある。  
 リヒャルト・ゾルゲを逮捕した吉河光貞検事によれば、ゾルゲは検事訊問に対し支那におけるソ連の諜報組織の詳細を隠し通したという。
 松本重治の傘下には中国共産党や尾崎秀実と緊密な関係を有し、尾崎の情報源となっていた共産主義者の中西功(満鉄調査部上海事務所、戦後共産党員)が居た(【現代史資料ゾルゲ事件2】一〇〇頁。三田村【戦争と共産主義】二四七頁。西義顕【悲劇の証人】二〇九~二一〇頁。ゴードンプランゲ【ゾルゲ東京を狙え下】二九九頁)。
 
 もし松本のいう「新官僚」が近衛上奏文(後述)に登場する「新官僚」と同じ意味を持っていたのならば、高らの秘密結社とは上海に複数存在したコミンテルン諜報機関の細胞だったのかもしれない。
 松本蔵次によれば、日支双方に正反対の情報を打電した高宗武の奇怪な行動を知った漢口政府は直ちに彼の逮捕命令を発したという(三田村【戦争と共産主義】一五六~一五七頁)。

 今井武夫【支那事変の回想】六十九頁には、「高宗武がそのまま漢口に帰れば蒋介石の意向に反して無断で渡日した以上、逮捕あるいは監禁されることは必然であった」と記され、【蒋介石秘録12】一八八頁には、高宗武が蒋介石に彼の渡日期間の日記、会談記録、個人の感想を送付し、「ご参考にすれば、あるいは小官の越権の罪の万分の一でもあがなうことができると存じます」と謝罪したと記されている。
(3)神尾【香港日記】八十~八十二頁。


18、第二次近衛声明

 昭和十三年十一月三日、近衛内閣は第二次近衛声明を発表した。この声明は、

 「今や陛下の御稜威に依り帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要域を戡定した。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、尚同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが壊滅を見るまで、帝国は断じて矛を収むることなし。

 帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に存す」

と述べ、「新秩序」とは日満支三国の提携で東亜に国際正義・共同防共・経済結合・新文化の創造を実現することであるとした。更に声明は、

 「帝国が支那に望む所はこの東亜新秩序の任務を分担せんことに在り、帝国は支那国民が能く我が真意を理解し以て帝国の協力に応えんことを期待す。固より国民政府と雖も、従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ新秩序の建設に来り参ずるに於ては敢えて之を拒否するものにあらず。惟うに東亜に於ける新秩序の建設は我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。帝国は必要なる諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、万難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。茲に政府は帝国不動の方針と決意を声明す」

と述べた。近衛首相はこの政府声明を敷衍してラジオを通じて国民に訴え、

 「支那における先憂後楽の士は速やかに支那をして本来の道統に立ち還らしめ、更生支那を率いて、東亜共通の使命遂行の為に決起すべきであります」

と新しい指導者の出現を呼びかけ、第一次近衛声明中にある「帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し之と国交調整して更生新支那の建設に協力せんとす」の具体化を示唆したのである。       

 十一月十二日から十四日にかけて上海の重光堂において、梅思平は今井武夫中佐、西義顕、伊藤芳男と会談し、これまで協議されていた次のような和平条件がまとめられた。

1、日支防共協定の締結と日本軍の防共駐兵。
2、支那は満洲国を承認する。
3、日本は治外法権の撤廃と租界の返還を考慮する。
4、日本の優先権を認める日支経済提携。
5、日本軍は和平克復後に即時撤兵を開始し支那内地の治安恢復と共に二年以内に完全撤兵する。但し「防共駐兵」は協定期間存続。

 これに対して、梅思平は合意に成立に伴う支那側の挙事計画を提示した。

1、汪兆銘は、日本政府の条件承認を知った一両日後、同志とともに重慶を脱出して昆明に向かう。
2、汪の昆明到着後に、日本政府は和平条件を公表する。
3、汪は蒋介石との断絶を声明し、ハノイ経由で香港に出て、東亜新秩序設定の為、和平呼応および反蒋声明を発表する。
4、汪の声明に応じて、雲南軍、四川軍が反蒋独立する。雲南省主席龍雲と四川軍将領とは同志としての盟約がある。
5、汪は、雲南、四川その他の日本軍未占領地域に新政府を組織し、日本は広西、広東から撤兵して両省を新政府の地盤に加える。    


19、脱出

 十五日、今井中佐は帰国し東京の陸相官邸において、以上の内容を陸軍省と参謀本部の幹部に報告したところ、一同は驚き、かつて孫文の後継者と目され、蒋介石の片腕である汪兆銘が反蒋決起し日本と提携するという和平工作に疑念を抱き、今井中佐に「君は支那人に騙されているのではないか」と訝しがった。

 しかし極東ソ連軍の脅威が増しつつある中、陸軍には重慶まで蒋介石を追撃し屈伏させる余力はなく、中央直轄の土肥原機関が行っていた呉佩孚工作―呉を迎え、日本軍の支配下にある北京の臨時政府と南京の維新政府を統一し、新支那政府を樹立する―も頓挫の気配を見せ始めていた為、板垣陸相、多田参謀次長を始め陸軍首脳は協議した上、支那事変解決の希望を託して汪兆銘工作に同意したのである。 

 二十日、今井中佐は、陸軍省軍務課長の影佐禎昭大佐と逓信省参与の犬養健と共に再び上海の重光堂に赴き、高宗武、梅思平と前述の和平条件を盛り込んだ「日華協議記録」を作成、これに調印し、梅思平は早速香港、ハノイを経由して重慶に帰還し、汪兆銘と脱出の段取りについて協議した。

 三十日、我が国の御前会議は日華協議記録の内容に即した「日支新関係調整方針」を決定し、十二月一日、香港に舞い戻った梅思平が我が国政府に対し、

 「汪兆銘は八日に重慶を出発し、成都経由で十日に昆明に到着する。脱出は機密を要するので日本側和平条件発表は汪が安着した後、十二日頃にしてほしい」

との回答を送ってきた。日支両国において汪兆銘工作の準備が整えられたのである。
 斯くして汪兆銘は遂に我が国に対する盟約に従い決起した。予定は狂ったものの、十八日、夫人の陳壁君、秘書の曽仲鳴を伴い、飛行機で重慶を脱出、昆明を経て十九日に仏印のハノイへ到着、二十二日、近衛首相は日支新関係調整方針に基づき、第三次近衛声明を発表した。


20、第三次近衛声明

 「政府は本年両度の声明に於いて明らかにしたる如く、終始一貫、抗日国民政府の徹底的武力掃蕩を期するとともに、支那における同憂具眼の士と携えて、東亜新秩序の建設に向かって邁進せんとするものである。今や支那各地に於ては、更生の勢力澎湃として起り、建設の機運愈々昂まれるを感得せしむるものがある。ここに於て政府は更生新支那との関係を調整すべき根本方針を中外に闡明し、以て帝国の真意徹底を期するものである。日満支三国は東亜新秩序の建設を協同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである。これが為には先ず何よりも旧来の偏狭なる観念を清算して、抗日の愚と満州国に対する拘泥の情とを一擲する事が必要である。即ち日本は支那が進んで満洲国と完全なる国交を修めん事を率直に要望するものである。次に東亜の天地にはコミンテルン勢力の存在を許すべからざるが故に、日本は日独伊防共協定の精神に則り日支防共協定の締結を以て日支国交上喫緊の要件とするものである。而して支那が現在直面する実状に鑑みこの防共の目的に対する充分なる保障を挙げる為には、同協定継続期間中特定地点に日本軍の防共駐屯を認むる事及び内蒙地方を特殊防共地域とすべき事を要求するものである。

 日支経済関係については、日本は何等支那に於て、経済的独占を行わんとするものに非ず。又新しき東亜を理解し、これに即応して行動せんとする、善意の第三国の利益を制限するが如きことを支那に求むるものにも非ず。唯だ飽迄日支の提携と合作とをして実効あらしめんことを期するものである。

 即ち日支平等の原則に立って、支那は帝国臣民に、支那内地に於ける居住営業の自由を容認して、日支両国民の経済的利益を促進し、且つ日支間の歴史的経済関係に鑑み、特に北支及び内蒙地域に於ては、其の資源の開発利用上日本に対し、積極的に便宜を与える事を要求するものである。日本の支那に求むるものの大綱は、以上の如きものである。日本が敢えて大軍を動かせる真意に徹するならば、日本の支那に求めるものが、区々たる領土にあらず、又戦費の賠償に非ざることは明らかである。日本は実に支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要なる最小限度の保証を要求するものである。日本は支那の主権を尊重するは固より、進んで支那の独立完成の為に必要とする治外法権を撤廃し、且つ租界の返還に対して、積極的なる考慮を払うに吝かならざるものである。」

 張鼓峰事件と漢口作戦時における近衛首相の戦争指導の実態は明白に「親ソ拡共」であり、近衛声明は「日本軍の撤兵」に言及せず、近衛文麿の意図が「日支和平」とは正反対の方向に向かっていることを示していたにも拘わらず、汪兆銘は、二十九日、近衛声明に呼応し、重慶の国民政府に「反共、対日和平」を提議する通電を発した。この通電要旨は支那の主権と独立を尊重すると明言している第三次近衛声明を信頼して日支和平交渉に入るべきであると述べ、

 「支那の抗戦の目的は国家の生存と独立にある。正義に合致する平和で戦争を収束できるなら、国家の生存と独立は保持できるのであるから抗戦目的は既に達成されたことになる」

と説き、日中和平の確立を訴えた。だが汪の訴えも空しく、龍雲ら雲南、四川の諸将は動かず、蒋介石は第三次近衛声明に対して、

「近衛は『東亜新秩序は中国が新生したのちの日満支三方面の合作を基礎にする』といっている。だが、彼のいう『中国の新生』とは、独立した中国をほろぼし、それとは別に奴隷的中国をつくって、永遠に日本の支配下におこうというものであり、『新秩序』とはこうした奴隷国家となった中国と日本、および日本がつくったニセ満洲国との緊密なつながりにもとづいてできあがるものなのである。

 いわゆる『東亜協同体』の日満支も、平面関係ではなく立体関係でなければならぬと公言している。すなわち家長制であり、日本を家長とし、満支を子弟とすべきだというのである。言葉をかえれば、前者は統治者であり、主人であり、後者は被統治者であり奴隷である。これが併合でなくて、何であろうか。

 彼のいう『経済集団』は、わが中国の関税と金融を操縦し、わが国全体の生産と貿易を一人占めし、ひとり東亜の覇権をほしいままにしようとするだけではない。さらに歩を進めれば、中国のすべての個人の衣食住と行動を制限し、いささかの自由も与えず、生殺与奪権を思うままにし、中国民族を一人残らず奴隷となし、牛馬となして、鞭打ち搾取して、中国民族を消滅するものとなるであろう。

 いわゆる興亜院(註、十二月十六日設置)は、中国滅亡計画のすべてを執行する最高機関にほかならない。日本がこれまで、中国で悪事を重ねてきた特務機関を集大成する総特務機関が、覆面をはずし、憶面もなく敢然と成立したわけである。

 近衛の声明を総合して断言できることは、日本が真に欲するところは、わが国を丸ごと併呑し、わが民族を根本的に消滅することにあり、いわゆる中日合作とか経済提携などの形式にあるものではない。

 われわれは、かつて日本人が、日韓一体、日韓不可分などの言葉で朝鮮の人民を惑わし、麻痺させたこと(朝鮮併合)を忘れていない。いま彼らはまた『日満支不可分』『東亜協同体』をさかんに唱えている。あっさりいえば、それは『中日合併』であり、『日本大陸帝国』の完成にほかならない。

 現在、彼らの中国滅亡計画と、その道具だてはすべて整い、侵略併呑の意図と手段もあますところなくあらわとなった。あとは、中国がそれにだまされ、その威脅を受けて屈伏し、ワナに引っかかるのを待っているだけなのである」

と激しく反論し(1)、続いて昭和十四年(一九三九)一月一日、国民党は汪兆銘を「是非を転倒して敵の方を持つもの」と非難応酬し、売国奴(漢奸)として汪の党籍を永久に剥奪し、一切の公職からも追放する決議を行った。
 そしてその三日後には、何と汪の交渉相手である近衛内閣が支那事変を放置したまま総辞職してしまい、この余りに酷い近衛の無責任に怒りを通り越して呆れ果てた参謀本部戦争指導班は、

 「支那事変の処理方針は、近衛三原則に非ずして三無原則に陥りつつあり。無定見なるが故に方針は明確安定ならず、無責任なるが故に国策必ずしも実行を伴わず、無反省なるが故に過誤反覆して恬然たり。これ国の禍なり。近衛総理は百万の軍を野に曝して逃亡せり」 

と慨嘆したのであった…(2)。

(1)【蒋介石秘録12】一九九~二〇〇頁。
(2)堀場【支那事変戦争指導史】二四二頁。



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国民のための大東亜戦争正統抄史10~15日支全面和平を打ち砕いた者

【日支全面和平を打ち砕いた者】


10、萱野長知

 犬養毅、頭山満、宮崎滔天等と共に孫文の支那革命に協力し、蒋介石以下国民党首脳部の面々とも極めて親しい間柄であった日本初の本格的中華料理店「陶々亭」主人の萱野長知は(1)、第二次上海事変勃発直後の昭和十二年八月三十日、上海派遣軍司令官の松井石根大将の依嘱を受け、上海に渡り、景林巷アパートに事務所を設けて独自の立場から事変解決の裏面工作を開始した。

 陸大卒業後、心から愛する支那で生涯の大半を過ごした松井大将は、日支両国の闘争は「亜細亜の一家における兄弟げんか」であり、我が国の武力発動は、支那に対する憎悪の発露ではなく、危機に陥った在支邦人および権益を保護する為の真にやむを得ない防衛的方便である、という信念を抱いていた。松井は上海派兵の任に就くに当たり、日支紛争の解決に尽くすことを願い、この派兵が長く日支両国民間相互の怨恨の原因となることなく、却って爾後の親善提携の基礎となることを切望しており(2)、そこで満洲事変の際に犬養毅首相の密使となり事変の収拾に奔走した萱野に再び白羽の矢を立て、日支和平の斡旋仲介を依頼したのであった。この時、萱野の秘書兼協力者として終始行動を共にしたのは、かつて幸徳秋水らの無政府主義思想に共鳴して社会運動に参加した後、宮崎滔天の一門に参加し、殆どその半生を支那問題に捧げて来た松本蔵次であった。

 昭和十三年三月下旬、賈存得(徳)という人物が松本蔵次に連絡をとってきた。松本が上海のカセイホテルで賈と会ったところ、彼は国民政府行政院兼財務部長、孔祥煕の恩人の息子で孔の意を呈して日支和平工作に奔走しており、松本に、

 「このままで行けば日支共倒れとなり、亜細亜全体の不幸を招来する。何とかして全面和平の道を講じなければならない」

と率直に語った。松本蔵次はこの賈存得の意見を萱野に伝え協議した上で、四月二十日、再びカセイホテルで彼と会見した。この時、萱野が出した日本側の和平条件は、満洲国の独立と内蒙における日本の立場の承認(支那側)であり、賈の出した支那側の条件は日本軍の全面的撤兵であったが、日本側が原則的に承認すれば、撤兵の時期と方法等具体的処置に関しては日本側の希望も考慮するという内容であった。そこで現地軍の意向を確認する為、松本と賈は、松井大将が和平工作の相談相手として萱野に紹介していた特務機関の臼田寛三大佐に相談したところ、「漢口政府が真剣に全面和平を考えるならよかろう」と大佐の賛同を得たが、この工作を如何にして具体的に進めるかという問題になると、賈存得は、

 「日本側の言うことは何時でも信用ができないから、責任ある者の書面をくれ」

と要求した。臼田大佐は、中支那派遣軍特務機関長の原田熊吉少将の名を挙げたが、賈に拒否された為、松本が「萱野長知の書面でどうか」と言ったところ、賈は非常に喜んで、

 「萱野先生なら書面でなくても名刺で結構です。政府首脳部で萱野先生を知らぬ者は一人もありません」

と言った。そこで翌日、賈存得と萱野の会見となり、萱野が、孔祥煕宛に二尋余に及ぶ日支全面和平の必要を説いた漢文の手紙を書いて賈存得に託すと、賈は躍り上がって喜び、すぐに香港へ渡り、孔祥煕夫人と合流、夫人の自家用飛行機で漢口へ飛んだ。

 五月末、賈存得は、孔祥煕自身が蒋介石と協議した上でまとめた萱野宛の長文の返書を携え、上海に帰って来た。この孔の手紙は、日支和平条件、今後の日支問題処理に関する詳しい意見を述べたもので、その内容は、

1、日支両国共即時停戦すること。
2、日本は支那の主権を尊重し、撤兵を声明すること。
3、支那は日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的には之を承認するが具体的には日支両国で協議すること。

などであった(3)。

(1)昭和三十五年四月台北で、蒋介石が先頭に立って萱野の十三回忌追悼会を開催した程、二人の関係は親密であった(久保田文次【萱野長知孫文関係資料集】三八七頁)。
(2)冨士信夫【南京大虐殺はこうして作られた】一九七頁「東京裁判松井石根宣誓供述書」
(3)三田村【戦争と共産主義】一五〇~一五二頁。


11、宇垣一成

 一方、支那戦線では、我が陸軍参謀本部が北支那方面軍と中支那派遣軍の合計七個師団を投入し、徐州付近に集結していた李宗仁を最高司令官とする中華民国軍の精鋭五十個師団を南北から包囲殲滅すべく徐州作戦を発動し、五月十九日、我が軍は徐州を占領したが、包囲兵力の不足により北支中支両戦線でしばしば経験した如く又しても殲滅の一歩手前で中国軍の主力を逃してしまい、国民政府の抗日戦力を破砕することはできなかったのである。

 戦争終結への期待を込めて徐州会戦の勝利を祝賀した我が国の国民の間では、動揺と失望が広がり始めた為に、東京では、徐州陥落から一週間後の二十六日、近衛首相が、国民政府との和平交渉打ち切りに加わった広田外相と杉山陸相に辞職を求め、内閣改造を行い、外相に宇垣一成大将、陸相に板垣征四郎中将を起用してみせた。宇垣大将は外相就任の条件として、

1、閣内一致結束を一層強化す。
2、速に対時局の方針を決定す。
3、対支外交の一元化を期す。
4、蒋介石を対手とせず云々に拘泥せず。

を提示しており、宇垣の入閣により、近衛内閣は、とりあえず「蒋介石を対手とせず抹殺する」との対支強硬方針を転換したといえよう。

 六月六日、萱野は、孔祥煕の書面を携え我が国政府軍部と協議する為、上海を発ち、九日東京に着いた。すると陸軍は現地軍からの連絡で萱野が軍の非行でも暴く為に帰ったものと誤解したらしく、萱野老人の行動を警戒し始め、まず参謀本部第八課(謀略)課長の影佐禎昭大佐が萱野を呼び出してどなりつけ、また憲兵隊に呼び出して調べたが、萱野は気にも留めず、政友会の長老小川平吉を訪問し次のように報告した(1)。

 「三月以来国民政府要人と往復を重ねた結果、孔等はいよいよ講和の決心を定めたり、蒋介石は之を下野せしめ第三国を介せずして直接談判を開かんと欲す、講和の上は国民政府は勿論之を解散し北京南京新政府と合して新政府を建設する見込みなりと彼の決意なり、此の旨を日本政府に報告すると共に政府の意向を確かめんと欲す。

 上海中国銀行内に於ける無電台を使用するを得て大に便を得たり、孔の代理賈秘書は今上海に在りて予の帰還を待つ。」

萱野「吾人同志は共に第一革命を援助して民国を建設して失敗に帰したが、今や真の新政府はまさに吾人の手に依って建設せられんとす、共に努力していただきたい。」
小川「察するに蒋の下野云々はたとえ蒋の諒解なくとも、蒋の脈を打診したる上の事であろう。蒋は最早下野の考えをも胸中に秘蔵して時機を待っているのだろう。共産党を駆逐することはどうか。」
萱野「無論である。」
小川「然らばいよいよ蒋の同意又は諒解が必要になる。私は従来蒋を相手として講和してもよいとの意見を持っていた。蒋の力を藉りずして共産党を駆逐することは面倒になる。」
萱野「講和派は漸次勢力を得て団結しているようだ。又彼等は蒋の下野を希望している。」
小川「張群はどうか。」
萱野「張群は未だ代理は寄越していないが、無論同意しているだろう。」

 萱野の報告は希望的観測を含んでいたようだが、小川平吉は萱野の手を握って大いに喜び、日記昭和十三年六月九日欄に次のように記した。

 「萱野長知上京。漢口政府との間に一脈の道路開通せるを覚う。此路従来容易に開かず、政府の手にては勿論小径だも通ぜざりしなり。予は萱野の功小ならざるを賛嘆し、漢口移転以前に講和の申込をなさしめんと欲す。しかし之は中々容易ならざるべし。何となれば我が天兵攻略の神速なると、敵の退却頗る敏捷なればなり。然れども講和の端緒一たび開かるるに於ては、彼れ蒋はたとえ昆明に移るとも、継続進行することを得べし。何れにするも講和の端緒を得たるは萱野の功なり。政府が初めて国民政府内講和派の決心を知りしも又萱野氏の功なりというべし。」

 十日午後、小川平吉は外務省に宇垣外相を訪ね、萱野上京の事を告げたところ、宇垣外相は萱野の報告を怪しまず、

 「極秘なれども張群は私の就任に際して電報を寄せ、私が兼ねて同人が外交部長就任の際同人に寄せた、日支共同して白人に当たり共に提携親善して東洋の平和を確保すべき旨の電報を繰り返して、今や閣下の外相就任に当たり此の点に努力を乞うとの旨を縷陳して来た」

と打ち明けた。小川は、

 「その電信は即ち講和を希望すとの陳述する電信である。時期はすでに熟す。萱野の談によれば蒋を下野させるといえども、蒋を相手とすることも可能ではないか」

と答え、宇垣外相の同意を得た。その日の夜、萱野は、小川の紹介により近衛首相と面談し日支和平の必要性を語り、翌日、宇垣外相と会談した。宇垣外相は萱野の報告を大いに喜び、蒋を飽くまで排斥するには及ばない旨を語り、萱野が上海に帰還した上で、萱野自身の考えに沿って国民政府に対する態度、講和内容に関して彼等と種々協議し、いよいよの時は電報にて東京に照会することを決定したのであった(2)。

(1)【小川平吉関係文書1】三八四~三八五頁。
(2)【小川平吉関係文書1】三八五~三八七頁。


12、和平交渉成立

 そこで十七日、萱野は小川平吉と暗号協定や蒋下野後は日本政府をして将来十分に彼を援護せしむべきことを打ち合わせ、東京を出発、上海到着と同時に賈存得に連絡した。だが中国共産党が八・一抗日救国宣言を発表した昭和十年(一九三五)八月以降、上海は抗日運動の策源地となっており、親日派要人へのテロが相次いだ為、賈との会見には十分な警戒が必要であり、萱野はやむを得ず二、三日空費したところ、同盟通信上海支局長の松本重治と遭遇したのである。

 松本重治は近衛と親しく、三月下旬より香港を拠点として、西義顕(満鉄南京事務所所長)、伊藤芳男(満鉄嘱託)と共に、国民政府外交部亜州司長の高宗武、董道寧(亜州司長日本科長)と日支和平について協議しており、彼等は、我が国の影佐大佐と参謀本部支那班長の今井武夫中佐に連絡していた。

 当時、日中和平交渉は複数の路線で試みられており、松本重治もその一人であることをかねて聞いていた萱野は、賈存得との会見を待っている間に、松本から香港方面の事情を聞き、また彼に賈との交渉経過をありのままに話してしまったのである(1)。

 萱野は賈存得と会見し、国民政府の解消、共産党の分離、蒋介石の下野など日本側の和平条件を漢口の国民政府に伝えたが、これに対し国民政府からは、蒋の下野は無理なので孔祥煕の辞職ではどうか、との回答があった(2)。

 そこで七月五日、萱野、松本蔵次、賈存得それに和知鷹二大佐を加えた一行四人は、和平交渉の進展を図る為、フランス郵船で上海を発ち香港に向かい、賈存得と同じく孔祥煕の密命を帯びた喬輔三(孔の秘書)と和平交渉を進めていた中村豊一香港総領事の出迎えを受け東京ホテルに入り、国民政府との交渉を再開した。

 二十一日、居正(国民政府考試院長)夫人、馬伯援等が孔祥煕の代理として香港の宿舎に萱野を訪ねて来た。萱野はこの居正の娘を「華恵」と名付け養女として育て上げた親戚の間柄で、両者の間には日本と支那の区別はなかった。一人は生みの親、一人は育ての親、この二人が日中両国を代表して日中和平交渉を行い見事にまとめたのである。その要領は、

1、日支両国から代表者を出して、即時全面和平の取り決めを行うこと。
2、支那側の代表は主席孔祥煕行政院長、副主席居正、何応欽、李宗仁、他に戴天仇又は張群の五名とする。
3、日本側は近衛首相又は宇垣外相を主席とし、陸、海軍の代表を加えて構成する。
4、場所は香港港外、日本側軍艦を用いて洋上会見とする。
5、日支両国代表によって行う取り決め内容は、日支双方とも即時停戦命令を発することに署名すること。
6、停戦後の条件は、両国の間で具体的に協議すること。

などであった。居正夫人は萱野に、

 「萱野さん、これでいいでしょう。戦争をやめてしまえば後はどうにでもなります。日本側から言えば、国民政府の代表としてこの五人を日本の軍艦に乗せて談判するんじゃありませんか。捕虜にしたも同然でしょう。これで日本側の面目が立つでしょうし、中国側もこれだけの政府首脳部五人が頭をそろえて日本側の軍艦に乗り込み、日本に停戦を承認させたということだけで面目が立ち、あとは何とかおさまります」

と述べた(3)。萱野は小川平吉に、

 「予定を早め二十二日香港発帰朝ある。かねての問題に付き漢口方面と打合中のところ、支那国内の情勢は蒋の下野を許さず。蒋本人は一刻も早く止めたいのだが、周囲の状況がどうしても許さない。混乱を恐れて後を引受けるものがない。此点さえ緩和し得れば他の条件は問題なしとの確信ついたし、此上は上京して頭山翁の力によって日本側の再考を促すのみだ。これさえ出来れば時局は急転直下解決に向かうものと信ず。出先官憲とも協議した。中村総領事も急に同船で帰朝することとなった」

と打電し(4)、松本蔵次と中村豊一香港総領事と共にエンプレス・ジャパン号で香港を発ち、二十七日、東京に到着した。
 中村総領事は、六月二十三日から七月十九日まで六回に亘って喬輔三と会談し、喬から国民政府が希望する対日和平条件として、漢口陥落前に和平合意を実現し休戦協定を成立させること、蒋下野は困難なので代わりに孔祥煕が全責任を負って辞職することの他、

1、反日行為の停止。
2、日満華条約締結による満洲国の間接承認(ただし満洲国は自発的に「満洲自由国」となることが望ましい)。
3、内蒙古自治の容認。
4、華北の特殊地域化は困難(中国全体での平等互恵の経済開発は認める)。
5、非武装地帯の問題は日本の具体的要求をまって解決する(非武装地帯には日本側も駐兵しないことを希望する)。
6、共産党との関係清算(防共協定加入あるいは特別協定締結は未定)。
7、賠償支払の能力なし。

など七項目を伝えられていた(5)。
 萱野は直ちに小川平吉を訪ね、居正夫人等との交渉結果を報告するとともに、

 「漢口の実状は共産党の勢力七分という形勢なり、蒋の下野は本人も希望なれども下野すれば混乱して収拾し難き故あと引受人なし、たとえ協議してやるも講和条約を実行することも不能なり。共産党の細胞組織は広く行き渡れり。日本の捕虜も赤化して放送などせり。日本の対支占領は点、線、遍の中、点線丈けなり。漢口陥落せば、赤の蔓延、手の下しようなくなるべし」

と支那事変の拡大長期化が中国共産党の勢力拡大を助長していることを指摘し、改めて早期講和の必要性を論じ(6)、宇垣外相、板垣陸相に会って日本側の態度決定を要求した。

(1)三田村【戦争と共産主義】一五三頁。
(2)【小川平吉関係文書2】五九二頁。
(3)【小川平吉関係文書1】三九二頁。三田村【戦争と共産主義】一五四~一五五頁。
(4)【小川平吉関係文書2】五九三頁。
(5)神尾茂【香港日記】昭和十三年九月五日の条。戸部【ピースフィーラー】二一四~二一五頁、勝田龍夫【重臣たちの昭和史下】七十頁。
(6)【小川平吉関係文書1】三九二頁。


13、高宗武の来日

 ところが宇垣外相は、萱野に「暫く待機する」ことを要請した。板垣陸相は、

 「支那側に全然戦意なし、このままで押せば漢口陥落と同時に国民政府は手を挙げる。日本側から停戦の声明を出したり、撤兵を約束する必要はない」

と述べた。萱野は、

 「それはとんでもない話である。国民政府には七段構えの長期抗戦の用意ができている。支那側に戦意なし、無条件で手を挙げるなどの情報は一体どこから出てきたのだ」

と開き直ったところ、板垣陸相は、

 「実は君の留守中に松本重治が国民政府の高宗武を連れて来た。これは高宗武から直接聞いた意見で、支那側には全然戦意がなくなった。無条件和平論が高まっており、無条件和平の中心人物は、元老汪兆銘だという話をして行った。軍の幕僚連もこの情報を信じているから、君の取り決めた話は、折角だがとりあげることは出来ない」

と聞く耳を持たなかった。この板垣の意見に憤慨し且つ失望した萱野は、早速近衛首相に会って談判したところ、近衛も板垣と同様、松本重治と高宗武の情報を信用し、また軍の態度がそうなった以上仕方がないと言い出し、近衛、宇垣両相の背信に衝撃を受けた萱野は、心労から軽い脳溢血を起こし倒れてしまった。

 ちょうどその頃、松本蔵次は大川周明、白川敏夫、後藤隆之助など近衛や陸軍と連絡ある連中に会って話をしてみたが、いずれも板垣、近衛と同様の意見で固まっており、我が国政府および陸軍の対支強硬方針を覆すことはできなかった(1)。
 昭和十三年七月七日、近衛首相は支那事変一周年にあたって、

 「国民政府を対手にしないのは国民政府が容共抗日政策を採っているからである、従って国民政府が共産党と手を切り共産党分子を排除し、また抗日政策を放棄するならば、国民政府は容共抗日の国民政府でなくなるのだからこれを対手とすることも考えられるわけである。これは国民政府を対手とせずと云うことを理論的に見た場合である。然し実際は国民政府の中心となっているのは蒋介石である。容共抗日政策を追求している蒋介石が中心となって動いている国民政府を対手として安んじて和平の話を進めるわけに行かぬ、これが『国民政府を対手とせず』ということを実際的に見た場合である。且つ仮に蒋介石が下野して日本と真に提携する誠意を持った他の有力な人物が国民政府内に立って、日本との講和を希望した場合があるとしてもその場合蒋介石無き国民政府はこれを支那の中央政府として取扱うことは出来ぬ、事実上現に北支には臨時政府があり中支には維新政府があるからこれに国民政府が合流して支那に新しい中央政府が出来た場合にはその中央政府を対手とすることは考えられる、要するに実際問題として今後いかなる事態が起って来ても国民政府を対手とすることはあり得ない」

と国民政府を対手としない所信を再度表明し、八日、我が国の五相会議(首相、蔵相、外相、陸相、海相)は、我が軍の漢口作戦によって国民政府が屈伏して来る場合は、蒋介石の下野、抗日容共政策の放棄および親日満防共政策の採用等の条件を受諾させ、国民政府と我が軍の占領下に誕生した三つの親日政権(蒙彊連合委員会、中華民国臨時政府、中華民国維新政府)を合同して新中央政権を樹立し、国民政府が屈伏して来ない場合には、支那の大勢を制する要衝の占領を図り政治経済外交思想に亘る謀略を強化し、抗日勢力内部の切り崩しを行い、国民政府の分裂崩壊、地方政権への転落を期すと共に、親日諸政権を拡大強化し、新中央政権を樹立すると決定していたのである。

 さらに五相会議は、参謀本部がまとめた第二期謀略計画(現地軍が支那の軍閥を懐柔帰服させる「獣」工作、中央直轄機関が支那の一流人物を味方につける「鳥」工作、六月十七日決定)に基づき、第十四師団長から参謀本部付に転出した土肥原賢二中将を工作責任者に任命し、二十二日、土肥原機関が設置され、新中央政権の首班として、唐紹儀(国民党の元老)、靳雲鵬(山東軍閥の統領)、呉佩孚(直隷派の総帥)を引き出す謀略工作を開始した。近衛首相は宇垣大将の入閣条件の一つ「蒋介石を対手とせず云々に拘泥せず」を反故にしてしまい、近衛内閣は国民政府(蒋介石)を相手にしない方針に戻ってしまったのである。

 萱野長知は香港、上海に待機中の中国側代表から和平交渉の経過を談判すべきことを要請されたものの、返答に苦しみ、そこで松本蔵次が萱野を東京に残したまま先発し、八月初め長崎から上海に行き、賈存得に会って板垣、近衛の意見を率直に話し、東京の空気が一変したことを伝えた。賈は非常に驚いて、直ちに上海中国銀行六階に設けられていた秘密連絡所から、漢口の国民政府に電報でこの旨を連絡した。すると国民政府からすぐ返電して来たが、それによって驚くべき事実が判明した。高宗武が東京から漢口に、日本側に戦意なし、支那側が飽くまで抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵するという秘密電報を送っていたのである。つまり高宗武は日支両国政府に全く正反対の情報を送ってせっかく実現寸前まで漕ぎ着けた和平交渉を打ち壊してしまったのである。

 萱野は、先発した上海の松本蔵次に宛てた八月二十九日付けの手紙の中で、

 「天運来らず、近衛、宇垣両相の決断出来ず遂に今日に及び申候。その理由小生東上と同時頃に武漢政府の外交部司長の職に在りたる高宗武という者軍部関係者より運動して来京、蒋介石下野を、汪兆銘、張群其他二、三十名の共同一致を以て余儀なくせしめる方法ありと申出ありたるを以て、小生等の提案よりは至便なるものなる故此の方に賛成して、我等の提案を後廻しにしたるものの如し。

 又一方土肥原将軍関係者は唐紹儀を表面に推し立てて蒋政府を圧し潰ぶす計画を着手しつつあれば、何れにしても我等の案よりは日本に取りて有利なるものと見做され、荏苒遂に今日と相成候次第也」

と述べ無念を滲ませた(2)。

 しかし萱野は、日中両国民の和平希望に応える為、なお全面和平の実現を諦めることなく病身老躯を押して政府軍部と折衝を進め、信州に出張中の小川平吉に書簡を送った。萱野の書簡が小川に伝えた中華民国の内情は、蒋介石が唐紹儀を相手にせず、日本政府はすでに何の権威も実力もない年老いた政治家の唐を本気で漢口新政府に推すのかと疑問視しており、また漢口の国民政府が、

 「日本は支那側に防共を声明せよとの事なれども、張鼓峰事件発生の日、我(支那)と休戦を実行しソ連に全力対決せず、却てソ連と協定停戦す、而して尚我と防共を再談せんとするは寧ろ人を欺く詞に非ずや、日本側は、有心者は既に無権主張、有権者は又不明利害、何必妄費唇舌…云々」

と憤慨し、国民政府の容共抗日政策を非難しながら、日本に反共親日政策の採用を条件とする講和を申し込んだ国民政府を攻撃し続ける一方で、中国共産党を始め世界中の共産主義者を操るソ連とは早々に停戦協定を結んで反ソ戦に集中しない近衛内閣の矛盾した戦争政策に対して、不信感を募らせているということであった。この書簡の中で萱野は、

 「想うに此の儘にて絶縁せば将来彼等を招撫するに困難と存候。故に小生は近々出動して最善の方法を研究致置き度候。

 将来国民政府員全体を窮地に陥れしむると我方の味方と為すことは何百億の巨額にも代え難き重大問題と存候。

 漢口攻略後際限なき長期抗戦に入りソ連は勿論世界的重大問題と為りては国家の為め寒心措く能わざるもの有之候。此際大乗的見地を以て小嫌を超越し電光影裏に春風を斬るの英断を要することと存候。頭山翁とも相談して何んとか応急の処置を致度候」

と我が国が国家存亡の危機を迎え政府が和平を英断すべき時機は日一日と切迫しつつある旨を訴え、小川に速やかなる帰京を要請したのであった(3)。

(1)【小川平吉関係文書1】三九三頁。三田村【戦争と共産主義】一五五~一五六頁。
(2)三田村【戦争と共産主義】一五六~一五七頁。戸部【ピースフィーラー】二二四、二二九頁。
 松本重治に説得され来日した高宗武を板垣陸相に面会させた軍人は、影佐禎昭と今井武夫である。高の来日時には諸説あるが、石射猪太郎は日記昭和十三年七月一日欄に「陸軍は高宗武を香港から連れて来た相だ。陸相は帰京車中で、蒋在職中は講和なし、と語る。影佐の作なるべしとの説に一致す」と書いている。
(3)【小川平吉関係文書2】五九四~五九五頁「昭和十三年八月二十五日小川平吉宛萱野長知書簡」


14、萱野再び上海へ

 八月二十九日に帰京した小川平吉は、九月三日、宇垣外相を訪ね、

 「蒋は共産党と絶ち講和を為したる以上国民に対して責を引き下野するが大英雄を全うするの途なり、必ず喜んで下野すべし。漢口陥落抗敵継続せば支那内地の平和恢復は容易ならず、第一新政権は兵隊一人を有し居るものなし。軍閥はみな彼に走れり、彼等は兵隊より地方人民に連絡あり、これが抗日に従事するが上に一般人民の空気が抗日を通念とする以上彼等の操る糸に乗りて踊ることは当分絶えざるべし。蒋をして共産を絶ち戦局を収拾せしめて而る後下野せしむるは古来講和の条件として通例のことなり。一般国民は漢口陥落にて講和成ると確信し居る状況にて、この希望に合する為には陥落前に工作の必要あり」

と述べ、まず蒋介石を相手として講和を図るよう宇垣外相を激励し、国民政府と和平交渉を進める為に、萱野を再び上海に出発させた(1)。次いで張鼓峰事件に遭遇し対ソ戦の準備を焦る多田駿参謀次長が宇垣外相を訪ね、

 「一日も早く時局を片付けて貰いたし、蒋相手にても差支えなし、北京と南京の両政権の始末は考えてもらいたい」

と依頼してきた(宇垣日記昭和十三年九月三日の条)。ここに至り宇垣外相が呼んだ外務官僚は、かねてより新中央政権樹立論に反対し、外務省の焼打を覚悟して第一次近衛声明を突破し、漢口攻略までに国民政府を相手として和平交渉を開始すべきことを主張していた石射猪太郎東亜局長であった。宇垣外相は石射に向かい、

 「事変の収局に付ては君の提案の如く蒋介石相手の和平より外なかるべしと思う、自分も大臣就任のとき近衛首相に対し一月十六日の声明は場合により乗り切ることとの了解を得ているのだ、只急に蒋相手の和平を提案しては騒がれるばかりだから潮時を見て居たのだが最近の状勢から見て最早その工作に取掛って然るべき時と思う、出来るならば漢口攻略前に蒋と話を付けたしと考える」

と万難を排して日中和平を実現する決意を語り、香港に帰任した中村総領事に宛てて、

 「日本国内の情勢は、和平後、蒋が支那国民に対し自発的に下野するならば蒋を相手に和平するも可なり、との空気が濃厚となりつつある旨を喬に告げ孔との話を繋ぎ、再び先方の意向を打診せよ」

という内容を持つ新しい訓令の起草を、石射局長に命じたのであった(2)。すると「国家の為に大事を為さん」と勇躍上海に赴いた萱野が、八日、

 「孔祥煕、蒋介石、居正ら反共を内約する事に、停戦を申し出る事出来るとせば、日本政府はこれに応ずる事出来るか、念のため確かめ、返。」

と小川平吉に打電してきた(3)。

 小川と協議した宇垣外相は、反共と和平後の蒋下野を確約することが必要であり、停戦には出先軍が面倒な条件を提出するおそれがある為、孔と宇垣が直接談判に乗り出した方がよい、会談場所は長崎(雲仙)という趣旨の返電を送ったところ、萱野は十三日、小川平吉に宛てて書簡を送った。その中で萱野は、長崎への直行便がなく、国民政府代表が香港上海等で船を乗り換え長崎に赴くと、大変危険であるばかりか、交渉内容が新聞記者に漏洩して公になるおそれがあると指摘し、萱野が先にまとめた和平交渉条件に盛り込まれた日本側軍艦を用いる洋上会談の開催を提案した。さらに萱野は、

 「事前に蒋介石の下野を反共、和平後に決行すると云うことを表示せしむることは面子を気にする彼等としては頗る困難に候。反共、和平成立後は下野は必然のことなれど内約又は表示の形式を現わす事は非常に苦痛の様子にて、事後に於て自発的に決行することは孔祥煕等一同が責任を帯びて保証する処に候。孔祥煕等が出張することは命懸けの重大決心を要する次第にて、孔祥煕等が出張と同時に漢口方面にては重大事件を惹起するやも知れず。即ち出張は分水嶺の危機と存候。想うに脱出後の彼等は若し不成立に了れば生還覚束なきものと推察され候」

と日本側が国民政府要人の身になって考えれば大いに憂慮同情すべき彼等の苦しい立場を説明し、この際形式的面子をかなぐり棄て寛大なる講和条件を提示して日支和平を実現させることを宇垣外相に要望した。そして「日本側の至誠の表示に於て万事氷解する」と確信する萱野は、支那側要人と相談して交渉を進めるべく、イタリア郵船に乗り、再び香港の東京ホテルへ向かったのであった(4)。

 そして香港では、九月八日、孔祥煕の秘書である喬輔三が、朝日新聞主筆の緒方竹虎によって香港に派遣されていた神尾茂(朝日新聞社編集局顧問)と会談した。神尾茂は萱野や中村総領事と連絡しながら、蒋介石の信用篤い漢口大公報のジャーナリスト張季鸞と和平交渉を進めており、神尾は東京を出発する前に(昭和十三年七月一日香港到着)知友の多田駿参謀次長と面会していた。多田参謀次長は、

 「戦争は戦争で何処までもやるが、これと同時に挙国一致それぞれ手分けして各々の分に従って戦争目的の達成を図らねばならぬ、政戦両略の並行を期して居る際だから、新聞人として大いにやってもらいたい」

と神尾を激励し、多田声明が陸軍最高首脳部の精神であることを説明して次の伝言を神尾に託した(5)。

一、日本の出兵は支那を征服するためではない。支那と提携してやって行きたいのが本心だ。

二、日本としては支那と戦って見て、支那軍の強味も十分わかったし、支那民族の抵抗力が益々強化されつつあることもわかった。実際満洲の如き辺境を自由に料理したようには行かないことがよくわかって来た。従って相互にその長所を諒解して、互いに尊重し合うことも出来る。最早この辺で講和の時期とすべきではないか。

三、日本は蒋介石を相手にせずと言うけれども、それは抗日政策を継続する間のこと、従来の政策を一変すれば、日本としては蒋介石と雖も排斥すべき理由はないのである。併し当面の責任者であるから一度は下野するのが当然と考える。適当な時に復活は差支えないばかりでなく、或意味では望ましくもある。

四、新政権については、支那の実情に照らして、いくつか地方に分割統治するを適当と考える。所謂分治合作の方式により臨時、維新、抗日をやめた国民政府の後身等が、合作して行けばよいと思う。

五、支那の有力者に会った時に、右の日本の精神の在るところを、説明して貰いたい。

 神尾茂の和平工作は、何としても第一次近衛声明を乗り越えて日中講和に辿り着こうとする我が陸軍参謀本部の和平努力でもあった。喬輔三は神尾に、

 「孔祥煕の試みつつあった日支和解の運動は、日本が下野を固執しているので不成立、一切打切りになったことを明言したが、何れはまた談判再開となり、その中には何とかなるものと信ずる」

と語った。神尾がこの問題に関し抱懐している意見を述べようとすると、喬は今までになく極めて明快に次のごとく語り、萱野長知の主張と同じく日本側に対支認識の転換を求めたのであった(5)。

 「長期戦となれば日本も支那と共倒れになる。長期戦の結果、共産党の勢力は必ず増大する。現に年少気鋭の青年学生は争って第八路軍に投じ、共産軍の手先となりつつある。学生達は学校を潰されて奥地へ逐い込まれ、何の希望もなく学業を廃せざるを得なくなり、遂に自暴自棄抗日の一途を辿る有様だ。

 更に長期戦となれば日本軍の向かうところ敵なく、支那の内地は悉く蹂躙されるだろう。農民は四散して流民となり、潰滅した軍隊はゲリラと化して、何れも皆共産党繁栄の温床となるだろう。独り支那ばかりではない。今度二三年に亘る長期戦に於いて、日本の出征軍隊の間に不穏の空気が発生しないと誰が保障出来ようか。結局長期戦の結果は支那も日本も左傾して、共産党の天下となるかも知れぬ。これだけでも長期戦は互いに避けねばならない第一の理由となすに足るだろう。

 第二の理由として、更にもっと寒心すべきことがある。それは長期戦のため支那は無茶苦茶に破壊され、日本も疲労困憊その極に達し、欧米諸国のために勝手にこねくり廻されることになろう。これ実に黄色人種の最大の危機ではないか。この二つの理由によって、戦争は速やかに結末にしなければならないと思う。

 それには先ず両当局者が、この動かすべからざる情勢について認識を深めることである。自分の考えるところでは、孔祥煕院長は勿論のこと、蒋介石も今はよく徹底した見透しを持っている。遺憾なことには日本の当局者は、支那の情勢について認識が足りないように思う。この点を日本に於いて更に考慮して貰いたい。」

(1)【小川平吉関係文書1】四〇〇~四〇一頁。
(2)戸部【ピースフィーラー】二四〇頁。
(3)【小川平吉関係文書2】五九五頁。
(4)【小川平吉関係文書2】五九七~五九八頁。
(5)神尾茂【香港日記】三十五、七十九、八十六~八十七頁。


15、単独辞職

 ところがである。あたかも萱野や宇垣外相の和平工作を妨害する如く、尾崎秀実が大陸昭和十三年九月号「漢口攻略の意義」において、

 「日本の武漢攻略の目的は、国民政府の政治軍事上の重要拠点を撃破することの重要性は無論のことであるが、寧ろ、その結果、蒋政権が地方政権に転落して奥地に移転することからして生じる二つの大きな事実に期待しているということが出来るであろう。第一は、所謂赤色ルートを中断し、共産党と国民党との地盤を分離せしめることによって国共両党の分裂に導かんとすること、第二には、全く転落し偏在する国民政府に対する列国の期待を棄てしめ列強をして国民政府援助から手を引かしめんとすることにあるのである。

 武漢喪失は共産党にとって何よりも打撃であり、また支那を共産党の側から援助しつつあるソ連にとっても少なからざる打撃を受けることとなるであろう」

と公言し、萱野の観察および喬輔三の警告とは正反対に漢口攻略の防共価値を説いて(1)、大衆を欺瞞、煽動し(小川平吉日記昭和十三年九月十五日の記述によると、聖戦貫徹同盟が五万人の署名を集め、近衛に圧力をかけたという)、続いて記者の何者かが、

 「宇垣外相が先月二十八日葉山の別荘にて記者会合の席上オフ・レコの談話として一月の蒋を相手とせずとの声明を罵り、又板垣の強硬談を攻撃し末次を誹謗し国民政府との和平を説いた」

との宇垣外相の失言を捏造して陸軍に内報し、板垣、末次両相を激怒させ、宇垣に対する不信感を閣内に醸成し、さらに十六日朝日新聞朝刊は、近衛首相が元老の西園寺公望を訪問した帰途に新聞記者に語った、

 「漢口攻略戦は順調に進展しているが漢口の陥落で事態の結末がつくかどうかは疑問だ、我方としては飽迄容共抗日を標榜する蒋政権の徹底的壊滅に邁進するのみだ。漢口攻略前後には色々と重大な動きや問題も生ずると思われるので帝国政府の態度を闡明する声明を発するつもりで目下声明の案及び其の時期に付て研究を進めているが、結局蒋政権が一地方政権に堕したという烙印を押すということになるであろう」

という談話を報道し、日中和平の実現に向きつつあった我が国の空気を打ち砕いてしまい、宇垣外相を愕然とさせたのである。

 宇垣外相は、九月二十一日、萱野の書簡を小川平吉から受け取り、二十三日、五相会議に提出、一同の賛同を得、さらにこの内容を昭和天皇に内奏し、その御内諾を得た。小川平吉は、

 「国民政府と交渉開始、五相会議賛成!!!軍艦会見云々の件、五相会議いよいよ賛成せるは真に一大快事なり。ただ先方が果して実行し得るや一縷の懸念あり。しかし彼れ躊躇するとも必ず彼をして実行せしむるは吾人の天職なり。至誠は神に通ず、況や彼等中心の希望が和平に在りて存するに於てをや」

と昨年来の積憂が解消していくことに大きな安堵を覚え、胸をなで下ろしたのであった(2)。
 だが「蒋介石を対手とせず云々に拘泥せず」という入閣条件を承認しながら、これを無視して公然と対支強硬論を唱え、更に影佐禎昭大佐等によって推進された、外務省から権限を奪う興亜院の設置を容認する近衛首相に対して、失望を隠せなくなった宇垣外相は、

 「世界環視の下において、今日特殊な機関を作って支那を植民地扱いするような事は、全く馬鹿げた話で、列強の思惑もあり、支那の感情を悪くするばかりでなく、事務的に見ても国の外交を多元的にするもので、絶対に不賛成である。私は支那問題を解決するという事を主要な使命として入閣して来たのに、あなたが自分の手から支那問題を取上げるならば、私に出て行けというのと同じではないか」

と近衛首相を難詰して(3)、三十日、単独辞職し、宇垣・孔祥煕工作は惜しいことに自然消滅してしまった。翌日、小川平吉は宇垣大将を国立に訪ね午餐の饗を享けた。辞職の理由を聞かれた宇垣は、

 「辞職は二ヶ月程以前より思い立っていたが、このまま廣日弥久して機を失せば相互に迷惑になると考え、対支機関問題を機として辞職を決意した。脅迫などはなかった」

と語り、講和問題については「香港の中村は蒋の下野を求めて不調となったようだ」と述べた。小川は、宇垣の辞任は無論対軍部関係の不円滑並びに失言問題の感情齟齬などによって促され、軍部少壮連の反対挙動もまた宇垣の感情を害したる結果、と推察したが、ともかく中村総領事の和平交渉が失敗した以上、今後は萱野長知の方面を進行すべきでありお互いに国家の為に努力すべきであることを提言し、宇垣の応諾を得た。

 十月二日夜、小川平吉は九月二十四日発の萱野の書簡を接収した。その内容は、漢口共産化の状況、日支双方とも高宗武の如き和平の安売りが出て困ること、そして萱野が中村交渉決裂に付き馬を漢口、重慶に遣わし蒋、孔等と和平を談じ、また香港にいる蒋、李、白の手の要人に対しても秘密に連絡し第二の策を講じていること等を報告するものであった。

 小川は和平工作継続の為にこれを近衛首相に送付したが (4)、一方の宇垣大将は近衛に対する憤懣を収められず、日記(昭和十三年十月三、四日)に次のように記した。

 「十月三日外拓相の事務を近衛公に引継いで全く重荷を卸したり。新外相就任当初の記者団との会談に於て蒋の下野を強調して居る様である。夫れが彼の真意であるか、或一派に迎合の為の弁であるか、或は一派より云わせられたる談であるか?? 恐らく第二、第三の辺の処ではないか、夫れとも公卿流の東西南北何れにも調子を合して居る手に余が乗ぜられて居るのではないか、と思われる。

 御公卿様を擁して平家と同様に壇の浦まで行かねばなるまい! 仕方なく国民もその御伴を為さねばなるまい。しかしながら皇国は由来神護あり、決して衰亡の極に陥ることはないと自信する。只当面の国民は気の毒苦労なれども夫れは我慢して貰わねばならぬ!!!」

(1)【尾崎秀実著作集2】一二一頁。
(2)【小川平吉関係文書1】四一一~四一二頁。
(3)額田坦【秘録宇垣一成】二一二頁。
(4)【小川平吉関係文書1】四一三~四一四頁。



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国民のための大東亜戦争正統抄史1~9南京陥落

「戦争の天才」と「謀略の天才」の戦い 国民のための大東亜戦争正統抄史1928-56 東亜連盟戦史研究所所長 龍井榮侍(たついえいじ)

【はじめに】

 一九九一年、ソ連が崩壊し、マルクス・レーニン主義の破綻が誰の目にも明白になった。しかし我が日本の革新(共産主義)勢力は決して退潮しておらず、市民、環境、人権、そして平和の衣をまとい、我が国の過去糾弾による反体制反国家反国体運動に狂奔し、むしろ勢いを増している。このままでは、彼等の目論見通り、二十一世紀の前半に我が国は溶解してしまうだろう。

 「くに」を表記する正漢字は國である。國とは城砦(とりで)を意味する。囗(かこい)は城壁に囲まれた領土を示し、口(くち)は領土に居る人の集落を意味し、戈(ほこ)は領土と人を防衛する軍隊を表す。

 国家とは、政府もしくは権力それのみではなく「領域と、これに存在する自然と過去現在未来の人々、領域と人を防衛する軍隊、そしてそれらが長い時間をかけて築き上げる文化伝統繁栄名誉によって構成される城塞」なのである。然るに国家の再興を図るべき保守政治家の彼等に対する抵抗力たるや真に弱々しい。森喜朗首相は、 「日本は天皇陛下を中心とする神の国」という我が国の伝統に基づく正論を述べたにも拘わらず、我が国の革新勢力の言論暴力に屈し弁解に終始するという醜態を晒した。保守をを自称する政治家は、革新勢力が推進する戦後民主主義狂育に洗脳され、大東亜戦争史を全く知らず、彼等の虚偽を見抜いて反論することを為し得ないのである。

 万物は生成発展し、発育の終局に至って死滅する。革新勢力が半世紀以上に亘り営々と積み重ねてきた虚偽の巨塔は、国民によって真実の鉄槌を下されるならば、たちまち倒壊して彼らを押し潰し、却って我が国再興の基礎となるであろう。

 故に筆者は、座して亡国を見るに忍びず、若輩浅学を省みず、国民が一読して大東亜戦争の真実と我が国の敗因とを把握し得る、第一次史料に依拠する正統史を敢えて執筆した。

 筆者の願いは、石原莞爾が予言したように、国民が尾崎秀実の後継者である革新勢力の呪縛から解放されて真実に目覚め、太陽の出づる極東に存在するが故に、日本という王朝名と太陽の女神である天照大神を皇祖神とする神話を持ち、天に輝く太陽を意味する日の丸を国旗として掲げ、天照大神の御子孫たる天皇陛下を国家元首として戴く我が国が永続することである(二〇〇三年三月記す)。


第一章、支 那 事 変 抄 史


【南京陥落】


1、トラウトマン工作

 昭和十二年(一九三七)十二月十三日、支那事変が勃発してから五ヶ月後、支那(中華民国)の首都南京は、我が日本軍の総攻撃を受け、遂に陥落した。第二次上海事変(同年八月十三日勃発)から南京占領まで、我が中支那方面軍(上海派遣軍と第十軍)が被った損害は、戦死者二万一千三百人、負傷者五万余人に及んだ。

 我が大本営が中支那方面軍に南京攻略を命じた翌日の十二月二日、中華民国総統の蒋介石は、ドイツ駐支大使トラウトマンと会見、日本を勝者とみなさず、十一月二日に日本政府がドイツ駐日大使ディルクセンからドイツ政府を通じて国民政府に提示した次の対支和平条件(十一月ベルギーで行われたブリュッセル国際会議に期待をかけていた蒋は之を一旦拒絶)

1、内蒙古の準独立。
2、北支の非武装地帯を平津鉄路以南にまで拡大する。和平成立の場合、北支の行政権はすべて中央政府に属するが、日本は行政長官には親日的人物を希望する。
3、上海停戦区域をさらに拡大し、国際警察によって管理する。
4、支那は排日抗日を停止する。
5、支那は日本製品に対する関税を低減する。
6、支那は外国人の在支権利を尊重する。
7、日支防共協定の締結。

が変更されないことを確認した後、ドイツを仲介として日本と講和する用意がある旨を伝え、蒋介石はトラウトマンに次の支那側条件を提示した。

1、支那は講和交渉の一基礎として日本の要求を受諾す。
2、北支の領土保全権、行政権宗主権に変更を加うべからざること。
3、ドイツは当初より講和交渉の調停者として行動すべきこと。
4、支那が第三国との間に締結せられたる条約は、講和交渉により影響を受けざること。

 十二月七日にトラウトマンからディルクセンを通して日本政府に通達されたこの蒋介石の対日講和方針について、南京陥落後の我が国政府首脳の反応は冷淡かつ強硬であった。陸軍参謀本部第二課(作戦)第一班(戦争指導)の堀場一雄少佐によれば、

「十四日の閣議では広田外務大臣まず発言し、犠牲多く出したる今日、斯くの如き軽易なる条件をもってはこれを容認し難きを述べ、杉山陸軍大臣同趣旨を強調し、近衛総理大臣全然同意を表し、大体敗者としての言辞無礼なりとの結論に達し、その他皆賛成せり」

という雰囲気であったという。

 これに対し、極東ソ連軍の増強と我が国の戦力国力の限界とをよく認識し、対支和平を主張する参謀本部戦争指導班は「閣議国を誤る事此に至り、挺身以て国家の危急を救うは今日に在り。各人分担して直接次長及び長官を衝き、今次の閣議決定を絶対に取り消すべし」と談判し、

 「広田外相の強硬論は何ぞや、自らの失態を蒋介石に転嫁するものか。両大臣が実情を知りて之に和せしとせば罪深し。抑々トラウトマンは、蒋介石の質問に答えるため改めて最近広田外相に念を押したるに非ずや。面も先の条件も広田外相より発出せるものに非ずや。当時是認せりとせば、その変化は南京追撃の戦況に酔いて倨傲となれるか、或は輿論を恐れて臆病となれるか、是認せる条件に基づく回答ならば責を一身に負いて交渉に入ること当然にして、亦是外相の機略ならずや。

 念を押したる上の回答を無視する本措置は、国家の信義を破ると共に日本は結局口実を設けて戦争を継続し侵略すと解釈するの外なし。是道義に反す。成し得べくんば支那側今次の申出を取り上げ交渉に入るべし。交渉に入らば折衝妥結の道自ら開くべし。

 本条件絶対に容認し難きとせば、我が欲する条件を明確に示すべし。その条件は既に久しく用意あり。之が取り扱われざりしのみ。群衆は常に強硬なり。解決条件は寛大なるを要す。況や日支大転換を企図するにおいてをや。無礼呼ばわりして具体的応酬なき本措置は戦勝に驕れるの甚だしきものなり。何をもってか日支兄弟の好を結ぶを得ん」

と憤激した(1)。

(1)堀場一雄【支那事変戦争指導史】一一七~一一八頁。


2、参謀本部の早期和平論

 ソ連の動向を警戒する我が陸軍参謀本部は、我が国とは防共協定を結び、蒋介石の国民党政府には軍事顧問団と大量の武器を送り込んでいたドイツ政府が行う日支和平の仲介に大きな期待を寄せていたからである。

 昭和十二年(一九三七)九月上旬、参謀本部情報部の馬奈木敬信中佐(元駐独大使館付武官補佐官)は、参謀本部作戦部長の石原莞爾少将の指示を受け、駐日ドイツ大使館付武官のオイゲン・オットー少将と接触し、日支和平の糸口を探っていた。
 十月二十六日、馬奈木中佐は、多田駿参謀次長と本間雅晴情報部長の了解を得て、オットー少将と共に上海で極秘裡にドイツ駐支大使オスカー・トラウトマンと会見した。馬奈木中佐が彼と旧知の間柄であったトラウトマンに日本の陸軍参謀本部が蒋介石の打倒や北支の完全分離を望んでいないことを伝えると、トラウトマンは驚き、この参謀本部の穏当な和平条件は今後の和平交渉の基礎になり得るものと判断した。これがトラウトマン和平工作の端緒となった。参謀本部がこの有望な和平工作を開始したのである。

 それから約一ヵ月後の十一月二十一日、参謀本部作戦課は、「対支那中央政権方策」を起案し、次の三つの理由を挙げて、北支内蒙および上海等の問題は全支問題の部分として之を処理し、これ等各方面の既成自治政権は支那本然の事態に即し中央宗主権下における範囲の存在として之を継承容認せしめ、現下時局解決のため現状においては尚現中央政権(蒋政権もしくは其継承政権)をして翻意我に提携せしめ全支の問題を統一処理する方針を堅持していた。

1、 東亜経綸の大局的見地より、静に支那本然の姿を観るに近世の歴史東西南北悉く侵略受難ならざるはなし。支那人ならずとも排外の思想勃発せざるを得んや。我が友邦のために之を憂うる所以なり。而して排欧米就中防共の問題は支那の為には国内の問題にして東亜のためには日支共同の関心事なり。東亜の経綸は支那の解放と日支の提携とより始まる。而して支那最大の苦悩は日本の威力と「ソ」邦の赤化なるを思うとき日本が支那を善導するに道を以てし所要の統一を助け其脅迫感を除くとき日支提携の大道此に通じ支那は欧米勢力就中赤化より自己を解放するに専念するを得べく近き将来に予想すべき諸般の事態に処して支那を以て東亜経綸の伴侶たらしむるを得ん。

2、 日支問題解決上の見地より、日支全般の問題を根本的に綜合して解決し次期の東亜経綸に前進せんがためには支那に中央政権の存在を必要とし之がためには反省せる蒋政権若くは其継承政権の存続を必要なりとす。蓋し蒋政権の否定は彼等を反日の一点に逐い込み窮鼠反噛の勢を馴致し其崩壊と否とに拘わらず結局相当年月の間に亘る全支分裂の出現となるべく此の間必然的に「ソ」英米策源の推進と相俟ち此に永久抗争のため帝国は永き将来に亘り之に莫大の国力を吸収せらるべく且東洋を駆て欧米輩の好餌に供し東亜経綸の前途を誤る所以なればなり。

3、 防共上の見地より、支那赤化を最少限度に極限するが為には中央現政権一派の統制力崩壊するの以前に於て本事変を終結するを可とし又赤禍の駆逐には事変後の将来に於て現中央政権一派をして西面せしめ之を赤系分子の清掃に推進するを以て東亜経綸大局上の上策とすべし。蓋し持久長きに従い蒋勢力の衰微と共に分裂の形勢を馴致し赤禍の台頭を予想すべく又何れの形式なるに拘らず講和発生の場合には赤系分子は分離して奥地に残存すべければなり。而して最悪の場合依然として排日統一政権の存続することあるも之が容共ならざる限り其我に対する不利は分裂に乗ずる赤化が日満両国に及ぼす禍害に比ぶれば尚軽易なるものと謂うべし。

 参謀本部作戦課は、

 「本項の目的達成の為には現中央政権が一地方政権たるの実に堕せざる以前に於て長期持久の決心に陥ることなく其面子を保持して講和に移行する如く我諸般の措置を講ずるを要するものとす」

と判断していたのである(1)。

 だが近衛内閣が十二月二十一日閣議決定した「日華和平交渉に関する在京独逸大使宛回答文」は、十一月の対支和平条件に比べ、支那側にとって過酷であった。その内容は、

1、支那は容共抗日満政策を放棄し日満両国の防共政策に協力すること。
2、所要地域に非武装地帯を設け、且該各地方に特殊の機構を設定すること。
3、日満支三国間に密接なる経済協定を締結すること。
4、支那は帝国に対し所要の賠償をなすこと。

の四つの包括的条件を掲げ、満洲国承認を含む細目十一項を付属させ、前文にて、

 「支那側が之を講和の条件として総括的に承認して、帝国に和を乞うの態度を示し来るに於いては日支直接交渉を開始する用意あり」

と強調していた。

 翌日、広田外相と会見したディルクセンは、条件加重を指摘して「国民政府が受諾する可能性は極度に少ないと思う」と述べると、広田外相は、戦況の変化と世論の圧力により、これ以外の条件を認めることはできないと応え、支那側の回答期限を昭和十三年一月五ないし六日に設定した。

 二十六日、トラウトマンから四条件を伝えられた国民政府行政院副院長の孔祥煕は、

 「日本が提出した条件には、思いつくかぎりのすべてのことが含まれている。日本は十個の特殊政権と、十個の非軍事区がほしいとでもいうのだろうか。こんな条件を受け入れられる者はいない。日本は将来に思いをいたさなければ、みずから滅亡するだろう」

と日本の反省を求め、蒋介石も、

 「日本の提出した条件はかくも過酷である。受け入れる余地は絶対にない。今日、投降することをのぞいて和平はなく、抗戦のほかに生存の道はない」

と我が国に対する態度を著しく硬化させた(2)。

 当時、朝日新聞社によって煽動された暴支膺懲世論が日本列島を覆う中、支那側回答が遅延する間に、近衛内閣は「講和問題に関する所信」として、

 「今や南京陥落し蒋介石政権も昨今は頗る窮境に立つに至りし如くなるも未だ彼の権威全く地に堕ちたりと断ず可らず、少しく手を緩めれば再頽勢を挽回し来るや明なり。いわばもう一押しと云う所なり。かかる状勢にある際我より進んで条件を提示し講和を促すことは我に重大なる弱点なき限り軽々になすべきことでなく却てそれが為に彼の侮を受けて彼の戦意を復活せしめ大害を将来に招く恐ありと考えらる故に政府側としては独逸大使を通じての今回の交渉に対しても必ずしも衷心より賛成せるに非ず、只軍部側の切なる希望もあり且今回提示せる要求は我最小限度の要求なりとの了解の下に賛成したるなり。従てもし支那が此要求を全面的に承諾せざる場合には此交渉は当然打ち切るべきものと了解し居れり。

 然るに最近に至り軍部側にありては支那が此要求の一部修正を申込み来る場合には更に多少の譲歩をなしても何とか此際講和を成立せしめんと希望せらる由を聞く、元来我より進んで講和条件を提示することさえ如何かと思わるるに彼の一部拒絶に遭うて再び譲歩の色を見するが如きことありては益々彼の乗ずる所となるべきや明なり。政府側としては軍部が斯くの如き拙策を採りてまで講和を急がるる真意を了解するに苦しむ次第なり」

と軍部の弱腰を批判し、

 「ここに於て政府側としては軍部がかくの如く講和を急がるるには何等かそこに深き事情が存するに非ずやと推測せざるを得ず、然るに今日迄の陸軍大臣の説明だけにては今日講和の急がざる可らず理由明白ならず、もし真に此際講和を急がざる可らざる事情存するならば陸軍大臣は率直明白に之を他の閣僚に説明すべきものと信ず。然れども不幸にして陸軍大臣の説明が十分他の閣僚を納得せしむる能わざる場合には政府全体としては軍部側と別個之独自の所信に向て邁進する外なかるべし」

と述べ(3)、蒋政権否認論と新興政権樹立論を強めていた。しかし参謀本部は、政府とは反対に、和平による事変解決を望む立場から、日支関係再建の為の御前会議を開催し公正な国策を樹立すべきであると強硬に主張、斯くして昭和十三年一月十一日、昭和天皇が御臨席された御前会議にて「支那事変処理根本方針」が決定された。

 参謀本部が陸海軍外務の三省と協議し定めた根本方針は、十二月二十一日の閣議決定を和平条件の基礎としつつも、講和実現の場合には、我が国は、非武装地帯の設置、塘沽停戦、梅津何応欽、土肥原秦徳純および上海停戦の各協定を廃棄し、治外法権、租界、駐兵権など対支特殊権益の廃棄を考慮するのみならず、進んで支那の復興発展に寄与するとし、前文にて、

 「帝国不動の国是は、満洲国および支那と提携して東洋平和の枢軸を形成し之を核心として世界の平和に貢献するあり。今次の支那事変処理に関しては日支両国間過去一切の相剋を一掃し、両国国交を大乗的基礎の上に再建し、互いに主権領土を尊重しつつ渾然融和の実を挙げることが究極目的である」

と謳っていた。しかし政府側の要求により支那現中央政府が一月十五日迄に和平を求めて来ない場合は、

 「帝国は爾後之を相手とする事変解決に期待を掛けず、新興支那政権の成立を助長し之と両国国交調整を協定し更生新支那の建設に協力す。支那現中央政府に対しては帝国は之が潰滅を図り又は新興中央政権の傘下に収容せらるる如く施策す」

と決定されたのであった。

 二日後の十三日、中華民国外交部長の王寵恵はトラウトマンと会見し、

 「去る十二月二日、閣下は日本側提議による停戦条件を示され、それを基礎とし斡旋を申し出られた。当方はドイツの好意と、日本の和平希望とを了承し、同案を討議の基礎とする旨を約した。然るに十二月二十六日にいたり、日本は事情の変化に伴うという理由で同案の改変されたものを提起した。その改変案は従来のものに比して範囲が広きに過ぎることを知った。それ故に、国民政府は十分に検討して確たる返答をなすため新条件の性質と内容を詳報されんことを望む」

と申し入れ、日本が細目条件を公式に通知するよう要請した。トラウトマンは書面を一読した後、

 「この通知は回答なのか。もし日本側がこれを言い逃れ回答とみなしたら、どうするか」

と尋ねると、王寵恵は、

 「我々は四条件の内容を知りたいのだ。もし我々が言い逃れをするつもりなら、あらためて内容や性質は尋ねない」

と明答した(4)。

 だが十四日、ディルクセンからこの支那側回答に接した近衛内閣は、蒋介石には和平実現の誠意がなく、支那側回答は遷延策にすぎない、と判断、蒋介石との和平交渉を打ち切ることを閣議決定し、十五日、大本営政府連絡会議において陸海軍統帥部に同意を求めたところ、両者の間で大激論が交わされることになった。

(1)【現代史資料日中戦争2】四十九頁。
 南京陥落前の陸軍省部内における蒋政権否認の急先鋒は、陸軍省軍務課と参謀本部支那課であり、軍務課は早くも昭和十二年十月三十日に、「事変長期に亘る場合の処理要綱案」を作成し、「南京政府にして遂に反省せず交渉の対象とすべからざるに於ては一地方の共産政権と見なしあらゆる方法を以て之が壊滅を計ると共に一方北支政権を拡大強化し更生新支那の中央政府たらしむる如く指導する」という方針を掲げていた(堀場【支那事変戦争指導史】一一六頁。戸部良一【ピースフィーラー】八十、一四七頁)。
(2)サンケイ新聞社【蒋介石秘録12】一〇一~一〇二頁。
(3)【現代史資料日中戦争2】一〇四頁。
(4)【蒋介石秘録12】一〇六頁。


3、昭和十三年一月十五日大本営政府連絡会議

 大本営政府連絡会議は、午前九時三十分すぎから首相官邸で開かれたが、参謀次長の多田駿中将は、参謀本部を出発する時、決然たる口調で言明した。

 「本日の会議は必ず決定を保留せしむべし。」

 そして、この言葉通りに、会議での中将の奮闘はめざましかった。政府側は、既に「交渉打ち切り」を決定しているので、経緯を説明して陸海軍統帥部の同意を求めた。参謀総長の閑院宮載仁元帥は、支那側が条件細目の提示を要求しているのだから、それを知らせてやって期限付き回答を求めてはどうか、と述べた。多田中将は、支那側の口上書には交渉打ち切りは明言されていないではないか、と指摘して、

 「この回答文をもって脈なしと断定せず、脈あるように図るべきである。僅かの期日をあらそい、前途暗澹たる長期戦に移行するのはあまりに危険であり、承服できない」

と強調した。海軍側の軍令部総長の伏見宮博恭元帥と次長の古賀峰一中将も、参謀本部側に同調する意見を述べた。しかし政府側は、陸相の杉山元大将と海相の米内光政大将も、もはや交渉は無用である、と主張し続けた。午前十一時四十分、会議は昼食の為の休憩に入った。多田中将が参謀本部に帰ると、第二課長の河辺虎四郎大佐と戦争指導班の高嶋辰彦中佐、堀場一雄少佐らが、次長室を訪ねた。多田中将は、会議の模様と最後まで初志を固執する決意を語り、戦争指導班を安堵させた。 

 会議は、午後三時に再開されたが、閑院宮と伏見宮の両総長は出席しなかった。午前中の会議では、二人の皇族がいたので幾分遠慮もあったらしいが、皇族不在となると、政府側の論調は俄然激化した。多田中将が、午前中と同様に、「即断」は避けて右か左かの確答を支那側から引き出すべきだ、と主張すると、

杉山「期限まで返電無きは、和平の誠意無き証左なり。蒋介石を(交渉の)相手にせず、(蒋が)屈服するまで作戦すべし。」
広田「永き外交官生活の経験に照らし、支那側の応酬ぶりは和平解決の誠意なきこと明瞭なり。参謀次長は外務大臣を信用せざるか。」

 近衛文麿首相は、カン高い声で論戦に終止符をうつ形で発言した。

 「速やかに和平交渉を打ち切り、我が態度を明瞭ならしむを要す。」

 しかし、それでも多田中将は自説をまげず、古賀中将も多田中将を支持する発言を行った。すると米内海相は、不満を露わにした表情で、その古賀中将の発言を制止して、

 「政府は外務大臣を信頼す。統帥部が外務大臣を信用せぬは、同時に政府不信任なり。政府は辞職の外なし」

と述べた。一説には、米内海相のこの時の発言は、「かくなる上は、参謀本部がやめるか、内閣がやめるか、どちらかだ」というものだった、といわれるが、いずれにせよ、辞職を口走ったことは間違いなく、途端に多田中将は、海相の無責任な言辞に反撥し、

 「明治大帝は朕に辞職なしと宣えり。国家重大の時期に政府の辞職云々は、何事ぞや」

と双眼を涙で潤ませて強調した。

 だが政府側は譲らず、このまま多田中将が和平交渉打ち切りに反対し続ければ内閣は総辞職せざるを得ない、との恫喝を込めた主張を継続した為に、多田中将は、参謀本部総務部長の中島鉄蔵少将、情報部長の本間雅晴少将、河辺虎四郎大佐と協議し、

 「蒋政権否認を本日の会議で決定するのは時期尚早であり、統帥部として同意は出来ない、しかし内閣倒壊の不利を認めて黙過し、敢えて反対は唱えない」

との結論に達した。この参謀本部の屈伏または譲歩を得て、午後七時三十分、大本営政府連絡会議は蒋介石との和平交渉打ち切りを可決したのであった。


4、暴走

 軍国主義とは「軍人による政治支配(Primacy of Soldiers over Politicians 政治家に対する軍人の優位)」を指す(1)。我が国は、大日本帝国憲法の施行以来、立憲議会制デモクラシー君主国であり、議会は予算協賛権(帝国憲法第六章)を行使して国政全般を支配し、国防計画を決定し、和戦の決をすら図り得る強大な権限を有しており、帝国陸海軍の軍事刑法の改定、国民が負う兵役義務の内容を定める兵役法の改定、我が国が軍拡と戦争を遂行するための軍事費の支出は、いずれも帝国議会の協賛(consent、承認、同意、承諾)を経なければならなかった(2)のだから、我が国において軍国主義は、民選議会から立法承認権と予算承認権を剥奪する憲法の抜本的改正が行われない限り、合法的に成立し得ない。

 児童用尋常小学校修身書第四期(一九三四~一九四一)巻六(昭和十四年二月二十八日発行)の第十五「国民の務(其の三)」は、帝国憲法下における我が国の立憲議会制デモクラシー(大衆参加政治、一般国民が国家権力に参加して国家を運営する政治制度)を次のように説明していた。

 「帝国議会は憲法の規定によって毎年召集され、我が国の法律や予算などを審議して、大政に協賛する大切な機関であります。議会で議決したことは、天皇の御裁可を経て公布されます。
 帝国議会は貴族院と衆議院から成り立っています。貴族院は皇族・華族の議員や勅任された議員で組織され、衆議院は選挙権をもっている国民が公選した議員で組織されています。
 我等は、帝国議会の議員を選挙し、或は其の議員に選挙されて、国の政治に参與することが出来ます。帝国議会の議決は国の盛衰に関係しますから、したがって其の議員の適否は、国家・国民の幸不幸となります。

 それで議員を選挙するには、候補者の中から、性行が立派であり、よい考えをもっている人を選んで投票しなければなりません。自分だけの利益を考えて投票し、又は他人に強いられて適任者と思わない人に投票してはなりません。又理由もないのに大切な選挙権を棄てて投票しないのは、選挙の趣旨にそむくものであります。
 帝国議会の議員に選ばれた者は、其の職責の重大なことを思い、かりそめにも私情に動かされず、利害にまどわされず、奉公の至誠を以て、其の職責を果たさなければなりません。

 府県には府県会があり、市や町村には市会・町村会があって、それぞれ府県や市町村のきまりを設けたり、予算を定めたりして地方の繁栄をはかって居ります。
 府県会・市会・町村会の議員の職責も、帝国議会の議員の職責と同じように大切ですから、これを選挙する人も、選挙されて議員となった人も、奉公の精神を以て其の務を尽くさなければなりません。」

 もっとも昭和十五年二月二日第七十五回帝国議会において、支那事変の拡大長期化に猛反対する質問演説を行い、政府に国益至上主義の貫徹と「聖戦」の早期終結を訴えたものの、朝日新聞社によって、

 「既に廟議決定し、確乎不動の策として確立した近衛三原則に対する苛烈なる批判と聖戦目的の追求を今頃持ち出すのは、時期も時期、場所も場所だけに不謹慎のそしりを免れない」

と非難され、社会大衆党(戦後社会党の前身)らによって「聖戦目的を侮辱した」として議会を除名された斉藤隆夫衆議院議員(民政党)を除いて、帝国議会は朝日新聞社によって煽動された暴支膺懲世論に拘束されてしまい、国家・国民の幸福の為に和平を図ろうとはしなかったが…。

 南京陥落後のトラウトマン和平工作を巡り、和平交渉の打ち切りを強行する政府と日支和平の実現を焦る統帥部との激しい対立が示すように、支那事変の拡大長期化とは、軍人が政治を支配したのではなく、文民政治家が軍事政策を最終決定するシビリアンコントロールの結果なのである。

 そして十六日正午、全世界に向かって、我が国の文民政治家による独断暴走が発生した。それは悪名高き第一次近衛声明である。          

<帝国政府声明(昭和十三年一月十六日)>

 「帝国政府は南京攻略後なお支那国民政府の反省に最後の機会を与うるため今日におよべり。しかるに国民政府は帝国の真意を解せず、みだりに抗戦を策し、内人民塗炭の苦を察せず、外東亜全局の和平を顧みるところなし。よって帝国政府は、爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす。元より帝国が支那の領土及主権竝に在支列国の権益を尊重するの方針には毫もかわる所なし。今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し。政府は国民が此の重大なる任務遂行のため一層の発奮を冀望して止まず。」 

 二日後、近衛首相は更に補足声明として、

 「爾後国民政府を対手とせずと云うのは、同政府の否認よりも強い意味をもつものである。国際法でいえば、国民政府を否認するためには新政権を承認すればその目的を達成するのであるが、正式承認できる新政権ができていないので、とくに国際法上新例を開いて国民政府を否認し、これを抹殺するのである」

と断言し、二十二日の第七十三回帝国議会衆議院本会議においても、近衛声明の意味を問い質す川崎克代議士や、皇軍の占拠地域における処理方針を問い質す島田俊雄代議士に、

 「支那の蒋介石政府とは日支両国の国交調整についての交渉を一切やらない、将来はいかなることがありましても、蒋介石を対手とすることはない、対手としないのみならず、蒋政権を壊滅に導くべく軍事上その他あらゆる工作を現に為しつつあり、又将来も之を続けて参るのであります」

と答弁したのである(3)。

 およそ我が国が交戦中の敵国の政府を相手にしなければ、日中間に和平交渉も講和も永久に成立しない。この余りにも非常識な近衛声明には世界各国のみならず我が国の参謀本部も驚愕した。大本営政府連絡会議がトラウトマン和平工作の打ち切りを可決した直後、近衛内閣の強硬な方針に反発した和平派の参謀本部戦争指導班は、多田次長を翻意させ、参謀本部が蒋政権否認に不同意である、との趣旨を参謀総長から天皇に上奏するという非常手段に訴え、何としても連絡会議の決定を覆そうとしていた。しかし、

 「戦争指導当局は之に依り恐らく政府に対し再考の勅語あるか、或いは御前会議となるべしと予測せり。然るになんぞ知らん、翌一月十六日国民政府対手にせずの政府声明発出ならんとは。南京陥落前後を通じ平行線上を走れる和戦両論は、此に不幸なる帰結に到達し、一挙解決の機は遂に失わるるに至れり」

と落胆し(4)、支那戦線の我が軍将兵からは、

 「今迄戦をして来て居るのに今此処でこんな声明を出して作戦目標を捨ててしまったならば将来何を目標として戦をするんだ」

と困惑する声が上がった。第一次近衛声明が日本の国内外に大きな波紋を広げる中で、一月十九日付の読売新聞夕刊に掲載された「長期戦の覚悟」と題する三木清の論文が注目に値する。彼は、

 「いよいよ長期戦の覚悟を固めねばならぬ場合となった。それは勿論、新しいことではなく、事変の当初から予想されていたことである。今改めて悲壮な気持ちになることではない 。長期戦の覚悟として必要なのは強靱性である。長期戦となればいきおい局面は複雑化し、思いがけない事が起こって来る可能性もふえるわけであるが、これに処して行くには強靱な精神が必要である」

と述べている。三木は山田盛太郎、中野重治と共に共産党シンパ事件(昭和五年五月二十日)で検挙された経験を持ち、暴力革命を信奉した過激な共産主義者であり、昭和二十年三月、共産主義者の高倉テルを庇護して再検挙され獄中死を遂げた。以下は戦前の我が国内外の共産主義運動について簡潔な説明である。

(1)伊藤正徳【軍閥興亡史2】一二七頁。
(2)明治二十二年六月二十八日に英吉利法律学校(現中央大学)から刊行された伊東巳代治の英訳憲法義解では、帝国憲法第五条「天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行う」は「The Emperor exercises the legislative power with the consent of the Imperial Diet.」と翻訳されている。
(3)官報号外昭和十三年一月二十三日衆議院議事速記録第三号 近衛国務大臣の答弁。
(4)堀場【支那事変戦争指導史】一三一~一三二頁。


5、日本共産党

 日本共産党は、大正十一年(一九二二)七月十五日に結成され、同年十一月、コミンテルン(国際共産党、実態はソ連共産党国際部)の第四回大会において、その指揮統制下に彼等の目的である世界共産主義社会の実現の為、日本において革命を遂行し我が国体を変革し私有財産制度を廃止しプロレタリア(共産党)独裁を樹立し、この過程を通じて我が国に共産主義社会を実現する結社「コミンテルン日本支部」として正式に認められた。

 当時の我が国には、これを取り締まる特別の法律はなかったが、明治三十三年(一九〇〇)三月に公布された治安警察法第二十八条「秘密結社を組織し又は秘密の結社に加入したる者は六月以上一年以下の「軽禁錮」に処す」という規程に基づき、大正十二年六月、委員長堺利彦をはじめ山川均、荒畑勝三、徳田球一ら百余名が検挙され、内二十九名が起訴された。

 検挙後間もない九月一日、関東大震災が起こったが、「日本の客観的条件下では共産党を結成したこと自体が誤りであった」と主張する山川均、赤松克麿などに代表される解党派が大勢を占め、共産党は大正十三年二月に党の解体を決議してしまい、ロシア暴力革命(一九一七年)に影響を受けた我が国の共産主義運動は、社会的にまだ大きな影響力や指導力を有していなかった。
 ところが六月、モスクワで開かれたコミンテルン第五回大会は、日本問題委員会において日本共産党解党に反対し「即時党再建」を決議した。これに応じて大正十四年一月、徳田球一、佐野学ら数名が上海にあるコミンテルン極東部のボロチンスキーを訪ね、彼の指示により党再建の基本方針を決定した。

 そして大正十五年十二月四日(同年十二月二十五日大正天皇崩御、摂政裕仁親王践祚、昭和と改元)、山形県五色温泉において、日本共産党再組織協議会が開かれ、昭和二年(一九二七)一月、渡辺政之輔、徳田球一、福本和夫、佐野文夫、河合悦二、中尾勝男ら党幹部が大挙してモスクワを訪ね、十一月、日本にコミンテルン二十七年テーゼ(日本問題に関する決議)を持ち帰ったのである。

 この二十七年テーゼは、国際資本主義の現段階をマルクスの言う資本主義最後の段階たる金融独占支配の崩壊過程にあると規定し、片岡直温蔵相の失言に端を発した昭和金融恐慌の渦中にあった日本資本主義も崩壊前夜にあると認識判断し、日本資本主義の最後の支柱たる天皇制の打倒をスローガンとして、ブルジョア政府を転覆し、プロレタリア独裁政権を樹立せよ、と日本共産党に命じたのである。

 これに基づき日本共産党は、勤労階級の政党として一番左にあった「労働農民党」及び最左翼の全国的労働組合組織として注目されていた「日本労働組合評議会」並びに青年層の戦闘的左翼団体として結成された「全日本無産青年同盟」の三団体を指揮下に入れ、猛烈な非合法暴力革命闘争を展開し始めた。

 この情勢を密かに偵察していた内務省は、我が国の独立主権と憲法秩序すなわち天皇を国の元首として戴く立憲君主制自由主義議会制デモクラシーをソ連および日本共産党から防衛する為に、加藤高明内閣(自由主義の護憲三派連合)と帝国議会とによって普通選挙法と同時に制定された治安維持法に基づき、普通選挙第一回目の衆議院総選挙から一ヶ月後の昭和三年三月十五日未明を期して、一斉に共産党関係者の大検挙を敢行した。

<治安維持法(大正十四年四月十二日施行、昭和三年六月二十九日緊急勅令により一部改正)>

 「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りて之に加入したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す」(第一条)

 国体(prescriptive Constitution)とは、悠久の歴史の中で億兆の先人の試行錯誤と取捨選択とによって自然発生的に形成された国の根本規範にして、国政の成り立ちを定める由緒ある慣習法であり、フランス革命のイギリスへの波及を阻止した偉大な保守主義の父エドマンド・バークのいう「基礎的政治の原則」である。我が国の国体(Fundamental Political Principle of Japan)は万世一系の天皇が国家元首として統治権を総攬し給うことであり、これが大日本帝国憲法の改正限界(少なくとも憲法第一条から第四条までの国体規定)を構成し、我が国の国体を変革する憲法の改廃は、日本国固有の国体を成文化し強化した帝国憲法の第七十三条違反であった(1)。
 当時の日本共産党は、憲法の根拠にして憲法の基礎である国体の破壊を目論んだ違憲の暴力団体であり、あらゆる自由の根幹である私有財産制度を否定する違憲の左翼全体主義に対して、我が国の「戦う自由デモクラシー」が迎撃戦を開始したのである。

 これが所謂三・一五事件であるが、この一斉検挙によって起訴収容された者は五百三十名(治安維持法違反、共産党加入者)に上り、取り調べを受けた者は五千数百名に及び、その中には東京、京都帝大(両大学はマルキストの巣窟、母体であった)を始め、大学、高専の学生二千数百名がいた。

 この事件は、新聞紙上に大々的に報道され、街には号外が飛び、社会に一大衝撃を与えた。政治家は狼狽し、資本家は戦慄し、思想界は動揺し、皇室を素朴に崇拝する一般国民は、皇統を覆滅してソ連の支配下にある共産党の独裁を企てる者が我が国に数百数千名も存在していたことに驚愕し、「労働農民党」「日本労働組合評議会」「全日本無産青年同盟」の三団体は内務大臣により結社禁止処分を受けた。

 だが三・一五事件で壊滅したかに見えた日本共産党は、たちまち再建闘争を開始し、一年を出ずして全国的な組織を盛り返して来た。そこで内務省は昭和四年四月十六日、次いで翌年二月二十四日、共産党関係者を一斉検挙した。その後も内務省と非合法暴力革命を目論む共産党の死闘は繰り返されていったが、昭和十年三月、共産党は組織的にほぼ消滅した。

 その理由は、共産党員が、ピストル、日本刀、竹槍などで武装し、メーデー会場に突入し警官隊と衝突、多数の負傷者を出した川崎メーデー武装事件(昭和五年五月一日)、同じく川崎第百銀行大森支店を襲撃し資金を強奪した銀行ギャング事件(昭和七年十月六日)や、宮本顕治ら党幹部が労働者出身の小畑達夫を警視庁のスパイと疑い虐殺したリンチ共産党事件(昭和八年十二月二十三日)など陰惨なテロを繰り返し、天皇制打倒を標榜する共産党は、皇室を素朴に崇拝する一般大衆の支持を全く得られなかったこと、そして治安維持法による取締であるが、この治安維持法の運用には重大な欠陥が存在した。

 加藤高明内閣の小川平吉法相は、治安維持法の制定にあたり司法官会議席上において、

 「無政府主義者もしくは共産主義の如き我が国体民情と絶対に相容れず、また国民経済生活の根幹を破壊せむとする暴戻なる思想を鼓吹してその実行を謀るが如きは断じて許容すべからざる所なり、近時我が国においても一般道徳の衰微と思想の動揺とに乗じ、この種の運動各地に蔓延し単に思想の研究に止まらず進んで結社を組織しあるいはその実行を協議し、又は犯罪を煽動する者あるに至れるは、まことに国家の深憂大患なりというべし。   

 抑も本法は言論出版集会結社の自由と相関連すること極めて密接なるものあり、もし一度その適用を誤らむか、思想の研究を妨害し人心の不安を招来するの虞なしとせず、各位は平素善く思想界の情勢を精察し、本法を適用するに当たりては特に周匝慎密かの不逞の徒輩に対しては、一歩も仮借する所なく以て国害を未然に防止すると同時に、細心の注意を払いて事件を審究し、決して濫用の誹りを受けざらむことを期せざるべからず」

と訓示していたにも拘わらず(2)、司法省、特高警察、内務省関係者の大半は、共産主義者を取り締まるに当たり、彼等が国体の変革を目的とした場合を重視し、私有財産制度の否認を目的とした場合を軽視していた上に、ソ連や共産主義者の謀略活動を充分に研究していなかった為、天皇制打倒の主張をとりあえず訂正した共産主義者を転向者と判定し、彼等を釈放するばかりか、政府、軍部、民間の調査研究部門への就職をすら斡旋していたのである(3)。

 その為、共産党の壊滅すなわち共産主義者の消滅とはならず、彼等の多くが天皇尊重を偽装して治安維持法から逃れていた上(治安維持法に基づく被逮捕者約六万、被起訴者約六千、被死刑者0)、コミンテルンが、最も危険な戦争放火者である日独伊ファシズム―コミンテルンの定義に従えば、金融資本の最も反動的、排外主義的、帝国主義的な分子の公然たるテロル独裁の樹立―から「ソ連の平和」を擁護する為、各国の共産主義者に、

1、一国的な規模でも、国際的な規模でも、あらゆる手段を用いて社会民主党その他との統一戦線の樹立につとめること。
2、従来の画一的国際主義を廃し、各国の具体的な条件や特殊性に即した戦術を採用すること。
3、各国の合法的存在の独占権を持っているあらゆる大衆的ファシスト組織に加入し、どんなに瑣末なものでも、そういう組織の中で活動する合法的および半合法的可能性を利用して、ファシズムの大衆的基盤を分解させること。

等を命じた三十五年テーゼ(コミンテルン第七回大会決議、反ファッショ人民戦線戦術、一九三五年七~八月)に従い(4)、政府軍部民間内部に潜入していた。      

 特に三木が所属していた近衛文麿の最高政治幕僚組織「昭和研究会」や新聞社、満鉄等は転向(天皇尊重偽装)左翼の巣窟であり、彼等の中心的人物が、昭和七年二月上海より日本に帰還し昭和十二年四月から昭和研究会に参加した朝日新聞社出身のソ連のスパイ、尾崎秀実であった(5)。

(1)伊藤博文【憲法義解】帝国憲法第七十三条解説。金子堅太郎【憲法制定と欧米人の評論】八十五~九十七頁「国体は変換せぬ」 
(2)【小川平吉関係文書1】八十二頁「小川法相訓示」
(3)三田村武夫【戦争と共産主義】一三六頁。
 帝政ロシアの裁判所は、一八二五年から一九一七年までの九十二年間に政治の分野に関して裁判すべき事件を通して、六千三百二十一人に死刑判決を下し、実際に三千九百三十二人が処刑された。これに対して、レーニンのロシア共産党は一九一八年九月五日に「赤色テロルについて」という政令を布告、階級の敵に対するテロルを合法化し、それから僅か二ヶ月の間に約一万から一万五千人の政治犯が厳格な法的手続きを経ることなく共産党の秘密警察チェーカによって虐殺された。マルクス・レーニン主義は人類史上もっとも残虐非道な政治経済思想である(ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ベルト【共産主義黒書犯罪・テロル・抑圧<ソ連編>】八十七頁)。
(4)【コミンテルン資料集6】一六五頁。
(5)昭和研究会には十二の部会があり、尾崎秀実は東亜政治研究会の責任者であり、三木清は昭和研究会常任委員、文化問題研究会委員、政治動向研究会委員であった(昭和同人会編【昭和研究会】巻末付属資料三十七~三十九頁、昭和研究会名簿昭和十四年二月現在)。


6、満洲事変とゾルゲ機関

 日本労働組合評議会関東出版労働組合に所属していた尾崎が三・一五事件の検挙から奇跡的に逃れ、朝日新聞社上海支局に転勤した一九二八年十一月、スターリンの率いるソ連共産党は、農業の国有集団化による農民の徹底搾取と、レーニンによって創設された秘密警察、密告網、強制収容所、反政府運動者に対するテロの奨励から成る「監獄国家制度」とによって、資金と囚人労働力とを確保し、第一次五ヶ年計画を開始していた。

 これは、一党独裁・計画経済(これが全体主義である)―共産党が国家の富および権力を独占私物化し、労働条件、地代、公定価格、資源配分を恣意的に操作して人民を徹底的に搾取し、物資配給の停止によって反政府的人間を容易に餓死させることができる全般的奴隷制―による工業力の拡張であり、一九三二年から翌年にかけてソ連で約六百万人以上の農民と労働者を餓死に至らしめた軍備の増強であった。

 一九二九年七月、張学良(二八年六月、蒋介石率いる国民革命軍の北伐に敗れ、満洲の奉天に撤退する途中に、関東軍高級参謀河本大作大佐によって爆殺された張作霖の息子。同年十二月に満洲五色旗を国民党の青天白日旗に易え、南京の国民政府への帰順を表明した。これを満洲易幟という)が、ハルピンのソ連領事館捜索で共産革命計画を押収したことを契機として、シベリア鉄道とウラジオストークを繋ぐソ連の東支鉄道の実力回収に踏み切った。これに対し、十一月、極東ソ連軍が満洲に侵攻、張学良の東北軍を撃破し、東支鉄道を奪還した(一九三五年、満洲国に売却)。

 これが不戦条約の締結後に起きた最初の戦争である。米英仏伊の諸国は、不戦条約の義務につきソ連の注意を喚起したが、ソ連は、満洲侵攻は自衛行動であると反論し、第三国の干渉を拒絶した。ソ連は、軍事侵攻によって支那側に与えた勢威を利用し、北満において白系ロシア人の駆逐、反共機関の撲滅を策しつつ東支鉄道を牙城として赤化機関の拡充に腐心し、翌年には世界初の全金属・単葉四発式重爆撃機TB-3を完成させた。

 さらに三一年四月十六日、日本の清津警察署員が挙動不審な一名の朝鮮人と彼の五名の仲間を逮捕し取り調べたところ、彼等はいずれもソ連共産党員、候補党員、ウラジオ赤色労働会員で、ウラジオGPU(ソ連共産党秘密警察チェーカの後身)総長ナチヤリニツクより鴨緑江、大同江、清川江その他の鉄橋を爆破し日本軍の後方および朝鮮の治安を攪乱するように命令され多数の爆薬を携帯しており、ソ連は赤色朝鮮人支那人を操り我が国に対する不正規戦を画策していたのである(1)。

 もし軍備拡張を完成したソ連が満洲を制圧し拠点化する場合、ソ連は満洲からの南進圧力に対して脆弱な朝鮮半島を征服し、朝鮮と樺太から日本列島を挟撃し西太平洋を制し得るばかりか、満洲と外蒙古(一九一一年支那が中華民国となると同時に外蒙古は独立を宣言し、且つ満人皇帝の下に王国制度が支那に復活したならば蒙古は何時でも自発的にその治下に還ると宣言したが、二一年にソ連軍に侵攻され赤化、二四年にソ連の衛星国家となる)から内蒙古と北支を挟撃し、中国共産党を尖兵として支那大陸内部に侵入することが可能になる。

 逆に我が国が満洲を制圧し拠点化する場合、我が国は満洲の資源と興安嶺・黒龍江の地形とを利用して強力な防衛線を構築し、以上のソ連の膨張を抑止し、国策の命ずる所に依り、支那本土あるいは南洋に向い国家の発展を企図し得るばかりか、ソ連の極東攻略の拠点であるウラジオストーク(東方を征服せよ)を含む沿海州を満洲、朝鮮半島、日本本土、樺太から包囲制圧することが可能になる。この日ソ間の軍事的緊張関係が続く限り、ソ連は沿海州の防衛に大きな戦力を割かざるを得ず、欧州諸国に対するソ連の軍事的脅威が減少するのである。当時の満洲は、極東を制し、欧州の安全保障に影響を及ぼす戦略要衝であった。故に河本大佐の後任として満洲に赴任し、「陸大創設以来かつてない優秀な頭脳の持つ将校」と評された関東軍作戦主任参謀の石原莞爾中佐は、

 「日本政府および軍中央は、徒にソ連との衝突を恐れているが、現在、ソ連は極東輸送力、とくにその補給力は貧弱で、その兵力の一部を極東に使用しているに過ぎない。もし日本軍が進攻せば、ザバイカル以東を放棄する決意を有しているものと推定せられる。またアメリカは極東において、日本進攻への根拠地がなく、日本攻撃の至難なことは世界軍事界の等しく認めるところである。とくにアメリカ海軍はいわゆる均整を欠き、日本海軍の実質的比率は決して我に不利ではない。さればアメリカは渡洋作戦に自信がなく、武力の伴わない経済封鎖によって日本を屈伏させようとするが如きは空論に過ぎない」

という国際情況判断の下に(2)、「われ日本の柱とならん、眼目とならん、われ日本の大船とならん」の日蓮精神をもって、柳条湖事件を惹起、満洲の実情に疎い我が国政府軍部の不拡大方針を敢然と無視し、彼等に掣肘を加えられていた関東軍司令官の本庄繁中将以下関東軍将兵一万余を駆り、兵団の機動力を最大限に発揮させる戦力集中・各個撃破作戦を指導し、正規不正規兵あわせて約二十五万の張学良軍閥を打ち破り、満洲国の建国を強行し、政府と陸軍中央にこれを既成事実として追認させた。そして昭和七年六月十四日、帝国議会衆議院は「満洲国承認は国民一致の輿論」として満場一致を以て満洲国承認決議案(政友会と民政党による共同提案)を可決したのである。

 石原莞爾の戦略は、大陸において戦争によって戦力を養い「陸を以て海を制する」というナポレオンの対英封鎖戦略にならい、満洲を「我が勢力下に置き対外長期作戦(持久戦争)のため資源その他に関し確固たる策源地」としてソ連の極東攻略を阻止しアメリカに対峙する構想であり、ソ連のスパイたるリヒャルト・ゾルゲをして、

 「一九三一年の秋に起こった満洲事変で、極東に於ける日本の地位は一変した。満洲の支配権を獲得すると、日本は東アジアで益々活発な役割を演じてみようという気になった。なにしろ満洲を征服したことであるから、そうした役割を強力且つ独占的に行おうとする日本の決意が強められるようになったのは、見やすい道理であった。ソ連はこれまで国防上とかく等閑に付しがちであった広大な辺境地方で、直接日本と相対することとなった。言い換えるなら、ソ連にとって容易ならざる新事態が起こったのだ」

と戦慄せしめたのである(3)。満洲事変後、関東軍に機先を制されたソ連共産党は、対ソ攻守地理戦力を高めた日本からソ連を防衛する為、昭和六年末から翌七年にかけて日本政府に不可侵条約締結を求める一方、尾崎秀実、ゾルゲらを日本に潜入させ対日諜報謀略戦を開始すると共に、軍備の拡張を加速させ、昭和十一年末には、日本の陸軍兵力は二十五万、関東軍は五ヶ師団と航空機二百三十機を保有していたのに対して、ソ連の陸軍兵力は百六十万に達し、極東ソ連軍は十六ヶ師団と航空機千二百機を保有するに至った。この日ソ間の軍事的均衡の完全破綻が、支那の抗日気運を煽動し支那事変を勃発させる一因となったのである。

 ソ連に最も警戒された石原莞爾は、日本の敗戦後の昭和二十一年に「東亜連盟は満洲建国に端を発せり。若し建国前後に於ける我らが心境の開陳を許さるるならば次の如し」と述懐した(4)。

 「満洲事変前満洲に於ける日支の紛争は日に切迫し日本が政治的軍事的に全面的退却をなす以外平和的解決の道なしと判断せられたり。日本の退却後ソ連の南下に対し支那が独力防衛の力なきは明白にして日本の退却は更に新しき東亜の不安を招来せん。

 満洲事変を契機として実力を以て満洲を支那より分離する行動は重大なる暴挙なるは明なるも反面これにより前項の不安を一掃すると共に満洲国の建設に際し日本が深き反省の下に本来の態度を一変し、満洲に於ける既得のあらゆる権益を満洲国に譲渡し、各民族は満洲国に於て全く平等の待遇を受け民族協和の実を挙げるに於ては却て遠からず支那の理解を得て多年に亘るお互の不信を一掃し得べきを信ぜり。

 民族協和の理想は在満支那人中にも強き共鳴を以て迎えたる人多かりしも彼等は日支両国の和解なくしては安じて建国に協力し難しとせるは当然なり。依て日鮮支各民族の同志が研究協議の結果民族協和の理解を押し進めて道義による東亜連盟を結成すべしとの結論に達せり。これがため支那が満洲建国を認むるならば日本は支那に対する凡ての権益を返還すべきものとせり。即ち日本は治外法権の撤廃、租界の返還等は勿論支那より完全に撤兵し支那の完全なる独立に協力せんとするものなり。東亜連盟の思想は満洲国協和会に採用せられ昭和八年三月正式に声明せられたり。

 満洲事変勃発後一年ならずして関東軍の責任者は全部転出せしめられ満洲国は右方針と全く反対の日本独占の方向に急変し以後建国の同志の努力により時に改善の希望を与えたることありしも遂に大勢を挽回する能わずして今次世界大戦の導火線となれり。
 我等は全世界に向い衷心より自己の不明を陳謝し、謹んで全責任を負わんと欲するものなり。」 

(1)【東京裁判却下未提出弁護側資料3】一八四~一九一頁「昭和七年十二月外務省亜細亜局、支那及満洲に於ける共産運動概況」
(2)横山臣平【秘録石原莞爾】一五一頁。
(3)【現代史資料ゾルゲ事件1】一六六頁。
(4)【石原莞爾資料国防論策編】五〇七頁。


7、転向声明

 昭和八年(一九三三)五月三十一日、日支両軍間に塘沽停戦協定が成立し、満洲国と支那の境界が確定し、柳条湖事件(昭和六年九月十八日)に端を発し、千回を超える戦闘が行われた満洲事変は終結した。

 それから一週間後、獄中にあった日本共産党の最高幹部である佐野学と鍋山貞親が転向声明を発して共産党から除名された。中華民国の執拗な排日運動と之に対する幣原喜重郎外相の軟弱な協調外交に不満を抱いていた我が国の国民は、柳条湖事件から熱河作戦(昭和八年二月二十三日~五月三十一日、熱河省の帰属を巡り日満両軍と中華民国軍が衝突)まで、日本の約三倍の総面積と約三千万の人口を有する広大な満洲を制圧した我が関東軍の「寡を以て衆を制する」「疾風迅雷枯れ葉を巻く」が如き快進撃に昂奮し感激した。

 満洲事変を契機として、一九二〇年代に流行したエロ・グロ・ナンセンス嗜好や反軍主義から一転して愛国主義や親軍感情を高める国民の熱狂が(1)、佐野と鍋山をして、天皇制打倒のスローガンが国民に受容される可能性はあまりにも少ないことを痛感せしめ、二人に転向を決断させたのであった。

 佐野と鍋山は、六月八日に発表した「共同被告同志に告ぐる書」の中で、世界革命の為には、自国を犠牲にすることも恐れないという従来のプロレタリア国際主義を批判し、天皇制打倒のスローガンは、日本の天皇制とロシアのツァーリズムを混同したコミンテルンの誤りから生まれたもので、このスローガンの採用は、労働者の気持ちを離反させ、君主を防身の楯とするブルジョア及び地主を喜ばせることになったと指摘し、ソ連の現状を見ても、世界社会主義は、世界革命と世界国家という形で生まれるのではなく、それぞれの国の労働者階級がそれぞれの国の特殊な条件に応じた形で、まず一国社会主義を実現することによって成立するだろうと予見した。

 さらに彼等は、コミンテルンは日本共産党に「機械的無内容」なる敗戦主義を課しているが、それもまた、「不可避に迫る戦争に勝たざるべからずと決意しこれを必然に国内改革に結合せんとしている」大衆の胸に訴え得ないだけでなく、

 「戦争に一般的に反対する小ブルジョア的非戦論や平和主義は、我々のとるべき態度ではない。我々が戦争に参加すると反対するとはその戦争が進歩的たると否とによって決定される。ソ連並びに支那ソビエト政府への戦争は反動戦争であるから断固として反対するが、支那国民党軍閥に対する戦争は客観的にはむしろ進歩的意義をもっている。また現在の国際情勢の下において米国との戦争の場合、それは相互の帝国主義戦争から日本側の国民的解放戦争に急速に転化し得る。更に太平洋における世界戦争は後進アジアの勤労人民を欧米資本の抑圧から解放する世界史的進歩戦争に転化しうる」

と述べて日米戦を予言し、「我々は日本、朝鮮、台湾のみならず、満洲、支那本部を含んだ一個の巨大な社会主義国家の成立をめざす」と述べた(2)。佐野学、鍋山貞親は以上の主張を実現するため転向し、二年後、コミンテルンは佐野学らに批判された方針を大転換し、反ファッショ人民戦線戦術を発表したのであった。

 戦時中、憲兵隊を監督する陸軍省兵務課長の職にあり、軍人の思想的傾向に対し常に注意していたという田中隆吉の戦後の回想によれば、二・二六事件以降、陸軍中枢を支配していった統制派は、彼等の主張する「国防国家の建設」や「経済機構の変革」の実行に当っては性急なることを極力避けようとした石原莞爾や、事変拡大に猛反対する石原を支持する多田駿中将らを満洲組と名付けて冷笑し、目の仇としていたという。

 世界の大勢と支那の実力、日本の国力の限度を知り尽くしていた石原等のあらゆる不拡大早期和平努力にも拘わらず、支那事変が統制派の希望する如く拡大長期化した理由として、田中隆吉が挙げた軍部の内情は、統制派が、事変の発展と永続は必然の結果として国防兵力の増強を来し、これに伴う軍用資材需要の増加はまた国内の経済機構に計画性をもたらすものであるから、手に唾せずして彼等の理念である国防国家建設と国内経済機構の変革を行い得る、と確信し、戦争の不拡大とその急速なる解決に反対したということであった。田中は、

 「日中戦争の中途、武藤章氏が軍務局長となるや、左翼の転向者(これを私は転向右翼と名付けた)が、彼の周囲にブレーンとして参加した。陸軍省の部局に転向共産主義者が招集将校として起用されたのはこの頃である。統制派政治軍人の理念はこれがためにさらに飛躍した。すなわち大東亜共栄圏の理念である。この理念はコミンテルンの被圧迫民族解放の理念と表裏一体のものである。転向右翼との握手により、統制派の国防国家建設の理念から大東亜共栄圏建設の理念へと発展したことは、やがて三国同盟の締結となり、大政翼賛会の創設となり更に翼政会の出現となり、我日本を完全なる全体主義国家に変貌せしめた。しかも太平洋戦争の勃発は、憲法を無視する推薦選挙の暴挙を生み、国民から言論結社の自由を奪い、ここに世界史に稀にみる軍部独裁の政治体制を確立したのである。

 この政治体制は全く陸軍が転向右翼の戦術に乗じられたものでなくて何であろう。統制派の政治軍人が軍人の本分を忘れ、濫りに政治に関与し、国民に号令しつつあるとき、私のいわゆる転向右翼はすでに統制派の内部に巣喰い、彼ら転向右翼が目指す祖国敗戦の方途を画策しつつあった。政治にも思想にもまた経済にもほとんど無知な軍人が、サーベルの威力により、その付け焼刃的理念を政治行動に移して強行し、自己陶酔に耽りつつあったとき、巧妙にして精緻なるこの種の策謀に乗ぜられたのは当然の帰結である。(中略)

 私の見るところでは、この転向右翼が軍人に及ぼす害毒は観念右翼よりさらにひどかった。なんとなれば前者は頭脳が緻密であり、その理念は巧妙で、国家革新を叫ぶもその具体的方案に無知なる軍人に対しては異常なる影響と感激を与えるからである。
 転向右翼は日本革命の手段として戦争を是認し、これをアジアの弱小民族解放の線に沿わしめ、日本と英米との衝突を激発せしめる戦術を考えていた。この戦術をとっていたことは、鍋山貞親氏の言明も裏付けている」

と回顧し、陸軍統制派の背後に転向右翼-左翼の転向者の暗躍があったことを指摘した(3)。それでは統制派の希望通り拡大長期化の一途をたどった支那事変の最中に、田中が指摘したような我が国の共産主義者による戦争激発謀略活動は本当に実在していたのであろうか?

(1)昭和七年十二月九日、東京朝日を始め日本の新聞および通信社合計百三十二社が、わざわざ協同して満洲国擁護宣言を発表した(【東京裁判却下未提出弁護側資料2】三五四頁)。        
 日本のマスコミは満洲事変を閉塞した時代の突破口として歓迎する国民に迎合したのである。当時の日本国民が如何に熱狂し満洲国の建国に感激していたか窺えよう。
(2)伊藤隆【近衛新体制】二十五頁。
(3)田中隆吉【日本軍閥暗闘史】九十~九十三、一一〇頁。


8、支那問題の権威

 第二次世界大戦後の日本国では、尾崎秀実の諜報活動だけが強調されがちであるが、尾崎はソ連の利益に奉仕するために自分の立場に伴う影響力を行使して我が国の政府の政策および世論を操作し誘導する工作員でもあり大衆煽動家であった。近衛文麿の最高政治幕僚として或いは「進歩的な支那問題の権威」として政界言論界の重鎮を為した尾崎が発表した多数の戦時論文は、尾崎秀実著作集全五巻(勁草書房)に収録されており、尾崎が所属したゾルゲ機関の謀略活動、近衛内閣の軍事外交内政の真の目的、さらに近衛の正体まで、余す処なく示唆しているばかりか、当時の支那戦線の戦況や、我が国軍部の戦略構想、国民感情をも克明に伝える貴重な第一次史料である。以下の戦時論文は尾崎秀実の中央公論昭和十三年六月号「長期戦下の諸問題」の抜粋である(1)。

 「五月の青空の下に歴史的な徐州大会戦が展開されつつある。支那軍四十万がもしも完全に撃破され潰滅するようなことになれば、或いは大会戦としては最後のものとなるかもしれない。現に日本側としては充分かくの如き期待をもって慎重に行動が進められたものである。

 我が国の事情通方面ではこの徐州の結末に多大の期待を置き、これをもって今度こそ支那側の抵抗力に最後の鉄槌を下すものであり、支那側の屈服は最早期して待つべきのみであるとの確信を抱きつつあるものが多いのである。
 しかしながら一方に於ては、一般に従来の経験に鑑みて戦闘の効果に直ちに政治的な効果を期待することは困難であるとなすものが少なくなく徐州戦の結果についてなお完全な信頼を持つに至っていないようである。

 率直なる印象を述べるならば日本についての最大なる問題は現下の日支関係について正確なる認識を一般が持っていないということに尽きる。
 『上海をとれば支那が参るであろう』とか、『南京が陥ちれば勝負は決ったのである』とかいうことが期待をもって語られたのであった。日本国民の多くはこれだけやっつければもう敵が参るであろう。あれだけやっつけたからもうやがて膝を屈して来るであろう、というように考えて来たのである。『もうやがておみやげを持って支那から我々の兄弟が凱旋して来るに違いない』という胸算用が常に行われていたように見うけられるのである。これはひとり一般の民衆ばかりではない、責任ある指導的地位にあるものも、支那の事情に通じるものの中でも一応考えていたものと考えてよいのであろう。

 ところが事態がそのように展開しなかったのと、時期の経つにつれて国内的にいろいろの困難が加わるのと相まって確かに一部に弱気らしい見解(註、講和論)が生まれつつあるのではなかろうか。

 我々は初めの虫のいい期待を排すると共にこの種の弱気もまた有害にして無意味なものとして斥けたいのである。我々は事変の初期に於ては、この事件の持つ重大性を予知して、両国のために速なる解決と和平の手段を発見すべきことをひそかに希うたのであるが、その後事件が現在の如き決定的な、完全なる規模に展開を見た以上、もはや中途半端な解決法というものが断じて許されないのであって、唯一の道は支那に勝つという以外は無いのである。面をふることなき全精力的な支那との闘争、これ以外に血路は断じてないのである。 

 退却も方向転換も不可能である。ただまっしぐらに全力を挙げてつき進んで解決をはかる以外に道はないのである。(但しこれは必ずしも軍事行動のみをしゃにむに遂行すべしというのではない。)
 ここに於いて国内機構全般にわたる急速なる編成替えが絶対に必要となって来るのであって、現にそれが進行の過程にあることも事実である。
 然しながら問題はその進行の仕方である。次から次へと起こって来る目前の事態に応ずる如き姑息の方法をもってしては、対処し得ないおそれがあるであろう。計画的にして根本的なるものでなければなるまい。」

 田中隆吉の指摘通り、支那事変の拡大長期化を煽動、正当化し、「最も弱いのは参謀本部、最も強いのは国民」と形容された程の強硬な暴支膺懲世論を醸成し、戦争の拡大を利用する「国内経済機構の変革」を画策した元凶は、三木清や尾崎秀実ら天皇尊重を偽装して近衛文麿の下に集結した共産主義者であった。

(1)【尾崎秀実著作集2】一〇三~一一〇頁、中央公論昭和十三年六月号「長期戦下の諸問題」


9、国家総動員法

 第一次近衛声明から六日後の昭和十三年一月二十二日、第七十三回帝国議会において近衛文麿首相は以下の施政方針演説を行った。

 「事変下に新年を迎え重大時局に直面する第七十三回帝国議会に臨み諸君とともに聖寿の万歳と皇室の御繁栄とを寿ぎ奉りここに政府の所信を開陳いたすの議会を得ましたことは私の光栄とするところであります、今期議会開院式に当りましては特に優渥なる勅語を賜わり時局に対する深き御軫念のほどを拝しましてまことに恐懼感激に堪えぬ次第であります。

 申すまでもなく日満支の強固なる提携を枢軸として東亜永遠の平和を確立しもって世界の平和に貢献せんとするは帝国不動の国策であります、先般無反省なる支那国民政府に対し断乎これを相手とせざるの方針をとるにいたりましたのもはたまた列国との友好関係の増進に不断の努力を怠らざるも、共にこの国策の命ずるところであります、殊に昨秋防共の理想を同じくする盟邦イタリーを加えて日独伊三国間に防共協定が成立しましたことは世界平和のため真に同慶のいたりであります。

 顧るに事変勃発以来ここに半歳余戦線は北支より中南支に及び皇軍の勇武果敢なる行動により戦捷相つぎ忽ち首都南京を攻略し戦局は極めて有利に展開しつつあるのであります、是固より御稜威の然らしむるところでありますが皇軍将兵諸士の忠勇と銃後国民諸君の熱誠とは真に感謝措く能わざるものであります、今や政府は帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待しこれと両国国交を調整して更正新支那の建設に協力しよってもって東亜長久平和の基礎を確立せんとするものであります、もちろん帝国が支那の領土ならびに主権および支那における列国の正当なる権益を尊重するの方針には毫も渝るところはありません、惟うに東亜の安定勢力たる帝国の使命はいよいよ大にしてその責任は益々重きを加えるに至れるものといわねばなりません、この使命を果しこの任務を尽くすためには今後といえども多大の犠牲を払うの決意を要するは固よりであります。しかも今日においてこの決意をなすにあらざれば結局不幸を将来に貽すものであります。

 したがって現代のわれわれがその犠牲を忍ぶことは正にわれわれが後代同胞に対する崇高なる義務であることを信ずるのであります、政府はかくのごとき見解に本づき全力を挙げて支那事変に対処しその目的の達成に邁進せんとするものであります、これがためには物心両様にわたり国家総動員事態の完成をはかりこれに必要なる諸般の施策の実現を期するものであります。政府はこの方針によりまず軍備の充実と国費の調達とに遺算なからしむることが極めて緊要なりと信じ、財政、経済いずれの方面におきましてもここに重点を置くことといたしました、昭和十三年度予算案の編成につきましては事変の長期にわたるに備え、物資及び資金を出来得る限り軍事の需要充足に集中し軍需に関係ある資材および資金の一般消費はなるべくこれを減少せしめる建前の下にこれを編成したのであります。

 産業方面においては日満支を通ずる全体計画の下、我が国生産力の充実を計るをもって基調となし殊に国防上緊切なる物資の供給、重要産業の振興、輸出貿易の伸張に力をいたしてまいりたいと存じます、また銃後の処理に最善を尽し出征将兵をして後顧の憂いなからしむるはもとより戦死傷病者とその遺族、家族に対する扶助援護につき適切機宜の措置を講ずるつもりであります。

 事変の前途は遼遠であります、これが解決は長期にわたることを覚悟せねばなりません、しかして実に事は曠古の大業であります、この大業を前にして国民挙って勇躍難に赴くの精神を発揮するにあらざれば到底成果をおさめ難いのであります。
 政府は堅忍持久、不退転の決意をもって事変の解決に努めんとするものであります、以上の如き考えによりまして政府はここに必要なる法律案および予算案を提出するものであります、よろしく政府の意のあるところを諒とせられ協賛を与えられんことを切望する次第であります。」

 そして二月十九日、近衛内閣は、長期戦遂行体制確立の必要性を強調し、国家総動員法案を頂点として電力事業を民有国営体制にする電力国家管理法案など、我が国の政治経済社会を全面的に戦時体制へ移行させる八十六本にも及ぶ法案を議会に提出したのである。
 特に国家総動員法案は、企画院の革新官僚がソ連の第一次五ヶ年計画(一九二八~三二)を模倣して作成した革新国策であり、戦時事変に際し国防目的達成の為、国家の全力を最も有効に発揮せしむるよう、政府に対し、議会の審議を一切経ずに勅令及び省令(行政命令)によって、労働力、価格、物資、金融、事業など広範多岐に亘る分野の人的物的資源の統制運用を行い得る強力な権限を与える法案であり、運用次第では憲法と議会とを部分的に停止させてしまう危険性を孕んでいた。

 大日本帝国憲法の各条項を解説する伊藤博文の憲法義解によれば、帝国憲法第二章臣民(subject、君主国の国民。共和国の国民はcitizen)の権利条項に設けられた「法律の範囲内に於て」「法律の定むる所に依る」の立法趣旨は、政府が国民の自由を制限する際は、必ず議会の承認(協賛)を経た法律(憲法第五条及び第三十七条)に由らなければならないことを明示して、行政命令(憲法第九条)による制限を厳禁し、国民の自由と議会の権限(民議的な手続き)を貴重すると同時に、法律をもって国権の必要から生じる自由への制限に対して一定の範囲(限界)を設け、国権の必要と国民の自由の間に適切な調和を図ることであった(1)。

 だから国家総動員法案の議会審議では、衆議院の牧野良三代議士や斉藤隆夫代議士などが、

 「本法案が臣民の権利義務に関する広汎なる規定を一切勅令に委任していることは、たとい二、三の先例ありとしかつ純形式論としてはとにかく本法案の如き広汎なる委任立法は憲法発布以来ないことであって、本法の成立により議会の協賛権、大権命令などを完全に阻止し実質上憲法停止の効果を生ぜしめ、議会は全く白紙委任状を政府より突つけられたもので一歩運用を誤れば憲法政治は根底より奪われるものではないか」

と違憲論を掲げて総動員法案を非難すれば、三月三日には陸軍省軍務課員の佐藤賢了中佐(統制派)が国防国家論を持ち出し、総動員法の成立を強硬に主張する演説を行い、法案に反対する者は非国民、国賊である、という佐藤中佐の論旨に野次を飛ばした宮脇長吉委員に対し、「黙れ!」との暴言を吐いたのである。

 この佐藤の一喝が問題となり、「あのカーキ色の暴漢をつまみだせ!」との怒号が飛び交うなど、議会は、あたかも自由経済と統制経済、議会制デモクラシーと全体主義、現状維持派と革新派が激しく衝突する言論の戦場と化した如く、騒然となった。そこで近衛首相は反対論を緩和する為に三月十九日の貴族院国家総動員法案特別委員会において、勅任の山岡萬之助議員(法学博士、日本大学総長、東京弁護士会会長)に対して、

 「この支那事変との関係でありますが、支那事変はこの法の第一条の『戦争に準ずべき事変』ということに当たるのでありまして、従って本法が制定せられ、施行せられることになりますれば、本法は固よりこの度の事変にも之を発動し得るのであります、しかしこれが実際の運用に付きましては、政府は大体次のような方針を執る積りであります、第一には現に軍需工場動員法に依って工場の管理等を実施して居るのでありますが、この部分は本法の施行と同時に発動するのであります、第二には支那事変関係の臨時諸法律は今後の事態の著しき変化なき限りそのままに施行致しまして、本法に於ける当該部分は之を発動せしめない」

と答弁したのである(2)。かくして第七十三回帝国議会は総額八十億円を超える予算(臨時軍事費四十八億円、公債発行額五十四億円)と共に国家総動員法案および電力国家管理法案など諸法案を可決してしまった。

 ところが総動員法が公布された昭和十三年四月一日から一ヶ月後の五月五日、近衛首相は前言を翻し、自ら国家総動員審議会総裁に就任、支那事変への総動員法の施行を開始し(昭和十三年五月三日勅令第三百十五号、三百十六号、三百十七号、三百十九号による)、以後、政府は、拡大する戦闘に必要とされる軍需物資の調達、軍事支出の増大および民需物資の減少に伴うインフレの抑止、世論の統制誘導など長期戦遂行の施策として、国民に消費節約、貯蓄奨励などを強いただけでなく、

 「資本主義的自由経済思想は反戦思想だ」
 「営利主義は利敵行為だ」
 「この戦時下に自由主義的な営利主義を考えたり、個人主義的な自由経済を考える者は国賊である。我が忠勇なる将兵は戦場で国家に生命を捧げている。資本家財閥はその生産権を国家に奉還せよ」

との号令の下、工場事業場管理令のみならず、国民徴用令、学校卒業者使用制限令、賃金統制令、工場就業時間制限令、会社利益配当及資金融通令、価格等統制令、地代家賃統制令、電力調整令、総動員物資使用収用令、工場事業場収用令、土地工作物管理使用収用令、陸運海運統制令、新聞用紙制限命令など、次々に統制命令を濫発し、上からの国内革新(日本の社会主義化)を遂行していった。結局のところ我が国は政府内部に浸透した共産主義者によって国政を壟断され、明治天皇の五箇条の御誓文および交詢社ならびに立志社らが主導した自由民権運動と(3)、帝国憲法の制定および大正デモクラシー運動とによって漸く開花した立憲自由主義的議会制デモクラシーを衰退させられてしまったのである。

 法律上の自由(国家権力に干渉介入されないこと)は国民の権利にして其の生活及び知識の発達の本源である。しかし自由は、法の支配が確立して国家権力を適正に制限し法秩序を整えた社会の下に棲息するものである以上、国民が自由を維持する為には、社会法秩序の破壊と自由主義の否定とを是認する思想を持つ勢力の政治的自由を認めてはならない。これは自由に内在する必然の制約なのである。

(1)伊藤【憲法義解】参照。
 大日本帝国憲法が保障する国民の自由度は、法律の留保をまつことなく国民の権利全般に「公共の福祉に反してはならない」という制限をかけるマッカーサー占領軍憲法(日本国憲法)の自由度に勝るとも劣らない。憲法義解は帝国憲法第二十九条を以下のように解説している。

「第二十九条 日本臣民は法律の範囲内に於て言論著作印行集会及結社の自由を有す。

 言論・著作・印行・集会・結社は皆政治及社会の上に勢力を行う者にして、而して立憲の国は、其の変じて罪悪を成し又は治安を妨害する者を除く外、総て其の自由を予えて以て思想の交通を発達せしめ、且つ以て人文進化の為に有益なる資料たらしめざるはなし。
 但し、他の一方に於いては此れ等の所為は容易に濫用すべき鋭利なる器械たるが故に、此れに由て他人の栄誉・権利を傷害し、治安を妨げ、罪悪を教唆するに至ては、法律に依り之を処罰し又は法律を以て委任する所の警察処分に依り之を防御せざることを得ざるは、是れ亦公共の秩序を保持するの必要に出る者なり。但し、此の制限は必ず法律に由り命令の区域の外にあり。」
(2)貴族院国家総動員法案特別委員会議事速記録第二号昭和十三年三月十九日。
(3)自由民権運動の研究者であった鈴木安蔵は、「一八八〇年代、大日本帝国憲法がつくられる前に民間でつくられた、さまざまな憲法草案」のうち国民の間に最も広く普及し共鳴されていた憲法草案として福沢諭吉らによって設立された交詢社の「私擬憲法案」および交詢社系統の郵便報知新聞掲載「私考憲法草案」を挙げている。両案の模範はイギリス憲法であるが、両案とも帝国憲法に似ている。とくに天皇の地位と権限に関する条項は帝国憲法に酷似している。交詢社憲法案も帝国憲法も「帝室は直接に万機に当たらずして万機を統べ給う者なり」という福沢諭吉の日本皇室論と同一であり、フランス暴力革命の主義思想であるルソーの「主権在民」を掲げていない。また皇位継承は古来よりの慣例-不文の大典に拠り、敢えてこれを憲法に掲げない趣旨を述べる「私考憲法草案」第一条註解は、伊藤博文の憲法義解第二条解説とほぼ同じである(鈴木安蔵【憲法制定とロエスレル】九十九~一三五頁)。

郵便報知新聞社説(明治十四年五月二十一日~六月四日)私考憲法草案(カッコ内は交詢社の私擬憲法案)

第一条 皇帝は万機を主宰し宰相並に左右両院に依りて國を治む政務の責は一切宰相に帰す(第一条 天皇は宰相並に元老院國会院の立法両院に依て國を統治す 第二条 天皇は神聖にして侵すべからざるものとす政務の責は宰相之に当る)

第一條註解 

皇統一系万世無窮天地と悠久なるは我日本建國の大本にして敢て臣下の議すべき所にあらず。また皇祚継承の事も皇太子もしく皇嫡女の践祚するは皇帝の特旨に由るといえども古来より慣例ありて皇嗣は自ら御男子と定まりしことなり。

これらは憲法の明文に掲げざるも臣子たるもの固より不文の大典を奉じ敢えて渝ることなきは亦天地と悠久なるべき筈なるをもって余輩の私考に拠れば、皇祚及皇嗣云々を憲法の明文に掲ぐるは故らに尊厳に触るる恐れなきにあらざるを以て敢てこれを記せず。

且つそれ憲法を定立するは即ち益々皇室の基礎を鞏固にし國家の安寧を保持するの主意に外ならざるを以て故らに皇.祚皇嗣の箇條を明文に記せざるを是とす。これ余輩が巻首に皇帝陛下の特徴を記載し不文の大典すでに固定し千古に渉りて明々白々たる皇統皇嗣のことを書かざる所以なり。

近来英人が自國の憲法を記したる書冊中には往々帝室の瑣々たる事項を記しあれども、英國は憲法すでに定立せること久し故に、今日その國憲を記すものは唯現時に行わるる実事(ママ)を掲記するものなれば、我國のごとく未だ立憲の制あらざるにおいて其の参考案を立てるもの之を見て直ちに明文に掲ぐると否との区別を定むべからずを信ずるなり。

皇帝は万機を主催したまうといえども政務の責に任じたまわざる所以は、皇帝は神聖にして侵すべからざるものなるが故に総べて宰相の責任に帰するものなりとす。

第二条 皇帝は左右両院に於て議決せる日本政府の歳出入租税國債諸般の法律を批准す(第三条 日本政府の歳出入租税國債及諸般の法律は元老院國会院に於て之を議決し天皇の批准を得て始めて法律の効あり) 

第三条 皇帝は行政並に司法の権を有し行政及び司法の官吏をして法律を遵奉して各其務に任ぜしむ(第四条 行政の権は天皇に属し行政官吏をして法律に遵い総て其事務を執行せしむ 第五条 司法の権は天皇に属し裁判官をして法律に遵い凡て民事刑事の裁判を司らしむ) 

第四条 皇帝は諸般の法律を布告し陸海軍を統率し外國に対して条約を結び戦令を発し講和を為し官吏を命じ爵位を授け功労を賞し貨幣を鋳造し罪人を懲罰し罪犯を宥恕し左右両院を開閉し中止し左議員を命じ右院を解散するの権あり但し海関税を更改するの条約は予め之を左右両院の議に付す可し(第六条 天皇は法律を布告し海陸軍を統率し外國に対し宣戦講和を為し条約を結び官職爵位を授け勲功を賞し貨幣を鋳造し罪犯を宥恕し元老院國会院を開閉し中止し元老院議員を命じ国会院を解散するの特権を有す但し海関税を更改するの条約は予め之を元老院国会院の議に附すべし)

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

龍井榮侍

Author:龍井榮侍
 東亜連盟戦史研究所は、主として大東亜戦争に関する国民の戦史知識水準の向上を目指して開設されました。

 弊研究所が確信する「正統戦史研究」とは、信用の置ける第一次史料を集め、史料に事実を語らせ、独自の史観を構成することです。だが第一次史料とて作成者の欺瞞、錯誤を含んでいるかも知れず、たとえ紛れもない真実を示していても、所詮それは膨大な歴史的事実のごく一部にすぎません。

 歴史の真実の探求は極めて困難であり、戦史研究において最も留意すべき事項は、間違いが判明すれば直ちに訂正することであり、最も禁忌すべき事項は、「自説保全による自己保身」に走ることです。よって弊研究所は、読者の皆様の建設的な礼節ある御意見、御批判、御叱正を歓迎します。
 
 所長の本拠地は森羅万象の歴史家ブログです。

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